譚海 卷之六 肥前長崎渡海の事 附大坂川口出船つとに過たる事
[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。
「目錄」標題は「肥前長崎渡海の事 附(つけたり)大坂川口出船『つと』に過(すぎ)たる事」と読む。但し、本文では「つて」という名になっている。また、「過」は「遭」の誤記のようにも思われ、或いは、「を過(よぎり)たる」辺りの方がしっくりくる。因みに、この「つて」は本文を読む限り、「潮目」(しほめ(しおめ))のことと推定される。]
○長崎へ船にて行(ゆき)たる人の物語せしは、
……洋中は、いか程、風浪あれども、船は、汐道(しほみち)を行(ゆく)事故、難船する事、なし。洋中(わだなか)に、汐のさし引(ひき)する道、一筋、別に、わかれて、あり。渡海の船は其盬[やぶちゃん注:底本に補正傍注があり、『(汐)』とする。]に乘じて、渡るゆゑ、たとひ、風、有(あり)て、浪、打(うち)かくる時も、此盬[やぶちゃん注:同前。]の流るゝ勢ひに、浪、おされて、船に波のうちかくる事、なし。洋中にては、波と、汐と、つねに、さからふ故、却(かへつ)て、わたりやすき也。
又、風はげしくて、海上に船をすゝむる時、「かた碇(いかり)」とて、船のへさきへ、碇壹(ひと)つ、おろす也。夫(それ)にて、危ければ、又、一つ、へ[やぶちゃん注:舳先(へさき)。]の左右へ、おろす。是を「諸碇(もろいかり)」と云(いふ)。
されど、碇を、ヘのかたへ、如ㇾ此(かくのごとく)おろせば、船の尻[やぶちゃん注:船尾。艫(とも)。]、殊外(ことのほか)、ふれて、船中にありて、甚(はなはだ)、安心ならず。
氣弱き人は、嘔吐する事、儘(まま)、有(あり)。
其時、とものかたへも、碇を、かくれば、船の尻・頭、たひらかに成(なり)て、ふれる事なし。
去(さり)ながら、へのかたと、とものかたへ、碇をかくる事は、甚、危(あやう)き事にして、船頭、決してせざる事也。
たまたま、船の尻・頭へ、碇をかくる事あれども、只、たばこ、一、二ふくのむほど、かけて、やがて、ともの碇をば、引(ひき)あぐる也。
これ、船中に、甚、こまりたる人、あれば、
「それを、休(やすらは)ん。」
とて、暫時する事にて、萬全の事には、いかほど、船の尻、ふれても、ともヘ碇をば、かけぬが能(よき)也。
その故は、波にて、船の、ふれるに、尻・頭へ、碇をかけて、久しくあれば、自然(おのづ)と、波にて、碇綱(いかりづな)を、すりきる。
綱、きると、勢ひに、ひかれて、船、とんぼがへり打(うつ)て、うつぶけに、かへる故、尻・頭へ碇をおろす事は、船頭、甚、嫌ふ事也。
波のあらき時は、おろしたる碇綱、船に、すりあふて、火が出る也。
それゆゑ、船頭、間斷なく、いかり綱へ、水をかくる事也。
船頭は、始終、船のへさきにありて、坐(ざ)して、磁石盤を守り居(を)る也。
同時(おなじきとき)、大坂川口を乘出(のりいだ)す時、「つて」といふものに逢(あひ)たり。是は、海上に、一筋、ほそく、雲のたなびきたるを見て、船頭、
「『つて』が、來(きた)るべし。竪(たて)に、うけよ。」
とて、急ぎ、船を乘直(のりなほ)したるに、間もなく、沖より、大山の如く成(なる)浪がしら、うねり、ちかづく。
其色、眞黑にして、いかにもおそろしきさまなるが、船のへにあたる時は、船、すぢかひに、是(これ)を、うけて、とものかたへ、船中の人、たふれ、あつまる樣也。
船を、此浪、過(すぎ)て、とものかたを、もちあぐるときは、又、船、さかさまになるやうにて、船、海の底へ入(いる)様(やう)に、おどろきさわぐを、船頭、かたく、制して、無言にする也。
此時、驚き騷けば[やぶちゃん注:ママ。]、船、ゆれて、くつがへり、沒する事、とぞ。
又、此浪を、船の橫に受(うく)る時は、忽(たちまち)、船、つきかえされ、くつがへるやうになる。
「つて」のきたる時には、兎角、船を竪(たて)にして受(うく)るやうにする事也。
其波の過(すぎ)たる跡は、海上、甚、靜(しづか)にして、何の障(さはり)もなく、渡海せらるゝ也。
此日、殊に、天氣よく、晴(はれ)たれば、出船せし事なるに、如ㇾ此の、あやしき波に逢(あひ)たるは、いかなる事ともしれず。
思ふに、天地の氣の凝(こり)たるが、息を吹出(ふきいだ)すやうなる時、有(ある)事成(なる)べし。
川口は、殊に、洋中(わだなか)にもあらず、漸(やうやう)、岸を乘離(のりはなる)るほどの所にして、かやうの事あるは、海上の事、さらに、はかりがたき事多き事也。――
とぞ。
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