柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「牢抜自首」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
牢抜自首【ろうぬけじしゅ】 〔翁草巻六十六〕元文三四年[やぶちゃん注:一七三八~一七四〇年。]頃、京師囚獄舎修理覆《しゆりふく》の事有り。右普請中本牢に在る処の囚人を、切支丹牢請けなし牢揚り屋へ、それぐに配分して、当分入替る。請けなし牢へ入候囚人の内に、文七と云ふ盗賊有り。彼者傍《かたはら》の囚人共へ密かに申けるは、この牢は様子有りて抜けらるゝなり、吾その術を以て先づ抜出《ぬけいで》ん、面々が科《とが》の軽重を自ら考へて、命にかゝる程の大科《おほとが》の者は、我に従ふべし、運を天に任せて仕課(《し》おほ)せば幸甚ならん、若し仕損ずれども、所詮命は無き物なれば、仮令《たとひ》この上再犯の科を重ぬるとも、斬らる之より上の事はなし、而れば徒《いたづ》らに刑を待たんは云甲斐なし、また命に拘らざる程の小科《しやうとが》の輩《やから》は、憖(なまじ)ひに抜《ぬけ》たてをして仕損じなば、本科《もととが》よりもその科重り、斬らるまじき身が斬らるべし、これ大いなる無分別なり、左様の族(やから)は跡に止《とどま》りて、相当の仕置を待つがよし、但《ただし》かく密事を明すからは、この企てを注進するか、または声ばし立てなば立所に蹴殺《けころ》すべし、相構へてこの企ての妨げをなすことなかれと云ふ。残りの奴原《やつばら》之を聞きて、一々もつともなり、偖(さて)また汝は如何なる術有りて、この企てをなすや。文七が云ふ。吾は元銀山のゲザイ[やぶちゃん注:「下在・下財・外在」で、 鉱山の坑夫を指す語。]なり、故に土を穿つことに妙を得たり、この牢へ移りし始めより、右の術心に浮みたり、その訳はこの牢には中に少し土間あり、これこそ天の与へと思ひしなり、万(よろ)づ我にまかせよと云ふ。皆々文七が言《げん》を信ず。さて銘々が科を自ら測るに、半三郎・庄八その外二人、文七共に五人は遁れ難き大科なれば、これ等は示し合せて弥〻《いよいよ》出《いづ》るに究《きは》む。その余の者どもは、軽科《かろきとが》故《ゆゑ》跡に残るに決し、猶も文七堅く言を番(つが)ひて[やぶちゃん注:同心堅固をいい含め。]、それよりひそひそと支度して、雨の夜をまつ。時しも皐月下旬、梅雨降りしきり、目さすも知らぬ暗き夜に、文七進んで件《くだん》の土間を掘りかくる。(古き大釘を引ぬき、それを以てほりしと云ふ)牢中の土間なれば、古来築き固めて磐石《ばんじやく》を彫る如しと雖も、さすが霖雨《りんう》の潤ひに、地の少しうみたるを[やぶちゃん注:比喩的な「膿み」か。湿気を含んで柔らかくなっているのを。]便りに、段々と掘り広げて、竟《つひ》に我身の摺出《すりいづ》る程に、ひらたき穴を掘り課《はた》せぬれども、牢屋構への内外には、番人ども半時毎に拍子木を打廻り、殊に短夜の最中なれば、兎角する間には拍子木の音喧《かまびす》しく、中々抜出《ぬけいで》ん透間も無かりけれども、僅かの間《ま》を考へて、文七真先に潜り出で、残る者どもを一人宛(づつ)、その穴へ首突込《つつこ》ませ、首だに通れば跡は自由なりとて、文七外《そと》に在りて一人宛、首筋を捕へて引ずり出し、五人出揃ふと否《いな》、堀の構への際《きは》にある拷問場の柱へ飛付き、一はねはねて塀に取著き、易々と塀を乗超えて、散《ち》り散《ぢ》りに行衛無く逃げ失せぬ。粤(こゝ)に同類の内、庄八倩々(つらつら)思案しけるは、斯く迄仕課せぬれども、定めて草を分けて捜されなん、さすれば竟には天の網遁れ難し、とても遁れざる命を一向今思ひ究めて、速かに注進せば、その褒賞に命を助かるべきも計られず、所詮裏返《うらがへ》らばや[やぶちゃん注:裏切ってしまおう。]と独りうなづきて、余の者と別れ、直《ただち》に町奉行向井伊賀守役所へ馳せ来り、御注進の者にて候と呼《よば》はる。その刻限丑三つ<午前三時>の頃なれば、門番寝耳に水にこれを聞付け、窓より様子を窺ふに、その様《さま》在牢の者と見え、大童《おほわらは》なる怪しき物の体《てい》、門前にうづくまり居る故、有増(あらまし)を尋ね糺して、急に当番の与力へ達す。与力早速先づ庄八を捕へさせ、様子を聞糺して、伊賀守へ告る。仍《よつ》て夜陰ながら牢屋修覆掛りの与力木村勝右衛門を呼寄せ、それぞれの手当を致させ、その夜直ぐに目付役の同心どもに、悲田院の者ども(京都の非人頭の名なり。斯様の類《たぐゐ》の公役を勤む。在所は洛束南禅寺の入口にあり。その下小屋《しもごや》は四方に散在して、その所々に小屋頭《こやがしら》あり。悲田院と称する所以は、往古悲田院、施薬院とて、窮人の病者を養ふ両院あり。中古よりこの事廃れて、施薬院は名ばかりにて、施薬は相止み、当時は医師の称号となり、禁裏惣門中立売御門《なかだちうりごもん》の傍に住す。悲田院は東山泉涌寺に引かれて、寺中の一院となる。今非人頭《ひにんがしら》どもの居所《きよしよ》、その旧地なり)を付けて八方へ遣はし、近国へ追々触れ流して、これを捜し求む。而るに文七今一人は播磨か、摂津かにて捜し出《いだ》し、同心目付、これを召捕りて帰る。半三郎今一人は、色々捜せども竟に行衛しれず。庄八は注進の功に依《よつ》て助命せられ、文七今一人は重科故に一等刑重くなり獄門に行はる。掛りの役人、木村勝右衛門事、牢屋内の土間に心付かず、囚人を入替候不念に仍《よ》り、暫く遠慮致し、且つ拷問場も塀際に在りしを、右の以後引直され候事。
[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。]
ここに記する所は庄八が白状の趣を以てこれを記す。
[やぶちゃん注:この話、まず、事実である(後注参照)。しかし、どうも、私は、如何にも裏切り不快な感じが拭えない。
「翁草」「石臼の火」で既出既注。正字の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「翁草」校訂七(池辺義象校・明三九(一三〇六)年五車楼書店刊)のここで視認出来る。標題は『牢拔の者の事』。
「町奉行向井伊賀守」本書の著者神沢杜口(かんざわとこう 宝永七(一七一〇)年~ 寛政七(一七九五)年)は、当該ウィキによれば、『元文年間には内裏造営の時向井伊賀守組与力として本殿係を務めた。延享』三年十二月(グレゴリオ暦では既に一七四七年一月から二月に相当する)には、稀代の盗賊の首領『日本左衛門』の『手下中村左膳を江戸に護送する任務に関わった。後に目付に昇進した』とある。]
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