譚海 卷之六 播州大阪羽州へ海路の事
[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]
○播州大坂より、羽州土崎湊(とさみなと)まで、北𢌞りせし人のいひしは、
「海路五百六拾里也。北廻りの船は、みな、讚岐の金毘羅權現へ參詣する也。
扨(さて)、安藝の竹原に船をよせて、鹽を買(かひ)て、北國へひさぐ事、常の事也。
夫(それ)より、長門下の關にかゝり、北海に、おもむく。
さぬきまでは、磁石を申酉[やぶちゃん注:東北東。]と取(とり)、下の關へは戌亥[やぶちゃん注:北西。]と取、北海に成(なり)ては、全く、丑寅[やぶちゃん注:東北。]と取て行(ゆく)也。
長州までは、島々の間(あひだ)を乘(のる)事、常の事也。
北海に成ては、島、甚(はなはだ)すくなし。
隱岐の國を見る計(ばかり)にて、靑島を目あてに乘(のり)、佐渡をめあてにして、出羽へ着(つく)也。
北海には、潮(しほ)のわく處、所々にあり、潮汐のさし引(ひく)に、たぐへず[やぶちゃん注:一致することなく。]、常に、わく事にて、其所(そこ)を乘過(のりすぐ)る時は、船の鳴(なる)事、殊の外、おひたゞしき音也。潮のわく所は、壹町[やぶちゃん注:百九メートル。]か、二、三町を限りて、わづかの間(あひだ)也。
北海は、すべて、海より、陸地は、ひくし。殊の外、海は高きやうに覺ゆるなり。海上を乘(のる)船ば[やぶちゃん注:ママ。底本にはママ注記はない。国立国会図書館デジタルコレクションの底本不詳(但し、国立国会図書館蔵本に概ね従っているらしい)の大正六(一九一七)年国書刊行会刊本でも同じである。しかし、「ば」では躓く。「は」の誤記であろう。]、各自、勝手に乘(のる)事にて、一所に漕(こぎ)つるゝ事は、なき也。[やぶちゃん注:二隻以上の廻船が並びあっていることがあっても、それぞれの船は独自に航海し、伴走・併走することはないということであろう。]
海上にては、風にまかせ、船を乘るゆゑ、風にむかへは[やぶちゃん注:ママ。こここそ「ば」であるべきところであろう。]、船を、跡先に、まはして、風にまかせてのるゆゑ、おほくは眞直(まつすぐ)に、のる事、なし。常に斜(ななめ)にのる也。
海舶の船頭には「水先(みづさき)」と云(いふ)者、給金、殊に多く取(とる)也。晝夜、船の先に居《をり》て梶を取(とり)、帆の上げおろしを指圖する也。よく海上に馴(なれ)て、島・洲(す)・崎・海の淺深(せんしん)を知(しり)たるゆゑ、みな、此(この)「水先」の指揮に任(にん)ずる也[やぶちゃん注:任(まか)すのである。]。
船の梶は、船のさきより、へ[やぶちゃん注:ママ。不審。船尾は「艫・舳」(とも)で「へ」とは呼ばない。]まで、とほりたる長き木を通して、それに梶を付(つけ)て取扱ふゆゑ、船のさきに居《をり》て、梶をつかはるゝ樣(やう)にせし也。
日の出・日の入(いり)ほど、船中にて、おもしろき事はなし。」
とぞ。
[やぶちゃん注:「羽州土崎湊」現在の青森県五所川原市十三古中道(じゅうさんふるなかみち)に十三湊遺跡がある(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。
「北𢌞り」ウィキの「北前船」に詳しいが、生憎、航路地図がない。サイト「新潟文化物語」の「file-35 北前船が運んだもの」に載るものを私は参照して、次注を附した。
「五百六拾里」二千百八十四キロメートル。当時の航路に即して地図上で北廻り海路の距離を測ったが、確かに二千キロになんなんとするものであった。
「讚岐の金毘羅權現」香川県仲多度郡琴平町(ことひらちょう)にある金刀比羅宮(ことひらぐう)。神仏分離以前は金毘羅大権現と称し、十九世紀中頃以降は、特に海上交通の守り神として信仰されており、漁師・船員など海事関係者の崇敬を集めている。
「安藝の竹原」広島市竹原市。
「鹽を買(かひ)て、北國へひさぐ事、常の事也」前記のサイト「新潟文化物語」の「file-35 北前船が運んだもの」に『諸国の産物も新潟に入ってきました。西からは木綿や塩。木綿は当時西日本で盛んに栽培され、江戸時代に一気に広まったものです。そして塩は、今でも「赤穂(あこう)の塩」が有名ですが、これが北前船で全国に安く流通するようになり、各地にあった塩田が大きな打撃を受けたといわれています。越後国内では各地に塩田があり、塩は豊富に採れましたが、新潟湊に入った塩の多くは米沢や会津に運ばれました。また、三条の金物の原料には出雲からの鉄が使われています。東北、北海道からは紅や材木が入ってきました』とあった。
「磁石」方位磁針。羅針盤。ネットのQ&Aの回答によれば、十一世紀にシルク・ロードを経て西方から中国に伝わった。本邦に伝来した時期は正確には判っていないが、当時の日本と中国大陸間の商人の往来を考えると、左程、時を置かずに、日本に伝わった可能性が高いとある。但し、日本では、暫くは航海に使われた形跡がない。恐らくは、造船技術が発展せず、欧州などのように遠洋航海が、なかなか出来るようにならなかったので、需要がなかったためと考えられる。本邦で羅針盤が積極的に使用され始めたのは、江戸時代、まさに北前船が現われて、日本海の沖を、少しだけ、遠洋航海するようになってからであった、とあった。
「靑島」この場合は、固有名詞としての島の名ではなく、そこここの樹木の茂った無人島、或いは、岩礁の大きなものを指すように思われる。当初、現在、韓国が実効支配している竹島を考えたが、同島が「青島」と呼ばれていた事実を確認出来なかったので、それとはしない。しかし、中国地方の北で直北へ航路が遷移しそうになる際には、竹島が航海のズレの目標とはなろう。
「潮のわく處」これは北からの寒流である「リマン海流」と南からの暖流鵜島海流がぶつかる部分を指していよう。日本海の北と南の二ヶ所で、両海流はせめぎ合う潮目を成すからである。]