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2024/01/10

フライング単発 甲子夜話卷二十六 8 舟幽靈の事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして、句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。実は、この殆んどが、七年前の二〇一七年一月五日公開の「柴田宵曲 妖異博物館 舟幽靈」で紹介されているため、こまめに、各部分の紹介の後に注で原文を電子化してある。しかし、今回、細部を確認したところ、順序が入れ替えられた箇所があり、さらに宵曲が途中でカットした部分があることに気がついた。されば、事前に、零から仕切り直して、纏めて公開することにした。非常に長く、改段落が作られてあるので、その箇所に「*」を挟んだ。]

 

26―8

 領土の海中には、「船幽靈(ふなゆうれい)」と謂ふものあり。又、或は「グゼ船(ぶね)」とも云ふ。これ、海上で溺死の迷魂、妖を爲す所と云ふ。

 其物、夜陰、海上にて、往來の船を惑はすなり。

 或(ある)人、舟に乘(のり)て、城下の海の北方一里半を出(いで)て、釣りし、夜(よる)に入りて、歸らんとす。

 時に、小雨(こさめ)して、闇黑(あんこく)なるに、その北十餘町に當(あたり)て、廿四、五反(たん)とも覺しき大船(おほぶね)、帆を十分に揚(あげ)て、走り來(きた)る。よく見れば、風に逆(さからひ)て行(ゆく)なり。

 去れども、帆を張ること、順風に走るが如し。

 又、船首の方(かた)に、火、ありて、甚(はなはだ)、熾(さか)んなり。

 然(しかれ)ども、焰(ほのほ)、なくして、赤色(あかきいろ)、波を照(てら)し、殆(ほとんど)、白日の如し。

 又、船中に、數人(すにん)在りて、搖動(えうどう)する如くなれども、其(その)形、分明(ぶんめい)ならず。

 怪(あやし)み見るうち、乘(のり)たる船、止(とまり)て、進まず。乃(すなわち)、漕去(こぎさ)らんとすれども、動かず。

 又、目當てとしたる嶋、忽(たちまち)、隱沒(いんぼつ)して、無し。遂に行くべき方(かた)を、知らず。

 一人が云ふ。

「船幽靈は笘(とま)を燒(やき)て舟先を照せば、立去(たちさ)るなり。」

とて、如ㇾ此(かくのごとく)せしに、果たして、四方、晴やかになり、舟、進んで、初め、間近(まぢか)かりし鎌田の橫嶋と云へる所の、瀨先きに乘(のり)かけ、巖(いは)に觸れて、破れんとす。

 因(よつ)て、速やかに、碇(いかり)を下(おろ)して、危(あやふき)を免(まぬか)れたり。

 是が爲に、迷はされしこと、凡(およそ)一時餘(いつときあまり)にして、やうやう、城下に還(かへ)れり。

 又、城下の南【九里。】、志自岐浦(しじきうら)にて、舟にて、夜歸(よがへり)する者、途中にて、俄に、櫓、搖(うご)かず、舟、止(とま)りたり。

 怪(あやし)んで、見るに、亂髮(みだれがみ)の人、海面に首(かうべ)を出(いだ)し、櫓に喰(くひ)つきて、動かさゞるなり。

 始(はじめ)て、「舟幽靈」なるを知り、驚(おどろき)て、水棹(みづざを)にて、突き放さんとすれども、離れず。

 乃(すなはち)、灰をふりかけたれば、しばしして、離れたり。

 闇夜ゆゑ、海面も辨(べん)ぜざるに、かの顏色計(ばかり)、分明に見えしも、訝(いぶか)しきことなり。

 是も、「グゼ」の所爲なり、とぞ。

[やぶちゃん注:「グゼ船」調べてみると、単に「グゼ」とも呼んでおり、「グゼ」自身が海で死んだ者の妖怪化したもの、総体としての「舟幽霊」の謂いであるようだ。但し、佐賀での舟幽霊は「アヤカシ」の方が一般的には知られる呼称である。しかし、「アヤカシ」は、山口県や九州で広汎に用いられる舟幽霊の別称であり、この「グゼ」は、或いは、佐賀地方独特の異名であるのかも知れない

「廿四、五反」楽2006天氏のブログ「言葉を“面白狩る”」の「何反帆」に、石井謙治氏の「和船1」より引用されて、『十八世紀末までは厚い帆布を織ることができなかった。その代わり、布地二枚を重ねて四子糸と呼ぶ太い糸で刺し子のように縫合わせて丈夫にしていた。これを三幅分横につないだものが帆布一反(端)で、その幅は三尺(九十センチ)前後であった。何反帆という呼称は、この帆布地一反を横につないだ数で、帆の長さには無関係である。一反の幅は、十八世紀後半からは帆を丈夫にするため二尺五寸(七十五センチ)程度と狭くなっているが』、『右に述べた木綿帆は刺帆と呼ばれ、製作に手間のかかる割には丈夫でなかった。まして帆走専用船となった弁才船では、刺帆の弱さはウィークポイントの一つでもあった。この欠点を解決したのが播州の工楽松右衛門で、彼は天明五年(一七八五)太い木綿糸を使って厚くて丈夫な帆布の製作に成功した』とあった。従って、帆布地の上部の水平部分の長さが、十九メートル弱にもなるバカでかい大船ということになる。幽霊船だから、まぁ、ありか。

「笘(とま)」菅(すげ)や茅(かや)などを、粗く編んだ蓆(むしろ)。和船や家屋を覆って雨露を凌ぐのに用いる。

「志自岐浦」は、平戸藩庁からの距離から、これは現在の平戸島(平戸市)南端西方に貫入する志々伎(しじき)湾のことと判る。ここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。]

   *

 又、志佐港(しさみなと)にて、兄弟の者ありて、舟、行(ゆか)せしに、夜中に、雨風、頻(しきり)なりしが、破船に乘(のり)たる者、二人、來(きた)りて、舟に着(つき)たり。

 見るに、白衣亂髮の體(てい)にして、舟に、つき慕(した)ふさまなり。

 顏色は、雪の如く白かりしが、兄弟、見て、齒をむき出して、微笑す。

 兄弟、見て、恐ろしさ、云(いは)んかたなし。

 乃(すなはち)、避去(にげさら)んと、力を盡くして漕行(こぎゆく)と雖ども、隨ひ來(きたり)て、離るること、なし。

 爲ん方なく、焚(もえ)さしの薪(たきぎ)を投(なげ)つけたれば、これより、離去(はなれさり)て、無難に還りし、とぞ。

 これも、彼(かの)「舟幽靈」の一種なり。

 後日に、其顏色、猶、顏に、つきゐて、恐しく、

「舟商賣は爲間敷(すまじき)もの。」

とて、改(あらため)て、他業の身となれり、と云(いふ)。

[やぶちゃん注:「志佐浦」長崎県松浦市志佐町(しさまち)の面する湾。ここ。]

   *

 又、先年、城下の邊(あたり)、大風(おほかぜ)吹(ふき)しこと、あり。

 これに因(よつ)て、船々(ふねぶね)大小、數知らず、沈沒し、溺死も數人(すにん)なりしが、夫(それ)より、夜々(よよ)、「舟幽靈」、出(いで)て、

「往來の船に邪魔をなし、通船すること、協(かな)はず。」

とて、役所へ願ひで(いで)たり。

 因(よつ)て、瑞岩寺(ずいがんじ)と云(いふ)に、申(まふし)つけて、施餓鬼(せがき)をなさしむ。

 衆僧(しゆそう)、舟にて、誦経(ずきやう)し、又、舟形(ふながた)數(す)百を造(つくり)、これに、燭(しよく)をともし、海面に浮(うか)むれば、數百の舟形、潮(うしほ)に隨(したがひ)て、流漂(ただよ)ひ、火光(くわかう)、波間に夥しかりしが、

「これよりして、その殃(わざは)ひ、止(とま)りたり。」

と云(いふ)。

 この時、その邊(あたり)に泊(はく)せし商船も、皆、燭を舟形にともし、弔(とむらひ)となしたれば、倍々(ますます)、火光、海上に滿點したり、とぞ。

[やぶちゃん注:「瑞岩寺」佐賀県唐津市北波多徳須恵(きたはたとくすえ)の「瑞巌寺跡」か。

「施餓鬼」私は十全に判っているので注さない。よく判らない方は当該ウィキを見られたい。]

   *

 又、生月(いけつき)と云(いへ)る所の「鯨組(くぢらぐみ)」の祖に、道喜(だうき)といふ者あり。

 其(それ)、始(はじめ)は、賤(いや)しくして、舟乘(ふなのり)を生業(なりはひ)とせし頃、ある夜、舟、行(ゆか)せしとき、舟端に、何か白きもの、數十、出(いで)て、とり付(つき)たり。

 よく見れば、小兒(しやうに)を見るが如く、細き手なり。

 道喜、驚き、棹にて、打拂(うちはらひ)たれども、はなれず、又、とり付(つく)こと、度々(たびたび)なり。

 道喜、思(おもひ)つき、水棹(みづざを)の先を、燒(やき)て、夫(それ)にて、拂ひたれば、遂(つひ)に退(のき)て出ざりし、とぞ。

「是も、『舟幽靈』の類(たぐひ)なり。」

と云(いふ)。

「總じて、笘(とま)を、やき、焚(もえ)さしの薪(たきぎ)を投げ、灰を、ふり、棹を焦(こが)すの類(たぐひ)は、陰物(いんぶつ)は、陽火(やうくわ)に勝(まさ)ることなきを以ての法なり。」

と、舟人、云傳(いひつた)ふ。

[やぶちゃん注:「生月」は平戸島の北西にある有人島生月島(いきつきしま)。ここウィキの「生月島」によれば、『江戸時代には益富組を中心とした沿岸捕鯨が活発に行われ、平戸藩の財政を支えていた』とある。平戸市役所文化交流課の作製になるサイト「平戸学」の「捕鯨文化が根ざし栄えた、歴史の痕跡を辿る生月の旅」が写真も豊富で、是非、見られたい。そこに、早くも『江戸時代の始めには』、『平戸で、銛(もり)等を使って突いて漁をする「突組」という鯨組が組織されて』おり、『生月島では』、享保一〇(一七二五)年に『益冨家の「突組」による捕鯨が始まり』、享保一八(一七三三)年『以降になると、鯨に網を掛けてから突き取る「網組」に移行して』、『西海各地の漁場に進出して』いったとある。]

   *

 又、予が、親(したし)く聞(きき)たるは、壹岐(いき)に住める馬添(うまぞひ)の喜三右衞門と云(いひ)しもの、勤番(きんばん)して、厩(うまや)にゐたるとき、ふと、「舟幽靈」のことを言出(いひいだ)したれば、

「某(それがし)、渡海のとき、中途にて、「グゼ」に逢(あひ)たり。」

と云(いふ)ゆゑ、

「何(いか)なる者ぞ。」

と問(とひ)たれば、

「始めは、何か、遙かに、人聲(ひとごゑ)、多く聞へ[やぶちゃん注:ママ。]たるが、船頭は、とく、これを知り、

『程なく、「グゼ」、來(きた)るなり。絕對に、見るべからず。見れば、この舟に、たゝり候なり。少しも見るまじ。』

と制するゆゑ、船中に、ひれ伏しゐたれば、間もなく、彼(かの)聲、至(いたつ)て近く、大(おほい)に噪(さは)がしければ、

『見まじ。』

とは、制したれど、見たくて、すこし、顏をあげて見たれば、大船(おほぶね)の帆を、十分に揚(あげ)たるが、その乘(のり)たる舟に、橫ざまに向けて、走り來(きた)るなり。人は大勢なるが、皆、影の如くにて、腰より下は見えず。手每(ごと)に、何か持(もち)ゐて、我が乘(のり)たる舟に、潮(しほ)を、くみ込(こま)んと、譟動(さうどう)する體(てい)なり。船頭は、舟の、へ先(さき)に立(たち)ゐ、何か、誦(とな)へて、守札(まもりふだ)の如きものを持(もち)て、祓(はらひ)をする體(てい)なりしが、やがて、灰を四方にふり散(ちら)したれば、『グゼ舟』は、是より、某(それがし)が舟を行(ゆき)ぬけたると覺しく、最初は、左にありたるが、夫(それ)より、舟の右になりて、次第に遠くなり行(ゆき)たり。この時、船頭、

『もはやよし。』

と云(いふ)ゆゑ、それより、舟中のもの、頭(かしら)をあげたれば、もはや、『グゼ』は、跡形(あとかた)もなかりし。」

と語りし。

 何(いづ)れも、似たることなり。

[やぶちゃん注:「馬添」は馬に乗った貴人に付き添っていく従者のこと。]

   *

 或(ある)人、語る。

「佐伯(さいき)公の家老某(なにがし)、領邑(りやういう)に往來のとき、三度まで、『舟幽靈』を見たり。

 其(その)さまは、遙(はるか)に沖の方(かた)より、船、來(きた)る聲、聞へ[やぶちゃん注:ママ。]けるが、船子等(ふなこら)、甚(はなはだ)恐るゝ體(てい)なれば、

『何ごとぞ。』

と問(とひ)たれば、

『「舟幽靈」なり。』

と云(いふ)ゆゑ、顧みるに、はや、我が船に、四、五人も乘居(のりゐ)たり。

 その形は烟(けむり)の如く、二十餘り、又は、廿四、五の男なりしが、船のへさきを步き𢌞りて、程なく、海に入(いり)し。」

となり。

「是より、船子等も、恐るゝ體(てい)なく、船の止(とま)りたるも、動き出して、走行(はしりゆき)し。」

と云(いふ)。

 是又、大抵、吾(わが)領邑のものと同じ。

[やぶちゃん注:「佐伯侯」旧豊後海部(あまべ)郡にあった佐伯(さいき)藩のこと。藩庁は佐伯城(現在の大分県佐伯(さいき)市)にあった。この話柄、舟幽霊の年齢が示される点、しかもそれが若いという点でも特異点である。]

   *

 又、語る。

 人吉(ひとよし)侯【肥後。】侍醫、佐藤宗隆と云(いふ)者、

「東都に出(いづ)るとき、船中にて舟幽靈を見し。」

と云(いふ)。

 元來、播州の舞子濱(まひこはま)の邊(あたり)は、此のこと、稀なる處なるに、其夜は、陰火、海面を走りて、怪(あやし)くみへ[やぶちゃん注:ママ。]たりしが、程なく、大(おほい)さ四尺餘のクラゲ【「海鏡」。】とも謂ふべき物、漂ひ來(きた)るを見れば、人の形(かた)ち、上に在りて、船子(ふなこ)に向ひ、もの言(いふ)べき體(てい)にて來(きた)るなり。

 船子共、卽(すなはち)、笘(とま)を燒(やき)て、投(なげ)かけたれば、そのまま消滅せし、と云ふ。

 又、同藩の毉(くすし)宗碩(そうせき)と云(いふ)者も、備後の鞆浦(とものうら)の邊(あたり)にて、「舟幽靈」を見たりしが、是は、正しく、手を海中より出(いだ)して、

「柄杓(ひしやく)かせ、柄杓かせ、柄杓かせ、」[やぶちゃん注:底本では『柄杓かせ々々』。]

と言(いひ)し。

「かかることは、某(それがし)が邑人(むらびと)の外(ほか)にも、皆々、知れり。」

と語りし、とぞ。

[やぶちゃん注:「人吉」人吉藩。肥後国南部の球磨(くま)地方を領有した藩。藩庁は人吉城(現在の熊本県人吉市)に置かれた。

「播州舞子浜」「神戸市垂水区」この海岸線一帯

「備後の鞘浦」「広島県福山市内」知られた鞆の浦。]

   *

 又、隱邸(いんてい)[やぶちゃん注:静山の隠居所である本所の下屋敷。]の隣地に、大道と云(いふ)僧の居りしが、この僧は、筑前秋月(あきづき)の人にて、もとは黑田支侯の武士なりし故に、或年、上京せしとき、長門(ながと)の赤馬ケ關(あかまがせき)に船(ふな)がゝりせしに、

「まの當り、見し。」

迚(とて)語れるは、

「三月十八日のことなりし。船頭ども、言ふには、

『今日(けふ)は何ごとをも、申されな。話しなど、無用なり。』

とて、禁ずるゆゑ、

『何(いか)なる譯(わけ)や。』

と問(とひ)たれば、

『けふは、平家滅亡の日ゆゑ、若(もし)、物語などすれば、必ず、災難あり。』

と云(いひ)たり。夫(それ)より見ゐたるに、海上一面に、霧、かゝり、おぼろなる中に、何か、人の形(かた)ち、多く、現はれたり。

『これ、平氏の敗亡せしの怨靈なり。』

と云ふ。

『この怨靈、人聲(ひとごゑ)を聞けば、卽(すなはち)、その船を覆(くつが)へすゆゑ、談話を禁ず。』

と云(いひ)傳ふとぞ。

『昔より、十七日、十八日の夜は、必ず、この禁あることなり。』

と云(いふ)。又、その十四日、十五日の頃より、海上、荒く、潮(しほ)まき抔(など)ありて、彼(かの)邊りは、ものすごき有りさまなり。これ、某(それがし)のみならず、同藩の者も、彼(かの)地、滯船のとき、見し者、多し。」

と語れり【「盛衰記」所載の文には、平家は屋嶋を落(おち)て、九國(きうこく)へは入(はい)れず、寄る方もなく、浮(うか)れて、長門のだんの浦、あかま、もじのせき、引しま[やぶちゃん注:平家の本拠地があった「彥島」の誤り。]に着(つき)て、浪の上に漂ひ、船中に日を送り給ふと見ゆ。又、義経の注進狀には、長門だんの浦に於(おい)て、三月廿四日、平氏、悉く打取(うちとる)、と見ゆ。然(しか)れば、十八日は、其七日前なり。又、長門に「檀浦(だんのうら)」の名、なくして、「檀浦」は讚州八島にある。又、長門國、赤馬關(あかまがせき)の向地(むかひのち)、豐前國に「門司田浦」あり。然れば、「だんの浦」は「田浦」の稱、似たり。若(もし)くは、こゝか。又、『廿四日』の文、若(もしく)は、「十八日」と違(たが)ひたるか。又は、赤馬關の合戰は、此月日なりしや。】。

[やぶちゃん注:この静山の最後の割注の疑義は、私は、すこぶる支持するものである。既に「柴田宵曲 妖異博物館 舟幽靈」の注で、以下に掲する疑義を示している私は、ずっと以前から、讃岐の八島こそが、正しい「壇ノ浦」であると考えてきたからである。以下の日附の齟齬も気になるのである。

「長門の赤馬ケ関」安徳天皇を祀る赤間神宮の東北直近にある「早鞆の瀬戸」の辺りが、一般に言われる壇之浦古戦場である。

「三月」「十七日・十八日の夜は必ずこの禁あることなりと云ふ」平家滅亡の長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた「壇ノ浦の戦い」は、実際には元暦二/寿永四年三月二十四日(ユリウス暦一一八五年四月二十五日)で、ここに記された日付よりも六日後のことである。この齟齬は何が元だろう? 気になる。

「海上荒く潮まき」瀬戸の海流が激しく行き交い、渦を起こすのであろう。]

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