ブログ2,090,000アクセス突破記念 「蘆江怪談集」始動 / 表紙・裏表紙・背・「妖怪七首 ――序にかへて――」・「お岩伊右衞門」
[やぶちゃん注:ブログ・カテゴリ「怪奇談集Ⅱ」で「蘆江怪談集」を電子化注を始動する。私の同「怪奇談集」及び「怪奇談集Ⅱ」では、江戸時代の怪奇談集のみを扱ってきたが、今回は初めて、近現代の怪奇談集となる。
著者平山盧江(明治一五(一八八二)年~昭和二八(一九五三)年:パブリック・ドメイン)は小学館「日本大百科全書」に拠れば、『小説家、随筆家。神戸に生まれる。本名』は『壮太郎。実父田中正二は旧薩摩藩船御用さつま屋』七『世。実父没後、長崎の酒屋平山家に入った。東京府立四中(現戸山高校)を中退、満州』『で新聞記者を勤めた』後、『帰国し、『都新聞』『読売新聞』の花柳』『演芸記事を担当、花柳ものを得意とした。大正一五(一九二六)年、『長谷川伸らとともに第一次『大衆文芸』を創刊』、昭和六(一九三一)年に『に第二次『大衆文芸』を刊行』、『大衆文芸の振興に活躍した。小説』「唐人船」・「西南戦争」『などのほかに、随筆、また』、『都々逸(どどいつ)、小唄の作詞にも数多くの作品がある』とあった。
底本は正字正仮名の国立国会図書館デジタルコレクションの同書の初版(昭和九(一九三四)年岡倉書房刊)(リンクは扉の標題ページ)を用いるが、加工データとして、所持する株式会社ウェッジ二〇〇九年発行の「蘆江怪談集」を使用させて戴く。ここに御礼申し上げる。『ウエッジ文庫』版が本底本と大きく異なるのは、ルビが大きくカットされていることである。本底本は、かなりルビが附されてあるが、総て採用し、( )で後に添えた。附け方から推理すると、これは、盧江が附したものと思う。異様に当たり前に読める漢字に、かくルビするのは、彼が新聞記者だった時代からの因果な癖だろうと、まずは考えるからである。それは、殆んど、底本の一行内にルビがない(全部がひらがな・カタカナの場合は除く)ことからの私の推定でもある。近代の新聞のルビは、一行の内に、ほぼ必ず、ルビが振られていたからである。或いは、蘆江は新聞小説を書いているように、ルビを確信犯的に振っているとさえ、私には思われるのである。但し、歴史的仮名遣の誤りがかなり多いが、これも上記の仕儀の影響だろう(明治中期以降は新聞の表記が既に口語表現化していたからである)。また、先行する箇所で振っていないのに、直後に振っているケースなども多い。しかし、後者は、ママ注記をすると、五月蠅いだけなので、やめた。また、「中」を「ちゆう」ではなく、「ちう」としたりする「ゆ」の脱落は、当時の文豪なども盛んに用いたので、誤りとはしなかった。なお、盧江の文章は、普通なら、句点にする箇所を、読点にしていることが多い。特に、直接話法の台詞では、その傾向が甚だしい。物によっては、会話文の最後には句点は打っていない(本「お岩伊右衞門」がそれ)。傍点「﹅」は太字に代えた。但し、踊り字「〱」「〲」は生理的に厭なので、正字或いは「々」に代えた。
なお、本電子化注は、二〇〇六年五月十八日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の二〇〇五年七月六日)、本ブログが本見未明、2,090,000アクセスを突破した記念として始動する。【二〇二四年一月三十日 藪野直史】]
蘆 江 怪 談 集
[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館の補修により、原本の表紙その他は視認出来ない。そこで、画像検索をかけたところ、オークション・サイト「aucfan」のこちらで、初版のそれらの画像を確認することが出来たので、それを元にした(以下の裏表紙・背も同じ)。その写真では、水色の雨が降る中、右下方に、小田原提灯が中央を上に曲げて、その黄色い蛇腹のそこから火が燃え上がって、怪しく右方向に流れている絵が配されている。この火は背を抜けて裏表紙に及び、同じ雨の降る中、稍右手に及んで螺旋を描いて人魂のような怪火となっている。上記標題は手書きで、目次の末尾によって、この表紙絵も題字も蘆江自身の手になるものである。]
版 房 書 倉 岡
[やぶちゃん注:以上は、裏表紙の下方に、ご覧の通り、右から左に記されてある。ポイントはごく小さい。]
怪 談 集 平 山 蘆 江
[やぶちゃん注:背。頭の「蘆江」は、ない。先に言った怪火は「集」の字の少し下を上に弧を描いて横切っている。]
妖
怪
七
首
序
に
か
へ
て
このつらを張りかへましたと本當らしく
狸
うそを月夜の腹皷
啼いてとほつた鴉の聲にだまされ
狐
ごころもよい月夜
迷兒の迷兒の人魂ひとつ團扇
人 魂
に打たれたほたる狩
ゆきつもどりつらめしさうにつめたい
幽 靈
月見る橋の上
化けて出さうな番傘一つやけで
一本足の傘
飮んでる屋臺見世
もう來る時分と時計の針にうらみを
ろ く ろ 首
言ってる待ちぼうけ
無理と依怙地は二人のかたき三つ目は
三つ目入道
うるさい人の口
昭和九年孟蘭盆の夜
蘆 江 生
[やぶちゃん注:以上は底本の、ここと、ここ。「妖怪七首」及び「序にかへて」(ポイント落ち)は、実際には、ご覧の通り、横書で右から左に書かれてある。
この後に、「蘆 江 怪 談 集 目 次」が続くが、これは、本文電子化の最後に配することとする。]
お 岩 伊 右 衞 門
[やぶちゃん注:目次の後の見開き左の第一話の標題ページ。なお、かく見開きでは、右端に「怪 談 集」の柱があり、その下方(五字上げインデント)にノンブルが漢数字で記され、左端には当該本文の標題が柱とされ、同じく、下方に同前の仕儀が成されてある。
以下、本文開始。]
一
四谷左門殿町に田宮(たみや)又左衞門といふお先手組(さきてぐみ)の同心が居た。妻に早く死に別(わか)れて、お岩といふ娘と親一人子一人の暮し、外に親類(るゐ)も緣者もなく、賴みにする友人(いうじん)もないので、賴(たよ)るものは金より外にあるまいと、又左衞門娘を思ふあまりに、朝夕(あさゆふ)の暮しを詰(つ)めても、金を殘す事を考へてゐた。
「お父(とう)さま、先ほど秋山(きやま)さんの仲間とどこやらの仲間と、家(うち)の前でいやな話をして居(を)りました。侍が金を溜(た)めるのは卑しい心掛(こゝろがけ)ぢや、侍といふものは譬(たと)ひ其日の御飯が食べられずとも啣(くは)へ楊枝(ようじ[やぶちゃん注:ママ。)で威張(いば)つてゐねばならぬものぢや、それほど卑(いや)しい金だのに、其れを溜(た)めるさへあるに、貸付(かしつ)けて利子の勘定(かんじやう[やぶちゃん注:ママ。])をするとは言語同斷などと申して居りました、私は腹(はら)が立つてなりませぬ」とお岩(いは)が云つた。
父は肌(はだ)ぬぎになつて、風通(かぜとほ)しのよいところで眼鏡をかけながら、頻(しき)りに内職の楊枝を削(けづ)つてゐたが、眼鏡(めがね)ごしに娘の顏を見て、
「何(なん)とでも云はして置くがよい、俺しは俺しの考(かんが)へでしてゐる事ぢや、お岩や、お前(まへ)はそのやうな事で腹を立てるが、今に思ひ當る事がある、餘人(よじん)は兎に角、私とお前との間には金(かね)がなくては何する事も出來(でき)まいぞ」と云つた。
暑い暑い七月の末の事である、額(ひたひ)の汗を前垂(まへだ)れで拭きながら、お岩は、
「思ひ當(あた)る事とは何でございます」と聞く。
「外の事でもない、私も最早(もはや)定命を過ぎた、尤も五十一歲といへば、男の仕事盛(しごとざか)りぢやが私の身體は元來(ぐわんらい)弱い、其の弱い身體では明日が日に死なうも知れぬ、若し俺(わし)が死んだあとで、お前一人では誰れに賴(たの)むところもない、殊には女の事故(ことゆゑ)、私の跡目(あとめ)をついでお扶持を頂(いたゞ)く事も出來まい、いづれは婿養子(むこやうし)でもして置かねば俺は死んでも死に切れぬ譯(わけ)、さゝ、其の婿養子(むこやうし)とてもこんな貧乏同心のところへ緣なきものゝ來やう[やぶちゃん注:ママ。]筈(はず)がないから、今の中に金でも溜めて萬一の杖柱(つえばしら)にして置かねばならぬといふのぢや、お前(まへ)も少しは其の心掛(こゝろがけ)をするがよい」と云つた、萬事(ばんじ)此調子である。
かういふ中で育(そだ)てられて來たお岩ゆゑ、自然又左衞門の心(こゝろ)が籠(こも)つて、物事につましい[やぶちゃん注:「儉(つま)しい。]事一通(とほ)りでない、紙屑は隣の家の前に落ちてゐても拾ひ集(あつ)めて置いて屑籠(くづかご)に入れる、臺所の仕事は打捨(うちす)てて置いても賃仕事(ちんしごと)をして單衣ものゝ仕掛を一針でも運(はこ)ばして置く、といふ風で、中々(なかなか)二十や二十一の女のやうではない。
かうして親子(おやこ)が氣を揃へて内職(ないしよく)に精を出してゆくほどに、めきめきと身上(しんじやう)の繰(く)りまはしはよくなつて行つてゐる、近所(きんじよ)や同役の噂(うはさ)では、田宮の家の身上は夥(おびたゞ)しいものである、貸付けた金だけでも千兩からあるに相違(さうゐ)ないとさへ噂してゐた、全く其の位(くらゐ)のゆとりはあるに相違ない。
親子がこんな話(はなし)をしてゐるところへ、勝手口(かつてぐち)から入つて來たのは近所に住んでゐる按摩(あんま)の宅悅である。
「おゝ宅悅(たくゑつ[やぶちゃん注:ママ])どのか、よう御座つた」と又左衞門が愛想(あいそ)よく迎へると、
「ハイ今朝、日影(ひかげ)の中に下谷まで參(まゐ)つて、二三軒利金(りきん)をとり集めて來ました、どうも早や、諸式(しよしき)が高くなつたからの、世間(せけん)が不景氣ぢやからのと勝手(かつて)な事を申しまして、思ふやうに利子(りし)を入れてくれませぬので弱ります」といひいひ帳面と引合せに、取集(とりあつ)めて來た貸金の利子を勘定(かんじやう[やぶちゃん注:ママ。])し始めた。
[やぶちゃん注:「四谷左門殿町」(よつやさもんどのちやう)は現在の新宿区左門町(グーグル・マップ・データ)。]
二
それを一々算盤(そろばん)で當(あた)つた上、又左衞門は定めた通りの日當(ちつとう)を宅悅(たくえつ)に渡してかう云つた。
「宅悅(たくえつ)どの、お前は本業の按摩で摑(つか)み上げる金より、俺の利金(りきん)の日當をとり上げる方が、餘程(よほど)多からう」
宅悅は一寸(ちよつと)いやな顏をしたが、
「ハイハイお庇樣(かげさま)で暮しが樂になりました、此節(このせつ)は夜仕事だけで、晝のお出入(でいり)は皆お斷して居ります位で」
「いや何(なん)にしても金(かね)の事ぢや」
「ほんに金がなければ世渡(よわた)りは出來ませぬ、金と申せば、今日は耳寄(みゝよ)りの話(はなし)を聞きましたが」
「耳寄りとは嬉(うれ)しいの、何處かに好い貸口(かしぐち)でもあるかな」と又左衞門は始めて楊枝削(やうじけづ)りの手を止めて宅悅(たくえつ)の顏を見た、お岩(いは)もお針の手(て)を止めた。
「いや貸口(かしぐち)ではござりませぬ、豫(か)ねて御心配なされたお岩さんの婿(むこ)どのでござります」
「あゝ聟か、持參金(ぢさんきん)でも持つて來る口(くち)があるのかな」
「いえ、持參金(ぢさんきん)とてはありませぬが、立派な腕(うで)を持つた浪人(らうにん)ものでございます、年(とし)は三十一、中々の美男(びなん)でございまして、聟(むこ)に參つてよいとか申して居(を)りまする」
「立派(りつぱ)な腕とは劍術かの、劍術なら左程(さほど)なくてもよいが」
「いえ、劍術(けんじゆつ)などではござりませぬ、とても御考(おかんが)へ及びにはなれますまい、大工が旨(うま)いのでございます」
「大工、ウムそれは面白(おもしろ)い、それはよい出世の緖(いとぐ)ちぢや、早速話を運(はこ)んでもらつてもよささうぢや、が、兎に角一度(ど)逢(あ)つて見たいものぢや」
「さ其處[やぶちゃん注:「さ、そこで」。]で金(かね)と申すのでございます、この浪人(らうにん)をよく知つて居りますのは、私の懇意(こんい)なもので、小股(こまた)くゞりの又市(またいち)といふ男でございます、これに少(すこ)しばかり握らせて口を利(き)かせたら、此緣談(えんだん)は屹度(きつと)成り立ちませう」
「うむ、それはさうしてもよいが、幾何位(いくらくらゐ)握(にぎ)らせるのじや」
「なあに二分か三分も握(にぎ)らせてやればウンと云はしてくれませう、併(しか)し下谷から運(はこ)んで來るのでございますから、左樣(さやう)私に一兩お預(あづ)け下さいまし、屹度(きつと)物にして參ります」
「一兩、するとお前が二分とつて、又市とやらに二分(ぶ)やらうといふ譯か」[やぶちゃん注:ここは一分金の小粒での換算。一両は小粒一分金で、四枚で、一両になる。]
「いゝえ、其樣(さやう)にはとりません、兎に角さうなさいませ、お岩(いは)さん、それはそれは好(よ)い男でございますよ」と宅悅(たくえつ)はそゝのかすやうにお岩の顏を見た、お岩は遉(さす)がに赤い顏をして下を向(む)いた。
[やぶちゃん注:「宅悅(たくえつ)どの、お前は本業の按摩で摑(つか)み上げる金より、俺の利金(りきん)の日當をとり上げる方が、餘程(よほど)多からう」ここから推定出来るのは、「晝のお出入(でいり)は皆お斷して居ります位で」と宅悦は言っているので、宅悦は、又左衛門に夜話を語りにちょくちょく訪れ、語りの序でに彼の内職の楊枝削りを手伝っているのであろう。
「小股(こまた)くゞりの又市」「小股潜り」は「甘言を弄して人をたばかること」を指す言葉で、所謂、詐欺行為紛いの小悪上手(こわるじょうず)の意である。「又市」とあるが、宅悦同様の視覚障碍者で按摩のように見えるが、次の段の彼の様子と、悪手の仕込みなどを考えると、或いは、普段は盲目の按摩を演じて、その実、目明きという設定かも知れない。]
三
宅悅は兎に角一兩の金を又左衞門に預(あづ)かつて、又下谷へ引きかへした、小股(こまた)くゞりの又市といふのは有名な口前(くちまへ)の旨い男である、これに一兩の金(かね)を見せ山分けといふ相談(さうだん)をして、引受けさせる事にした。
又市は旨(うま)く行つたら、もう少し利分(りわけ)を貰はねばいやだと念(ねん)を押して置いて。
浪人者(らうにんもの)といふのは又市の家の隣長家(となりながや)に住んでゐる伊右衞門といふ男である、其日(そのひ)のたつきを助ける爲に杉板(すぎいた)を切つて塵(ちり)とりを造つてゐたが、又市の顏を見ると、
「又市どの、珍(めづ)らしい、よく來てくれた、一番(ばん)昨日の勝負(しやうぶ)をつけようか」と云ふ。
「いや今日は將棋(しやうぎ)どころではない、お前樣の爲めに相談事(さうだんごと)で來たのぢや」
「ふむ私の相談事(さうだんごと)とは」
「外でもない、お前、聟(むこ)にゆく氣はまいか、金なら千兩ぐらゐの遊(あそ)び金がいつでもあつて、親類緣者(しんるゐえんじや)のかゝり合ひがなくて、父親(ちゝおや)一人子一人といふところぢや。それで娘は二十一、技倆(ぎりやう)がよくて人柄(ひとがら)がよいといふのだが、どうぢや、お前かいやだいふなら、他(ほか)の方で諸が進(すゝ)むかも知れない、父親(ちゝおや)はまだ五十一ぢやが、もう年中病身(びやうしん)の事ゆゑ、いつ死ぬか判(わか)らぬ、死ねばあとは千兩の現金を抱(だ)いて、跡式を讓つて貰(もら)つて、お扶持がもらへて、好い女房(にようぼ)を抱いて、まづ好(よ)い事づくめといふ次第(しだい)、芥とりの尻を叩いてなど居ないで、よく考へさつしやれ」[やぶちゃん注:「芥とり」「ごみとり」或いは「ちりとり」だが、前の地の文(作者の表現)で「塵(ちり)とり」としているのに対し、小股潜りの又市の焚きつける台詞としては、「ごみとり」の方が効果的であろう。]
「成るほど結構(けつかう)な話だ、もう少しよく聞かしてくれ」と伊右衞門は一膝(ひざ)のり出して聞(き)いた。
又市(またいち)の話を一通り聞くと、伊右衞門は考へた、今の世に浪人(らうにん)が奉公先きを探(さが)すのは中々骨が折れる。併し同心(どうしん)を勤めてゐて、出世(しゆつせ)の蔓[やぶちゃん注:「つる」。]を探すのは、浪人(らうにん)でゐるよりも早からう、そこで入聟(いりむこ)といふものについて考(かんが)へて見ねばならぬが、入聟(いりむこ)が嫌な事は行つた先の縁者(えんじや)が多い為めだ、それがなくて親(おや)一人子一人、殊に親は間もなく死(し)ぬとすれば、死んだあとは夫婦か(ふうふ)かけ向ひ[やぶちゃん注:「差し向かひ」と同義。]、其處迄行くと入智も貰(もら)つた嫁も差別(さべつ)はなくなつて了ふ。これもよし、さて肝愼(かんじん)[やぶちゃん注:「愼」はママ。]の嫁だが、これからは父親一人娘一人(むすめひとり)とあれば、つまり若い時から父親の世話(せわ)を一人でしてゐるのだから万事に男の身のまはりの事は氣(き)が付(つ)いてくれるであらう、殊(こと)に同心をしてゐて金を溜(た)める位の父親なら、娘を仕付(しつ)ける上の心掛もよからう。行儀作法(ぎやうぎさほう[やぶちゃん注:ママ。])も正しからう、世帶(しよた)向の事も馴(な)れてゐて、娘から直ぐに世話女房に早變(はやがは)りをする資格もあらう。甘やかす母親(はゝおや)に早く分れた以上、着る物の贅澤(ぜいたく)をいふ道も知るまい、親一人子一人に馴(な)れてゐるのなら人懷(ひとなつ)こくて、良人(をつと)のいふ事もよく聞くであらう、とこれだけの判斷(はんだん)をした、又市は豫ねてから口前の旨(うま)い男だから又市の口から聞く事は當(あて)にならぬとせねばなるまい、只(たゞ)親(おや)一人子一人といふ口さへ違(たが)はねばそれでよい、これは考(かんが)へるまでもない。
「入智(いりむこ)承知(しようち)した。いつでもよいから先方の心を聞(き)いて貰(もら)ひたい」と云つた。
餘り返事(へんじ)が早いので、又市は少し氣の毒(どく)な氣がした、これで二分とつて、尙ほ幾何(いくら)かの成功報酬を貰(もら)ふのは難有(ありがた)すぎるとも思つた。
「本當(ほんたう)かね、いよいよといふ際になつて否(い)やと云ふ事はあるまいの」
「どうしてどうして否(い)やどころか、望んでも行きたい、世話(せわ)して下されたら、お禮ぐらゐは幾分(いくぶん)して上げてもよい」
「貴郞(あなた)にまでお禮をいただいては濟(す)みませぬ、それでは早速(さつそく)運(はこ)びますから」と答ヘて置いて待(ま)たしてあつた宅悅に、
「どうも骨(ほね)を折らしたよ、傑(ゑら[やぶちゃん注:ママ。])い賴みで、仕方がなしに大骨折つて口說(くど)き落しては來たが、いやばやどうも、よほど禮金(れいきん)を貰(もら)はねばなるまい」と云つた。
宅悅(たくえつ)は氣にも止めず、空々(そらぞら)しく默頭(うなづ)いて、
「いやさうであらうさうであらう、それで結局(けつきよく)よいといふ事になつたかの。」
「やつとの思ひで承知(しようち)をさしてやつた」
「それは御苦勞(ごくらう)、それでは又もや御氣の變らぬ中(うち)に、どしどし運ぶとしませう」と威勢(ゐせい)よく歸つて、
「いやどうも見れば見るほどよい聟(むこ)どのでござります、又市(またいち)が申しますには、當人聟に行く事は承知(しようち)して居りますが、此方樣(こちらさま)へ上る事まで承知させるには一寸(ちよつと)骨が折れます、實はその浪人(らうにん)と申すのが思ひの外手硬(てごは)くて、いやいや小糠(こぬか)三合持つたら聟には行くなと申す事がある、慮外(りよぐわい)なことを申すなと[やぶちゃん注:ママ。「ど」の誤記・誤植が疑われる。]、頭ごなしにきめつけて、偉い見幕(けんまく)だつたのを又市(またいち)と申すものがいろいろに宥(なだ)めて、やつとの事で承知(しようち)をさせたので御座いますから、私は構(かま)ひませんが、又市へ、もう少し色(いろ)をつけてやつて下さるまいか」といふ、
「ハヽヽヽ、いづれさう來るだらうと思うた、よしよし話さへ纏(まと)まつたのなら、其上で何(なん)とかしてやらう」
「何とかしてやるでは困(こま)ります、如何でございませうもう一兩(りやう)下(くだ)されませぬか、さうすれば、其れを二つに割(わ)つて二分は浪人衆(らうにんしう)のところへ手土產を買つて行き、二分は又市(またいち)と申すものにやりたいと思ひますが」
「又一兩(りやう)か、話がついてから手土產(てみやげ)を持つて行くにも及ぶまい」
「いえ、それが、その又市が前に參(まゐ)ります時に、自分の貰(もら)ひ分の中から、何か買(か)つてまゐつたのでございますから」
「ハヽヽまァ仕方(しかた)がない、ではこゝに一兩」と又左衞門(またざゑもん)が出してやる金を受取(うけと)ると、宅悅大喜びで、又これを半分は着腹(ちやくふく)、半分だけは又市に渡(わた)した。
それは兎(と)に角(かく)、かういふ手順(てじゆん)で伊右衞門はお岩の聟になつて、又左衞門の家(うち)のものとなつた。
四
宅悅の言葉の通り伊右衞門は中々好い男(をとこ)であつた、そして隨分(ずゐぶん)もの事が器用な方で、軒先(のきさき)に雨洩りがするといつては、一刻(とき)[やぶちゃん注:二時間。]ぐらゐの間に雨もりを直す、垣根が壞(こは)れたといつては修繕(しうぜん)するといふ風で、くすぼりかへつて居た田宮の家は伊右衞門(いゑもん)が來てからは、めきめきと晴(は)れやかになつて來た。
お岩の喜(よろこ)びは勿論、又左衞門は一層(そう)喜(よろこ)んで此の分ならばと思つて、老年に付、聟養子伊右衞門に跡式を讓(ゆづ)つて隱居をしたいといふ願ひを上げた、それが間もなくお聞屆けになつて、又左衞門(またざゑもん)は例の貨付金の利子の勘定(かんじやう[やぶちゃん注:ママ。])ばかりにとりかゝる、伊右衞門は二代目で組頭伊藤の家へ出仕(いゆつし)をすると、伊藤の家(うち)では伊右衞門が大工の業[やぶちゃん注:「わざ」。]の器用(きよう)なのと、さつぱりした男振(をとこぶり)とに喜んで一にも田宮、二にも田宮(たみや)と、受けのよい事一通(とほ)りではない。
此の通り萬事(ばんじ)に都合はよかつたが、一人張合(はりあひ)のないのは伊右衞門である、親(おや)一人子一人で育(そだ)つたお岩ならば、これこれであらうと、見當(けんたう)をつけてゐたのにも拘(かゝは)らず、事實は反對で、親子揃つて錢勘定好(ぜにかんじやうず[やぶちゃん注:ママ。])き、それに凝り始めると三度の食事の世話(せわ)さヘしてくれぬ有樣で、一向(かう)に家の中が面白くない、萬事(ばんじ)がやり放しに出來てゐるので、伊右衞門(いゑもん)としては、女房が出來てから、女房(にようぼ)と父親の世話(せわ)まで自分が燒かねばならぬほどのしだらなさゆゑ、是れでは寧(むし)ろ獨りで居た方がよかつたとさへ思ふ事(こと)ばかりである。が、現に固まつた緣を格別(かくべつ)の理由もなしに出てゆく譯にも行(ゆ)かず、殊(こと)には食べるに不自由はなくて濟(す)むので、何にしても我慢(がまん)をせねばならなかつた。[やぶちゃん注:「しだらなさ」「だらしなさ」に同じ。]
あとの心配(しんぱい)がなくなつて見ると、もうがつかりしたものか、程(ほど)なく又左衞門はめきめき身體(からだ)が弱つて其の年の秋立(あきた)つ頃に眠るが如く死んで了(しま)つた。あとは夫婦かけ向ひ、女房(にようぼ)のお岩は相當の不伎倆(ぶぎりやう)ではあるが、伊右衞門は身についた緣(えん)と思つて、隨分大事にかけて情(じやう)のある夫婦ぐらしにならうと思ひ始(はじ)めた。
すると、金貸(かねか)しをするほどの親の手に育(そだ)つたお岩である、今までは血を分けた父親(ちゝおや)が居たが、亭主となつた伊右衞門は、元々(もともと)赤の他人である。殊に美男(びなん)であつて見れば、いつ何時浮氣(うはき)などを起されて、自分(じぶん)の身は捨てられるかも知れぬ。捨(す)てられた時に、女の身として何よりも賴(たの)みになるのは金(かね)、これはかうしては居られぬ、もつともつと稼(かせ)いで、金を溜(た)めて置かねばなるまいと考へた。
尤も父が死(し)んで後は、伊右衞門に其氣がないので金貸(かねか)しの方はすつかりと止(や)めて了つてある、良人が止(や)めたものを、女房が無理(むり)に始める譯にも行かぬので、ある時お岩は針仕事(はりしごと)の出來るを幸ひ、何處かのお邸(やしき)へお針に行く事にしようか、良人(をつと)は大方伊藤の家へ手傳(てつだ)ひにばかり行つてゐるので殆(ほと)んど年中留守(する)といつてもよい位、して見れば、自分一人が家に居たところで、何處かの邸(やしき)にお針に通(かよ)つたところで、格別の相違(さうゐ)はない、その事その事さうして今の中に金(かね)を溜(た)めて置きませうといふ事に心(こゝろ)づいた、ところでこれも宅悅(たくえつ)のお世話である。
「何處か、氣輕(きがる)な家はあるまいか」といふと、
「お安い御用(ごよう)、それならば問(と)ひ合(あは)して見ませう」
と引受(ひきう)くれ、やがて知らしてくれたのは、
「三番町の餘(あま)り大きくないお邸(やしき)でございますが、これは通ひでなく、先方へ住(す)み込(こ)んで貰ひたいと申(まを)すのでございます」といふ。
伊右衞門にこの事(こと)を相談(さうだん)すると、
「いやそれは惡(わる)い、夫婦の口が過(す)ごせぬならば兎も角、かうして樂(らく)にやつてゐるのに、何も女房(にようぼ)までお針奉公(はりほうこう)をするには及ぶまい」と云ふ。
「お前は私の身(み)の上(うへ)を思はぬゆゑ、さういふ思ひやりのない事を仰(おつし)やるぢや、私に一人でも身よりのものがあればよし、何もない私(わたし)ゆゑ、若しお前に捨てられるやうな事(こと)でもあつたら、賴(たの)むものは金(かね)ばかりゆゑ、何でも今の中に、一生(しやう)遊(あそ)んで暮せるるだけの金を私が持つて居ねば心細(こゝろぼそ)いから、どうぞ當分(たうぶん)の内は私を稼(かせ)がして下され」と云ひ張つて承知しない。伊右衞門は途方(とはう)にくれもしたが、我女房ながら呆(あき)れ返(かへ)りもした。餘り疑(うたが)ひ深い考へやう、それほどに思ひ込んでゐるものを何(なん)と云つたところで仕方(しかた)はあるまいから、
「それではお前(まへ)の氣の濟むまでやつて見るさ」といふより外(ほか)なかつた。
間もなく、お岩(いは)は三番町の邸(やしき)といふのへお針奉公(はりほうこう)に住み込んだ。
[やぶちゃん注:「三番町」しばしばお世話になるサイト「江戸の町巡り」の「三番町」によれば、『旗本のうち、将軍を直接』、『警護するものを「大番組」と呼び、大番組の住所があったことから「番町」と呼ばれた』。三番町は『江戸期は「市ヶ谷御門内三番丁通」の通称』であったとされ、現在の『千代田区九段北三・四丁目、九段南三・四丁目』に相当するとあった。この附近である(グーグル・マップ・データ)。]
五
女房(にようぼ)はありながら獨身(どくしん)同然の暮しをせねばならぬ伊右衞門は、我れながら馬鹿々々(ばかばか)しくなつて來た、いつそ此家(このうち)を出て了はうかと思つた事も度々ではあるが、伊右衞門とても行くべき家(うち)は持たない、まアまアこゝに居てお扶持(ふち)を貰つてさへ居れば、其日の暮しに不自由はない、あんな賴もしくない、金で固(かた)まつた女房など、居ると思へば腹(はら)が立つが、居ないと思へば何(なん)でもない、と思ひ返しては、非番(ひばん)で家にゐる時などは、近所の子供(こども)などを集めて呆けた[やぶちゃん注:「ほうけた」と訓じておく。]事を云つて暮してゐた。
其の近所(きんじよ)の子供といふものゝ中に、九尺長家[やぶちゃん注:「ながや」。]の娘(むすめ)ではあるが、常盤津(ときはづ)の稽古(けいこ)をして、何れこの二三年には深川の藝者(げいしや)に出ようかと仕込(しこ)まれてゐるお花といふ子が居た、多勢(おほぜい)遊びに來る娘子供の中に、お花(はな)はとりわけ伊右衞門に馴(な)ついて
「叔父さん叔父さん」と云つては、伊右衞門が細工(さいく)ものをしてゐるところへやつて來て、木屑(きくづ)を積み上げたり、鉋屑(かんなくづ)で提灯の形を造(つく)つたりしてゐた。
秋も大分(だいぶ)更(ふ)けた日の日向戀しい頃である、椽先(えんさき)に伊右衞門が長々とごろ寢(ね)をして、ものの本を讀んでゐるところへお花(はな)がやつて來た。
「花(はな)ちやんか、どうしたものぢや、今日は大層(たいそう)美くしう髮が結(ゆ)へて、美い[やぶちゃん注:「うつくしい」。]着物(きもの)を着てゐるではないか」
「あい、深川(ふかゞは)まで行つて來(き)ました」
「深川へ、八幡(まん)さまへお參(まゐ)りか」
「いえ、八幡(まん)さまへもお參りしましたが、今度來月(らいげつ)から私が行きます家に、母樣と話(はなし)をしに行つたのでございます」
「來月から此方(こつち)には居なくなるのか」
「あい、羽織衆(はをりしう)に仕込んで貰(もら)ひますの」[やぶちゃん注:「羽織衆」は「羽織藝者」で、江戸深川の芸者の称。深川芸者は客席に羽織を着て出たところから言う。「辰巳藝者」「羽織」とも称した。]
「むゝ、それは名殘惜(なごりを)しい、羽織になつたらさぞ男(をとこ)をたぶらかすであらうの」
「いえ何だか存じませんが、好い着物(きもの)を着て、好な[やぶちゃん注:「すきない」。]三味線(みせん)[やぶちゃん注:「しやみせん」或いは「さみせん」。]を彈いて遊(あそ)びますといふ事です。」
「はゝゝ、それに違(ちが)ひない、併し、さうなつたら叔父(をぢ)さんとこへも遊びには來(こ)られなくなるの」
「いゝえ、それも遊(あそ)びに參りますわ」
「いや、さうは行(ゆ)くまい」
「何故(なぜ)でございます」
「道が遠いもの、迚(とて)もお花坊一人では來られまいし、來る暇(ひま)もあるまい」
「それなら私(わたし)は、もう深川へ行くのを止(や)めにしませうか」
「いや止(や)めるには及ばぬ」などゝ他愛(たあい)もない話をして居るところへ、裏口(うらぐち)から、
「今日(こんにち)は」と入つて來たのは莨屋茂助(たばこやもすけ)といふ莨賣りである。
「や、ま花坊(はなぼう[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。])、大層(たいそう)美くしうなつて、田宮の叔父さんに可愛(かあい)がられて貰(もら)ひに來なすつたかな」
「あい」
「はゝゝ、あいは恐(おそ)れ入つたの」と伊右衞門と顏を見合(みあは)せて笑(わら)つたが、
「いや、それよりは、田宮さま、私(わたし)今から番町の方まで參りますが、御新造(ごしんざう)に御用はありませんかの」といふ。
「いや別(べつ)に用はない、が、今度はいつ頃戾(もど)つて來るかと聞いて居(ゐ)た、と云つて置いてくれ」
「ハイ畏(かし)こまりました、そして莨の御用(ごよう)はござりませぬか」
「さうさの、少(すこ)し貰つて置かうか、花坊(はなぼう)、あそこの棚(たな)にある莨の入れものを出して、あの叔父さんにつめて貰(もら)つてくれぬか」
「あいあい」と姿(すがた)は相當に大きい方だが、仇氣(あだけ)ない返事をして立上つた。[やぶちゃん注:「仇氣(あだけ)ない」ここは、「妙に勿体ぶったところがなく、素直に。」の意であろう。]
六
莨屋(たばこや)茂肋が田宮へ來たのはお晝近(ひるちか)い頃であつたが、莨を賣りながら、まはり廻(まは)つて三番町へ來た頃は、もう秋(あき)の日の暮れ易(やす)く、一つ小袖に薄(うす)ら寒さをおぼえる頃であつた。
お岩の上つてゐる小旗本(こはたもと)の勝手口へ廻つて、
「お針(はり)さんはおいでゞございますか」と聞(き)くと、直ぐに出て來たのがお岩(いは)であつた。
「茂助(もすけ)さんか、何ぞ傳言(ことづて)でも聞いて來たのかえ」
「ハイ、別に傳言(ことづけ)といふではございません、今度お戾(もど)りなさるのは、大方いつ頃かと聞(き)いておいてくれとの事でござりました」
「今度(こんど)戾(もど)るのを、あゝさうかえ、其れは今からきめる事もなるまいが、何(いづ)れ十日ほど經(た)つたらと云つて置(お)いて下され、家に何か變(かは)つた事はありませぬかえ」
「ハイ、少(すこ)しもおかはりなく、いつものやうに、お花(はな)さんを相手に、安氣(あんき)さうにして居られました」[やぶちゃん注:「安氣(あんき)さうにして」のんびりと気軽な感じで。]
「お花(はな)さんとは」とお岩は險(けは)しい目つきをした、お花の家はお岩が番(ばん)町へ來てから引越して來たので、お岩(いは)はお花が何だか知(し)らなかつた。
それを莨屋茂助(たばこやもすけ)が十四五の小娘ですと平たく云へば左程(さほど)でもなかつたのだが、
「御新造(ごしんざう)さん、もうお忘れですか、あのそれ近い中に藝者(げいしや)に出ようとしてゐる、あの奇麗(きれい)な可愛い子です」と云つたので、お岩(いは)はカツとなつた。
「藝者(げいしや)になる子、其れがいつもいつも遊(あそ)びに來てゐますのか」
「はい、いつも來(き)てゐますよ、大層伊右衞門さんに馴(なつ)いて、一日に一度お宅(たく)へ上らねば、忘れものをしたやうだとさへ申します」
「えツ、其れほど繁々(しげしげ)來て居るのですか」と云ふ聲が怖(おそ)ろしいほど癇(かん)ばしつて居たので、茂助(もすけ)は始(はじ)めて氣がついた。飛んだ事を云つて了つた、さては間違(まちが)ひをされたのかと、
「いえ、御新造(ごしんざう)さん、お花ぼうと云つても、まだやつと十四か十五の小娘(こむすめ)でございますよ」と云つたがもう間(ま)に合(あ)はない。
「薄情(はくじやう)もの奴[やぶちゃん注:「め」。]、私が一寸留守(るす)の間に、もう其の樣なものを引(ひき)ずり込んで、えゝ、どうしてくれよう」と呆氣(あつけ)にとられる茂助を突飛(つきと)ばして勝手口からプイと出(で)た。
途端(とたん)、
「お岩や、お岩や」と奧から人の呼ぶ聲(こゑ)がする、其の聲が耳に入ると、遉(さす)がに、それを聞き流(なが)しにしておくわけには行かなかつた。先へ二足(あし)、あとへ一足といふ風にして迷(まよ)つてゐたが、奥の呼び聲はいよいよ高(たか)いので、不承々々(ふしやうぶしよう)に立戾つた。戾りしなにも助(もすけ)をぐつと睨(にら)んで何か云ひたさうに唇をぶるぶると慄(ふる)はしたが、併し何にも聲は出なかつた。
茂助は只(たゞ)もう這々の體[やぶちゃん注:「はうはうのてい」。]で逃(に)げ歸(かへ)つた。
七
其晚(そのばん)、一通りの用を濟(す)ますと、お岩は邸の奧樣(おくさま)の前へ出て、
「甚だ相濟(あひす)みませんが、今晚一寸宿許(やどもと)まで行つて參りたいと思ひますが、おゆるし下(くだ)さいませうか」と云つた。
邸でもお岩を亭主持(ていしゆもち)と知つてゐるので、快(こゝろよ)く
「あゝ別(べつ)に用もありませんからゆつくり行つておいでなさい、家(うち)へゆくのなら、も少し早(はや)く行けばよかつたものを、兎(と)に角(かく)、この暗さに一人では物騷(ぶさう)ゆゑ、三平に一緖(しよ)に行つて貰ふ事にしなされ」と云つてくれる。が、
「いえ、近(ちか)いところでございますゆゑ、つい駈(か)けて參りますれば」といふのを、奧樣(おくさま)は三平を呼んですぐにお岩(いは)を送(おく)つて行つてやるやうにと云つた、
お岩はお氣の毒でございます、お暇を缺(か)せまして濟みませんと繰(く)り返(かへ)し繰り返し出て行つた。そして三平と暗(くら)い暗い、土手三番町を四谷御門(ごもん)橫へ出る間にも、すみませんすみませんと云(い)つてゐた、その間は當(あた)り前のお岩であつたが、四谷御門を出て、濠(ほり)の側の藪(やぶ)だゝみへかからうとした時、改まつた調子(てうし)で、[やぶちゃん注:「藪(やぶ)だゝみ」藪が幾重にも重なって茂っている所。]
「三平(ぺい)さん、男といふものは少し別(わか)れてゐれば、もう女房(にようぼ)の事なんぞは、忘れて了ふものでせうか」と云ひ出(だ)した。
「妙な尋(たづ)ねものぢやな、一體何故(なぜ)其のやうな事を聞(き)きなさる」
「何故(なぜ)でもない、只男の心持(こゝろもち)を聞きたいだけなのでござんす」
「何の事か知(し)らんが、少しぐらゐ別(わか)れて居たところで女房を忘(わす)れる事があるものかね」
「三平さん、本當(ほんたう)の事を云つて下(くだ)され」
「本當(ほんたう)の事を云つてるのではないか、決して女房(にようぼ)を忘れるやうな事はありはしない」
「いゝえ、さうではない、忘(わす)れるに違ひはござんせん、お前は男(をとこ)ゆゑ、あの人でなしの肩(かた)をお持ちになるに相違(さうゐ)ない、屹度(きつと)さうぢや」
「いや、其樣(さやう)な事はない」
「いゝえ、さうぢやさうぢやさうぢや」と立(た)てつゞけに云つたかと思ふと、お岩は見付(みつけ)の石垣に額を押(お)しあてゝ啜(すゝ)り上げながら泣(な)いた。
仲間(ちうげん)の三平は當惑(たうわく)しながら、始めは一言二言宥(なが)めにかゝつたが、お岩は身(み)もだえをして泣き聲(ごゑ)を上げた。
三平は呆氣(あつけ)にとられたが、面倒(めんだふ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。])になつたと見えて、
「お岩さん、其樣(そん)なところで泣いてばかり居ては身體(からだ)が冷えるによつて、早(はや)く行かう、さあ私が一緖(しよ)に行つて、若しお前の御亭主(ごていしゆ)に不審な事があつたら、よくよく問(と)ひ訊(たゞ)して見るゆゑ、往來中で泣く事(こと)はお止めになされ、さあ、早(はや)く行かう」と肩(かた)に手をかけた。
お岩はその手を搖(ゆ)り落(おと)して、身もだえしたが、三平が面倒(めんだふ)がつて、手をとつて引立(ひきた)てようとすると、それを振(ふ)り切つて、三平の袖(そで)の下をくゞりぬけながら、見付外の藪(やぶ)だゝみへ駈け込んだ。
「お岩さんお岩さん、無暗(むやみ)に駈け出しては危(あぶ)ない、濠へ落(お)ちると危ない」と云ひ云うひ追かけると、
「落(お)ちて死ねば本望(ほんまう)ぢや、打棄つて[やぶちゃん注:「うつちやつて」と訓じておく。]置いておくんなさい、私(わたし)はもう伊右衞門どのに捨(す)てられたのぢや、歸(かへ)る家もありはしない、いつそ濠(ほり)へでも落ちて死んだがましぢや」と云ふ聲が半町(はんちやう)[やぶちゃん注:五十四・五〇メートル。]ほども先で聞こえたが、四邊(あたり)の暗さと藪(やぶ)だゝみの茂みとで、身體は何處にあるか判(わか)らなかつた。
「お岩さん、其樣事(そんなこと)ばかり云つてないで、私が困(こま)るから困るから」と三平がお岩の聲(こゑ)をたよりに追かける時には、もうお岩は返事(へんじ)も何もしなかつた。
三平は「お岩(いは)さんお岩さん」と云ひ云ひ其處ら中(ぢう)をかけまはつたが、何處へ駈(か)け込(こ)んで了つたものか、更に行方(ゆくゑ[やぶちゃん注:ママ。])は知れなかつた。
約(およ)そ半時も探したが、遂にお岩のゐどころは判(わか)らなかつた、三平は悄々(しほしほ)として邸へ戾(もど)つて見たが、お岩は戾(もど)つてゐなかつたらしいので、又其の足で左門町(さもんちやう)まで行つて見た。
左門町の田宮(たみや)はもうぴつたり戶が閉(しま)つてゐたが起して聞くと、伊右衞門はびつくりして始終(しじう[やぶちゃん注:ママ。])を聞いた。それから今一まはり見付外(みつけそと)を探したが、遂にお岩の姿は何處(どこ)にも見えなかつた。
翌日(よくじつ)になつても、別に濠(ほり)の中からお岩らしい死骸が浮び上つたといふ噂さへなかつた。
全く行方は知れなくなつたのである。[やぶちゃん注:行頭の一字空けは底本では、ない。誤植と断じて特異的に訂した。]
三日ほど經(た)つた或る星の影(かげ)さへ見えぬ夜、四谷見付を通る人の目(め)に、藪(やぶ)だゝみの上で、繪にかいた鬼女(きぢよ)のやうな顏がありありと見えたので、其人は氣絕(きぜつ)をするばかりに驚(おどろ)いて、手近の藥屋(くすりや)灰吹屋へ飛(と)び込(こ)んで、
「助(たす)けてくれ」と云つたといふ。
これを手始めに、四谷見付で女の幽靈(いうれい)が出るといふ噂(うわさ)が立ち始めた。
伊右衞門が風邪引(かぜひき)ともつかず、氣病みでもなくて大熱の往來(わうらい)するのに苦しみ始めたのは更(さら)に半月經(た)つてからの事(こと)であつたといふ。
[やぶちゃん注:「四谷見付」江戸城四谷見附跡(グーグル・マップ・データ)。
本篇は、所謂、「四谷怪談」物(当該ウィキ参照。本篇も「小説」のリストに挙がっている)であるが、従来の、いかにも創作見え見えの恨みの経緯と、波状的な怪奇てんこ盛り現象を主軸にした「四谷怪談」物とは、全く異なった実説的小説として語られ、無理のない事実経過が淡々と語られ(ルビが五月蠅いが)、底本では、最後の「七」のコーダの七行にのみ、怪異が記される。私はとても好感が持てる作品である。安っぽい当今の「お化け屋敷」的「四谷怪談」は、私は、昔も今も、大嫌いである。]
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