柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「竜石」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
竜石【りゅうせき】 〔折々草夏の部〕大和の国上品寺《じやうほんじ》とふ里に行きて遊びて侍るに、この主《あるじ》物語りしき。主の従兄弟は同国高取《たかとり》といふ城下《きもと》に、土佐といふ所に侍り。久しく訪れざりしかば如何にと思ひて、水無月望(もち)ばかりに、いと暑き頃なれば、寅の時[やぶちゃん注:午前四時頃。]に出でて往きける。道は三里ばかりなれば、明けむとする頃は参り著《つ》くべしと思ひて行くに、其所へは今五丁《いつところ》[やぶちゃん注:約五百四十六メートル。]ばかりにて、やうやう東《ひんがし》の空白みたるに、いと疾くも来りぬ。少し休らはゞやと思へど、この辺は皆《みな》野らにて、芝生の露いと深く、直居《ひたを》りに居《を》りかねたれば、と見かう見するに、草の中によき石の侍るを見出でて、行きて腰かけむと思へど、蚋(ぶと)などや多からむに、此所《ここ》へ持《も》て来むとて、手を打ちかけて引くに、見しよりはいと軽《かろ》らかに侍る。大さは二尺《ふたさか》ばかりにて、鈍色《にびいろ》せる石なり。これを道の真中《まなか》にすゑて、清らを好む癖の侍るに、手拭《たなごひ》のいと新しくて持ちたるをその上に打敷《うちし》きて、さて腰かけたれば、この石撓《たは》む様《さま》にて、衾《ふすま》などを畳み上げて、その上に居《を》るばかりに覚えたり。奇《く》しき事とは思へど、心がらにや侍りけんと、事もなく居りて、火打袋《ひうちぶくろ》を取出《とうで》て火を鑽《き》りおこし、下部《しもべ》にも煙草食《たう》べさせなどし、稲どもの快げに青み立ちたるを打見やりて暫時《しばし》ある間に、朝日のいと紅《あか》くさし上る。いざ歩まむとて立ちで、道二町《ふたところ》ばかり行くに、汗のしとゞに流れて唯暑くおぼえけり。清水に立寄りて顔など洗ひ侍るに、何となく臭き香《か》の堪へがたくしけるを、何ぞと思へば、かの手拭《たなごひ》にいたく染《し》みたる香なり。何に似たるかをりぞと思ふに、小蛇《をろち》[やぶちゃん注:後掲する所持するものでは、単に『蛇(オロチ)』(「オ」はママ)とある。]の香にて、それが上《うへ》にえも言はず臭き香の添ひたるなり。此(こ)はけしからぬ事かな、かの石の上に彼《かれ》[やぶちゃん注:蛇。]が居り侍りけむ名残《なごり》なり。さて洗ひ落さむと思ひて、清水に打漬(《うち》ひ)ぢて[やぶちゃん注:浸しては、ごしごしと。]洗へども中々に去らず。水に入りては猶臭き香の募りて、頭《かしら》にも通るべく覚えけるに、手拭《たなごひ》は捨て遣《や》りける。さて手も体も物の移りたる、堪へがたければ早く行きて湯浴《ゆあみ》せんと、急ぎて従兄弟《いとこ》の許(がり)行きつけば、皆《みな》集会《まどゐ》して朝食《あさげ》にかあらむ物食《たう》べて侍るが、主の曰く、久しく見えたまはざりし、かゝる暑き時に暁かけて来たまはせで、かく日の盛りには何しに出でおはしたると聞ゆ。この男聞きて、寅の時にいでて唯今麓にて夜の明けてさむらへ、主《ぬし》達も今、朝食《あさげ》参るならずやと言へば、家の内の人みな笑ひて、何所《いづこ》にか午睡《ひるい》して寝《ね》おびれたまへるならむ、空は未《ひつじ》の頭《かしら》[やぶちゃん注:午後一時頃。]にてさむらへ、けふは昼飯《ひるいひ》の遅くて、只今食《たう》べ候ふと言ふに、少し怪しくなりて空を見れば、日ざしも実《げ》に然り。また暑き事も朝の程ならず。下部を見れば、これも唯怪しく思へる顔附にて、道にも何も程過《すご》すばかりの事はしたまはず。火を鑽りて煙草二吸《ふたす》ひばかりして侍るのみなりと申すに、主《ぬし》どもがそれは彼《か》のにて侍らむ、山の麓には良からぬ狐《きつ》の折々さる業《わざ》して侍る事のあるにと言へば、いな狐とも覚えず。かうかうなむ侍る事のありて、その香のいまだ去らず侍るに甚(いた)く悩めり、湯浴《ゆあみ》せばやと言へば、主打驚きて、それは悪しきめに遭ひたまへり、かの石は竜石《りゆうせき》とて、この辺《わたり》には構へて侍り、その化物は何に侍るとも知らねど、必ず小蛇《をろち》の香のし侍るを以て、所の者は竜《りゆう》の化けて侍るなりとて、それをば竜石とは申すなり、これに触れたる人は、疫病《えたしやみ》[やぶちゃん注:伝染性の病気。]して命にも及ぶ者多し、御心《みこころ》は如何《いかに》に侍ると言ふに、忽ちに身の熱(ほとぼり)来て[やぶちゃん注:発熱を起こし。]、頭《かしら》も痛くいと苦しくなりし程に、従兄弟は薬師(くすし)なりければ、心得て侍りとて良き薬を俄かに煎(に)させて、また体《からだ》の香のとまりたるをば、洗ふ薬を以て拭《のご》はせなどしけり。この家に斯《か》く病臥《やみふし》してあらむも如何《いか》に侍れば、帰りて妻子《めこ》どもに看護(みと)らせむとて、その日の夕つかた、籠《かご》に乗りて呻きながら帰るべくす。また主《あるじ》の曰く、かの休みたまふ所にて見させよ、必ずその石は侍るまじきにと聞ゆるに、下部ども心得て、かの石は道の真中に取出《とうで》て侍りけるとて、行きかゝりて見れども更に無し、人の取退(とりの)けしにやと遠近《をちこち》見れども、もとより石一つなき所なれば、有るべきにもあらず。さては化けたるなりけり。己《おのれ》は下部だけに地《つち》に居《を》りて侍れば、石には触れざりけるとて、幸(さち)[やぶちゃん注:後掲する所持本では、ルビは『サイハヒ』(ママ)となっている。]得たる面附《つらつき》して帰りにけり。かの男は葉月ばかりまで甚《いた》く病(わづら)ひて、やうやう癒え果てぬと。さて後は子供等《わ》にも誰《たれ》にも、山に往きては心得なく石にな腰かけそと、教へ侍りきと聞えし。
[やぶちゃん注:「折々草」俳人・小説家・国学者にして絵師で、片歌を好み、その復興に努めた建部綾足(たけべあやたり 享保四(一七一九)年~安永三(一七七四)年:津軽弘前の人。本名は喜多村久域(ひさむら)。俳号は涼袋。画号は寒葉斎。賀茂真淵の門人。江戸で俳諧を業としたが、後、和歌に転じた。晩年は読本の作者となり、また文人画をよくした。読本「本朝水滸伝」・「西山物語」や、画集「寒葉斎画譜」などで知られる)の紀行・考証・記録・巷説などの様々な内容を持つ作品である。明和八(一七七一)年成立。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第十一巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のここで正規表現で視認出来る。標題は『○龍石といふ事』である。私は「新日本古典文学大系」版(同作の校注は高田衛。一九九二年刊)で所持し、これは宵曲の見たものとは、版本が異なるらしく、標題も『龍石をいふ条』で、各所に表記上の異同があるが、読みが、かなりしっかりと附されてある(ひらがなになっている箇所も多いが、時に歴史的仮名遣に誤りがある。というか、恐らくは当時の口語表現のそのままともとれる)ので、それを積極的に参考にして読みを振った。綾足は漢字の読みに独特の拘(こだわ)りがあるのだが、宵曲はそれをかなり無視しており、ちょっと残念である。以下、「新日本古典文学大系」版を参考に注を附す。
「大和の国上品寺」現在の橿原市上品寺町(じょうぼんじちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「同国高取といふ城下に、土佐といふ所」奈良県高市郡高取町上土佐・下土佐附近。高取城があり、植村氏の二万五千石の居城があり、その大手口の総門が、上土佐の南東に接する同町の下小島(しもこしま)にあった。
「水無月望(もち)ばかり」旧暦七月十五日頃。年次が不詳なため、グレゴリオ暦では提示出来ない。
「寅の時に出でて往きける」歩きが基本の江戸時代には、暁方の早出は当たり前であった。
「直居りに居りかねたれば」高田氏の注に、『地べたに坐るところがなかったので』とある。
「見かう見する」あちらことらを見ること。
「蚋(ぶと)」双翅(ハエ)目カ亜目カ下目ユスリカ上科ブユ科 Simuliidaeブユの類。関東では「ブヨ」、関西では「ブト」と呼ぶ。六年住んだ富山が「ブト」だった。当該ウィキによれば、『カやアブと同じく、メスだけが吸血するが、それらと違い』、『吸血の際は皮膚を噛み切』って『吸血するので、中心に赤い出血点や流血、水ぶくれが現れる。その際に唾液腺から毒素を注入するため、吸血直後はそれ程かゆみは感じなくても、翌日以降に(アレルギー等、体質に大きく関係するが)患部が通常の』二、三『倍ほどに赤く膨れ上がり』、『激しい痒みや疼痛、発熱の症状が』一~二『週間』ほど『現れる(ブユ刺咬症、ブユ刺症)。体質や咬まれた部位により腫れが』一『ヵ月以上ひかないこともままあり、慢性痒疹の状態になってしまうと』、『完治まで数年に及ぶことすらある。多く吸血されるなどした場合は』、『リンパ管炎やリンパ節炎を併発したり』、『呼吸困難などで重篤状態に陥ることもある』とある。高二の時、親友と夏にテントを担いで能登半島を一周した時、海辺でキャンプすると、大攻撃を受けた。また、始めてワンダーフォーゲル部の顧問になって、丹沢を一泊で縦走して蛭ヶ岳へ行った際、私の生徒たちもさんざん刺された。私はそれでも予後がよかったが、女生徒の数人は、二ヶ月近く、黝ずんだ瘢痕が消えず、可哀そうだったのをよく覚えている。
「鈍色」濃い灰色のこと。平安時代には、灰色一般の名称であったが、後に「灰色」・「鼠色」にその座を取って代わられた。高田氏の注では、『本来は橡(つるばみ)で染めた濃い鼠色をいう』とあった。「橡」はブナ目ブナ科コナラ属クヌギ Quercus acutissima の異名。実(どんぐり)や樹皮を用いる。
「衾」掛け布団。時に野宿の可能性があり、江戸時代の長旅では、携帯していた。
「小蛇の香」恐らくは、爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora であろう。きゃつを捕まえると、独特な臭いを出すことがある。これはアオダイショウの尻尾の付根にある総排泄口附近にある「臭腺」から出るもので、褐色の液体で、非常に臭い。これはただ臭いだけで、毒があるわけではない。まさに「青大将」で青臭い他で喩えることが出来ない独特な匂いである。私は蛇好きで、幼稚園の頃は、毎日のように大泉学園の弁天池や、その周囲の廃田圃できゃつらを素手で捕っては、首に巻いたり、友だちが捕ったものと、「どっちが長い?」と比べっこするほど、蛇耐性が高かったから、この臭いは、よく覚えている。しかし、不思議に、私は臭いとは思わなかった。不思議である。
「頭にも通るべく覚えける」頭痛がするほどの悪臭であることを言う。
「物の移りたる」高田氏の注に、この「物」は『臭気のみでなく、何か得体のしれないものが染みつく感じ』を言うとある。
「許(がり)」接尾語で、人を表す名詞・代名詞に付いて「~のもとに・~の所へ」の意。
「集会《まどひ》して」円座して。
「寝おびれ」寝ぼけることを指す。
「彼《か》の」高田氏は『不詳。「かの」という妖異か。または、例のものの意か』と注しておられる。
「竜石」高田氏は『不詳』とする。所持する木内石亭「雲根志」に「龍石」はあるが、kれは国立国会図書館デジタルコレクションのこれで、硯から龍が昇天した話であって、本話とは親和性がない。似たような話も、私の知る限りでは、同書には、ない。
「この辺には構へて侍り」「人が来るのを待ち構えております」。]
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