譚海 卷之六 松平土佐守殿東海道往來大井川かち渡りの事
[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]
○松平土佐守殿、東海道往來、大井川をば、いつも、かち渡りにして、家人、供をする也。土佐守殿は駕籠にて、臺にのり越らるゝ。
家人は皆、紅の衣裝を著て、かちにて、かごに引(ひき)そひ、わたる事也。
前年、大井川、洪水にて、土佐守殿、川岸に逗留の節、
「川水、よほど落(おち)たる。」
よし、風聞に付(つき)、家人某、馬にて、大井川をわたり、向ひへ上りて、水の樣子を見分致(みわけいいたし)、又、馬に乘(のり)て、もとの所へ歸り、上(あが)りて、言上(ごんじやう)せしかば、皆人(みなひと)、川水の漲(みなぎ)る所を、馬にて、かく、往來せし事、達者のほどを感じけるに、土佐守殿、以の外、不興にて、しばらく、此家人、勘當(かんだう)有(あり)し、とぞ。
夫(それ)は、
「川の口、いまだ明(あか)ざるに[やぶちゃん注:「川留め」が解除されていないのに。]、いかに馬術巧者なりとても、往來せし事、いかゞ也。且(かつ)は、自分の馬藝を衒(てら)ふに似て、をこがまし。」
とて、御叱り有(あり)し、と聞ゆ。
すべて土州の家中は、馬を騎(の)る事を嗜(たしなみ)て、各(おのおの)、馬上達者也。
土州の城は、海へ差出(さしいで)たる所なるに、其國にては、いつも、六月には、家中のもの、海へ馬に騎(のり)て打入(うちいり)、終日(ひねもす)遊びて納涼する事、常の業(わざ)也。
かゝれば、大井川を、往來、洪水にわたしたるも、さるべき事也と、いへり。
[やぶちゃん注:「松平土佐守」これは、底本後注によって、土佐藩第十代藩主で、近代の政治家三条実美の外祖父であった山内豊策(やまうちとよかず)。藩主在任は寛政元(一七八九)年から文化五(一八〇八)年(隠居)までであるから、その閉区間での出来事となる。
「大井川かち渡り」ご存知とは思うが、当該ウィキによれば、江戸時代、大井川は架橋は、おろか、『渡し船も厳禁とされ、大名・庶民を問わず、大井川を渡河する際には』、『川札を買い、馬や人足を利用して』、『輿や肩車で渡河した川越(かわごし)が行われた』。『このため、大井川は東海道屈指の難所とされ、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」』『と詠われた』。『もちろん、これは難所・大井川を渡る苦労を表現した言葉である』とあった。駕籠を渡す様子は、同ウィキの葛飾北斎の「富嶽三十六景」の「東海道金谷の不二」で偲ばれる。]
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