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2024/01/30

「蘆江怪談集」 「空き家さがし」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本本文の開始位置はここ。本「怪奇談集」の中で、初めての明治期(初期)物である。]

 

 

    空 家 さ が し

 

 

         

 

 十人の中、三人ぐらゐはチヨン髷(まげ)があつてまだ蝙蝠傘(かうもりがさ)といふものゝ珍(めづ)らしい時分の事、東京の山の手に一軒(けん)空家(あきや)があつた。

 五間(ま)ほどの家だが、その頃の事ゆゑ、家のまはりに餘裕(ゆとり)がたつぷりして隨分(ずゐぶん)住(す)み心のよささうに出來てはゐるが、少し古びてゐる爲めに一寸(ちよつと)借手(かりて)がなくて、約(およ)そ一月も表の門に借家札が斜(なゝ)めに貼(は)つたまゝで空(あ)いてゐた。

 ある秋の日の夕方(ゆふがた)、庭の中の紅葉が生垣(いけがき)の上から眞紅(まつか)になつて往來へ差し出でてゐる時分(じぶん)、美くしい二十五六の女が此家を借りに來た、大家(おほや)の内儀(ないぎ)に案内されて、家の中を一通(とほ)り見てまはると、

「大變(たいへん)結構(けつこう)なお家でございます、それでは明日(あす)にでも直(すぐ)に引越してまゐりますから。」と滿足した樣子でニコやかな顏(かほ)をした。

「お氣に召しましたか、何しろ古びて居りますから、何割(なんわり)も見劣(みおと)りはいたしますが家(うち)といたしましては、隨分(ずゐぶん)木口(きぐち)も調べてありますし、元々(もともと)貸家(かしや)だてに建(た)てたのではございませんものですからね、造作なども相當(さうたう)のものが入つて居りますつもりでございますよ、ハイ。」と大家(おほや)の内儀(おかみ)は中々お世辭(せじ)が好い、といふのはこの美人が、身なりも立派なり、殊(こと)には口もとに得(え)も云はれぬ愛嬌(あいけう)を持つてゐたのに引(ひ)かされたわけでもあるが、更(さら)に内儀の目を驚(おどろ)かしたのは美人の手に女持の蝙蝠傘(かうもりがさ)がもの珍らしく房房(ふさふさ)としてゐたためであつた。[やぶちゃん注:「木口(きぐち)も調べてあります」ここは使用材木の質を選び抜いて造ってあることを言う。「得(え)も云はれぬ」の「得」は不可能の呼応の副詞「え」に対する当て字である。]

 「では明日(あす)からどうぞお願ひ申します。」と美人(びじん)は大家の家へまはつて敷金(しききん)もすばすばと置いて立上らうとした。[やぶちゃん注:「すばすば」はママ。『ウェツジ文庫』では『すぱすぱ』(後半は踊り字「〱」)とある。但し、底本では、拡大してガンマ補正をかけみても、半濁点ではなく、濁点である。語の意味から『ウェツジ文庫』は誤植と断じて補正したものとは思う。私はとりあえずそのままにしておく。]

「ありがたうございます、なあにお入(はい)りになつてからでも宜(よろ)しうございますのに。」

「いゝえ、どうせ上(あ)げるものですから。」

「ではあの、受取(うけとり)をお持ち下さいまし、失禮(しつれい)でございますが、お名前は。」といふと、美人は一寸(ちよつと)考(かんが)へたあとで、

「あの吉村(よしむら)として置いて下さい。」と云つた。

 受取を渡しながら、「お家内(かない)はお幾人(いくにん)でございますか。」と内儀が聞くと、

「主人と二人きりでございます、それに女中ぐらゐは置(お)かなければならないと思(おも)ひますが。」

「まア、それはお靜(しづ)かで結構(けつこう)でございます。」

 と内儀(おかみ)が尙(な)ほつべこべお世辭を並べるのを聞(き)き捨(す)てに、美人はさつさと先(さき)に行つた。

 一日置いて翌々日(よくよくじつ)の朝、美人は人力車に一抱(かゝ)へほどの風呂敷包(ふろしきづゝみ)を自分の前へ載せて此の空家へやつて來た、大家の内儀がいそいそと出迎(でむか)へて空家の門(もん)を開けたが、

「おや、飛(と)んだ失禮をいたしました、餘り慌(あは)てたものでございますから、中の南京錠(なんきんぢやう)の鍵(かぎ)を忘れました、それに、昨日(きのふ)一日忙(いそ)がしかつたものでございますから、まだお宅(たく)のお掃除(そうじ[やぶちゃん注:ママ。])もいたしません、一寸(ちよつと)箒(ほうき[やぶちゃん注:ママ。])を取つて來ますから暫(しば)らくお待ち下さいまし。」と云(い)ひ譯澤山(わけだくさん)に、あたふたと引かへした。

 美人は門の前に一寸(ちよつと)立(た)つて、門内の紅葉(もみぢ)を、

「まア、よく紅葉(こうえふ)して綺麗(きれい)だこと。」と車夫(しやふ)に云つて見上げてゐたが、大家の内儀の來やうが遲(おそ)いので、開(あ)け放(はな)した門の中へ入つた、そして門の内側(うちがは)から、

「好い紅葉だ」などと、獨(ひと)り言(ごと)を云ふ聲が聞える、車夫(しやふ)も一緖(しよ)に中へ入らうと思つたが、車に積つ放しの包みを掻拂(かつぱら)はれる心配があつたので車の前を離(はな)れず、門の内外から、一言二言(ひとことふたこと)話(はなし)をしてゐたといふ。

 これから間(ま)もなく、美人は中へ入つて入口(いりぐち)の戶じまりをからりと開けたかと思はれたので、

「御新造(ごしんぞう)さん、開きましたか。」と云ひながら門の外から覗(のぞ)き込(こ)むと、

「あい、開(あ)いてゐますよ、あの内儀(おかみ)さん閉め忘れたと見えるね、その荷物(にもつ)を持つて入つて來ておくれ。」といふから、

「ハイ、畏(かし)こまりました、どうもそそつかしい内儀さんだ、お世辭(せじ)ばかり云ひやあがつて、呆(あき)れ返(かへ)つたそそかしやですね。」と云ひながら車夫(しやふ)は車から荷物を下して胸(むね)一杯(ぱい)にエツチラホツチラと引抱(ひつかゝ)へながら、門のくゞりをエンヤラエンヤラと入らうとする途端(とたん)に、奧の戶口の方で、

「キヤツ。」といふけたたましい聲(こゑ)が聞えた、そして、物の倒(たふ)れる音がどたり、あとはガタガタピシヤリ、と底(そこ)ひびきのする物音、

「おや、何だらう、御新造(ごしんざう)さん、どうかなさいましたか。」と車夫が聲(こゑ)をかけた時に、中では

「ウーム、ウーム。」と二聲聞えたが、あとはひつそりと靜(しづ)まりかへつた樣子(やうす)、

「私(わたし)あ驚(おどろ)きましたぜ、すぐにも飛び込まうと思つたんですが、何(なに)しろ、荷物を抱(かゝ)ヘてこの門のくぐりをウンサーウンサーと屈(くゞ)つてたところだものですから、中々思ふやうにや飛(と)び込(こ)めませんや、どうも此奴(こいつ)あ驚いたなあ。」

 間もなく大家の内儀や、近所(きんじよ)の人や、それからおまはりさんも例(れい)の六尺棒(しやくぼう)を腋(た)ばさんでやつて來た時、車夫(しやふ)は額(ひたひ)に汗(あせ)をにじませながら眞靑(まつさを)になつて申立てた。

 雨戶(あまど)を引ぱづされた空家の人目に押(おし)かぶさるやうになつて覗(のぞ)き込(こ)む人たちは玄關の土間に斜(はす)かけに倒(たふ)れた身體に雨戶を押かぶせられて死んだやうになつてゐる美人の姿(すがた)を氣(き)の毒(どく)さうに見て、しばらくは誰(だ)れも何とも云はなかつた。

[やぶちゃん注:「例(れい)の六尺棒(しやくぼう)」ウィキの「警杖」(けいじょう)によれば、は明治七(一八七四)年に警視庁が創設され、巡査は「手棒」(三尺余り(九十一センチメートル程)の棍棒)を持ったとある。警部以上が刀を佩用したとあり、全ての警察官にサーベル佩用が許されたのは、明治一六(一八八三)年とある。「警杖を持つ警視隊」(明治一〇(一八七七)年描)の画像を見られたい。蘆江はここで、「例(れい)の六尺棒(しやくぼう)を腋(た)ばさんでやつて來た」というのが髣髴する。なお、この「例の」という表現から、私は本話の中の時制は、明治八・九年から明治十五年までの閉区間であろうと踏んだ。]

 

      

 

 近所の醫者(いしや)へかつぎ込まれて、手當(てあて)を加へられたので、美人はどうやら息(いき)は吹(ふ)きかへしたが、口はまだ利(き)く事(こと)が出來なかつた。

 空家(あきや)の中へ入ると共に、何(なに)かに驚ろいて、打倒(うちたふ)れる、倒れた機(はづ)みに沓(くつ)ぬぎで脾腹(ひばら)を强く打つ、それで氣絕(きぜつ)をした上へ、手か頭かが觸(さわ[やぶちゃん注:ママ。])つて雨戶が倒れる、その雨戶のかけ金が美人の手首(てくび)を强く打つたので手首の動脈(どうみやく)が切れ、出血が激(はげ)しくて身體が一時に弱(よわ)つたのだといふ事までは判つた、雨戶も普通(ふつう)ならば倒れる筈(はづ[やぶちゃん注:ママ。])はなかつたが、開けた機(はづ)みに溝(みぞ)を外(はづ)れたものらしい、これだけは判つたが、肝心(かんじん)の何に驚ろいたかゞ判(わか)らない。

 一時は車夫が嫌疑(けんぎ)を受けて役所へ引かれたが、放免(はうめん)になつた。

 其中に美人(びじん)が少しづつ物を云へるやうになつたので、お役人(やくにん)は美人のところへ駈(か)けつけて仔細(しさい)を聞いた、途切(とぎ)れ途切れに苦しい息(いき)の下から美人が答へたのは、

「あの家には幽靈(いうれい)が居ります、わたしが雨戶(あまど)をあけて中へ入りました時は、しんとしてゐて、物の音(おと)さへなかつたのですが、式臺(しきだい)をあがつて奧へ通らうとすると、私(わたし)の目の前にぼんやりと人の姿(すがた)が見えました、ハツと思つて見直(みなほ)すと、それは女の姿で私をぢつと睨(にら)みつけます、そ、その女は、その女は――」とかういふ風に話し始めたが、餘程(よほど)怖(おそ)ろしさが身にしみたものと見えてあとの言葉(ことば)は一言も云ひ得ず、又しても「ウーム」と呻(うな)つて氣絕(きぜつ)をした。

 おまはりさんも驚く、醫者(いしや)も驚いて早速(さつそく)手當(てあて)をしたが、もう其儘(そのまゝ)息(いき)は絕え果てて、到頭息を引きとつた。

 かかり合(あひ)では大變である、生憎(あひにく)大家(おほや)の内儀は空お世辭ばかりを云つてゐて、この美人が何處から引越して來る人か、亭主(ていしゆ)といふ人が何處にゐるのか、いつ來るのか、名前(なまへ)も吉村といふ名字(みやうじ)だけを聞(き)いてゐるだけで、何處へどう知らせる事も出來ない、止(や)むを得(え)ず、當座(たうざ)のあと始末一切をさせられ、誰(だ)れか身(み)よりの人の尋ねて來るのを待つより外に仕樣(しやう)はない事になつた。

「どうも此樣(こん)な馬鹿々々しい事はありやしない、おまけに肝心(かんじん)の家は、これから先、幽靈(いうれい)の出た家だの、何のつて難癖(なんくせ)はつけられるだらうし、困(こま)つた事が出來たものだ。」と大家夫婦は封印(ふういん)をして預(あづ)けられた荷物を睨(にら)めながら、愚痴(ぐち)をこぼした。

 尤(もつと)も封印をする前に包の中はおまはりさんの手で調べられた、重(おも)に美人の着がヘらしい着物であつたが、着物の間に手匣(てばこ)が一つ包み込まれてあつた、手匣の中は女の頭の道具(どうぐ[やぶちゃん注:ママ。])や指環類(ゆびわるゐ)でそれも格別(かくべつ)差(さし)あたりの手がかりにはならぬが、手紙が五六通あつた、差出人(さしだしにん)は皆大阪心齋橋筋、井筒屋方吉村竹次郞とあつて宛名(あてな)は橫濱市西戶部××番地堤(つゝみ)さく子樣とある。

「これは中々(なかなか)激(はげ)しいぞ。」と中を讀んだ警部(けいぶ)さんが苦笑(にがわら)ひをしたほど、中は色つぽい文句(もんく)ばかりで畢竟(ひちきやう)相愛(さうあい)の仲であるといふ事は十分讀みとられた。

 兎に角この手紙で、この美人(びじん)が堤(つゝみ)さく子といふ女で、橫濱の西戶部(にしとべ)から、ここヘ引越(ひつこ)して來ようとしたものであらうといふ事の推測(すいそく)だけはついたが、一寸(ちよつと)可笑(をか)しいのは大家へ出さした敷金(しききん)の受取(うけとり)に吉村樣と書かした事である。

「たとひ好(す)き合つた仲(なか)にしても、自分が引越すのだから堤(つゝみ)といふ名で家を借(か)りたらよささうなものだな。」とおまはりさんの一人が云ふと、

「いや、それは許嫁(いひなづけ)か何かの中で、何れ引越(ひつこ)し女房(にようぼ)といふ事にでもなるのではないか。」と他のおまはりさんが云(い)つた。

「論より證據(しようこ)橫濱(よこはま)の方へ調(しら)べに行つて見よう。」と一人がいふと、

「いや、それは既(すで)にちやんと橫濱へも大阪へも知(し)らせが出(だ)してあるのぢやから、何にもするには及(およ)ばん事ぢや。」と云つた。

 元より他殺(たさつ)でも何でもない、幽靈(いうれい)に脅(おびや)かされたといふのだから、つまり幽靈が下手人(げしゆにん)ではあるが、自靈に繩(なは)を打つわけにも行かない、橫濱と大阪からのたよりがあり次第、屍骸(しがい)と荷物をそれぞれ引渡(ひきわた)して了(しま)へばそれで萬事は解決(かいけつ)といふものだと、當時の警察だけに簡單(かんたん)に考へて、一同引取つて了(しま)つたのである。

 最も引上げる前(まへ)に、

「此家の幽靈(いうれい)といふものの正體(しやうたい)を調べて見んければならんな。」

「さうぢや、それが肝心かんじん」ぢや、若し空家(あきや)を利用して兇漢(きようかん)のやうなものが巢(す)を食つちよるといふ事もあるからなう。」

「おい、大家(おほや)、案内(あんない)をしてくれんか。」

 おまはりさんたちは六尺棒(しやくぼう)をつき立てて大家を促がした。

 大家さんは甚(はなは)だ迷惑(めいわく)さうに、

「どうぞ御自由に御見分下(ごけんぶんくだ)さいまし、決して異常(いじやう)のある家ではございません。」と立派(りつぱ)に云つたが、さて自分が先に立つてどうぞ此方(こちら)へとは云ひ切れない。

 おまはりさんたちも人間(にんげん)である以上薄氣味(うすきみ)の惡(わる)いといふ事を知つてゐる。

「もう暗(くら)くなつちよるから、充分の檢べは出來んぢやらう、明日の朝早く來て檢ベたらどんなもんぢや。」と弱腰(よわごし)になつた人もあつたが、そんな事でおまはりさんの役目(やくめ)は濟(す)まされるものではない。

 押間答(おしもんだふ)の末、おまはりさん二人と大家とが各々(おのおの)提灯(ちやうちん)やかんてらを振りまはして一齊(せい)に入る事にした。

 日は暮(く)れ切(き)つてゐる上に、一月あまりも人氣(ひとけ)のない空家(あきや)の事、しんしんと浸(し)み入るやうな冷(つめ)たさが物凄(ものすご)いといへば物凄いのだが、間取(まど)りもよし、木口(きぐち)もしつかりした家だから、何處と云つて不審(ふしん)はない。

 提灯とカンテラを振りまはしく、わざと大聲(おほごゑ)をあげて家の中を見まはつてゐた三人は、

「何處にも何の不思議(ふしぎ)もない、これなら當り前の家ぢや、多分(たぶん)あの女は一人で入つたから、何かつまらん事に驚(おどろ)いて足を式臺(しきだい)から踏(ふ)み滑(すべ)らしたんぢやろ、何でもない何でもない。」と口々に云ひながら外へ出て來た、その癖(くせ)引上(ひきあ)げ際(ぎは)に大家に向つては、

「此後(こののち)ともにこの空家については注意(ちゆうい)をせんけれあいかんぞ、兎(と)に角(かく)、人一人殺した家ぢやからの。」と氣にかかるケチをつけて、大手(おほて)を振つて歸(かへ)つて行つたのである。

[やぶちゃん注:この章の警察官の台詞がリアルである。何がリアルかというと、薩摩弁を匂わせる台詞になっているからである。ウィキの「日本の警察官」によれば、明治四(一八七一)年、『東京府に邏卒(らそつ)』(明治初期の警察官の称。後、「巡査」と改称した)三千『人が設置されたことが近代国家警察の始まりとなった』が、『邏卒には薩摩藩、長州藩、会津藩、越前藩、旧幕臣出身の士族が採用された』のだが、『その内訳は薩摩藩出身者が』二千人で、『他が』千人で『あり、日本警察に薩摩閥が形成される契機となった』とあるからである。因みに、私の亡き母は鹿児島の大隅半島の中央の岩川生まれであった。私の父は従兄妹(いとこ)同士であるため、私の四分の三は薩摩の血を引いている。にしても、この警官たちは、調べ方が杜撰だ。何より、荷物を運んだ車夫に、その荷を積み込んだ場所を車夫に師事させ、直にその場に連れて行き、転居元及びその周辺を探索するのが、まずすべき捜査であろう。

「橫濱市西戶部」現在の神奈川県横浜市西区西戸部町(にしとべちょう:グーグル・マップ・データ)。野毛山の北西部に当たる。]

 

         

 

 翌々日(よくよくじつ)まで橫濱からも大阪からもまだ報告(ほうこく)が來ないと見えて、警察(けいさつ)からは大家ヘ對して何の沙汰(さた)もない中に、一人の男が手鞄(てかばん)をさげて此の空家の前へ立つた。

 三十は越(こ)してゐるかも知れぬ、併(しか)し色白の目鼻だちのきつぱりとした中肉中背(ちうにくちうぜい)といふ恰好(かつかう)が、やうやう二十八九とほか見られぬ樣子(やうす)、空家の前へ立つて暫(しば)らく門の中の樣子を見まはしてゐたが、二三間先の荒物屋(あらものや)へ來て、

「×番地はあの空家(あきや)だけでございませうか。」と聞(き)いた。

「ハイ、あそこ一軒(けん)でございます。」

「それではきのふあたり、その家へ引越(ひつこ)して來た婦人がある筈(はづ)ですが御存じはありませんか。」と更(さら)に聞きなほした事から、此荒物屋では早速(さつそく)大家(おほや)さんへ此男を引渡(ひきわた)す事になつた。

「貴郞(あなた)は何と仰(おつ)やる方で、どちらからおいでになりました。」と大家はあべこべに聞(き)くと、

「ハイ私は吉村竹次郞(よしむらたてじらう)と申しまして大阪から只今(たゞいま)着(つ)きましたばかりで。」といふ。

「ああ、貴郞(あなた)が吉村さんですか、それでは貴郞のお尋(たづ)ねになる御婦人(ごふじん)は、堤さく子さんと仰(おつし)やる方(かた)ではありませんか。」

「ハイ、その通(とほ)りですが。」

「あ、さうでしたか。」と云ひかけると、大家(おほや)はすぐに家の者を警察(けんさつ)へ走(はし)らした。

 それから、吉村に向(むか)つて前々日からのありの儘(まゝ)をすつかり話した、吉村は只(たゞ)呆氣(あつけ)にとられて一言も物を言(い)へなくなつた。

 おまはりさんが飛(と)んで來た時分迄は、只おうおうと人目も恥(は)ぢず泣(な)き伏(ふ)してゐるばかり。

「泣(な)いて居つちや判(わか)らん、兎に角、君の尋ねる婦人は何の理由(りいう)もなしに頓死(とんし)したのぢやから、早速死體(したい)を引取つてあとの祭(まつ)りをしてやらなければいかん。」とおまはりが懇々(こんこん)說諭(せつゆ)すると、

「畏(かし)こまりました。」と云つて淚(なみだ)を拭(ぬぐ)つた。

 格別(かくべつ)、お上の手をかける事柄(ことがら)もないので、一通り女と男との關係などを聞(き)き訊(たゞ)しただけで、係官(かゝりくわん)は引上げたが、さく子の借りる家だけを當(あて)にして大阪から始(はじ)めて東京へ來たらしい吉村竹次郞といふ人物(じんぶつ)、打見たところに惡氣(わるげ)もあるらしくはなし、差當(さしあた)り身體を落ちつけるところもない樣子に、大家(おほや)は、いぢらしくなつて、

「あの家の敷金(しききん)はお預(あづ)かりしてあるのですから、一應(おう)あそこへお入りになつて、身體を落着(おちつ)けた上で、いろいろの手續(てつゞ)きをお濟(す)ましになつたら如何(いかゞ)です。」と云つてくれた。

「ハイ、ありがたうございますが、男手一人(をとこでひとり)ではどうする事も出來ません、それよりもあの家(うち)はあの儘おかへしする事にして、私は御近所に宿屋(やどや)でもありましたら宿をとる事にいたします。」

「なるほどそれも好(い)いでせう、甚(はなは)だ立入つた事をお伺(うかゞ)ひしますが、亡(なく)なつた方は貴所(あなた)の御つれあひでございますか。」

「左樣、只今(たゞいま)もおかかりの役人(やくにん)に申し上げました通り、あれは私の家内(かない)でございます。仔細(しさい)あつて一年ほど私は大阪へ出かけますると、あれは橫濱(よこはま)に住んで居りましたのでございましたが、今度(こんど)いよいよ東京で世帶(しよたい)を持つ事になりましたので、あれがあの家を探(さが)し當(あ)てて直ぐに引越して居るから、上京(じやうきやう)するやうにといふ知らせをよこしましたやうなわけで、大阪の仕事を片付(かたづ)けますと取るものも取りあへず參(まゐ)りましたのですが――」とここまではすらすらと云(い)つたが、又(また)込(こ)み上(あ)げて來る淚(なみだ)に、あとは言葉も消(け)されて了(しま)つた。

 吉村はその日の中に町内(ちやうない)に一軒(けん)ある下宿屋へ身體を落ちつけて、役所で假埋葬(かりまいさう)にしてある女の屍骸(しがい)を受けとると、一方に手續きをして置いた近所(きんじよ)の寺の墓地へ埋(う)め、包み物は自分の鞄と一まとめにした上、大家を始(はじ)め、世話(せわ)をやかした近所の人々ヘそれぞれ滯(とゞこほ)りのない心付(こゝろづけ)をして、

「いろいろお世話(せわ)さまになりました。」といふ一言(こと)を殘(のこ)すと、その儘何處へともなく立去(たちさ)つて了つた。

 例の紅葉(もみぢ)の枝のさし出た空家には改(あらた)めて貸家札(かしやふだ)が貼(は)られて次の住み手を待つ事になつた。

 この一騷(さわ)ぎを稀有(けう)な目付で見てゐた近所の人々が、時折、胡散(うさん)くささうに見ながら空家のまはりをうろついてゐたのも二三日の間の事、その後(ご)は何の不思議(ふしぎ)も異變(いへん)もないので、忽ちの間に忘(わす)れられて了(しま)つた。

 堤さく子が空家で死(し)んでから十日も經(た)つたある日、其次の借(か)り手(て)が出來て、此家の中を見る事になつた。

 それはさく子が此家に荷物(にもつ)を持ち込んだ時と同じやうに晴(は)れ切(き)つた靜(しづ)かな朝であつた。今度の借手は夫婦(ふうふ)づれの中老人で、矢張り大家の内儀(おかみ)がついて門をあけ、戶口をあけてやるのに續いて借り手の女房(にようぼ)が一足先へ入つた、そして式臺(しきだい)へ足を踏(ふ)みかけてずっと玄關(げんくわん)へ上つたかと思ふと、

「アツ。」とけたたましい聲(こゑ)を立てて振向(ふりむ)きざまに良人(をつと)へ縋(すが)りついた。

 大家の内儀(おかみ)はこの妻女のうしろに居たのだが、この聲を聞いたばかりで、度膽(どぎも)をぬかれて一散(さん)に外へ飛(と)び出(だ)して了つた。

「何だ何だ、どうしたのだ。」と良人(をつと)がいへば、

「外へ連(つ)れてつて下さい。」とばかりでガタガタ慄(ふる)ひをしてゐる、譯は判らぬながら、極端(きよくたん)に怯(おび)えてゐるので、良人(をつと)は女房を抱(だ)くやうにして外へ連れ出した。

「どうかなさいましたか。」と大家の内儀(おかみ)がおどおどした樣子(やうす)で問ひかけると、

「幽靈が幽靈が。。」と眞靑(まつさを)な顏をして立つてゐる空もない[やぶちゃん注:「そらもない」。「落ち着いた気分がしない・気が気でない」の意。]樣子、

「馬鹿な、幽靈などがゐるものか。」と良人(をつと)は云つたが、妻女の怯(おび)え方があまりに激(はげ)しいので、すぐにその場(ば)で破約(はやく)にしてどんどん引上げて了つた。

 一度ならず二度までもこんな事があつたので、大家でも不思議(ふしぎ)に思つた、が、今まで曾(かつ)て何事もなかつた家なので、結句(けつく)は何かの思ひちがひだらうといふ事で、今度(こんど)の事は大家夫婦の間だけの祕密(ひみつ)にして、知らぬ顏で捨(す)て置いた。

 併しこの借手(かりて)の夫婦(ふうふ)が、近所のすしやか何かへ立よつてこの話をしたものと見え、忽(たちま)ちの間に町内は怪物屋敷(ばけものやしき)といふ噂(うはさ)がそれからそれへと傳へられた。

 さあ翌日(よくじつ)からはいろいろな人が空家を見に來る、噂は噂を生(う)んで、中には、

「幽靈(いうれい)をたしかに見た。」

「俺(お)れも見た。」

「きのふは幽靈が門(もん)の中をふはふはと步いてゐた、血みどろの姿(すがた)であつた。」などと話はだんだん大袈裟(おほげさ)になりはじめた。

 

         

 

 此の町内(ちやうない)には柔道(じうどう[やぶちゃん注:ママ。])の道場があつた。この道場に集まる連中(れんじう)の中で、この噂(うはさ)を聞いた一人の靑年が、

「一つ我々の膽力(たんりよく)であの空家を探檢(たんけん)して見ようではないか。」と云ひ出した。

面白(おもしろ)い、早速(さつそく)決行(けつかう)しよう。」と血の氣多い强(つよ)がりの連中がすぐに大家へ交涉(かうせふ)して、門を開けさせる事にした。

 これは夜も十時頃(じごろ)の事である、五六人の靑年は手手(てんで)に得物(えもの)を持つたり、うしろ鉢卷(はちまき)をして稽古衣(けいこぎ)に白袴(しろはかま)の股(もゝ)だちをとるものもあり、大抵(たいてい)の幽靈は向ふから逃(に)げ出しさうな姿でどんどん押し出した。

 併(しか)しその家の前へ行くと急に引緊(ひきしま)つた顏つきをして、腰(こし)を浮かし、得物を握(にぎ)りしめながら、そろそろと門の中へ入(はい)つた。

「幽靈退治(いうれいたいぢ)は願(ねが)つてもない事ですが、なるたけ建具を壞(こは)して下さらんやうに」と大家は云つた。

 さて五六人が殘らず家の中へ入つて隅(すみ)から隅までを調べたが、何の變(かは)つた樣子もない、五六人は暫らく此家で坐(すは)り込(こ)んでゐたが、それでも鼠(ねずみ)の音(おと)さへ聞えなかつた。といふので張合(はりあひ)ぬけがして引上(ひきあ)げて來た。

「どうも馬鹿(ばか)々々しい、何の不思議もない。」

「第一幽靈などの出さうな家(うち)ぢやない、古(ふる)びてこそ居るが、住心(すみごゝろ)のよささうな立派な家で。」

「どうも女といふ奴(やつ)は臆病(おくびやう)でいかん。」

 口々に靑年(せいねん)たちは笑つた。が、始めに云ひ出した靑年は尙(な)ほ熱心(ねつしん)に考へてゐたが、

「諸君(しよくん)、我れ我れは幽靈探檢の方針(はうしん)をあやまつてゐた、先日のも、その前のも、眞晝間(まつぴるま)の出來事だ、而(しか)も朝の間の出來事だから、あそこの幽靈は晝間(ひるま)に限つて出るのかも知れないぞ、明日もう一度押しかけて見る事にしたらどうだ。」と提案(ていあん)した。一寸尤(もつと)もな思ひつきである、それではといふので翌日(よくじつ)午後二時頃又一同出かけて見た。併(しか)し何の變(かは)りもない。

「何(なん)の變りもないぢやないか。」

「うん、何でもない、併しもう一度やつて見よう、今度はあの變事(へんじ)のあつた時間(じかん)に入り込んで見る事にしよう。」と前(まへ)の靑年は又云つた、この靑年は大家の家とは遠緣(とほえん)に當る米屋の忰(せがれ)で、飛んだ幽靈沙汰(いふれいざた)で、大家が一方ならず迷惑(めいわく)してゐるのを救(すく)つてやらうといふ親切氣(しんせつぎ)を充分に持つてゐた。

 他(ほか)の靑年はすつかり氣乘(きの)りがしなくなつてはゐたが、この米屋の忰の熱心(ねつしん)にほだされて又次の目の朝(あさ)出(で)かける事にした。

「今(いま)丁度(ちやうど)八時半だ、大家に樣子(やうす)を聞いたら、大家でも成(な)るほどと云つてゐた、さう云へば堤(つゝみ)といふ婦人の倒(たふ)れたのも、次の借り手が驚ろいたのも丁度九時頃だつたさうだ、今からあの家に入り込んで、十二時頃まで戶(と)を閉(し)めたままで靜(しづ)かにしてゐたら、何か異變(いへん)があるかも知れない。」と云ひ云ひ例(れい)の空家へ出かけた。他の靑年も詮事(せうこと)なしに、米屋の忰(せがれ)について行つた。

 そつと戶を開(あ)けて、一人づゝ靜かに靜かに中へ入る、米屋の忰は充分(じうぶん[やぶちゃん注:ママ。])に注意をしながら、式臺ヘミシリと上(あが)り込(こ)む、それから玄關へずつと進(すゝ)む、進みながら奧(おく)をぢつと見込むと、ブルブルと身慄(みぶる)ひをして二足下つた、あとに續いてゐた靑年(せいねん)たちはどやどやと逃(に)げるが、米屋の忰(せがれ)は眞靑になりながらも足(あし)を宙(ちう)にして踏みとどまつて、棍棒(こんぼう)を持ち直した、それから充分にこれを振上げた上で、そつと又一足二足と進んだ。他の靑年は片唾(かたづ)を呑(の)んで米屋の忰の樣子(やうす)をぢつと見てゐる、家の中は薄暗(うすくら)がりであつた。

 米屋の忰は最初にブルブルと慄(ふる)へた場所まで進んだ時に、棍棒(こんぼう)を一うなりうならして、今にも打下(うちおろ)しさうにした。が、打下しはせず、棍棒の先(さき)を頭の上で鶺鴒(せきれい)の尾のやうにひよこひよこと振つて見た。それからそつと棍棒を下した、と同時(どうじ)に、

「アハヽヽヽヽ。」と破(わ)れかへるやうな笑ひ聲を立てた。

 充分(じうぶん)緊張(きんちやう)しきつたところへ出しぬけの笑(わら)ひ聲を出されたので、あとから續いてゐた靑年たちは却(かへ)つて驚いて、其儘其場に尻餅(しりもち)をついたものもある、跳(は)ねかへされるやうに外へ飛び出したものもあつた。

「何(なん)だつまらない、はゝゝ、こんな事か、さあ幽靈の正體(しやうたい)が判(わか)つた、さあ皆(みんな)ここヘ來たまへ。」と米屋の忰は昂然(かうぜん)として反身(そりみ)になつた。

 米屋の忰(せがれ)の樣子を見ると、皆が少しは安心(あんしん)してそろくそろと上つて來る。米屋の忰は奧(おく)の方を指さして、

「それ、向(むか)ふに人の姿(すがた)が見えるだらう、どうだ。」

 一人々々そつと顏をのばして見ると、なるほど朦朧(もうろう)として人の姿が此方(こつち)を向いて立つてゐる、それが見てゐる中に一人が二人になり三人になり四人になる。

「あれが幽靈(いうれい)の正體さ、よく心を落着けて見たまへ、自分(じぶん)の顏をいろいろに動かして見たまへ、さうすれば自然(しぜん)に幽靈の正體が判(わか)るから。」と云つた。

 靑年たちはいろいろに顏を動かして、そして一齊(せい)に笑ひ出した、幽靈と思つたのは自分たちの姿が奧(おく)の間の境(さかひ)にある硝子戶(がらすど)にうつつてゐるのであつた。

「何だつまらない、幽靈の正體見たり枯尾花(かれをばな)か、これぢや女がここに立てば女の姿が恨(うら)めしさうに寫(うつ)るにちがひない、はゝゝ。」と又笑つた。

「併し待ちたまへ。」と中の一人が云つた。

「あれはたしかに硝子(がらす)にうつる影(かげ)だが、昨日(きのふ)來(き)た時にはどうして見えなかつたのだらう、それが不思議(ふしぎ)だ。」といへば米屋の忰は、

「それこそ簡單(かんたん)な理由(りいう)さ、今は午前九時だ、お天道樣(てんたうさま)が東においでなさる、午後になればお天道樣は西(にし)にまはつて此家の中へ日がさし込(こ)む氣(き)づかひはない、若し午後になつてもあの影(かげ)がうつつたら、それこそ一大事だ。」

 これですつかり幽靈(いうれい)の正體は判つた。大家は喜んで威勢(ゐせい)よく貸家札を貼(は)り直(なほ)した。

 

        

 

 然(しか)し一旦(たん)けちのついた家は中々借手がない、かれこれ半月以上(はんつきいじやう)も空家(あきや)の儘で、見に來る人さへなかつた。

 大家もうんざりして此家の掃除(そうじ[やぶちゃん注:ママ。])さへせずに打棄(うつちや)つて置いたが、ある日木枯(こが)らしが吹(ふ)きすさんでやがて雨(あめ)をさそつて强(つよ)い强い吹(ふき)ぶりの日が三日つづいた。

 その吹降(ふきぶ)りが上ると、遉(さす)がに大家も自分の持家(もちや)だけは見まはらなければならぬ。

 雨の晴れ間を見て空家(あきや)の門をあけ、戶(と)を開けようとすると、じめじめとしてめつきり陰氣(いんき)になつた此家の奧(おく)の方(はう)で、鼠とは思はれぬ物の音がした。玄關(げんくわん)に聞耳(きゝみゝ)を立てて立止まつてゐると、猛獸(もうじう)などの呻(うな)るやうな聲が聞える。

「何だらう何だらう。」と大家はそろくそろ入らうとしたが、薄氣味惡(うすきみわる)さにどうしても入れなかつた。

 すぐに米屋(こめや)へ引かへして、

「源次郞(げんじらう)さんに一寸手を貸(か)してもらひたいが。」と町内の勇士(ゆうし)米屋(こめや)の忰を呼(よ)んだ。

「また變な物音(ものおと)がするつて、大方(おほかた)叔父(おぢ)さんの空耳(そらみゝ)だらう。」

「いや、たしかに物の音がしたんだ、一寸來て見ておくれ、幽靈退治(いうれいたいぢ)は、お前さんに限(かぎ)るんだから。」と引張(ひつぱ)るやうにして戾(もど)つて來た。

 源次郞は店(みせ)にあり合した米屋づかひの手かぎを持つて勢(いきほ)ひよく飛んで來た。足音を忍(しの)ばせながらだんだん聲のする方へ進むと、奧(おく)の三疊(でふ)へ來て了つた、六疊についてゐる押入(おしい)れ、そこから呻(うな)り聲は聞(きこ)えてゐる。

 大家と源次郞は息(いき)をこらして押入れに近づいた、押入れは開(あ)け放(はな)してあつた、その開け放した押入れの中を源次郞が覗(のぞ)き(こ)込むと、二尺直徑(しやくちよくけい)ぐらゐもある大きさの風呂敷包(ふろしきづゝみ)が一つ押入れの上段にコロリと置(お)いてある。

「大家さんのですか。」と源次郞が小聲(こごゑ)で聞くと、大家は目を丸(まる)くしながら首(くび)を振つた。

「泥棒(どろばう[やぶちゃん注:「泥坊」の場合はこれでよいので、当て字でよしとする。])の巢(す)にされたんぢやないか。」と又小聲で聞くと、大家は尻込(しりご)みをしはじめた。

 源次郞は風呂敷包みを引(ひき)よせて見る氣で、手をずつと押入(おしい)れの中へ伸(のば)しながら、よく見ると、風呂敷包の上には男の生首(なまくび)が一つ、ころりと乘つてゐる。

「アツ。」と云つて遉(さす)がの源次郞もこれには驚(おど)ろいた。大家も同時に生首に氣がついて打倒(ういちたふ)れると唐紙(からかみ)ヘトンと突當(つきあた)ると唐紙二本骨を折つて了つた。

 驚きながらも源次郞が、又立上ると、今度(こんど)は風呂敷包がムクムクと動(うご)いた。途端(とたん)に丸裸(まるはだか)も同然の男が押入(おしい)れからとんと飛び下りて、座敷中(ざしきぢう)をうろつきながら出口を探(さが)しはじめた樣子。

 かうなると源次郞は又(また)强(つよ)くなる、轉(ころ)げまはつてゐる男に飛びかかると柔道初段(じうどうしよだん[やぶちゃん注:ママ。])の腕前(うでまへ)を振つてこの男をとン[やぶちゃん注:ママ。違和感はない。]と投(な)げつけて、直ちに早繩(はやなは)を打つて了つた。

「さあ泥棒め、畜生(ちくしやう)、神妙(しんめう)にしろ、まごまごすると、この手鍵(てかぎ)が貴樣の胸に突(つ)き刺(さ)さるんだからさう思へ。」と源次郞は手鍵を縛(しば)られた男の鼻(はな)の先でゆすぶつて見せた。

 大家はすぐにがらがらと此(こ)の座敷(ざしき)の戶を開けた。

 雨上(あめあが)りの日光が此座敷一杯(ぱい)に入つたところで、大家が怖々(こわごわ)男の顏を覗(のぞ)き込むと、小首を傾(かし)げながら、

「此男は見た事があるやうだ。」と云(い)ひ出(だ)した。

「見た事がある、本當(ほたう)ですか。」

「うむ、確(たし)かに見た、ハテ何處で見たのだつたかな。」

「相濟(あひす)みません、出來る事なら私は此儘(このまゝ)殺(ころ)されたうございます。此家で死(し)ぬ事が出來れば私の本望(ほんもう[やぶちゃん注:ママ。])でございます。」と男は淚(なみだ)で顏一杯を濡(ぬ)らしながら云つた。

 その聲を聞くと大家は換手(かへで)を打つて、

「おゝ、お前(まへ)さんは吉村竹次郞とか云つた人だね、一體(たい)これはどうなすったのぢや。」と大家は始めて安心(あんしん)して、男の側近(そばちか)く顏をさしのばした。

 一人の女が偶然(ぐうぜん)空家(あきや)で死に、その女と夫婦になる筈(はづ)の男がつづいて來て、かうして隱(かく)れて住み込んでゐてここで死にたいといふ、若(わか)い源次郞にはこの吉村の心持が判(わか)るやうな氣がした。

「お前さんはお前さんのお神(かみ)さんの死んだ場所で死にたがつてゐるのか。」

 男は默(だま)つてうつむいてゐる。

「ねえ、さうだらう、かうなつたら仕方(しかた)がない、委(くは)しく話して下さい、又力になる筋(すぢ)がないとも限(かぎ)らないから。」と源次郞が云へば、

「ありがたうございます、御親切(ごしんせつ)に甘(あま)えて何も彼(か)も申し上げます。」と又(また)新(あたら)しい淚に咽(むせ)びながら、男は身の上話を始(はじ)めた。

 吉村とさく子とは幼(をさ)ない友達(ともだち)であった、そしてお互ひに相當(さうたう)の年になつたら夫婦になりませうといふ約束(やくそく)までしてゐた。ところが二人の間には深(ふか)い義理(ぎり)と恩(おん)とのある人が、二人の事を知らずにさく子を嫁(よめ)にもらひたいと云ひ出した。二人は二人の約束(やくそく)の事をその人に向(むか)つて話しそびれて默つてゐた。默(だま)つてゐる事は異存(いぞん)のない事として其人がさく子を嫁(よめ)にして了つた。

 其時さく子は自殺の覺悟(かくご)をした。けれども吉村はその自殺が結句(けつく)恩人(おんじん)に向つて面當(つらあ)てがましくなる事を覺(さと)つてさく子を止(と)めた、女を納得(なつとく)させ自分も諦(あき)らめて大阪ヘ行く事にした。間もなく二人の恩人は急病(きふびやう)で死んで了(しま)つた。吉村とさく子とはもう誰れに[やぶちゃん注:個人的には「たれに」と読みたい。]遠慮(ゑんりよ)もなく夫婦になれる身體(からだ)であつた。此の死んだ恩人(おんじん)以外(いぐわい)に義理も緣(えん)もつながるものは、二人の身の上になかつたのだから。

「恩人(おんじん)がなくなったわ、すぐに二人が一緖(しよ)になつたわではあまり義理を知(し)らないやうだ、それよりも我慢(がまん)の仕(し)ついでに、あと一年間はこれまで通(とほ)りに別れてゐよう、さうすれば、恩人の一周忌(しうき)の間だけ、身を愼(つゝ)しむ事が出來るのだから。」と吉村は云つた。さく子もそれに否(い)やをいふ事は出來ないほど、死んだ恩人に對(たい)する義理は深(ふか)かつた。

 かうして一旦(たん)橫濱(よこはま)へ戾(もど)つて來た吉村は、再び大阪心齋橋の奉公先(ほうこうさき)へ戾つた。

 さく子は早九月を過(す)ぎると良人の家を疊(たゝ)んで戶部へ引取(ひきと)つた。

 かうして一日を千年のやうな思(おも)ひでお互(たが)ひに待(ま)ちくらして一年間が過ぎると、女は一年前の約束通り二人の新(あた)らしい住居(すまゐ[やぶちゃん注:ママ。この「居」は当て字で、正しくは「すまひ」と読む。])を東京に探(さが)してこの空家を探し當て、すぐに大阪へ知(し)らしたので、吉村はとるものもとりあへず上京(じやうきやう)したのであつた。

 待(ま)ちかねた一年間、その一年間やつと濟(す)むかと思ふとあの始末(しまつ)になつたので、吉村は此世に生きる望(のぞ)みも何も彼(か)もなくなつたのだ。殊(こと)に女の手に殘された幾何(いくら)かの財產は、皆恩人の遺產(ゐさん)である。これをたよりにして自分一人が身(み)を立(た)てる氣にはなれなかつた。

「私はさく子の埋葬(まいさう)をすましますと、直ぐにさく子の手にあつた金はそつくり孤兒院(こじゐん)に寄附(きふ)して了ひました。そして身がら一本になつて一旦大阪へ戾(もど)りましたが、お恥(はづ)かしい事ですが、もう何をする勇氣(ゆうき)もありません。又ふらふらとかうして一週間前(しうかんまへ)に戾つて來ました。そして此家が戀(こひ)しさに惡(わる)い事と知りながら、あの押入れの中で暮(くら)して居りました。」と泣(な)いた。

「お前さん裸(はだか)ぢやないか。」と大家が覗き込むと、

「ハイ着物(きもの)は賣りつくしたり、破けたりしましたから剝(は)ぎすてたりして了(しま)ひました。けれども此頃の寒(さむ)さにどうする事も出來ませんから、さく子の持つてた風呂敷に身體(からだ)すつかり包(つゝ)んで、貴郞(あなた)が御覽(ごらん)になった通りに首だけ出してゐるのでございます。」と云つた。

「此男は斷食(だんじき)をして女と一緖(しよ)の家で死なうとしてゐるんだな。」と大家も源次郞も思(おも)つた。

 大家は哀(あは)れにも思ひ、此家で死なれては迷惑(めいわく)だとも思つて、自分の家ヘ一旦(たん)連(つ)れかへらうとしたが、吉村は飽(あ)くまでも辭退した。そして風呂敷を身體(からだ)にすつぽり卷きつけて、身すぼらしげに此の空家(あきや)を立ちのいた。

 

 さく子を埋(う)めた寺の墓地(ぼち)、而もさく子の墓の前で首を縊(くゝ)つて死んだ男があつたといふ事を米屋の忰と大家が聞(き)いたのは、その翌日(よくじつ)の事であつた。

[やぶちゃん注:十四年前、本篇を読んだ時、悪気(わるぎ)のある人は、一切出ない、この擬似怪談、読み終わって、何とも言えぬ哀れさを感じた。まず、怪奇談の中で、これほどリアルにそれを味わったのを思い出す。蘆江の名品である。

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