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2024/01/06

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「火の玉」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 火の玉【ひのたま】 〔春波楼筆記〕今より二十七八年も過ぎし事にて、芝愛宕<東京都港区芝内>の下に村尾権之助とて、小十人組にて、居宅を椛町《かうぢまち》法眼坂《はふげんざか》<千代田区内>に、人の半ば建てたる家を買ひ取り、また建てたして住みけるに、小身なる者故に、権之助夫婦と嫡子二十三歳、弟は十三四にて、下女一人仕ひけるが、ある時、五月淋雨(りんう)[やぶちゃん注:以下に示す活字本では『五月雨(さみだれ)』となっている。]、日々降りける時、日暮下女泣きて曰く、今引窓を火の玉飛びけりと云ふ。皆聞きて誠なりとせず。その翌日も雨降り、三男玄関の後《うしろ》に部屋を造り、爰《ここ》に書を読み居《ゐ》ける時、日も暮れかゝりける故、障子を開き見れば、長《たけ》一丈ばかりに見えて、白髪を乱し、眼《まなこ》は金《かね》の如く、手に火の玉を持ち、腰切《こしぎり》の衣を著《き》、だんだんと進み来《きた》る。彼《か》の童子脇差を以て貫き打ちにしけり。夫《それ》なりに気絶しぬ。その音に皆々おどろきて行き見るに、鞘は手に持ち脇差の身は向うへ投げたり。何故《なにゆゑ》と問ふに、右の如く咄しけり。この庭は法眼坂の下にてがけなり。普請の時、狐の穴ありしを埋めしに、必ず古狐《ふるぎつね》のしわざならんと、その翌日吾宅へ父子ともに来たり。直《ぢか》に化物に出逢ひし者に聞きしは初めてなり。

[やぶちゃん注:ここは一字空けで、次の別な書からの引用が続いているが、本篇は多数の話をカップリングしていて、非常に長い(底本三段組みで約五ページ分になる)ため、改行し、注を挟む。以下同じ処理をするので、注さない。

「春波楼筆記」本書では初出。江戸後期の画家で蘭学者としても知られる司馬江漢(延享四(一七四七)年~文政元(一八一八)年)の晩年六十五歳の時に刊行された随筆。稿自体は文化八(一八一一)年四月から十月にかけて成った。江漢その人が、和漢洋の学に通暁した当時第一級の知識人であったため、その該博な知識が、熟年の思考の中で見事に結実している。全体が長短二百十余の節からなり、江漢の自叙伝・人間観・人生観・社会観等をはじめ、「西洋創世紀」の抜き書き、「伊曽保(いそほ)物語」の引用など、幅広い西洋文化受容の初期的形態が窺われ、興味を惹く。本書は早くに『百家説林』や『有朋堂文庫』に収められ、読者の注目を集めた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの『名家随筆集』下(大正三(一九一四)年有朋堂文庫刊)のここで、正字表現で視認出来る。

「芝愛宕」「東京都港区芝内」この中央附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「椛町法眼坂」現在の南法眼坂。]

〔甲子夜話巻七〕天明の末、京師大火せしとき、延焼して禁闕《きんけつ》<皇居の門>に及ばんとす。乃《すなは》ち遷幸あらんとして、姑(しばら)く鳳輦(ほうれん)を見あはせられしに、四面の火燼《くわじん》湧くが如く、その中《なか》大きさ毬《まり》の如く火《ひ》何方《いづかた》よりか飛び来《きた》る。公卿皆危ぶみ看(み)る中《うち》に、その燼、内侍所(ないしどころ)の屋上《やのうへ》に墜ちんとして、屋上いまだ三四尺なる程にて、砕けて四方に霏散(ひさん)せり。諸卿これを見て、則ち宸輿(しんよ)を促して宮廷を出《いだ》させ玉ひしとなり。時に皆曰く、これ内侍所の神霊の所為なるべしと。嘗て目撃せし人より所ㇾ聞《きくところ》を記す。

[やぶちゃん注:私の「甲子夜話卷之七 19 禁裡炎上のとき内侍所神異の事」を見られたい。]

〔折々草秋の部〕庚寅<明和七年>の七月十まり八日[やぶちゃん注:「まり」は「餘(あま)り」の略。明和七年七月十八日。閏六月があったため、グレゴリオ暦では一七七〇年九月七日である。]の夜、戌《いぬ》の三つ[やぶちゃん注:午後九時頃。]ばかり、西の方《かた》より丸き二咫(ふたあた)ばかりなる火の玉の飛出でて、北東をさして行く。月の影のいと白くてあるに、これが光ぞ殊に明《あか》く照り満ちて、塵埃(ぢんあい)だに見えわきつゝ。かゞよひわたりて通りける。さてこれを見しとふ人々ぞ己《おの》が向き向きなる。或人は北野<京都市上京区>の方《かた》より光り出でて、室町の一条辺に落ちたりともいひ、或人は堀川の二条辺より飛上りて、寺町東に落ちたりなどもいふ。おのれ等は何にかは紛れて見ざりき。また鴨河の辺より見し人は、唯《ただ》東を指して比叡《ひえ》の山をも飛超えて通りつなどもいふ。その後《のち》我友なる石川何某《なにがし》が語りき。この人はその頃伊勢の菰野《こもの》<三重県三重郡菰野町>[やぶちゃん注:鈴鹿山脈の東山麓。三重県三重郡菰野町(こものちょう:グーグル・マップ・データ。以下、無指示のものは同じ)。]に行きてありしに、かの光る物は、戌の三つばかりならむ、西北の角(すみ)より飛出でて、地よりは十丈《とつえ》ばかりも空を北東に向ひて飛行《とびゆ》く。その月夜明かりしが[やぶちゃん注:所持する「新日本古典文学大系」版(後注参照)では『其夜月あかゝりしかば』。]、人みな寝(い)ねがてにして、外に立ちて遊び居りし程に、大方の人は隈《くま》なく見き。殊にゆうゆう[やぶちゃん注:同前では、『ゆらゆら』。]と飛行きしかば、つらつら見しといふ。さてその向ひたる大さは菅笠ばかりなり。横様に見し時は、炎《ほのほ》のひらひらと燃えて侍《はべ》りしは、太き薪《たきぎ》の末に火附きて侍るばかりに見えしとぞ。人皆怪しと見るうちに、遙かに飛過ぎて北山の根方《ねかた》に落ちたる様に見ゆ。さて暫時して、どゝと鳴る声の反響(こだま)の様《さま》にてどよめきわたれり。これ必ず彼《か》が落ちたりし時の響《ひびき》なりけん。世に斯く光るものは稀々(まれまれ)飛歩《とびあり》く物なれど、斯く奇《く》しき光物《ひかりもの》は見も聞きもせぬ事と、口々に言ひて寝ねつ。然して翌々日の日、同国なる桑名<桑名郡[やぶちゃん注:現在は三重県桑名市。]>の方《かた》より人来りて語る。一昨日《をとつひ》の夜の光物ぞ怪しかりつる。西北の隅より照り通りて侍るが、太度山《たどやま》<桑名市内>[やぶちゃん注:多度山(たどやま/たどさん)。ここ。]の岸《きし》の方[やぶちゃん注:「岸」は崖(がけ)。但し、同前で『峰方(ネカタ)』となっている。]に落ちたりし。さる時ぞ、いと恐ろしき響《ひびき》にて、御山《おやま》は吼(ほ)え轟(とどろ)きぬ。また昨日《きぞ》の朝《あした》になりて見れば、その御山の半(なから)ほどに、九尺(ここのさか)まりにて立てる石の、打破《うちわれ》れたる様《さま》になりて下を指して辷《すべ》り落ちたり。また御宮(おほんみや)[やぶちゃん注:多度神社。]どもはその下に立ちませば、これが落ちかゝりたらむに、一つも残るべきものあらず。さるを神のしたまふならむ、御宮の上の方《かた》に周囲六寸ばかりにて、かすかなる樫の木の侍るに、その大きなる石は懸りて止《とま》りぬ。山は級立(しな《た》)てり[やぶちゃん注:「急な傾斜地に立っている」の意。万葉語。]。木はいと弱し。石は重く侍るに、斯く止りてむことに侍らず。先づこれを異霊(くすしみ)[やぶちゃん注:「奇怪さ」を言う万葉語。]の一つとも、また二つにはその石の辻り落ちたる下より、いと古くて太刀とおぼしきが一振、斧と見ゆるが一柄《から》、陶《すえもの》の皿杯《さらつき》[やぶちゃん注:「新日本古典文学大系」版脚注に『造語か。「平杯(ひらつき)の意で、平皿をいう』とある。]十枚(とひら)まり二つ、花瓶《はながめ》にかと見ゆるもの一つ、また銹朽《さびく》ちては侍れど、鏡《かがみ》とおぼしきもの、二寸三寸侍るもの、廿《はたち》まり一つぞ出でたる。いづれも今の代《よ》に作れる物の形には侍らず、さる上は、そこの祝子達(はふりこ《たち》[やぶちゃん注:「こ」はいらない。「新日本古典文学大系」版でも「こ」はない。神官たち。])も捨置き難き事に思ひて、詳(つばら)に有様を桑名の守に申し、窮《きは》めしめたまふべき御使《おつかひ》[やぶちゃん注:高田先生は注で、『監察人としての』『寺社奉行か』とされておられる。]をたまへと聞え侍るに、使[やぶちゃん注:「新日本古典文学大系」版では『御使』。]来りて熟〻(つらつら)打見《うちみ》[やぶちゃん注:「打」は強意の接頭語。]、後《あと》はとあれかゝれ、今の間《あひだ》は普(あまね)く人にな見せそ、祝子が蔵に秘め置きたまへとて帰りける由なり。この太度山といふは、桑名の国府《こふ》よりは北にあたりて、いと高きが侍るこれなり[やぶちゃん注:多度山の標高は四百三メートル。]。昔は伊勢の大御神《おほみかみ》[やぶちゃん注:天照大御神。]、此所《ここ》にしばし鎮座ましける由など、所には言伝へ侍る。また一目竜《いちもくれん》と称(たた)へ神なむこの御山の主《あるじ》にておはするよし、これは生《い》ける神にておはせば、折々飛歩《とびあり》きたまふなり。さるは或時は風を起し雲を巻きて、照りかゞよひたまふに、これに逢ひまゐらせては、舟をも傷(そこな)ひ屋(いへ)を破られなどするものいと多けれど、よく人の祈る事を聞《きこ》しめして、田畠《たはた》の時をも失はせじと、雨につけ日につけて、さる護り著しくおはす程に、人皆これを尊《たふと》み奉る由なり。さるはかの光りて飛びし物も、一目竜にておはしけめと、所の人々は言へりけり。またかの樫《かし》の細枝《ほそえ》に止《とま》りて侍りける石の如何にも危《あやう》く、今にも落ち下るべく見えつるに、取除けむ方便《てだて》なくて、祝子等《はふりら》祝詞《のりと》申して、神の御心を問ひ奉りしに、これは唯《ただ》直《なほ》に上の方《かた》へ押上げよ、事もなく旧(もと)の如くならむと、神懸《かみがか》りて教へたまひしかば、多くもあらぬ人に押上《おしのぼ》せたれば、軽《かろ》らかにていと易く上りて、旧の如く据(すは)りけり。石は二つに破《わ》れつると見えしかど、二つ並びて押立つる石の、九尺《ここのさか》ばかりなる片方《かたかた》が、さる響《ひびき》につれて辻り落ちけるなりしと言へり。さてその下より出でつるものは、宝物《たからもの》にして、祝子が許《もと》に秘め置き侍れど、さる故《ゆゑ》有りて普く人に拝ませじといふなる。

[やぶちゃん注:「折々草」俳人・小説家・国学者にして絵師で、片歌を好み、その復興に努めた建部綾足(たけべあやたり 享保四(一七一九)年~安永三(一七七四)年:津軽弘前の人。本名は喜多村久域(ひさむら)。俳号は涼袋。画号は寒葉斎。賀茂真淵の門人。江戸で俳諧を業としたが、後、和歌に転じた。晩年は読本の作者となり、また文人画をよくした。読本「本朝水滸伝」・「西山物語」や、画集「寒葉斎画譜」などで知られる)の紀行・考証・記録・巷説などの様々な内容を持つ作品である。明和八(一七七一)年成立。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第十一巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のここで正規表現で視認出来る。標題は『○連歌よむを聞て笑らひしをいふ條』である。私は「新日本古典文学大系」版(一九九二年刊)で所持し、これは宵曲の見たものとは、版本が異なるらしく、各所に表記上の異同があるが、読みがかなりしっかりと附されてある(ひらがなになっている箇所も多い)ので、それを積極的に参考にして読みを振った。そもそも、宵曲は建部綾足が非常に気を使って使用している古語(万葉時代の古訓)をちゃんと添えておらず、極めて杜撰な引用となってしまっているのには、正直、大いに失望した。ために私の読みは異様に増えている。以下の注もそれ(高田衛先生校注)に多くを拠った。なお、宵曲の拠ったのは、リンク先のもので、「新日本古典文学大系」版(愛知県立大本)とは別底本(日本随筆大成刊行会蔵本)であることも判った。この怪光現象を含む奇談は、怪奇談に対しては強い懐疑主義者である建部綾足が、珍しく、実話と断定している点で、極めて興味深い実話である。しかも、この隕石落下と思しいそれは、渡邉美和氏の論文「長良隕石の落下情報に関する考察」(第五回『歴史的記録と現代科学』研究会・ 二〇一八年三月二十四日開催:PDF)の中で事実検証されてあった(リスト・ナンバー「29」から「32」まで)。「29」は、異『音』が聴取されており、『岐阜』の現在の『中津川市』(ここ)、『明和七年六~八月』、西暦一七七〇年六月二十三日から九月十八日相当とあり、引用元は「歳代記」で、『六月朔日ヨリ八月迄大日照、ヒカリモノ東ヨリ西江飛、啼音雷ノコトク皆人不思議ナス、閏六月田畑万作、七月廿八日酉三時ヨリ天赤キ事火之コトク、戌亥方ヨリ赤ミサシ次第ニ赤ミマシ亥三時甚シク、巾一尺計ニテ向キ■スシ成物入り、明方卯之方ニ廻り終、前代未聞之コトナリ』とある(「■」はママ)。「30」は、『岐阜』の現在の中津川市『福岡町』(ふくおかちょう:ここ)、『明和七年七月十八日』、西暦一七七〇年九月七日、引用元は「田瀬村諸事留書帳抜書」で、『(前略)同年七月十八日夜六半頃、光り物西へ飛、同月廿八日夜、北之方天赤キ事朱之如ク、其中に白気相見へ暁方より相見へ不申、翌夜ハ常之通御座候』とある。「31」は『岐阜』『瑞浪市』(ここで、「30」と同じく『明和七年七月十八日』(西暦は同前)。引用元は「渡辺家覚書」とあり、『同十八日宵、光り物未申より丑寅の方へ通ル』とある。「32」は『岐阜』『山岡町』(やまおかちょう:ここの広域)で、引用元は『釜屋庄屋年代記』で、『其の後七月下旬に朝日へほし入る。七月十九日夜六つ半時に、南より北の方へひかり者通る。ゆうだちとくなり村々へ落ちたる様に見え候。』とあった。素敵!!!

「二咫(ふたあた)」「咫」(あた)は略して「た」とも読む。本邦の上代の長さを測る単位の一つで、親指と中指とを広げた長さを指し、「わずかの距離」の意もある。因みに、音は「シ」で、漢語としては、周代の長さの単位で、約十八センチメートルであり、本邦とは異なるので注意が必要である。

「一目竜《いちもくれん》」この読みで知られ、「一目連」「一目龍」とも表記する。先行する『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「一目連」』の私の注を参照されたい。]

〔猿著聞集巻二〕えど鎧《よろひ》[やぶちゃん注:「鎧河岸(よろひがし)」のこと。現在の中央区日本橋小網町(グーグル・マップ・データ)。]のわたりを舟に乗りけるとき、申(さる)の刻[やぶちゃん注:午後三時から午後五時。]ばかりにやありけん。丑寅(うしとら)の方より未申(ひつじさる)のかたへ[やぶちゃん注:東北から南西へ。]、大いさ三尺ばかりなる火の玉のごとなるもの、中空を飛びゆきけり。人々驚ろき、いかなるものにかありつらんなど、物語らひつゝ向ひの岸にのぼりけるとき、未さるのかたにあたりて、山の崩るゝばかりなる音の、おどろおどろしくぞ聞えたる。このとき人の家居の戸など、ごほごほとなり動きける。西の方にあたりたる鄙《ひな》には、さうじ[やぶちゃん注:「障子」。]など破れけるところもありとこそ聞きつれ。さてのち十日ばかりへて、ある旅人のいひける。八王子<都下八王子市>のほとりの何がしとかいへる人の庭に、金銀のいさご打まじりたる大いなる石のやうなるものゝ、空より落ちて砕け散らぼひたる。地もくぼまり、そこかしこ破れ、近きわたりの家ども、みな傾ぶきたるとぞいひし。いかなるものにかありけん、いと怪し。さはれ八王子のことは人のいひけるを聞きしなれば、いかゞならんか知らず。火の玉の飛びけるは、江戸人のおほく見しことにて、今よりは十とせあまりさきのことになんありける。

[やぶちゃん注:「猿著聞集」は既出既注だが、再掲すると、「さるちょもんじゅう」(現代仮名遣)と読む。生没年不詳(没年は明治二(一八六九)年以降とされる)の江戸後期の浮世絵師で戯作者でもあった岳亭春信が、号の一つ八島定岡(ていこう)で、鎌倉時代、十三世紀前半の伊賀守橘成季によって編纂された世俗説話集「古今著聞集」を模して書いた随筆。文政一〇(一八二七)年自序。当該話は国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第十巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで、正字の本文が視認出来る。標題は『火の玉空中をとびし事」。]

〔翁草巻百二十六〕余<神沢貞幹>この年頃、格別の怪異を見ず。一度不審なる事ありき。早春六日の夜、或人の許にて謡曲の会有りて、余も行きぬ。列席酒闌《たけなは》に及び、四更<真夜中>の頃に至り各〻退散す。余も独り庵に帰りて、戸を叩けども、丑三ツ過《すぐ》る頃なれば、内にはいたく寝入りて、答(いらへ)も遅し。暫し戸外に彳《たたず》み居《を》る内に、ふと後《うしろ》を見れば、月影さやかに両側の軒端《のきば》を照《えら》し、見るが内に東側の軒の影、斜めに道路へ指し出《いづ》る。頃しも上旬の月、今頃有るべきに非ず。不思議なる儘(まま)に、道の中央に出《いで》て、四方の空を眺むれば、上の町の西側の棟より少し上の方に、火の玉有りて、東の方へ行く事徐《おもむろ》にして、凧《たこ》などの風に漂ひ行くがごとし。その光りにぞ有りける。須臾(しばらく)にしていづれへか彼《かの》玉行くとみれば、もとの常闇(とこやみ)となりたり。凡そ天火《てんび》光り物のたぐひには、いさゝか音有りて、その飛び行く事も疾(はや)き物なりと聞き伝へぬるに、彼の玉は徐々《じよじよ》として音もなく、世に云ふ人魂《ひとだま》ならめと思へども、さ有らんには二三町が間に影さすべくもあらず。兎角する間に内より戸を明けたるまゝに、不審晴れやらぬながら内へ入りぬ。その後右途中にて別れたる人々に、かやうの事こそ有りつれ、見てしやと尋ぬれども、一人も見ずと云ふ。この事今に至つて解《げし》がたし。

[やぶちゃん注:後者の「翁草」は「石臼の火」で既出既注。正字の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「翁草」校訂十三(池辺義象校・明三九(一三〇六)年五車楼書店刊)のここで視認出来る。標題は『怪異』。]

〔甲子夜話巻八〕吾が永昌寺の隣の宗源寺の住持を順道と云ふ。肥前佐嘉領の人なり。永昌寺に語れりとて聞く、佐嘉にては時として天より火毬《ひまり》降ることあり、里人テンビと謂ふ。(テンビは天火なるべし)火毬おつると地上を転ず。人これを視れば即ち簇(むらが)り逐《お》ふ。逐ふとき念仏を高唱す。逐へば乃(すなは)ち回転して逃るが如し。因て郊外に逐ひ行きて、野に転《ころ》び入れば災《わざはひ》なし。逐はざれば人家に転び入《いり》て火を発すと云ふ。奇なることなり。[やぶちゃん注:これは巻数が誤り。「巻九」が正しい。事前に「フライング単発 甲子夜話卷九 3 肥前佐嘉にては火毬降ることある事」を公開しておいた。]

〔異説まちまち巻三〕佐藤五郎左衛門語りけるよし、上州厩橋<群馬県前橋市>にての事なりしに、殺生を常に好みて、毎日々々山へ行きて猪鹿など打《うち》て楽(たのしみ)とせり。甚しきにいたりて、三年がほどは宿《やど》にゐる日とてはなく、毎日山へ行きにけり。山に鹿小屋《ししごや》をかけて、夜をまたおもとせり。或時常に連れける草履取を連れて、かの山の小屋へ行きて鹿を待ちけるに、その夜しも暗(やみ)にてあるに、少しの物も見えず。夜半の頃になりて、かの侍、草履取に云ひけるは、今夜はいさゝかの得《え》ものもなし、いかなる事にや、いと淋しく覚ゆるなり、今夜は空しく帰らんといふ。草履取もいと淋しく覚ゆるなれば、かやうの時には何もあるまじ、先づ帰り候はんとて、両人帰り支度をしけるに、山の奥よりざわざわとなるをと[やぶちゃん注:ママ。]の聞ゆるまゝに、見やりたれば、大きなる火の玉、かの小屋に向ひてころび来れり。闇なりしに、その火のあかりにて、蟲[やぶちゃん注:ママ。]の這ふも見ゆるばかりにあかくなりぬ。両人きつと心付けあひて、かの主人、とがり矢をつがひて射たりければ、火の玉にあたりて、鉄丸《てつぐわん》などを射るがごとき音して、火も消えてまたもとの暗やみとなりぬ。両人かゝることありては、得ものいよいよ有るまじとて、連立《つれだ》ちて宿へ帰りけるに、家内の者両人を見て、甚だうろたへたる体《てい》にて、しかじか挨拶もなし。はげしく物いひかけたれば、御袋様怪我なされたるといひけるゆゑ、母の部屋へ行きて見たれば、屛風を建てうめきゐたり。そのかたはらに、かの山にて射たりしとがり矢建て掛けて有り。血したゝりぬ。かの侍、草履取と目くばせして、屛風押倒して両人にて強く押へければ、暫くはうめく音しけるが、音なくなりたれば、屛風をのけて見けるに、夜著計(ばか)りにて何もなし。家内の者を尋ねけるに、一人も家内の人なかりしとなり。奇怪の物語りなり。この事を直方評せられて、常に殺生にのみ心ありて、山にのみ心有りて、家内に心なし。それゆゑに山中の気こなたへ入りて、家内の者はとくに失ひたるなり。その夜はかの主人を亡《ほろぼ》さんとしたれども、勇気にくだかれぬ。あまりに物を好みて、魂をうばはれたると評せられし。

[やぶちゃん注:「異説まちまち」「牛鬼」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻九(昭和二(一九二七)年日本随筆大成刊行会刊)のここ(左ページ冒頭から)で正規表現版が視認出来る。

「上州厩橋」「群馬県前橋市」前橋は戦国時代には「厩橋」という地名で、江戸時代に前橋に変えたため、江戸時代の書でも旧名で出ることが、かなり多い。

「直方」佐藤直方(慶安三(一六五〇)年~享保四(一七一九)年)は儒学者。通称は五郎左衛門。当該ウィキによれば、『学問を志して京に昇り、山崎闇斎の門に入って研鑽を積み、知識を深め』、『浅見絅斎』・『三宅尚斎と並び』、「崎門の三傑」と『称されるほど台頭したが、闇斎が唱えた垂加神道に批判的であったことから袂を分かち、江戸へ』上り、『後、福山藩や』(☞)『厩橋藩主酒井忠挙などに招聘され、講釈に励んだが』、享保三(一七一八)年には『致仕して神田紺屋』町に『居住し、翌年』、『唐津藩主土井利実に講釈を行いに赴く道中』、『発病して倒れ、翌日』、『没した』とある。作者和田烏江(正路:生没年未詳)との関係はよく判らないが、同書のここ(左ページ後ろから八行目からの条)に、作者の父に彼が語った幼少期の話(作者の母のまた聴き)が載る。相当に和田より年齢が上だが、或いは、本篇を読むに、最晩年の佐藤と実際に触れあうことがあったとしか読めない。]

〔寛政紀聞〕七月<寛政十年[やぶちゃん注:一七九八年。]>初め頃、快霽(かいせい)うち続き、残暑以ての外烈《はげ》しく、夜分に至り候得《さふらえ》ば、火毬飛行《ひぎやう》致し、往来の人々多く見当《みあた》り候、荻原𬫴太郎殿も小石川<文京区内>にて見受けられ、またまた竜慶橋へ渡りかゝられ候節、横丁より一ツ飛出《とびいで》し候由、この節自分庭前の将几(しやうぎ)に涼み居候所、隣家の境へ火玉《ひだま》落ち、見る間に消失《きえう》せ申候。また去月《きよげつ》廿三日夜、筑土下《つくどした》<新宿区内>片町《かたまち》沢《さは》仁左衛門屋敷前、石橋向うに当り、夜八ツ時<午前一時>頃、大提燈程の焰毬《ほのほのまり》、地上四五尺許りの所に一時《いつとき》計りも止まり居候由、この事聞伝へ、私宅より一見に右場所へ参り懸り候内に、跡形なく消失せ申候。当時余り炎暑はげしき故、火気凝《こり》て致す処歟(か)。

[やぶちゃん注:「寛政紀聞」「天明紀聞寬政紀聞」が正題。天明元年から寛政十一年までの聴書異聞を集録する。筆者不詳だが、幕府の御徒士(おかち)であった推定されている。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第四(三田村鳶魚校訂・ 随筆同好会編・昭和二(一九二七)年米山堂刊)のこちらで当該話を視認出来る(右ページ六字目の条)。話が無関係なため、最後の以下がカットされている。例の方広寺の焼亡である。

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此ごろ承レバ同月朔日雷火にて京都東山大佛殿不ㇾ殘。仁王門類燒、火翌日まで消ざりしとぞ、あれ程之大經營、一時ニ灰燼となりしは痛く可ㇾ惜次第也、

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