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2024/01/07

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「不思議の修練」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 不思議の修練【ふしぎのしゅうれん】 〔譚海巻八〕加賀の家司に鎗術の師あり。その宅にて門人会集して終日稽古の節、紙窻《しやうじ》の破れより一人うかがひ見てたゝずむものあり。門人昼食に休みて、またまた稽古を始むるに、彼《かの》者猶立さらず有りければ、人々ふしぎにおもひ、彼者われら稽古をけんぶつして猶立さらずあるは、何か所存あるべし、さらば尋ねばやと、一同に談合して呼入れけるに、かたの如くの下種(げす)なり。その方今朝《けさ》より我等稽古を伺ふは、いかなる所存ありての事ぞと尋ねければ、彼者別の者にはべらず、あまり皆様のなされ方をかしく候まゝ見物致し候なりと答へければ、弥〻不思議をなし、さてはその方鎗修練なるべしと問ひしかば、我等事鎗などは一向存じ申さず候なり、さりながらいかやうにつかれ候とも、皆様のやうにつかれはいたすまじきと存じ候なりといふ。この人々怪しみて、さらばその方をついて見るべし、相手になるべしとて、しなひの鎗を遣はしければ、彼もの申しけるは、中々かやうの長き物は手馴れ申さず候、なんぞ短き物玉はり候へとて、そこら見めぐらし、木刀の三四尺余有りけるを見出し、これによく候とて取りたり。扨(さて)彼者木刀の柄を両手にて握り、胸にあてて切先を向うへおして立《たち》たり。相手の人しなひ鎗をとつてつきかかるに、鎗の先のくゞりたるものを、切先にてうけとめて、ひとつも受けはづさず。入代《いれかは》り鎗を取《とり》て立向ひたる人も、終《つひ》にかの者をつきあつる事叶はず。後《のち》には三五人一同にて鎗にてつきかくれども、その鎗先をうけ留《とむ》る事、電《かみなり》の如くひらめきて、一度《ひとたび》も身をつかれず。終に師なる人も立あひけれども、これも同じくつきとむる事叶はず。みなみなあきれて仕合をやめつつ、扨々その方は不思議なる者なり、抑〻(そも《そも》)いかなる業《なりはひ》をなす者ぞと尋ねければ、我等はその山に住みはべる木こりにて候、我等幼年より同村のものと日々山へ行き薪《たきぎ》をとり候、その山の片岸《かたぎし》に大木の松候、何百年をへしとも知らず、根の四方へはびこりたる事、山の如くにて候故、木こり退屈せしときは、この松のもとへ行きて、根に腰を懸けやすみ候、かたぎし故、風甚だ涼しく、夏日《かじつ》も暑さを知らず、木古き松ゆゑいつもしめり深く、木末(こずゑ)より落る露(つゆ)たゆる事なく候、此処《ここ》に休み居《ゐ》たる時、身にかゝり衣裳をうるほしてうるさきまゝたきゞを荷ふ棒にて露をうけとめ候、はじめは度々《たびたび》うけはづしたれども、いつも休むときのなぐさみに、うけならひたれば、後々《あとあと》は繁《しげ》く落つる露一《ひとつ》もうけはづし候事なく、かやうにて三十八年馴れ候へば、この心にてつかるゝ鎗をうけ候に、留め得ぬ事は候はずと語りしかば、人々功の熟したる事をかんじ、謝しやりけるとぞ。

[やぶちゃん注:事前に「譚海 卷八 加州の樵者鎗術をあざける事(フライング公開)」を挙げておいた。]

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