譚海 卷之六 備前より藝州海路おんどの迫門の事
[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]
○備前の沖より、安藝(あき)へ船路(ふなぢ)の際に、「おんどの迫門(せと)」と云(いふ)所有(あり)。備前の陸つゞきの山を、きりわりて、五十町、たゞちに安藝へ、かよふやうに、かまへたるにて、大船の通行、さまたげず、といふ。
是は、昔、平相淸盛、嚴嶋(いつくしま)參詣の爲に開(ひらき)たる道とて、中々、人力のなすべぎわざとも見えず、大莊(たいさう)なる興行なり。
此道なければ、沖をまはるときは、三里にとほき道なるを、五十町、内海(うちうみ)を通行するゆゑ、今にいたつて、船人共、相國の德を口碑にする事とぞ。
[やぶちゃん注:「おんどの迫門」「音戶の瀨戶」は広島県呉市にある本州陸側と倉橋島の間に存在する海峡。当該ウィキによれば、『この瀬戸とは、海峡を意味する』もので、『ほぼ南北に伸びる海峡で南北方向約』一キロメートル、『幅は北口で約』二百『メートル、南口の狭いところで約』八十『メートル』である。『瀬戸内銀座と称される瀬戸内海有数の航路であり、平清盛が開削したという伝説や』、『風光明媚な観光地として知られている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。私は行ったことはないが、ラドンがソニック・ブームで壊したことは知ってるぜ。
「五十町」五・五四五キロメートル。]
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