譚海 卷之六 井伊家士元里淸兵衞詠歌の事
[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。
なお、標題であるが、底本では、姓の「元里」の「里」の下に『(奈)』と編者の補正注が入っている。]
○天和の頃、伊掃部頭殿家中に、名里[やぶちゃん注:同じく「名」の右に『(奈)』と編者の補正傍注が入っている。]淸兵衞といふもの有(あり)。
歌よみにて、あるとき、
都出(いで)し花の袂の露ながら
月をぞやどすしら川の關
掃部頭殿、此歌を聞召(ききめさ)れ、
「淸兵衞、奧州へ往(ゆき)たる事もなくして、かゝる歌をよむ、僞(いつはり)おほき事。」
とて、しばらく遠慮申付られし、とぞ。
かばかりの事をも、今は聞(きき)とがむる主人もあらず、いと、やさしき事なり、と。
又、淸兵衞、
「京都嶋原、出口(でぐち)の柳にて、よめる歌。」
とて、
見かへるも見かはすかたもあらばこそ
わかれに月のくまなきはうし
[やぶちゃん注:「天和」一六八一年から一六八四年まで。徳川綱吉の治世。
「伊掃部頭殿」幕府大老で近江彦根藩第五代及び第八代藩主であった井伊直興(なおおき)。
「京都嶋原『出口(でぐち)の柳』」京都島原遊郭の大門口に植えられていた柳。]