フライング単発 甲子夜話卷六十四 3 南禪寺守護神
[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして、句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。後半の漢文部の不全な訓点はママである(句読点は操作を加えてある)。]
64-3
享保辛酉の夏、鎌倉、圓覺寺の誠拙和尙、京都、南禪寺の招(まねき)に依(より)て、上京、淹留(あんりう)す。
このとき、寓居(ぐうきよ)の院は、南禪の山中、嶮峰(けんほう)の下(もと)に在り。
然(しか)るに、和尙淹留中、晴天月夜などには、時々、深更に及び、峰頂(ほうちやう)にて、數人(すにん)、笛を吹き、太鼓を鳴(なら)し、歌舞遊樂(かぶいうがく)の聲、頻(しきり)なること、數刻(すこく)、この峰頂は、尋常、人の至る所にあらず。
因(よつ)て初(はじめ)は、從徒(じゆうと)も、あやしみ、驚きたるが、山中の古老、曰(い)ふには、
「この山中、古代より、吉事(きちじ)あるときは、必ず、峰頂に於て、歌舞音曲(かぶおんぎよく)の聲あり。これ、守護神の歡喜(かんぎ)するなり。」
と。
守護神は、天狗なり、と言ひ傳ふ【印京和尙、話。】。
『「高僧傳」ニ云ク、正應ノ間、龜山ノ上皇在スニ二龍山ノ離宮ニ一、妖怪荐ニ作テ、妃嬪媵嬙屢〻遭フ二魅惑ニ一。上皇大ニ惡ミㇾ之ヲ、乃集テ二群臣ヲ一議ス二其事ヲ一。僉みな曰ク、此ノ地ノ妖怪聞コトㇾ之ヲ久シ矣。非ンバ二佛法ノ力ニ一、決テ不ㇾ可ㇾ治ム。於ㇾ是ニ命ズ二南北ノ高德ニ一。百計無シㇾ效。時ニ西大寺睿尊律師有リ二戒行ノ譽一。勅シテ棲シム二宮闈ニ一。尊率ヒ二沙門二十員ヲ一、晝夜振リㇾ鈴ヲ誦スㇾ咒ヲ。至ル二三ビ閲ルニ一ㇾ月ヲ。而妖魅尙ホ驕リ、投ズ二飛礫於護摩壇ニ一。尊不シテㇾ辭セ而退ク。群臣奏ス二門ノ德望ヲ一【釋ノ普門號無關ト。東福ノ開山聖一國師ノ弟子ナリ[やぶちゃん注:以上の一部の送り仮名が訓点になっていないのは、ママ。]。逝ル年八十。嘉元ノ間、勅シテ諡ス二佛心禪師ト一。元亨三年、加テ賜フ二大明國師ト一。】。乃召二下宮ニ一。且、宣シテ曰ク、卿能ク居ンヤ乎。門奏シテ曰ク、妖ハ不ズㇾ勝タㇾ德ニ。世書ニ尙ホ有リㇾ之。況ヤ釋氏ヲヤ乎。釋子居ルㇾ之ニ。何ノ怪カ之有ン。上皇壯トシ二其言ヲ一、勅シテ二有司ニ一俾ム二門ヲシテ入ラ一ㇾ宮ニ。門但與ㇾ衆安居禪坐シ、更ニ無シ二他事一。自ㇾ爾シ宮怪永ク息ム。上皇大ニ悅ビ、乃傾ケ二心ヲ宗門ニ一、執リ二弟子ノ禮ヲ一、習ヒ二坐禪ヲ一受ク二衣鉢ヲ一。因革メㇾ宮ヲ爲スㇾ寺ト。雖下梵制未ダ上ㇾ備ラ、特ニ勅門爲ス二開山ノ始祖ト一。後來伽藍具フㇾ體ヲ。號ス二太平興國南禪禪寺ト一。』。
然(さ)れば、怪、此時より、有(あり)しなり。今は、還(かへつ)て穩(おだやか)なるは、太平の號、由る所あり。
〔☆やぶちゃんの推定訓読文注:
「高僧傳」に云はく、
『正應(しやうわう)の間、龜山の上皇、龍山の離宮に在(おは)すに、妖怪、荐(しきり)に作(なし)て、妃嬪媵嬙(ひひんようしやう)、屢(しばしば)、魅惑に遭ふ。
上皇、大(おほき)に、之れを惡(にく)み、乃(すなは)ち、群臣を集めて、其の事を議す。
僉(みな)、曰く、
「此の地の妖怪、之れを聞くこと、久し。佛法の力に非(あら)ずんば、決して治(をさ)むべからず。」
と。
是に於いて、南北の高德に命ず。
百計、效(かう)、無し。
時に、西大睿尊(えいぞん)律師、戒行(かいぎやう)の譽(ほまれ)有り。
勅して、宮闈(きうゐ)に棲(す)ましむ。
尊、沙門(しやもん)二十員を率(ひき)ひ、晝夜、鈴を振り、咒(じゆ)を誦(とな)ふ。三たび、月を閲(み)るに至る。而(しか)れども、妖魅、尙ほ、驕(おご)り、飛礫(とびつぶて)を護摩壇に投ず。
尊、辭せずして、退(しりぞ)く。
群臣、門の德望を奏(さう)す【釋の「普門」、「無關」と號す。東福の開山「聖一國師」の弟子。逝(ゆけ)る年、八十。嘉元の間、勅して、「佛心禪師」と諡(おくりな)す。元亨三年、加へて「大明國師」と賜ふ】。
乃(すなは)ち、下宮(げぐう)に召し、且つ、宣(せん)して曰はく、
「卿(けい)、能く居(をら)んや。」
と。
門、奏して曰はく、
「妖は德に勝たず。世書(せいしよ)にも、尙ほ、之れ、有り。況んや、釋氏をや。釋子、之れに居(を)る。何の怪か、之れ、有らん。」
と。
上皇、其の言を、
「壯(さう)。」
とし、有司(いうし)に勅して、門をして、宮に入らしむ。
門、但(ただ)、衆と、安居禪坐(あんごぜんざ)し、更に他事(たじ)無し。
自爾(おのづから)、宮の怪、永く息(や)む。
上皇、大いに悅び、乃(すなは)ち、心を宗門に傾け、弟子の禮を執り、坐禪を習ひ、衣鉢(いはつ)を受く。
因りて、宮を革(あらた)め、寺と爲(な)す。
梵制、未だ備はらずと雖も、特に勅して、門、開山(かいざん)・始祖と爲す。
後來(こうらい)、伽藍(がらん)體(てい)を具(そな)ふ。「三太平興國南禪禪寺」と號す。〕
■やぶちゃんの呟き
実は、私は、「柴田宵曲 妖異博物館 天狗の夜宴」の注で、一度、電子化しているが、漢文訓点を除去した白文を示し(読みの「〱」は「〻」に代えた)、その後に、私自身がよしとした訓読文を示した。今回は正規に訓点も打ち、訓読文も再検証した(例えば、一部に訓点の脱落が疑われるところが複数あり、そこは参考底本のそれに従わずに訓読した。一部に推定で読みを歴史的仮名遣で附し、送り仮名の一部や記号もオリジナルに加えてある。特に「自爾」の箇所は、私は全く従わずに、二字で「おのづから」と読んだ)。今回は、本文の最後に〔 〕で私の訓読文を掲げておいた。
「享保辛酉」享保辛酉[やぶちゃん注:享保年間に辛酉(かのととり/しんゆう)の年はない。享保二(一七一七)年丁酉(きのととり)、或いは、享保六(一七二一)年辛丑(かのとうし)の誤りであろう。
「鎌倉圓覺寺の誠拙和尙」誠拙周樗(せいせつしゅうちょ 延享二(一七四五)年~文政三(一八二〇)年)は伊予生まれの傑出した臨済僧で歌人としても知られた。円覚寺の仏日庵の東山周朝に師事し、その法を継ぎ、天明三(一七八三)年に円覚寺前堂首座に就任したが、当時の円覚寺は伽藍も僧侶も荒廃・低俗に堕してしまっており、彼は幻滅したとされる。晩年は臨済宗重鎮として京都に赴くことが多くなった。書画・詩偈も能くし、茶事にも通じ、出雲松江藩第七代藩主で茶人としても知られた松平不昧治郷とも親交があった。香川景樹に学び、歌集に「誠拙禅師集」がある。文政二(一八一九)年には京の相国寺(しょうこくじ)に再建されたばかりの大智院(明治初期に廃絶して現存しない)に師家(しけ)として赴任したが、翌年、七十六で示寂した。(以上は思文閣の「美術人名事典」及びウィキの「誠拙周樗」に拠った)。松浦静山(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一二(一八四一)年)より十五年上になるが、同時代人である。
「淹留」長く滞在すること。
「南禪の山中、嶮峯」「最勝院奥之院」か、そのさらに奥の「南禅寺奥乃院」であろう(孰れもグーグル・マップ・データ)。この二つは孰れも南禅寺後背の三百二十六メートルのピークの山下である。
「龜山の上皇」亀山天皇が譲位して上皇となったのは、文永一一(一二七四)年一月で、彼は嘉元三(一三〇五)年に亡くなっているので、その間の出来事となる。
「妃嬪媵嬙」は皇后の次席が「妃」で、その次が「嬪」、以下、「媵」・「嬙」と続くが、これは一般に女官級である。
「睿尊」(建仁元・正治三(一二〇一)年~正応三(一二九〇)年)「叡尊」とも書く。律宗僧。大和の出身。当初は密教を学んだが、後に戒律復興を志して、奈良西大寺を復興。「蒙古襲来」の際には、「敵国降伏」を祈願して、神風を起こしたと伝えられる。貧民救済などの社会事業を行い、また、殺生禁断を勧めた。
「宮闈」は宮中で后妃の居所。後宮。
「釋の普門、無關」は臨済僧大明国師無関玄悟(むかんげんご 建暦二(一二一二)年~正応四(一二九二)年)。信濃出身で「南禅」と号した。京の東福寺の円爾(えんに)の法を継いだ。建長三(一二五一)年宋に渡海、断橋妙倫の印可をうけて十二年後に帰国、後に東福寺三世となった。ここに書かれている通り、亀山上皇の離宮に出る妖魅を鎮めたことから、その離宮を改めて創建した、この南禅寺の開山として招かれた。「普門」は房号。
「嘉元」一三〇三年から一三〇六年まで。執権は北条師時。
「元亨三年」一三二三年。執権は北条高時。
「壯」は「強いこと」。
「有司」役人。]
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