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2024/02/29

昨日更新一件のみに就いて

昨日、早朝、父の様態が甚だ不審のため、救急車を呼び、近隣の病院に搬送したところ、急性心筋梗塞・低血圧その他と判明、待つこと、七時間、入院となれり。自宅で遅い昼食を食べに帰り、夕刻、ERU病棟に移ったのを見舞い、再帰宅は六時であった。されば、小生、疲労、激しきに依り、ブログ更新不能となれり。夕刻の面会では、血圧は安定し、「申し訳ない」「うんちがしたいから起こしてくれ」という(器具が一杯装着していることを認識していない)ほどに回復はしたものの、高齢(九十五歳)の上、嚥下不能のため、口からの投薬が出来ないため、予断を許さざる様態ではある。予定では最大二週間の入院と医師言えり。 以上

追記:個人的に、精神的に複雑な電子化注は出来ない状況にあるので、予定していた幾つかのプロジェクトがあったのだが、それらは行わず、以降、「譚海」のルーティンのみを、注はストイックに、日に日に行うこととする。

2024/02/28

譚海 卷之九 榊原政敦朝臣政績の事

○「榊原式部大輔政敦(まさあつ)朝臣、在所へ入部ありし年、顏をしられざるを幸(さいはひ)にして、常に郡國を潛行せられ、下情を察し、弊政を撓(たわめ)られける。それまでは、越後高田の家司、有德(うとく)成(なる)ものは、皆、手舟(てぶね)をもちて、町人にかして、利を得たりしが、嚴敷(きびしく)停止(ちやうじ)ありし事など、おほく、大に惠政(けいせい)を行(おこなは)れ、善治(ぜんぢ)をえられし。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「榊原式部大輔政敦」(宝暦五(一七五五)年~文政二(一八一九)年)。越後国高田藩第二代藩主。官位は従四位下・式部大輔。寛政元(一七八九)年、父の隠居により家督を相続した。文化七(一八一〇)年、家督を長男の政令(まさのり)に譲って隠居した。]

2024/02/27

今日は一日

過去の六十件余りのある読みの歴史的仮名遣の誤りを訂する為に、二十四時間を費やした。

2024/02/26

譚海 卷之九 羽州象潟うやむやの關等の事

○羽州より、北海道(きたかいだう)をゆけば、蚶潟(きさがた[やぶちゃん注:珍しい底本のルビ。])を行過(ゆきすぎ)て、左(ひだり)へ入(いり)、山へのぼる事、一里半計(ばかり)に、「大物忌(おほものいみ)の神社」といふあり。

 それより、關村(せきむら)といふ所へ、こゆる道に、川、有(あり)。川にかゝりたる橋、すなはち、「なそのしらはし」なり。「素橋」の字を、もちゆるよし。

 「しら橋」を、こゆれば、關村にいたる。

 關村は、又、「うやむやの關」の有(あり)し所なり。「しら橋」の川の、海へ、いづる所を「關村」と云(いふ)。川は、鳥海山より、おつる水にて、「大瀧(おほだき)」・「小瀧(こだき)」と云(いふ)瀧の末(すゑ)なり。

 橋より、五、六間[やぶちゃん注:約九・一~十一メートル。]、隔(へだて)て、「小瀧」、見ゆるなり。所をも、「小瀧村」と云(いふ)。

「古歌なり。」

とて、

「千はやふる神のちかひのゆふたすき

     かけてぞわたるなそのしら橋」

所に、いひ傳(つたふ)る歌なり。

 又、同所、海道三里北に、平澤村といふに、「象潟明神」、有(あり)。

「垂跡(すいじやく)、何(いつ)の時と云(いふ)事を、しらず。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「象潟」「蚶潟(きさがた)」現在の秋田県にかほ市象潟町(きさかたまち:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。芭蕉の私の好きな一句、『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 49 象潟 象潟や雨に西施がねぶの花』を見られたいが、芭蕉が広大な入江であった象潟に至ったのは元禄二年六月十七日(一六八九年八月二日)で、本巻の最新記載は寛政一〇(一七九九)年で、「象潟地震」で海底が隆起し、陸地化してしまったのは文化元(一八〇四)年だから、彼が行って見たとすれば、芭蕉のよすがを十全に味わえたことであろう。津村は、実は、時期は判然としないものの、奥羽地方を来往しており、秋田には実に三年も滞在している。されば、象潟を実見した可能性は極めて高い。

「大物忌の神社……」底本の竹内氏の後注に、『秋田県象潟口からの鳥海山』(山形県と秋田県に跨がる標高二千二百三十六メートルの名山)『登拝路。鳥海山の神は大物忌神で、山麓の各登り口に里宮がある。奈曾の素橋』(ここ。現在の表記は「奈曽白橋」)、『奈曾の白滝』(ここ。現在の表記は「奈曽の白滝」)『は鳥海山から流れる奈曾川の渓谷』(ここ)『にあり、平沢』(これは本文の「同所」に引かれた竹内氏のうっかりな誤認で、奈曽川は現在の秋田県にかほ市象潟町関中川原(せきなかがわら)が河口である)『で海に入る。ウヤムヤの関は奥州古関の一であるが』(先の象潟町関中川原の南東の奈曽川左岸に、にかほ市象潟町関ウヤムヤノ関(せきうやむやのせき:本篇の「關村」)があるものの、比定地の根拠は定かでなく、『宮城県笹谷峠』、『その他』、『各所にも擬せられている』とある。鳥海山山頂の南東直近に「鳥海山大物忌神社山頂本殿」がある。

「小瀧」「小瀧村」この瀧は「奈曽の滝」のことで、「小瀧村」現在は、にかほ市象潟町小滝(こだき)。鳥海山鉾立展望台まで含む南東に細長い地区である。

「千はやふる神のちかひのゆふたすきかけてぞわたるなそのしら橋」不詳。「ゆふたすき」は「木綿襷」で、古く「万葉集」にも歌われている、神に祈る際に肩に掛ける「襷」(たすき)のこと。古えの人は、身命(しんみょう)を賭して、心身ともに清らかになるために掛けた。材料は自生の葛・藤・科(しな:アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属シナノキ Tilia japonica )など麻の栽培が始まる以前の植物で作った。これら自生の植物から得た繊維には神霊が宿っており、それを身につける人を、浄化し、守るとされてきた。「ゆふたすき」は、経糸と緯糸が、切れずに一本に繋がっており、始めも終わりもなく、生命が永遠に巡ることを意味している。織機は使わず、箆(へら)と棒だけで作り、「織り」以前の最も原初の衣と言える(以上は「大井川葛布」オフィシャル・ウェブサイトの「ゆふたすき」の解説に拠った。写真あり)。

「平澤村」秋田県にかほ市平沢があるが、ここだとすれば、象潟より遙か北であるから、津村自身の誤認である。それらしい神社もない。そもそも、象潟から、こんなに離れた箇所に「象潟明神」を祀るのもおかしい。

「象潟明神」秋田県にかほ市象潟町妙見下にある妙見(象潟)神社であろう。「秋田県神社庁」公式サイト内の同神社の解説によれば、『当社の、創始の年代は詳かでない』。『昔時奥州相馬郡より妙見祠を勧請して岡入道島に建立したのを創始とす』。『当時専ら北辰星並びに相染明王を祀り、北辰妙見大菩薩と崇め称えた』。『明治に至り』、『神仏混淆を改められ、初め春日神社と称したが、後』、『象潟神社と改められる』。『当社は寛政』五(一七九〇)『年』十一『月の火災に罹り、文化』六(一八〇九)『年』六『月の象潟大地震で崩壊す』。『明治』二(一八六九)『年の火事に類焼して古来の宝物棟札等を失い、現今の社殿は明治』四『年の再建になるもので、花崗岩の鳥居は明和年中の建造によるものである』とあった。相染明王を祀るなら、「明神」も納得出来る。ただ、先の奈曽川河口から「二里」は、一見、不審に見えるが、ここは例の「坂東道」(=「小道(こみち)」)であろう。一里を六町(六百五十四・五四メートル)とする。一・九六四キロメートルとなり、ざっくりと計測すると、二キロメートル強で、問題ない。

譚海 卷之九 鹽の味南北異なる事

○鹽(しほ)は、南海に燒(やく)所のものは、甘味なり。北海にて、やく所は、にがし。風土の異(こと)なるによるなるべし。

 羽州龜田海邊にて鹽をやく釜は、諸(もろもろ)の貝がらを集(あつめ)て、火に燒(やき)て、うちくだきて、粉に、なし、それを、「にが鹽」にて、かためて、こしらふるなり。「にが鹽(しほ)」を、其(その)方言には、「にがり」と云(いふ)。

[やぶちゃん注:「羽州龜田」現在の由利本荘市岩城地区亀田町から東の海辺であろう(グーグル・マップ・データ)。江戸時代は岩城氏亀田藩の城下町であった。

「にが鹽」「にがり」海水から食塩を採る際、食塩を結晶させた後に残る溶液。主成分は塩化マグネシウムで、その他、硫酸マグネシウム・塩化カリウム・食塩・臭化カリウムなどを含み、苦味がある。古くから豆腐の凝固剤として用いられることが、よく知られているが、食用塩の原材料に使用することも普通に今も行われている。]

譚海 卷の九 西國海路里程の事

○大坂より、讃州丸龜「金毘羅權現」まで海路五十里、丸龜より、備後の靹(とも)に至

る。

 靹より藝州「尾のみち」、同所より、同國竹原、鹽の產する所なり。

 竹原より、宮島、すなはち、嚴島(いつくしま)なり。竹原より、宮島の間五十里なり。海路、是迄、百里なり。淡路も大體、おなじ事なり。

 宮島より「長門上(かみ)の關」へ十五里、「上の關」より、「下の關」へ三十五里、たゞし、「下の關」にいたらんとする三里ほどこなたに、「まへなだ」といふ洲(す)、有(あり)て、直(ちょく)に行(ゆき)がたければ、「もと山」といふを、まはりて、三里ほど沖をへて、下の關に至(いたる)なり。

[やぶちゃん注:「長門上の關」現在の山口県熊毛(くまげ)郡上関町(かみのせきちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。現町域は室津半島先端、及び、長島・祝島(いわいじま)・八島などの島で構成され、町の中心部は半島先端部の室津(むろつ)地区、及び、室津地区対岸で、上関大橋(かみのせきおおはし)で本土と陸続きになっている。

『「まへなだ」といふ洲』「ひなたGPS」の戦前の地図でも判らない。

「もと山」山口県山陽小野田市小野田にある本山岬。]

 五百石積(づみ)より以下の舟は、沖へまはらず、洲の内を、岸にそひて、ゆかゝるなり。

 「下の關」より、豐後小倉へ、三里、わたる。

 小倉より、肥前長崎へ、陸路四十八里、有(あり)、とぞ。

 「下の關」より、長崎ヘ、海路五十五里、此間を「玄海なだ」と云(いふ)。

 玄海にて、風、あしければ、「ゑぶこ浦」といふ湊へ入(はいる)なり。「ゑぶこ」までは、下の關より、四十五里あり。「ゑぶこ」より、「長さき」へは、十里あり。長崎より歸るときも「ゑぶこ」へ、人は、舟のつがふ[やぶちゃん注:「都合」。]、よろし。此「ゑぶこ」、「名ごや」の内にて、卽(すなはち)、豐臣太闇、朝鮮征伐の時、陣屋ありし所なり。「松うらさよ姬」の石に成(なり)たるも、又、此湊(みなと)にあり。

[やぶちゃん注:「ゑぶこ浦」現在の佐賀県東松浦郡呼子町(よぶこちょう)地区。

「松うらさよ姬」の哀しい伝承は当該ウィキを見られたい。彼女が石となったとする「鏡山」と、彼女を祀った「佐用姫神社」は唐津にある(呼子町の南東方)。]

 豐後小倉より、長崎へ、陸路は四十八里、海路は九十一里なり。

 「下の關」より、宰府天滿宮[やぶちゃん注:ママ。]へは、廿四里有(あり)。

 すべて、大坂より長崎まで、海陸ともに、百五十里ほどなり。

 大坂より播州高砂まで廿里、此間を「はりまなだ」と云(いふ)。

[やぶちゃん注:「播州高砂」兵庫県高砂市。]

 「遠州なだ」抔(など)、すべて「なだ」と云(いふ)は、舟をよする「かゝり」なき所を名付(なづけ)たるなり。

 「下の關」、迫門口(せとぐち)に、「まんじゆ」・「かんじゆ」とて、島、二つ、有(あり)。

[やぶちゃん注:『「まんじゆ」・「かんじゆ」とて、島、二つ、有』山口県下関市長府の沖、瀬戸内海(周防灘)中にある二つの無人島である満珠島(まんじゅしま)・干珠島(かんじゅしま)。現在、原生林が「満珠樹林・干珠樹林」として国指定天然記念物となっている。参照した当該ウィキによれば、『忌宮神社の飛び地境内であり、祭神の神功皇后が住吉大神の化身である龍神から授けられた二つの玉、潮干珠(しおひるたま)・潮満珠(しおみつるたま)から生まれたという伝説がある島。また、彦火火出見尊が海神より授かった潮満瓊(しおみつたま)と潮涸瓊(しおひのたま)を両島に納めたという伝説もある』。『二島は至近距離にあり、伝説では』、『どちらが』、『満珠島か干珠島か』、『はっきりしていないが』、直近の本土にあり、両島を飛地境内としている『忌宮』(いみのみや)『神社では』、『沖の大きい方を満珠島、岸に近い小さい方を干珠島と呼んでいる』が、『土地台帳と天然記念物指定文書では沖側の島が干珠、国土地理院の地図や海図、国立公園指定では岸に近い側の島が干珠となっており、公式にも定かではない』。「壇ノ浦の戦い」で、『源義経率いる源氏軍が拠点とした』とある。]

 備前小島に、「京の女郞」・「大坂の女郞」とて、石、ふたつ、たてり。京の女郞形容、はなはだ、都閑(とかん)なり。高砂より「さぬき」の丸龜へゆく海路にて、見る所なり。

[やぶちゃん注:「備前小島」「備前兒島」。嘗つて吉備国及び備前国児島郡にあった島嶼の歴史的地名である。「吉備児島」(きびのこじま/きびのこしま/きびこじま/きびこしま)とも呼ばれる。「吉備」は「黄微」・「機微」など、「兒」は「子」「仔」、「島」は「嶋」「嶌」「洲」などとも表記されることがある。参照した当該ウィキによれば、『江戸時代中期頃、海域の新田干拓により陸続きとなり、児島半島』(ここ)『となった。当時島嶼であった地域は、現在は岡山県倉敷市南西部から岡山市南区南部』及び『玉野市に至る』とある。

『「京の女郞」・「大坂の女郞」』この石、ネット検索にはかかってこない。現存するとなら、識者の御教授を乞うものである。【二〇二四年二月二十九日削除・追記】いつもお世話になっているT氏よりメールがあり、『これは貴下のブログ 2018/06/08 諸國里人談卷之二 京女郞 田舍女郞の「京女郞 田舍女郞」です。備前小島(児島)から出て、すぐの京の上臈島にあります。実際「田舍女郞」、「大坂の女郞」いずれかは不です』と、なんともお恥ずかしいことに、私の「諸國里人談卷之二 京女郞 田舍女郞」が、それ、と指摘された。御礼申し上げる。

「都閑」「都雅」に同じ。上品でみやびやかなこと。洗練されていて上品なさま。]

 平戶より長崎へゆく間に、「すまふ浦」と云(いふ)所に、大なる石、ふたつ、たちて有(あり)、日本の「すまふ」からの[やぶちゃん注:ママ。]、「すまふ」と稱するものなり。

[やぶちゃん注:不詳。識者の御教授を乞う。【二〇二四年二月二十九日削除・追記】同じくT氏より、『是は大角力』(おおずもう)、『小角力』(こずもう)『と呼ばれている岩礁です。ここは角力灘』(すもうなだ)『と呼ばれています。長崎県長崎市神浦口福町です。「小角力」は長崎県長崎市上大野町です』と御教授を受けた。]

 大坂より、舟をたのみて乘るに、舟ちん、幾たりにても、一日限(かぎり)、五匁づつなり。米・味噌・たきぎは此方(こちら)より外(ほか)に、いだすなり。大坂、書林に「鹽路(しほぢ)の記」と云(いふ)あり、諸國海路、くはしく記(しるし)たる物なり。

[やぶちゃん注:「鹽路(しほぢ)の記」「国書データベース」のこちらにある「日本汐路之記」(これは増補版で、大阪で寛政八(一七九六)年に刊行されている)の先行する初版本であろう。何故なら、本巻の最新記事は寛政元年だからである。【二〇二四年二月二十九日追記】いつもお世話になるT氏より、メールを頂戴した。『鹽路の記は、正しくは「增補日本汐路之記」で、東京海洋大学のサイトで明和版が公開されています。「増補日本汐路之記」と表記されて』おり、『従来、写本としては日本各地方の「汐路之記」が存在した。それを取りまとめて訂正し編集して刊行したのが本書であ』り、『その意味で「増補」としてある。東京海洋大学は明和版と寛政版を所蔵されているが、電子化資料は越中島分館の明和版である、と言われています。「增補日本汐路之記」(寛政八年刊)は京大のこちらで確認しました。明和版と寛政版の差異は明和版では、本文の最後百三十八丁ウラ以降に略暦が明和七(一七七〇)年から十一年までついています。寛政版は流石に略暦を省略しています。以外は全く同じです』と御教授を受けた。T氏に心から御礼申し上げる。]

譚海 卷之九 まなかつを・にしん・はたはた魚等の事

○「備前かつを」は、備前にて漁するなり。五月末より六月までの獵なり。

 鯛は、同所、魚島(なしま[やぶちゃん注:底本では珍しいルビ。])といふ所にて、おほく、漁するなり。節分より六十日めほどにあたる日を盛(さかり)に、獵する比(ころ)とす。

 「にしん」は松前にて漁するなり。彼岸過(すぎ)て、十日ほど立比(たつころ)より、網をおろしはじむ、といふ。

 「はたはた」と云(いふ)魚は、羽州秋田の海にて、漁するなり。

「冬至後(ご)、丑の日に、はじめて、此うを、出(いづ)る。」

と云(いふ)。

[やぶちゃん注:「まなかつを」「備前かつを」これは「備前」(岡山県)というロケーション、及び、漁期から、条鰭綱スズキ目イボダイ亜目マナガツオ科マナガツオ属マナガツオ Pampus punctatissimus のこと。スズキ目サバ科サバ亜科マグロ族カツオ属カツオ Katsuwonus pelamis とは生物学的には縁も所縁もない別種で、全く似ておらず、その体型は似ても似つかぬ平たく丸い形を成す。体色が黒っぽい銀色で金属光沢があり、最大で六十センチメートル程に成長する。著しく側扁した平べったい盤状で、腹鰭がなく、鰓孔が小さく、鱗はすこぶる剥がれやすい。本邦では本州中部以南・有明海・瀬戸内海に分布する。「まながつを」は諸本草書では「學鰹」と漢字表記したりするが、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のマナガツオのページによれば、『「真似鰹」の意味、カツオのいない瀬戸内海などでカツオがとれないので、初夏にとれる本種を「カツオに見立てた」ところから』、『「真似鰹(まねがつお)」から転訛したもの』というのが恐らく語源として納得できるもので、但し、『「魚のなかでも特にうまいため」』に『「真名魚」を「真な=親愛を表す語」で「真にうまいカツオ」の意』とし、『「真に菜にしてうまい魚」、「真菜が魚」からの転訛』も退けにくい(実際に本種はやや実の柔らかさに難があるが、美味い。現在は高級魚である)ものの、個人的には、まるで似ていない「カツオ」を附する必要はないように思われる。私の「大和本草卷之十三 魚之下 魴魚(まながつを) (同定はマナガツオでいいが、「本草綱目」の比定は大錯誤)」を参照されたい。

「鯛」一応、瀬戸内海では、古くからスズキ目タイ科マダイ亜科マダイ属マダイ Pagrus major の名産地であるから、それに同定しておくが、他の近縁種、或いは、マダイに似た全くの別種も含まれていることも考慮すべきではあろう。私の記事では無数にあるが、私の紀州を中心とした『畔田翠山「水族志」』では、「~タイ(ダイ)」が驚くべき数で載るからである。

「魚島(なしま)」まさに瀬戸内海の臍に当たる愛媛県越智郡(おちぐん)上島町(かみじまちょう)町魚島(うおしま:現行の読みはそれ。グーグル・マップ・データ)。

「にしん」「鯡」「鰊」。ニシン目ニシン科ニシン属ニシン Clupea pallasii 。私の「大和本草卷之十三 魚之下 鰊(かど) (ニシン)

「はたはた」スズキ目ハタハタ科ハタハタ属ハタハタ Arctoscopus japonicus 「大和本草卷之十三 魚之下 はたはた」を参照されたい。

「冬至」旧暦十一月の中気(陰暦で各月の後半を指す語。なお、冬至を含む旧暦の十一月は必ず「子」(ね)の月である)。新暦十二月二十二日頃。最大収穫量を誇った秋田の漁期は現在の十一月から十二月頃である(因みに、回遊の関係で、やはり漁獲量が多い鳥取では漁期は九月から五月頃と、遙かに早い)。]

2024/02/25

譚海 卷之九 寬政元年大坂燒亡の事

○寬政元年十二月廿二日暁、大坂西橫堀東町二丁目より出火して、御城大手馬場前にて燒(やけ)とまり、西は玉造稻荷まで、凡(およそ)、燒失町家、六、七十町に及べり。みな、大坂の繁華の所のみ、やけたりと、いへり。

[やぶちゃん注:「WEB防災情報新聞」のこちらに、『大坂寛政元年』の「上町大火」=「東横堀焼」とあって、寛政元年十二月二十二日から同二十三日(一七九〇年二月五日から六日相当)の記事が載る。それによれば、『卯の刻(午前』六『時ごろ)、『南本町二丁目』(現在のこの附近。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『堺筋東へ入る北側にある辰巳屋久左衛門の家守(管理人)浅田屋源七が支配する貸家、姫路屋平八(呉服商)の居宅から出火した』。『炎は』、『折からの強烈な西風にあおられて瞬く間に本町一丁目南側に延焼し』、『東に焼け抜けた。その上、南本町浜より内本町橋詰町曲がりへ飛び火し、そこから炎は東北へと延び、松屋町から骨屋町』(ほねやちょう)、『御祓筋、善庵筋、谷町、大手筋まで焼け抜け、城代屋敷をはじめ近辺の武家屋敷を総なめにし、南は上本町三丁目』(現在の大阪府大阪市天王寺区上本町三丁目か)『まで焼け抜けた』。『ところが』『申の下刻(午後』四『時ごろ)この火勢に合』(あは)『するかのように、南久宝寺町一丁目』(ここだろう)『の穂積屋正三郎宅の二階から出火した。新しい炎は東へと延焼、内久宝寺町から安堂寺町東へ焼け抜けようやく』翌二十三日『寅の中刻(午前』四『時ごろ)鎮火』とあり、『その被害、町数』五十二『町、焼失範囲は東西広いところで』六百二十九『間ほど(約』一・一『km)、南北は』四百四十二『間ほど(約』八百『800m)。町家、家数にして』一千百十『軒、かまど数(世帯数)にして』五千四百六十八、『道場』十三『か所、蔵屋敷』一『か所、町の惣会所』一『か所、空き貸家』四百六十四『軒、油屋』六十九『軒、土蔵』三十六『か所、穴蔵』十二『か所。そのほか』、『大坂城代中屋敷、御城番中屋敷、地方役人衆屋敷』十一『軒、代官屋敷』二『軒ほかが』、『焼失』したとある。]

譚海 卷之九 攝州鼓の瀧の事

○攝州、「つゞみの瀧」、今は絕(たえ)て、其跡、白き砂のみ、殘りてあり。

 羽州の人、其邊(そのあたり)へ行(ゆき)たるとき、

「ちかき道なり。」

とて、案内者の申(まふす)にまかせて、

「瀧つぼの跡を、すべりおりて、きたる。」

と、物がたりせしなり。

[やぶちゃん注:「鼓の瀧」謡曲の「鼓瀧」がある。脇能物で作者は未詳。当代に仕える臣下が、宣旨により、山々の花を見て回るうち、摂津の国「鼓の滝」で、木こりに姿を変えた山神に会い、奇特の舞を見るというもので、永く廃曲であったが、現在、復元して演じられている。この話は、話者の、それに基づく創作であろう。]

譚海 卷之九 備前少將新太郞の事

○備前の少將新太郞殿と聞へ[やぶちゃん注:ママ。]しは、生質(きしつ)短少の人におはせしかど、英偉(えいゐ)なる御人(ごじん)にて、熊澤了海(くまざはりやうかい)[やぶちゃん注:底本では「海」に編者修正傍注があり、『(介)』とある。]などいふ儒(じゆ)[やぶちゃん注:「儒者」。]をまねき、學校を立(たて)られ、文武の道をそなへて、國政も、此ころより調(ととのひ)たり、とぞ。

「今世、諸藩に、學校を、もふけ建(たて)らるゝ事、備前を濫觴といふべし。」

と、きけり。

 新太郞殿、一日(あるひ)、在所にて、他行(たぎやう)ありしに、ある家司の門前を通行ありし時、其家司、奴僕(ぬぼく)を相手にして、屋根をつくろひていたる所へ、行(ゆき)かゝられ、此家司、避(さく)るに、いとまあらず、白衣(びやくえ)にて、其まゝ、門外にうづくまり、揖((いふ)したる[やぶちゃん注:会釈する。]を見られ、

「屋根を、つくろい、大義なり。」

と挨拶ありて、有合(ありあひ)たる小刀の小柄(こづか)を賜(たまはり)て過(すぎ)られけり。

 翌日、公より、此家司、召(めさ)れければ、家司、

『定(さだめ)て、稱美(しやうび)に預るべし。』

と、心にはかりて、登城せしに、新太郞殿、申されけるは、

「昨日、其方、下人と同(おなじ)やうに、やねをこしらへ罷在(かまりあり)候。辛勞(しいらう)にはあれども、身分不相應の仕方に覺ゆるなり。かやうの事は、下賤のもののわざにて、知行取(とる)者の、すべき事には非ず。矢をはぎ、鐵炮をみがきなどすべき事は、士の身分あるべき事なれども、下賤のすべき事を自身にするやうにては、吝嗇(りんしよく)と申(まふす)ものにて、上下(かみしも)、かやうなる事を見ならひては、家中の風俗、惡敷(あしき)なるべし。依(よつ)て、其方事は、ながのいとま、とらするよし。」

にて、他所(よそ)へ、おはれけると、いへり。

[やぶちゃん注:「備前の少將新太郞殿」底本の竹内利美氏の後注に、『岡山藩主池田光政。寛永九年』(一六三二年)『岡山三十一万石の領主となる。藩治に実績をおさめ名君といわれた。天和二年』(一六八二年)『歿。熊沢了介は光政が登用した熊沢蕃山である』とある。この話自体は、私は嫌いだが、当該ウィキを見るに、興味深い、よいエピソード(例えば、被差別民を一般の百姓と差別しないように命じた話など)もあるので、見られたい。

「熊澤了海」「(介)」江戸初期の不屈の陽明学者熊沢蕃山(くまざわばんざん 元和五(一六一九)年~ 元禄四(一六九一)年)の字(あざな)が「了介」(一説には「良介」)。その波瀾万丈の生涯は(明暦三(一六五七)年に幕府と藩の反対派の圧力に耐え難く、岡山藩を去っている)当該ウィキを見られたい。]

譚海 卷之九 勢州神戶白子夏月蚊の事

○勢州、神戶(かんべ)・白子(しろこ)邊(あたり)は、蚊にくるしむ事、他國に異なる事なり。

 三月より、蚊帳(かや)をつりて、十月に至り、收(おさむ)る、とぞ。

 蚊のなきほどは、一年、たゞ、五ケ月に過(すぎ)ず。

 暑(あつさ)も、江戶にかわる事なけれど、全體、溫熱の地成(なる)故なるべし。

「いせ、南方にいたりては、又、然らず。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「勢州、神戶・白子」グーグル・マップ・データで示すと、「神戶」(かんべ)は三重県鈴鹿市神戸(かんべ)で鈴鹿市市街を含む内陸であり、「白子」(しろこ)は鈴鹿市白子町(しろこちょう)、及び、同白子で、鈴鹿市南東部、現行の狭義の白子は東側が伊勢湾に面して、白子港を持ち、広義の白子地区は水産業の盛んな地区である。以上からも判る通り、両地区は隣接しているわけではないので、注意されたい。そもそも鈴鹿市は昭和一七(一九四二)年に神戸や白子など隣接する多数の町村が合併して命名されたものである。それは「ひなたGPS」の戦前の地図で判然とする。この広域周辺は旧『河藝郡』(かわげぐん)内の一部(そうでなかった地区もある。但し、「神戶村」と「白子村」は同郡内であった)であった。何故、蚊が異様に多いのかは、よく判らないが、戦前の地図を見るに、『神戶町』の辺縁部も、『白子町』の一帯も、田圃であること、さらに『白子町から『神戶町』の西南周縁にかけて、非常に多くの池沼或いは溜池が非常に多くあるのが視認出来るから、これが一因ではあろう。

譚海 卷之九 京師石田勘平心學の事

○享保の比(ころ)、京部に石田勘平と云(いふ)儒者、有(あり)、朱學にて、專ら、一流の敎(をしへ)をなせり。

 此勘平、丹波の產にて、「本心(ほんしん)を得る」といふ工夫(くふう)をなし、その趣(おもむき)を、愚俗の人に、あまねく、つたへけるに、門人、あまた出來(いでき)て、歿したる時、洛東、鳥邊野(とりべの)[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ)。]に葬(はうふり)たり。

 門人の中に手島嘉左衞門(てじまかざゑもん)といふ者、京都の產にて、引(ひき)つぎて、本心の講釋をなし、俗言をもちて、あまねく勸(すすめ)ける故、其說、大におこなはれ、嘉左衞門、をしへにて、本心といふ事を得たるもの、數(す)百人に及(および)たり。

 此本心のむねを得る時に至りて、「斷書(ことわりがき)」といふものを、其人[やぶちゃん注:「手島嘉左衞門の弟子」を指す。]に、あたへ、

「今日(けふ)よりは、すなはち、石田先生の旨(むね)を得られし事なれば、嘉左衞門が弟子にはあらず。石田先生の弟子ぞ。」

とて、其人に敬(うやまひ)て、鳥邊野に、おもむかしめ、墓を拜(をがめ)さする事に成(なり)たり。

 嘉左衞門、歿して、其子、又嘉左衞門と稱し、父の道を、ひろめしかば、いよいよ、敎(をしへ)、盛(さかん)に成(なり)て、京都をはじめ、諸國にも、此をしへを傳(つたふ)る人、數多(あまた)、出來(いでき)しなり。

 嘉左衞門門人に、中津道二(なかざはだうに)といふ者、大坂の產成(なり)しが、諸國にあそびて、此道をひろめ、當時、天明の比、江戶に在住し、盛に本心の旨を說(とき)さとせしかば、諸侯をはじめ、諸所(しよしよ)の招待にあづかり、大賈(たいか)[やぶちゃん注:豪商。]の番頭など、おほく歸依して、男女、此をしへを信ずるもの、萬人(まんにん)にあまりたり、とぞ。

 其(その)をしふる所の大意(たいい)、程・朱の本然の氣質にもとづき、至極(しごく)の所は、釋・老の旨と、ひとしく、我心の安立する所を得るを、肝要と、くみたてたる事にて、禪家悟入の理に粗(ほぼ)かはる事、なし。儒の道を、やはらげて、平話にて人のよく聞取(ききとる)やうに物語にし、又は、假名(かな)にて平話に、其(その)をしへを書(かき)あらはしたる書も、あまた、あり。只、俗人を敎ふる事を先(せん)として、おのれをたてず、たとへば、其むねを著(しるし)たる書を披露するとても、

「何とぞ、是をよんで、御かんがへ下されよ。」

などと、無心(こころなく)いふやうに、たのみて、人に、すすめ、講談をするとても、座料などと云(いふ)事、一錢もとらず。其座敷、男女の席をわけて、しる、しらず、人を、まねき、其弟子の世話する者は、袴(はかま)を着(き)て、入來(いりきた)る人の、草履(ざうり)・はき物まで、丁寧に、あづかり、取扱(とりあつかひ)て、

「さりとては、御氣のどく成(なる)事、よう、御こしありし。」

などと、此方(こなた)より、說をうるやうに、もふけ、かまへたれば、人々、よろこび、歸依して、至(いた)る所、市(いち)をなし、感服せずといふ事、なし。

 此道に、無文[やぶちゃん注:「無学文盲」の略。]の男なれども、よく、心理(しんり)の義を會(くわい)して、人に、をしふる故、たびたび、講談の席(せき)にのぞむもの、或は、不孝を、あらため、又は、放蕩成(なる)身を悔(くい)て、節(せつ)をあらため、正しき道に、おもむくもの、あまたありしかば、たふとき事に信じ、いたゞく事、かぎりなし。俗人をすゝめ、みちびくには、又、巨益(きよえき)、少からず、といふべし。

[やぶちゃん注:「享保の比」一七一六年から一七三六年まで。

「石田勘平」底本の竹内利美氏の後注に、『石門心学の開創者石田梅巌。丹波国南桑田郡の農家に生まれ、庶民の教化に一流をひらいた。延享元年歿』とある。通常表記は石田梅岩(貞享二(一六八五)年~延享(一七四四)元年)。江戸中期の思想家で、石門心学(せきもんしんがく)の祖。名は興長。勘平は通称。梅岩は号。京都の商家に奉公する傍ら、小栗了雲に師事。後に神・儒・仏三教を合わせた、独自の実践的倫理思想を、特に商人に対して平易に説いた。主著に「都鄙問答」・「斉家論」。他に門弟の編集になる「語録」が残る。当該ウィキが事績に詳しい。

「手島嘉左衛門」同前で『手島堵庵』(てじまとあん 享保三(一七一八)年~天明六(一七八六)年)。『石門心学の高弟。京都の商人で、心学の普及につとめ、庶民教育に力をいたした。天明六年歿』とある。当該ウィキによれば、『豪商上河蓋岳の子で、母は上河氏。子に手島和庵がいる。本名上河喬房。通称を近江屋源右衛門という』(辞書で調べたところ、後に嘉左衛門と称したことが確認出来た)。『字は応元、名は信、別名は東郭』。十八『歳の時に石田梅岩に師事。元文』三(一七三八)年に)『開悟し』、宝暦一二(一七七三)年『頃に家業を和庵に譲る。その後は』、『兄弟子たちの相次ぐ死もあり、石門心学の講説を行い、名声をあげる。隠居した当初は、京都富小路の五楽舎に住み、講学の場とするも、門弟の増加により』、安永二(一七七三)年に『五条東洞院に』「修正舎」を、安永八(一七七九)年には西陣に「時習舎」を、さらに天明二(一七八二)年には、『河原町に』「明倫舎」を建て、石門心学の普及』・『宣伝に尽力』した。『弟子には、中沢道二・布施松翁・上河淇水・脇坂義堂・薩埵徳軒などがいる』とある。

「中津道二」(享保一〇(一七二五)年~享和三(一八〇三)年)は名を義道、通称は亀屋久兵衛。京都の産。手島堵庵を師として心学を修め、命を受けて、江戸に下り、「参前舎」を興し、「関東心学」の基礎を築いた。また、関西諸国も遊説し、布教に努めた。道話の名手で、その筆録「道二翁道話」は刊本として広く読まれた(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「天明の比」一七八一年から一七八九年まで。

「程」二程子。北宋の思想家兄弟。兄の程顥(ていけい 一〇三二年~一〇八五年)と、弟頤(こう 一〇三三年~一一〇七年)。思想傾向が近いことから、一緒に論じられることが多い。彼らの学は「程学」とも称され、北宋道学の中心に位置し、宋学の集大成者朱子への道を開いた。天地万物と人間を生成調和という原理で一貫されているところに特徴がある。二人はともに朱子学・陽明学の源流とされる。

「朱」朱子。朱熹(しゅき 一一三〇年~一二〇〇年)。南宋の地方官で儒学者。宋以降の中国及び本邦の思想界に圧倒的な影響を及ぼした。彼は北宋道学を集大成し、宇宙論・人性論・道徳論の総ての領域に亙る理気の思想を完成させた。

「釋」釈迦の思想。仏教。

「老」老子の思想。]

譚海 卷之九 寬政元年蝦夷一件の事 同斷事一件

[やぶちゃん注:これは前話をロケーションで冒頭でちょと受けている。]

 

○寬政元年六月晦日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一七八九年七月二十二日。]、土崎湊、松前船問屋神島淸九郞、領主へ書上候書面寫。

「當五月、松前の商人船(あきんどぶね)六、七艘、奧蝦夷(えぞ)「くなじり」[やぶちゃん注:国後(くなしり)島(グーグル・マップ・データ)。]へ參候處、船中、人數(にんず)、六、七十人無ㇾ殘(のこりなく)殺害(せつざい)に逢(あひ)候内、壹人、炊手(かしぎて)[やぶちゃん注:賄い役。]、毒矢にあたり候へ共(ども)、綿入二つ、着(き)いたし候ゆゑ、裏、かき不ㇾ申候。一本の矢は、腕を摺付(すりつけ)られ候(さふらふ)て、這々(はうはう)、遁(のが)れ、山陰へ𢌞り、「命、助(たすけ)くれ候。」やうに、「えぞ」へ賴(たのみ)候ところ、腕の肉を剜(えぐ)り、藥[やぶちゃん注:底本では「藥」の前に編者補正注で『(毒)』とある。]を付(つけ)、潛(ひそか)に、舟にのせ、突(つき)ながし候處、松前丸金の舟へ、行逢(ゆきあひ)、便船(びんせん)賴(たのみ)候て、松前へかへり、右の次第申上候由。右一亂の起(おこり)は、松前飛驒屋と申(まふす)問屋より、年々、米、遣(つかは)して、「にしん」十束に、米壹俵、取替(とりかへ)候處、「蝦夷地、一兩年、魚物(うをもの)、不獵ゆゑ、七束と、取替くれるやう。」に申候處、承引不ㇾ仕(つかまつらず)候より、事、起(おこり)候由。松前より、「えぞ地」へわたりし舟には、松前の役人、ふね一艘に、一人づつ乘參(のりまゐり)候、是又、殺害に逢候由、承候。右亂、起(おこり)候に付、江差へ參候、「山吹」と申(まふす)舟、半途にて、うけたまはり、とつてかへり候由。越後より參候舟二艘も、「くなじり」へ參候。是はいかゞ相成候哉(あひなりさふらふや)しれ不ㇾ申候。「くなじり」と申(まふす)は、五、六島、支配致候由。頭(かしら)、蝦夷、平生、慈愛有ㇾ之候て、人柄もよろしく候。其弟、「えぞとびがうゑん」と申者、暴惡に候由。其上、五、六年以前、赤人(あかひと)より、浪人、「ゑぞ」壹人、參居候。是と、はかり候て、此度(このたび)の一亂を、おこし候由。尤(もつとも)、赤人、「くなじり」、山、壹(ひとつ)隔(へだて)て、近所のよし。高麗へも近き所の由。松前より、「くなじり」へ、海上四百里御座候。松前樣より、江戶へ、御伺(おんうかがひ)被ㇾ成候由。松前へ、先年より、「御味方えぞ」と申もの、有ㇾ之候。是へ被仰付壱、專ら、和談の御取扱有ㇾ之候由。右一亂、有ㇾ之、今、以(もつて)、鎭(しづま)り不レ申候得共(まふさずそうらえども)、遠方の事故(ことゆゑ)、舟、さしつかはし可ㇾ申候由、松前問屋より、私方へ書狀到來仕候。「くなじり」、赤人などの「えぞ」は、梵字の如き文字、有ㇾ之、通用致候。「くなじり」へ、松前の舟、入津(にふしん)いたし候所、常には、「えぞ」ども、出迎(いでむかへ)、陸ヘあげ候。此度は、「鯨(くじら)、切(きり)に參候。」とて、壹人も參り不ㇾ申候。不意に松前船ヘ押寄(おしより)、毒矢を射懸(いかけ)、或は、打殺(うちころ)し、壹人も殘らず、殺害に逢候由。

 右の通(とほり)、六月始(はじめ)、津輕より參候、船頭、物語に御座候。猶、くはしき事は追々可申上候。」

[やぶちゃん注:「松前丸金」不詳。松前の屋号「丸金」ということか。]

 右の物語には、「えぞ」、夜に乘じ、「女えぞ」に、竹のさきへ、「かぎ」を付(つけ)たる物をもたせ、其あとに、「男ゑぞ」は、數多(あまた)、付(つき)したがひ、船中へ押入(おしいり)、竹の鉤(かぎ)にて、寢たる人の夜具を、引(ひき)とらせ候を合圖に、毒矢を射懸、皆ごろしにして、其後日、本人は、

「藥を服すれば、よみかへるぞ。」

とて、ことごとく、死人の眼精(がんせい)[やぶちゃん注:目玉。]を、「女えぞ」に、くじり出(いだ)させ、其まゝ、死骸をば、鱠(なます)のごとくに、切りたり、とぞ。

 又、一說に、「えぞ」の海邊(うみべ)には、松前候より、ことごとく、番所を、たてて、番を居置(をりおきく)事なるに、「くなじり」より、おしわたり、ちかき海邊の番人を、百五、六十人を、皆、ころしたりと、いへり。七月下旬、公儀より津輕侯へも、松前加勢の仰渡(おほせわたし)ありて、松前より、一左右(いつさう)次第[やぶちゃん注:「ある問題・事態などに対処するための指示」が着き次第。]、早速、打手に向ふべき由、御下知なり。其後(そののち)、先(まづ)、松前の役人ばかり、軍船二艘にて、「くなじり」へ向ひたりしが、事(こと)、和陸に成(なり)て歸船せし由。右の以前迄は、「くなじり」、騷動に付(つき)、松前へ、わたりたる商人(あきんど)の分(ぶん)は、殘らず、船留(ふなどめ)にて歸鄕する事、不ㇾ叶(かなはず)、追々(おひおひ)、軍(いくさ)のやうす次第、留置(とどめお)きたる人をも、討手(うつて)の中に遣(つかは)さるべき荒增(あらまし)などと、沙汰せしなり。十月にいたり、「くなじり」の大將の母、

「松前の恩に年來(ねんらい)預りし事故(ゆゑ)、此度(このたび)、背(そむき)ては、本意(ほい)ならず。」

とて、張本の内、八人、同道して、松前へ來り詫(わび)ければ、母をば、結構に馳走ありて逗留せられ、八人の「えぞ」をば、ことごとく殺(ころし)て、松前の濱邊に梟首(けうしゆ)せられ、一件、無事に成(なり)たり、とぞ。

 此はゝは、百七十歲に成(なり)たると、いへり。誠成(まことなる)にや、いかゞ。

[やぶちゃん注:何とも凄絶な話であるが、これは「クナシリ・メナシの戦い」と言う。当該ウィキによれば、『国後・目梨の戦いと表記されることもある』とし、この寛政元年に『東蝦夷地(北海道東部、道東)で起きたアイヌの蜂起。事件当時は「寛政蝦夷蜂起」または「寛政蝦夷の乱」と呼ばれた』として、『松前藩の』「新羅之記録」には、元和元(一六一五)年から元和七年『頃、メナシ地方(現在の北海道目梨郡羅臼町、標津町周辺)の蝦夷(アイヌ)が』、百『隻近い舟に鷲の羽やラッコの毛皮などを積み、松前でウィマム』(脚注にアイヌの言葉で『藩主や役人にお目見えすること』とある)『し献上したとの記録がある。また』、正保元(一六四四)年に『「正保御国絵図」が作成された』際、『松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など』三十九『の島々が描かれ』、正徳五(一七一五)年には、『松前藩主は江戸幕府に対し』、『「十州島、唐太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告』している。享保一六(一七三一)には、『国後・択捉の首長らが松前藩主を訪ね献上品を贈っている』。宝暦四(一七五四)年には、『道東アイヌの領域の最東端では、松前藩家臣の知行地として国後島のほか』、『択捉島や得撫島』(うるっぷとう)『を含む』「クナシリ場所」が『開かれ、国後島の泊』(とまり:大泊のことか)『には交易の拠点および藩の出先機関として運上屋が置かれていた。運上屋では住民の撫育政策としてオムシャ』(当該ウィキを参照)『なども行われた』。安永二(一七七三)年には、『商人』飛驒屋が、『クナシリ場所での交易を請け負うようになり』、天明八(一七八八)年には、『大規模な〆粕の製造を開始すると』、『その労働力としてアイヌを雇うようになる。〆粕とは、魚を茹でたのち、魚油を搾りだした滓を乾燥させて作った肥料。主に鰊が原料とされるが、クナシリでは鮭』や『鱒が使用された。漁場の様子については北海道におけるニシン漁史も参照』。『一方、アイヌの蜂起があった以前から』、寛永二〇(一六四三)年には、『オランダ東インド会社の探検船「カストリクム号」が択捉島と得撫島を発見、厚岸湾』(あっけしわん)『に寄港、北方からはロシアが北千島(占守郡や新知郡)』、『即ち』、『千島アイヌの領域まで南進しており、江戸幕府はこれに対抗して』、天明四(一七八四)年から、『蝦夷地の調査を行い』、二年後の天明六年になると、『得撫島までの千島列島を最上徳内に踏査させていた。千島アイヌは北千島において抵抗するも、ロシア人に武力制圧された上』、『毛皮税などの重税を課され、経済的に苦しめられていた。一部の千島アイヌはロシアから逃れるために、道東アイヌの領域の得撫島や択捉島などに南下した。これら千島アイヌの報告によって』、『日本側もロシアが北千島に侵出している現状を察知し、北方警固の重要性を説いた』工藤平助の「赤蝦夷風説考」(私が多数の電子化注を行っている只野真葛の父)等が『著された』。而して、この寛政元年、「クナシリ場所」『請負人』であった飛驒屋との『商取引や』、『労働環境に不満を持った』「クナシリ場所」(=国後郡)の『アイヌが、クナシリ惣乙名ツキノエの留守中に蜂起し、商人や商船を襲い』、『和人を殺害した。蜂起をよびかけた中でネモロ場所メナシのアイヌもこれに応じて、和人商人を襲った。松前藩が鎮圧に赴き、また、アイヌの乙名たちも説得に当たり』、『蜂起した者たちは投降、蜂起の中心となったアイヌは処刑された。蜂起に消極的なアイヌに一部の和人が保護された例もあるが、この騒動で和人』七十一『人が犠牲となった。松前藩は、鎮定直後に』飛驒屋の『責任を問い』、『場所請負人の権利を剥奪、その後の交易を新たな場所請負人』として『阿部屋村山伝兵衛に請け負わせた。一方、幕府は、寛政』三年から四年にかけて、「クナシリ場所」や「ソウヤ場所」で『「御救交易」を行った。ロシア使節アダム・ラクスマンが通商を求めて根室に来航したのは、騒動からわずか』三『年後の寛政』四(一七九二)『年のことである』。『事件から』十『年を経た』寛政一一(一七九九)年に『東蝦夷地(北海道太平洋岸および千島)が、続いて』、文化四(一八〇七)年には、『和人地』及び『西蝦夷地(北海道日本海岸・樺太(後の北蝦夷地)・オホーツク海岸)も公議御料となった』。『北見方面南部への和人(シサム・シャモ)の本格的な進出が始まったのは』、『この蜂起の後、江戸幕府が蝦夷地を公議御料として、蝦夷地への和人の定住の制限を緩和してからである。幕府はアイヌの蜂起の原因が、経済的な苦境に立たされているものであると理解し、場所請負制も幕府直轄とした。このことにより、アイヌの経済的な環境は幾分』、『改善された。しかし、これはアイヌが、和人の経済体制に完全に組み込まれたことも意味していた』。『幕末の弘化元から同二年(一八四五年~一八四六)年に『知床地方を訪れた松浦武四郎が』文久三(一八六三)年に『出版した』「知床日誌」に『よると、アイヌ女性が年頃になると』、『クナシリに遣られ、そこで漁師達の慰み物になったという。また、人妻は』、『会所で番人達の妾にされ、男性は夫役のため離島で』五『年も』十『年も酷使され、独身者は妻帯も難しかったとされる』。『また、幕末に箱館奉行が種痘を行い』、『対策を講じたものの、和人がもたらした天然痘などの感染症が猛威をふるい、本格的にアイヌ人の人口を減少させた。その結果』、文化四(一八〇四)年に二万三千七百九十七人と把握されていた人口『(江戸時代の日本の人口統計も参照)が』、明治六(一八七三)年には一万八千六百三十人に『減ってしまった。アイヌの人口減少は』、『それ以降も進み、北見地方全体で』明治一三(一八八〇)年に九百五十五『人いたアイヌ人口は』、十一年後の明治二十四年には三百八十一人にまで『減った』。後の明治四五(一九一二)年五月(二ケ月後に「大正」に改元)、『納沙布岬の近くの珸瑤瑁(ごようまい)の砂浜に埋まっている墓碑が発見された。表面に』「橫死七十一人之墓」、『横面に』。「文化九年年歲在壬申四月建之」、『裏面には漢文で事件の経緯が刻まれていた。文化九年は西暦』一八一二『年である。墓碑は現在納沙布岬の傍らに建てられており』「寛政の蜂起和人殉難墓碑」の『名称で根室市の指定史跡となっている』とある。]

譚海 卷之九 北海𢌞りの船直乘の事

[やぶちゃん注:「直乘」は「ぢきのり」と読んでおく。]

 

○羽州秋田領、能代(のしろ)と云(いふ)は、北陸[やぶちゃん注:底本では編者傍注で『(極北)』とある。]・津輕、境(さかひ)にて、繁昌の地なり。

 同郡、銅山より、荷を積出(つみいだ)す所にて、能代湊より、秋田本城の土崎湊(つちざきみなと)まで廿五里有(あり)、土崎湊より大坂迄は、五百八十二里、有(あり)と、いへり。

[やぶちゃん注:現在の秋田県秋田市土崎港相染町(つちざきみなとそうぜんまち)の土崎港であるが、「ひなたGPS」の戦前の地図の方が判り易い。]

 是、「北𢌞り」の限(かぎり)なり。

 「北𢌞り」の舟、越後海邊までは、浦に沿(そひ)て行(ゆき)、能登の鼻にいたりて、浦に沿て、まはれば、甚(はなはだ)、海路、迂遠なるゆゑ、近來(ちかごろ)は、「沖乘(おきのり)」といふ事をはじめて、隱岐の國の北より、直(ぢき)に、土崎湊へ乘着(のりつけ)るやうにせし事なり。

 されど、此沖乘(おきのり)は、日本の地を、はなるゝ事、百里餘も、沖を乘るゆゑ、順風ならでは、乘(のる)事、がたし。

 又、

「深夜、沖に舟をかけて泊(とまり)たるに、前後、一向、目あてなく、日本をも、はるかに離(はなれ)たると思へば、ことの外、こゝろぼそく、安心せざるものなり。」

と、船頭の、ものがたりせしよし、なり。

[やぶちゃん注:これは、対馬海流に乗って、能登及び佐渡島の西側を航行するルートを指していよう。されば、佐渡を過ぎると、最大で八十キロメートル弱近く、本土から離れる。船頭のつぶやきも、よく判る。

「百里餘」これは例の「坂東道」(=「小道(こみち)」)であろう。一里を六町(六百五十四・五四メートル)とする。六十五キロメートル強。]

譚海 卷之九 同侯の奥へ戲者招かるゝこと幷數學の事

[やぶちゃん注:「同侯」は前の二話の主人公である変奇大名有馬頼貴を指す。]

 

○此侯の奥へ、時々、戲者(わざおぎ/ぎしや)[やぶちゃん注:この場合は広義の芸能の役者の意である。]、まぬかれ、終夜(よもすがら)、芝居・狂言、有(ある)事、時々(じじ)[やぶちゃん注:副詞。「しばしば」。]に及べり。

 戲者を奥へ通さるゝ通路、表の内、玄關の側(かたはら)に、穴藏、有(あり)て、夫(それ)より入れば、地道(ぢみち)を過(すぎ)て、奧の舞臺へ直(ただち)に通らるゝやうに拵へられたる、とぞ。

 諸藩中に、比類なき俠客なれども、朔望(さくばう)のつとめ、怠(おこたり)なく、殊に年﨟(ねんらう)にて、少將に奉任、有(あり)。

 又、數學は無雙の事にて、家司にも、入江平馬など云(いふ)儒者をはじめ、數學に達せし人、多くありて、新著の算術の書など、板行(はんぎやう)にせられたる、有(あり)。

 華人(くわじん)も、いまだ解しかねたる法(はう)まで、術を付(つけ)たる書にて、天下の數學者、歎美する事共、多し。

[やぶちゃん注:「朔望のつとめ」本来の「朔望」は、陰暦の一日と十五日を指すが、古代中国より、その日に朝謁する礼があったので、ここは、「幕府への勤仕(ごんし)」を指す。

「年﨟にて」「年をとってから」の意。頼貴は五十九歳の文化元(一八〇四)年に左少将に遷任されている。

「入江平馬」(いりえへいま)は、暦算家・兵法家であった入江東阿(とうあ 元禄一二(一六九九)年~安永二(一七七三)年)の通称。名は修敬・脩。江戸生まれ。初めは大島喜侍、後、中根元圭に学んだ。「山鹿流軍学」にも精通していた。寛延二(一七四九)年、筑後久留米藩に勤仕した(頼貴は未だ四歳で、当時は第七代藩主有馬頼徸(よりゆき)の治世。彼自身も数学者(和算家)として知られ、当該ウィキによれば、『それまで』五十二『桁しか算出されていなかった円周率をさらに』三十『桁』、『算出し、小数の計算まで成立させた』。明和六(一七六九)年には『豊田文景の筆名で』「拾璣算法」全五巻をも著している、『これは関孝和の算法をさらに研究し、進めた成果をまとめたものである』とあった)。著作に「天経或問註解」・「神武精要」等がある。]

2024/02/24

譚海 卷之九 同侯江戶の邸及侯性行の事

[やぶちゃん注:底本も、国立国会図書館本も、「目錄」の順序に本文とは異同がある。標題「邸」は「やしき」と訓じておく。なお、この前の「備前國大すり鉢の事 久留米侯寬裕の事」は既にフライング公開してある。標題の「同侯」及び冒頭の「此有馬侯」は、その話に関わって受けたもの。]

 

○又、此有馬侯、江戶品川に下屋敷有(あり)、海に臨(のぞみ)て、面白き家作(かさく)なり。

 朱の勾欄(こうらん)[やぶちゃん注:「高欄(かうらん)」に同じ。]など設(しつ)られて、めづらしきふしんなり。

 土用中、寶生大夫(ほうしやうたいふ)、親子にて、暑氣見舞に參扣(さんこう)[やぶちゃん注:「參叩」とも書く。高位の人の所へ参上すること。]せしとき、

「品川の下屋敷に、候の居(を)らるゝ。」

よしを聞(きき)て、箕田(みた)より、直(ただち)に、かしこに赴(おもむき)しに、

「寶生大夫、參上。」

のよしを聞(きか)れて、此侯、

「逢(あふ)べし。」

とて、居間へ、よばれける。

 其日、甚(はなはだ)、暑(あつく)成(なり)しに、種々(しゆじゆ)の蒲(ふ)とんを、高く、いくらも、積重(つみかさね)て有(あり)ける。

 侯、はだかにて、紅(くれなゐ)の絹の犢鼻褌(ふんどし)一つになられ、ふとんの、いたゞきに坐して、墨塗(すみぬり)に蒔繪(まきゑ)したる、七つはしごを、双方に、かけて、給仕の婢(はしため)兩人、絹の帷子(かたびら)一重、着て、はしごを、おりのぼりするところへ、寶生親子、呼出(よびいだ)されければ、寶生は、ふとんの下に、うづくまりゐて、暑中のうかゞひを、のベけるに、有馬侯、上より聲をかけて、

「けふは、殊の外、暑氣なり。ゆるりと、休息して、歸(かへる)べし。なんと、女子(をなご)どもの内股は、下から、見へるにや。」

など申され、父子、大(おほき)に迷惑して、退出せり。」

と、人のかたりし。

[やぶちゃん注:「有馬侯」底本の竹内利美氏の後注に、『久留米藩主有馬氏。寛政ころの藩主は有馬頼貴』(延享三(一七四六)年~文化九年二月三日(一八一二年三月十五日)、『藩治に実績をあげている』とあったが、当該ウィキを見ると、『当時の久留米藩は財政難に悩まされていた。ところが頼貴は相撲を好んで多くの力士を招いては相撲を行ない、さらに犬をも好んで』、『日本全国はもちろん、オランダからも犬の輸入を積極的に行い』、『財政難に拍車をかけた。このため、家臣の上米を増徴し、さらに減俸したり家臣の数を減らしたりして対処している。しかし幕府からの手伝い普請や公役などによる支出もあって、財政難は解消されることはなかった』ともある。この驚きの暑気払いのありさまは、何となく、ウィキの言う上のような変奇の「困ったちゃん」ぽいのが、爆発してるわ。

「下屋敷」「江戸マップβ版」の「芝高輪辺絵図(位置合わせ地図)」の『有馬中務大輔』とあるのが、それ。現在の高輪の品川駅のある場所で、江戸湾に接してある。

「寶生大夫」宝生流十四代本家宝生英勝である。将軍徳川家斉・家慶に仕え、寛政一一(一七九九)年に、初めて宝生流謡曲の正本「寛政版」を刊行し、宝生流が最も幅を利かせた時代を作った。彼は文化八年十二月四日(一八一一年一月十七日)死去で、有馬頼貴と没年がグレゴリオ暦では同年にして、二ヶ月足らずしか変わらない。

「箕田」久留米藩芝上屋敷は現在の東京都港区三田一丁目(グーグル・マップ・データ)にあったから、これは「みた」と読んでおいた。この漢字表記の例は見出せなかったが、ウィキの「三田(東京都港区)」を見ると、『地名の由来』の項に、『この地に朝廷に献上する米を作る屯田(みた)が存在したからとも、伊勢神宮または御田八幡神社の神田(みた)があったからともいわれる』とあって、「箕」(米などの穀物の選別の際に殻や塵を取り除くための農具)と強い親和性があるので、違和感は私にはない。]

譚海 卷之九 備前國西大寺正月十四日福ひろひの事

[やぶちゃん注:底本も、国立国会図書館本も、「目錄」の順序に本文とは異同がある。]

 

○同所、西大寺(さいだいじ)といふ所にて、每年正月十四日晝、「福拾ひ」といふ事、あり。

 寺にて、一七ケ日、「大般若經」執行(しふぎやう)有ㇾ之、其祈禱に用(もちひ)し所の香木(かうぼく)を、絹のきれ一反に卷(まき)、其上を、又、紙奉書に包みて、なぐるなり。

 木のながさとて、尺餘あるものなり。

「是を、ひろはん。」

とて、寺の庭中に群集(ぐんしゆ)する人、錐(きり)をたつる地、なし。

 ひろひ得たる人は、極(きはめ)て、「ふく報(ほう)」ありて、翌年、仕合(しあはせ)よき事、たがふ事なきゆゑ、かくのごとく群集するなり。

 其(その)ひろひたるものを、うりかひするに、いつも小判三十兩までには、かふ人、あり、とぞ。

[やぶちゃん注:「西大寺」岡山県岡山市東区西大寺にある高野山真言宗別格本山金陵山観音院西大寺。所謂、日本三大奇祭の一つの「裸祭り」で知られるのが、本篇のそれ。正式には「西大寺会陽(えよう)」と呼ぶ。現行では毎年二月の第三土曜日に開催されている。ウィキの「西大寺」によれば、神事は三『週間前から始まり、当日投げ込まれる宝木』(しんぎ)『の材料を如法寺無量寿院(岡山市東区広谷)に受け取りに行く「宝木取り」、その翌日の「宝木削り」を経て』、十四『日前からの修二会の祈祷が行われる。会陽当日の夜になると』、『まわし姿の裸の男衆が「ワッショ、ワッショ」の掛け声とともに集まり、牛玉所大権現(ごおうしょだいごんげん)の裸の守護神を参詣したあと、本堂西の四本柱をくぐり、本堂に向かう。そして』、十四『日間の修二会』(しゅにえ)『の祈祷が結願』(けちがん)『した深夜に、本堂の御福窓から』、『裸の男衆の頭上に香を焚きしめられた』二『本』一『対の宝木が』、『それぞれ牛玉』宝印(ごおうほういん)や奉書紙に『包んで投下される』。『そして』、『この争奪戦を制して』二『本いずれかの宝木を手にし、仁王門の外に出た者(取り主)が』、『その年の福男になる(現在は観音院境内の外での宝木争奪は禁止されており、仁王門外到達の時点で確定となる)。取り主は主催者である岡山商工会議所の西大寺支所内に特設された仮安置場へ宝木を持ち込んで申告、鑑定を受けて』、『その宝木が正当なものであれば』、『福男として認められ、その後』、『宝木を』、『その年の祝い主』(脚注で『宝木の賞金のスポンサー。現在は個人ではなく』、『企業や団体が祝い主となるケースが少なくない』とあった)『へ持ち込んで祝福を受け』、『表彰状を授与される』。『持ち込まれた宝木はそれから約』一『年、祝い主により祀られる習わしである』とある。]

譚海 卷之九 備前侯山莊結構の事

○池田家、備前の在所に構られたる山莊に、納涼の亭あり。

 二階作りにして、はしごを上れば、殘らず板敷にて、其中央を、幅壹間ばかりの川、ながるゝなり。

「川の左右に並居(なみゐ)て、納涼納凉する。」

と、いへり。

 かたはらの襖を、ひらけば、戶棚の内より、瀧おつる所、有(あり)、盛夏も其水、甚(はなはだ)、ひややかにて、たへがたきほどなり。

「皆、大石にて築立(つきたて)たる二階なり。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「池田家」「備前」岡山藩(備前国及び備中の一部を領有した大藩)。備藩庁は岡山城(備前国御野郡。現在の岡山県岡山市北区)で、殆んどの期間を池田氏が治めた。

「山莊」位置不詳。]

譚海 卷の九 奥州南部けふの細布の事

○南部けふの郡(こほり)に、黑田角兵衞といふ者、有(あり)。此ものの家に、いにしへの「細ぬの」の製を、つたへて、今に織出(をりいだ)すなり。あきもの[やぶちゃん注:「商物」。商品として売る物品。]にせず、所望する人あれば、織(おり)て、あたふるなり。

「價(あたひ)、銀三十匁ほどを、一端に、かふ。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「南部竹ふの郡」底本の竹内利美氏の後注に、『秋田県鹿角郡』(かづのぐん)『毛馬内』(現在の鹿角市十和田毛馬内(けまない)・十和田岡田十和田瀬田石(せたいし)に相当する。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)『地方。「けふのせばぬの」は歌枕としても有名で、錦木塚』(にしきぎづか)『の伝説と結合してもいる。白鳥の毛をまぜた幅の狭い布といわれ、古くは陸奥の貢物であったという。ケフは地名ではないが、後にはこの布の産地と解されるようになったらしい。現十和田町毛馬内の下古川の黒沢氏の家には、その細布を穏蔵している。麻布で、真澄遊覧記には当時も時々織るとしるしている(天明五年)。この黒田角兵衛は、黒沢兵之丞であろう』とある。錦木塚は、鹿角市十和田錦木稲生田(とわだにしきぎいなおいだ)にある塚で、当該ウィキによれば、『能や謡曲の「錦木」、また能因法師の歌「錦木はたてなからこそ朽にけれ けふの細布むねあはしとや」などの歌枕「錦木塚」として全国に知られている。世阿弥の謡曲「錦木」によって世に広がった。近世ではこの地は「歌枕の地」とされており、菅江真澄や古川古松軒および松浦武四郎がそれを記録しているほか、幕府巡見使がここに巡見所を設け、地元民に塚の縁起を聞き、細布の献上をしている』。「錦木塚物語」『はこの地に伝わる伝承物語で』、『昔、鹿角が狭布(きょう)の里と呼ばれていた頃、狭名(さな)の大海(おおみ)という人に政子姫というたいへん美しい娘がいた。政子は布を織ることが巧みだった。東に』二『里ほど離れた大湯草木集落』(秋田県鹿角市十和田草木(とわだくさぎ))『(三湖伝説の八郎太郎』(ウィキの「三湖伝説」を参照されたい)『もこの地が出身だと言われている)に錦木を売り買いしている若者がいた。錦木は楓木(かえでのき)、酸木(すのき)、かば桜、まきの木、苦木(にがき)の五種の木をひとつの束にしたもので、男が女の家の門前に錦木を立てて、家の中に招かれると女と気持ちが通じたものとする風習があった。ある日、政子姫の姿を見て心を動かされた若者は、錦木を一束姫の家の門に立てた。若者は来る日も来る日も錦木を立てたが門が開かれることはなかった』。『政子姫は子供をさらう大ワシを退けるため、鳥の毛をまぜた布を』三『年』三ヶ『月の願をかけて織り続けていた。このため若者の気持ちにこたえることができなかった。錦木があと一束で千束になるという日、若者は門前に降り積もった雪に埋もれ亡くなっていた』。二、三『日後』、『姫もあとを追うように亡くなった。姫の父の大海はこれを悲しみ』、二『人を千束の錦木と共に手厚く葬った。この墓は「錦木塚」と呼ばれるようになった』とある。

「一端」「一反」。着物一着分。幅が約三十六~三十八センチ、長さ十二メートル以上。]

譚海 卷の九 羽州秋田獵家士北畠信雄公の事

○同所[やぶちゃん注:前話を受ける。]、城下より十六里北に、天瀨川と云(いふ)所、有(あり)。そこに、古墳、ひとつ、有。

 是は、北畠信雄(きたばたけのぶかつ)の墓なる、よし。

 信雄公、豐臣太闇の時、出羽に配流ありしが、

「こゝにて、薨(こう)ぜられける。」

と、いひつたふ。

 此所に、しげりたる、はやし、有(あり)。

「例年、正月十六日の夜は、林中に音樂の聲(こゑ)、聞ゆる。」

よし、其地の人、物がたりぬ。

 いかなる事にや、あやしき事なり、とぞ。

[やぶちゃん注:「北畠信雄」信長の次男織田信雄/北畠信意(のぶかつ/のぶお/きたばたけのぶおき 永禄元(一五五八)年~寛永七(一六三〇)年)。底本の竹内利美氏の後注に、『織田信雄。信長の次子、伊勢国司となり』、『北畠姓を名告る。秀吉の追放にあって、那須に移され、さらに、天正十九年』(これは天正一八(一五九〇)年の誤りか)『秋田実季の領内に配流された。しかし文禄元年には伊勢に移されている』(ここも現在の知られる事績とは異なる)。『そのため、秋田県山本郡琴丘町天瀬川』(現在は正式には秋田県山本郡三種町(みたねちょう)天瀬川(あませがわ:グーグル・マップ・データ)である)『は信雄配流の地と伝え、そこの古墳をその墓に擬することもあったのだ。「真澄遊覧記」には、そこを「のぶこ畠」と呼んでいたとある』とある。現行での事績は当該ウィキが詳しいが、それによれば、彼は寛永七(一六三〇)年四月三十日に、『京都北野邸で死去』し、『享年』七十三とあり、『織田家の菩提寺である紫野大徳寺の総見院に葬られたが、上野国甘楽郡小幡(現群馬県甘楽郡甘楽町)の崇福寺に分骨され』、『奈良県宇陀市室生の室生寺にも織田信雄の遺骨を分骨した織田廟がある』。『室生寺は』、『もともと北畠国司家の廟があった北畠家所領の寺である。また、滋賀県近江八幡市の摠見寺にも信雄の供養塔がある』とある。]

譚海 卷之九 相州秋田家士小野寺桂之助事

[やぶちゃん注:標題及び本文の「相州秋田」はママ。国立国会図書館本の「目錄」でも同じであるが、以下が「秋田家士」であり、本文も以下の通り、「相州」ではなく、「羽州」であるので、「目錄」の「相州」は「羽州」の誤りである。

 なお、この前の話「駿州吉川吉實家藏鈴石の事」は既にフライング公開してある。]

 

○羽州秋田家中に小野寺桂之助と云(いふ)あり。

 先祖某(ぼう)は、甲州武田家の名士にて、晚年、秋田に寄食し、九十二歲にて卒せり。

 其人、老後、行水(ぎやうずい)せし時、家來に、肩を、あらはせけるに、肩先に「こぶ」ありしかば、

「あらふ。」

とて、すり落(おと)したるに、落(おち)て、聲(こゑ)、有(あり)ければ、家來、取揚(とりあげ)て見るに、鐵炮玉(てうぱうだま)の、肉に、くるまりて、「こぶ」に成(なり)てありしなり。

 則(すなはち)、主人に、とふに、

「いか成事にや、おぼへぬ。」

よし。

「但(ただし)、前年、某(ぼう)の戰場にて、鐵炮にて、脇はらを、うたれし事ありしが、その玉の、肩ヘのぼりて、「こぶ」に成(なり)たるにや。」

と答ける、とぞ。

[やぶちゃん注:手塚治虫先生の名作『ブラック・ジャック』の第二十九話「ときには真珠のように」(初出『少年チャンピオン』一九七四年七月一日号)を思い出す。主人公ブラック・ジャックが少年の時の瀕死の事故に遭い、それを救い、謂わば、彼の恩師となった医師本間丈太郎のウィキから引くと、『BJ』(ブラック・ジャック)『の家に突如、奇妙な殻に包まれたメスが届く。宛名には「JH」と書かれており、それが本間から届いたことに気付く。BJは急遽本間の家へと急ぎ、布団で寝たきりの本間を見舞う』。『そこで本間は昔、BJの手術中に体内にメスを置き忘れ』たことに気づくが、七年も経って『再び手術をした際に』、『カルシウムの殻につつまれたメス、すなわちBJの元に届いたメスを発見したことを話し、懺悔する。本間は』、『そのことがきっかけで、生命の不思議さと医学の難しさに気づいたのである』。『懺悔を終えた本間の意識は遠のき』(以下は同作の台詞のままに示す)、

「……な なあ ど どんな医学だって せ 生命のふしぎさには…かはわん…」「に 人間が 生きものの生き死にを じ 自由に し しようなんて おこがましい とは お お 思わんかね……」

『と言い残して意識を失う』。『BJは』、『本間を近くの病院へ搬送して手術するものの』、『彼の意識は戻らず、まもなく死亡が確認される。死因は老衰、つまり限りなく自然に近い「人の死」だった。完璧な処置をしたにもかかわらず』、『恩師を救えなかったことで悲嘆に暮れるBJの脳裏に、先述の本間の言葉が過』(よぎ)『るのだった』というストーリーである(但し、レッジコミュニティ・Q&Aサイト「Quora」当該話についての質問に対し、医師の複数回答では、メスを忘れるというのは、まず極めて稀れであり、鉗子ならあり得るかも知れないと言った感じで答えられてあり、別な回答者は、『カルシウム沈着が起こるのは正常な体では、唾液と歯がある場所か、あるいは造骨細胞が働いている場所のみで起こります。造骨細胞は骨の表面や内部でしか活動しませんし、沈着対象は他の種類の細胞が取り付いていないコラーゲン組織です。体組織が石灰化する難病は存在しますが、特定の場所だけに都合良く発現するようなものではありません』。『ステンレスメスですと、ニッケル等を含んでいるので異物として見なされ』、『炎症反応が起きます。体腔内であれば』、『普通は腹膜炎になります。作中でも奇跡扱いだったと思いますが、実際にあれば奇跡だと思います』とあったことを言い添えておく)。病院の玄関外で、しゃがみ込んだ憔悴したブラック・ジャックに、本間先生の影が寄り添って、先の台詞を語る最後のコマが、脳裡に焼きついている一篇である。]

譚海 卷之九 尾州名古屋城下の事

○尾州、「名護や」は、大坂の風俗ある所なり。女子の綿帽子も、餘國(よこく)よりは、大(おほき)にて、つぶりに、

「くるり。」

と、かぶるなり。

 逆旅(げきりよ)[やぶちゃん注:宿屋。旅館。]のやうすも、皆、表は商人(あきんど)の鄽(みせ)にて、裏に、長屋をまうけて、旅人を停(とめ)るところとす。

 菓子のたぐひも、大坂を學(まなび)て、殊に甘味なり。

譚海 卷之九 遠州婦人たやの事

○遠州にては、婦人、月水(げつすい)[やぶちゃん注:生理(メンス)。]になれば、「たや」と稱して別室に居(きよ)し、別火(べつくわ)にて食事をいとなむ。

 人と往來する事、なし。

 一國、みな、おなじ風俗なり。

 わづか鄰國の境(さかひ)へ、たつれば、此風(このふう)なし。

 火を吟味する事、格別の事なり。

[やぶちゃん注:「たや」「他屋」。底本の竹内利美氏の後注に、『月経や出産時の「赤不浄」をさけて、別火生活をおくる小屋。三遠地方の山間には近年までその風習が残っていた』とあった。諸辞書に「月小屋」「他火(たび)小屋」「不浄小屋」等とも呼び、月経中の女性が、家族から離れ、食事を別に調理して暮らすための小屋を指す。血を不浄と見る風習によるもので、同じ火で煮炊きしたものを食べると穢れが移るといって別火生活をさせた。東海から西に多く、第二次世界大戦頃まで、この風習があったという。]

譚海 卷之九 京まで一足にて事たる草鞋の事

○京都まで、一足(いつそく)にて事(こと)たる「わらんず」、有(あり)。

 丸の内、朽木家(くつきけ)の屋敷の、門番の者、こしらへ出(いだ)すなり。わらの「ふし」を除(のぞき)て、よくよく、うち、やはらげて造るゆゑに、第一、「まめ」をふみいだす事、なし。誠に長途に用(もちひ)ても、そんずる事、なし。放客の缺(か)くべからざるものなり。

 價(あたひ)は、七十二錢より、百五十錢迄なり。

[やぶちゃん注:江戸時代の草鞋は、専ら、武士の下僕である中間(ちゅうげん)が、内職として作って売っていた。当時の普通の草鞋は一足当たり十二文(凡そ三百九十から二百二十八円)だったから、通常の使い捨てのものより、六倍から十倍の値段となろう。東海道を行く場合、大体、三日(場合によっては二日)で一足を履き潰したといいます。仮に二日とすると、最低でも七~八足が必要だったことになる(Q&Aの回答例に拠った)。本当に一足だったとすれば、概ね、とんとんということになる。

「丸の内、朽木家」丹波福知山藩藩主朽木家。本巻の最新記事は寛政元(一七八九)年であるから、その年ならば、第八代藩主で蘭学によるヨーロッパ地誌・世界地理の研究者や貨幣研究家として知られる蘭癖大名であった朽木昌綱(まさつな)の代である。屋敷は「江戸マップ」の「江戸切絵図」のここの、次の位置(絵図では『西本願寺』とある)に『朽木近江守』とあり、築地本願寺の北西方の、この中央辺り(グーグル・マップ・データ)にあった。]

譚海 卷之九 和州土人まむしをさくる法の事

[やぶちゃん注:前話とは蛇繋がり。]

 

○和州には、「まむし」、殊に多し。

 土人、常に竹の筒に「たばこのやに」を、たくはへ、「なめくじ」を調和し、「竹のへら」を、そへて、腰につけ、往來に所持するなり。

 いづくにても、「まむし」にさゝれたると覺えて、足、いたむときは、そのまゝ、「たばこのやに」を、「竹べら」につけて、いたむ所へ、ぬり付(つく)るなり。かくすれば、くはれたる所(ところ)癒(いえ)て、のちのうれひ、なしと、いへり。

 又、何國(いづく)の事にか、「まむし酒」といふを、つくる事、有(ある)よし。

 酒がめに酒をたゝへ、其上に、竹かごを釣(つり)て、まむしを、いくらも入(いれ)おけば、まむし、かごのうちにて、たがひに、すれあひて、身より膏(あぶら)をいだす事、をひたゞし[やぶちゃん注:ママ。]。其油、酒中にしたゝり、和して、白泡(しろきあは)の如くなるを、酌(くみ)えて、服するなり。

 精氣を、ます藥なるよしを、いへり。

[やぶちゃん注:「まむし」クサリヘビ(鎖蛇)科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii 。私が富山県高岡市伏木で伏木高校の文化祭で私の所属していた生物部の先輩が、一升瓶に入れた「マムシ酒」を展示していたが、二月(ふたつき)前に焼酎に漬けたものであったが(酒量は半分程だった)、未だに生きており、なんと、♀で、子どもが中で生まれていた。実際、三ヶ月経って、酒量が減ったので、足そうとして、飛び出したマムシに噛まれたという事実事例を知っている。おそるベシ! マムシ!]

譚海 卷之九 三州黑書院烏蛇の事

○三河、黑書院といふ山中に、烏蛇(からすへび)、あまた有(あり)。

「其血を取(とり)て、藥物(やくもつ)に製す。」

と、いへり。

 鳥蛇の血をとるには、大成(おほきなる)桶の四邊に、小き穴を、𨻶(すきま)なく明(あけ)て、一人、桶に入(いり)て、蓋を牢(かた)く、おほひ、桶を、細引(ほそびき)の繩にて、ゆはへ、谷へ釣下(つりおろ)すなり。

 桶、谷底にいたるとき、桶の内にて、笛を、數度(すど)、吹(ふく)時は、烏蛇、笛の音を聞(きき)したひて、桶の四邊に、ひまなく、數百、とりつく。其時、桶の中の穴より、針をさし出(いだし)て、鳥蛇の血を、器(うつは)に入(いる)る。

 烏蛇、にげさるを待(まち)て、桶を引上ると、いへり。

[やぶちゃん注:「黑書院といふ山中」種々のフレーズで調べたが、全く不詳。

「烏蛇」これはアオダイショウ(青大将:ナミヘビ科ナミヘビ亜科ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora )、及び、ナミヘビ科ナミヘビ亜科ナメラ属シマヘビ Elaphe quadrivirgata 、或いはクサリヘビ(鎖蛇)科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii の孰れかを指す広汎な地方名である。「カラスヘビ」は文字通り、烏のように「黒い蛇」「黒く見える蛇」「暗い色をした蛇個体」を通称総称するものであり、種名ではない。なお、ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属シマヘビ Elaphe quadrivirgata の黒化型(melanistic:メラニスティック)個体の別名とする記載もあるようだが、それが「四方」から「桶」に集まってくるような集団を形成するというのは、到底、考え難いので、それではない。]

譚海 卷之九 貝原篤信先生の事

○貝原篤信(あつのぶ)と云(いふ)は黑田家の儒官なり。

 國主の命によりて「筑後風土記」をあらはしたり。

「國中を、十六年、往來して書成(かきなし)たり。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:正しくは「筑前國續風土記(ちくぜんのくにしよくふどき)」である。元禄一六(一七〇三)年の成立。]

 其書に、「筑紫」の稱を論ぜしに、いへるは、

『筑紫の稱、說々、おほけれども、慥成(たしかなる)よりどころ、なし。往古、異賊、襲來を防がるゝ爲に、海邊へ、石をきづきたる事、國史に載(のり)たり。今も、筑後海邊には、所々に、大石、殘りたる有(ある)は、國史にいへる所の石成(なる)べし。是にて考(かんがへ)れば、「つくし」と稱せる事は、「築(つ)く石(いし)」成(なる)べし。』

と、いへるよし、彼(かの)書にありと、いへり。

[やぶちゃん注:江戸前・中期の儒者で本草家の貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)。篤信は本名。筑前福岡藩主黒田光之に仕え、後に京に遊学して寛文四(一六六四)年に帰藩した。陽明学から朱子学に転じたが、晩年には朱子学への疑問を纏めた「大疑錄」も著している。教育や医学の分野でも有意な業績を残している著書は以下の「大和本草」の他、「養生訓」「和俗童子訓」など、生涯、実に六十部二百七十余巻に及ぶ。私は既に二〇二一年六月に、二年半かけてブログ・カテゴリ『貝原益軒「大和本草」より水族の部』を完遂している。

「築く石」国立国会図書館デジタルコレクションの『益軒全集』「卷四」(益軒会編・益軒全集刊行部(隆文館内)明治四三(一九一〇)年刊)の「筑前國續風土記」の「卷之一」の冒頭の「提 要 上」の「總 論」で「筑紫」の称の考証があり(ここ)、そのこちらの右ページ上段四行目から、

   *

ひそかにおもふに、いにしへ、異國より賊兵の襲(おそひ)來るをふせがんとて、筑前の北海の濱(ほとり)に石垣を多く築り[やぶちゃん注:「つくり」であろう。]、其故に突く石といへる意なるを略して、つくしと云なるべし。[やぶちゃん注:中略。具体な上古から鎌倉時代までの異国からのこの地方への侵略の例を挙げてある。]然れば昔此國をつくしと名付し事は、筑石(つくいし)と云ふことばをとれるなるべし。是前人のいまだ識者の是正をまつのみ。むかし筑前筑後二國にて、是を筑紫といふ。つく、ちく、音相通ずれば、又ちくしとも云。後に二國に分ちし時、ちくぜんちくご□[やぶちゃん注:判読不能。「と」だろう。]云。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

とあった。本篇の「築(つ)く石(いし)」の読みも、以上に従った。]

譚海 卷之九 房州おぼこ魚の事

○「おぼこ」と云う[やぶちゃん注:ママ。]を、生長して「ぼら」と號す。

 房州瀕海には、所々に、「いけす」を、こしらへて、「おぼこ」の時より、かひ置(おき)て、獵し、得る事を、きんず。

 夜陰、他所(よそ)の漁人、來りとらん事を、殊に、ふせぐ事なり。

 「おぼこ」、あそびに出(いづ)る事、有(あり)。時、ありて、いけすに、ひとつもなく、うする事、有。

 然して、晚來(ばんらい)は、いつも數(す)萬頭、沖のかたより、群來(むれきたり)て、いけすに入(いり)、水の色、黑く見ゆるほどに、あまた、つどひ來(きた)る事なり。

 寒中に至(いたり)ては、「すばしり」・「ぼら」などといふものに生長する。

 其時、初(はじめ)て、網を、おろして、獵し、とるなり。

「寒中には、『ぼら』の眼、くらがりに心よく走る事、叶はず。さるがゆゑに、もらさず取得(とりえ)らるゝ事。」

と、いへり。

 又、大龜も、同國島崎と云(いふ)所には、漁人、もつぱら、とる事にするなり。

 取ると、甲(かふら)をはぎて、江戶へ出し、鼈甲(べつかふ)の贋作(がんさく)を造る工人へ沽却(こきやく)[やぶちゃん注:売ること。]する事なり。

[やぶちゃん注:ボラ目ボラ科ボラMugil cephalus 。江戸時代にここにあるような半養殖が行われていたことは、大阪の老舗の魚屋「鮮魚川崎」の公式サイト内の『臭い魚の代名詞「ボラ」がイメージ回復中 高い適応能力で養殖事業化も』に、『身も美味しく、卵巣やへそが珍味で重宝されそうなボラですが、今ではほとんど食用とされていません。古くは高級魚としても扱われ、江戸時代などは贈答用などにも使われ、一時は千葉県内房浦安沖などでは養殖も行われているほど重宝されていたボラ』(☜)。『それがなぜこんなにも嫌われる存在になってしまったのでしょうか。それには私たちの文化の発展が大きく関わっています』。『高度経済成長の頃、当時は今のように排水などは管理されていなかったため、多くの川が汚染されていました。しかし、ボラは強靭な生命力、そして適応能力を持っていたため、その頃の水質汚染にも耐えることが出来てしまった為、汚染された水によって臭みのあるボラが多くなってしまったのです』。『この頃からボラを食する文化は徐々に薄れていき、「臭くて食べれないサカナ」というイメージが残ってしまったのです』。『関東地方ではまだまだ食用のイメージは薄いかもしれませんが、関西では近年少しずつ流通量が増えているようです。また、海外においてはフィリピンなどでも強い生命力、環境への適応能力から養殖の研究が進められているそうです』。『日本近海の水質環境がもっと向上すれば、もしかしたら近い将来には昔のように多くの人から愛されるサカナになっているかもしれません』。『美味しい魚であり、よく釣れる魚であり、冷蔵庫を使わなくても淡水で生かしておくことが出来る【ボラ】。今後の活躍に期待です』とあることでも、判る。因みに、この「いけす」(生簀)というのは、一部に出入りする開口部が作られており、餌が少ない時期、この生簀で人が餌を与えていれば、それを記憶して、沿岸に出ても、再び戻っているようになっていたものと思われる(彼らは、有意にジャンピングをするが、私は何度も見かけたが、それで閉鎖型の海面部が開放された生簀に戻るというのは、ボラ側のリスクが大きく、私には考えられない。そもそもがボラのジャンピングの理由自体が目的が今も明瞭ではないのだから)。私の

「大和本草卷之十三 魚之上 ヒビ (ボラ)」

「大和本草卷之十三 魚之上 河鯔 (ボラの幼魚の別種誤認)」

「大和本草卷之十三 魚之下 鯔魚(なよし) (ボラ・メナダ)」

『大和本草附錄巻之二 魚類 「神仙傳」の「膾」は「鯔魚」を「最」も「上と爲す」とするに就いて「ぼら」と「いな」に比定 (ボラ) / 魚類 撥尾(いな) (ボラ)』

で、「出世魚」の地方変化や、同種及び近縁魚の特徴も詳注してあるので、見られたい。。]

譚海 卷之九 若狹國大龜の事

○若狹の海には、大龜のかしら、僧に似たる有(あり)。

 漁人、「龜入道」と號し、時々、網に入(い)るなれども、

「『殺す時は、たゝり、あり。』とて、酒をのましめて、放しやる。」

と、いへり。

 漢に「海和尙」といへるもの成(なる)べし。

[やぶちゃん注:私のサイトの「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類  寺島良安」の「和尚魚(おしやういを) 海坊主」(私はウミガメではなく、アシカ(鰭脚)亜目の水棲哺乳類に推定比定した)があるが、今回は、携帯で見ておられる若い方のために、図を含めて転写しておく(読み易さを考え、一部を省略・改変した)。「ぼうず」はママ。

    ※

 

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おしやういを

うみぼうず  【俗云海坊主】

和尙魚

ホウ シヤン イユイ


三才圖會云東洋大海中有和尙魚狀如鱉其身紅赤色

從潮汐而至

△按西海大洋中有海坊主鱉身人靣〔=面〕頭無毛髪大者五

 六尺漁人見之則以爲不祥漁罟不利遇有捕得則將

 殺之時此物拱手落泪如乞救者因誥曰須免汝命以

 後不可讎我漁乎時向西仰天此其諾也乃扶放去矣

 所謂和尚魚是矣

[やぶちゃん注:「靣」は中が「口ではなく「月」になってしまっている。しかし、このような異体字はないので、最も近い「靣」で代替した。]

おしやういを

うみぼうず  【俗に「海坊主」と云ふ。】

和尚魚

ホウ シヤン イユイ


「三才圖會」に云ふ、『東洋大海の中、和尙魚、有り。狀ち、鱉〔(べつ)=鼈〕のごとく、其の身、紅赤色。潮汐に從つて、至る。』と。

△按ずるに、西海大洋の中、「海坊主」と云ふもの有り。鱉(す□〔→本?〕)の身、人の面(つら)、頭に、毛髪、無く、大なる者は、五、六尺。漁人、之れを見る時は、則ち、以つて「不祥。」と爲す。漁罟(ぎよこ)、利あらず。遇々(たまたま)捕り得ること有らば、則ち、將に之れを殺さんとする時、此の物、手を拱(こまぬ)きて泪を落とし、救ふ者(こと)を乞ふがごとし。因りて誥(つ)げて曰く、「須らく、汝が命を免ずべし。以後、我が漁に讎(あだ)をすべからざるか。」と。時に、西に向かひて天を仰(あふ)むく。此れ其れ、諾なり。乃ち扶(たす)けて放ち去る。所謂る、和尙魚、是なり。

[やぶちゃん注:多くの資料がウミガメの誤認とするが、私は全く賛同出来ない。寧ろ、

・顔面が人の顔に似ている点。

・坊主のように頭部がつるんとしている点。

・一・五~二メートル弱という体長。

・魚網に被害をもたらす点。

・両手を胸の前で重ね合わせて涙を流しながら命を救ってくれることを乞うかのような動作や空を仰ぐような姿勢をする点(こんな仕草をする動物、水族館のショーで見たことがあるでしょう?)。

等を綜合すると、私にはこれは

哺乳綱食肉(ネコ)目鰭脚(アシカ)亜目アザラシ科 Phocidae のアザラシ類

か、同じ

食肉目鰭脚亜目アシカ科 Otariidae のアシカ(オタリア)類

及び

アシカ科オットセイ亜科 Arctocephalinae に属するオットセイ類

等の誤認以外の何物でもないという気がする。スッポンに似ているという点で、付図のような甲羅を背負ってしまう訳(それがウミガメ誤認説を導くのであろう)だが、これは断じてスッポンの甲羅では、ない。実際のスッポンの形状をよく思い出して頂きたい。甲羅は厚い皮膚に覆われており、鱗板(りんばん。角質板とも言い、爬虫類の鱗が癒合して板状になったもの)がなく、つるっとして、平たい。また、多くの種は、背甲と腹甲が固着することなく、側縁の部分は一種の結合組織で柔軟に結びついている。四肢を見ると、前肢は長く扁平なオール状を呈しており、後肢は短い。

 さて「この私のスッポンの叙述」は、恰も上に上げた水生哺乳類のイメージとかけ離れているであろうか? 私には部分的には、よく似ているように思われるのである。ちなみに「山海経動物記・三足亀」には、私と全く同じような見解から、アザラシやオットセイ、ヨウスコウカワイルカを巨大なスッポンと誤認したのではないか、という解釈が示されている(この「アザラシやオットセイ」の部分の同サイトのリンク先「鯥魚」(ろくぎょ)も必読である)。是非、お読みになることをお薦めする。なお、この本巻の初回公開以後に公開したブログの「大和本草卷之十三 魚之下 和尚魚(をしやううを) (アシカ・オットセイの誤認)」でも、再考証しており(「三才圖會」原本の「和尚魚」(図附き)も掲げてある)、ごくごく最近では、たまたま、『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「海坊主」』でも、一から仕切り直して、同定候補を子細に検討している。是非、読まれたい。

・「鱉」この字のルビは判読出来ない。「ス」は確かであるが、その下には「本」の字に似ていて、但し、四画目の右払いの最後が優位に右方向へ真直ぐ意識的に流れているので、「本」の字ではないようにも思われる(良安は、しばしば「時」「云」「子」等をルビとして用いるが、「本」という漢字を用いる用法は、現在までの作業内では未見)が、「すほん」で「すつぽん」という訓には一番近いので、とりあえず「本?」としておく。

・「漁罟、利あらず」「漁罟」は魚を獲るための漁網のこと。東洋文庫版では「漁網も、役に立たない」と訳しているが、如何にも乱暴な訳である。ここは、「和尚魚を見たり、捕らえたりしたと時は、不吉とするのみならず、その和尚魚が、漁網に入ると、網が破れたり、流れて亡失したりして、実利的にも甚大な被害が生ずる」という意味である。だからこそ、漁師は殺そうとするのである。

・「手を拱き」の「拱く」は、実は本来「こまぬく」で、現在の「こまねく」はそれが変化したもの。意味は、「両手を胸の前で重ね合わせる(腕を組む)」ことを指し、これは中国では敬礼の動作に当たる。但し、現行の用法は異なり、もっぱら、「何もしないで(する能力がなくて)手出しをせずに傍観しているさま」を言う。

・「誥げて曰はく」の「誥」は、単に告げるという意味よりも、「教え諭す」とか、「戒める」のニュアンスに加えて、「命令を下す」の意味も含まれる字である。

・「須らく、汝が命を免ずべし」の「すべかラク~すベシ。」は高校の漢文では、それこそ「必須」暗記の再読文字の一つ。「きっと~しなければならない。」「是非~すべきだ。」等と訳す「必須・義務・命令」の用法ではある。しかし、時には臨機応変な訳が必要で、ここは「きっと、お前の命を救ってやらねばなるまい。」「是非とも、お前の命を奪うことを免じてやるべきではある。」では、如何にも、おかしい。ここは本来の「須」の持っているところの、「しばし」とか、「少しの間」といった意味を利かせて、「暫く、お前の命を救ってやろうと思うぞ。」ぐらいが、よかろう。

・「此れ其れ、諾なり」の「其れ」は強意で指示語ではない。この和尚魚のする動作(西を向いて空を仰ぐこと。西方浄土にかけても約束を守るということであろう)こそが『分かりました』というしるしなのである、という意味。]

   ※]

2024/02/23

譚海 卷之九 同國熊を獵し幷いたちの事

[やぶちゃん注:「同國」は前話を受けるので、「越後國」。]

 

○又、同國の狩人(かりうど)、熊をとるには、山中に行(ゆき)て、熊のあつまり居(をり)たるを見ては、石をなげ付(つけ)れば、熊、いかりて、追來(おひきた)るとき、高き樹のうらへ、鐵炮を、もちながら、よぢのぼる。

 熊、したがつて、樹へのぼる所を、ねらひて、樹の上より、てつぼう[やぶちゃん注:ママ。]を、熊の口中(くちなか)へ、むけて、うつ。

 熊、はらを、うちぬかれて、卽時に死すと、いへり。

 又、當國には、「いたち」、殊に、おほし。

「山野に行(ゆき)て見れば、「いたち」、穴をほりて住(すみ)たる所に、子を、あまた、出(いだ)して、すまひ[やぶちゃん注:「相撲」。]とらせて、親「いたち」、穴より望(のぞみ)て居(をり)て、負(おひ)たる子をば、行(ゆき)て、あたまを、うちて、歸る。」

と云(いふ)。

 又、人家に「いたちの六人づき」と云(いふ)事あり。越後にて、「たてうす」をば、六人して舂(つく)事なり。「いたち」の集(あつま)り騷ぐ音、此「六人づき」の臼の音に似たり。

「唄を、うたふやうに聞ゆる。」

とて、行(ゆき)てみれば、其音、やんで、いづくに有(あり)ともしれず。

「是、極(きはめ)て其家の興廢に拘(かかは)りたる兆(きざし)なり。家、さかえんとしても、有(あり)、又、おとろへんとしても、ある事なり。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:終りの部分は、食肉(ネコ)目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科イタチ属ニホンイタチ(イタチ)Mustela itatsi(本州・四国・九州・南西諸島・北海道(偶発的移入):日本固有種:チョウセンイタチMustela sibirica の亜種とされることもあったが、DNA解析により別種と決定されている)やイタチの仲間であるチョウセンイタチ亜種ニホンイイズナ Mustela itatsi namiyei が本邦の民俗社会にあっては狐狸と並ぶ妖怪獣であったことを理解しないと、よく判らないであろう。私の「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼬(いたち) (イタチ)」を参照されたい。]

譚海 卷之九 越後國新潟幷彌彥明神祭禮の事

[やぶちゃん注:この前の二話、

「遠州海邊天狗火の事」

「相州箱根山男の事」

は既にフライング公開してある。]

 

○越後、新潟の湊は、繁昌の地にて、町並、縱橫二里餘り有(あり)。海より通りたる川、町のうしろに𢌞り、大島のごとし。三月、雛まつり、盆中、踊(をどり)のあそび、殊に盛(さかん)なり。「をどり」の唄を「甚九(じんく)ぶし」と云(いふ)。

[やぶちゃん注:「新潟の湊」「町並」「海より通りたる川、町のうしろに𢌞り、大島のごとし」「ひなたGPS」の戦前の地図と現在の国土地理院図を並べて見ると、よく意味が判る。

「甚九ぶし」「甚句」に同じ。民謡の一種。主に七・七・七・五の四句形式で、旋律は地方によって違う。江戸時代の末ごろから流行した。ここは「越後甚句」で、他に秋田甚句・米山甚句・両津甚句・相撲甚句などの他、「酒盛唄」・「盆踊唄」に今も広く用いられている。]

 又、同國彌彥(やひこ)の明神は、一の宮にて、高山(たかやま)のふもとにある大社なり。

 神主、御朱印の地を領して、數人(すにん)、住居(すまい)す。

 每年六月四日、祭禮にて、群集(ぐんしゆ)をなす。

 其時、「燈籠そろへ」といふ事ありて、近鄕の人、燈籠を攜行(たづさへゆき)て、神前に供す。

 上下(かみしも)の社(やしろ)ありて、先(まづ)、上の社に供(きやう)して、後(のち)、下の社に供する事なれども、燈籠の、前後を競(きそ)ふゆゑ、おほくは、損ずる故、下のやしろへ供する時に至りては、燈籠、はなはだ、稀に成(なり)て、寥々(れうれう)たる事成(なり)、とぞ。

 彌彥の町、二町[やぶちゃん注:二百十八メートル。]ほどあり、祭日の外(ほか)も、常に、にぎはふ所なり。

[やぶちゃん注:「彌彥の明神」新潟県西蒲原郡弥彦村と長岡市との境にある。標高六百三十四メートルの弥彦山(やひこさん)。当該ウィキによれば、『新潟県の広い地域から見ることができ、弥彦神社の祭神・天香山命を祀った山として、古くから人々の崇敬を集め、山全体が弥彦』(本来は地名と神霊の名を区別して「いやひこ」と読んでいたが、現在は同じく「やひこ」で慣用化されてしまっている)『神社の神域となっている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「燈籠そろへ」弥彦観光協会・弥彦観光案内所作成になる弥彦温泉のサイト「やひ恋」の「弥彦燈籠まつり」のページを見られたい。豊富な写真がある。現在は、重要無形民俗文化財で、七月二十四日かたら七月二十六日に執り行われる。]

譚海 卷之九 常州水戶に矮人の事

[やぶちゃん注:「矮人」は「わいじん」で「背丈が低く、身体の小さい人」を指す語。]

 

○『水戶には、矮人、おほく出(いづ)る。』

由、光國[やぶちゃん注:ママ。]卿の著述の書に見えたり。

 是は當國一般の事には、あらず。

 たけひくき人を生(うめ)るは、筑波山の北より、八溝(やみぞ)のあたりには、今も、絕(たえ)ず、短人(たんじん)を生るなり。

 按ずるに、大己貴(おほなむち)の尊(みこと)、常州の鎭座にましまし、寸長(すんつやう)、短き人にましますよし、神書に見へたれば、其故に短人多くある事成(なる)べしと、いへり。

[やぶちゃん注:「筑波山」ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「八溝」八溝山(やみぞさん)。旧黒羽町(現在の大田原市)の北東部に位置する山で、山頂は栃木県から一キロメートル東寄りの福島県と茨城県の県境に位置する。八溝山地を代表する山で、山地の最北端にして最高峰の山である。

「大己貴の尊」「大國主命」に同じ。茨城県大洗町にある大洗磯前(おおあらいいそさき)神社は、「國つ神」の彼が「國造り」を行うため、同神社境内の前方の岬の岩礁に降臨したとされている。永く荒廃していたが、まさに光國が再興している。]

譚海 卷之九 駿河富士山裾の浮田つなぎ田の事

[やぶちゃん注:本篇の前の三話、

「濃州百姓山居うはゞみを討取たる事 / 因州うはゞみの事」(カップリング公開)

「常州外海ゐくちの魚の事」

は、既にフライング公開している。]

 

○駿河富士の南の根かたの村には、「浮田」・「つなぎ田」といふ事あり。

 霖雨(りんう)の中(うち)は、一村の田地、浮きて、流るゝゆゑに、つなぎとむるなり。

 太き竹のながきを、田每(たごと)に、深く、さしおけば、田地、ながれず、是を「つなぎ田」と云(いふ)なり。

「此地に限り、浮きてながるゝ事、ふしぎ成(なる)事なり。『浮島が原』と云(いふ)も、かゝるゆゑに名付(なづけ)たるにや。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:これと同じような内容の記事を電子化した記憶がある(地方は江戸辺縁の東北部であった)のだが、見出せない。発見したら、追記する。にしても、これは、話者に津村が騙された感が強い。まず、騙しの元の実際にある田は、「掘り上げ田」(ほりあげた/ほりあげでん)で、これは低湿地帯での開田法の一種を指す。当該ウィキによれば、『地域により呼称が異なり、堀上田(ホリアゲタ)、畝田(ウネタ)、浮田(ウキタ)、新起こし(シンオコシ)、掻上田(カキアゲタ)、堀田(ホリタ)などの呼称がある』。『掘り上げ田は』、『干拓や埋め立てが困難な水面下』、或いは、『地下水位が極めて高く』、『水生植物が繁茂するような低湿地における開田法で』、『このような開墾技術は日本の低湿地帯で広く行われ、少なくとも』十四『世紀中葉にまで遡ることができる』。寛政六(一七九四)年の『大石久敬』が著わした「地方凡例録」には『「堀田」として説明があり、水田湿地において』、『田の内部を掘上げ畔を立てて、その高みに稲作を行う方法としている』。『水路(地域によりミヲ、掘潰れ(堀潰れ)、掘付(ほっつけ)などという)を掘削して田(耕作部分)の盛土を行うため、水田と水面が櫛状に並ぶ景観となる』。『冠水しやすく農作業に田舟などを用いることもあり』、『農作業の労働効率は低い』。「掘潰れ」『などと称される水路は』、『水運にも利用されたほか』、『漁場としても重要な役割を果たした』が、『一方』では、『時間の経過とともに掘り上げ田より土が掘潰れへと流れ』、『堆積し、水路が浅くなるなどの弊害も起きる。そのため』、『定期的に掘り潰れより』、『掘り上げ田へと土を盛り直す作業(のろ上げ、ノロ上げ、ノロアゲなどと称する)が行われた。なお、掘り上げ田を開発する以前の湖沼・沼沢地には周辺からの水路が流入していることも多く、それらは「附廻堀」として掘り上げ田の造成時に併せて再整備されていることが多い』とあった。水上勉の「飢餓海峡」に出てくる、最低の沼のような「汁田」だな。さても、柳田國男の「地名の硏究」の第四章に当たる『地名考說』の中に以下がある(初出は雑誌『歴史地理』(三省堂書店発行)の明治四三(一九一〇)年二月から明治四十五(一九一二)年八月までの孰れかである)。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「地名の硏究」(昭和一一(一九三六)年古今書院刊)の当該部を視認した。読みの一部は所持する「ちくま文庫」版全集を参考にしつつ、歴史的仮名遣で《 》で挿入した。

   *

 

      一一 ドブ、ウキ

 東京では下水堀のことをドブと謂ふが、右は明かに轉用であって、以前は阿原《アハラ》[やぶちゃん注:先行するここを参照。]と同じく排水不十分なる足入の地のことである。澤山の例があるけれども單に二三のものを揭げて置く。此地名の普及したのは、全くドブが水稻の栽培に通ずると云ふ經濟上の意義があるからである。

  武藏南葛飾郡綾瀨村大字小谷野土富耕地《どぶかうち》

  同 橘樹《たちばな》郡城鄕《しろさと》村大字岸根島ドブ

  常陸ひたち眞壁郡中村大字土深(ドブ)

  同 同  騰波ノ江《とばのえ》村大字筑波島《つくはしま》字土腐《どぶ》

  磐城双葉郡幾世橋《きよはし》村大字棚鹽《たなしほ》ドブ谷地《やち》

  伊勢三重郡朝上村大字田口ドブ

 相模にも無數のドブと云ふ地名があるのみならず、普通名詞にも此意味に用ゐられて居る。ドブは昔の語ではウキである。諸國にある浮田と云ふ地名は、卽ち又武藏などの土浮耕地《どぶかうち》である。愛鷹山《あしたか》の南麓なる浮島ケ原なども、古來有名な爲に却つて勿體ぶつた傳說もあるが、決して島が浮遊するわけではなく、神代紀に所謂浮渚在平處《うきしまりたいら》の浮渚《ふと》で、嶋と云ふ語も今よりも廣き意味をもつて居たのである。千載集雜下道因法師、けふかくる袂に根させあやめ草うきは我身にありと知らずや。ウキは菖蒲《あやめ》などの生ずべき地なることが是でわかる。今日深泥の田をフケ田と云ふのもウキ田の轉であらう。

   *

以上の、道因法師の一首は、「五月五日菖蒲をよめる」という前書がある。歌意は、

   ※

今日の五月五日の『菖蒲(あやめ)の節会(せちえ)』なれば、続命縷(しょくめいる[やぶちゃん注:この端午の節供において、邪気を払って不浄を避けるものとして、麝香・沈香・丁子などの香料を錦の袋に入れ、円形にして、糸や造花で飾り、菖蒲や蓬をあしらって、五色の糸を長くたらしたものを言う。「薬玉」(くすだま)とも称する。])を掛けるのだが、その袂(たもと)に、根を生やせ、菖蒲草(あやめぐさ)よ。泥(うき)は私の身にこそあると、お前は、知らぬのか?

   ※

で、言わずもがな、「泥(うき)」には「憂(う)き」を掛詞にしてある。

「浮島ケ原」静岡県東部、富士山の南東に聳える愛鷹山南麓の田子ノ浦に沿った低湿地帯の名。ここ(グーグル・マップ・データ)。「富士川の戦い」の際、平維盛の軍勢が、水鳥の羽音に驚いて逃げた所とも伝える。]

譚海 卷之九 豆、相の大洋赤汐の事

[やぶちゃん注:標題は「ず(伊豆國)、さう(相摸國)の、おほなだ、あかしほ(赤潮)のこと」と読む。]

 

○伊豆・相模の大洋に「赤汐」といふもの、あり。ふじに、起(おこ)る。

 遠くより見れば、海の色、赤く、一里ばかりつゞきて、ながるゝ。

 是は、大海の潮の氣(き)の、くさりたるが、こりかたまりたるたり。

 もろもろの魚、此「あかしほ」に逢(あふ)ときは、死ぬるゆゑ、磯ぎは・浦べたに遁集(にげあつま)りて、手に、とらるゝやうにあれども、人をさけて、さる事を、せず。赤汐のとほりたる跡は、海上に死(しし)たる魚、おびたゞしく、うかびてあるなり。

[やぶちゃん注:私の怪奇談の中でも、「赤潮」(古くは「苦潮(にがしほ)」とも言った。極端に酸素の少ない貧酸素水塊が海面に浮上して起こる現象。貧酸素水塊は水流の遅滞や多量の生活排水などの流入によって富栄養化した海で、海水面近くにプランクトン(鞭毛虫類・ケイ藻・ヤコウチュウなど)が短期間に爆発的に増殖し、水中の酸素が徹底的に消費されることにより、海面が赤褐色等に変わる現象。東京湾のような河川の注ぐ内湾で起こり易い。時に魚介類に大被害が発生する。魚介類の死滅は溶存酸素濃度の低下や鰓にプランクトンが詰まることによる物理的な窒息などの他、その原因プランクトン(特に有毒藻である渦鞭毛藻類などの藻類)が産生する毒素によっても起り、これらの産生する毒素は主に魚貝類(主に貝類)の体内に蓄積され、強力な魚貝毒となってそれを食べた人にも健康被害を及ぼすことがある。それは先行する「譚海 卷之一 明和七年夏秋旱幷嵯峨釋迦如來開帳の事」にも記されてある)の記載は極めて少ない。太田南畝の随筆「南畝莠言」の、下巻の「㊄海水赤色(せきしよく)に變(へんず)」と、同人の別の随筆「一話一言」をのもの引いた(但し、新字)、『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「海水赤変」』ぐらいなものだ。而して、たまには津村を褒めたい。彼は海産生物や漁業に当時の通常人よりも遙かに関心を持っていたことが、今までの海産物の記事や、この「赤汐」の記載からも伺える。海産生物フリークの私には甚だ好ましいことである。]

譚海 卷之九 赤ゑひの魚針にさゝれたる治療の事

○赤ゑい[やぶちゃん注:ママ。]の針は、尾に二本、有(あり)。獵師、釣得(つりう)れば、先(まづ)、針を斷(たち)きる。あやまちて、此はりにかゝるときは、惣身(そうみ)、しびれ、いたむ事、堪(たへ)がたし。

 此痛(いたみ)を療治するには、田の畔(あぜ)に生(おい)たる丸き葉の草あり。それを、とりて、せんじあらへば、卽時に、いゆるなり。

[やぶちゃん注:国立国会図書館本本文では(「目錄」は『ゑひ』と正しいが)、致命的に『赤えび』と誤っている。

軟骨魚綱板鰓亜綱エイ上目エイ亜区トビエイ目アカエイ科アカエイ属アカエイ Dasyatis akajei

である。その毒針の恐ろしさは、「大和本草卷之十三 魚之下 海鷂魚(ヱイ) (アカエイ・マダラトビエイ)」の私の注を参照されたい。死に至るケースもある。

「田の畔に生たる丸き葉の草」一つ、思いつくのは、セリ目ウコギ科チドメグサ属チドメグサ Hydrocotyle sibthorpioides である。当該ウィキによれば、『収斂作用による止血成分があり、古く民間で外傷の止血に使ったため』、『この名がある。血止め薬の使用法としては、生葉を揉んで切り傷などの血止めに使うとよいとされる』。『あるいは、洗ったあと乾燥して生薬のように用いる』とあった。]

譚海 卷之九 同所蜑あはび取の事

[やぶちゃん注:「同所」は前話(フライング公開)の「譚海 卷九 相州三浦の蜑海中に金を得たる事」を受けたもの。]

 

○かづき[やぶちゃん注:潜水。]の業(なりはひ)は、城が島の蜑(あま)にこえたるはなし。それが故に城がしまの蜑を、他所(よそ)の浦にても、やとひて、渡世とする事なり。

 されば、房總の浦々まで、やとはれ行(ゆき)て、かせぐ事とす。

 夏より秋迄、半年を百兩、百五十兩などと定(さだめ)て、やとひ、かづきをさすれば、二、三百兩の獵(れふ)を得るにしたがひて、利分を、わかつ事とす。

 城がしまの蜑は、水中にある事、たばこ、二、三ぷくのむほどありて出(いづ)るなり。息のながき事、よその蜑のたぐひにあらず。

 やとはるゝ蜑は、二、三十人ほどづつ、つれ行(ゆき)て、日々、獵をするなり。

 城が島にて、蜑の子の、かづきをならふに、海に入(いり)て、「あはび」、五つとりて出(いで)て父に云(いひ)けるは、

「猶、あはび、六、七つありしかども、息つぎに、先づ、出來(いでき)たり。今、行(ゆき)て、殘りを、え來(きた)るべし。」

と、いひしかば、其親、曰(いはく)、

「汝、又、ゆけりとも、『あはび』、人影を見たれば、ひとつも、あるまじ。汝、殘りのあはびをとらんとせば、五(いつつ)とるべきを、先(まづ)、四つとりて、ひとつとらん手のひまに、もちたるやすにて、あるかぎりのあはびの背を、ひとつづつ、うちて出(いづ)れば、あはび、うたれたるに恐(おそれ)て、岩に取付(とりつき)て其所(そこ)をはなれず。扨(さて)、息をつきて、行(ゆき)て見れば、『あはび』、やうやう、岩をはなれて、にげんとする所へ行(ゆき)あはするゆゑ、皆、とらるゝなり。」

と、をしへしとぞ。

[やぶちゃん注:最後の教えは、「なるほど!」と感心する。早い時は一分間に五十センチメートルセンチ以上の速度で移動出来る。アワビには眼点があり、触覚の横にある黒い点がそれであり、光を感じるだけであるが、触角が鋭敏であり、周囲の異変を、この二つの器官で感知し、岩の隙間に潜り込むから、この話は、まんざら、法螺話とは言えないと私は思うからである。貝殻の外側を損壊するほどの打撃を加えれば、逃走するよりも、引き剝されることを警戒して、岩に強く吸着して、寧ろ、暫くは、動かないと考えるからである。なお、よく描かれてある『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 石决明雌貝(アワビノメガイ)・石决明雄貝(アワビノヲカイ) / クロアワビの個体変異の著しい二個体 或いは メガイアワビとクロアワビ 或いは メガタワビとマダカアワビ』をリンクさせておく。学名はそちらの私の注を見られたい。]

譚海 卷之九 江戶新材木町加賀屋長兵衞主人に忠盡せし事

○享保年中に、江戶、新材木町(しんざいもくちやう)、加賀屋長兵衞といふ者、有(あり)。奉公せし主人、微祿になりて、居宅の屋敷をうりはらはんとせしに、二度迄、其屋敷を請得(うけえ)て、主人の身の上を引興(ひきおこ)したり。

 此事、上聽(じやうちやう)に達して、稱美(しようび)ありて、

「主人ヘ忠節の趣(おもむき)、板(いた)にゑりて、御觸(おふれ)ながしあるべし。」[やぶちゃん注:「板にゑりて」瓦版にして。]

と、ありしに、長兵衞、申上げるは、

「左やうにては、主人の名折(なをれ)と相成候も迷惑にぞんじ奉候間、御用捨可ㇾ被ㇾ下。」

段、願(ねがひ)ければ、御感心ありて、其刻(そのとき)より、公儀の門松の御用被仰付、今に、其家、絕(たえ)ず有(あり)。

[やぶちゃん注:「享保」一七一六年から一七三六年まで。

「新材木町」現在の中央区日本橋堀留町一丁目(グーグル・マップ・データ)。]

譚海 卷之九 駿州御殿場の御家の庭に淸水出しの事

[やぶちゃん注:この前の四話は、

「卷之九 房總の地狐釣の魚を取る事 / 江戶十萬坪の狐釣の魚を取る事」(カップリング)

「卷之九 同市ケ谷外山婆々狐の事」

「卷之九 鍋島家士坂田常右衞門夫婦の事」

は総てフライング公開してある。]

 

○駿河、富士參詣の驛に、御殿場といふ所、有(あり)。其驛の、酒、うるもの、殊に貞實にて、親にも孝ある事に、人、いひあへりしが、一とせ、居宅の庭より、淸泉(せいせん)、わき出(いで)て、淸らか成(なる)事、たぐひなし。

 其水にて、酒をつくりぬるに、酒、いよいよ能(よく)出來(いでき)て、富有の身と成(なり)て、今は、其驛中(えきなか)にて、第一のものに分限の家となれり。

 是、美濃の「養老の瀧」のたぐひに同じ。是は、まのあたり見たりし事なれば、こゝに、しるす。

[やぶちゃん注:これは珍しく作者津村の現地現認談である。

「御殿場」足柄峠―竹之下―御殿場―沼津を結ぶ道筋は、東海道五十三次には含まれない。これは古道であって、富士山噴火が収まった時期、小田原から足柄峠を抜けて竹之下から御殿場を抜け、富士山と愛鷹山(あしたかやま)の間を南西に下って現在の富士市に至るルートで「矢倉沢往還」と呼ばれ、脇往還として利用されたものである。以上はサイト「御殿場の魅力発掘隊」の「【御殿場の道:2】古代東海道」に拠った。地図もあるので、参照されたい。

『美濃の「養老の瀧」』私の「甲子夜話卷之八 13 養老酒の事」を参照されたい。]

2024/02/22

譚海 卷之九 同所漁獵の事

[やぶちゃん注:前話の続きで、「七浦」の漁業版。かなりリキが入っているので、最後の注を除いて、私なりのリキも入れておいた。]

 

○七浦の地、土用波とて、三伏(さんぷく)のころは、波、ことに高し。

[やぶちゃん注:「三伏」夏至の後の第三庚(かのえ)を「初伏」、第四の庚を「中伏」、立秋後の初めての庚を「末伏」と称し、その初・中・末の伏の称。五行思想で、夏は火(か)に、秋は金(ごん)に当たるところから、夏至から立秋にかけては、秋の金気が盛り上がろうとして、夏の火気におさえられ、やむなく伏蔵しているとするが、庚の日にはその状態が特に著しいとして「三伏日」としたもの。]

 夜陰、汐(しほ)のひきたるをうかゞひ、籃(かご)を提(さげ)て、婦人、海濱にいたり、波に打(うち)よせられたる魚を、ひろひとるなり。每曉(まいげふ)、行(ゆき)て、いくらも拾ひとる事、とぞ。

 冬月、獵師、「ふぐ」を取得(とりえ)ては、肝(きも)を、さき、江戶へ、いだす。其肝をば、獵師の家ごとに、釜に入(いれ)てせんじ、魚燈(ぎよとう)[やぶちゃん注:「魚燈油」。鰯・鰊(にしん)・鯨などの脂肪から採った油。灯火用とするが、臭気が強烈である。]をとる。せんじ、あつむれば、肝は、消(きえ)うせて、殘らず、油に成(なり)なり。然(しか)して、水能にて、漉(こ)し、樽へ詰(つめ)て、江戶へ、いだす。甚(はなはだ)、淸き油なり。眼のかすみたる人共(ひとども)も、用(もちふ)れば、よく眼を明(あきら)かにすると、いへり。

[やぶちゃん注:「ふぐ」鰭綱フグ目フグ科 Tetraodontidae 。私の「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚  寺島良安」の「河豚(ふぐ)」が最もよい(昨年、全面リニューアルした)。携帯で見られない方は、益軒の語りが辛気臭く、あまりお勧めではないのだが、「大和本草卷之十三 魚之下 河豚(ふぐ)」の総論がある。七浦で釣れる種は、釣り人の記事から、フグ科トラフグ属トラフグ Takifugu rubripes 、フグ目フグ亜目フグ科トラフグ属ショウサイフグ Takifugu snyderi(潮際河豚・潮前河豚)、外道で嫌われるトラフグ属クサフグ Takifugu alboplumbeus が獲れることは確実である。

「水能」これは「水囊(すいなう)」の当て字であろう。食品や液状のものの余分な水や部分を取り除くために用いられる目の細かい篩(ふるい)で、馬の尾・針金・竹・布で底を張ったもの。「みづぶるい」「みづこし」「羅斗(らと)」等とも呼ぶ。

「眼のかすみたる人共も、用れば、よく眼を明かにする」フグの肝臓には脂肪酸が含まれているので、効果はあるのかも知れぬが、テトロドトキシン(tetrodotoxin)は過熱分解しない猛毒であるから、少しでも含まれていれば、大いに危険である。私なら、こんな点眼薬、お断り蒙る。]

 又、「さんま」といふ魚を取得(とりう)れば、皆、しぼりて、油をとる事にするなり。千、二千頭ほどづつ、一釜に入(いれ)て、せんじて後(のち)、「しめ木」にかけ、魚燈をとる。をびたゞしく[やぶちゃん注:ママ。]、油、出(いづ)るものなり。

[やぶちゃん注:「さんま」ダツ目サンマ科サンマ Cololabis saira「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚  寺島良安」の「佐伊羅(さいら) のうらき」の項を見られたい。なお、そちらの「鱵(さより)」の私の注で引用したが、『江戸時代中期以降にはサンマも「サヨリ」と呼ばれ、サンマをサヨリと偽って売られたということである。これを区分する為に、サヨリを「真サヨリ」と称したという。西日本では今でもサンマを「サヨリ」と呼ぶところがある』とった。しかし、本篇では、後で、私がサヨリと推定比定するものが出ることと、油を搾るという点から、以上は確かな現在のサンマであると断定する。]

 又、「ほうぼう[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣は「はうぼう」。]」といふ魚をうるには、海の底に付(つき)てある物ゆゑ、長き繩に、いくらも、釣針を付(つけ)て、島陰・岩のはざまなどに沈めをけば、一繩に、四、五十頭づつ、かゝる。甚(はなはだ)、見事にみゆるものなり。餌には、「おほうを」といふ物を、こまかに切(きり)て、釣にさし用(もちふ)るなり。

[やぶちゃん注:「はうばう」は「魴鮄」で、カサゴ目ホウボウ科ホウボウ Chelidonichthys spinosus「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚  寺島良安」の「保宇婆宇(ほうばう)」(ママ)の項を見られたい。私が魚類中、最も天然色が美しい魚と思う種である。実際に二十一の頃に富山湾の磯で、一度だけ、釣りあげたことがある。因みに、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種の和名の由来については、『古くから一般的に使われていた呼び名である。頭部が方形であることと、釣り上げるとしきりにホーホーと鳴くことからとされている』とあるが、事実、その時、「ボゥボゥ」と泣いたのを覚えている。]

 鯛と「ひらめ」は、生(いき)たる「ひしこ」の餌ならでは、釣得(つりえ)がたし。其ゆゑに、獵師、舟の内(うち)に、瓶(びん)をのせ、水をたゝへ、「ひしこ」を、はなし飼(かひ)て、餌に用(もちふる)事なり。「ひらめ」は江戶へ送るに、舟の内を萩の枝にて、笠をかき[やぶちゃん注:「かけ」であろう。「懸け渡して」。]、その上にならべ置(おく)時は、釣(つり)たる時のまゝに、赤きいろ、かはらずしてあるなり。

[やぶちゃん注:「鯛」スズキ目スズキ亜目タイ科 Sparidae の魚類の総称。及び、生体や、切り身の肉の見た目や、魚肉の味が類似した別科の魚類にも、現在も用いられる名であるが、やはりここは一番、タイ科マダイ亜科マダイ Pagrus major を掲げておきたくなるのが、縁起担ぎの日本人の人情というものではある。因みに、真正のタイ科 Sparidae だけでも全世界で三十六属約百二十五種が属している。「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚  寺島良安」の冒頭の「たひ 鯛」、及び、ブログの「大和本草卷之十三 魚之下 棘鬣魚(タヒ) (マダイを始めとする「~ダイ」と呼ぶ多様な種群)」を参照されたい。

「ひしこ」ニシン亜目カタクチイワシ科カタクチイワシ亜科カタクチイワシ属カタクチイワシ Engraulis japonicus の異名。目が頭部の前方に寄っていて、口が頭部の下面にあり、目の後ろまで大きく開くことが同種の特徴で、和名「片口鰯」も「上顎は下顎に比べて大きく、片方の顎が著しく発達している」ことに由来する。私の「大和本草卷之十三 魚之下 鰛(いはし) (マイワシ・ウルメイワシ・カタクチイワシ)」の注で、細かく説明しておいた。

「ひらめ」魚上綱条鰭(硬骨魚)綱カレイ目カレイ亜目ヒラメ科ヒラメ属ヒラメ Paralichthys olivaceus に、カレイ目カレイ科 Pleuronectidae のカレイ類も含めておいた方が無難である。その理由は、私の「大和本草卷之十三 魚之下 比目魚(カレイ) (カレイ・ヒラメ・シタビラメ)」を参照されたい。]

 鰹は、「ふぐ」の皮をはぎて、戶張(とばり)にして、紙のごとく白く成(なり)たるを、付木(つけぎ)のはしほどに切(きり)て、牛の角(つの)に鉤(はり)を付(つけ)、それにかけて、餌となし、釣るなり。「ふぐ」の皮、なき時は、付木を角に付ても、用(もちひ)るなり。

[やぶちゃん注:「鰹」スズキ目サバ亜目サバ科カツオ属カツオ Katsuwonus pelamis の一属一種であるが、そうでない複数種も古く「鰹」と呼ぶ。ここは、私の「日本山海名産図会 第四巻 堅魚(かつを)」がよいだろう。]

 「海走(うみばしり)」・「とび魚(うを)」などの、「ひれ」ある魚の類(るい)は、皆、網にて、とるなり。網を、一夜、海に張置(はりおき)て、あしたに行(ゆき)て見れば、みな、網のめに、「ひれ」をつらぬきて、かゝりあるを、とる事なり。

[やぶちゃん注:「海走」この異名は不詳だが、恐らくは海水面直下を素早く走り泳ぐ条鰭綱ダツ目ダツ亜目トビウオ上科サヨリ科サヨリ属サヨリ Hyporhamphus sajori であろう。「大和本草卷之十三 魚之下 鱵魚(さより)」を参照されたい。

「とび魚」ダツ目トビウオ科 Exocoetidae のトビウオ類の総称。詳しくは、私の「大和本草卷之十三 魚之下 文鰩魚(とびうを)」を参照されたい。]

 「さめ魚」は、齒、ことに、するどにして、尋常の釣繩をば、かみ切(きる)ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、ふとき繩に鉤(はり)を付(つけ)、桶を筌[やぶちゃん注:これでは「うけ」「もじり」等と呼ぶ割竹等で作った漏斗状の漁具で、内側に狭くなった口から入ってきた魚介類を閉じこめて捕獲するそれで、おかしい。底本では、編者による訂正傍注で『(浮子)』とある。「大型の固定型の浮(うき)」のことである。]にして、はなち置(おく)なり。鮫、懸りたる時は、桶、動(うごき)て、沖のかたへ出(いづ)るを合圖に、船を漕(こぎ)よせて、繩を、たぐり、「さめ」を船ばたに引(ひき)よせて、「もり」といふ物にて、つき、よわめて後(のち)、引揚(ひきあぐる)なり。「もり」を、いくらも、さす事なり。然らざれば、鮫、にげんとして、船ばたを、かみ、舟を損ずる事、多し。鮫をとりて、膓(はらわた)を、さきて、油に、にて、とるなり。「さめ」のはらには、「もり」、いくつも、あり。大抵、「もり」にてさゝれては、鮫、よわらぬゆゑ、所々のうらにて、さゝれたる「もり」、腸(はらわた)[やぶちゃん注:漢字の異体字の混用はママ。]より、いづるなり。「もり」に其主(ぬし)の姓名あるを、其所(そこ)の獵師へ、かへしやる。かしこにても、こなたのものあれば、歸し送る事なり。

[やぶちゃん注:「さめ魚」広義のサメ類。「大和本草附錄巻之二 魚類 フカノ類 (サメ類)」の私の注を見られたい。]

 蛸は、常に、海老・「さゞえ」のたぐひを、好(このみ)て、くらふ。蛸のよりたる磯には、「ゑび[やぶちゃん注:ママ。]」・「さゞえ」、凡(およそ)、皆、からにて、ある事なり。「たこ」は、白きものを、うかぶれば、夫(それ)に取付(とりつく)ゆゑ、「たこを」つるには、大根に針を付(つけ)て、繩にて、ながしやれば、やがて、蛸、浮び來(きたつ)て、大こんに、取付(とりつく)故(ゆゑ)、鉤(はり)にかゝりて、釣(つれ)るなり。「いか」も、おなじ事、しろきものに取付故、大根にて釣(つる)事なり。「たこ」・「いか」のたぐひをつるには、蓑(みの)をきて、出(いづ)るなり。釣たるとき、黑き氣(き)を、はくゆゑ、蓑などにあらねば、衣服、汚れて、黑き氣、落(おち)がたし。

[やぶちゃん注:「蛸」私の記事では、腐るほどあるが、ここは「日本山海名産図会 第四巻 蛸・飯鮹」を挙げておこう。

「海老」「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚  寺島良安」(分類巻はママ)の「鰕(ゑび)」(ママ)を参照のこと。

「さゞえ」腹足綱古腹足目サザエ科リュウテン属 Turbo サザエ亜属 Batillus サザエ Turbo cornutus 或いは Turbo (Batillus) cornutus 。たまには、博物画の私の『毛利梅園「梅園介譜」 榮螺(サヽヱ)』(ママ)をどうぞ。博物誌は手っ取り早くは、私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 榮螺」を見られたい。]

 「なまこ」は、海底に、ひそみ、まろび、ありく。汐(しほ)のひたるとき、步行(ありき)にて、おり立(たち)て、とる事なり。「なまこ」をとり、歸(かへり)て、「をし木」[やぶちゃん注:ママ。「折敷(おしき)」であろう。]の上に、おき、汐のさすときは、なまこを「をし木」の上にて伸(のば)して、腹にある沙を、吐(はき)いだすなり。「わら」[やぶちゃん注:「藁」。]にて、つかぬれば、つかれたる所より、きるゝ、「わら」は「なまこ」に禁物なればなり。それゆゑ、「なまこ」をくひて、食傷せしには、藁をせんじて飮(のむ)時は、卽時に、いゆると、いへり。

[やぶちゃん注:「なまこ」私はナマコ・フリークで、サイト及びブログで、多数、本草書(絵入り多し)その他を電子化注している。ここは食用のものであるから、ブログの「日本山海名産図会 第四巻 生海鼠(𤎅海鼠・海鼠膓)」がよかろう。博物学では、「畔田翠山「水族志」 (二四七) ナマコ」の私の注が最も詳しいか。ちょっと古いから、問題があるが、ブログ版「ナマコ分類表」もある。]

 又、「海うなぎ」あり。其所(そこ)にては、「なまた」と稱するなり。太き茶わんほど、長さ、一、二丈のもの、有(あり)。磯にあるは、一、二尺、三尺に過(すぎ)ず。皮のいろ、こまか成(なり)小紋の形、ありて、うつくしきものなり。膏(あぶら)のなきものゆゑ、しひて[やぶちゃん注:ママ。]とる事を、せねども、時々、鉤(はり)にかゝるをば、獵師、にて、くらふに、骨、ありて、下品成(なる)ものなり。然れ共、江戶にて、「かまぼこ」に製するには、鮫に、「なまた」の肉をまじへて作ると、いへり。磯の岩間に潛(ひそ)みをるをば、人、殊に、恐るゝ。夜陰、婦人など、常に、濱邊にいでて、魚をとるときに、あやまちて、「なまた」をふむ時は、足の指を、かむ事なり。それを、おどろきて、引(ひく)ときは、指を、くひきるゆゑ、其まゝにして、しばらく、立(たち)やすらへば、「なまた」、口を、あく。其時を合圖に、足を引取(ひきと)る時は、けが、なし。

[やぶちゃん注:「海うなぎ」『其所にては、「なまた」と稱す』「ナマタ」はウナギ目ウツボ亜目ウツボ科ウツボ亜科ウツボ属ウツボ Gymnothorax kidako の江戸の異名。

 荒海ゆゑに、すべて、貝の類(たぐひ)、「はまぐり」・「あさり」などは、なし。鮑(あはび)ばかりなり。海藻も「あらめ」は、なし。「みるめのり」のたぐひなり。「のり」は島ねの岩に付(つき)てあり。至(いたつ)て、香氣(かうき)、はげしく、又、「つのまた」と云(いふ)「ところてん」に似たる藻、有(あり)。「しつくひ」に、ねりまずるもの故、江戶に出火あるごとに、「つのまた」、殊に用(よう)あれば、日々、力(ちから)を究(きはめ)て、とる事なり。壹俵、百五、六十錢のあたひになる事と、いへり。

[やぶちゃん注:貝類も海藻類も、私のフリーク・テリトリー。私の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部  寺島良安」あり。「文蛤(はまぐり)」(ハマグリ類)・「淺蜊(あさり)」(アサリ)を参照。「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類   寺島良安」あり。「海帶(あらめ)」、「みるめのり」は「水松(うみまつ)」(ミル)、「のり」は「海藻(うみのも)」その他、「つのまた」は「鹿角菜(ふのり)」(フノリ)をご覧あれかし。

譚海 卷之九 房州七浦風土の事

○房州、七浦と云(いふ)所は、銚子のみなとにちかくして、東には、めにかゝる島、なし。北にあたりて、「根中の鼻」といふ、海中へさし出(いで)たるしまあり。

[やぶちゃん注:「七浦」千葉県安房郡(旧朝夷(あさい)郡)に嘗つてあった七浦村。現在の南房総市の東部(旧千倉町)。七浦漁港(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)等に、その名を留めている。

「根中の鼻」不詳。以下、不審な島名・地名が多出する。一つ、気なったのは、千葉県夷隅郡御宿町(おんじゅくまち)岩和田(いわわだ)にある「ノットの鼻」である。個人ブログ「千葉県発二日酔いまでの後悔街道の2」の「御宿3つの海を何度も行く小浦海岸1-3トンネルから海」というのが、この「ノットの鼻」を訪れたブログ主の記事と写真である。それを見ても、これは「島」では、ない。そもそも「鼻」は「岬」の異名で、島の名に附す語ではないのだ。]

 その沖の方(かた)、南に當(あたり)て、「洲の先」と云(いふ)大きなる島、有(あり)。この「洲の崎」と「根中」との、あはひ、はるかにへだたりて、天氣はるゝ日は、其間(そのあひだ)より、伊豆の島々、手にとるやうにみゆ。大島・八丈島・みやけ[やぶちゃん注:三宅島。]・砥明(とあけ)[やぶちゃん注:「利島」(としま)のことであろう。]などいふ七島、段々に沖につらなりて見ゆ。甚(はなはだ)、奇觀なり。みな、靑く見えて、草木の色は、わかたず。唯(ただ)、「みやけ島」のみ、常に、火、もえて、白くみゆるなり。晝は、けむりの、そらに立(たち)のぼる事、たえず、みゆ。夜は、火勢、赤くみゆると、いへり。

[やぶちゃん注:『「洲の先」と云大きなる島』現行、その名の島は存在しない。但し、以上のロケーションから見ると、房総半島の東京湾側の南西端に千葉県館山市洲崎(すのさき)という岬の地区ならば、ある。

「夜は、火勢、赤くみゆる」私は昭和五八(一九八三)年の三宅島の噴火の際、夜の江ノ島近くで、紅蓮の柱二本を見た。]

 七島の末にあたるを、「砥あけの島」といふ。豆腐を切(きり)たてたるごとく、四角に見ゆる島なり。

[やぶちゃん注:『七島の末にあたるを、「砥あけの島」といふ』不審。伊豆七島の「末」は八丈島である。]

 又。「すの崎」にならびて、野島といふあり。大き成(なる)島にて、人のかよひて、獵など、する所なり。其島、南へ向ひたる所、二、三丈四方、たひらかにして、砥石のごとく奇麗成(なる)事、いふばかりなし。其たひらか成(なる)眞中に、三尺四方ばかりの池あり。沖中(おきなか)に蓮花(れんげ)の形したる石、自然に生じあり。高さ四尺計(ばかり)も有(ある)べし。蓮花は一本なり。其外、島の内に、銚子・ひさけ・盃臺(さかづきだい)などとて、石にて、作りたるやうにみゆるものあり。みな、わたり、二尺ほど、高さも是に準じてあり。人作(じんさく)の、をよぶ[やぶちゃん注:ママ。]所にあらず、とぞ。

「賴朝卿遊覽の地なる。」

よしをいひ傳ふ。

[やぶちゃん注:「野島」不詳。但し、南東九十キロメートルも離れた位置だが、千葉県館山市相浜に、ごく小さい野島という島はある。「ひなたGPS」で見られたい。しかし、ここに池があって云々というような島とは思われない。次注参照。

「賴朝卿遊覽の地」「南房総市」公式サイトの「南房総市にまつわる民話」の「白浜の民話」の「頼朝の隠れ岩屋」の解説に、治承四(一一八〇)年の『昔、伊豆の』「石橋山の戦い」に『敗れた源頼朝は』、『安房に逃れてくると、味方を増やそうと精力的に動き、白浜の野島にも立ち寄りました』。『野島』(☜)『では、祀(まつ)られている弁天堂に、かたわらの岩へ、「野島山」の三文字を刻み、武運再興の願掛けをしましたが、その時、突然の時雨(しぐれ)に合い、近くの岩屋に身を寄せ雨を凌(しの)いだというのです』。『その岩屋は、「頼朝の隠れ岩屋」と称して、今も残っていますが、いつの頃からか、その岩屋には、深海に棲むという、創造の大蛸(おおだこ)が海神として祀られたのです』。『頼朝伝説を秘めた岩屋へ祀るには少し似合わない神ですが、その大蛸の海神は、海面を鎮め、豊漁を授け、そして人々に幸をもたらす事であろうというのです』。『海神となっている大蛸の前には、大鮑(おおあわび)やサザエの殻が供えられて、そこに願いを掛けた賽銭(さいせん)を投げ、見事(みごと)に貝の中へ入れば、開運間違いなしとのことです。なぜなら、貝運は開運に繋がるからというのです』とあった。ここである。ここも島ではなく、「野島埼」という岬である。]

 又、野島より、東にあたりて、黑島といふ有(あり)。是も大き成(なる)島にして、東國渡海の舟人(ふなびと)は、此黑島を殊に恐れて、「鬼ケ島」と、いひならはせり。大なるしまゆゑ、沖より、波の、よせきて、島に、うちあててかへるたびに、うづまき、おびたゞしく波の立(たつ)事ゆゑ、渡海の船、用意せねば、うづにまかれて、くつがへさるゝゆゑなり。

[やぶちゃん注:「黑島」「鬼ケ島」不詳。それに当たる島を見出せない。]

 此黑鳥に、千鳥、多く棲(すみ)てあり。朝日、東に出(いづ)れば、數千(すせん)のちどり、羽をのべて、日に、さらし、しばらくありて、ことごとく、東にむかひて、つれたちて、とびさる。

「おもしろき事。」

とぞ。よるは又、ことごとく立(たち)かへりて、島にやどる、といふ。

[やぶちゃん注:「千鳥」博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴴(ちどり)」を見られたい。チドリ目チドリ亜目チドリ科 Charadriidae に属する種の総称(「チドリ」という種は存在しない)。本邦では十二種が観察され、その内の五種が繁殖する。]

 全體、ひがしへ、さし出(いで)たる地にて、西北に、山、ひとつ、へだてて、江戶より見ゆる内海[やぶちゃん注:「江戶灣」。東京湾。]、めぐりてあれば、いづかたよりも、濱づたひならでは、行(ゆき)がたし。舟にのるにも、山を三里あまりこゑて、房總の内海にいたり、それより一日に、江戶へ來(きた)る事なり。濱つゞき、總州の方(かた)へは、ゆかるれども、「てうし」[やぶちゃん注:千葉県銚子市。]のかたへは、濱邊(はまべ)の山岸にて、汐(しほ)、さしくるゆゑ、ゆきがたき所、おほし。

 總州の濱つゞき、舟にてかよふよりは、道めぐりて、遠き所なり、とぞ。

[やぶちゃん注:津村の聴き書きの誤り、バクハツだゼッツ!!!

譚海 卷之九 同國布引瀧の事

[やぶちゃん注:三連チャンで瀧繋がり。「布引の瀧」は以下に見る通り、「雄瀧」と「雌瀧」の二つがある。グーグル・マップ・データ(以下同じ)では、現在は兵庫県神戸市中央区葺合町(ふきあいちょう)布引遊園地(ぬのびきゆうえんち:正式住所。ネットでは瀧の名では「ぬのひき」と清音とする記載もあるが、正式な住所に従い、濁音を採る)にあるのを「布引の滝 雄滝(おんたき)」と呼び、少し下流の葺合町布引山にあるのを「布引の滝 雌滝(めんたき)」と呼んでいるので、ここでもそれに倣う。なお、この兵庫県神戸市中央区葺合町は江戸時代は「攝津國」である。]

 

○同國「布引(ぬのびき)の瀧」は摩耶山(まやさん)より落(おち)て、末は生田川と成(なり)、海へ入(いる)なり。

[やぶちゃん注:「摩耶山より落て、末は生田川と成、海へ入なり」兵庫県神戸市灘区摩耶山にある六甲山地中央に位置する標高七百二メートルの山。正確には摩耶山北側後背の灘区六甲山町(ろっこうさんちょう)附近に源を発し、南流して、「布引の滝」を経て、大阪湾神戸港に注ぐ二級河川生田川。現行では、源流から一貫して「生田川」である。]

 其所(そこ)の人、物がたりせしは、

「『布引のたき』、山中に、ふたつあり。「雄瀧(をんたき)」・「雌瀧(めんったき)」と稱(しやうす)。山口(やまくち)にあるは、「雌瀧」なり。先年、地震によりて、石(いし)落(おち)て、瀧にかゝり、留(とどま)りたるより、瀧、二段に成(なり)て落(おつ)るゆゑ、「布引」の名、昔(むかし)に、たがへり。大かたの人、此瀧を見て、『布引』とおもひては、不案内なる事なり。なを[やぶちゃん注:ママ]、半道あまり、山中に分入(わけいれ)れば、『雄瀧』あり、瀧の高さ、はじめに、まさりて、千仭の石壁(せきへき)を一筋に落(おつ)る、誠に『布引』の名、今にかはらず壯觀なり。但(ただし)、魔所成(なる)由にて、申の刻[やぶちゃん注:午後三時。]より後(のち)は、人、行(ゆき)て見る事を禁ず。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「地震」本巻の最新記事は寛政元(一七八九)年であるから、天明期の摂津にあった地震を調べたが、見当たらなかった。]

譚海 卷之九 攝州箕面辨財天の事

[やぶちゃん注:「攝州箕面」(みのお)「辨財天」は大阪府箕面市箕面公園(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)にある本山修験宗(ほんざんしゅげんしゅう)の箕面山(みのおさん)瀧安寺(りゅうあんじ)。本尊は弁財天で、「日本四弁財天」(他の三つは厳島・竹生島・江の島)に数えられ、寺伝によれば斉明天皇四(六五八)年(一説に大化六・白雉元(六五〇)年)に役小角が箕面滝の下に堂を建て、本尊の弁財天像を安置して「箕面寺」と命名したのが創建とされている。また、ここは「宝くじ」の起源である「富籤(とみくじ)発祥の地」ともされる。ここに出る瀧は「箕面大滝」(サイド・パネルの画像も見られたい)で、同地区の最北の部にある。サイド・パネルに多数の写真がある。なお、本文内の「箕尾」の表記は総てママである。前話とは名瀧繋がり。]

 

○攝州箕尾山の辨才天は、大坂より有馬のかたにあたりて、往還五日ばかりなり。「唐人(たうじん)もどり」などいふ大石山路(だいせきさまぢ)にさしかゝり、其下をくゞりて往來する、おそろしきところなり。

[やぶちゃん注:「唐人もどり」「箕面大滝」手前約四百五十メートル手前のここにある。「箕面市商工観光課」作成の写真入り解説によれば、『大門橋にさしかかるところに』二『つの大きな岩が道を塞ぐようにしてそびえています。これが唐人戻岩です』。『昔、この付近が山深く険阻なころ、唐の貴人が箕面大滝の評判を聞き、この巨岩まで来たが、あまりの山道の険しさに恐れをなし引き返したとの伝説があり、唐人戻岩(とうじんもどりいわ)という名が付いたといわれています。岩の高さ約』七・五、幅七・三メートルのものと、『高さ』七・〇三、幅二・一メートルの『ものとの』二『つで成っています』とある。]

 「箕尾のたき」は、那智に比して、「本朝、第二の物。」と稱す。瀧坪まで岩を傳ひのぼらるゝ道あり、高山より、おつるたきなれども、おそろしからず。

「瀧の岩ほの肩に、一筋(ひとすぢ)、水の、橫へはしる所、有(あり)。下より望めば、髮の毛を、一すぢ、みだしたる如く、殊にしほらしく、此水、一筋によりて、瀧の景色をそへたる事、たぐひなし。」

といへり。[やぶちゃん注:サイド・パネルの現在の多数の瀧の画像では、残念ながら確認出来ない。]

 頂上の瀧坪には、神龍、住(すみ)てあり。廣さ一丈ばかりの所より、終年、水、わき出て落(おつ)る淵、靑く、そこひ[やぶちゃん注:「底ひ」。瀧壺の底。]もなく見えて、立(たち)やすらひがたく、おそろしきさまなり。

「日でりにあひて、雨をいのるには、あたらしき馬の沓(くつ)、かたかた[やぶちゃん注:片一方。]を、瀧つぼへ投入(なげい)るれば、卽時に、大雨、降る。」

といひ侍ふ。

2024/02/21

譚海 卷之九 紀州那智の瀧幷熊野浦の事

○紀州、「那智の瀧」は「本朝第一」と稱す。

 瀧は、おほく、山陰(さんいん)に落(おつ)るものなるを、此たきは、山陽に落(おつ)るをもちて、名勝とす。

 晴(はれ)たる日、熊野うらへ出(いで)てみれば、南海、渺茫として、波濤、天をひたし、北をかへり見れば、那智の山、高くそびえて、雲間に、瀧のかゝりたる景色、誠に山水の絕勝と稱すべし。

 有德院公方樣[やぶちゃん注:徳川吉宗。]、むかし、上覽ありしを、思召(おぼしめし)わすれず、御坊主岡本養悅といふ畫事(ゑごと)に堪(たへ)たる人に命ぜられ、其景を、うつさしめ給ふ。養悅はるばる紀州へ趣(おもむき)て、熊野浦の獵師の家にとまり、八日ばかりありて、寫し得たり。繪師の家、みなみな、くじらとる事を第一の業(なりはひ)とするゆゑ、家の内、なまぐさき事、かぎりなし。

「獵師の家、皆、鯨の胴骨(どうぼね)をたてならべて、垣(かき)となし、その際(きは)に住居(すまい)す。くじらの骨、『たてうす』[やぶちゃん注:「縱臼」。]を見る如く、いくらも、たてならべたるさま、異(こと)なれる見ものなり。」

とぞ。

譚海 卷之九 河州交野郡王仁墳の事

[やぶちゃん注:標題は「かしうかたののこほりわにのふんのこと」と読んでおく。]

 

○山城、「鳩(はと)の峯(みね)」を、西へ𢌞れば、「洞ケ峠(ほらがたうげ)」とて、則(すなはち)、山城・河内のさかひなり。此峠のあなたは、交野郡にして、やがて、「天の川」も、ほどちかし。此「天の河」、水、なくして、唯(ただ)、白き砂の、河の如くにつづきてあるが、峠より、みれば、白き水の如くみゆると云(いふ)。

[やぶちゃん注:「鳩の峯」京都府八幡市八幡大谷の岩清水八幡宮北西北直近のある男山の頂上のピークを「鳩ヶ峰」(標高百四十二・四メートル)と称する(グーグル・マップ・データ)。

「洞ケ峠」グーグル・マップ・データ航空写真で中央下。この峠は旧河内国で、現在は大阪府枚方市高野道(こうやみち)である。現在は、男山と、この峠の旧山体が殆んどごっそりと消失して宅地化されているので、「ひなたGPS」の戦後の地図をリンクさせて昔を偲ぶよすがとしておく。

『此「天の河」、水、なくして、唯、白き砂の、河の如くにつづきてある』んなわけないだろ! これは、かなり南西になるが、天野川(グーグル・マップ・データ)の川砂が白く光って見えることから、平安の昔から、この川を天上の「天の川」に擬え、「七夕」を題材にした数多くの歌が詠まれたからである。]

 其峠のふもとに、往古、三韓より來朝せし王仁(わに)の墓、有(あり)。

 大(おほい)なる石、ひとつ、白き苔を帶(おび)て、岡のうへに有(あり)。

 誠に數(す)千年のものなり。土民は「泣石(なきいし)」として、夜陰は、此邊(このあたり)、往來を恐るゝなり。

 此石、人の如く、泣(なく)事、有し由。

 幽邃の地にして、白日も、寂寞成(なる)所なり、近來(ちかごろ)、水戸光圀卿、尋ね糺し給ひて、石碑をたてられ、「王仁博士墳(わにはかせのふん)」と云(いふ)五字をゑり付(つけ)られしよし、人、漸(やうやく)に、しる事となりぬ。

[やぶちゃん注:これは私の「耳囊 卷之九 王仁石碑の事」を参照されたい。なお、光圀が調査し、石碑を建てたというのは、嘘である。旅なんか殆んどしなかった光圀が、こんなところまで出向くはずがない。「X」の眞葛原雪さんのこの投稿で、『光圀が刻んだ「王仁博士墓」の碑とは』、『交野郡津田村他の領主』であった『水戸家家臣久貝太郎兵衛正武の実子』『久貝正順 』『と光圀の『大日本史』編纂の遺志を継いだ水戸藩の誰かという意味なのだろうか?』というのが、正解だな。]

譚海 卷之九 同國榊原溫泉幷貝石の事

[やぶちゃん注:「同國」は前話を受けるので、「伊勢國」を指す。]

 

○同國、榊原と云(いふ)ところに、溫泉、有(あり)。功驗(こうげん)おほくして、病人のつどふ湯なり。

[やぶちゃん注:「榊原」「温泉」現在の三重県津市榊原町(さかきばらちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ)の榊原温泉。]

 其地に一(ふとつ)の山、有(あり)。ことごとく貝殼、岩に着(つき)て有(あり)、山中をほる事、幾重(いくへ)に及びても、皆、底より、貝の類(るい)、まじり出(いづ)るなり。海邊(かいへん)に遠き地なれど、此一山(いつさん)のみ、かくの如し。其所のものは、「貝石山(かひせきざん)」と稱するよしを、いへり。

[やぶちゃん注:「貝石山」同温泉町の北の榊原川左岸直近にある。「三重県観光連盟」のサイト「観光三重」のこちらに、『約』千五百~二千『万年前(新生代)の化石が出土する事からこの名がついた』。『もともと』対岸の『射山』(いやま)『神社』(ここ)『のご神体だったと見られ、貝石山の名がつくまでは射山(湯山)と呼んでいたようである』。『ここから出土する化石は海の魚介類、特に二枚貝、巻貝などが多く、鮫の歯やウミユリなど約』三十『種類が記録されている』とある。]

譚海 卷之九 勢州あけ野の神社除夜繪馬の事

○伊勢の「あけ野」といふ所に、神社一社、有(あり)。

[やぶちゃん注:「あけ野」現在の三重県伊勢市小俣町(おばたちょう)明野(あけの:グーグル・マップ・データ)。但し、現在の同地区には、神社は見当たらない。同地区の東北部は、現在、陸上自衛隊の明野駐屯地であり、「ひなたGPS」の戦前の地図で見ても、『明野ヶ原飛行場』となっているから、そこに近代以前、ここにあった神社かも知れない。]

 每年、除日(ぢよじつ)に誰(た)が懸(かく)るともなく、繪馬、一つ、社頭に現ずるなり。

[やぶちゃん注:「除日」「旧年を除く日」の意で「大晦日」のこと。「除歲」とも言う。]

 そのゑは、馬に、稻たば、おはせたる圖(づ)なり。

 その稻、左に負(おひ)たれば、左邊(ひだりあたり)の村、明年、豐作なり。右に負たるは、右の村、豐年なり。左右に負たるをゑがきたるは、皆、豐作のしるしとす。

 あらかじめ、來年の作を、うらなふに、たがふ事、なし。

 此故に、除日には數(す)百人、群集して、

「繪馬の掛(かか)る時を、みん。」

と、錐(きり)をたつる地もなく、つどふ事なり。

 さばかりの人、入立(いりたち)たるところなれば、いづくをわけて、繪馬、もちてくべき道もなけれど、其時に至りぬれば、自然(おのづ)と社頭に繪馬、現ずる。

「奇異の事。」

に、其國の人、かたりぬ。

譚海 卷之九 朝士山川下野守殿由緖の事

○武州、道灌山(だうくわんやま)の北、平塚村に、平塚明神の社(やしろ)あり。

[やぶちゃん注:「道灌山」現在の荒川区西日暮里のここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「平塚明神」北区上中里にある平塚神社。道灌山の北西約二キロメートル位置。]

 是は、國初(こくしよ)の時、城寬(じやうくわん)と云(いふ)盲人の建立(こんりふ)せしなり。

 此社の西に、往昔(そのかみ)、臺德院公方樣[やぶちゃん注:第二代将軍徳川秀忠。]の御殿ありて、時々、御鷹狩の御(おん)ついでには、御一宿などありしゆゑ、今も、猶、其所(そこ)のものは「御殿山」と稱して、みだりに人をいるゝを、ゆるさず。

 ふりたる池などありて、ものすごき所なり。

 元來、此地に八幡宮の古社、有(あり)。

 城寬、宿願ありて、こもりたる折柄(をりから)、臺德院樣、御成(おなり)有(あり)て、

「いかなる者ぞ。」

と御尋有(あり)ければ、

「宿願によりて、一七日(ひとなぬか)、此社(やしろ)にこもり侍(はべる)。」

よし、申上候時、しゆくぐわんの旨(おもむき)、御尋(おたづね)あるも、いかゞなれども、

「仔細、何事にや。」

と、上意、有(あり)。

 城寬、重(かさね)て、

「卑賤の身、殊に、かたわにして、兩親さぶらへば、いかにも立身して、親を安樂に供養し侍り度(たき)由、祈禱し奉る。」

と申上(まふしあげ)ければ、

「不便(ふびん)の事なり。」

と思召(おぼしめし)、則(すなはち)、百石の知行を賜(たまは)り、其後(そののち)は、度々、御城(ごじやう)へも召(めさ)れける。

 城寬、

「ひとへに、八幡宮の御加護。」

と、よろこび、やがて賜る所の、なかばをわけて、此社(やしろ)に寄附せし、とぞ。

 此城寬が親は、豐島左衞門といふ人の譜代の家人にて、家に持傳(もちつた)へたる義家朝臣の鎧(よろひ)ありしが、

「子孫にいたり、そまつにならんも、勿體(もつたい)なし。」

とて、鎧を今の地にうづめ、塚を築(きづき)て、古社(ふるやしろ)を遷(せん)し、今の平塚明神となせし事、とぞ。

 此城寬が子孫は、御旗本にて、山河下野守殿といふは、その末なり。今は三百石の知行賜りてあり。その中(うち)より、五十石をば、此明神の社頭に奉りてある事と、いヘり。

[やぶちゃん注:よくお世話になる日高慎也氏の、主に首都圏にある寺院・神社概要紹介サイト「猫の足あと」の「平塚神社|源義家豊島太郎近義に与えた鎧一領を埋めて平塚三所大明神」の『境内掲示による平塚神社の由緒』に拠れば、『平塚神社の創立は平安後期』の『元永年中』(一一一八年~一一二〇年)『といわれている。八幡太郎源義家公が御兄弟とともに奥州征伐の凱旋途中に』、『この地を訪れ』、『領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜された。近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め』、『塚を築き』、『自分の城の鎮守とした。塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれた。さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三御兄弟を平塚三所大明神として祀り』、『一族の繁栄を願った』。『徳川の時代に、平塚郷の無官の盲目であった山川城官』(☜)『貞久は平塚明神に出世祈願をして江戸へ出たところ』、『検校という高い地位を得て、将軍徳川義光の近習となり』、『立身出生を果たした。その後、義光が病に倒れた際も』、『山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願した。将軍の』病気『はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復した。家光自らも五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、たびたび参詣に訪れた』とある。リンク先には、それ以外の史料も豊富に載っているので、是非、読まれたい。それにしても、江戸在住の津村の記載でありながら、漢字表記・史実その他で、おかしな部分が多過ぎる。彼自身の杜撰さが露呈している。]

譚海 卷之九 岩國半紙幷岩國八幡宮の事

[やぶちゃん注:前回とは前の箇所が紙繋がり。]

 

○半紙は、周防(すはう)の岩國より、漉出(すきいだ)すをもちて、海内に用(もちひ)る事故(ゆゑ)、領主吉川家(きつかはけ)、殊に富有なり。

 半紙、上・中・下、數品(すひん)あれども、皆、岩國より出(いづ)るなり。

 此外、常州水戶より漉出すといへども、萬分の一にも、あらず。

 岩國の瀕海に、八幡宮、有(あり)。海上へ遠く築(つき)いだしたるところにて、皆、大石を持(もつ)て石垣を築立(つきたて)たる上に、社頭、有(あり)。社頭の壯麗なる事、比類なし。吉川家、建立(こんりふ)なり。船中より望(のぞみ)みるに、言語同斷なり。

「大坂より西國まで、海路の中(うち)、岩國八幡宮程、目に立(たち)たるやしろは、なし。」

と、いへり。

「社(やしろ)の下の海水、赤泥(せきでい)のやうに見えて、波、うづまき、外(そと)より見るに、甚(はなはだ)、おそろしきやうすなり。いかなるゆゑともしらず、至(いたつ)て深き所なるゆゑ、かくあるにや。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「八幡宮」吉川家の創建で、城壁のような高い石組みのある八幡宮となると、山口県岩国市岩国四丁目にある椎尾八幡宮がそれに当て嵌まるのだが、この神社は、錦川の川沿いながら、海とはかなり隔てた場所にあり(錦川自体が下流で今津川と門前川に別れて、初めて二つの川が、瀬戸内海に河口している)、岩国の古絵図を見ても、その立地に変わりはなく、本文の「社の下の海水」というような場所ではないので、「不詳」とするしかない。話者がいい加減なことを言っている可能性もあるが、識者の御教授を乞うものである。]

譚海 卷之九 御朱印紙の事

[やぶちゃん注:いらんだろうと思ったが、漢文部分は後に〔 〕で推定訓読文を示した。]

 

○御朱印の鳥子紙(とりのこがみ)、生間似合(きまにあひ)は、越前より、漉(すき)ていだすなり。

「皆、女の漉く事にて、十六、七歲より、廿四、五歳迄の女、漉たる紙は、殊に、光、ありて、うるはし。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「生間似合」平凡社「改訂新版 世界大百科事典」の「間似合紙(まにあいがみ)」に(コンマを読点に代えた。下線太字は私が施した)、『雁皮紙(がんぴし)の一種で,襖紙(ふすまがみ)としてはられるとともに、書画用紙としても使われた。名称の由来は、襖の半間の幅』三尺(約九十センチメートル)に『継目なしにはるのに、間に合うの意味といわれ、鎌倉時代から現れてくる(初出は』「祇園執行(ぎおんしゆぎょう)日記」建治四(一二七八)年の条)。『中世の障壁画の用紙としても使われている。江戸時代の間似合紙の産地としては、越前紙(福井県越前市の旧今立町)と』、『名塩紙(兵庫県西宮市塩瀬町名塩)が群を抜いた存在であった。当時、越前の間似合紙が雁皮原料のみの生漉き(きずき)間似合紙を特色とするのに対し、摂津(名塩)の間似合紙は,雁皮原料に地元特産の岩石の微粉を混入した粉入り間似合紙を特色とした。今日もなお、名塩では数軒が間似合紙を漉いている』とあった。]

 暑中は、「かうぞ」、ねばりて、漉がたきゆゑ、漉事を止(やめ)て、秋凉(しうりやう)を待(まち)て、又、すきはじむるなり。

 奉書紙も越前を第一とす。わかき女の漉たるは、紙、うすくして、曇(くもり)なく、淸らかに、光あり、手の、かろき故なり。老女の漉たるは紙、厚けれども、曇て、下品なり。手の重き故、又、光も、なし。

 すべて、國主大名へ賜(たまは)る所の御朱印紙は、生間似合なり。先年より賜る所の御朱印のうつしを、兼(かね)て、大名より、同じ紙に書(かき)て奉り置(おく)事なり。

 今年、天明七年[やぶちゃん注:一七八七年。当時の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。]、御朱印賜(たまは)る時に、書出(かきいだ)す所のうつし、すべて、八枚なり。東照宮より、俊明院公方樣[やぶちゃん注:家斉。]に至(いたる)迄、連綿、賜(たまふ)所、文章院・有章院兩公方樣の御朱印斗(ばかり)なし。早く薨去ありし故、其事に及ばざればなり。

[やぶちゃん注:「文章院」これは津村が次の院号に引かれて誤記したものであろう。「文昭院」が正しく、第六代将軍徳川家宣。「有章院」第七代将軍徳川家継。]

 寺社へ賜(たまふ)所の御朱印紙は、大槪、大高檀紙(おほたかだんし)なり。

 普通には、月日の肩に、御朱印、有(あり)。

 それより、一等上(のぼ)れるは、月日の下に、御印あり。文言、皆、「任富家先判例宛行者也」〔富家(ふけ)の先(さき)の判例に任せ、宛て行く者なり。〕とありて、御印斗(ばかり)にて、名は、なし。

 至(いたつ)て重きには、征夷大將軍御姓名ありて、御印、有(あり)。

 寺社の宛名も有。それらは、文言、「所ㇾ令寄附如ㇾ件」〔寄せ附きせしめし所(ところ)、件(くだん)のごとし。〕とあり。

[やぶちゃん注:「大高檀紙」(「檀紙」は、楮(こうぞ)で漉いた厚手で白く皺のある高級紙を指す)「中高」(ちゅうたか)・「小高」(こたか)に対して、大型の檀紙をいう。縦一尺七寸位(約五十センチメートル)、横二尺二寸位(約六十七センチメートル)。徳川時代、備中(岡山県)産が有名であったが、現在は、殆んどが福井県から産出される。昔は綸旨・免状・辞令や、高級な包み紙などに用いられた。今は化学繊維を混ずるものもでき、包装・書道などに使用する。「大高」「大高紙」(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

譚海 卷之九 鰹節獵の事

[やぶちゃん注:標題の「節」は、いらない。前話とは食用海水魚の漁繋がり。]

 

○鰹(かつを)の獵は、相州江の島の沖を盛(さかん)なり、とす。

 每年、三月下旬・四月初めのころ、はじめて鰹を獵し得るなり。江戶の豪富のもの、一日も、はやく、調理に入(はい)るを、口腹(こうふく)の第一と稱美する事なり。

 然れども、江の島にては、猶、「ふかせ」と稱して稱美せず。

 數日(すじつ)の後(のち)、初(はじめ)て、鳥帽子の如きものをいたゞきて、出來(いできた)る鰹、有(あり)。これを、はじめて「初鰹」と程する事なり。

 是を釣(つり)えたる獵師、

「先(まづ)、辨才天に供(きよう)し、さて、公儀へも奉る事。」

と、いへり。

 鰹の、盛に獵あるときは、わきめ、つかふ事、あたはず。鉤(はり)を投ずれば、手に隨(したがひ)て、かゝり、暫時に、舟中に充滿する事なり。

「餘り、したゝか釣(つれ)たる時は、『わにざめ、鰹に付(つき)たり。』とて、釣たるかつをを、數(す)十本、繩に、つかね、海中へ投入(なげいれ)て、それに合(あはせ)て、いそぎ、こぎもどる事。」

と、いヘり。

[やぶちゃん注:『毛利梅園「梅園魚譜」 松魚(カツオ)+鰹魚烏帽子(カツオノエボシ)』が、この篇には最も相応しかろう(無論、梅園の絵もある)。

条鰭綱スズキ目サバ科マグロ族カツオ属カツオ Katsuwonus pelamis

である。鎌倉・江の島附近での鰹漁は、古くから知られており、鎌倉時代の兼好法師の「徒然草」にも記されていることは、人口に膾炙している(上記リンク先の私の注で電子化してある)。江戸時代には、江戸の富豪が、東京湾を迂回して鎌倉沖まで来て、当地の漁師が獲った初鰹を放り投げると、一両を漁師舟に投げ入れるのが、通人の間で流行った。水戸光圀が編纂させた「新編鎌倉志卷之七」(光圀自身の生涯一度だけの長旅である来鎌は延宝二(一六七四)年、その後に本書が完成印行されたのが貞亨二(一六八五)年。リンク先は私のサイト版)の「材木座」の条にも、

   *

〇材木座 材木座(ザイモクザ)は、亂橋(ミダレバシ)の南の濵(ハマ)までの漁村を云ふ。里民魚を捕(ト)りて業(ワザ)とす。【徒然草】に、鎌倉の海に竪魚(カツヲ)と云魚(ウヲ)は、彼の境には左右なき物にて、もてなすものなりとあり。今も鎌倉の名物也。是より由比の濵(ハマ)へ出て左へ行(ユ)けば、飯島(イヒシマ)の道右へ行(ユ)けば鶴が岡の大鳥居の邊へ出るなり。

   *

と出る。後の、芭蕉の友人山口素堂(寛永一九(一六四二)年~享保元(一七一六)年)の知られた一句、

 目には靑葉山ほととぎす初鰹

は延宝六(一六七八)年の作で、まさに、この鎌倉の材木座海岸で詠んだとされるものである。また、芭蕉の知られた、

 鎌倉を生きて出でけん初鰹

は元禄五(一六九二)年の作、更に、蕉門十哲の一人其角には、

 まな板に小判一枚初がつを

の句があることからも、その粋(いき)が分かる。

「鳥帽子の如きもの」同時期に沿岸にやってくる刺胞動物門ヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目カツオノエボシ科カツオノエボシ属カツオノエボシ Physalia physalis

とされるが、別に、全然異なる種で、

ヒドロ虫綱花クラゲ盤泳亜目ギンカクラゲ科カツオノカンムリ属カツオノカンムリ Velella velella

がおり、毛利梅園の絵は、思うに、後者であると私は比定している。

「わにざめ」魚類のサメ類の俗称。 地方によって、異なったサメの種を指すが、山陰地方では「大形のサメ」の呼称であり、単に「ワニ」とも呼ぶ。当地では、サメを用いた料理を「ワニ料理」と呼ぶことは、最近はよく知られるようになった。]

譚海 卷之九 さわら魚漁師の事

[やぶちゃん注:歴史的仮名遣では「さはら」が正しい。スズキ目サバ亜目サバ科サバ亜科サワラ族サワラ属サワラ Scomberomorus niphonius 。漢字表記は「鰆」「馬鮫魚」。]

 

○さわらといふ魚は、風雨に乘じて、きそひ、あつまるものなり。

 されば、さわらとる漁師は、究竟のあぶれものならでは、成(なり)かたし。

 海上、あらし、はげしく成(なり)て、雨、きほひくれば、餘の獵船(りやうぶね)は、みな、家をのぞみて、かへる事なるに、獨(ひとり)、無賴の漁師共(ども)、さそひあひ、此しけを、心にえて、舟を出(いだ)し、風雨にまじりて、さわらをとる事、おびたゞしき事なり。

 ともすれば、波に舟をうちかへされて、海に落入(おちいる)事、度々(たびたび)に及べども、元より、無賴のものどもなれば、波をくゞり、水にうかび、舟を、かつぎなほし、水をかへ出(いだ)して、乘(のり)ありく。

「風波を、何とも、思ひたらず、終(つひ)にあやまちせし事、なし。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:博物誌は、私の「大和本草卷之十三 魚之下 馬鮫魚(さはら)(サワラ)」を、物産としてのそれは、私の「日本山海名産図会 第三巻 鰆(さわら)」を見られたい。但し、サワラが荒天を好むというのは、聴いたことがない。ネットで調べてみたが、そのような特異性は発見出来なかった。]

譚海 卷之九 相州三浦冬月牛馬飼方の事

○相州三浦にて、冬月(ふゆづき)、稗(ひえ)を殼ともに挽(ひき)て、每夜、鍋にて焚(たき)、諸手にあまるほどの、にぎり飯に拵(こしら)へ、「こぬか」を箕(み)のうへに、ちらし置(おき)、それへ、にぎりたるひえを、まろばすれば、小糠、くるみて、豆の、粉をまぶしたるやうになるを、それを、翌日、さめたるまゝ、牛馬に、かふ事なり。さすれば、來春に至(いたり)て、牛馬の毛色、うるはしく、あぶらつきて、見事に成(なる)事なり。春は、にぎりたるひえ飯を、「こぬか」をまぶさで、人も、くひものにすると、いへり。

[やぶちゃん注:「稗」単子葉植物綱イネ目イネ科キビ亜科キビ連ヒエ属ヒエ Echinochloa esculenta 。]

譚海 卷之九 畿内・勢・尾の人產業の事

譚海 卷の九 畿内・勢・尾の人產業の事

[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、「畿内」は大和・山城・摂津・河内・和泉の五国。現在の奈良県・京都府中南部・大阪府・兵庫県南東部を合わせた地域。「勢」は伊勢国、「尾」は尾張。]

 

○五畿内・伊勢・尾張などの人は、耕作の外に、一種の業(わざ)をなして、貨殖を事とし、利に走る事、其(それ)、性(せい)なり。中國・西國に至(いたる)迄、みな、しかり。

 茶をうゑ、「こかひ」[やぶちゃん注:「蠶飼」。]をなし、瀨戶物をやき、松の油煙(ゆえん/やに)をとるなど、瑣細(ささい)[やぶちゃん注:「些細」に同じ。]の事にいたるまで、其土地に應じたる事を、かまへなさずといふ事、なし。

 あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、梅の樹を、數(す)千本、うゑて、年々梅干を數萬の桶に漬出(つけいだ)し、又は棕櫚(しゆろ)の樹を植(うゑ)て、皮をはぎ、「はゝき」に造り、「たはし」に製し、繩に、なひなど、塵芥(ちりあくた)にいたるまでも、すたる事、なし。

「しゆろ、千本あれば、十口(とくち)のくらしにあたる。」[やぶちゃん注:「十口」一般の町人の十軒分。]

と、いへり。

 「はぜ」をうゑて、實をとり、蠟となすなど、至(いたつ)て辛勞(しんらう)する事にて、關東の人は敎(をしへ)ても、なしうる事を、せず。

 鷄(にはとり)を飼(かひ)て、玉子を產し、海の藻をとりて、「ところてん」を製しなど、智力を盡(つく)し、心を用(もちひ)る事、あげて、かぞへがたし。

 關東の農夫は、本業の外に、心をもちゆる事、少(すくな)し。終年、徒然(つれづれ)として遊惰(いうだ)に暮す事、奥羽をかけて、一般の風俗なり。然る間、貧を愁(うれふ)る事も、又、甚し。

[やぶちゃん注:「しゆろ」通常の漢字表記は「棕櫚」。ヤシ科シュロ属の常緑高木。ここでは、ワジュロ(和棕櫚: Trachycarpus fortunei )とトウジュロ(唐棕櫚: Trachycarpus wagnerianus )の両方を挙げておく。両者の区別は、前者が葉が折れて垂れるのに対して、後者は優位に葉柄が短く、葉が折れず、垂れない。近年、二種は同種ともされるが、園芸では、敢然として区別される。ウィキの「シュロ」によれば、『樹皮の繊維層は厚く』、『シュロ縄として古くから利用されている』。『また、ホウキの穂先の材料として使われる、日本の伝統的な和箒』(わほうき)『の棕櫚箒』(しゅろほうき)『としての利用も一般的である。繊維は菰(こも)の材料にもなる』とある。

「はぜ」双子葉植物綱ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum当該ウィキの「果実」によれば、『果実を蒸して』、『圧搾して採取される高融点の脂肪、つまり木蝋は、和蝋燭(Japanese candle)、坐薬や軟膏の基剤、ポマード、石鹸、クレヨン、化粧品などの原料として利用される』。『日本では、江戸時代に西日本の諸藩で木蝋をとる目的で盛んに栽培された。また、江戸時代中期以前は時としてアク抜き後』、『焼いて食すほか、すり潰してこね、ハゼ餅(東北地方の』「ゆべし」『に近いものと考えられる)として加工されるなど、救荒食物としての利用もあった。現在も、食品の表面に光沢をつけるために利用される例がある』。二十『世紀に入り安価で大量生産可能な合成ワックスにより、生産が低下したが、近年』、『合成ワックスにはない粘りや自然品の見直し気運などから需要が増えてきている』とある。]

譚海 卷之九 畿内・勢・尾の人產業の事

[やぶちゃん注:「畿内」大和・山城・摂津・河内・和泉の五国。現在の奈良県・京都府中南部・大阪府・兵庫県南東部を合わせた地域。「勢」伊勢国。「尾」尾張。]

 

○五畿内・伊勢・尾張などの人は、耕作の外に、一種の業(げふ)をなして、貨殖を事とし、利に走る事、其(それ)、性(せい)なり。中國・西國に至(いたる)迄、みな、しかり。

 茶をうゑ、「こかひ」[やぶちゃん注:「蠶飼」。]をなし、瀨戶物をやき、松の油煙(ゆえん/やに)をとるなど、瑣細(ささい)[やぶちゃん注:「些細」に同じ。]の事にいたるまで、其土地に應じたる事を、かまへなさずといふ事、なし。

 あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、梅の樹を、數(す)千本、うゑて、年々梅干を數萬の桶に漬出(つけいだ)し、又は棕櫚(しゆろ)の樹を植(うゑ)て、皮をはぎ、「はゝき」に造り、「たはし」に製し、繩になひなど、塵芥(ちりあくた)にいたるまでも、すたる事、なし。

「しゆろ、千本あれば、十口(とくち)のくらしにあたる。」[やぶちゃん注:「十口」十軒分。]

と、いへり。

 「はぜ」をうゑて、實をとり、蠟となすなど、至(いたつ)て辛勞(しんらう)する事にて、關東の人は敎(をしへ)ても、なしうる事を、せず。

 鷄(にはとり)を飼(かひ)て、玉子を產し、海の藻をとりて、「ところてん」を製しなど、智力を盡(つく)し、心を用(もちひ)る事、あげて、かぞへがたし。

 關東の農夫は、本業の外に、心をもちゆる事、少(すくな)し。終年、徒然(つれづれ)として遊惰(いうだ)に暮す事、奥羽をかけて、一般の風俗なり。然る間、貧を愁(うれふ)る事も、又、甚し。

譚海 卷之九 京都婦人用意ふかき事

○京都の町人何がしの妻、緣付(えんづき)て、七、八年にもいたり、子供も、壹人、出生(しゆつしやう)せしに、此子、五、六歲の比(ころ)、母の乳(ち)をふくみながら、手すさみに、母の鬢(びん)の毛を引(ひき)たれば、あやまたず、引おとしぬ。

 元來、此妻女、びんの毛、かたがた、はげてなきを、かづらを付(つけ)て、まことに、鬢のあるごとく、つくろひたるなり。

 それを、七、八年の際、夫(をつと)にも、しられず、かくしとげたるに、おもひがけず、小兒に引とられて、大(おほい)に恥らひ、赤面に及び、夫も、はじめて、妻の鬢の、はげたる事をしりて、驚(おどろき)たり、とぞ。

 すべて、京都の女は、たしなみ深く、朝(あした)に起き出(いづ)る時、いつも、鬢のそそげたるをみたる事、なし。女の寢起(ねおき)の顏、人に、みする事、なし、とぞ。起出(おきで)んとする時、先(まづ)、閨(ねや)にて、あらかじめ、髮、なで、そゝげ、つくろひて後、扨(さて)、厠(かはや)へも行(ゆく)事、とぞ。

「大かた、京都の下女は、臺所の業(なりはひ)、終りて、人、しづまりて後、あんどうに、むかひ、燈心一すぢの光りにて、髮ゆふてのち、いぬるなり。朝に、髮ゆふ事、なし。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:本篇は、人体の欠損(法的には髪は「人体」であり、本人の意向を聞かずに切った場合、立派な「傷害罪」となる)という点で、前話の「入眼入鼻の事」と確信犯の連関性が認められる。]

2024/02/20

譚海 卷之九 入眼入鼻の事

[やぶちゃん注:本篇は現在は差別用語として使用しない言葉や、差別的な話者の語りがある。その辺りは、十全に批判的視点を持って読まれたい。]

 

○今時(こんじ)は、すべて技能の事も精密になりて、入眼(いれめ)・入鼻(いれはな)などいふ事を考へ出(いだ)し、かたわなる人も、療治を得(う)れば、平常の人に異なる事なきやうにみゆるなり。

 番町の御家人何がしの息女、片目、あしかりしを、入眼せしかば、よき目よりは、よくみなさるゝやうに成(なり)たり。但(ただし)、それをしりて、心をとめてみれば、入見[やぶちゃん注:底本に編者の補正傍注が『(瞳)』とある。これで「いれめ」と読ませるつもりであろう。]のはたらかざるゆゑ、入眼の事とは、しらるれども、うちつけに、しらぬ人の指向(さしむか)ひたるには、さらに入眼成(なり)とも見わけかたきほど也。

 其のち、此息女、かたわを、かくして、媒介(なかうど)によりて婚娶(こんしゆ)[やぶちゃん注:「結婚」に同じ。]の事、さだまり、緣付(えんづき)たり、とぞ。

 又、大門通(だいもんとおり)に馬具をあきなひするもの、師走ころ、牛込の邊(あたり)へ、馬具のあたひを請取(うけとり)に行(ゆき)たる歸路(かへりみち)に、夜陰、盜賊にあひて切付(きるつけ)られ、

「にぐる。」

とて、鼻を切落(きりおと)されぬ。にげ歸(かへり)て、いそぎ、入鼻の醫師を求(もとめ)て、療治せしかば、木をきざみて、鼻の形になし、付(つけ)そへたりしに、元來(もとより)、鼻の色、少(すこし)もたがふ事なく、奇特成(きどくな)ることに、人も、あざみ[やぶちゃん注:この場合は「意外なことに驚き」の意。]、いひたり。

 但(ただし)、酒徒(しゆと)成(なる)故、沈醉(ちんすゐ)にをよぶ[やぶちゃん注:ママ。]ときは、顏色、あかく成(なる)にしたがつて、鼻の色ばかり、かはらず、たしかに、入鼻、わかれて、見えたり、とぞ。にげ歸(かへえり)て、そのままに、うちふし、療治して、後(のち)、數日(すじつ)ありて、おきあがり、衣裳をぬぎかへたれば、きられたる鼻の肉、懷中に落(おち)とまりてあるが、しなびかへりて出(いで)たる。やがて、醫師のかたへ、持行(もちゆき)てみせければ、

「其儘ならば、いかにも、これを、とりつけて療治すべきに、かく、日ごろ、へぬれば、かひなし。」

とて、やみけり。

「いと本意なき事。」

と物がたりぬ。

[やぶちゃん注:「大門通」現在の東京都中央区日本橋小伝馬町から日本橋人形町二丁目までの道路の呼び名(グーグル・マップ・データ)。同区が定める道路愛称名の一つ。江戸時代初期に吉原遊廓(元吉原。その大門)があったことによる。同遊郭は「明暦の大火」(明暦三年一月十八日から二十日(一六五七年三月二日から四日)で焼失し、浅草寺裏に移った。]

譚海 卷之九 盲僧支配御觸書の事

 

 譚 海 卷の九

 

 

〇天明五年八月、町奉行所より被仰渡候書面。

「中國西國筋、是迄、無支配の盲僧共、靑蓮院宮樣支配に相成候に付(つき)、武家陪臣の世悴(せがれ)、盲人は盲僧に相成(あひなり)、右宮御支配に付くとも、又は、鍼治(しんぢ)・導引(だういん)・琴・三味せん等いたし、檢校(けんげう)の支配に相成候共(とも)、勝手次第たるべく候。百姓・町人世倅、盲人共、盲僧には不相成、鍼治・導引・琴・三味線等、致し、檢校支配に可ㇾ被ㇾ成候。若(もし)内分(ないぶん)にて寄親(よりおや)等いたし、盲僧に相成候義は、決(けつし)て不相成事に候。右の外(ほか)、百姓・町人の世悴、盲人にて、琴・三味線・鍼治・導引を以(もつて)渡世不ㇾ致、親の手前に罷在候而已(まかりさふらふのみ)の者、幷(ならびに)武家へ御抱(おかかへ)、主人の屋敷、又は、主人の在所へ引越(ひきこし)、他所稼(よそかせぎ)不ㇾ致分は、安永五申年、相觸候通(あひふれさふらふとほり)、制外可ㇾ爲(せいがいなすべき)事、右の通、可相守旨不ㇾ洩樣(もらざざるやう)可ㇾ被相觸候以上。」

[やぶちゃん注:「天明五年八月」一七八五年。但し、当時の将軍徳川家治はこの月の八月二十五日に脚気衝心で死去している。享年五十(満四十九歳没)。当時は、高貴な人物の逝去の紅海は一ヶ月ほど伏せられるのが通例であった。なお、次代の養子家斉(いえなり)の第十一代将軍就任は天明七(一七八七)年であった(数え十五歳)。ただ、「福岡市博物館」公式サイト内の「アーカイブズ 」の「企画展示」の「 No.239 筑前の盲僧」を見ると、『天明』三(一七八三)『年、北部九州の盲僧は』、『ようやく青蓮院(しょうれんいん)という庇護者を得ることに成功します。京都粟田口(あわだぐち)にある青蓮院は延暦寺三門跡(えんりゃくじさんもんぜき)のひとつであり、盲僧たちにとっては申分のない格式を備えた寺院でした』。『青蓮院配下として再出発をした盲僧の生活は様々な規則に縛られるようになります。例えば、欠かさず年頭の挨拶に京都を訪れるべきことや、芸能活動の禁止等が定められました。また、当道座ほどではありませんが、頭(かしら)から平僧(ひらそう)に至る』六『段階の階層が設けられ、それぞれ』、『昇進の度に青蓮院へ礼金を納めなければならなくなりました。袈裟や杖も許可制となり、同様に礼金を必要としました』。『しかし、盲僧にとってプラスとなった面も多くありました。例えば、礼金などは当道座の官金制度より負担が軽く、時には青蓮院に「ツケ」で上納することも行なわれました』。『年頭挨拶も数年に一回、時期もまちまちで、代表者のみが上京することが多く、当初定められた規則は』、『あまり守られなかったようです。いずれにせよ、青蓮院の支配で盲僧は当道座に対抗できる権威を得て』『、安定した生活を手にしたと言えるでしょう』とあるから、この「天明五年」は「三年」の津村の判読の誤りの可能性が大である。「三」と「五」の崩しは、記者が雑だと、よく判読を間違えるからである。

「寄親」近世、奉公人の身元引受人(保証人)を指す。

「安永五申年」一七七六年。同じく家治の治世。]

譚海 卷之八 武州靑梅領禪寺の住持盜賊にあひて才覺の事 / 卷之八~了

[やぶちゃん注:この前の二話「九州海路船をうがつ魚の事」、及び、「房總幷(ならびに)松前渡海溺死幽靈の事」は既にフライング公開している。

 なお、本篇を以って「卷之八」は終っている。]

 

○武州、靑梅(あをめ)領に、金龍寺と云(いふ)禪寺あり。

 ある宵の程、盜人(ぬすびと)、二、三人來りて、異儀なく、門番をしばり、

「聲、たてなば、殺害(せつがい)すべし。住持の居間へ、案内すべし。」

とて、門番を先に立(たて)て拔身(ぬきみ)の刀のまゝながら、庫裏(くり)へ行(ゆき)けり。

 和尙の居間へ至(いたり)てければ、和尙、たばこ呑(のみ)てゐたりしに、

「金子、借用に參(まゐり)たり。とく、出(いだ)されよ。」

と、いひければ、和尙、少しも、さわぐ氣色(けしき)なく、

「成程。先(まづ)、各(おのおの)、抜身にて、あぶなし。金子もかし申(まふす)べきまゝ、かたなを、收(をさめ)られ、靜(しづか)に致されよ。」

と、いひければ、盜人、刀を、をさめて坐(ざ)したる後(のち)、和尙、申けるは、

「爰(ここ)に、金子五兩、有(あり)。是より外(ほか)になければ、是を取(とら)するなり。持參致されよ。」

と、いひしに、此ぬす人、

「あまり少金(しやうきん)なり、是計(ばかり)にはあるまじ、かくす所なく、かし給はれ。」

と、いひしかば、和尙、

「沙門の身といふものは、さのみ、餘計(よけい)の金子、たくはふる物に、あらず。たくはへても、用なければ、我等、持合(もちあひ)たるは、是のみなり。もし、不足におもはれなば、寺の者、持合(もちあはせ)たるも、あるべし。取揃(とりそろへ)、進(しん)ずべし。」

とて、弟子の僧、又は、下人など呼出(よびいだ)して、

「かやうの無心に逢(あひ)て、せんかたなし。其方達、たくはへあらば、此五兩の上に、少し成(なり)とも餘計にして進じたし。何とぞ、今宵、かし進(しん)せよ。」

とて、彼(かれ)を、さとし、是を、すゝめて、金子、二步、三步、取(とり)あつめて、六、七兩に成(なり)たるを、ぬす人に渡し、

「見らるゝ如く、かほどまでせんさくしても、此ほかに寺中(てらうち)に持合(もちあひ)たる金子、是、なし。不肖ながら、是をもち歸られよ。」

と、いひしに、盜人も、ことわりにおぼへて、其金(かね)を懷中せしかば、和尙、又、

「各(おのおの)、空腹(すきばら)にも成(なり)たるべし。茶漬にても、參られよ。」

とて、ありあふ食事などすゝめ、時をうつして後(のち)、ぬす人、いとまごひて、立出(たちいで)しに、暫(しならく)有(あり)て、和尙、ぬす人の跡を、とめて[やぶちゃん注:「問めて」。行く方を探って。]、ひそかに、しりにたちて、付(つき)そひ往(ゆき)けり。

 やゝとほく行(ゆき)て、ある家の長屋門ある百姓の家へ入(いり)ぬれば、和尙、これを見屆けて、其邊(そのあたり)の、みぞの泥を、掌(てのひら)にぬりて、戶びらに手のかたを、おし、其上の方に、「一」の字を書(かき)て、かへりぬ。

 夜あけて、和尙、弟子を呼(よび)て、

「此(この)何村の内に手の『かた』をおして、『一』の字を、泥にて書付(かきつけ)たる戶びらある家に行(ゆき)て、何となく、『昨夜、止宿の人は何と申(まふす)や。』、姓名を聞(きき)て、かへるべし。」

と、いひければ、弟子、敎(をしへ)のごとく、聞糺(ききただ)したるに、何某(なにがし)と云(いふ)武家、四百石、知行(ちぎやう)ある人、泊(とまり)たるよし。」

を、いひければ、其姓名、聞(きき)、歸(かへり)て、和尙に云(いひ)しまま、和尙、やがて、其家に行(ゆき)て、案内し、其武家に逢(あひ)たるに、昨夜のぬす人に、まぎれなかりしかば、則(すなはち)、和尙、其人に申けるは、

「昨夜、御無心ゆゑ、御用立(ごようだて)たる金子、かへさるべし。」

と、いひしに、此武家、あらがふかたなくて、無下(むげ)に金を出(いだ)して、かへしける、とぞ。

[やぶちゃん注:「武州、靑梅領に、金龍寺と云禪寺あり」東京都青梅(おうめ)市だが、「金龍寺」という寺は現存しない。或いは、筆者か話者が、変名にしたものかも知れない。]

譚海 卷之八 因幡・石見・伯耆銀札の事

○因幡・石見・伯耆三ケ國は、國中(くにぢゆう)、皆、銀札(ぎんさつ)通用にて、金銀を、いまだ、目に見ざる者、おほし。剩(あまつさへ)、領主限(かぎり)の銀札ゆゑ、それをしらずして、此國の銀札を持(もち)て、他領へ至れば、僅(わづか)小路(こうぢ)ひとつ、家一つ鄰でも、

「他領の銀札成(なり)。」

とて、もちひざるゆゑ、案内をしらぬものは、往來に無益の損毛(そんもう)ありて、いたづらに銀札を道に捨(すて)て行(ゆく)者、おほし、とぞ。

[やぶちゃん注:「銀札」江戸時代、銀で額面を表示した紙幣。藩札・私札のうち、大部分を占めたが、匁・分を貨幣単位とする銀札は、金札に比べて小額で、額面単位の刻みも多くできたため、種類も豊富で、発行者にとっても重宝であった。原則として、銀貨との交換が発行者によって保証されたが、乱発によって減価したり、交換が困難になる事態も見られた。明治元(一八六八)年の「銀目廃止」に伴って、多くの藩で金札や銭札に改めた(山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」に拠った)。]

譚海 卷之八 長州下の關遊女の事

○長門、下の關の湊の遊女、往時、平家沒落の時、宮女(きうぢよ)、身をよするかたなくて、遊女と成(なり)しより、初(はじめ)たる、とぞ。

 下の關あみだ寺に、安德帝幷(ならびに)平家一門の御影(ごえい)あるに、七月盆中。諸人(しよにん)、參詣するにも、

「下の關の遊女、參詣をはじめざる間(あひだ)は、諸人の參詣を禁ずる。」

よしを、いへり。

譚海 卷之八 和州吉野戶津川龜井六郞子孫の事

○吉野の奥、戶津川[やぶちゃん注:底本には編者の補正傍注があり、「戶」は『(十)』とある。]は、七里に十五里の地にして、誠に兵亂などを遁(のが)るには、無双の所にして、本朝の「武陵桃源(ぶりやうたうげん)」とも、いひつべき所、とぞ。

 紀州御領にて、代官は居置(をりおき)るれ共(ども)、何れも、居民、無年貢の定(さだめ)なり。

 それは、此地の人、何れも、世代、五、六百年、子孫をつたへて、住(すみ)つゝ、みなみな、由緖あれば、それに免ぜられて、今は、年貢の沙汰には及(およ)ばれざる、よし。

「平の惟盛(これもり)の子孫、楠家(くすのきけ)の一族など、あまた、子孫、世をつたへて、今に住(すみ)わたるもの、おほし。」

とぞ。

 當所(たうしよ)に源九郞判官[やぶちゃん注:源義経。]の郞等(らうだう)にて、龜井の六郞の子孫、有(あり)。代々龜井六郞と號する、よし。

 其家へ立寄(たちより)て、

「遠國(をんごく)より承及(うけたまはりおよび)たる。」

よしを、申入(まふしいれ)ければ、主人、出會(いであひ)て、慇懃にあひしらひ、閑談の上、

「定(さだめ)て、御家にて、古代の物、つたへられたる數々(かづかず)あるべし、是迄尋まゐりたる證據に、何ぞ、古筆にても、見せ給はるべし。故鄕(ふるさと)の物語(ものがたり)かたりに致度(いたしたき)。」

よし、申ければ、主人、

「成程。御心安き御所望、家につたへ候品ども、彼是、有ㇾ之候へども、先年、紀州殿より仰渡(おほせわた)され候て、

『什物(じふもつ)傳來の品、必ず、他邦(たはう)の人に、みすまじ。隨分、祕藏して藏置(をさめおく)べき。』

よし、命ぜられぬれば、領主の命、もだしがたく候まゝ、御覽に入(いれ)がたき。」

よし答ける、とぞ。

 是等、皆、

「年始に和歌山へ出勤して、年頭、目見得(めにえ)勤(つとむ)るばかりにて、外に無役にてある事。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「戶」(十)「津川」現在の奈良県吉野郡十津川村(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「武陵桃源」陶潜(淵明)の「桃花源記」に見える架空の地で、晋の太元年間(東晋の孝武帝司馬曜の治世に行われた二番目の元号。三七六年~三九六年)に、湖南武陵(漢代に現在の湖南省北西部地域に置かれた郡名。中心は現在の湖南省懐化市漵浦(じょほ)県の南)の人が、桃林の奥の洞穴の向こうに出でて見ると、秦末の戦乱を避けた人々の子孫が住む別天地があって、世の変遷も知らずに平和に暮らしていたという伝奇物。俗世間を離れた楽天地。また、比喩的に「別天地・理想郷」を言う。所謂、「桃源境」のこと。

「平の維盛」(平治元(一一五九)年 ~寿永三(一一八四)年?)平清盛の嫡子平重盛の嫡男であったが、父の早逝もあって、一門の中では孤立気味であり、平氏一門が都を落ちた後に戦線から離脱し、現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の熊野灘の沖で入水したとされている。一種のノイローゼ或いは鬱病であったと私は考えている。那智の補陀洛山寺の供養塔をお参りしたことがある。但し、生存説が古くからあり、また、全国各地に彼の隠棲・落人伝説が残る。

「楠家の一族」南朝のために貢献した楠木正成誕(永仁二(一二九四)年?~延元元年/建武三(一三三六)年)以下の一族。

「龜井の六郞」亀井重清(しげきよ ?~文治五(一一八九)年)は源義経の郎党で、「義経四天王」の一人。「弓の名手」と伝わる。参照した当該ウィキによれば、『藤白鈴木氏』(ふじしろすずきし:紀州熊野系の穂積氏の子孫で、穂積老の子とされる穂積濃美麻呂(ほぢみののみまろ)の流れを汲む、熊野速玉大社一の禰宜であった穂積国興の子、鈴木基行が鈴木姓を称したことに始まる。十二世紀頃、熊野から藤白(現在の和歌山県海南市藤白)に移り住んで以来、王子社(現在の藤白神社)の神職を代々務めた家系。熊野三党の一つとして熊野地方に大きな勢力を有し、また熊野八庄司の一つとして当主は代々「鈴木庄司」を称した)『の一族で、兄に鈴木重家がいた。また』、「続風土記」の『「藤白浦旧家、地士鈴木三郎」によると』、『重清は佐々木秀義の六男で、義経の命で』、『重家と義兄弟の契りを交わしたとされる』。「吾妻鏡」の文治五(一一八五)年五月七日の『条に』、『兄頼朝の怒りを買った義経が、異心のない証』(あかし)『として鎌倉へ起請文を送った使者として』、『亀井六郎の名が見られる。この起請文は、義経がそれまで勝手な振る舞いをしてきて、今になって頼朝の怒りを聞いて初めてこのような使者を送って来たものとして許されず、かえって』、『頼朝の怒りを深める原因になった』。「源平盛衰記」では、「一ノ谷の戦い」で『義経の郎党亀井六郎重清として登場する』。「義経記」では『義経最期の』「衣川の戦い」で『「鈴木三郎重家の弟亀井六郎、生年』二十三『」と名乗り、奮戦したのち』、『兄と共に自害した』とする。

「紀州殿」本巻は寛政二(一七九〇)年が最新年次とされるので、和歌山藩第九代藩主徳川治貞(はるさだ)か。彼の在任は安永四(一七七五)年~天明九(一七八九)年である。]

譚海 卷之八 備前國洞穴鍾乳の事

[やぶちゃん注:先行する「譚海 卷之二 信州戶隱明神奧院の事」の本文及び私の注を参照されたい。]

 

○信州、戶隱山、奥の院、九頭龍權現の洞穴も、其ふかき事を、しらず。

 天台宗にて、其僧、相詰(あひつめ)て、日々、寅の刻に御供(ごくう)を備ふ。

 洞(ほら)の中(うち)へ入(いる)事、三町ほどにして、供物を備ふる所、杭を四本うちて、其上へ供物を箱に入(いれ)たるまゝに置(おき)て、跡じさりして、洞の口まで出歸(いでかへる)、とぞ。

 若き僧ならでは、勤(つとま)りがたし。

 權現の御心(みこころ)に叶(かなひ)たる僧は、年へても、つとむる者、おほし。又、暫時、つとめて、退(しりぞ)く者も、おほし。

 供物は、箱の内にて、日々、うする事なり。又、幾日も、箱のうちにあるまゝにて、ある事も、有(あり)。

 是も、

「不思議。」

とし、且(かつ)、權現の御きげんよき、あしきを、うらなふ便(たより)とす。

 洞穴より、本社の戶隱明神までは、三十二町[やぶちゃん注:約三・四九一キロメートル。]、有(あり)。

「信州の六兵衞と云(いふ)者、信心にて、近來(ちかごろ)、石碑を道じるしに建(たて)て、三十二町を二十町にさだめたり。」

といふ。

「九頭龍權現は白蛇にてまします。」

よし。

「本地(ほんぢ)は辨才天。」

と、いへり。

 洞穴の前に拜殿あり。拜殿より、ほらの口までは、よほど高き所なるに、廊下をつくりそへて、通行するやうにせしなり。

 山中、冬は至(いたつ)て、雪、深ければ、「雪なで」とて、雪の絕頂より、くづれおつるにおされて、人家、多く、そこなはるゝゆゑ、大盤石(だいばんじやく)の本(もと)を楯(たて)にとりて、盤石より、庇(ひさし)をかけたして、その下に、冬・春までは住居(すまい)する事なり。「雪なで」、くづれ落(おち)ても、盤石にさゝへて、住居のおしうたれぬやうに、かまへたること、とぞ。

譚海 卷之八 備前國洞穴鍾乳の事

[やぶちゃん注:サイト「岡山観光WEB」のこちらによれば、岡山県の「井倉洞」と「満奇洞」がある(写真・地図有り)。さらに、西直近に平案時代には既に知られていた日本最古の鍾乳洞とされるスケールの大きい岡山県真庭(まにわ)市上水田(かみみずた)の「備中鐘乳穴」(びっちゅうかなちあな)(同前の独立ページ)があり、これも含めていいだろう。問題は、標題と冒頭の「備前」で、これは「備中」の誤りである。]

 

○備前の邑久郡(おくのこほり)[やぶちゃん注:底本に「邑久」の右に編者の補正注で『(奥の)』とある。「邑久郡」は確かに備前にあったが、瀬戸内海沿岸域で、旧邑久郡には知られた鍾乳洞はない。]に洞穴あり。

 入口、盤石(ばんじやく)をうがちて、出入(でいり)するに、さはらぬやうに、かまへたり。

 入(いり)て、十町[やぶちゃん注:一・〇九メートル。]程ゆけば、高き石上にのぼる、その道は、石をうがちて、階(きざはし)になせる十級(きふ)斗(ばか)り有(あり)、のぼりて見れば、そのうへ、たひらか成(なる)事、「むしろ」をしきたるごとく、座地、廣(ひろく)、甚(はなはだ)ゆるやかにして、約(やく)する[やぶちゃん注:「に」が欲しい。]、三、四十間[やぶちゃん注:五十四・五四~七十二・七二メートル。]もあるべし。

 それより又、くだる道あり。おなじく、階をつくりて、くだりはてたれば、洞中、みな白璧(しらかべ)のごとく、みゆ。松明(たいまつ)に、てらしてみれば、ことごとく、石鍾乳(せきしようにゆう)なり。火うち石の如く、稜(かど)ありて、石より、垂出(たれいで)たり。それを過(すぎ)て、三町ほどゆけば、流水、有(あり)、尋常の川に異ならず。

「はじめ、渡る時は、脛(すね)を沒す。中流にては、水、臍(へそ)におよぶ。」

と云(いふ)。

「わたる向ふのきしは、又、水、脛に及(およぶ)ばかりなり。是を探(さぐり)たる人、水を恐(おそれ)て、歸りたり。水のあなたは、又、洞中の道ありて、行(ゆく)時は因幡の國へ出(いづ)る。」

と云(いふ)。

「甚(はなはだ)、近道なり。」

とぞ。

「洞口より、因幡まで、一里半ばかり有(あり)。」

と、案内の者、語りし、しなり。

[やぶちゃん注:内部のスケールと最後の「因幡」に抜けるという記載から、「備中鐘乳穴」(グーグル・マップ・データ)の可能性が高い。]

譚海 卷之八 備中吉備津宮御釜の事

○備中吉備宮の「釜祈禱」といふは、銀拾二匁、奉納すれば、おこなはるゝなり。

 其願主に成(なり)たる人、ものがたりせしは、

「釜殿とて、別に社内にかまへたる所、有(あり)。禰宜、案内して釜殿の拜殿へ、いざなふ。

 釜殿は、いたじきにて、それより坐して見れば、前にひろき土間あり。土間に、竈、二つありて、釜、二つ、すゑ有(あり)。釜の口、さしわたし三尺斗(ばかり)、盃(さかずき)のかたちのごとく、ひらきて、腹に、橫すぢ、入(いり)たる鐵釜なり。普通の釜にかはる體(てい)にあらず。

 しばらくして、大嫗巫(だいうふ)[やぶちゃん注:かなり年老いた巫女。後の「巫嫗」も同義。]、二人、「ちはや」をかけ出來(いできた)る。首髮(かうべがみ)、ことごとく白くして、殊勝に覺えたり。

[やぶちゃん注:「ちはや」小忌衣(おみごろも:斎戒用の衣)の一種で、神事に奉仕する巫女が袍(ほう:綿を包み入れた衣服)の上に着る白地の単(ひとえ)。ヤマアイ(山藍)で、水草・蝶・鳥などの模様が染めてある。袖口は縫わずに、「こより」で括(くく)る。]

 この巫嫗(ふう)、願主に揖して、

『信心を凝(こら)すやうに。』

と、いましめて後(のち)、桶より、其米(こめ)を、𪭜子[やぶちゃん注:不詳。「杓子(しやくし)」か。]に、一すくひ、とりて、かまの中(うち)へ入終(いれをは)れば、件(くだん)の禰宜、松葉、一枚づつ、二つの釜に、さしくべ、火を鑽(きり)て、付木(つけぎ)に點じ、松の葉に、さしそひて、焚(たく)。

 其時、巫嫗、しばらく、默禱して、釜の側(かたはら)の圓座に居(を)る。

 やがて、釜、音をたてて、微(かすかな)音に鳴出(なりいづ)るが、後(のち)には、其昔、甚(はなはだ)、大(おほき)くひゞきて、旁(かたはら)にて、ものいふ聲も、聞えざるやうに鳴動す。

 奇成(なる)事、いふばかりなし。

 一枝の松に點(てんじ)たる火、既に消盡(きえつくし)て、灰に成(なり)たるのちも、釜のなる事、少しも、かはらず。

 やうやう、時をへて、次第々々に、其音、減じて鳴り收(をさむ)る。」

とぞ。

「すべて、釜の鳴(なる)事、半時餘(あまり)成(なる)べし。」

と、いへり。

「鳴(なり)やみて、巫嫗、

『御釜、御きげんよく鳴玉(なりたま)ひし。』

と云(いひ)て、去れる事。」

とぞ。

「拜殿よりは、釜の内、見えざるゆゑ、あまりに鳴(なり)ひびくとき、ふしぎに思ひて、素足に成(なり)て庭中(にはうち)におりて、竃の前後、一周、𢌞(まわり)ありきて見たりしに、何のあやしき機關(からくり)も見えず。水は、元より、釜中(かまうち)に入(いれ)てありし事と見えたり。かほど、ふしぎ成(なる)事、いまだ、見聞(みきき)せず。」

と、物語せり。

「旅宿に歸(かへり)ても、御釜なる事のふしぎ成(なる)事を思居(おもひをり)て、主人にいひしかば、主人、いひけるは、

『此御釜のみに限り侍らず。我等家のかまにても、あの巫嫗、來(きたつ)て、右のごとくに、おこなひ候へば、どうやうに鳴申(なりまふす)事。』

と、いひしよし。

「ますます、不思議の事。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「備中吉備宮」岡山県岡山市北区吉備津にある吉備津神社(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。嘗ては、「吉備津彥神社」と称した。ここに示された特異な神事は、上田秋成の名作「雨月物語」の「吉備津の釜」で知られるそれで、ウィキの「鳴釜神事」の「吉備津神社の鳴釜神事」の項に、『同神社には御釜』(御竈)『殿』(おかまでん)『があり、古くは鋳物師の村である阿曽郷(現在の岡山県総社市阿曽』(そうじゃしあぞ)『地域』(ここ)。『住所では同市東阿曽』及び『西阿曽の地域に相当する)から阿曽女(あそめ、あぞめ。伝承では「阿曽の祝(ほふり)の娘」とされ、いわゆる阿曽地域に在する神社における神職の娘、即ち巫女とされる)を呼んで、神職と共に神事を執り行った。現在も神職と共に女性が奉祀しており、その女性を阿曽女と呼ぶ』。『まず、釜で水を沸かし、神職が祝詞を奏上、阿曽女が米を釜の蒸籠(せいろ)の上に入れ、混ぜると、大きな炊飯器やボイラーがうなる様な音がする。この音は「おどうじ」と呼ばれる。神職が祝詞を読み終える頃には』、『音はしなくなる。絶妙なバランスが不思議さをかもし出すが、この音は、米と蒸気等の温度差により生じる熱音響効果』『とよばれる現象と考えられている』。百『ヘルツぐらいの低い周波数の振動が高い音圧を伴って』一ミリメートル『ぐらいの穴を通ると』、『この現象が起きるとされ、家庭用のガスコンロでも』、『鉄鍋と蒸篭』(せいろ)『を使って生米を蒸すと再現できる』。『吉備津神社には鳴釜神事の起源として』、『以下の伝説が伝えられている。吉備国に、温羅(うら)という名の鬼が悪事を働いたため、大和朝廷から派遣されてきた四道将軍の一人、吉備津彦命に首を刎ねられた。首は死んでも』、『うなり声をあげ続け、犬に食わせて骸骨にしても』、『うなり続け、御釜殿の下に埋葬しても』、『うなり続けた。これに困った吉備津彦命に、ある日』、『温羅が夢に現』わ『れ、「温羅の妻である阿曽郷の祝の娘である阿曽媛』(あぞひめ)『に神饌を炊』(かし)がし『めれば、温羅自身が吉備津彦命の使いとなって、吉凶を告げよう」と答え、神事が始まったという』とあった。]

譚海 卷之八 備前平戶の人海わたりの事 / 同所より朝鮮國幷長白山見ゆる事

[やぶちゃん注:この二篇は、明らかに並べて書かれたものと判断し、カップリングした。]

 

○肥前平戶の沖、「九十九島」と云(いふ)。其西にあたりて、入海(いりうみ)、有(あり)。

[やぶちゃん注:広義の「九十九島」は北松浦半島西岸に連なるリアス式海岸の群島であり、国土地理院図のこちらで、「北九十九島」と「南九十九島」(ここに「九十九島湾」がある)が確認出来る。当該ウィキによれば、『島の総数は現在公式には』二百八島と]『されている。これは「九十九島の数調査研究会」の』二〇〇一『年時点』の『調査によるものであるが、島の定義等により異説もある』。「西海国立公園 九十九島全島図鑑」『(芸文社)著者の澤恵二による実地調査では、満潮時に他の陸地から独立して海面上にあり、植物が生えているという基準で』二百十六島『あるという』とあり、殆んどは、『小さな無人島や岩礁で、人が住む有人島は黒島、高島、それに本土から橋で行き来できる前島と鼕泊(とうどまり)島の』四『つである』とあった。]

 入海は大村領と、長嶋のうしろをうけて、ひろさ四十里餘(あまり)あり。島々、尤もおほし。

[やぶちゃん注:「大村領」肥前国彼杵(そのぎ)地方を領した大村藩。藩庁は玖島(くしま)城(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)で、現在の長崎県大村市内にあった。

「長島」大村湾北端に浮かぶ長崎県西海市西彼町(せいひちょう)小迎郷(むかえごう)の長島

「四十里」現行の一里では百五十六キロメートルになるが、津村は京都生まれだが、江戸に住んだから、「坂東道」(=「小道(こみち)」。一里を六町(六百五十四・五四メートル)とする)で言っているとすれば、二十六キロメートル強となる。だが、狭義の現行の「九十九島」は、公式には「西海国立公園」としての「九十九島」は四十五キロメートルとするし、本土海岸線をリアスを概ね無視し、ざっくりと計測すると、三十五キロメートルほどになる。但し、前の「中嶋のうしろ」という表現からは、ここでは、「九十九島」の南端を、佐世保湾を含めて言っていることが判るので、それを足すと、六十六キロメートルほどになる。されば、「坂東道」ではなく、現行の一里でリアス海岸をこまめに計測するなら、ドンブリで、百五十六キロメートルぐらいの数値は出そうではある。

 此入海の口は、「りうの島」と、「小浦」と云(いふ)所にて、わたり五十間[やぶちゃん注:九十・九メートル。]ばかりあり、袋の口のごとし。

[やぶちゃん注:「りうの島」当該ウィキの「主な島」の項に「龍宮の正門(音無瀬)」があり、『金重島』(かなしげじま)『と高島のほぼ中間、浮瀬の北方に暗礁がある。波穏やかな干潮時に海底を見ると、約十尋(ヒロ)の下に大岩石がならび立ち、その上に』一『枚の岩が覆われて、ちょうど鳥居のように見える。そんな事から昔からここは、竜宮の正門だといわれている』とあるのが、それであろうか。グーグル・マップ・データでは、暗礁(干潮時は水面上に出る。サイド・パネルに写真あり)らしき「肥前大平瀬灯標」とある。

「小浦」不詳。ただ、前の肥前大平瀬灯標の北直近に、やはり暗礁があり、国土地理院図では、「小平瀬」とあり(「大平瀬」より百五十メートル東北)、これがそれである可能性が高いように私には思われる。]

 其わたりのあはひを、西北、海の汐(しほ)、さし引(ひき)する故、鹽[やぶちゃん注:「汐」。後も同じ。]のさし引の度(たび)は、四十里の鹽、五十間の、せばき所を過(すぐ)る故、汐のいきほひ、甚(はなはだ)、はげしく、岩にふれ、島にあたりて、其ひゞき、雷(かみなり)のごとし。往來の舟も、鹽のさし引(ひき)のときは、決(けつし)て出入(でいり)しがたきゆゑに、其時をさけて、往來する事、とぞ。鹽のさし引のときに、行(ゆき)かゝる舟は、皆、十里、二十里、退(しりぞい)て、泊(とまり)にかゝり、それをまつ事にて、遠き所の泊りまでも、鹽の岩に競(きそひ)てさし引(ひく)おと、おびたゞ敷(しく)聞ゆる、とぞ。

 平戶より大坂まで、陸路は、十日、路(みち)も有(あり)。舟にて追手(おひて)よければ、半日のほどに、大坂まで到る事、とぞ。

 

○「平戶にて、晴(はる)る日は、朝鮮國、甚(はなはだ)、近く、みゆ。一帶(いつたい)の山、長く、つらなりて、西南にそびえたるは、長白山成(なる)。」

由(よし)、云(いへ)り。

「壹岐・對馬の兩島は、手にとるばかり、近くみゆる。」

と云(いひ)、

「因幡(いなば)邊(あたり)にても、北海(ほくかい)の所にては、朝鮮、見ゆ。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:平戸から朝鮮半島が見えるというのは、イカサマであろう。凡そ、見えるはずがない。対馬・壱岐なら判るが。ファタ・モルガナ(Fata Morgana;イタリア語。古代ケルト人のアーサー王伝説の中で、魔術師で王の義姉モルガン・ル・フェ(Morgan le Fay)に由来し、fairy Morgan の意。イタリアのメッシーナ海峡(Strait of Messina)の蜃気楼がモルガンの魔術によって作られるという言い伝えがあったことによる)。ファタ・モルガナは、完全に絶望した人間にのみ見えるとも言われる海の蜃気楼である)だわ。

「長白山」北朝鮮と中国国境にある名山白頭山の別名。見えるワケ、なかろうがッツ!

「「因幡(いなば)邊(あたり)にても、北海(ほくかい)の所にては、朝鮮、見ゆ。」見えませんて!!!

2024/02/19

譚海 卷之八 藝州嚴島明神佳景の事

○藝州嚴島の明神の景色は、言語に述(のべ)がたし。

 汐(しほ)のみつるときは、拜殿まで、海に成(なり)て、板敷へ、ひたひた、汐のひたるほどにて、社頭の後(うしろ)の山ぎはまで、皆、海のごとくに見ゆるなり。

 別(べつし)て、燈籠を點じたる景、海水に映じたるほど、奇觀、いふばかりなし。

 燈籠、一夜(ひとよ)點(てん)ずる料(れう)、銀十匁づつ、初穗を、いだすよし。

 時々、燈明銀(ぎん)奉納の者、たえず、拾匁の油料にて、二百八十軒の𢌞廊へ、のこらず、燈(ともしび)を點ずる事なり。

譚海 卷之八 防州錦帶橋の事

[やぶちゃん注:「錦帶橋(きんたいけう)」は山口県岩国市岩国のここにある(グーグル・マップ・データ)。……ああっ!……柏陽の教え子諸君……修学旅行、懐かしいね……。もう、四十年余りの遠い昔だ……。そう言えば……あの時(担任の時の方)、バスの中で、モップスの「月光仮面」を歌ったっけ……あの曲を生徒の前で歌ったのは、ぽっきり、あれッきりダゼ! 「ガンジョジンジョカンジョズンズイダ」!……

 なお、この前話の「江戶本所にて人に托せし狐にまちんをくはせし事」は、「譚海 卷之六 武州千住驛北蒲生領の人に托せし狐の事 / 卷之八 江戶本所にて人に托せし狐にまちんをくはせし事(フライング公開二話)」の後の話を見られたい。]

 

○周防(すはう)の錦帶橋は、吉川左京殿領分に有(あり)。城は甚(はなはだ)麁相(そさう)にて、寺のやうなれども、橋のやうすは、誠に日本第一にて、此上もなき、けつこう[やぶちゃん注:「結構」。言うまでもないが、「全体の構造や組み立て」の意。]なり。

 江戶の兩國橋ほどなるを、三段に、わたしたるやうなり。川中に橋臺を、切石(きりいし)にて、臺、上(あげ)たる物、二ケ所、それへ、左右の岸より、橋を造りかけて、その上ヘ、又、左右の橋を臺にして、かけたる橋なり。

 此橋、兩國橋に、はゞ、すこし、狹(せば)く、長さも、少し、みぢかきやうに覺ゆる、とぞ。

 橋の高さ、數(す)十丈にて、眞中より、望みるときは、目くるめきて、おそろしき心地なり。

 橋へ[やぶちゃん注:「へ」は「邊」で「端のあたり」の意であろう。]、のぼり口は、階(きざはし)にて、その階を、一寸ほどある厚き銅にて、つゝみたり。此階、十四、五ものぼりて、橋におよぶ、とぞ。

 所のものは、「十露盤橋」と號せり。

 洪水おほき所なるゆゑ、萬金(まんきん)をはかりて、かく、工(たくみ)いだせる事、とぞ。

[やぶちゃん注:当該ウィキによれば、五『連のアーチからなるこの橋は、全長』百九十三・三『メートル』、『幅員』は五『メートルで、主要構造部は』、『継手や仕口といった組木の技術によって、釘は』一『本も使わずに造られている』。『石積の橋脚に』五『連の太鼓橋がアーチ状に組まれた構造で、世界的に見ても』、『珍しい木造アーチ橋として知られる』。『また』、『美しいアーチ形状は、木だけでなく、鉄(鋼)の有効活用がなされて初めて実現したものである。杭州の西湖にある堤に架かる連なった橋からヒントを得て』、延宝元(一六七三)『年に創建された』。当時の第三代『岩国藩主吉川広嘉』(きっかわひろよし 元和七(一六二一)年~延宝七(一六七九)年)『によって建造されたものである』。『初代岩国領主の吉川広家が岩国城を築城して以来、岩国城と錦川を挟んだ対岸にある城下町をつなぐ橋は』、『数回』、『架けられているが、錦川の洪水により流失していた』ことから、『広嘉は、洪水に耐えられる橋を造ることに着手』し、『橋脚をなくせば』、『流失を避けられるとのアイデアのもと、大工の児玉九郎右衛門を甲州に派遣し、橋脚がない跳ね橋(刎橋)である猿橋』(先日、公開した「譚海 卷の八 同國猿橋幷鮎一步金等の事」を参照)『の調査を命じた。しかし、川幅』三十『メートルの所に架けられている猿橋に対し、錦川の川幅は』二百『メートルもあるため、同様の刎橋(はねばし)とするのは困難であった』。『広嘉がある日、かき餅を焼いていたところ、弓なりに反ったかき餅を見て』、『橋の形のヒントを得たという』。『また、明の帰化僧である独立性易から、杭州の西湖には島づたいに架けられた』六『連のアーチ橋があることを知り、これをもとに、連続したアーチ橋という基本構想に至ったともいわれている』。『アーチ間の橋台を石垣で強固にすることで、洪水に耐えられるというのである』。延宝元年の六月八日に『基礎の鍬入れが始められ、児玉九郎右衛門の設計により、石で積み上げられた橋脚を川の堤防に』二『個、中間に』四『個の計』六『個』を『築き、その上から片持ちの梁をせり出した木造の』五『連橋を架けた』。『広嘉は近くに住居を構えて自ら架橋工事の監督を行い、扇子を開いてアーチ橋の湾曲の形を決定したという』。『同年』十『月、錦帯橋は完成し、地元で家内睦まじいことで評判の農家清兵衛の一家』十二『人による渡り初』(ぞ)『めが行われた』。『しかし、翌年の延宝』二(一六七四)年、『洪水によって石の橋脚が壊れ、木橋も落ちてしまったので、同年、家来に石垣の研究をさせて橋台の敷石を強化し』、『再建し』ている。『この改良が功を奏し、その後は昭和期まで』実に二百五十『年以上』、『流失することなく定期的に架け替え工事が行われ、その姿を保』っている。『なお、橋は藩が管理し、藩内では』、『掛け替え・補修の費用のため』、『武士・農民など身分階級を問わず』、「橋出米」(はしだしまい)『という税が徴収されていた。ただし』、『当時、橋を渡れるのは武士や一部の商人だけで、一般の人が渡れるようになるのは明治に入ってからであった』とある。このウィキには、異名に「十露盤橋」はないが、平凡社『日本歴史地名大系』に「十露盤橋」の別名が載っていた。]

譚海 卷之八 大筒のろし・田村矢等の事

[やぶちゃん注:標題はママ。「大筒(おほづつ)」と「のろし」(「狼煙」。但し、銃砲で撃ち上げる狼煙玉(のろしだま)である)は別物であるから、「・」を入れるべき。「田村矢」は本文を読むに、大筒から多量に撃ち出す火矢(ひや)の驚きの一種である。]

 

○大筒は壹貫目[やぶちゃん注:三・七五キログラム。]・貳貫目玉もあれど、藥(くすり)[やぶちゃん注:「火藥」。]の氣(き)、よわきゆゑ、遠くは打(うち)がたし。百五十目・貳百・三百目程の玉は、藥のつよきを用(もちひ)るゆゑ、五町よ[やぶちゃん注:五百四十五メートル越え。]を、打ちとほすなり。壹貫目以上の玉は、藥、つよくては、筒、わるゝ故、やはらかなる藥を、つよきに調合して、三、四種も、玉藥(たまぐすり)の法(はふ)も合(あは)し用る故、玉のいきほひ、ゆるきゆゑ、とをく[やぶちゃん注:ママ。]は、とをら[やぶちゃん注:ママ。]ず。たとひ、とほく、玉はしりても、中途にて、玉の形、犬の糞の如く、ながく成(なり)て落(おつ)る故、あたりの用(よう)、すくなし。町數(つやうすう)みぢかく、的(まと)をこしらへてうたざれば、用ひがたし。二、三百目までの玉は、藥のつよきを仕込(しこむ)ゆゑ、玉のはしりも、よく、とほるなり。又、二、三百目迄は、ためて[やぶちゃん注:両手で持って片目を閉じて狙うこと。]うたるれども、壹貫目の玉筒に至ては、臺に乘(のせ)て打(うつ)故、けんたう[やぶちゃん注:「見當」。]をさだむるばかりにて、技能の巧拙には、よらぬ事なり。

 「のろし」は、晝は、五彩の緖(を)を用ひ、夜は、火の光を相圖とす。是も空へのぼる事、五、六町[やぶちゃん注:約五百四十五~六百五十五メートル。]ほどなれば、遠くよりは、見へかぬるなり。よるは、火の相圖ゆゑ、少し遠くも見ゆべし。只、其ひゞき、殊外(ことのほか)、大(おほき)く遠近(をちこち)に徹(てつ)するゆゑ、響(ひびき)を相圖とする事なり。晝、狼煙に緖をもちゆる事は、其緖を藥丸(くすりだま)の中へ封じ入(いれ)、其丸の上を、「しぶせん」にて、隨分、よく張上(はりあげ)て、日にほして仕(し)あぐる事なり。大體、「のろし」の「玉(たま)しかけ」、十日斗(ばかり)かゝるなり。天日(てんにち)に、ほし、かたむる故、しかり。急遽の用には、火にかざしかざしして、仕あぐれども、煙硝の玉を、火にかざしてほす事ゆゑ、甚(はなはだ)、心づかひ成(なる)物なり。

[やぶちゃん注:「しぶせん」「澁煎」で、柿渋を混ぜて煮た糊。耐湿性が高まるのであろう。]

 すべて、「のろし」・大筒ともに、薬斗(ばかり)にて、はしり出るいきほひ、よわきゆゑ、拍子木(ひやうしぎ)ほどに、けづりたる木を、内へ仕込(しこん)で、藥にて、木を、はじきいだす勢(いきほひ)につれて、玉の出(いづ)るやうにせし物なり。晝の「のろし」の玉、大(おほき)さ、わたり七寸ほどなり、その内に、手本[やぶちゃん注:この場合は、掌に入る袖珍本のことを言っているものと思う。]のやうに、紙を繼(つぎ)て、五色(ごしき)の緖にて張(はり)たるものを、こめ置(おき)、薬、ともに、丸(たま)に、はりあぐるなり。火をつくれば、玉、はしり出(いで)て、空中にて、玉のわれるやうに仕かけをするなり。大體、五町ほど、空へ、のぼりて、玉、われて、中の緖、空にひるがへるを見るに、五、六尺のきぬの幅に、みゆるゆゑ、遠くよりは見分がたき事と覺ゆ。玉の筒の中にて、火に成(なり)ては、「のろし」、用、がたし。火のいきほひに、玉の飛出(とびいで)て、空にて、わるゝやうに仕かくる事、皆、藥の法にて、仕樣(しやう)ある事なり。「のろし」の、空ヘ、五、六町のぼるけんたうをしるは、先(まづ)、平地にて、的をたてて、「のろし」をしかけ、橫にうつて見るに、五、六町ならでは、はしらぬゆゑ、是をもちて、空へあがりて、

「何程。」

と云(いひ)、間數(まかず)を、さだむるなり。尤(もつとも)、「のろし」も、火矢も、同樣の事にて、陣屋などへ打入(うちい)るるには、橫に、うつやうに、用(もちひ)たる物なり。

 「田村矢」と云ふ火矢は、つゝのうちへ、矢を、數(す)百本、仕込(しこみ)て、敵の陣へ射つくれば、其矢の根に、火藥、ぬりてあるゆゑ、陣屋、ことごとく、火に成(なり)て、暫時に、數百軒、燒(やけ)うするやうにしたる物なり。「段々矢」など云(いふ)ものも、火矢の筒をうてば、藥、内より、はしる時に、はしる道へ、火の、こぼるゝやうに仕かけて、段々に諸方(しよはう)、火に成(なる)やうに仕込たるものなり。

 すべて、大筒・火矢など、臺に居(す)へ、地に建(たて)て、はなつ物は、「紙より」[やぶちゃん注:縒(よ)った紙。]に燃硝をひねり入(いれ)たるを、筒口へ、ゆひ込(こみ)[やぶちゃん注:捩じり結ったそれを入れ込み。]、それに火をさして、まはりて、則(すなはち)、とほくに、げのびて、見てゐれば、「紙より」のやくる間(あひだ)は、玉、はしらず。「紙より」の「ゑんしやう[やぶちゃん注:ママ。]」に、火、つり[やぶちゃん注:「うつり」の脱字ではないか?]、筒口に、火、うつれば、端的に、玉、はしり出(いづ)るゆゑ、そのあひだの見はからひ、甚(はなはだ)、肝要成(なる)事、とぞ。

[やぶちゃん注:この話、どう考えても、相当な砲術家でなくては、語れぬものである。津村は幕府或いは相応の藩の鉄砲方の誰かから、直接に聴いたものであろう。さればこそ、ニュース・ソースの当該者の名を記すことは憚られたものと思う。]

譚海 卷之八 備前家士詠歌幷ひちりきの事

[やぶちゃん注:「ひちりき」は「篳篥・觱篥」で、雅楽用の管楽器。大と小とがあったが、現在残っているのは、小篳篥で、長さ六寸(約十八センチメートル)の竹管(ちくかん)に、前面に七個、後面に二個の指穴を開け、指穴を除いた部分に樺の皮を巻き、上端の部分に「舌(した)」或いは「蘆舌(ろぜつ)」と称する蘆(あし)製の二枚のリードを差し込んだもの。西アジアに起こり、日本には奈良時代初期に中国から伝来した。音は鋭く、哀愁を帯びる。その大きく長いものを大篳篥というが、平安中期には廃絶した。「ひりつ」とも呼ぶ。参照した「精選版 日本国語大辞典」の当該項に図が載る。

 なお、この前話「譚海 卷之八 房州の犬伊勢參宮の事」は既にフライング公開してある。]

 

○備前の家老に某といふ人、名は「よしかせ」と云(いふ)。和歌の堪能にて、役義[やぶちゃん注:ママ。「役儀」。]の外は、詠出三昧(えいしゆつざんまい)に成(なり)てゐる人、あり。上冷泉殿門人にて、爲村卿も、殊に御深切ありし人と聞ゆ。

 ある年の、「夏ひでり」にて、雨、久しく、ふらざりしかば、百姓共、

「雨乞(あまごひ)の歌をよんで給(たまは)るべき。」

よし、願(ねがひ)けるに、數度(すど)、辭退せしかども、强(しい)て望(のぞみ)ければ、是非なく、

 世をめぐむ道したゝずば民草(たみぐさ)の

      田面(たのも)にそゝげあまの川水

と、よみやりけるに、卽時に、雨、降(ふり)て歡喜しける。

[やぶちゃん注:「したゝずば」の「し」は副助詞で、強意。]

 又、其後(そののち)、何(いづれ)の年にか、旱魃(かんばつ)せしに、百姓ども、ありし事を、おもひいでて、又、雨乞の歌を願ければ、此人、

「二度迄は、あるまじき事。」

とて、强(しひ)て辭退せしかども、承引(しよういん)せざりしかば、せんかたなくて、又、此たびも、一首、詠みける。

  久堅(ひさかた)の雲井の龍も霧を起(おこ)せ

             雨せきくだせせきくだせ雨

 此度(このたび)も、例の如く、雨、降(ふり)しかば、百姓ども、人丸(ひとまる)の如くに覺えられたる人なりとぞ。

 又、同藩に、東照宮の祭禮、每年おこなはるゝに、本社より、御旅所(おたびしよ)へ御出(おいで)の事、有(あり)。其間(そのあひだ)の道のり、一里にも、あまりたる所なれば、中途にて、いつも御休所(おたびしよ)、有(あり)て、それより又、ねりいでて行(ゆく)事なり。

[やぶちゃん注:「東照宮」現在の玉井宮東照宮(たまいぐうとうしょうぐう:グーグル・マップ・データ)が後身。]

 いつの年にか、神輿(しんよ)を、例の如く、中途の御休所にとどめてありしに、此日は、家中の諸士、みな、甲冑して供奉する事なるに、いか成(なる)事にか、そこにて、一人、聲をあげて呼(よび)ければ、それにつきて、數(す)百人一同に、聲をあはせてさけびたる。

 そのひゞき、甚(はなはだ)、らうがはしく、中々、制しあへぬ體(てい)なりしかば、奉行の人も、いかにとも仕兼(しかね)たる所に、ある家士、壹人、床几(しやうぎ)にかゝりて居(ゐ)たるが、鎧の引(ひき)あはせより、「ひちりき」を取出(とりいだ)して、平調(へいてう)[やぶちゃん注:穏やかな調べ。]の「五常樂(ごじやうらく)」の音取(ねとり)[やぶちゃん注:音楽を演奏する前に、楽器の音調を試みるための、短い一種の序奏。神楽・雅楽・能楽などで、多くは笛を主に行われる。]を吹(ふき)すましたりければ、さしもらうがはしかりし、人聲(ひとごゑ)、

「ひし」

と、しづまりかへりて、靜謐(せいひつ)に成(なり)たる、とぞ。

「機轉の所作(しよさ)、國主も、殊に感じ給ひし事なり。」

と、かたりし。

「總て、備前には和歌管絃等を嗜(たしなむ)人、多し。戲(たはむれ)にも「上(じやう)るり」[やぶちゃん注:ママ。「淨瑠璃」。]・「小うた」など、うたふ人は、なき事。』

とぞ。

[やぶちゃん注:「五常樂」雅楽の曲名。序破急の完備した唐楽で、舞人四人によって舞われる。急の部分は、管弦の形でも、しばしば単独に演奏される。唐の太宗の作とされ、曲名は仁・義・礼・智・信の五常に由来すると言われるが、異説もある(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。]

譚海 卷之八 上野伊香保溫泉の事 同國草津の湯

[やぶちゃん注:本文では二話は「○」で始まる独立項だが、明らかに連続物として書かれてあるので(底本も国立国会図書館本「目錄」も縦一字空けで並置されてある)、セットで電子化した。

 「上野」は「かうづけ」。「伊香保溫泉」は榛名山東方の、現在の群馬県渋川市伊香保町(いかほまち)にある硫酸塩泉。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「草津の湯」は群馬県吾妻郡草津町(くさつまち:地元では「くさづ」と濁って読む人もいる)草津にある酸性泉・硫黄泉。ここ(右下方に榛名山と伊香保温泉を配した)。]

 

○上州、「伊香保の溫泉」は、山中に有(あり)、出湯、只、壹ケ所にして、其外(そのほか)に泉水、稀なれば、米をかしぎ、食物を調ずるまで、此湯の本に持運(もちはこ)びて洗(あらひ)調(てう)ずるなり。

 病人、種々(しゆじゆ)の腫物(はれもの)あるものなど、入(いり)ひたり、湯にて調ずる故、けがらひ[やぶちゃん注:「汚らひ・穢らひ」。]、いとはしき事、たぐひなし。

 只、壹ケ所、岩上(いはがみ)より纔(わづか)にしたゝりいづる水なり。それを大成(おほきなる)桶に、みちためて、伊香保の人家にわかち用(もちひ)て、湯にて、かしぎたる米を、たき、もちゆる事に、するなり。

 魚(うを)・鰕(えび)のたぐひ、至(いたつ)て稀にして、ながく居(をる)べき地にあらず、とぞ。

 

○又、同國、「草津の湯」は、人家、甚(はなはだ)、おびたゞ敷(しく)、繁昌の地なり。是は、春夏の間のみ、湯屋を、かりに拵へ、病人を接待する事にて、常の住居(すまい)は、湯場(ゆば)より外(そと)の麓に、町、ありて、往來するなり。

 湯の氣(き)、至(いたつ)て、はげしく、最初、一まはり入湯(にふたう)すれば、總身(さうみ)、すべて、たゞれ、そこなふなり。

 第二七日(ふたなのか)[やぶちゃん注:十四日。]より、本復(ほんぷく)を得ると云(いふ)。

 しかしながら、

「虛症(きよしやう)の人に、よろしからぬ湯なり。」

と云(いふ)。

「湯場、ぬす人、おほきゆゑ、初來(しよらい)の旅人あれば、その調度・金錢まで、殘(のこり)なく、湯屋主人、預り納(をさめ)て、旅人の、心(こころ)まゝに物つかひがたきゆゑ、不自由成(なる)所なり。」

と云(いふ)。

[やぶちゃん注:「虛症」「虛証」とも言う。漢方医学で、全身の体力が衰えている状態、衰弱を指す。]

2024/02/18

譚海 卷之八 肥前長崎港幷おらんだ船の事

○肥前長崎の湊は卑地(ひち)[やぶちゃん注:低地。]にあり。山より、一坂、くだりて、平地を行(ゆく)事、しばらく有(あり)て、又、坂、有(あり)、如ㇾ此(かくのごとく)、坂をくだる事、三坂(みさか)にして、町に至る、といふ。

 湊は鷄(にはとり)の、はねを、ひろげたるごとく、丸くひらきて、其向ひ、二里、海おもてに、「ゐわうの島」あり、島の左右を船の入口とす。

[やぶちゃん注:「ゐわうの島」伊王島(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。現在の長崎県長崎市伊王島町。]

 島にむかひて、左右のきし、みな、絕壁にして、其うへに、西國大名、「かため」の番所とて、立(たて)つゞきて、あり。

[やぶちゃん注:「番所」この範囲内の赤いポイントが、それら。]

 湊のうちに、「おらんだ屋敷」をはじめ、「南京しちう」等の旅館、水門をかまへ、あゆみを、とりつけたるに、其國々の船を着置(つけおき)たる體(てい)、おびたゞしき事にて、中々、十艘・廿艘などの事に、あらず。いづれも船の高さ、旅館の軒(のき)とひとしく、大(おほい)なる舟の高さなり。

[やぶちゃん注:「南京しちう」不詳。識者の御教授を乞う。]

 その中に「おらんだ舟」ばかりは、すぐれて大(おほき)く獨立して、みゆるなり。

 舟の廣さ、三十四間[やぶちゃん注:六十一・八一メートル。]、高さ十六間[やぶちゃん注:二十九・〇八メートル。]あり。

 船の内に「かびたん」をはじめ、部屋々々、有(あり)て、一段、くだりて、臺所なり。又、一段、くだりて、料理する人の居(を)る所、有(あり)。それより又、一段、くだり、牛・羊など、飼(かひ)ておく所、有(あり)。厩(うまや)のごとし。

 船の造(つくり)は「軍配うちは」のかたちのごとく、入口、せまく、中、廣く、船底は狹(せば)し。至て狹(せばき)所、わたり九間[やぶちゃん注:十六・三六メートル。]あり、とぞ。

 「おらんだ」[やぶちゃん注:オランダ船。]、海上にみゆるより、遠目鏡(とほめがね)にて、日々、うかゞひ居(をり)て、「いわうが島」へ近づく比(ころ)、長崎役人、支度して、船を、こぎいだし、おなじく、むかへの舟、三百そう、いだすなり。

 扨(さて)、「いわうが島」へ乘入(のりいる)とき、むかひの舟、百五十艘づつ、二行(にぎやう)に櫓(ろ)をたてて、繩、二筋(ふたすぢ)にて、「おらんだ舟」を、湊へ、引入(ひきいる)る。

 左右、三百艘の舟にて引(ひけ)ども、中々、うごくやうもなく、

「そろそろ」

と、舟、ひかれて、やうやく、時を移(うつり)て、島のこなたへ、舟、入(いる)時、大通詞(だいつうじ)をはじめ、役人、段々、舟へ、のりうつりて、「かびたん」をはじめ、殘らず、「おらんだ人」の懷中までを探見(さぐりみ)て、

「ぬけ荷(に)などの用意、なきや。」

と吟味、濟(すみ)て、そののち、船のうちの荷物をはじめ、上下(うへした)、人數(にんず)幾人(いくにん)といふ事を、微細に記すること、四通(よんつう)なり。

 壹通(いつつう)は直(ただち)に江戶へ奉る。一通は控(ひかへ)となし、一通は長崎奉行所へ納置(をさめおき)、一通は長崎町のもの、御用に拘合(かかはりあひ)たるものへ、渡さる。

 役人、「おらんだ舟」へ乘(のり)うつるとき、はしごを、かけて、のぼる。はしごの長さ、凡(およそ)、九間、有(あり)といふ。直(ちよく)にして、下より見あぐるに、中々、のぼるべきやうにも、みえず。はしごの左右に、上より、太く、ながき繩を、二筋、さげて有(あり)、「梔子(くちなし)」と云(いふ)木の皮を、いとに、よりて、なひたる赤き繩なり。此繩を「まだろす」と云(いふ)もの、なふことなり。三十年もかゝりて、一筋、なひ出(いだ)すと云(いふ)。此繩に取付(とりつけ)て、のぼりくだり、するなり。手にて、繩をとらへたる心持(こころもち)、柔軟にして、たとへんかたなく、心能(こころよき)ものなり。本邦に、かやうなる繩、なきゆゑ、はじめて手にふるるものは、

『奇妙成(なる)事。』

に思ふなり。

[やぶちゃん注:「梔子」リンドウ目アカネ科サンタンカ亜科クチナシ連クチナシ属クチナシ Gardenia jasminoides だが、ほんまかいな?

「まだろす」マドロス(オランダ語:matroos)。「水夫・船乗り・船員」。]

 扨、のぼりはつれば、「くるす」と「まだるす」といふ物、二人(ふたり)有(あり)て、其人の手を、とらへて、舟へ引入(ひきい)る。舟の内にも、はしご、有(あり)て、くだるやうにして有(あり)。

[やぶちゃん注:「くるす」後で「黒人」のことと出る。

「まだるす」「まだらす」に同じか。]

 扨、「役人あらため」過(すぎ)て鉦(かね)をならせば、むかへの舟、ちりぢりに成(なり)て、いそぎ、陸へ、にげ歸る。

 其のち、「おらんだ人」、和語にて、

「打(うち)ます、打ます、」

といふ事を、數度(すど)、舟の内を、いひあるく。

 其時、やく人、みなみな、緖(つなぎもの)にて、腹を、いくへにも、いくへにも、力(ちから)のあるかぎりを、いだして、卷(まき)て、耳にも、紙など、入(いれ)、ふさぎて、床几(しやうぎ)にかゝりて居(をる)とき、石火矢(いしびや)に、火をかけて、からうちにするなり。

[やぶちゃん注:「石火矢」ここでは、オランダ船の装備する鉄製の大砲を指している。]

 其ひゞき、思ひしよりは、舟の内にては、すさまじからず、やゝ久しくふるひ響(ひびき)て、そのひゞきにつけて、

「ゆるゆる」

と、舟、うごき出(いで)て湊へ入(いり)、ひとうちに、舟のゆく事、十町[やぶちゃん注:一キロメートル強。]ばかり、凡(およそ)、石火矢をはなつ事、五度(ごたび)にして、はじめて、湊へ入終(いりをは)る。外(ほか)の異國舟(いこくぶね)は、その水門際(すいもんぎは)に着(つき)てあれども、「おらんだ舟」は大(おほい)なるゆゑ、旅館の水門ぎはまで、乘入(のりいる)事、かなはず、三、四間[やぶちゃん注:五・四五~七・二七メートル。]、へだゝりて、水中に有(あり)。其間(そのあひだ)のゆききは、「はし舟」にて行(ゆく)事なり。

 石火矢を、はなつに、みなとへ入(いる)ときは、筒口を、跡の島の岩根へ向けて、うつ也。

 陸にては、誠にすさまじき音にて、釜も、鍋も、ふるひ、さくるごとし。

 石火矢をうつ島の邊(あたり)の人は、兼てにげ避(さけ)て、其日は、島にゐぬやうにするなり。

 はじめ、「いわう島」ヘむかへに行(ゆき)て、「おらんだ舟」をみかけたるときは、其大成(おほいなる)事、ひとへに、山嶽のごとく、立(たち)むかひたるところ、何にたとへんものもなく、大造(たいさう)なる物なり。

 「おらんだ舟」のみよし[やぶちゃん注:舳先(へさき)。]に、大成(おほいなる)獅子の形したる頭(かしら)・面(おもて)も、わかち兼たる物、あり。そのまへを過(すぐ)る時は、蘭人、皆、再拜稽首(けいしゆ)[やぶちゃん注:うやうやしく礼をすること。]して過(すぎ)る。火急のやうありても、敢て、失禮すること、なし。是は和蘭國の始組成(なる)由、國王といへども、敬して怠惰する事なし、とぞ。

[やぶちゃん注:「大成獅子の形したる頭・面も、わかち兼たる物」ウィキの「オランダ王国」の国章の画像をリンクさせておく。そこでは、左右と中央に獅子三体が描かれてある。]

 「くるす」は、則(すなはち)、「くろん坊」と云(いふ)ものなり。輕捷成(なる)こと、鳥のごとく、數(す)十丈高き帆樓の上に、幾人も、坐して有(あり)。鳥のとまりて居(ゐ)るがごとく、下よりのぞめば、其形、わかちがたけれども、帆柱の繩を、のぼりくだりする事、猿のごとく、身のかろき事、いふばかりなし。

 帆は、大小いくらと云(いふ)數(かず)もしらずあれども、第一の大成(おほいなる)帆柱、舟のしき[やぶちゃん注:「敷」で「甲板・デッキ」の意であろう。]より、五十間[やぶちゃん注:約九十一メートル。]ほどあり。其綱のふとさ、二尺廻りよも有(あり)。その綱に、下より、上迄、木を「はしご」の如く付置(つけおき)て、「くるす」、それをふみて、おりのぼりするなり。數十丈の帆綱の上は、手をつけずして、はしり上り、何やらん、

「がやがや」

と、いへば、其詞(そのことば)につけて、「まだらす」、下にて、帆綱を、あやとり[やぶちゃん注:操って取り。]、帆柱を引(ひき)なをす。

 柱も、ふとく、綱も太ければ、皆、「くるゝ」[やぶちゃん注:「樞」。「くろろ」とも言う。ここは滑車システムを言っている。]にて取扱(とりあつかふ)なり。是を役するは「まだるす」なり。「まだるす」は、力、ありて、「くるる」の如きものを、自由にとりあつかへども、「くろす」の如く、身のかろき事は、あたはず。「くるす」は敏捷なれども、「まだるす」のごとく、ちからある事、なし。何(いづれ)も眉[やぶちゃん注:底本では、右に補正注があり、『(め)』とある。]じり、さけて、靑く、まぶち、うるしをさしたるごとく、總身(さうみ)の色は、薄墨のごとし。

 「おらんだ人」、一艘に、每年、百人餘(あまり)づつ乘來(のりきた)るなり。

 「おらんだ舟」のへりに、「たがやさん」にて、こしらへたる角物(かどもの)の木口(こぐち)、三尺四方ほどあるもの、數(す)十本、舟より四間ほどづつ、さし出(いで)て有(あり)。是は、いかりの綱を、是にかけて、あげさげする爲の木なり。外(ほか)の木にて造りては、碇(いかり)の綱に、すれあひて、火を出(いだ)し燒(やく)るなり。「たがやさん」ばかりは、火の出(いづ)る事なき故、是をもちゆる、と云(いふ)。

[やぶちゃん注:「たがやさん」マメ目ジャケツイバラ科センナ属タガヤサン Senna siamea のこと。東南アジア原産で、本邦では唐木の代表的な銘木として珍重された。材質が非常に硬く、耐久性があるが、加工は難。柾目として使用する際には独特の美しい木目が見られる。]

 「おらんだ舟」、大體、用らるゝ事、三百年ばかりなり。それを過(すぎ)ては朽(くち)て用にたゝず。舟壹艘を、こしらふる價(あたひ)を「おらんだ人」に問(とひ)しに、

「日本の金にて、八十萬兩ほどの費(つひへ)、かゝるもの。」

といへり、とぞ。

 又、舟底に風穴(かざあな)を付(つけ)て、舟中の荷物の、くされざるやうにせしなり。又、その風を拔(ぬく)穴もあり。穴の口、幾へにも、まがりまがり、風の出入(でいり)するやうに、こしらへたる物なり。

譚海 卷之八 酒井雅樂頭殿の馬の事

[やぶちゃん注:本書の執筆時から考えて、播磨姫路藩第三代藩主で雅楽頭系酒井家第一六代酒井忠道(ただひろ 安永六(一七七七)年~天保八(一八三七)年)か。本巻の書かれた最も新しい記事は、彼が家督を継いだ寛政二(一七九〇)年であるから(九月三日家督相続)、父の先代の酒井忠以(ただざね:当該ウィキをリンクさせておく)の可能性もあるか。]

 

○酒井雅樂頭(うたのかみ)殿に、尾の長き馬、有(あり)、ながさ、七間[やぶちゃん注:十二・七三メートル。]、有(あり)といふ。公儀にも、壹疋あれど、此尾のながさに、およばず。雅架頭殿、至(いたつ)て祕藏ありて、五、六日に一度づつ、尾を、あらひ、毛のかずを數(かぞ)へ置(おく)ほどの事なり。猥(みだり)に拔(ぬき)とる事を禁ぜらる。厩別當(うまやべつたう)、尾の毛、ぬくる事あれば、其度(そのたび)ごとに、申上候ほどの事なり。

 駿馬(しゆんめ)にて、上手の人、騎(のり)はしらしむるときは、飛(とぶ)がごとく、尾、地につかずして、はしる。馬場の隅に乘詰(のりつめ)、四角に馳(はせ)て、隅より、隅へ、乘𢌞(のりまわ)すとき、尾は、なほ、此かたのすみに、のこりて有(あり)、といふ。

 尋常にも、尾のながき馬はあるものなれども、五間[やぶちゃん注:九メートル九センチメートル。]までは見たる事なれども、七間といふにおよびたるは、いまだ、見ざる事、といへり。

譚海 卷之八 諸獸の論幷獵犬の事

○猪は、常にあるゝ物に、あらず、人を見れば、甚(はなはだ)、おそるるなり。

 能(よく)寢る[やぶちゃん注:底本は「寢能」であるが、国立国会図書館本を参考に訂した。]事をすといへども、只、一日、寢るなり。寢くたびれ、腹の枵(すき[やぶちゃん注:これは珍しい底本のルビ。この漢字は中国語で「空しい・空っぽである」の意がある。])たるときは、いつも、暮比(くれごろ)には起(おき)て、食をもとめ、あるくなり。米・麥の穗をはじめ、芋・大小豆(だいしやうのまめ)[やぶちゃん注:大豆(だいず)や小豆(あずき)。]、何にても、食(くは)ざる事、なし。

 鼻は、尺八の尻に、よく似て、穴、二つある計(ばかり)の違(ちがひ)なり。

 常は、柔(おだやか)なるものなれど、怒(いかる)ときは、石の如く、堅く成(なり)て、石をも掘返(ほりかへ)す勢ひなり。

[やぶちゃん注:「猪」本邦の本土(北海道を除く)産は哺乳綱鯨偶蹄目イノシシ亜目イノシシ科イノシシ属イノシシ亜種ニホンイノシシ Sus scrofa leucomystax については、私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 野豬(ゐのしし) (イノシシ)」を参照されたい。]

 猪の肝(きも)、下に「きせる筒(づつ)」のごときもの、有(あり)、是を「はちたち」と云(いふ)。

[やぶちゃん注:ネット上で生(なま))から、干し終わるまでの写真を見たが、「熊の胆」等と同型で、特に特殊な形はしていない。「はちたち」の名称由来も不詳。]

 此處(ここ)に、鐵炮玉、いあてらるれば、甚(はなはだ)、怒(いかり)を感じて、人をも、さけず、馳(はせ)あるくなり。

[やぶちゃん注:一撃に失敗した手負いのイノシシが非常に危険なことは、よく知られている。]

 其後(そののち)は、鐵炮玉、いくつ打(うた)れても、死ぬる事、なし。肝に打(うち)つけられねば、死(しぬ)事なく、野山を咆猛哮吼(はうまうかうく)して、あるくなり。

 猪の子は眞桑瓜(まくはうり)のごとく、黃色にて、靑き筋(すぢ)、有(あり)。むくめきて、はね、ありく。

 一度に、十二疋づつ、產すれども、多(おほく)は、ひきかへるに、なめらるれば、死(しぬ)ゆゑ、ふたつ、みつ、ならでは、生殘(いきのこる)事、なし。

 鹿の角も、ひきかへる、なむれば、消(きえ)うするなり。

 鹿は、春の末、多羅葉(たらえふ)のめ、出(いで)しを、くへば、そのまゝ、角を、おとすなり。それより、毛の色、うつくしく成(なり)て、星、あざやかに生ずるなり。

 「ふくろ角(づの)」と云(いふ)物、生(はえ)て、段々、秋の彼岸後(ご)、もとのごとくに長ずるなり。

[やぶちゃん注:「鹿」の種は本邦には複数いる。「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 鹿(しか) (シカ・ニホンジカ他)」の私の注を参照されたい。

「多羅葉」ニシキギ目モチノキ科モチノキ属タラヨウ Ilex latifolia 当該ウィキによれば、『和名「タラヨウ」の由来は、先の尖ったもので葉の裏側に文字を書くと黒く跡が残る性質が、インドで仏教の経文を書くのに使われた貝葉の原料であるヤシ科のタラジュ(多羅樹』『 Corypha utan )と同様なので名付けられている』。『日本の本州静岡県以西、四国、九州と、朝鮮半島、中国に分布』し、『山地に生える』。『関東にも植樹されていることがある』。『常緑広葉樹の高木』で、『葉は肉厚で』二十『センチメートル』『ほどもある長楕円形をして』おり、『ツヤがあり、葉縁は細かい鋸歯がある』。鹿の角の脱落と若芽の摂取の関係性は信じられない。]

 毛の色も、秋の氣(き)に入(いる)時は、くもりて、星、うすく成(なる)なり。

 鹿の妻戀(つまごひ)は、秋の末なり。とつぐも、只、一度なり。ふたたびと、せず。

 鹿は、年々、子を壹疋ならでは、產せず。

 甲州の狩人(かりうど)、猪しゝを、壹疋、打(うて)ば、百姓より、褒美として、金百疋、貰(もらふ)なり。鹿は、二疋うちて、百疋、もらふなり。

 狩人、犬をかけて、猪をとるなり。犬、五疋も持(もち)たる狩人は、鐵炮に不ㇾ及(およばず)、犬、つひに、猪をくひころすなり。

 犬を、かくれば、犬、猪の子を、先(まづ)、驅出(かけだ)して、くらふ。

 母の猪、是を、うれへて、犬を追(おひ)かくる時、狩人、てつぽうにて、うつ事なり。

 甲州に、熊は、稀なり。

 柴熊(しばくま)といふものは、多(おほく)あり。是は月の輪は、なし。力も、熊よりは劣(おとり)たり。樹に、のぼりえず。出る時は、五、六疋も、つらなりて、あるくなり。

[やぶちゃん注:「柴熊」本邦の北海道を除く本州・四国(九州は絶滅)に唯一棲息するクマ、食肉目クマ科クマ属ツキノワグマ亜種ニホンツキノワグマ Ursus thibetanus japonicus には、胸部に三日月形やアルファベットのV字状の白い斑紋が入るのが和名の由来だが、実際には、そのマークが全く無い個体も、結構、いる。「五、六疋も、つらなりて、あるく」のは、間違いなく、ニホンツキノワグマの子どもだからに過ぎない。]

 常の熊は、よく、樹にのぼる事を、す。むじなも、樹にのぼる事を、す。狐も、おなじ。

[やぶちゃん注:「むじな」は「狐」と併置しており、「樹にのぼる」とあるので、百%、本州・四国・九州に棲息している固有亜種である食肉目イヌ科タヌキ属 タヌキ亜種ホンドタヌキ Nyctereutes procyonoides viverrinus である(後も同じ)。「むじな」は本邦固有種の肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakumaを指す場合もあるが、ニホンアナグマは木登りは出来ない。なお、ハクビシン説は私は認めない。詳しくは「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貉(むじな) (アナグマ)」の私の注を見られたい。

 猿は、樹にのぼりては、あなたこなたの枝へ、飛(とび)うつる事、五、六間[やぶちゃん注:九・〇九~十・九〇メートル。]を、へだつるを、たやすく、とぶなり。

 猿の子は、鼠の大(おほき)さのごとし。母、猿の尾の上に、

「しか」

と取付(とりつき)て、母猿、いかやうに飛(とび)かけりても、おつる事、なし。平(たひら)なる枝に、母猿、坐して、手をまはして、尾のうへの子を、とり、乳をのましめ、掌(てのひら)にすゑて愛する事、人間の體(てい)に、かはらず。

 子猿、よほど大(おほき)く成(なり)ては、樹をとびあるきて、木(こ)のみを口中に、したゝか含(ふくみ)て、あぎと[やぶちゃん注:「顎」だが、ここは「頰」のこと。]の、ふくれるほどになる時、母猿、やがて立寄(たちより)て、口の中なる木(こ)の實(み)を引(ひつ)たくりて、をのれ、くらふ。子猿、鳴(なき)さけべど、引(ひつ)ふせて、うごかさず。愛憐の情も、食物(くひもの)にわするゝは、畜生のこゝろなり。

 猿、はらみて居(を)れば、狩人をみれば、腹を、ゆびさして、はらみたる事を示す。それを「ばうたず」と云(いふ)。

[やぶちゃん注:この話、怪奇談や随筆で、非常によく、見受ける話であるが、無論、真実ではない。私のものでは、「大和怪異記 卷之七 第十六 猿をころすむくゐの事」を見られたい。]

 老(おい)たる猿は、大かた、二疋、枝上(えだうへ)に並坐(ならびざ)して、ひとつの猿、かたはらの猿の背を、うてば、うたれて、やがて、そのさるの膝を枕にして、よりふすとき、蝨(しらみ)をとりてやるを、とりては、口に入(いれ)、とりては口に入して、頭(かしら)より、手足にいたる迄、とり盡して、引(ひき)おこせば、又、かはりて、しらみを、とりてやる。たがひに、かくのごとくする事、をかしき體(てい)なり。

「しらみをとる手の、はやき事、いはんかたなく、おもしろき事。」

と云(いふ)。

[やぶちゃん注:「猿」は日本固有種である哺乳綱霊長目直鼻猿亜目高等猿下目狭鼻小目オナガザル上科オナガザル科オナガザル亜科マカク属ニホンザル Macaca fuscata 。私のサイト版「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の冒頭の「さる ましら 獼猴」を見られたい。昨年、全面リニューアルした。

 最後に出る「グルーミング」(grooming)は、シラミ取り以外にも、毛繕いでもあり、ニホンザルの場合は、集団内での序列形成と密接な関係がある、社会的意義が含まれてもいる。]

 山には、狼の外に、「山いぬ」と云(いふ)有(あり)。狼は、瘦(やせ)て、腹、ほそく、手足、ほそく、「山いぬ」は、ふとりて、手足、細し。狩人、あやまりて、「山いぬ」を壹疋、うちとむとき、夜々(よよ)、數百(すひやく)の「山いぬ」、あれ、怒りて、往來(わうらい)成(なり)がたき事に到(いた)るなり。但(ただし)、ふじの根がたの村にのみ、つねに、山犬を、うちころす事とす。

[やぶちゃん注:「狼」我々が滅ぼしてしまった哺乳綱食肉目イヌ亜目イヌ科イヌ亜科イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミCanis lupus hodophilax(北海道と樺太を除く日本列島に棲息していた)。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狼(おほかみ) (ヨーロッパオオカミ・ニホンオオカミ・エゾオオカミ)」を参照されたい。

「やま犬」は野犬のこと。私は「ノイヌ」と和名擬きにカタカナ書きにするのを、甚だ嫌悪する人種である。]

 「むじな」は、ともすれば、「小豆(あづき)あらひ」・「絲(いと)くり」などする事、有(あり)。「小豆あらひ」は溪谷の間(かん)にて、音、するなり。「絲くり」は樹の「うつぼ」の中にて音すれど、聞(きく)人、十町[やぶちゃん注:一・〇九キロメートル。]、廿町、行(ゆき)ても、其音、耳をはなれず、おなじ事に聞ゆるなり。

[やぶちゃん注:私はここで「むじな」=ホンドタヌキの妖異に出くわそうとは思わなかった。しかし、民俗社会的には納得出来る記載ではある。「小豆あらひ」・「絲くり」は私の『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 小豆洗ひ』を参照されたい。個人的には、前者は渓間や小川の見た目には見えない流水が引き起こす物理現象と見るし、後者は昆虫綱鞘翅目多食亜目ナガシンクイ上科シバンムシ科 Anobiidae のシバンムシ(死番虫)類が、木や家屋の材木を蚕食する際の音と考えている。]

 狩人の犬は、つねは、繩、付(つけ)て、山へ牽行(ひきゆき)て、獸(けもの)をみれば、繩を解(とき)て、心のまゝに、放(はなし)、かくるなり。よるに入(いる)ときは、其まゝに、狩人は、かへれども、犬を、跡にとめて、かならず、かへりくるなり。又、竹を切(きり)て笛となし、ふくときは、一里、二里、遠近(をちこち)に放(はなち)たる犬も、皆、聞付(ききつけ)て、そこに歸りよらざる事、なし。

 山犬をとるには、石の室(むろ)をこしらへ、その内にかくれ居《ゐ》て、犬の長鳴(ながなき)するこゑをして、地にふして、長く、嗚(なき)まねをすれば、山に其聲、ひゞきて、山いぬ、出(いで)くるなり。室のまへに、獸の肉を蒔置(まきおい)て、山犬、それをくらふを、室のうちより、てつぽうにて、打(うち)とむるなり。

 又、狩人のうちたるけものは、鹿・猪のたぐひにても、山にすて置(おく)に、山いぬ・狼など、鐵抱のあとのあるをば、くらふ事、なし。狩人、その皮を、はぎとりたるをみて、其の後(のち)、その肉を喰(くら)ふなり。是は、狩人のものをくへば、おのれ、うたれん事、恐(おそろしく)て、くはぬなり。

 猪は、田に入(いり)て、深く、泥を、うがちほりて、それを身にまとひ出(いで)て、松の樹によりて、泥のうへに、松やにを、すりつくるゆゑ、うるしにて、かためたるやうに、毛、とぢあひて、大ていの鐵炮の玉は、とほりがたきやうに成(なる)事なり。

[やぶちゃん注:この行動は、]

 兎は、子を、うみすつるゆゑ、時々、山に有(ある)を、とらふるなり。前脚(まへあし)、みじかきゆゑ、くだり坂には、よく、とらへらるゝなり。

[やぶちゃん注:先の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 野豬(ゐのしし) (イノシシ)」の私の注で引いたイノシシの泥浴を行う「沼田場(ヌタバ)」のことである。毛を固めるための行動というよりは(それもあるが)、第一義的には夏場の暑気時に体を冷やすこと、また、ノミ等の寄生虫を除くための行動である。]

譚海 卷之八 甲州除夜に菓をもよほす法幷まゆ玉の事

[やぶちゃん注:「菓」は「このみ」。「もよほす」は本文に従うなら、実のなる有用樹木に対し、脅迫を言上げし、木の精(せい)役を演じる者がいて、それに詫び言を言ったりするという芝居のようなことをすること(芝居を「催す」)を指している。「幷」は「ならびに」。

 なお、この前話「同國定元村萬立寺住持旦那を取殺したる事」は既にフライング公開してある。]

 

○甲州にては、除夜に、栗・梨等の樹(き)の木(き)もとに行(ゆき)て、實(み)のよく成(なる)ために、樹を責(せめ)て、

「ならずば、切らん。」

と云(いふ)。その時、傍(かたはら)に詫(わびる)人、又、有(あり)て、

「いかにも能(よく)なるべきまゝ、必(かならず)、切るを、ゆるし、たべ。」

と、わぶる。

 よくよく、わびさせて、怠狀(たいじやう)、乞(こひ)て、されば、其樹、年なりせず[やぶちゃん注:ママ。国立国会図書館本では『年きりせず』で、その「年」(とし)(は)伐(き)「り」(は)「せず」で意味は通る。]、每年、能(よく)みのるなり。

 又、正月十四日には、座敷の眞中に、立舂(たてうす[やぶちゃん注:このうち、「うす」は珍しい底本にあるルビである。])ほどなる切かぶをすゑて、それに大成(だいなる)木のえだをたてて、だんご、あまた、枝につけて、「まゆ玉」とて、いはふ。

 是、「かひこ」の能(よく)出來(いできた)る「まじなひ」なり。

[やぶちゃん注:「怠狀」古代から中世にかけて、罪や過失を犯した者が、それを認めて差し出す謝罪状。「おこたりぶみ」とも言う。

「まゆ玉」「繭玉」。正月の飾り物の一つ。桑や赤芽柏(あかめがしわ)の枝に、繭のように丸めた餠や団子を数多く附け、小正月に飾るもの。本来は、ここに出る通り、その年の繭の収穫の多いことを祈って行なったものである。後には、葉のない柳や笹竹などの枝に、餠や菓子の玉を附けたり、七宝・宝船・千両箱・鯛・大福帳などを象った縁起物の飾りを釣るしたりしたもの。現在は、神社などで売っているそれを買って、神棚や部屋・鴨居等に飾る。「なりわい木」「まゆだんご」とも呼ぶ。私が小学生だった一九六〇年代前半の家の近くの藤沢の渡内の野良を正月に歩くと、小さな祠(ほこら)の扉に、挿し掛けてあったものだ。そんな光景も総て幻影となってしまった。]

譚海 卷之八 上總國おふの明神・みたらし逆手地藏・水とおしの事

[やぶちゃん注:「とおし」はママ。「逆手地藏」は「さかてぢざう」と読んでおく。]

 

○上總國大田郡くらなみ村の海邊(うみべ)より、一里半程、沖に、海中より、淸水(しみづ)の湧(わく)所、有(あり)。夥敷(おぼただしく)、わく事にて、其所(そこ)へ、井戶がはを、仕(し)かけ、ひでりの時は、村より水を汲(くみ)に行(ゆき)、又、渡海の船も水をくむ事とするなり。夫故(それゆゑ)、井戶がは、壹年に二度程づつも、造りかふる事、とぞ。

「是は、其所に『生(おふ)の明神』とて、まします御手洗(みたらひ)なり。」

と云(いへ)り。

 「おふの明神」は、其所より壹里斗(ばかり)他所(よそ)に宮居(みやゐ)有(あり)。

 又、同國、「くるり」と云(いふ)所に、「逆手地藏」と云(いふ)宮居、有(あり)。錫杖を、さかしまに持(もち)給ふゆゑに、かく、云(いふ)なり。

 其所(そこ)に、高からぬ山(やま)、有(あり)。

「金輪よりの岩山(いわやま)なり。」

とぞ。

 其邊(そのあたり)、田地に水を引(ひく)事、不自由なる故、いつの頃より、其岩山を切(きり)とほして、向ふのかたへ、行(ゆき)とをし[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]のなるやうに掘明(ほりあけ)て、底へも又、深さ八町[やぶちゃん注:八百七十三メートル。]ほど、掘入(ほりいれ)たれば、其(その)切(きり)とをしの所、川の如く成(なり)て、治水(ちすい)、ながれ出(いで)て、田地の便(たより)と成(なり)、段々、山へも、田を造りひらきて、山の田へ水をかくる時は、兩方の口をふさぎておけば、山の上へ、穴をほり明(あけ)たる所へ、水、湧出(わきい)で、ながれわたり、山の田にも、水をひく事、自由なるやうに成(なり)たり。

 不思議の工風(くふう)なり。

「其掘明たる穴を、外よりのぞき見れば、わづかに、日のあかり、むかう[やぶちゃん注:ママ。]に見えて、川とも、何とも、見えわかず。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:最後の水路の話は、言っていることが、どうもうまく想起出来ない。掘った深さも異常な深さだ。ワケ判らん。

「上總國大田郡くらなみ村」上古の昔も、近世・近現代も、房総半島内には「大田郡」という郡は、ない。これは、現在の千葉県袖ケ浦市蔵波(くらなみ:グーグル・マップ・データ)である。この「大田郡」は近代まで、この附近の広域郡名であった「望陀郡」(もうだのこおり/ぐん:現代仮名遣)の誤りである。ウィキの「望陀郡」によれば、『古代には』「馬來田國」『と呼ばれ』、『近世までは』「まくだのこほり」『とも呼ばれた』ともあった。「千葉県袖ケ浦市」公式サイト「そでなみ」内の「袖ケ浦市水紀行」によれば、この袖ケ浦市内の『北部、東部は丘陵地帯で、丘陵地の際では湧水の多いところで』あるとあり、さらにそこには、「蔵波川岸公園の自噴井戸」の項があり、その下に蔵波川岸公園の近くにある「ちば里山センター御手洗井」(「みたらしのい」と読む)があり、そこには、『京葉化学コンビナート建設の為に東京湾を埋め立てる前には、この御手洗井より東』百六十メートル『ところに、浜にこんこんと湧き出る不思議な井戸があり、塩気はなく、旅人の喉の渇きを潤したとのこと』とあった。まさしく嘗つて干潟があった頃には、「沖」に清水の湧き出る箇所が、実際あったのである。さらに、延宝二(一六七四)年に、『黄門様(天下の副将軍水戸光圀公)が、房総から鎌倉へ赴く途中に、奈良輪村を出ると、沖の中の湧き出る清水で渇を癒したと』いう『史実』もある、とあるのである。「今昔マップ」の戦前の地図の方を御覧あれ! まさに『波藏』の川の沖に向かって川水が作った「へこみ」が視認出来る。その海底の底には、恐らく淡水の伏流水が流れているのだ。因みに、光圀のこの旅行だけが、彼が水戸を有意に離れて行った唯一の旅である(後は箱根の湯治ぐらいなもので、殆んど水戸を長期には出ていない)。「水戸黄門」のドラマは完璧に創作された虚構であることは、御存知でしょうな? その折りの彼の鎌倉での日記(後に編纂させた「新編鎌倉志」(私のサイトのこちらで全巻電子化注済み)の原型)である「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」は私の同ブログ・カテゴリで全篇を電子化注してある。言っとくと、彼は大の仏教嫌いで、金沢八景では、路傍の地蔵を荒縄で縛りつけさせ、引きずって、海に投げ棄てているのだ! とんでもない厭な奴なんだ!!!

「生の明神」不詳。蔵波川岸公園の対岸にある縁起不詳の蔵波八幡神社は、或いは、関係があるかも知れない。

『「おふの明神」は、其所より壹里斗他所に宮居有』距離と神社名の漢字を見るに、まず、千葉県袖ケ浦市飯富(いいとみ)東馬場にある飯富神社がそれらしく思われてならない。この「飯富」の「富」の音と通底するからである。当該ウィキによれば、『千年以上前から存在した古社で』、『旧称を飫富神社といい、君津地方では唯一の式内社で、歴史的価値の高いものである』。『創建は、社伝によると』、第二『代綏靖』(すいぜい)『天皇元年で、天皇の兄の神八井耳命が創建したと伝えている。主祭神はウカノミタマノミコト、すなわち農業神である』とある。この旧称の「飫富」は「おぶ」と読め、「おふ」と見事に音通する! なお、今一つ、千葉県袖ケ浦市蔵波の子者清水(こはしみず)神社も、その「清水」から、候補になろう。距離もよく合う。

「くるり」千葉県君津市久留里であろう。かなりの内陸の山間部である。

「逆手地藏」不詳。見当たらない。残っていれば、錫杖が逆さなのだから、ネットでかかるはずだから、現存しないのかも知れない。

「其所に、高からぬ山、有」地蔵が判らないし、久留里自体が山だらけで、不詳。

「金輪」不詳。地名も山名も房総半島にはない。]

譚海 卷之八 江戶深川船頭兄を善心にみちびきし事

○深川に船頭を業(なりはひ)とするもの有(あり)。

 其子供の兄、放蕩ものにて、勘當して、弟に家をゆづりて居(をり)けるに、其兄、折々、親の所へ來(きた)り、無心、いひつのりて、惡口(あくこう)に及(およぶ)事、數度(すど)なりしかば、其弟、思ひ兼て、ある時、又、兄、來(きた)るを、うかがひ、戶をあくると、そのまゝ、刀にて、兄を切懸(きりかけ)たるに、手疵(てきず)負(おひ)て、驚き、にげさりたり。

 其時、此弟、

「仕合(しあはせ)と、兄を切(きり)そこないたる、冥加(めうが)に叶(かなひ)たり。我、しかしながら、弟の身として、かりそめにも兄に手向(てむか)ふ事、是非なき次第なれば、かくせしかども、生(いき)てあるべき道に、あらず。」

とて、卽時に、腹を切(きり)て死(しに)うせたり。

[やぶちゃん注:「冥加に叶たり」神仏の御加護のお蔭で、私が、人道を外れずに済んだ。]

 それを、かの兄、聞(きき)つけて、立歸(たちかへ)り、弟の死骸をみて、抱付(だきつき)、

「扨々(さてさて)、不便(ふびん)成(なる)事、是非なき次第、是、全く、我(わが)身持惡敷(みもちあしき)故(ゆゑ)、かやうに死(しし)たる事、我(わが)手をおろして、其方(そのはう)を殺(ころし)たる同然の事なり。しかしながら、云(いひ)てかへらぬ事なれば、是より、われら、急度(きつと)、心をあらため、善人に成(なり)て、其方に成(なり)かはり、親達を養育申(まふす)ベし。せめては、是を、わが志(こころざし)と聞屆(ききとどけ)て、成佛してくれよ。」

と愁歎の淚、せきあヘず。

 夫(それ)よりして、此放蕩なる兄、善心(ぜんしん)になりて、よく商買の事に身を入(いれ)、兩親につかへ、孝行にありける。

「あはれ成(なる)事。」

と、人の、かたりし。

譚海 卷之八 甲州山梨郡に鶉なかざる事

[やぶちゃん注:標題の「山梨郡」は「やまなしのこほり」と読んでおく。「鶉」は「うづら」。]

 

○甲州は四郡なり。府中は山梨郡なり。

「同所の鶉は、往昔(わうじやく)、武田信玄、壓(あつ)せられしより、鳴(なく)事、なし。」

とぞ。

「山梨郡を、さかひて[やぶちゃん注:境として。]、道一筋を、へだつれば、他郡(たのこほり)の鶉は、音(こゑ)を唱(なく)事。」

といへり。

[やぶちゃん注:「唱(なく)」は珍しい本底本のルビである。国立国会図書館本にもある。鶉(キジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonica )の博物誌は、私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鶉 (ウズラ)」を見られたい。無論、ウズラが特定棲息域で鳴かないという事実は、ない。]

譚海 卷之八 丹後にくらがり峠道をひらき幷大江山の事

[やぶちゃん注:標題の「幷」は「ならびに」と読む。]

 

○丹後「天の橋立」より、大坂へ三十里といへども、其一里、五十町、三、四十町成(なる)ありて、遠近、たしかに定(さだめ)がたし。

[やぶちゃん注:江戸時代、一里は三十六町、一応は現在の三・九二七キロメートルとされたが、地方によって、古くからあった一里をわずか六町(六百五十四・五四メートル)とする「小道(こみち)」(主に東国で使われたことから「坂東道」(ばんどうどう)・「東道」(あずまみち)・「田舎道」(いなかみち)等とも称した)が、同じ地方であっても、階級や元の出身地により、分別されることなく、先の「大道」(おおみち:こちらは「西国道」「上道」(かみみち)等とも称した)混用されたのである(その他にも一単位が短い別な「小道」型もものが複数あったらしい)。例えば、江戸の武士であっても(開府の翌年、慶長九(一六〇四)年、徳川家康が、子の秀忠に命じて全国に「一里塚」を敷設させている)、代々の先祖が、土着の武蔵及び周縁地の出身であった場合、好んで「坂東道」を使った例を、私は、資料や随筆で、よく見かける。ただ、ここの「三十里」(約百十八キロメートル弱)は現在の一里換算で何らおかしくはない。最短コースで「天の橋立」から「大坂」までを試しにトレースすると、確実に百二十キロメートルはあるからである。]

 三十里、皆、山路にて、其中に「くらがり峠」と云(いふ)所、大江山の東にあり。至(いたつ)て難所、「一騎うち」の道にして、壹年には、二、三人づつ、谷へ落(おち)て、死(しな)ざる事なき、山間の往來なり。

[やぶちゃん注:「くらがり峠」恐らく例の津村の聴き違いである。京阪で知られた「暗峠・闇峠」(くらがりとうげ)は大坂の東方、奈良県生駒市西畑町と大阪府東大阪市東豊浦町との境(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であり、話が合わない。「大江山の東にあり」とあるので、大江山の東にある普甲峠(ふこうとうげ)のことであろう。

「一騎うち」乗馬している場合は、一騎のみしか通れない狭隘険阻な山道であることを言う。]

 あるとし、京師の者某、志(こころざし)をおこして、此道を切開(きりひら)き、今は、道はゞ、三、四尺ほどに成(なり)て、往來のあやまちなく、貳百五十金ほど費(つひへ)たり、とぞ。

 大江山の頂(いただき)に「鬼が城」有(あり)。麓より五十町、有(あり)、荊辣(いばら)、道をふさぎて、甚(はなはだ)、行(ゆき)がたし。案内の者を賴(たのむ)といへども、大かたは、いなみて、行(ゆく)者、稀なり。其所には、石門(いしもん)の側(かたはら)に大成(おほきなる)穴、有(ある)のみなり。

[やぶちゃん注:「鬼が城」「石門の側に大成穴、有」これは現在の「鬼の岩屋」である。サイド・パネルの写真のここがそれ。そこにある解説版をみられたい。三つの伝説が記されてある。宮津市公式サイト内の「鬼が残した数多の痕跡!? 須津にひっそりと残る「鬼の岩屋」も画像と解説があってよい。内部には「千畳敷」などがあるが、自然洞窟と思われる。]

譚海 卷之八 薩州ゑのころ飯の事

○薩摩にては、狗(いぬ)の子を、とりえて、腹を剖(さき)、臓腑をとり出(いだ)し、其跡を、よくよく、水にて、あらひすまして後(のち)、米を、かしぎて、腹内(はらうち)へ納(いれ)、針金にて、堅(かたく)くゝり封じて、其儘、竃(かまど)の焚火(たくひ)に押入(おしいれ)、燒(やく)なり。

 始(はじめ)は燒兼(やけかぬ)るやうなれども、しばらくあれば、狗の膏(あぶら)、火に和(わ)して、よく焚(やけ)て眞黑になる。其時、引出(ひきだ)し、針金を、とき、腹を、ひらき見れば、納置(をさめおき)たる米、よく蒸(むれ)て飯(めし)と成(なる)。其色、黃赤(きあか)なり。

 それを、そば切料理にて、汁をかけて、食す。

 味、甚(はなはだ)、美なり、とぞ。

 是を、方言には「ゑのころ飯」といふ、よし。

 高貴の人、食するのみならず、さつま侯へも進む。但(ただし)、侯の食に充(あつ)るは、赤犬ばかりを用(もちひ)る事と、いへり。

[やぶちゃん注:ウィキの「犬食文化」を参照されたいが、「日本」項は、時代別に考証されて詳しく、この話と同じ内容で、『薩摩にはエノコロメシ(犬ころ飯)という犬の腹を割いて米を入れ蒸し焼きにする料理法が伝わっていた』とある。但し、そのソースは大田南畝の随筆「一話一言補遺」中の「薩摩にて狗を食する事」である。そこにも原文が示されているが(漢字が新字体)、国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(『蜀山人全集』卷五(明治四一(一九〇八)年吉川弘文館刊))で、当該部を視認も出来るが、実は、その南畝の文章は、一字一句、本文と全く同じなのである。二人は同時代人だが、津村の方が十三年上であり、「譚海」が書かれたのは、寛政七(一七九五)年で、「一話一言補遺」は文化年間(一八〇四年~一八一八年)の記事まで記載されていることから、この南畝のものは、私は、この「譚海」からそのまま抽出したものと断定出来る。

 因みに、私は犬を食べたことは、ない。が、私の連れ合いは、南京大学で日本語教師をした際、女性の学生たちを招いてパーティを開いた折り、中国東北部出身の学生が、この時のために送ってきた赤犬の肉を料理してくれ、食べている。連れ合いは食には五月蠅く、どちらかと言えば、潔癖な方だが、特異的に、はっきりと「とても美味しかった!」と後に語っている。

「そば切料理」蕎麦料理膳の宛ての一品とするの意味か。或いは、鹿児島の霧島地方には「そばずい」という太い蕎麦に、野菜や鶏を油で炒めてから煮込んだ粘度の高い汁を入れた郷土料理があるので、「汁をかけて、食す」というのと、よく合う。]

譚海 卷之八 信州山中猪を狩事

[やぶちゃん注:標題は「しんしう、さんちゆう、ゐのししを、かること」と読んでおく。なお、この前話「加州の樵者鎗術をあざける事」は既にフライング公開している。]

 

○信濃山中の民は、猪(ゐのしし)を突(つく)事、妙手をえしなり。

「猪を鐵炮にて打てば、肉の味(あじは)ひ、臭(くさ)し。」

とて、竹鎗(たけやり)にて、突(つき)とむる事を、す。

 常のきせい[やぶちゃん注:底本では「せ」の右に編者の補正注で『(を)』とあるが、「きをい」では歴史的仮名遣としておかしい。「競・勢」なら「きほひ」、「気負」なら「きおひ」である。意味は孰れでも「意気込み」である。しかし、このままでも、いいのではなかろうか? 「氣勢」である。]にては、手柄成(なり)がたき故に、から鐵炮など打(うち)て、猪をおどろかし、わざと、猪を、いからする樣にして突(つき)とむるなり。

 猪、怒(いかり)て、馳來(はせきた)る道に、五、六人、鎗を構(かまへ)て待居(まちをり)て、初手より、次第に突(つき)とむる。

 もし、突(つき)そこなふ時は、いかり、猪に、かけらるゝゆゑ、突(つき)そこなふと、其儘、鎗を地に立てて杖となして、それにすがりて、そのまゝ、猪の尻へ、とびて、かへりざまに、猪の尻を、つく。

 次第に並居(なみをり)たるもの、皆々、此定(このさだめ)にして、突とむる事とす。

「さしも、猛(まう)なる猪の馳懸(はせかく)る振𢌞(ふるまひ)にあはせて、飛(とび)ちがひ、はたらく事、物馴(ものなれ)たるわざ、言語同斷成(なる)事なり。」

と、かたりぬ。

[やぶちゃん注:「言語同斷」ここでの用法は否定批判的用法ではなく、ポジティヴな「あまり強烈で、言葉ではそれが言い表わせないほどであること」の意。また、直接話法の末尾であるかた、特殊な感動詞的用法で、「並外れた物事に接して驚いた!」という気持ちを表わしているともとれる。]

2024/02/17

譚海 卷之八 琉球國禪宗のみある事

○琉球國は佛者[やぶちゃん注:「者」には底本には編者の訂正傍注があり、『(法)』]、皆、禪宗のみ、有(あり)。

 その内に妙心寺派の寺、一ケ所、有。

 此住持にあたる僧の官職を取(とる)例(れい)は、薩摩へ、其僧、わたり居(をり)て、願へば、薩摩より京都へ使者を立(たて)て、妙心寺にて、許可の狀(じやう)をもらひ歸りて、僧に渡し、琉球ヘかへりて住持する事なり。

 さつまにも、妙心寺派の寺、一ケ所、有。是も同例にて、二ケ寺ともに薩摩の僧斗(ばかり)を住持さするなり。

 一年(ひととせ)、琉球所住の僧、住持に定(さだめ)られ、官職を願(ねがひ)に、さつまへ、わたり居たりしが、彼(かの)僧、おもふやう、

「宗派を汲(くみ)ながら、京都開山の塔へ拜禮せざる事、殘念成(なる)事。」

とて、さつまを出奔して上京し、妙心寺に詣(まふで)て直(ぢき)に許可を得、歸路に、駿河、白隱和尙の會下(ゑか)にとゞまり、敎(をしへ)をうくる事、三年にして、見𢌞(みまわり)[やぶちゃん注:行脚。]の後、歸國のこゝろざしありて、暇乞(いとまごひ)せしかば、白隱和尙より、國法[やぶちゃん注:薩摩のそれ。]を背(そむき)たる詫言(わびごと)の使者を添(そへ)、此僧を送られける。

 歸國の上、事むづかしくありしか共(ども)、畢竟求法(ぐほふ)のための事故(ゆゑ)、やうやう、聞濟(ききずみ)[やぶちゃん注:承諾。]ありて、此僧、さつまに、一ケ年、蟄居せさせ、其後(そののち)、ゆるされて、琉球へわたり、住持せし、とぞ。

 是迄は、琉球には禪宗ありといへども、祖師の心傳(しんでん)を會(くわい)したるものはなかりしが、此僧、禪宗の奧旨(あうし)[やぶちゃん注:「奥義」に同じ。]をつたへ、化益(けやく)[やぶちゃん注:教化(きょうけ)して善に導き、利益(りやく)を与えること。]せしより、琉球には、悟道の僧も、あまた、出來(いでき)たる事と、いへり。

[やぶちゃん注:「妙心寺派の寺、一ケ所、有」沖縄県那覇市首里当蔵町(首里城北面)に嘗つて存在した臨済宗妙心寺派天徳山円覚寺(えんかくじ、琉球語:「うふてぃら」)。当該ウィキによれば、『本尊は釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩の釈迦三尊』で、『琉球王国における臨済宗の総本山であり、第二尚氏の香華院(菩提寺)とされた』。本邦の元号の弘治五(一四九二)年、『尚真王が父尚円王の追福のため建立し、弘治』七『年』に、『京都の臨済宗僧芥隠禅師(かいんぜんじ)が開山した』。『鎌倉』の『円覚寺にならって禅宗七堂伽藍を備え、戦前には総門、三門、仏殿など』九『件が旧国宝に指定されていたが、沖縄戦ですべて失われた』とある。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「白隱和尙」臨済宗中興の祖と称される知られた名僧白隠慧鶴(えかく 貞享二(一六八六)年~明和五(一七六九)年)。当該ウィキによれば、『駿河の原宿で生』まれで(ここ。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)、『幼名』は『岩次郎』。数え十五歳の元禄一三(一七〇〇)年に『地元の』臨済宗『松蔭寺』(ここ)『の単嶺祖伝のもとで出家』し、『沼津の大聖寺』(ここ)の『息道に師事』した。元禄一六(一七〇三)年には『清水の禅叢寺』(ここ)『の僧堂に掛錫するが、禅に失望し』、『詩文に耽る。雲棲祩宏の』「禪關策進」に『よって修行に開眼』し、『諸国を』行脚をし、『美濃』『の瑞雲寺』(ここ)『で修行』した。宝永五(一七〇八)年になって、『越後(新潟県)高田の英巌寺』(廃寺となり、現存しない)『性徹のもとで「趙州無字」の公案によって開悟。その後、信州(長野県)飯山の道鏡慧端(正受老人)のもとで大悟、嗣法となる』。宝永七(一七一〇)年、『京都の北白川で白幽子という仙人に「軟酥の法」を学び、禅病』(禅僧に発症する精神疾患。鬱病・ノイローゼ等)『が完治する』。正徳六・享保元(一七一六)年に『諸方の遊歴より、松蔭寺に帰郷』した(数え三十一歳)。宝暦一三(一七六三)年には『三島』『の龍澤寺を中興』、『開山』を務めた。示寂(享年八十四)は馴染みの松蔭寺で迎えている。従って、この琉球僧が彼の下で修行したのは、正徳六・享保元(一七一六)年から示寂する明和五年十二月十一日(一七六九年一月十八日)までの閉区間内の五十三年間の三年間ということになる。]

譚海 卷之八 同國南海の地一村日蓮宗の事

[やぶちゃん注:この前の話「上總國大久保に樹の化物出る事」は既にフライング公開している。而して標題・本文の冒頭の「同國」は「上總國」を指す。]

 

○同國、南方瀕海(ひんかい)の一村は、殘らず、日蓮宗にて、他の宗旨、なし。爰(ここ)を六十六部の修行者とほりても、その道を其まゝ掃除して、忌嫌ふほどの事なり。

[やぶちゃん注:村名を出していないが、これは、恐らく旧小湊村、現在の千葉県鴨川市内浦(グーグル・マップ・データ)、それに接する日蓮が生まれた地の近くに後に創建された誕生寺がある千葉県鴨川市小湊等の旧近村ではないかと思われる。日蓮宗は「立正安國論」で知られる通り、あらゆる他宗を排撃した。中でも日蓮宗徒以外を徹底的に拒否した「不受不施派」は江戸時代も禁教扱いであった。但し、日蓮の認識から考えれば、「不受不施派」は日蓮宗の中で最も正統にしてファンダメンタルな一派であると私は論理的には考えている(なお、私は無神論者であるが、聖書も「立正安國論」も読んだ。因みに、禅の思想と、人としての親鸞を高く評価はしている)。而して、江戸時代の「不受不施派」の正統派は、日蓮所縁の房総半島、「上總國」「安房國」等に多く潜伏していたからである。]

譚海 卷之八 同國猿橋幷鮎一步金等の事

[やぶちゃん注:「同國」は前話「甲州にてからいもの毒にあたり死たる事」を受けたもの。「幷」は「ならびに」。]

 

○江戶より甲州郡内へ廿八里、郡内より甲府へ十二里なり。郡内の町を出(いで)はなるれば、猿橋あり。橋くひをもちひず、左右の岸より持出(もちいだ)して造(つくり)て、橋より、水際までは、三十三尋(ひろ)あり。橋の長さは八十間餘(あまり)と云(いふ)。

 橋をわたりて、甲府へ行(ゆく)かたの橋ぎはに、「猿のやしろ」、有(あり)。此橋を敎(をしへ)て、かけはじめたる猿を祀(まつり)たるゆゑに、里民、甚(はなはだ)、崇敬して「おさる殿」と稱するよし。

「此川の邊(あたり)をはじめ、甲州はすべて、鮎(あゆ)、名所なり。二月より、產す。二月は、鮎の大(おほき)さ二寸有(あり)、三月は、三寸有、八月比(ごろ)は壹尺四、五寸に生長す。至(いたつ)て美味なり。鮎の骨を拔(ぬき)て、くはるゝ事なり。」

と、いへり。

 亦、武田家の時、製(せい)ありし金(かね)、今猶、殘りて、甲州の内にては、今時(こんじ)も、文金・古金に交(まじり)て通用する事、とぞ。壹朱金・二朱金・壹步金と三品(さんぴん)なり。壹朱といふは二朱の半金にあたるものなり。三品とも、金(きん)にて鑄(いり)たるものなり。世に「甲州金」と稱するもの、是なり。今時は、此金、甲州にも不足に成(なり)て、百兩の内、二步ばかり、甲州金を交(まぜ)遣ひて、八分は文金、或は、二朱銀を用(もちひ)る事に成(なり)たる、とぞ。

[やぶちゃん注:「猿橋」現在の山梨県大月市猿橋町猿橋にある桂川に架かる刎橋(はねばし:岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込んで中空に突き出させ、その上に同様の刎ね木をさらに突き出させて下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出し、これを何本も重ねて中空に向けて遠く刎ねださせ、これを足場として上部構造を組み上げて板を敷いて橋とした架橋をいう。橋脚を立てずに架橋することが可能となる。現在、木造で現存するのはこの山梨県大月市の猿橋のみ。ここはウィキの「刎橋」に拠った)。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ウィキの「猿橋」も参照されたい。

「猿のやしろ」現在の桂川(現在は人造湖である相模湖に流入する)右岸猿橋のたもとに建つ「山王宮」(さんのうぐう)。]

譚海 卷之八 甲州にてからいもの毒にあたり死たる事

[やぶちゃん注:「からいも」はママ。「唐芋」はサツマイモの別名である。なお、前話の「譚海 卷の八 枇杷葉湯に昆布毒の事」は「食い合わせ」の禁忌で、連続する。]

 

○甲州にも「かゞいも」あり。御代官中井淸太夫殿、うへられたる故、「淸太夫いも」とも、いふなり。

 甲州にて、手習の師匠の所へ、人の、此いもを、おくりたる故、やがて、むして、手習子供へ振𢌞(ふるまひ)たるに、いく時をも、へず、其子供十一人、のこらず、死(しし)たり。

 親ども、聞(きき)、おどろきて、師匠のところへ來(きたつ)て、

「かほどまで、大勢、一同に死(しに)侍る事、ふしぎなり。決して、毒を飼(もら)れたる成(なる)べし。」[やぶちゃん注:「飼」には、「人や動物に毒や薬などを与える」の意があるので、かく、当て訓した。]

といふ。

 師匠、

「何(なに)しに、さやうの事をなすべき。但(ただ)、今日(けふ)、さるかたより『淸太夫いも』をもらひたるゆゑ、むして、子供にやりたるが、其跡にて、墨の付(つき)たる筆を砥(なめ)たるにて死(しし)たるや、しらず。われ、試(こころみ)に、是を、くふべし。皆、見物せられよ。」

とて、其師匠、いもをくひて、其跡にて、墨をすりて、飮(のみ)たれば、卽時に死たり、とぞ。

 「『かゞいも』には、硯墨(すずりすみ)、敵藥(てきやく)なり。」

と、いへり。

 されば、「さつまいも」に墨を禁物とするも、同(どう)やう成(なる)事と、おもはる[やぶちゃん注:ママ。]なり。

[やぶちゃん注:「かゞいも」底本の竹内利美氏の後注に、『清太夫いも。ジャガイモ(馬鈴薯)の異称。ジャガイモは近世中期以後の伝来で、信州や甲州では割合早く作られたらしい。「二物考」』(かの高野長英が天保七(一八三六)年に著した「勸農備荒 二物考」。救荒植物として蕎麦と馬鈴薯の二種の栽培を奨励したもの)『には「伝る所を詳にせず、甲信等に古く伝はって蕃殖するといふ」とある。ジャガタライモ・甲州いも・秩父いも・八升いも・清太夫いも・信濃いも等の異名があった。カガいももその一つであったろう』とある。しかし、硯(す)った墨と馬鈴薯(ジャガイモ)の食い合わせが有毒というのは、聴いたことがない。ジャガイモにはソラニン(solanine:水溶性で、ステロイドアルカロイド配糖体)という有毒成分が発芽した部分にあることはよく知られている。ブログ「医薬品情報21」の「ジャガイモの毒性」によれば、『収穫時に見かける小芋も同様の症状を起こすことがあるが、学校等で、児童自身が栽培した芋による事故が殆どで、市販の大きな芋で起こる事故は皆無に近いとされている。収穫後の芋は暗い場所に保管しておき、発芽部分の周囲を深く除去し、緑色の皮は厚くむいて調理することが必要とされている』。『solanineは水溶性であるが、加熱しても壊れない。solanineは馬鈴薯の全ての部分に含まれている。特に光に当たって緑色になった部分や芽の周辺に濃厚に含まれている。solanineacetylcholineを分解する酵素であるacetylcholinesteraseを阻害する働きがある。solanineは酵素阻害物質なので、大量を摂取すると』、『血中のacetylcholineが滞留する』。『solaninechaconineは馬鈴薯の芽に一番多く含まれている』。『馬鈴薯の可食部分100 gあたり平均7.5mgsolaninechaconineを含んでおり、そのうち』、三~八『割が皮の周辺に存在する。一方、光に当たって緑色になった部分は100 gあたり100mg以上のsolaninechaconineを含んでいるといわれている。体重が50kgの人の場合、solaninechaconine50 mg摂取すると』、『症状が出る可能性があり、150 mg300 mg摂取すると死ぬ可能性があるとされる』とあったが、凡そ、一個のジャガイモを食って、子供十一人と大人一人が急死するというのは、信じられない。考えられるのは、その送り主が猛毒の植物の根茎を「淸太夫いも」と間違えていた可能性である。例えば、単子葉植物綱ユリ目イヌサフラン科イヌサフラン属イヌサフラン Colchicum autumnale である。同種の根茎はジャガイモに似ており、猛毒のコルヒチン(colchicine)が含まれており、摂取すると、下痢・嘔吐・皮膚知覚麻痺・呼吸困難を発症し、重症の場合は死亡することもある。参照したウィキの「イヌサフラン」によれば、二〇〇六『年から』二〇一六『年の間に』六『人の死者を出しており、誤食による食中毒が発生しやすい植物とされる』とある。墨の成分がそうした中毒物質の毒性を盛んにするかどうかは、私には判らない。

「敵藥」配合の具合によっては毒になる薬。]

譚海 卷之八 枇杷葉湯に昆布毒の事

○天明の比(ころ)より、「京都烏丸(からすまる)枇杷葉湯(びはえふたう)」とて、數人(すにん)、大路を賣(うり)て往來する事、たえず。

 箱の内に藥爐(やくろ)を仕(し)つけて、途中にて、往來の人に、のましめ、渡世とす。

 寬政二年七月の比、ある浪人、いとあつきに、たへず、此(この)「びはよふ湯」を呼(よび)て飮けるに、其夜、悶絕して、人心地(ひとごこち)なく、目ばかり、きらめき、臥(ふし)たりしに、召仕(めしつか)へる僕(しもべ)、松前の者にて、驚き怪(あやし)み、

「是は、晝、昆布を料理して喰れたるゆゑ、批杷、のみあはせ、あしく、かく、あたられたる成(なる)べし。」

とて、やがて、昆布の毒をけす藥を、はしり行(ゆき)て調(ととのへ)、歸りて、主人へ飮(のま)せければ、蘇生したり。

 仔細を尋(たづね)たるに、

「在所、松前には、枇杷の樹を生(しやう)ぜず。寒國(さむきくに)といへども、昆布の出(いづ)る地には、必(かならず)、生ぜざる。」

よし。

「されば、昆布と枇杷とは、合せ喰(くふ)事を禁じて、恐るゝ事、甚(はなはだ)し。萬一、枇杷、昆布、喰合(くひあは)せて、毒にあたりける時は、『あらめ』を、せんじて飮(のむ)時は、やがて解(かい)する事故(ゆゑ)、心付(こころづき)て、かく、せし。」

と、かたりぬ。

[やぶちゃん注:「枇杷葉湯」枇杷の葉の毛を除いて乾燥させたものに、肉桂や甘茶などを細かく切って混ぜた散薬。また、それを煎じた汁。食傷・暑気あたり・急性痢病などに効くという。京都烏丸に本舗があり、江戸では馬喰町三丁目で山口屋又三郎が販売した。「本家京都烏丸、枇杷葉湯山口屋又三郞」と記した長方形の箱の中に、茶釜・茶碗等を入れ、天秤で担いで、往来で煎じて飲ませた。また、夏期には、烏丸の本舗及び江戸の取次店では、店頭に調製しておいたものを通行人に無料で飲ませた。「からすまる」とも呼ぶ。ここに出る、枇杷葉湯と昆布の禁忌は本当かどうかは、よく判らないが、コンブは、甲状腺疾患(この武士の急性症状は、それを指しているようには見える)を罹患している人の場合、ヨードが非常に多く含まれるため、絶対禁忌とされている。しかし、枇杷葉湯が、さらにヨードを増やすかどうかは、判らない。ただ、甚だ不審なのは、下僕が「あらめ」等毛植物門褐藻綱コンブ目レッソニア科 Lessoniaceae アラメ(荒布)属アラメ Eisenia bicyclis を与えていることである。アラメはヨードが多いんですけど? アラメについては、私の「大和本草卷之八 草之四 海藻類 始動 / 海帶 (アラメ)」及び注のリンク先を、また「昆布」は種が多様なので、是非、「大和本草卷之八 草之四 昆布 (コンブ類)」の私の注を見られたい。因みに私は海藻・海草のフリークである。]

譚海 卷之八 同秋田城朝鮮の燕來る事

[やぶちゃん注:標題の「來る」は「きたる」と訓じておく。なお、この前の「羽州橫手しろき鳥の事」はフライング公開してある。従って、本標題の「同」は出羽国を指す。同じ久保田藩で、しかも同藩内の城繋がりで、合わせて記したものである。]

 

○羽後秋田の城の南門の二階下の板には、燕、巢をかくる、おほし。

 それが中に、二羽、至(いたり)て、大成(だいなる)燕、鳩の如(ごとく)白燕(しろつばめ)にして、巢を造るさまも、餘(よの)燕と異(こと)にして、土を用(もちひ)て、大成(だいなる)穴を、うがち、橫より、板にそひて、出入するやうに造りて有(あり)。

「是は朝鮮より、年々、來(きた)る燕なる。」

由、吏人、傳へ覺(おぼへ)て、かたりぬ。

[やぶちゃん注:「朝鮮の燕」この謂いが正しいとすれば、ツバメに似た、白い、通常のツバメより大きい(但し、ここは「太っている」の意でとる)とならば、スズメ目スズメ亜目ツバメ科ツバメ亜科 Delichon 属シベリアイワツバメ  Delichon urbica lagopoda の可能性が高い。同種は全長十五センチメートルで通常のツバメ(ツバメ亜科ツバメ属 Hirundo rustica :全長十七センチメートル)より小さいが、体形自体はツバメより遙かに太く、ムックムクだからである(学名の画像検索をリンクしておく)。尾羽根の切りこみが深く、上面は光沢のある暗青色であるが、下面が白い羽毛で覆われており、体型上、白い部分が多い。背中後部・腰・尾羽基部の上面(上尾筒)も白い羽毛で覆われている。参照したウィキの「イワツバメ」によれば、本邦には『九州以北に飛来(夏鳥)』し、通常は『海岸や山地の岩場に泥と枯れ草を使って上部に穴の空いた球状の巣を作り、日本では』四~八『月に』一『回に』三~四『個の卵を産む。岩場に営巣することが和名の由来。集団で営巣する』としつつも、『昔から』、『山間部の旅館や山小屋などに営巣する例は知られていたが、第二次世界大戦後はコンクリート製の大規模な建造物が増加するとともに、本種もそれらに営巣するようになった。近年は市街地付近の橋桁やコンクリート製の建物の軒下などに集団営巣する例が増えており、本種の分布の拡大につながっている』とあるから、彼らが、日本の海辺の城に営巣したとしても、何らおかしくはない。通常のツバメの博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 燕(つばめ) (ツバメ)」を参照されたいが、並んで、「和漢三才圖會第四十二 原禽類 土燕(つちつばめ)・石燕(いしつばめ) (多種を同定候補とし、最終的にアナツバメ類とショウドウツバメに比定した)」の方も、大いに参考になるはずなので、合わせて見られんことを、強くお勧めする。

「秋田の城」ここ(グーグル・マップ・データ)。]

譚海 卷之八 吉備津宮神詠の事

[やぶちゃん注:冒頭の「同國」は前話を受けて「備中國」。]

 

○同國吉備津宮の神詠とて、人の、かたりし。

  聲なくば我を誰(たれ)とかしらなまし

        雪降(ふり)かゝる蘆原の鷺

[やぶちゃん注:つまらん。巫女が神憑(かみがか)りして詠じたものであろう。「諸國里人談卷之一 吉備津釜」でも御覧あれ。]

譚海 卷之八 備中國大島の山中貝石の事

○備中、大島と云(いふ)山中(さんちゆう)、谷の石、ことごとく、「しのぶずり」に用(もちひ)る石にて、其紋、あざやかにあり。古來、人、知る事なかりしが、近年、はじめて見出(みいだ)したる、とぞ。

 石の色は靑石(あをいし)なり。

 又、同所、白地と云(いふ)山中より、「貝石(かひいし)」とて、貝の付(つき)たる石を出す。

 冷泉殿門人、現(げん)に掘(ほり)て、京都へ、まゐらせければ、爲泰卿、御歌(ぎよか)を給はせけり。

  海遠き山にありとて貝石の

   鹽(しほ)じまぬさまを見るもめづらし

[やぶちゃん注:「大島と云山中」岡山県笠岡市大島中(おおしまなか)にある御嶽山(みたけやま:グーグル・マップ・データ。以下同じ)のことか? 但し、ここで「靑石」が採掘された(される)という事実はネット上では見当たらない。さらに不審なのは、標題と、後半の頭の「同所」である。同じ備中なら、「同國」とするだろう。しかも、「同所」は前のロケーションの近くであることを意味する。後の注を見て貰いたいが、かなり苦労したものの、後者のロケーションは、ほぼ確定出来たと考えている。私はそちらの周辺にある山で、例によって聴き書きの津村が山の名を誤った可能性が窺えるのである。

「しのぶずり」「忍摺・信夫摺」。大きな石の上に布を広げ、その上に:   シダ植物門シダ綱ウラボシ目ウラボシ科 Polypodiaceaeの歯朶(しだ)の葉をのせ、上から叩いて、その葉の汁を布に染めつけていくもの。その模様の乱れた形状から、「しのぶもじずり」とも言う。古来のそれは、かなり前に廃れており、ネットにはまことしやかに種名を挙げているものもあるが、使用した植物種を限定することは、実際には出来ないようである。要は広汎に種々の草木染めの古式の名ととっておけばよいだろう。

「白地」不詳とする予定だったが、一つ思ったのは、蛍の町として記憶がある、岡山県高梁(たかはし)市落合町福地しろち)であった。そこで調べてみたら、サイト「ソトコト」の『「福地」って“ふくち”じゃないの?! 岡山県高梁市にある蛍のまち。地名に込められた願いとは』に、『高梁市が発行している「広報たかはし」579号によると、戦国時代頃の表記は「白地」で、地名の由来はこの地域で白い土が多く出ていたこと。江戸時代の文献にも「白地」に「しろち」という振り仮名がふられているのだとか。しかし、のちに洪水が起こったことから、「福」という良い字で書くことになったという言い伝えがあるという。全国でも珍しい読み方には、先人たちの「災害が起こらないように」との願いが込められたのかもしれない』とあった。さらに、先の地図を再度見られたい。同地区の西に接する高梁市成羽町(なりはちょう)成羽に、「成羽の化石層」があるのである。サイド・パネルの説明版画像を見られたいが、そこに『成羽層群は貝化石を産出することで知られています』とあるのである。ここと断定してよいだろう。

「爲泰」冷泉為泰(れいぜいためやす 享保二〇(一七三六)年~文化一三(一八一六)年)は公卿・歌人。上冷泉家で冷泉為村の子。門人に、かの屋代弘賢らがいる。歌集に「三代十百首」等がある。]

譚海 卷之八 加州町人木屋滅亡の事

○加州に木屋といへる豪富のものあり。米、買〆(かひしめ)、莫大(ばくだ)せし事に付(つき)、加州侯、親子とも斬罪にせられ、手代五人は遠島に處せられ、家督、斷絕せり。

 天明午どしの飢饉、世上、米、払底(ふつてい)なりしかども、木屋方に買置(かひおき)たる越後米、絕(たえ)ず賣物(うりもの)に出(いで)て、翌年夏迄、越後米、世上にありしも、木屋壹人(ひとり)の所藏にてありし、とぞ。

 同年、羽州米、四千石、北𢌞(きたまわ)しにて、大阪へ登(のぼら)せたりしに、はじめ、着船せしは、壹石に付(つき)、銀九十二匁、おくれて着船せし米は、壹石に付(つき)百十二匁に成(なり)たりとぞ。

[やぶちゃん注:「天明午どしの飢饉」日本近世の最大の飢饉とされる「天明の大飢饉」(天明二(一七八二)年~天明八(一七八八)丙午年)の最末年。

「羽州米」出羽の国。現在の秋田県と山形県。

「壹石」十斗=百枡=約百八十リットル。

「銀九十二匁」銀六十匁が金一両なので、一両半強。

「百十二匁」凡そ二両弱。]

譚海 卷之八 酒桶の杉飛驒山中に大木ありし事

○酒を造る桶は、皆、杉なり。古木を用るほど、酒、よく出來るなり。名洒を造る桶は、五、六百年に及ぶ板にて造(つくり)たる桶成(なる)由。

 先年、飛驒山中に、大なる杉、有(あり)。根のうつぼに成(なり)たるうちへ、三人、入(いり)て、手をひろげつら成(なり)たるに、猶、左右に、餘地、有(あり)。

 大阪の者、此杉を二千銅に直段(ねだん)付(つけ)たれども、所のもの、

「此杉は、うぶすなの如く、伺百年ともなく、あがめ來(きた)る故、賣(うり)わたす相談に及ばず。」

と、いへば、二千五百銅迄、直段をのぼせたれども、終(つひ)に賣(うる)事を、やめたり。

 大阪のもの、申(まふし)けるは、

「此杉、およそ千年餘(よ)のものと見えたり。此杉をもて、酒桶(さかだる)を造りなば、おそらくは池田・伊丹に、此酒より勝(すぐ)たるもの、出來る事、あるまじ。桶にせば、廿七本は出來(でき)べし。其價(あたひ)、はかりなき事。」

と、いへる、とぞ。

[やぶちゃん注:両手を広げた長さは本邦の監修で「尋」(ひろ)と言う。換算では複数あるが、短い一・五一五メートルで十六・五四五メートルとなり、さらに「餘地」があるというのだから、洞(うろ)の内径は十七メートル程もあることになる。所謂、巨大な屋久島の縄文杉でも、幹本体の直径は凡そ五メートルであるから、これはあり得ない。

「二千銅」一両の半分。安杉、基! 安過ぎ。]

譚海 卷之八 江戶靑山熊野權現堂安產の符の事

○江戶、靑山、熊野權現堂下と云(いふ)所に、「すいほう和尙」と云(いふ)人、すめり。

 此人、ふしぎの法(ほふ)ありて、安產の守(まもり)を出(いだ)す。產婦あれば、行(ゆき)て願ふ時、使(つかひ)を、またせて、御符を出(いだ)す。禮物(れいもつ)として、三百錢、贈る也。

 產に臨(のぞん)で、此符を、婦人、右の手に持て居(を)るに、極(きはめ)て安產なり。

 七夜(しちや)に至(いたり)て、封をひらき見るに、熊野三所本地(くまのさんじよほんぢ)の御形(みかた)に、其(その)生れし子供の名を書入(かきいれ)て有(あり)、男なれば、男子の名、有(あり)、女子なれば、女の名、書(かき)て有(あり)、生れし子の男女を、たかへず。

 よりて、皆々、ふしぎがることなり。

 三七日(さんしちにち)も立(たち)て、又、右の符を返しまゐらする事にて、持參すれば、あたらしき符に取(とり)かへこ[やぶちゃん注:ママ。]すなり。是は出產の時用(もちひ)たるは、けがれたるゆゑ、とりかへもろふ[やぶちゃん注:ママ。国立国会図書館本は『もらふ』。]よしなり。此度(このたび)は、禮物、二百錢、贈る事なり。

 此和尙卜筮(ぼくぜい)にてもせらるゝか、狐などをつかふて然(しか)るにや、みな人(ひと)、いぶかり思(おもふ)事なり。寬政の頃、もつぱら、はやりたる事なり。

[やぶちゃん注:「熊野權現堂」現在の東京都渋谷区神宮前の熊野神社(グーグル・マップ・データ)。

「七夜」子どもが生まれて七日目の夜。命名など種々の祝いの行事をする。

「三七日」出産後二十一日目に行なう祝い。産後七日目ごとの祝いの三回目。「みなぬか」と読んでもよい。

「寬政」一七八九年から一八〇一年まで。]

譚海 卷之八 鰹節をこしらふる事

 

○鰹ぶしをこしらふるは、皮ともに、ふしに切(きり)て、蒸籠(せいろ)につめて、むすなり。薪(まき)には靑松葉を用ゆ。

 松の葉にむされて、鰹の皮と身の間に有(ある)あぶら、したゝり落(おつ)る事、数日(すじつ)、そののち、せいろう、取出(とりいだ)し、皮をさりて、常のたき火にて蒸(むす)事、一日にして、四斗樽に入(いれ)、ふたをして、四、五日、へて、取出しみれば、靑き「かび」、ひまなく生ずるを、繩にて、すり落(おと)し、又、樽につめ入て、ふたをなし、四、五日、經て、取出せば、「かび」を生ず。

 それを、すり落(おと)して、又、もとのごとく、樽に入置(いれおき)、後(のち)には、「かび」、生ぜず。

 其時、取出し、日のあたる所に、ほしたるを、最上のものとす。

 此(この)ごとくせざるは、かつをぶしになせし後(あと)も、暑中は「かび」を生ずるなり。

[やぶちゃん注:ウィキの「鰹節」をリンクさせておく。]

譚海 卷の八 相州矢倉澤通りつるぎ澤の事

[やぶちゃん注:この前の「藝州家士の妻奸智ある事」は既にフライング公開してある。]

 

○相州の大山より、小田原へこゆるには、「一の澤ごえ」といふを、するなり。

 大山麓(ふもと)より、不動堂まで五十町あり。其十六町めの坂の脇に、「一の澤ごえ」のわかれ道あり。半里ほど、くだれば、すなはち「一の澤」也。「二の澤」・「三の澤」迄有(あり)。

 石尊權現(せきそんごんげん)參詣の頃は、「やくらごえ」して、富士山に參詣する人、多ければ、ここに、茶屋、有(あり)て、水を賣(うる)なり。「一の澤」より、五、六町くだれば高野と稱する道場、有(あり)。律宗の僧、住(すみ)て、殊勝なる寺也。

 此邊(このへん)より、人家、所々に有(あり)。是は「厚木ごえ」と云(いふ)にかゝる道なり。「ゑびらのわたし」などとて、船にて、わたる所、二所(ふたところ)有(あり)。鮎、ことにおほく、舶(ふね)の中へも、おどり入(いり)、おもしろき事、とぞ。

 又、ある人のいへるは、

「大磯より、西に入(いつ)て「つるぎ澤」と云(いふ)を、へて、小田原へ、いづる道、有(あり)。大いそより、小田原へは、直(ぢき)みち五十町、是を行(ゆけ)ば、三里なり。外記(げき)の浄瑠璃にいへる廻れば三里直に五十町といふ所なり。曾我・中村をへて、「つるぎざわ」にいたる。中村に曾我兄弟の墓、有(あり)。「つるぎ澤」は、山岸のさわ[やぶちゃん注:ママ。]なり。砂地にて、砂のながれ落(おち)たる跡、岩をあらはし、岩のかたち、皆、尖(とがり)て、つるぎを立(たて)たるごとく、一、二尺づつの高さにて、澤中(さわぢゆう)、ことごとく、此岩なり。いくらといふ、かずを、しらず。頗る奇觀なり。」

とぞ。

[やぶちゃん注:以上の行程は、部分部分を歩いたことがある。しかし、一部に例の津村の聴き書きの不全で不審箇所がある。それを指摘しても、私が全く面白くないし、面白がる読者もいないだろうから、その手の注は今回は附さない。

「外記」「外記節(げきぶし)」。江戸浄瑠璃の一つ。薩摩外記藤原直政が貞享(一六八四年から一六八八年)の頃、語り出した豪放な浄瑠璃。人形浄瑠璃や歌舞伎の荒事などで行なわれたが、間もなく滅び、現在は河東節と長唄の数曲に、その影響が残るのみ。]

2024/02/16

譚海 卷之八 甲州身延山參詣行程の事

[やぶちゃん注:この前の「江戶本所の大工狐の玉を得たる事」は既にフライング公開してある。]

 

○江戶より甲州身延山へ參詣の道は、東海道沼津の宿より西へ入(いり)、身延山迄、十三里、身延山總門より本堂まで十八町、本堂より赤沼まで三里、赤沼より、山路、殊にけはしきところを經(ふ)る事、五十町にして、七面山(しちめんさん)にいたる。是、卽(すなはち)、身延山の奥の院なり。歸路は、奧の院より、本堂のうしろへ出(いづ)る道、有(あり)。此間(このかん)、三里なり。

[やぶちゃん注:私の「諸國里人談卷之三 風穴」を参照されたい。]

譚海 卷之八 藝州嚴島明神祭禮の事

 

○藝州嚴島明神の祭禮には、いつも、烏二羽、供物を啣(くはへ)て、空(そら)へ冲(のぼ[やぶちゃん注:この読みは極めて珍しい底本の編者注記。])り飛去(とびさる)事、有(あり)。

「往古より、祭祀の度(たび)ごとに極(きまつ)てある事なり。此からす、雌雄にて、明神へ、つかふまつる。ひなを產して生(おひ)たつときに、いたれば、そのひなに、祭祀の所作をゆづりて、親鳥は飛去(とびさる)。」

とぞ。是を巖島にては「四鳥のわかれ」といふ事に、傳へ、いふなり。

[やぶちゃん注:個人ブログ「山野草、植物めぐり」の「宮島 神鴉(大頭神社と四鳥の別れ)」がよい。社名の「大頭」は「おおがしら」(現代仮名遣)と読む。この神社は厳島の本州対岸にあり、ここに出る「四鳥のわかれ」の大事なロケーションであることが判る。同神社の石碑の当該部も電子化されており、写真もある。]

譚海 卷之八 同藩中駒木根三左衞門はいかい妙なる事

[やぶちゃん注:「駒木根」は「こまきね」或いは「こまぎね」。冒頭の「又同藩」は直前の話を受けているので、秋田(久保田)藩を指す。同じ藩の特異な才能の持ち主の紹介という強い親和性があり、確信犯で並べて記したものである。]

 

○又、同藩家司に駒木根三右衞門と云(いふ)人、俳諧を好(このみ)て、朝夕、口に誦(じゆ)せざる事、なし。

 いつのとしにや、八月十六日、晴光[やぶちゃん注:空がよく晴れて明るく気持ちがよいこと。]なれば、同僚を、いざなひて、

「矢橋(やばせ)といふ所の茶屋に、月、みん。」

とて、[やぶちゃん注:「とて行くに、」ぐらいは欲しいところ。]折ふし、茶屋の娘、

「難產にて、宿を、かしがたき。」

よし申せしに、三右衞門、

「我(われ)、よき安產の守(まもり)をもちたり。」

とて、ひそかに、

「いざよひやなんの苦もなくはぢき豆」

といふ句を短册に書(かき)て、枕上(まくらがみ)におかせしに、やがて平產せしかば、一家、大(おほき)によろこびて、酒肴(しゆかう)を、とゝのへ、馳走(ちさう)しければ、月見の興附(きやうづけ)にして歸りたり、とぞ。

 又、年のくれに、友達、來(きたり)て、

「今日(けふ)、無盡會(むじんくわい)なり。兼て不如意の我々なれば、此鬮(くじ)にあたらざれば、春のもふけ事(ごと)ゆかず、難義(なんぎ)[やぶちゃん注:「難儀」に同じ。]きはまりたり。」

と、かたりしかば、三右衞門、やがて、

「十(とお)に十皆とらるゝや寒玉子」

といふ發句をいひて、

「是、持(もち)ていませ。」

とて、やりけるに、はたして、其友、

「くじに、あたりぬる。」

とて、よろこび申(まふし)つかはしける、とぞ。

[やぶちゃん注:「矢橋」旧秋田城の南東方向直近の旧広域地名。「ひなたGPS」の戦前の地図を見られたい。グーグル・マップ・データで見ると、現在は小さく、北にごく狭い飛地がある。また、当該ウィキによれば、『江戸時代には久保田城から土崎港方面へ向かう羽州街道の、久保田を出て最初の集落であった。当地に一里塚(八橋一里塚)が存在し、塚は現存しないものの「八橋一里塚」交差点に標柱が立てられている。また多くの寺社も置かれており、日吉八幡神社(山王権現)は久保田町人町(外町)の鎮守、毘沙門社は保戸野足軽町の鎮守として参拝客を集め、沿道には茶屋が軒を並べていた』(☜)。『草生津川』(さそおづかわ:「ひなたGPS」の戦前の地図の『橋八(セバヤ)』の文字の上に南北に貫流する川に『草生津(サソウヅ)川』の名が確認出来る)『の対岸に草生津刑場があり、架けられている橋は』、『罪人が最期に自分の姿を水面に映す場所として「面影橋」と呼ばれるようになった』とある。

「はぢき豆」そら豆を煎って弾き出させること。また、ソラマメそのものを指す。ここは、「いざよひ」が難産を指しつつ、勢いよく、ポン! と弾ける空豆を安産の予祝とした挨拶句であると同時に、共感呪術的効果を狙っている。

「無盡會」「無盡講」「賴母子講(たのもしこう)」に同じ。相互に金銭を融通し合う目的で組織された講。世話人の募集に応じて、講の成員となった者が、一定の掛金を持ち寄って、定期的に集会を催し、抽籤(ちゅうせん:くじびき)や入札などの方法で、順番に各回の掛金の給付を受ける庶民金融の組織。貧困者の互助救済を目的としたため、初期は無利子・無担保だったが、掛金を怠る者があったりしたため、次第に利息や担保を取るようになった。江戸時代に最も盛んで、明治以後でも、近代的な金融機関を利用し得ない庶民の間で行なわれ続けた。

「十(とお)に十皆とらるゝや」こちらは先に人間が言上げすることで、それが結果して、天命を変えさせる逆効果を惹起せざるを得ない呪術として作用しているのである。]

譚海 卷之八 佐竹家司那珂宗助水利にたくみ成事

[やぶちゃん注:「成」は「なる」。「佐竹家司那珂宗助」は底本に竹内利美氏の後注があり、『秋田藩主佐竹家。その家臣那珂氏は側用人など勤めたが小身の家である。地方役人として有能なものがあったのであろう』とあった。]

 

○佐竹の家に那珂宗助(なかそうすけ)と云(いふ)者、水利に熟(じゆく)したる人にて、常に邦内(はうない)の川普請(かはぶしん)を掌(つかさどり)ける。

 其人の工風(くふう)にて、川をさらへる器(き)、數多(あまた)、製したる有(あり)。

 「やす」を、水車の如く造(つくり)て、水流にかけて、めぐるに隨(したがひ)て、土を自然にほりうがつやうにせし物、あり。

 又、「むしろ」壹枚を樹にかけて、激流にひたしおけば、莚(むしろ)のうごくに隨て、淤泥(おでい)[やぶちゃん注:泥(どろ)。]を、はらひのくるやうにせし事も、あり。

 種々(しゆじゆ)の器、今に其製を傳(つたへ)うけて、一國の水を治(をさむ)る便(たより)とせり。一とせ、阿仁(あに)と云(いふ)所の川普請をせしに、銅山のふもとにて、深山(しんざん)なれば、やがて、その谷の「ふじかづら」を、おほく伐取(きりとり)て、蛇籠(じやかご)に製せしに、其折しも、

「花色の木綿十反、急用。」

の由(よし)、國衙(こくが)へ申遣(まふしつかは)しければ、諸司、

「川普請に無用なるものなり。いかゞ。」

など申(まふし)あヘりけれど、水治(すいぢ)の事は、宗助に任(まか)たる事なれば、いひつるまゝに調(ちやうし)て遣しける。

 其後(そののち)、宗助、水邊(みづべ)の村民の子どもを集めて、河原にて、日々、「すまひ」[やぶちゃん注:「相撲」。]をとらせ、戲(たはむれ)としける。

 其中にて、力量ある子供を賞して、此木綿を一幅づつ、犢鼻褌(ふんどし)に、やりければ、いよいよよ、ろこびて、人々、我(わが)力量を自讚したるとき、其子供に課(はたし)て、日々、河原の石を、はこばせて、蛇籠に詰(つめ)させけるに、子供の事なれば、

「我、おとらじ。」

と勵(はげまし)て、おほくの日もかゝらず、さばかりの費(つひへ)もあらずして、蛇籠、數十里、成就せし、とぞ。

 後(のち)に、惣助[やぶちゃん注:ママ。名の異字を自身がしたケースは多い。]、龍文(りゆうもん)ある靑石(あをいし)を得て、守(まもり)にうけて[やぶちゃん注:守護神として扱い。]、「龍神堂」を建(たて)、件(くだん)の石を本尊になしける。

 「龍神堂」は、城下より、土崎(つちざき)と云(いふ)湊へかよふ道の、根笹山といふいたゞきに有(あり)。

[やぶちゃん注:何とも、いい話である。

「土崎」秋田県仙北郡美郷町(みさとちょう)土崎(グーグル・マップ・データ)。

「龍神堂」不詳。那珂氏ののために残しておきたかったな。

「根笹山」不詳。]

譚海 卷之八 うさぎ腹つゞみをうつ事

[やぶちゃん注:この前の「蟹鳥に化したる事」は、既にフライング公開している。]

 

○兎も鼓(つづみ)をうつ事、有(あり)。

 伊豆の國へ行(ゆき)たる人の、かたりしに、

「かしこに新左衞門村と云(いふ)所有(あり)、往古の河津(かはづ)の領したる地にて、三千石の村なり。今は其地に河津氏を神に祭(まつり)て、「三社明神(さんしやみゃうじん)」とて有(あり)。山谷(やまたに)の入(いり)まじりたる所にて、兎抔(など)、殊に多し。其地の老人、ある年、三社へ參詣して、歸路に山中を過(すぎ)けるに、何やらん、物の音、きこゆ。挾箱(はさみばこ)をになひ行(ゆき)、釻(いしゆみ)の、箱にあたりて、鳴(なる)音の如し。ふしぎにおもひて、其音する所、うかゞひたるに、兎數(す)十疋、つらなり、圓居(まどゐ)して、皆々、立あがり、兩手にて、おのが腹を、うつ音なり。一度にそろひてうつ故、此音、高く聞ゆるなり。ふしぎに思ひて詠(ながめ)ゐたるに、老人、風邪(かぜ)、煩(わづら)ふ頃にて、咳(せき)を忍(しの)びたれども、こらへがたく、せきたれば、其音におどろきて、兎、殘らず、林中へかけ入(いり)たり。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「新左衞門村」「河津氏の領したる地」「三千石の村」「今は其地に河津氏を神に祭(まつり)て」「三社明神」不詳。河津周辺には三嶋(島)神社は多数ある(個人的には「社」は「嶋」の誤記のような気はする)。「山谷の入まじりたる所」とあるから、天城峠越え附近とは推理されはするが、全体、まともに読める話ではないので、考証もする気にならない。

「釻」ここは、「木などの弾力を利用して石を弾(はじ)くようにした武器」の、その弾丸に当たる「石」の意で読みを振った。にしても、この老人、かったるい比喩を用いている。「兎の腹鼓み」の音は「挟み箱を荷って歩いている者のその箱を狙って撃った石弓(弩:いしゆみ)の弾(たま)がその箱に当たって鳴ったような音」だったというのである。「老人」で「風邪」を引いており、くしゃみをしたら、兎どもが蜘蛛の子を散らすように逃げ失せた、というのは、もう、百二十%、阿呆臭い作り話だ。]

譚海 卷之八 同所筑波山來由の事

[やぶちゃん注:「同所」は前の話を受けて「常陸國」を指す。「筑波山」(つくばさん)はここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。標高八百七十七メートル。]

 

○筑波山に、每年五月晦日(みそか)、龍燈を現ず。

 其夜、東海より、遠く、火、來(きた)る。

 夫(それ)に合(あはせ)て、近き山中、又は、池中・澤中よりも、皆、龍燈、現じ來る。數(す)百に及(およぶ)事なり。

「小の月は、廿九日にある。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「龍燈」私のサイト版の南方熊楠の「龍燈に就て」PDF)を見られたい。]

「每年、此夜、人、參詣して見るに、山をこえ、林をうがちて、所々より來る火、螢の如くに集る事。」

とぞ。

 又、筑波山に屬せる加波山(かばさん)と云(いふ)山、有(あり)。此山に、櫻、多し。土人は「かんば櫻」と云(いふ)。

「是、『かには櫻』の事なり。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「加波山」筑波山の北東北のここ。標高七百九メートル。

「かんば櫻」「かには櫻」バラ目バラ科サクラ属サクラ品種カンバザクラ Cerasus × media ‘Kaba-zakura’ があるが、これではなく、加波山に多いのは、一般的なサクラ属ヤマザクラ Cerasus jamasakura である。恐らく「加波櫻」(かばざくら)が訛ったものであろう。因みに、材木名にブナ目カバノキ科カバノキ属カバノキ(タイプ種)Betula pubescens を「カバザクラ」と呼ぶが、無論、全く縁はない。]

 つくばの東の麓に「大御堂(おほみだう)」と云(いふ)有(あり)。坂東覩音の札所なり。其所(そこ)にて順禮の者、うたふ歌に、

「入相の鐘はつくばの名にたちて

    かく夕暮に家ぞ戀しき

と、いへり。是は筑波山に大成(だいなる)鐘(かね)、有(あり)、龍宮より來(きた)る物にて、往古、此鐘を撞(つく)事のありしに、山壑にひゞき、東海より、つなみ、おほく押入(おしいり)、人民、多く溺死せり。かゝる事、兩度迄、有しかば、今は、此かねを地上におろして、長く、つく事を、ゆるさず。誠に大成鐘にて、形も奇異成(なる)物なり。鐘のひゞく時は、龍宮より、

「鐘をとりかへさん。」

とて、かく、津波などは入(いり)たる事のよし、「風土記」にも、しるせり、とぞ。

[やぶちゃん注:「大御堂」現在は護国寺別院筑波山知足院中禅寺大御堂が正式名。真言宗豊山派で、本尊は十一面千手観世音菩薩。坂東三十三観音第二十五番札所。但し、明治初年の忌まわしき「神仏分離」により、一度、廃寺となった。現在は東京都文京区大塚にある真言宗豊山派大本山護国寺別院で、鐘は当時のものではないのだろうが、普通に吊られてあり、普通に打っている。現在位置は筑波山の「東」ではなく、「南西」である。]

 又、筑波山は天竺の靈鷲山(りやうじゆせん)の一峯(いつぽう)、とびきたりて成(なり)たる山成(なる)由。花山法皇、御順禮のついで、御製とていひ傳へたる歌、

「わしの山飛來(き)てこゝにつくばねの

      女神を神へみつきとぞ成(なす)

といふ、此事も「風土記」に見えたり。

 靈鷲山の東西の隅を裂(さき)て、諸神、取來(とりきたつ)て、いざなぎ・いざなみの大神に貢(みつぎ)す、としるしたり、とぞ。

[やぶちゃん注:「靈鷲山」インドのビハール州のほぼ中央に位置する山(この中央附近)で、大乗経典にでは、釈迦が「観無量寿経」や「法華経」を説いたとされる山として知られる。サンスクリット語では「グリドラクータ」、パーリ語では「ギッジャクータ」。

「花山法皇」「御製」和歌集には見当たらない。]

譚海 卷之八 水戶かなさ山明神の祭禮事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。]

 

 譚 海 卷の八

 

 

○天明七年[やぶちゃん注:一七八七年。]、常陸水戶、「かなさ山」の明神、祭禮にあたれり。此祭、七十二年めに、一度、ある事なり。神輿(しんよ)、十里四方、通行故(ゆゑ)、前後七日に及(および)たる大祭禮(だいさいれい)なり。

[やぶちゃん注:『常陸水戶、「かなさ山」の明神』これは後文に出る通り、二つの神社に関わる。現在の茨城県常陸太田市上宮河内町(かみみやかわうちちょう)にある西金砂(かなさ)神社と、同市天下野町(けがのちょう)にある東金砂神社である。ここ(グーグル・マップ・データ)。両神社は孰れも、天下野町の町筋の平地を挟んだ峰の上にあり、二社は直線でも四・七キロメートル以上離れている。因みに言っておくと、「鮑形大明神」と呼ぶが、この二社は全くの内陸山間の中にある。この祭礼は驚くべき距離を経て、海を経由し、西から東の神社へと行われるものである。祭礼のスパンも驚きであるが、この祭礼の移動距離もなかなかに凄い。解説と写真をコンパクトに纏められたものは、「聖地観光研究所 レイラインプロジェクト」のこちらがある。そこに、「金砂山縁起」『によれば、常陸の水木浜に黄金の膚に九つの穴を持つ鮑躰の神様が現れ、これを金砂権現(鮑形大明神)と称して祭ったと言われ、「東金砂山は、東方の浄瑠璃王、衆病悉く除くことを司る如来なり。西金砂山は、南方の能化、大慈悲を持って衆生の満願を主る大士なり。故に両峰の風情、金胎を表して、東西に山を開く」『とある』。『金砂磯出大田楽は、この故事に因んで、内陸にある東西金砂神社を出発した行列が、途中、各地の産土に田楽を奉納しながら』、実に五十キロメートル『あまり離れた日立市の水木浜まで行幸し、ここで新たにご神体を受けて、再び東西金砂神社に戻るというもの。天孫降臨で邇邇芸命を迎えに行った猿田彦命を先頭に、巫女や稚児、金砂の守り神である猿、神楽、獅子、神輿、そして宮司など』五百『人を数える行列が静静と進む』。『古い街道の交通を遮断して、この行列が通り過ぎるのに』一『時間あまり』に及び、『沿道には、たぶん一生に一度の機会を見逃すまいと集まった人たちで賑わっている』とあり、『今までの磯出大田楽の歴史を振り返ると、この祭礼の前後に世界的な天災や飢饉、戦争などが起こっている。平安京の疫病、蒙古襲来、天明の飢饉、世界大恐慌等々、そして、今年のイラク戦争と、大変動が目につく』。『先に紹介した伝説では、水木浜に上がった鮑形大明神をお迎えして大甕の中に潮を満たして安置するのだが、ちょうど』七十二『年が経つ頃に』、『その潮が干上がりかけて異変を引き起こすと言われる』。七十二『年が経ち、新たなご神体を大甕に迎え、新しい潮で満たすと、世界が生まれ変わり、新たな命が育まれると』。『その伝でいけば、今年の祭礼によって混乱している国際情勢は終息に向かい、長い不況であえぐ日本も、そろそろ浮上して、明るい未来に向かっていくのだろうか』。『ところで』、七十二『年という数字はなかなか興味深い数字だ。十干十二支の還暦にさらに十二支をプラスすると』七十二『年』で、六十『年前のことなら』、『記憶している人も多くいるだろうが』、七十二『年となると、そう多くはない。今年の祭礼も、前回のことを記憶している人が少なく、考証し、再現するのに何年もかかったという』。『「天災は忘れた頃にやってくる」という』。されば、七十二『という数字は、人の一生の中で、ちょうど一世代が入れ代わり、前の時代の記憶が薄れるマジックナンバーといえるかもしれない』と興味深い数字の考証を行っておられる。当初、山間地の神社の御神体が鮑というのが、ちょっと奇異に感じたが、古くから鮑は潮の干満を司る「玉」の一つとして民俗社会に知られており、巨大な鮑の怪異譚も多い。されば、この潮の干満を地震等による津波や海嘯と比すなら、大地震のサイクル、及び、東北というロケーションや、それらが襲ってくることはない奥山に祀られていることも、結果、私にはしっくりきた。じっくりと、この祭礼の様子を最初から最後までの様子を見たい方には、YouTubeの「地域文化資産」の「【本編】東金砂神社 磯出大祭礼」がよい。二〇〇三年に定期祭として行われた一部始終の動画である。私などは、もう見られない祭礼の様子を伝えて、見応えがある。但し、全視聴には四十七分かかる。なお、所持する法政大学出版局刊『ものと人間の文化史 62』の矢野憲一著「鮑(あわび)」には、この祭礼の鮑についての考証が載る。しかし、書庫の藻屑となって見出せない。発見したら、追記するつもりだが、幸い、「グーグルブックス」のこちらで、「アワビの神様」の当該部が視認出来る(「37」ページから)。]

 祭禮の事は「東鑑」にも見えたる由。甚(はなはだ)、古風を存(ぞんじ)たる事なり。祭禮の式は神主方(かんぬしかた)に書記(しよき)ありて、古來のまゝに執行(とりおこな)ふなり。

[やぶちゃん注:『祭禮の事は「東鑑」にも見えたる由』とあるが、鎌倉時代には、この祭礼は建暦元(一二一一)年と弘安六(一二六三)年に行われているが、後者は「吾妻鏡」の時制範囲外で、建暦元年分一年全部を見たが、記載はない。或いは、どこかにあるのかも知れないが、私の知り得る箇所では、覚えがない。うに、これは「祭禮の事」ではなく、後部にも出る、西金砂神社直近の「金砂城の戦い」(治承四年十一月四日(一一八〇年十一月二十二日に勃発した金砂城に於ける、源頼朝率いる軍勢と、籠城した常陸佐竹氏との戦い。平安末期の内乱「治承・寿永の乱」の一つに数えられる)が起こった旧「金砂城」のことではないか? それなら、「吾妻鏡」の「第一卷」に経過が載り、「金砂城」「金砂」の語が本文に、三度、登場する。

 水戶家よりも、警固嚴重なる事にて、古來のまゝに入用(いりよう)を省(はぶ)かず、掟(おきて)あるに付(つき)て、其費(そのつひへ)、容易の事にあらず、二、三ケ年以前より、あらかじめ沙汰ある事なり。

 神號は「鮑形大明神」と稱して、應神天皇の朝(てう)に垂跡(すいじやく)す。五穀成就を守り給ふ。神體は、卽(すなはち)、蚫(あはび)にて壺に潮(うしほ)をたゝへ、其中に鎭座有(あり)。

 七十二年めに、神輿の内に納(いれ)て御出(ごしゆつ)あり。

 同國、御貢濱(みつぎはま)といふ所にて、御旅の間(あひだ)、神體を入(いれ)かふるなり。此神體、七十二年まで壺中(こちゆう)に有故(あるゆゑ)、壺中の潮、段々、減じ、祭禮近く成(なり)ては、殊に少(すくな)くなる。

[やぶちゃん注:「御貢濱」これは、先に注で引用した通り、鮑神の接点である日立市水木町(みずきちょう)の水木浜である。金砂神社の南東に当たる。]

 此うしほ、少くなるに付(つき)て、世間、凶年打續(うちつづき)、不熟なり。

 祭禮、濟(すん)で、神體、入(いれ)かはり、新(あらた)に、うしほを、くみかへて滿(みたし)たる間は、豐年成(なる)由を、いひ傳ふ。

 祭日は二月初(はつ)の酉の日を初(はじめ)とす。

 供奉に、兒(ちご)といふもの、廿一人、出づ。天冠をかぶり、花染(はなぞめ)の麻衣)あさごろも)を着て、矛(ほこ)をとり、馬上にて、列す。

 其次に、猿の面をかけて、廿一人、馬上なり。面は、みな、名工のうちたる物なり。

[やぶちゃん注:「猿」これは天孫降臨の際に道案内をしたとされる猿田彦をイメージしたものである。先の長尺版動画でも、そのように解説がなされてある。]

 次に、又、小童(せうどう)五人、赤衣(あかごろも)を着て、供奉す。

 往古は、奉幣使、下向ありし祭禮故、水戶家よりも、殊に執(しふ/しつ)し行(おこなは)る事なり。

 七日の中日にあたりたる日、御貢濱に神輿をとゞめて、一夜、祭禮の神祕ども、有(あり)。

「夜半に、龍神、參詣す。」

と、いへり。

「其夜、海上より神體の『あはび』、うかび來(きた)る。則(すなはち)、取(とり)て、壺に入(いれ)奉り、今までの神輿は、入替(いれかへ)て、海中に歸りまします。」

とぞ。

 神輿御放(しんよおんはなち)の間、田樂のあそびを行ふ。田樂の式(しき)、世上に絕(たえ)て、殘らず。只、

「金沙山(かなさやま)の神職に傳へ殘りたるゆゑ、深祕として、外(そと)へ傳ヘず。」

といふ。

 此祭禮、鎌倉北條の時にもあたりたる由、「東鑑」に見えたり。又、同書に「かなさ山合戰」の事有(あり)。是は、「東金沙山」の事にて、佐竹氏の籠(こもり)たる城なり。

 此蚫形明神のましますは、「西かなさ山」なり。

 往古より兵革を經ず、殘りたる神社なり。

 「常陸風土記」には、金銀をも出せし山の由、しるし有(ある)、とぞ。

[やぶちゃん注:『此祭禮、鎌倉北條の時にもあたりたる由、「東鑑」に見えたり』かくも再び、かく言っているからには、「吾妻鏡」にあるのだろう。発見したら、追記する。

『「常陸風土記」には、金銀をも出せし山の由、しるし有』所持する岩波文庫版や、国立国会図書館デジタルコレクションでも探してみたが、不詳。識者の御教授を乞う。]

譚海 卷之七 官醫池原氏の弟子蛇の祟にあひし事 / 卷の七~了

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。本巻は底本冒頭の竹内利美氏の解題によれば、巻中初出の最新年次を寛政三(一七九一)年とするが、ある論文で、信頼出来る幕府資料の記載に、この五年前の天明六年の記録があり、この「官醫池原氏」のことと思われる幕府奥医師「池原雲洞」の名を見出せた。

 なお、本篇を以って「卷の七」は終っている。]

 

○官醫池原氏の弟子下野(しもつけ)[やぶちゃん注:現在の栃木県。]の者成(なる)が、江戶に久しくありて、老後在所へ歸り住(すみ)けり。在所は日光山の北にあたりたる所にて、山ふかき里なり。

 ある日、せど[やぶちゃん注:「背戶」。家の裏山。]の山へ行(ゆき)たるに、長さ三間[やぶちゃん注:五・四五メートル。]ばかりもあるらんとおぼしき蛇、よこたはりてうごかずして有(あり)。

 母・娘など、大(おほい)に怖(おそれ)て、せんかたなければ、竹にて、蛇のあたりの草を、しづかに、はらひはらひしければ、蛇、やうやく動(うごき)て、山のかたへ行去(ゆきさり)けり。

 其後(そのご)、此蛇、日々、此醫師の家ちかくきたりて、後々(のちのち)には、甚(はなはだ)馴(なれ)たるさまなれば、いよいよ、おそれて、

「何とぞ、此蛇、來たらぬやうに。」

と、修驗者(しゆげんじや)などたのみて、祈禱させなどしたるに、其しるしも、なし。

 ある日、朝、とく、戶を明(あけ)たれば、此蛇、その庭に來りて、緣頰(えんづら)[やぶちゃん注:「緣側」に同じ。]ちかくに、とぐろ卷(まき)て、あり。

 室内、大に驚き、さはぐ時、例の修驗者、門を過(すぎ)ければ、呼入(よびいれ)て、

「何とぞ、守札(まもりふだ)給はれ。」

と、いひしに、修驗者の家にある犬、同じく來(きた)るをみて、修瞼者、犬を呼びて、かけゝれば、犬、やがて、蛇のかたはらにはしり行(ゆき)て、くひつかんさまにて、聲をたてて、しきりに吠(ほえ)ければ、此蛇、首をもたげて、犬をにらまへ、口より息を吐(はき)て、うなりいかるさま、おそろしさ、たとへんかたなし。

 犬は、ますます、うめきほえて、とびかゝらんとす。

 蛇は、犬を、くはんとて、うなりいかるに、後々(あとあと)は、たがひに、息もせず、にらみあひたるまゝにて、勝負、わかたず。

 既に、あした[やぶちゃん注:ここは「朝」の意。]より夕(ゆふべ)に成(なる)まで、かくありければ、家内の者も、修瞼者も、物くふ事もわすれて、まもり見つゝゐしが、あまりに時をうつしたれば、修驗者、庭におり立(たち)、竹を持(もつ)て、蛇の喉(のど)を突(つく)ともなく、少しばかり、竹にて、いろひたるに[やぶちゃん注:いじったところが。]、蛇、あやまたず、たふれて、息たへたるさまなり。

 犬も、同時、たふれてありけるが、死(しせ)ずと、いへり。

 蛇は、かくて、二、三日、置(おき)けるに、色もかはりて、死(しし)たると覺えければ、哀(あはれ)なる事に思ひて、うしろの山に大なる穴を掘(ほり)て、蛇を、うづめ、其上に塚を築(きづき)て、石を、たてておけり。

 其邊(そのあたり)のわかきものをはじめ、修驗者、頭(かしら)とりて、かく、築ける、とぞ。

 蛇は、ながさ二間五尺[やぶちゃん注:五・一五メートル。]あり、もつこに、三つに入れて、運び、うづめしと、なん。

 扨さて)、其程(そのほど)過(すぎ)さず[やぶちゃん注:程無く直ぐに。]、修驗者は胸をやみ、此蛇のくるしむごとく、うめきて終(つひ)に病死せしかば、いよいよ、

『あしき事。』

に、おもひて、夜は、外へ出るものなきほどに、おそれあへりしが、ある日、鄰村より、病人の療治をたのみて、此醫師のもとへきたりしに、

「遠き所なれば、夜に成(なり)ぬべし。此節、夜は通行を恐るゝ事なるうへに、殊に川わたしもありて、夜は、わたし守なければ、行(ゆき)がたき。」

よしを、いひけれど、例のわかきものら、氣の毒におもひ、

「御越(おこい)ありて療治せられば、一人助(たすか)る事に侍る。もし、夜分に及びなば、われら、川ばたまで迎(むかへ)に參りて、わたし守なくとも、舟を出(いだ)し、渡して歸(かへり)給ふやうになすべし。」

と、すゝめければ、

「さらば。」

とて、醫師、行けり。

 扨、いひしごとく、川の邊(あたり)にては、夜に成(なり)しかば、聲を立(たて)て呼(よぶ)に、むかひのきしにも、此わかきものら、待出(まちいで)て、いそぎ、舟を出(いだ)さんとするに、竿、なかりしかば、

「そこら、竹を、もとむる。」

とて、しばし、てうちんを、かたへの家の軒(のき)につりおきけるに、一陣の怪風、

「さ」

と、吹來(ふききた)りて、あやまたず、此火、軒に、もえうつりければ、人々、手まどひ[やぶちゃん注:慌てふためくこと。]をして、

「うちけさん。」

と、しけれど、火、暫時に盛(さかん)に成(なり)て、一村、のこりなく、燒亡に及(および)けり。

 醫師も、此體(てい)を見て、

「舟に乘歸りても、家もやけぬれば、住居(すまい)する所なし。」

とて、病家へ、もどりて、二、三日、とまりてありしに、村のものども、このわかきものらをからめとらへて、醫師の泊り居(を)る病家へ、つれ來り、

「此たびの出火は、全く、此ものどもが所爲にて、其張本は、こゝにある醫師なれば、とらへて、そのよし、代官所へ訴申(うつたへまふす)べし。」

とて、つひに、醫師をも、からめて、失火のしだい、うつたへければ、殘りなく入牢せられ、拷問の上、火をつけし科(とが)に定(さだま)りけるこそ、是非なき次第なり。

 此由を醫師のはゝ、歎悲(なげきかな)しみて、色々に詫(わび)をなし、人を賴み、金子・賄賂等、用(もちひ)ける爲(ため)に、所持の田地をも、殘りなく賣(うり)はらひなどして、やうやうに、

「其科(とが)に、あらざる。」

よしに、定(さだま)り、出牢せしかど、田地もなく、家もやけぬれば、在所に住居(すまい)する事、かなはで、母・娘も、人の許(もと)に奉公する身となり、醫師も又、江戶へ立歸(たちかへり)て、甚(はなはだ)貧窮成(なる)體(てい)にて、さまよひあるきけるを、知(しり)たる人の行(ゆき)あひて、

「いかゞせられし事にや。」

と問ひしに、此醫師、件(くだん)の次第を物がたりして、

「不幸の事にはありけれど、然し、是も彼(かの)蛇の祟に遇(あひ)侍りし故なるべし。」

と、かたりぬるとかや。

2024/02/15

譚海 卷之七 相州つく井の神大蛇祭禮の事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。]

 

○相模國、つく井と云(いふ)所に、大(おほい)なる蛇、あり。其村の神に祭りて、每年六月十八日には、祭禮とて、一村、群集して、にぎはふ。其日、かならず、此蛇、いでて、道にも、よこたふを、人々、集りて、

「蛇殿を、ころばせ、ころばせ、」

と、いひて、かはるがはるに、此蛇を、終日、社頭に、まろばし、もてあそぶ事なり。

 其日、過(すぎ)ぬれば、又、二度(ふたたび)、蛇、出(いづ)る事、なし。

 蛇の大(おほい)さ、かしらは醬油樽の如くなる、とぞ。

 其形も、あはせて、おしはかるべし。

 その祭禮の日は、村のもの、三人、極(きめ)て、役にあたりて、曾我五郞・朝比奈三郞・けはひ坂の少將の眞似をなして、五郞にあたれる人は、木綿衣裳に鎧のごときものを着て、終日、立(たち)てあり。かたへに、朝比奈にあたる人も、くさずりをとらへて、終日、片膝(かたひざ)たてて、あり。少將にあたりたるものは、手ぬぐひを頭(かしら)にまとひ、女(をんな)めきたる裝束(しやうぞく)して、其かたはらに坐し、膝に兩手を置(おき)て終日ある事、いづれも、木偶(でく)[やぶちゃん注:人形。]のごとし、とぞ。

 片山里(かたやまざと)の風俗、おもふに、質朴なる所作(しよさ)といふべし。

[やぶちゃん注:「つく井」現在の相模原市緑区の旧津久井地区。「ひなたGPS」の戦前の地図を参照されたい。一部は人口湖の津久井湖に沈んでいる。ここで「社頭」とある神社は不詳。多様なフレーズでネット検索をかけても、見当たらない。或いは、明治の神社整理で消えたか、或いは、津久井湖に沈んでいる可能性もあろう。なお、後半の「曾我五郞・朝比奈三郞・けはひ坂の少將の眞似をな」すというのは、歌舞伎狂言「壽曾我對面」(ことぶきそがのたいめん)を模したものであろう。延宝四(一六七六)年正月、江戸中村座で初演された初春を寿ぐ祝祭劇である。詳しくは当該ウィキを見られたい。私は文楽好きの歌舞伎嫌いであるので、三人の人物も、そちらに譲る。因みに「けはひ坂の少將」(「化粧坂の少將」)は遊女の通り名である。]

譚海 卷之七 眞言宗の僧盜賊と旅行せし事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。]

 

○眞言宗の僧、江戶に有(あり)けるが、官金二百兩、齎(もたら)し、上京しけるに、品川のほとりより、男壹人道づれに成(なり)て、親しく物がたりなどして、晝は、殊更、夜も同じ宿に泊る事にして、片時(へんじ)、側(かたはら)をはなれず、付(つき)まとひければ、此僧、

『是は。盜人(ぬすつと)なるべし。我等、金子懷中せるを察して、かく、ねんごろにするなるべし。』

と、心に、甚(はなはだ)、うるさく思ひやりて、

『何とぞ、道づれを、避(さけ)ん。』

と、はかりて、ある夜、又、一宿せしに、此僧、ひそかに、忍起(しのびおき)て、しられぬやうに、宿を、にげ出(いで)、

『今は、心やすし。』

と、思ひて、ゆくゆく、夜のあくるほど、松原の末成(すゑなる)茶屋に到(いたり)ければ、此男、いつのほどにか、そこに待居(まちをり)て、詞(ことば)を、かはし、

「今朝は、よくも、すかして御立(おたち)ありけり。和尙の懷中に金子もたせ給ふ事は、いよいよ、しりて侍り。いかにすかし給ふとも、京までは、是非、御供つかふまつるべきを、さのみ、いとひ給ふな。」

と、うちわらひて、又、同じさまに、つれだち行(ゆけ)ば、此僧、

『今は。いかやうにするとも、のがれがたし。ともかくも、佛の御(おん)しるべに、まかせて、ものすべき。』

と、思ひさだめて、そののちは、あへて、いとふ心もなく、同道せしに、ある夜、一宿せしに、外(そと)より、人、來りて、此男を呼聲(よぶこゑ)す。

『扨は、今宵、此ものらにころされぬべきにや。』

と、此僧、いよいよ、おそろしく成(なり)て、ねも、やらず、あるに、此をとこ、何(な)にかあらん、來(きた)る人と、ひそかに、しばらく物がたりして、かへしぬ。

 此男、かへりて入(いり)、ふしたるが、夜中に僧を呼(よび)をこし[やぶちゃん注:ママ。]、

「急用、出來(でき)たれば我(われ)申(まふす)に隨(したがひ)て、いそぎ、こなたに來り給へ。」

とて、此僧の具も、我物をも、ひとつに取(とり)したゝめて、家のうしろより、ひそかににげ出(い)で、竹藪などを分(わけ)つゝ、やうやう、十町[やぶちゃん注:一・〇九一キロメートル。]ばかりも、きぬらんと、おもふとき、

「あれ、御らんぜよ。」

と、此男のいふまゝ、僧、ふりかへりてみれば、ありし宿のかたに、失火ある體(てい)にて、火焰、天をこがし、おびたゞしく燒(やく)るさまなり。

 いよいよ、いかなる事ともしらねど、おそろしさに、いそぎ、道をもとめ行(ゆき)て、其日も、事なくて暮(くれ)つゝ、又、同じ宿(しゆく)に泊りぬ。

 さて、一日、二日、行(ゆき)て、ある夜(よ)、暮(くれ)ふかく成(なる)まで、未(いまだ)、やどりを、とらず、此男、

「しばし、しばし、」

といふまゝに、それにまかせて、くらき松原の間(あひだ)を行(ゆく)ときに、あなたより、いそぎくる馬の鈴の聲(こゑ)、聞ゆるに、此男、僧に、いふやう、

「今宵は、大事のわざ、出來(いでき)たり。こなたへ、おはせ。」

とて、僧を、道より、廿間[やぶちゃん注:三十六・三六メートル。]ばかりへだてたる稻ふち[やぶちゃん注:「稻緣」で「田圃の傍」の意か。或いは「稻淵」で田に水を引く川の淵の謂いか。]の内へ、いざなひ、

「必(かならず)、我等、よびまゐらする迄、こゝに、うごかずして、おはすべし。」

と、いひて、男は、もとの道ヘ、かへるとき、やがて、此馬、近づくとおぼゆるに、あやまたず、てうちんを、うちけし、その跡は、何(な)にか、物音、はしたなく、うちあふやうにて、あやめもわかず、僧、わななき、わななき、聞居(ききをり)たるに、やうやう、ものおとも、しづまりて後(のち)、此男、きたりて、

「こなたへ、おはせ。」

とて、つれだちて行(ゆき)ぬ。

 其夜、あけて、宿にて、きけば、よべ、跡(あと)の宿の松原にて、金飛脚(かねびきやく)のもの、切殺(きりころ)され、同じく、馬士(うまかた)も、ころされつつ、金・荷、とられたるなど、かたるを聞くに、僧、心におもふやうは、

『宵(よひ)、さはがしかりしに、まつたく、此男の、せし事なるべし。』

と、おもふに、肝魂(きもたま)も、うせて、いとど、せんかたなく、

『ともかくも、此男のすべきまゝに、身を、まかすべし。』

と、おもひて、今は何事もあらそはず、いふまゝにして、每日、同道するに、いとよく、此男、世話をなして、つひに京まで恙(つつが)なく着けり。

 京、着(ちゃく)せし其夜、此男、僧に申(まふし)けるは、

「われら事、まことは、海道をはたらく、盜人(ぬすびと)に侍るが、和尚の連(つれ)になし給はりしゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、こゝまで、心安くまいりたり。それがために、しり給ふごとく、道にて兩度迄、よきわざして、金子も思ふさまに得たる事なれば、此禮に、是を奉(たてまつ)る、」

とて、金子二百兩、取出(とりいだし)て、あたへければ、僧、大(おほき)におどろき、種々(しゆじゆ)に、ことわりをのべて、金子をば、返しけり。

「僧のつれにてあるやうに見せしかば、人も心おかで、おもふまゝに、ぬすみなしける。」

と、いひて、かいけちて、うせぬる、とぞ。

[やぶちゃん注:「かいけちて」「搔き消して」の音変化。]

譚海 卷之七 肥前長崎の女かめ鑄物妙工の事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。]

 

○肥前長崎に「かめ」といふは、鑄物(いもの)に高名(かうみやう)の婦人なり。

 西國に諸侯の家に、龍のかたち、鑄(いり)たる香爐あり。名物の什器にて、祕藏せられしが、元來、二つ有りて、一對なりしに、いつの比(ころ)よりか、一つは失(うしなはれ)て所持せられしを、此諸侯、常に殘念に、おもはれ、兼て、「かめ」が錆ものに妙手(めうしゆ)なるを聞及(ききおよば)れ、わざわざ、使者をたてて、「かめ」に命ぜられ、

「此香爐の如く、鑄立(いりたて)て、一雙(いつさう)に成(なる)べきやいなや。」問はせられしかば、「かめ」、此香爐を見て、

「いかにも工夫を凝(こら)しなば、斯(かく)ごとく、鑄立ても、まゐらすべきものなれども、得と[やぶちゃん注:国立国会図書館本で補綴した。]日數(ひかず)をへて、よくよく見さだめ侍らざるうへならでは、成(なし)がたかるべし。」

と答ければ、使者、歸りて、其由を申(まふし)ければ、

「さらば一雙に成(なす)べき事ならんには、日數を費(つひや)さん事、いとふべきにあらず。」

とて、再び、「かめ」が方に件(くだん)の香爐をつかはし、尤(もつとも)什器なれば、片時(かたとき)も手ばなすべき物なられば、香爐持參せしものも、其まゝ、「かめ」が方に逗留して、目付(めつけ)に附居(つきをり)たり。

 扨(さて)、「かめ」、此香爐を側(かたはら)にひらき置(おく)て、朝夕みる事、每日、怠らず、あながち、とりたてゝ見るとはなけれども、手にとりて見、又は、かたへに置(おき)ても見、寢ても見、ふしても、み、斜(なのめ)に、み、眞面(まとも)に見などして、行住座臥に、香爐を見つゝ、日をふる事、一月(ひとつき)あまりにも成(なり)ぬ。

 此(この)附居たる男も、目付の役なれば、側にありて、片時、香爐を、はなるる事なかりしが、あまり退屈して、

「今は、はや、見給ひし日かずも、へぬ。いかに、こゝろに入(いり)たるにや。」

と、いひければ、「かめ」、

「成(なる)ほど、大槪は、日ごろ、見はべりしまゝ、心に得たる所も出來(いでき)ぬれど、なほ、今、しばし、見侍りて、よく、こゝろにうつしとりてぞ、鑄るべきやうも、定めはべらめ。」

とて、又、見る事、日かず、へたり。

 やうやう、又、半月あまりをへて、ある日、「かめ」、此香爐を手にすゑて、緣先に出(いで)、日にむひて、立(たち)ながら見る事、ほどありて、いかゞしたりけん、此香爐を、庭の石にしたゝか擲(なげ)あてければ、あやまたず、香爐、微塵碎(くだけ)うせけり。

 目付の男、是をみて、大(おひい)に、おどろき、いかり、

「かく日頃(ひごろ)、何のやうもなく、香爐、見る事とて、いたづらに、人をあざむき、かくのごとく、くだきつる事、不屆至極(ふどときしごく)なり。我等、目付に附置(つけおか)るゝ事も、大切の香爐の事ゆゑ、是まで滯留せしに、かく、くだきすてて、主人へ申譯(まふしわけ)なし、われら、切腹せん外(ほか)なし。しからば、其方も安穩(あんのん)にいたし差置(さしおき)がたし。」

と、甚(はなはだ)、せまりて、怒(いかり)ければ、「かめ」、申けるは、

「まつたく、おろそかにせし次第ならず。件の香爐は、相違(さうゐ)なく鑄立(いりた)て差上(さしあぐ)べし、それを持參ありて、若(もし)以前の物と相違あらば、其ときは、みづからが、首を切(きり)て、主人へ申譯にし給ふべし。先(まづ)、いかりを、やめて、鑄立(いりたつ)るを待(まち)給(たまふ)べし。」

と、いひければ、此目付、此詞(ことば)に、をれて、せんかたなく、渠(かれ)がするやうを、見居たりけり。

 すなはち、「かめ」は、かへどりを、ぬぎすて、たすきをかけて、土を涅(でつ)し、香爐の「いがた」を、こしらへ、扨(さて)、「ふいご」にむかひ、かれを鎔(とか)し、火を吹(ふき)たて、精神を、はげまし、飮食をわすれて、こしらへければ、半日あまりのほどに、件の香爐、二つまで、出來(しゆつたい)したり。

[やぶちゃん注:「かへどり」は「かいどり」(「かきどり」の音変化)が正しく、「打掛小袖」のこと。着物の裾が地に引かないように、褄や裾を引き上げて着用する小袖を指す。

「土を涅(でつ)し」黒い土で黒色に染めて。]

 其後(そののち)、藥(くすり)をかけ、磨(とぎ)を加へ、香爐一雙に造り終(をはり)て、目付の使者に與(あたへ)けるに、彼、什器の形と、毫釐(がうり)、たがふ所、なし。

 まことに妙手の工に、おどろきけり。

 此男、是をみて、大に悅び、いそぎ、持參して、主人へ奉(たてまつり)けるに、主人も、殊の外、喜悅ありて、「かめ」が妙手段を厚く賞謝せられたり。其後、「かめ」、人に物がたりけるは、

「彼(かの)香爐のまゝに、今一つ、こしらへいでんとしては、いかやうに鑄立ても、一雙に揃(そろ)ふ事は成(なり)がたきものなり。されば、よく、そのかたちを見置(みおき)て、こゝろに入(いれ)て、工夫、整(ととのひ)たる時、心にある形を、鑄(いる)形にして、造りたるゆゑ、一雙には、出來(でき)たるなり。なまじひに、彼(かの)香爐、殘りては、一雙に成(なし)がたき故、碎捨(くだきすて)たる事。」

と、いヘり。

[やぶちゃん注:とても素晴らしい話である。「かめ」女に、思わず、脱帽してしまう。而して、この女性は実在した人物で、朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に「亀女」として載り(コンマを読点に代えた)、『生没年不詳』で、『江戸時代後期の鋳金家。長崎の金物細工屋徳乗の娘。一説に津村氏とも。父の業を継いで唐物風の香炉を作った。豪放な性格で、貧困を厭わず、作品を予約する者があると』、『その予約金で』、『友人を招いて痛飲し、その後』、『制作に向かったという。黄銅製の鶉の香炉が多く伝わる。作品に「鶉香炉」(東京国立博物館蔵)がある』とあった。逢ってみたい粋な姐さんじゃないか!

譚海 卷之七 江戶柴三島町に日蓮上人畫の大黑天を所藏せし事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。]

 

○江戸芝三島町(しばみしまちやう)の要谷堂といへるものの家に、日蓮上人眞蹟の大黑天、有(あり)。

 半紙のはゞほどある紙へ、大黑天、立(たち)て、槌(つち)を振上(ふりあげ)たる下に、寶珠、二、三顆(くわ)、ゑがきて、

「文永二年八月何日日蓮」

と書(かき)て華押(くわおう)、有(あり)。

 此先祖、品川、古道具見世(みせ)にて、僅(わづか)の價(あたひ)に、かひ來り、日蓮眞蹟にて、いよいよ、信仰せしゆゑ、所帶、有福に成(なり)て數(す)千金を、まうけ、今は、雪蹈[やぶちゃん注:底本に「蹈」の右に編者の補正注が『(駄)』とある。「雪駄(せつた)」である。]見世を開(ひらき)て、あり。

 此大黑の繪、有德院公方樣[やぶちゃん注:徳川吉宗。]、御聞(おきき)に達し、

「甲子(かつし)の御年(おんとし)。」[やぶちゃん注:寛保四・延享元(一七四五)年甲子。この翌年、隠居し、大御所となった。]

とて、大黑天、御みづからも、ゑがゝせ、天下に施し給ひしほどの事なれば、召上(めしあげ)られ、しばらく御城(ごじやう)に有(あり)て、上覽相濟(あひすみ)、返し下されける。其時節の寺社奉行連名の御書(ごしよ)を賜(たまは)り、[やぶちゃん注:この時の寺社奉行は松平武元(たけちか)。当時は陸奥国棚倉藩主。]

「日蓮上人眞蹟、大切に致すべき。」

よしの文言をしるされ、奇代の物に成(なり)ける、とぞ。

 今に甲子の日ごとに、其(その)二階に厨司(ずし)[やぶちゃん注:底本に「司」の右に編者の補正注が『(子)』とある。]を出(いだ)し、祭禮す。

「行(ゆき)て拜せん事を乞(こふ)ものあれば、誰(たれ)にも拜さする事。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:幕府将軍家徳川家は公的には宗派は天台宗であるが、家康は、実は元は日蓮宗信者であったし、歴代の将軍の妻や高位の側近にも、日蓮宗の信者が多かった。

「芝三島町」現在の港区芝大門(しばだいもん:グーグル・マップ・データ)。

「要谷堂」店名であろう。「ようこくだう」と読んでおく。

「文永二年」一二六五年。第七代執権北条政村の治世。日蓮は数え四十四歳。当該ウィキによれば、日蓮は前年の『文永元年』の『秋、日蓮は母の病が重篤であることを聞き、母の看病のため、故郷の安房国東条郷片海の故郷に帰った』が、『それを知った東条郷の地頭』『東条景信は日蓮を襲撃する機会を狙った』(これは日蓮が建長五(一二五三)年四月に清澄寺に於いて自己の法華経信仰を説いたが、その中で景信の信仰している念仏宗も住生極楽の教えどころか、無間地獄に陥(おちい)る教えであると批判し、「法華経」のみが成仏の法であると述べたことに怒りを発したためである)。『同年』十一月十一日『夕刻、天津に向かって移動していた日蓮と弟子の一行に対し、東条景信は』、『弓矢や太刀で武装した数百人の手勢をもって襲撃し』、『日蓮は頭』部『に傷を受け、左手を骨折するという重傷を負った』(「小松原の法難」)。この時、『鏡忍房と伝えられる弟子が討ち死にし、急を聞いて駆け付けた工藤吉隆も瀕死の重傷を負い、その傷が原因となって死去した』。十一月十四日、『日蓮は見舞いに訪れた旧師・道善房と再会した』が、『日蓮は』性懲りもなく、『道善房に対し、改めて念仏が地獄の因であると説き、法華経に帰依するよう説いた』。『その後、日蓮は』文永四(一二六七)年まで『房総地域で布教し』、『母の死を見届けて、同年末には鎌倉に戻ったと推定され』ている、とあった。]

譚海 卷之七 播州石の寶殿の事

譚海 卷の七 播州石の寶殿の事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。]

 

○又、播州、「石(いし)の寶殿(はうでん)」とて、まします。

 御影石を、だす、山のふもとのかたそばにあるみやしろにて、御社(みやしろ)のさま、橫ざまに、たふれて、其下には、堀をほりめぐらして、あり。

「此水、汐(しほ)のみちひにしたがひて、たがはず。」

と、いへり。

 高さは、二丈ばかり、戶口は、上のかたに向(むかひ)て、それに年々の土、うづみて、大(だい)成(なる)樹ども、生(おい)しげりて有(あり)。

 橫のながさは、三、四丈もありぬべく、みゆ。

 神代に造られたる賓殿にて、萬葉集に、

 おほなむちすくな彥名のつくれりし

     しづの岩屋はいく代へぬらん

と、よめる所なり、とぞ。

 まことに、いかめしきみやしろなり。

 そこに、あるとし、參詣の人のともなひし、八歲に成(なり)たる子どものよめる歌とて、

 稀にきて又こん事もかたければ

    名殘をしづの石のみやしろ

と。

「をさなきもののよめるには、稀有なる事なり。」

と、人の、物がたりし。

[やぶちゃん注:これについては、私の「諸國里人談卷之二 石寶殿」の私の注を見られたい。リンクで画像が見られる。]

譚海 卷之七 信州某村かたわ車の事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。]

 

○信州某村に「片輪車」と申(まふす)、神、まします。

 此紳神、御出(ごしゆつ)の日は、一村、門戶をとぢ、往來をとゞめて、堅く、見る事を禁ずれば、昔より、いかなる事とも、物がたりするもの、なし。

 ある年、御出の日、その村の一人の女、

『ゆかしき事』[やぶちゃん注:「見たいもの」。]

に、おもひて、ひそかに、戶に穴をうがち、うかゞひしに、遙(はるか)なる所より、車の、きしる音、きこへて、やうやう、その門を過(すぐ)るほどなれば、此女、穴よりうかゞひみしに、誠に、車の輪、ひとつにて、誰(たれ)挽(ひく)人もなきに、めぐりて過(すぐ)る。

 そのうへに、うつくしき女房、一人、乘(のり)たるやうにて有(あり)。

 車の過るまで見て、此女、閨(ねや)へ歸りたれば、先(さき)までありし、いとけなきむすめの、何方(いづかた)へ行(ゆき)たるにや、みえず。

 しばしは、

「はひかくれしにや。」[やぶちゃん注:「這ひ隱れしにや」。]

と、おぼつかなく、まどひしが、所々、さがしても、見へず。

「さては、うせぬるにや。此神のあるきをみぬ事に、いましめたるを、もどきて、うかゞひしゆゑ、神のとり給ひし成(なる)べし。」

と、いひ合(あひ)て、歎(なげく)事、限(かぎり)なし。

 一、二日、過(すぎ)けれど、行方(ゆくへ)しれめば、此女、おもひわびて、その社(やしろ)に、もふでて、あやまちを、くひなげきて、扨(さて)、一首の歌をよみける。

「罪科は我にこそあれ小車の

   やるかたもなき子をなかくしそ」

と、いひて、なくなくありて、歸りなんとするときに、むすめの聲、すれば、ふりかへりて見るに、社頭に、此むすめ、ありしままにて泣居(なきをり)たれば、いとうれしく、かきいだきて歸り來りける、とぞ。

「和歌には、神も、なごみ給ふ事、かしこし。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:この「片輪車」は怪奇談中、枚挙に遑がない。私の最も古いものでは、残虐なカタストロフ・エンドの「諸國百物語卷之一 九 京東洞院かたわ車の事」(挿絵あり)がそれで、以下、「柴田宵曲 續妖異博物館 不思議な車」(漢籍に始まり、以上の本篇も紹介し、そこの私の注で、実は本篇を既に電子化している。他にも同様の本邦のものを注で電子化してある)、「諸國里人談卷之二 片輪車」は甲賀郡をロケーションとした本篇と酷似したハッピー・エンド版、最も新しいのは、前者の新字版の『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「片輪車」』である。]

譚海 卷之七 深草元政上人俗姓の事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。「俗姓」は「ぞくしやう」「ぞくせい」孰れにも読む。

 この「深草元政」(げんせい)「上人」は日蓮宗の僧で漢詩人でもあった日政(元和九(一六二三)年~寛文八(一六六八)年)。当該ウィキによれば、『山城・深草瑞光寺(京都市)』(ここ。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)『を開山した。日政は諱であり』、『俗名は石井元政(もとまさ)』。『京都一条に地下(じげ)官人・石井元好の五男として生まれる。姉は彦根藩主井伊直孝の側室・春光院である』。九『歳の時に建仁寺・大統院に入り、九厳和尚の薫陶を受ける。後に近江・彦根に移り』、十三『歳から城主の井伊直孝に仕える。松永貞徳に和歌も学んだ』。『幼少から山水を愛し、たびたび京都に赴いていたところ、泉涌寺・雲龍院の如周が法華経を講ずるのを聴いて感ずるところあり、病弱なこともあって』慶安二(一六四九)年に『に職を辞し』、『出家して日蓮宗・妙顕寺の日豊について僧となる』。『中正院の日護・本性寺の日徳と交流し、日蓮宗の秘奥を究めた』。明暦元(一六五五)年、三十三『歳で伏見深草に称心庵(後の瑞光寺)を営み、竹葉庵と号し』、『仏道の修行に励んだ。翌年』、七十九『歳になる母の妙種を伴い』、『身延山に参詣し、帰り道に江戸の井伊邸に母を託し、自身は日本橋に宿を取った。甥にあたる井伊直澄は』、『たびたび自分の屋敷に招待したが、日政はそれを固辞し、母を連れて京に帰った。その年に庵のそばに仏殿などを開き、深草山瑞光寺を開山し、法華経修行の道場とし、門下の宜翁を上座としてともに修行した。修行の合間に詩歌を楽しみ、熊沢蕃山・北村季吟など多数の著名人と交友関係があった』。寛文七(一六六七)年に『母の妙種の喪を営み、摂津の高槻にいたり』、『一月あまり留まるが』、『その翌年正月に病を得て、自ら死期を悟って深草に帰』り、『日燈に後事を託して寂』した。『享年』四十六であった。『遺体は称心庵のそばに葬られ、竹三竿を植えて墓標に代えたという。辞世として』、

  鷲の山常にすむてふ峰の月

     かりにあらはれかりにかくれて

『という歌がある』とあった。

 また、彼との悲恋の相手「遊女高尾」については、底本の竹内利美氏の後注に、『吉原最高の遊女「太夫」の代表が「高尾」で、三浦屋の高尾太夫には初代から七代まであったという。しかし、通例いわれている妙心高尾以下、仙台・西条・水谷・浅野・紺屋・榊原の各代いずれも、ここの話には該当しそうもない。自害した高尾などは仙台高尾の斬殺(伝説)を別としてはない。もっとも高尾の考証にも異説が多い。こうした説話も伝えられていたのである』とあった。

 さらに、本話の主人公の主君「掃部頭殿」については、『彦根藩主井伊家で、長寿院の法号をおくられたのは、井伊直該』(いいなおもり:元は直興(なおおき)と称したが、大老に就任した際、改名した。但し、後に前名に戻している)『で、明暦二』(一六五六)『年生、享保二』(一七一七)『年歿。大老職をつとめた』とある実在の人物である。しかし、元政上人の没した年で、彼は未だ数え十三歳であり、元政上人の事績とは一致しない。一致させるなら、同じ掃部頭を名乗った幕府大老相当職(大政参与)も務めた彦根藩第四代藩主井伊直澄(なおすみ 寛永二(一六二五)年~延宝四(一六七六)年:後に甥の直興を養子とした)を比定すべきであろう。但し、最後に注した通り、そこの出る戒名は、直興のものではある。

 なお、この前の二話は、まず、「譚海 卷之五 相州の僧入曉遁世入定せし事 / 卷七 武州河越庵室の僧藏金に執心せし事(カップリング・フライング公開)」で、既に公開しており、後の話は、同じくフライングして、「譚海 卷之七 江戶中橋五りん町にて石中に玉を得し事」で公開してある。]

 

○新吉原土手の道哲(だうてつ)が寺に有(ある)「遊女高尾が墓」は、深草の元政法師(げんせいほふし)が建(たて)ける、とぞ。

[やぶちゃん注:「道哲が寺」「道哲」は浅草新鳥越一丁目(現在の台東区浅草七丁目)の吉原遊廓へ続く「日本堤」の上り口にあった浄土宗弘願山専称院西方寺の俗称。明暦(一六五五年~一六五八年)の頃、「道哲」という道心者が庵を結んだところから、この名がある伝える。吉原の遊女の投込寺として著名である。関東大震災後、豊島区巣鴨に移った。「土手の道哲」とも称した。]

 元政、俗姓は、井伊掃部頭(ゐいかもんのすけ)殿家中、石井半平と云(いふ)者の子にて、吉兵衞といひて、江州彥根に住(すみ)けるが、若(わかki)時は、はいかいの句抔(など)を嗜しみ[やぶちゃん注:ママ。原本の「嗜」(たしな)「み」の誤記であろう。]、主人も、すかるゝ道ゆえ[やぶちゃん注:ママ。]、氣に入(いり)て、段々、江戶の供に具(ぐ)せられ、在番の内、高尾に馴染(なじみ)、したしき中(なか)と成(なり)、

「妻にも、むかへくれよ。」

と、いひけるに、

「我等、部屋住(へやずみ)の事なれば、心にまかせず、家督をも取(とり)なば、又、いかにも謀(はか)るべきかたも、あるべし。」

など、契りし程に、此高尾、外(ほか)の客に受出(うえだ)さるゝ事、定(さだま)りぬれば、人しれず、歎(なげき)て吉兵衞に、

「かゝるよし。」

を物がたりしかば、吉兵衞も、おどろきながら、

「はじめにも、いひし如く、部屋住の身なれば、百兩の才覺も出來ず、せんかたなく、もろともに打(うち)なげき、わかれける時、高尾、又、申(まふし)けるは、

「此月、いついつは、治定(ぢぢやう)[やぶちゃん注:副詞で「必ず・きっと」の意。]、身受(みうけ)の金子、うけ取り、わたし、ある。」

よしなれば、

「必(かならず)、其日に來給ふべし。今生(こんじやう)の別(わかれ)に、今、一度(ひとたび)、逢(あひ)まゐらせたし。わが身(み)事(こと)、外(ほか)へ片付く所存侍らねば、それを思ひ出にて、自害し申し侍るべし。晝のほど、すごさず、かならず、來り給へ。時刻、おそくなりなば、逢(あひ)まゐらする事も、はかりがたし。」

と、くり返しちぎりて、なくなく、わかれぬ。

 吉兵衞、心ならず、あかしくらすほどに、其日に、いたりて、あやにくに、掃部頭殿、客來(きやくらい)あり。元より俳諧の會(くわい)なれば、朝より、吉兵衞を、めされて、御相手にて、主人と、三、四輩、百韻、興行あり。

 されど、吉兵衞、高尾がやく[やぶちゃん注:「約」。]に、そむく事を、心中に、おもひ、わすれぬまゝ、ぜひなく、付句(つけく)はいへども、何をいひけるや、われも、わきまへず、やうやう、滿尾(まんび)にいたり、饗膳なども終(をはり)て、客人、御歸(おかへり)ありければ、夕暮に成(なり)ぬ。吉兵衞、宿所(しゆくしよ)にかへるより、高尾が事、心にかゝりて、

『いそぎ、訪(たづね)ゆかん。』

と、おもへど、便宜、あしければ、ためらふ間、主人、側(そば)のものに申されけるは、

「今日(けふ)の百韻、吉兵衞が句つくり、いつもに引(ひき)かへ、一向、首尾とゝのはず、正體(しやうたい)なき事のみ、いひつゞけたり。渠(かれ)が才發に似合(にあは)ざる仕方(しかた)、何共(なんとも)心得ず、もし、不快にも、ありて、然るにや。なんじ、行(ゆき)て承(うけたまはり)て參るべし。」

と、ありけるまゝ、側のもの、吉兵衞かたに來り、對面して、主人の詞(ことば)を述(のべ)、尋(たづね)けるに、吉兵衞、

「全く、氣分も相(あひ)かはる事、なし。よろしく御前へ申上られ給はるべし。」

と、いひしかば、立歸(たちかへ)り、右の次第を述(のべ)けるに、掃部頭殿、

「いやいや。今日の吉兵衞がやうす、平生(へいぜい)とは、殊の外、相違(さうゐ)なり。何か、心中に苦勞する事などもあり、と見えたり、こゝろ、みだれたるさま、一かたならず。今一度(いちど)、行(ゆき)て、よくよく尋ね參(まゐる)べし。」

と、いはれて、又、側の衆、來り、吉兵衞に主人の口上を、いひ聞せ、深切に尋しかば、吉兵衞、其者にむかひて、

「何をかくし申べき。貴殿も兼てぞんじあり。われら馴染の高尾、心ならず、身請、相すみ、今日(けふ)、相果(あひはて)候に付、われらに、今、一度(ひとたび)逢(あひ)たきよし、約せしかば、是のみ、心にかゝりて、今日は是非、尋(たづね)侍るべしとおもひしに、さしあひて、客來にて、心にもあらず、御相手に召(めさ)れし故、心も落つかず、おのづから、主君の御目にとまるほどの、不埒成(なる)句どもも仕(つか)ふ[やぶちゃん注:ママ。]まつりしならん。」

と、いへば、側のもの、聞(きき)て、大(おほき)におどろき、且(かつ)は、哀(あはれ)を、もよほしける。

 吉兵衞、

「此次第は、御懇意の貴殿故に、物語申なり。御前をば、よきように申させ給へ。」

と、いひて賴(たのみ)、止方(しかた)[やぶちゃん注:ママ。]なき愁傷を、側のものも察し、暇(いとま)乞(こひ)て、立出(たちいで)、又、主人の前へ罷出(まかりで)しが、あまりに氣のどく成(なる)次第ゆゑ、ひそかに右のものがたりを申上ければ、掃部頭殿、聞(きこ)しめされ、

「吉兵衞かたへ急に用事有ㇾ之間、早々、只今、罷出(まかりいづ)べし。」

と仰出(おほせいだ)され、吉兵衞、心得ずながら、出(いで)けるに、早速、御逢(おあひ)ありて、掃部頭殿、仰られけるは、

「今日は、終日、客來にて、其方も、はいかいの相手をいたし、殊外(ことのほか)、氣鬱せしと見得(みえ)たり。今晚、暇を遣すまゝ、何(いづ)かたへも罷越し氣ばらし仕(つかまつ)り罷歸(つままつりかへ)るべし。夜に入(いり)、遲刻(ちこく)に及(および)ても、くるしからず。其段は、役人中(ちゆう)へ申渡し置(おく)べし。是をつかはす間(あひだ)、休息して、參るべし。」

とて、大(だい)成(なる)木枕(きまくら)を賜(たまは)りける。

 吉兵衞、拜受して、心も空(そら)にて、宿所へかへり、枕をみれば、さしふたの箱にて、内に、金子七百兩、あり。

 いとおもひがけぬ事ながら、うれしく、いそぎ提(さげ)て、新吉原三浦屋方(かた)へはしり行(ゆき)けるに、はや、時刻ほど過(すぎ)て、高尾は、あへなく、自害せし由。

 吉兵衞、大(おほき)に歎き、悲泣(ひきふ)すれども、かヘらぬ事なれば、むなしく宿所へ立(たち)かへりぬ。

 此故(このゆゑ)に、吉兵衞、心に入(いり)て、高尾が墓を造立せし、とぞ。

 石塔の上に、地藏菩薩の像一體を、ほり付(つけ)有(あり)。

 今も猶、此墓じるし、そのまゝにて殘りたれど、年曆をへしかば、地藏ぼさつも、みぐしの所は、半缺(はんかけ)落(おち)たるを、又、好事(かうず)のもの、石を継足(つぎた)し、取(とり)つくろひて、つくろへる石には、左右に、「もみぢ」のかたを、一葉(ひとは)づつ、彫付(ほりつけ)たり。

 墓には、

   秋風にもろくもちりし紅葉(もみぢ)哉

といふ、その折の高尾が辭世の句を、吉兵衞、手跡にて、書付(かきつけ)、彫(ほり)たりしが、是も、苔(こけ)むし、風雨にされて[やぶちゃん注:「曝れて」。「長い間、風雨や太陽に晒(さら)されて、色褪せ、朽ちて」の意。]、わづかに、一、二字も見わかつほどなり。

 墓石のうしろに、江州彥根家中、石井氏、建(たつ)るよしを、しるしたりしを、是をば、吉兵衞三代後(のち)の子孫、名を惡(にくみ)て削(けず)り去(さり)し、とぞ。

 扨、翌年、掃部頭殿、國許(くにもと)へ登らるゝとき、吉兵衞も、供にて、江州の番場(ばんば)まで參(まゐり)しに、同所にて晝食のせつ、吉兵衞、直(ぢき)に、主人へ、永(なが)の暇(いとま)を願(ねがひ)ければ、主人も、めを懸(かけ)らるゝものの事、殊に、高尾の事も聞(きき)及ばれぬれば、あはれに存ぜられ、やがて願のままに、暇、賜(たまひ)ぬ。

[やぶちゃん注:「江州の番場」滋賀県米原市番場。]

 やがて、そこにて、吉兵衞、もとゞりを、きりて、出家と成(なり)、「元政」と號し、山城の深草(ふかくさ)に住(ぢゆう)し、法華持經(ほつけぢきやう)の大德(だいとこ)とは成(なり)ける。

 是、則(すなはち)、世にしる所の深草元政(ふかくさげんせい)にて、同所瑞光寺の中興なり。石井氏の子孫は、今もなほ、彥根家中にて、祿千石、賜りて有(あり)。

 其時の掃部頭殿は、長壽院殿と號し、諱(いみな)は□□と申(まふす)御方(おかた)なり、とぞ。

[やぶちゃん注:「其時の掃部頭殿は、長壽院殿と號し」この戒名は直興の戒名「長壽院覺翁知性」ではある。

2024/02/14

譚海 卷之七 因州十六濱の事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。底本の竹内利美氏の後注には、『鳥取県東北の日本海岸。山陰海岸国立公園の一部』とあるのだが、この国立公園はここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)であるが、この「十六濱」に相当する地区は見出せない。「環境省」公式サイト内の「山陰海岸国立公園の見どころ」を見るに、竹内氏の言っているのは、「五色浜」らしいが、ネット検索で「五色浜 十六浜」で調べても、ここを昔、「十六濱」と別称したとする記事は見当たらない。地名の名数は時に時代によって異なることはあるが、「五」と「十六」では、余りに関連性が感じられない。私は嘗つて底本を読んだ際、これは、竹内氏には悪いが、「場所が、全然、違うのではないか?」と疑問を持ったのであった。それは、私が無類の「海藻」フリークであり、「十六島」という全く違う場所の地名を、よく知っていたからである。以下、私の見解を述べる。

 標題の「十六濱」は正しくは「十六島濱」と書き、「うつぷるいはま」(うっぷるいはま)と読むべきものであると考える。さすれば、この「因州」は不審である。そこは「因幡國」ではなく、「出雲國」だからである。津村の本書での記載は、それが遠い地方の場合、その殆んどが、伝聞記載で、自身が行って現認したものではないため、誤りが非常に多いのである。私は、これも、その悪しき一つであると断ずるものである。因みに、この場所は現在の島根県出雲市十六島町(うっぷるいちょう)にある海岸に突出した岬で、大岩石や奇岩が林立し、山陰でも屈指の海岸美を誇る。また、この周辺の独特の食用海藻である「ウルップイノリ」(紅色植物門紅藻亜門ウシケノリ綱ウシケノリ目ウシケノリ科アマノリ属ウップルイノリ Porphyra pseudolinearis )の産地としても知られる。私のサイト版の寺島良安「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」の「うつぷるいのり 十六島苔」を見られたい。

 なお、この前の長い話「譚海 卷之七 俳諧師某備中穢多の所に止宿せし事」は、既にフライング公開している。]

 

〇「因幡國の北の海濱を十六濱と云(いふ)。

濱、十六、山、十六、有(ある)間(あひだ)、人家なき所なり。

 常の陸(りく)街道にあらず、濱道にて、岩をつたひ、浪(なみ)あひを見合(みあはせ)て通ふ道なり。

 北風、强き時は、濱邊の砂を吹立(ふきたて)、暫時に砂山を、なす。甚だ、奇觀なり。

 此濱邊より、隱岐國、近く、みゆ。朝鮮國も、みゆ。朝鮮は、五十里海上、有(あり)。」

といふ。

[やぶちゃん注:「朝鮮國も、みゆ」噓。鳥取でも、島根でも、朝鮮半島は見えません!!!

「五十里海上」百九十六キロメートル强だが、これも噓だ。十六島町からでさえ、三百キロメートルを有意に超える。五色浜からでは、実に五百キロ超である!

譚海 卷之七 駿州富士雲氣にて晴陰をうらなふ事

譚海 卷の七 駿州富士雲氣にて晴陰をうらなふ事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。標題は「駿州」としながら、本文では「伊豆國」と言っているのはママ。駿河国の島北端は伊豆半島の北端と接するが、やはり強い違和感がある。「晴陰」は「せいいん」で、「晴れと曇り」の意。]

 

○伊豆國にて、富士山をみれば、時(とき)有(あり)、て雲の起るにしたがつて、陰晴(いんせい)をうらなふに、よく應ずる事、たがはず。

 まづ、一片の雲、細く、橫に、長く引(ひき)たるが、二筋(ふたすぢ)、空中に現(げん)ずるが、段々、空より降(くだり)て、ふじ山の麓に、一すぢ、かゝり、一すぢは嶺に、かゝる。

 麓にかゝれるは、嶺にある雲よりは、橫、みじかく、此ふたつの雲、上下(うへした)より、のぼりて、山の中腹にして合(がつ)して、ひとつと成(なり)、其とき、雲のうら、黑ければ、

「風の兆(きざし)。」

とし、白ければ、

「雨なり。」

と、さだむ。

 土人の見なれし事にて、

「每度、たがふ事、なし。泰山(たいざん)の雲のいはれも、かゝる事にや。」

と、かたりぬ。

[やぶちゃん注:「泰山の雲」「泰山」は山東省泰安市にあり、高さは最高峰の「玉皇頂」で千五百四十五メートル。封禅の儀式が行われた山として名高く、道教の聖地である五岳の一つだが、「泰山の雲」というのは、雲海のことか。公式の「TBS番組表」の「世界遺産」の「特集 泰山 天空へつづく石の道」の解説に、『泰山は海に近く、峰々が連なっている独特の地形で、湿った空気が峰と峰の間に流れ込むために、低山帯であるにもかかわらず、雲海が発生する』。『雲海の発生にはサイクルがあり、泰山のふもとで気温が』摂氏三十度『以上の炎天下の日が一週間ほど続くと、雲が発達し、やがて』、『一気に大雨が降』り、『その雨の勢いが強いほど、その後』、『雲海が発生しやすくなる』とあった。]

譚海 卷之七 江州に石を嗜人の事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。標題の「嗜人」は敢えて「すくひと」と訓じておく。]

 

○「江州に棊石(ごいし)[やぶちゃん注:この場合は広義の「石」のことである。]を好(この)で名高き心あり。六十餘州の石、ことごとく集(あつめ)貯(たくはへ)ずといふ事、なし。甚(はなはだ)、奇怪成(なる)石、有(あり)。又、石を藏置(をさめおく)簞笥(たんす)、ことに奇成(きなる)製なり。」

と、見し人の、かたりぬ。

[やぶちゃん注:ここでは名を出していないが、これは、私の偏愛する愛石書「雲根志」の作者で、強烈な奇石収集家にして、本草学者であった木内石亭(享保九(一七二五)年~文化五(一八〇八)年)である(底本の竹内氏の後注でも彼としている)。近江国志賀郡下坂本村(現在の滋賀県大津市坂本。グーグル・マップ・データ)生まれ。詳しくは当該ウィキを参照されたい。]

譚海 卷之七 京都六月十九日座頭納涼の事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。

 なお、この前に配された長い話である「譚海 卷之七 武州熊谷農夫妻の事」は、既にフライング公開してある。]

 

○京都座頭の涼みは、四條淸凉院(せいりやうゐん)にて、あり。

 每年六月十九日、檢校(けんげう)・勾當(こうたう)、在京の限(かぎり)、三、四十輩、會集(かいしゆ)するなり。

 床の間に、琵琶、三面を飾る。一(ひとつ)は「靑山(せいざん)」、その餘(よ)は名を忘(わすれ)たり。いづれも、重代の名器なり。

 その前に、壺に酒を入(いれ)て供(きやう)す。「太平の壺」と號す。東照宮より賜りたる壺なり。職(しよく)の檢校、侍者を呼(よん)で、

「『太平の壺』を、ひらきまうせ。」

と云(いふ)。

 侍者、卽(すなはち)、床(ゆか)に就(つい)て、壺をおろし、銚子に、うつし、宴(うたげ)を、もよほす。

 同じく、答ふるに、

「『太平のつぼ』を、ひらきまゐらす。」

といふを以(もつて)す。

 故事なり。

 扨(さて)、職の檢校、「開口(かいこう)」といふ物を、唱ふ。みじかき章(しやう)なり。

 章、終れば、一座の座頭、

「よいちや、よいちや。」

と、ほむる事なり。

 其後(そののち)、勾當をして、「平家」をうたはしむること、琵琶にあはせて、三曲、有(あり)て、事、終(をはる)。

 此宴席、數(す)十金の費用に及(およぶ)事なり。

 每年、恆例にして、絕(たゆ)る事、なし、とぞ。

[やぶちゃん注:「京都座頭の涼み」底本には竹内利美氏の後注があり、『盲人の当道座の行事として、職祖[やぶちゃん注:「しょくそ」。]天夜王子(尊)[やぶちゃん注:「尊」で「あまよのみこと」と読む。]を追福するため、毎年二月十六日在京の検校・勾当・座頭が集って四条河原に積石供養し、また高倉清聚庵[やぶちゃん注:「たかくらせいじゅあん」。京都高倉綾小路にあった、歴代の惣検校の霊を祀った寺。]で平家を語って法会をおこなった(積塔会[やぶちゃん注:「しやくたふゑ(しゃくとうえ)」と読む。])。さらに、毎年六月にも、「座頭の涼み」として同様の法会がおこなわれてきた。その模様をここには伝えている』とあった。

「檢校・勾當」視覚障碍者の上位官位である「盲官」のトップとナンバー・ツー。その下には勾当・座頭などの位階がくる。これを当道制(度)と言う。

「靑山」琵琶の名称。唐(とう)から伝来した名器で、平経正が琵琶の名手であったので、仁和寺の守覚法親王から、一時、下賜されたとされ、「平家物語」の「卷第七」の「經正都落」でその「靑山」を返すシークエンスがある。

「太平の壺」不詳。現存しないようである。

「開口」近世、幕府の大礼能や、本願寺の礼能などの儀式的な演能に於いて、脇能の初めに、ワキの役が新作の祝賀の文句を謡うこと。また、その謡(うたい)を指す

「よいちや」「太平の壺」は、本来は茶壺なのであろう。]

譚海 卷之七 江戶小川町某士山下賣女の家にある事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。「賣女」は「ばいた」。「小川町」は現在の千代田区神田小川町一丁目から三丁目(二丁目はここ)相当で、サイト「江戸町巡り」のこちらによれば、『江戸期は駿河台南側の大名・旗本等の武家地の汎称として用いられ、切絵図にも』「飯田町 駿河台 小川町絵図」『と題して、一帯の武家屋敷を記している』とある。]

 

○小川町に大身の御旗元衆あり。

 その家、早世して、親族の内、家督に願ひ立(たつ)べき人、なし。

 家中、打寄(うちより)、評議しけるに、本所に某といふ御旗元(おはたもと)、小身(しやうしん)なれども、是より外に、家督、願ふべき人なければ、夫(それ)をもとめけるに、此人、小普請入(こぶしんいり)、放蕩にて、居(をる)屋しきも、人に讓(ゆづり)あたへ、本人、住居(すまい)、一向、しれざりければ、家老、内々、手を盡しさがしければ、ひそかに山下(やました)の、其(その)町家に拘(かかは)り人(びと)にてあるよし聞出(ききいだ)し、家老、行(ゆき)て見しかば、山下の君(きみ)を貯(たくはへ)て衒(てら)ふ[やぶちゃん注:ここは「売る」の意。]家にてありければ、此家老、計策を𢌞(まは)し、先(まづ)何心(なにごころ)なく、その家へ、君を買(かひ)に行(ゆき)て數度(すど)にをよび[やぶちゃん注:ママ。]、家内に心をつけて見れば、竃(かまど)に、火焚(たき)て居《を》る、はつぴ着たる男のおもざし、幼少の時、見おぼえある顏なりければ、いよいよ、

『渠(かれ)成(なり)。』

と、こゝろづきて、なを[やぶちゃん注:ママ。]、しげく、君を買に行て、君にも、不慮の金子等あたへ、家内の者へも、おなじく金子などあたへしまゝ、君は、わづかに錢二百文にうる事成(なる)に、かく過分の金子、折々、もらひぬるまゝ、其家にも、

「ことの外、よき客。」

と奔走し、此男も馴近(なれちか)つきて、度々、そばきり・酒肴などの使(つかひ)にも賴み、別懇(べつこん)に成(なり)たり。

[やぶちゃん注:「山下」寛永寺のある上野山の山下であろう。サイト「WANI BOOKS NewsCrunch」の永井義男氏の「上野の猥雑さは昔から? 百以上もの女郎屋が林立していた」の「江戸の男の歓楽街 第3回―山下(前編)―」に、前振りで、『上野公園の下、山のふもとにあった岡場所「山下」。江戸時代、ここには「けころ」と呼ばれる遊女が置かれ、たいそう繁盛したという。女郎屋が百以上軒を連ねたことも』とあり(以下改行を略した)、『江戸時代、山下は江戸でも有数の歓楽街だった。本来、山下一帯は、徳川家の菩提寺である寛永寺への延焼を防ぐための火除地として、空き地になっていた。この空き地に、いざというときはすみやかに取り払うという条件のもと、幕府は簡易な建物、いわば仮設店舗を建てるのを許可した。これにともない、歓楽街・山下が生まれた』。『茶屋や芝居小屋、見世物小屋、楊弓場(ようきゅうば)などが立ち並び、多くの人が集まった。やがて、山下は岡場所としても有名になる。いつしか、「けころ」と呼ばれる遊女を置いた女郎屋が林立したのだ』。「頃日全書」(宝暦八(一七五八)年刊)に、『次のような事件が記されている。宝暦八年』『六月二十日は八代将軍吉宗の命日にあたり、九代将軍家重や諸大名が寛永寺に参詣した。町奉行の依田政次も多数を率いて御成道の警備にあたっていたが、たまたま駕籠が山下に入り込んでしまった。依田が駕籠の中から見ると、多くのけころが道行く男に声をかけている。奉行所に戻った依田は、部下に厳命した。「今日は上様の御成日なので、遠慮すべきであるのに、山下の遊女どもの振る舞いは言語道断である。女郎屋は打ちこわし、女はすべて召し取れ」』となし、『翌二十一日、奉行所の役人が出動して、数十人のけころを召し取るという騒ぎになった。女郎屋の主人はみな、手鎖に処された。しかし、岡場所そのものは廃止にはならなかったので、けころはすぐに復活した』とある。(以下は「2」)『けころの最盛期は安永~天明期』(一七七二年~一七九九年)『で、女郎屋は合わせて百七軒あった。享保から文化までの江戸の風俗を記した』「続飛鳥川」に『――けころ、寛政の頃まで、上野山下など、大通りをはじめ、横町横町門並に有り、一軒に両人位づつ見世を張り、前だれ姿にて、大かたは眉毛有、年増もあり、いづれも美婦計りなり。白昼に見世を張、入口より三尺計奥に居る故、拵へものはなし、此外所々に夥しく有り、代弐百銅、夜四ツ時よりとまり客を取、食物なしに金弐朱』、『とあり、多数のけころがいたのがわかる。一軒の女郎屋に二、三人のけころがいて、入口付近で顔見せをしていたが、美人ぞろいだった。揚代は二百文。夜四ツ(午後十時頃)から、泊まり客を受け入れたが、揚代は食事なしで金二朱だった。また』、「塵塚談」(小川顕道著・文化一一(一八一四)年『にも、けころについて――是も一間の家に弐三人ヅツ限りに、出居る事也、花費は弐百文ヅツにて、いづれも美容貌を選び出したり』、『とあり、一軒の女郎屋に二、三人のけころを置いていた。花費は揚代のことで、二百文だった。また、いずれも美貌ぞろいだった』と『いう』とあった。]

 あるたそかれ過(すぎ)、又、此家老、きたり、

「其男や、ある。」

と呼出(よびいだ)しければ、此男、何心なく出(いで)あい[やぶちゃん注:ママ。]けるを、門に呼出し、そのまゝかつがせ來(きた)乘物へ押入(おしいれ)、外より繩にて八重(やへ)十文字にからげたるやうにして、小川町の屋敷へ連れ歸り、扨(さて)、其後(そののち)、公儀へ、ねがひて、家督に定(さだめ)ける、とぞ。

 君の家には、其後(そののち)、家老も來らざれば、

「いかなる事にや。」

と、ふしんを、たて、又抱り人(びと)[やぶちゃん注:底本には「抱」の右に補正注で『(掛)』とある。全体で「居候」の意。]の男も、其まゝに見えざれば、あやしみおもふ事かぎりなけれど、元來、人別(にんべつ)にも、しるさぬ男なれば、殊更、訴出(うつたふ)べき樣(やう)もなく、年月を過(すぎ)ける。

 扨、四、五年過(すぎ)て、此君を、たくはひし家の亭主、小川町の其屋敷より、

「賴度(たのみたき)用事、有(あり)。」

とて、招來(まねきき)ければ、亭主、心得ずながら、行(ゆき)見るに、役人、出逢(いであひ)て、

「此度(このたび)、手前、長屋はじめ、新築、有(あり)。『此ふしん、其方(そのはう)へ、ひとへに賴申度(たのみまふしたき)。』よし、主人、申付(まふしつけ)られぬるまゝ、招(まねき)たる。」

と、いひければ、亭主、

『ふしぎなる事。』

に、おもひ、

「拙者、ふしん等の事は、一向、不案内。」

の、よし、辭しけれども、役人、

「とかく其所(そのこところ)は、此方(このはう)にていか樣(やう)とも相(あひ)はからひ申(まふす)ベき間(あひだい)、承知の請(うけ)、致しくれ。」

とて、卽刻、出入の大工を呼(よび)につかはし、亭主に見參(けんざん)させける。

 大工、申(まふし)けるは、

「拙者事、久敷(ひさしく)此御屋しき出入(でいり)のものに候ヘども、此度(このたび)御ふしんの事は、其許樣(そこもとさま)へ御賴(おたのみ)なされる譯(わけ)、有ㇾ之(これある)由(よし)、よんどころなき事に承及候(うけたまはりおよびさふらふ)。」

と、いひければ、亭主、いづれにも、かやうの事、不案内に候へ共(ども)、達(たつ)て御賴(おたのみ)の事に候得(さふらえ)ば御請(おうけ)申しぬ。此うへは、よろしく、御賴申す。」

と、いひければ、大工、かねて、つもり置(おき)たる注文書、亭主へ見せ、

「此上百兩も御增(おんまし)直段(ねだん)書被ㇾ成(かきなされ)、可被差出[やぶちゃん注:返り点はママ。ここは「可ㇾ被差出」でなくてはおかしい。「刺し出ださるべし」である。]。其上は、拙者、うけ合い[やぶちゃん注:ママ。]、かやうとも、出來(しゆつたい)いたすやうに御世話可ㇾ仕(つまつるべし)。」

旨(むね)、申ければ、大工、相談の上、直段書付、差出(さしいだ)しけるに、屋敷にて披見の上、又、亭主を呼(よび)に來り、

「先日被差出候普請注文書付、餘り、下直(げぢき)成(なる)。」

由(よし)、主人申され候間(さふらふあひだ)、

「此直段のうへ相(あひ)增可ㇾ被差出旨申候間、增直段(ましねだん)いたし、指出(さしいだ)しけるに、度々(たびたび)、

「それにても下直成(なる)。」

よしにて、終(をは)りには二千金も相增たる直段にて、普請の事、いひ付られ、首尾好(よく)、造作出來して、此亭主、存(ぞんじ)もよらぬ金子、德付(とくづき)たれば、返す返す、

『ふしん。』

に思ひたるに、屋敷より、

「普請、よろしく出來いたし、主人も滿足におもはれ候。夫(それ)に付(つき)、此末(このすゑ)出入(でいり)いたすやう。」

に云付(いひつけ)られ、彼是、用事等、聞(きき)て、二、三年、經て後(のち)、主人、逢(あひ)けるに、亭主、よく見れば、先年、わが方(はう)に抱り人[やぶちゃん注:同前で「掛り人」。]に居(をり)たる男の、かく、殿になりてありつれば、大(おほい)におどろき、思惟するに、

『普請、莫大の直段にて、いひ付(つけ)られたるも、此報恩の爲(ため)にこそ。』

と、はじめて、おもひ、はかられたり、とぞ。

[やぶちゃん注:根本的に、冒頭で激しい疑問がある話である。「その家、早世して、親族の内、家督に願ひ立(たつ)べき人、なし」と言っている点である。後継者がなく、当該人が「早世」している場合、最後の切り札は死に際して、当時の法的には、末期養子にする方法しかない。死んでしまったのを、未だ生きていることにして、早急にそれを行うことはあったが、「早世」という謂いは、明らかに時間の経緯が有意にある印象を与えるからである。ちょっと、おかしい。末期養子が間に合わず、改易されたケースはごまんとある。後半、継いだ家がかなりの大金を持っていたことが判ることから、どうも、裏で金で誤魔化したもののように見受けられる。]

譚海 卷之七 同國熱海大瀨明神の事 附天木山絕景世家の漁師ある事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。「同國」は前の前の記事と、前の記事を受けたもので、「豆州」であり、「天木山」は「天城山」が正しい。「世家」は「せいか」で、一定の地位や俸禄を世襲していた家柄及び、その名家の家系を記録したものを意味する。]

 

○同國熱海の南に大瀨(おほせ)と云(いふ)所有(あり)。海上へ、三十町、さし出(いで)て、幅三、四町[やぶちゃん注:三百二十七~四百三十六メートル。]ほどある崎なり。

[やぶちゃん注:「同國熱海の南に大瀨と云所有」これは正確には「西」或いは「西南西」で、西伊豆の静岡県沼津市西浦江梨(えなし)の大瀬崎(グーグル・マップ・データ。以下同じ)のことである。]

 そのとまりに、「大瀨大明神」といふ社(やしろ)、有(あり)。

「威靈(ゐれい)なる事にて、其出島の、石にても、草木にても、持歸(もちかへ)れば、祟らせ給ふ。」

とて、甚(はなはだ)、愼(つつしみ)て、侵(おか)すもの、なし。

[やぶちゃん注:「大瀨大明神」現在の大瀬神社。大瀬崎の先端部にある。]

 其邊(そのあたり)、「柏(びやく)しん」の樹、多くて、二(ふた)かゝへ、三かゝへなる物、有(あり)。

[やぶちゃん注:「柏しん」「柏槇」(びゃくしん)で、裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ビャクシン属 Juniperus「大瀬崎のビャクシン樹林」や、「大瀬神社 御神木」(同種)が確認出来るが、ここのビャクシンはビャクシン属Juniperus 節イブキ栽培品種カイヅカイブキJuniperus chinensis 'Kaizuka'と思われる。同属は低木に分類されるものの、大樹となり(最大高二十メートル)、しかも幹が捩じれ、樹皮が縦長に裂けて薄く剝がれる。これが自らの内実を裂いて成長するように見えることから、禅宗の寺院に好んで植えられてあるのを、よく見かける。]

 社前に、又、淸水(しみづ)わき出(いづ)る所、有(あり)、至而(いたつて)、淸冷(せいれい)なり。潮(しほ)の氣(け)、絕(たえ)てなき事を奇異なる事に、いへり。丹後「天の橋立」にも、松原の中に、淸水、出(いづ)る所有(あり)。地脈のゆゑによる事、はかりがたき事なり。

[やぶちゃん注:これは、「大瀬明神の神池」である。当該ウィキによれば、『大瀬崎の先端にある、最長部の直径がおよそ』百『メートルほどの池で』、『伊豆七不思議の一つ』に数えられている。『国の天然記念物である「ビャクシンの樹林」に囲まれてはいるものの、海から最も近いところでは距離が』二十『メートルほど、標高も』一『メートルほどしかなく、海が荒れた日には』、『海水が吹き込むにもかかわらず』、『淡水池であり、コイやフナ、ナマズなどの淡水魚が多数』、『生息している』。『駿河湾を挟んで北方およそ』五十『キロメートルの富士山から伏流水が湧き出ている、などとする説もある一方、海水面の上下に従って水面の高さが変わるとも言われており、何故淡水池であるかは明らかにされていない。神域であり、古くから池を調べたり』、『魚や動植物を獲ったりする者には祟りがあるとされてきた。また実際に』、『池の水が層状に分かれていた場合などに』、『機材や人などが池に入ると』、『取り返しのつかない環境破壊となる恐れが強いこと、透明度が低く』、『池の底の観察が難しいと考えられること、などから』、『今もって詳しい調査はなされておらず、水深すら不明である』とある。私は静かな西伊豆が好きで、かなりの回数、旅しているが、未だここは訪れていない。]

 此邊(このあたり)、絕景にして、漁獵(ぎよれふ)の舟、常に、つどふ所なれば、伊豆の人、往々、遊山して、海味(かいみ)を、卽(そく)、そこにて、調理して、くらふ。賞翫、いはんかたなし、とぞ。

 又、同國天木山(あまぎさん)も秀麗なる山なり。東海道の駅路、絕頂より眞下に、みゆ。行先は濱松の邊(あたり)までも、見とほさるれども、遠所(ゑんしよ)は目力(めぢから)およばず、蒼茫として、わかちがたし。駿州さつた・田子の浦邊は、手にとるやうに見ゆるなり。

[やぶちゃん注:天城山は静岡県賀茂郡東伊豆町のここ。私は、恐らく、六度以上、峠越えをしている。

「駿州さつた」現在の静岡県静岡市清水区由比西倉澤にある薩埵峠

「田子の浦」歌枕として知られるそれは、現在の静岡県富士市のここ附近。]

 又、同國「かく山」といふところよりは、いにしへ、うしほを、くみて、内裏の藥院に奉れるよし。その折の御製とて、かしこに、いひつたふる歌とは、

「かく山のふもとのうしほ藥にも

    いたとはいふぞ内裏ことばに」

[やぶちゃん注:国立国会図書館本では、「た」の右に『しイ』(「イ」は異文の意)とあるが、これは前の「い」のそれであろう。]

と、よみて玉(たま)はせしよし、いへり。

[やぶちゃん注:「かく山」静岡県富士市今井にある「天(あま)の香久山(かぐやま)砦跡地」ぐらいしか、浮ばない。この「御製」とするもの、文献にはないようである。私は短歌嫌いなので、いい加減、調べるのに疲れた。悪しからず。]

 同所諸郡に、世家の農夫、おほし。東照宮御滯留ありしものの家、二軒あり、いづれも漁獵、無年貢にて、其船には「御免」といふ文字を書(かき)たる「のぼり」さして、往來すと云(いふ)。

 世家の農(のう)、持高(もちだか)によりて、高下(かうげ)もさまざま有(あり)。

 世家は、今時(こんじ)衰(おとろ)ふといへ共(ども)、敢て、賤民、抗(こう)せず、尊敬する事、主君の如し。もし、その同列に備(くはは)らんとすれば、世家の内にて、家、絕(たえ)たるを、「つぶれ株」といふ物有(あり)、其「潰れ株」を買(かひ)て、住居(すまい)すれば、世家の農と、まじはりを、ひとしくせらるるなり、とぞ。

譚海 卷之七 同國天木江川太郞左衞門宅の事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。「同國」は前の記事を受けたもので、「豆州」であり、「天木」は「天城」が正しい。]

 

○伊豆天木に江川太郞左衞門と云(いふ)は古き家にて、代々、そこの御代官にして、血脈(けちみやく)、今に、たえず相續有(あひつづきあり)。

 その住居(すまい)の棟札(むねふだ)[やぶちゃん注:]は日蓮上人の筆にて、今、六百年まで燒亡せざる家なり、とぞ。

[やぶちゃん注:「江川太郞左衞門」詳しい当該ウィキがあるので、参照されたいが、そこに、『伊豆国田方郡韮山(静岡県伊豆の国市韮山町)』(ここ。江川邸(韮山役所跡)として残る。グーグル・マップ・データ)『を本拠とした江戸幕府の世襲代官である。太郎左衛門とは江川家の代々の当主の通称である。中でも』第三十六『代の江川英龍』(えがわひでたつ:当該ウィキあり)『が著名である』とあるが、「譚海」の執筆時は、その前代の第三十五代で武士の江川英毅(ひでたけ 明和七(一七七〇)年~天保五(一八三四)年)で、講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」によれば、江川英征(ひでゆき)の子で、江川英龍の父。寛政三(一七九一)年、伊豆韮山代官職と第三十五代太郎左衛門を継いだ。新田開発・植林などに勤め、儒者として知られた朝川善庵や、朱子学者柴野栗山(りつざん)らと交遊があった文化人でもあった。

「棟札」(「むなふだ」とも呼ぶ)は寺社・民家など建物の建築・修築の記録・記念・所縁明記として、棟木・梁等の建物内部の高所に取り付けた札。]

譚海 卷之七 豆州南海八丈島風俗の事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。]

 

○八丈島は伊豆海邊(かいへん)より、船路七十里なり。

 島の周圍十六里にて、其中央に、山、有(あり)。山の廣さ、島を三分にして一ほどなり。

 その餘(よ)、人家等にて、千軒ほど、あり。田は漸(やうやう)二萬石程有(あり)。其餘は、畑のみなり。

 人の食、米穀、少き故、麥五合を、一日、十人の食に充(あて)、其麥ヘ「八丈草(はちじやうさう)」と云(いふ)物の菜、「あざみ」の葉などを、まぜて、蒸(むし)て、くふなり。

 女は、織物にのみ、かゝりて、是をもちて、年貢とするゆゑ、男は、耕作にのみ、かゝりて居(を)る。女は白晢(はくせき)[やぶちゃん注:膚が白いこと。]にて、髮、至(いたつ)て長く、立(たち)てありくに、地に、ひくなり。それを、四つに折疊(をりたたみ)て、背中へ、かづきて、所作をする事なり。

 船着(ふなつき)、至(いたつ)て、あしければ、船着(ふねつく)時(とき)は、陸へ引上(ひきあげ)ておく故、大船は、かよふ事、叶はず。

 島ぶね、長さ九間[やぶちゃん注:十六・三六二メートル。]、幅三間[やぶちゃん注:五・四五四メートル。]を最(もつとも)第一の大舟(おほぶね)とす。

 江戶より極星(きよくせい)[やぶちゃん注:北極星。]二度(にど)を、たがふ故、春・夏・秋のみ、三季の國にて、冬、なし。雪、ふらず。

 山歸來(さんきらい)、至て、よし。肉桂もあれど、是は下品なり。

 陣屋、有(あり)、吏(り)、官[やぶちゃん注:底本では「官」に右補正傍注をして『客』とある。]に居(をり)て[やぶちゃん注:「客扱いとして在勤し」か。]、萬事を奉行す。

 古へ、久敷(ひさしく)往來をせぬ國にて、年貢等を出(いだ)し、附庸(ふよう)[やぶちゃん注:本邦に従属し、その保護及び支配を受けている存在。]と成(なり)たるは、小田原北條氏より此かたの事なり。

 八丈島、くろき糸は、田澁(たしぶ)[やぶちゃん注:田の水あか。田の水錆(みずさび)。]にひたし置(おき)て、數日(すじつ)有(あり)て取出(とりいだ)せば、染(そま)るなり。黃色は「八丈草」を、くだき、其汁にて、そむる、とぞ。

 女は、淫(みだら)にして、夫を持(もた)ざる以前に產するもの、儘(まま)、有(あり)。是(これ)を、「偏五郞」と唱(となへ)て、家ごとに育(いく)す。

「『野合郞(やがふらう)』といふ心なるべし。」

と、いへり。

 寬政三年[やぶちゃん注:一七九一年。]夏、官醫田村元長(げんちやう)、採藥御用にて渡海し、六十日、彼(かの)島に在留せし事、有(あり)。

[やぶちゃん注:「八丈草」セリ目セリ科シシウド属アシタバ Angelica keiskei の異名。当該ウィキによれば、『和名アシタバ(明日葉)の名は、強靱で発育が早く、「今日、葉を摘んでも明日には芽が出る」と形容されるほど』、『生命力が旺盛であることに由来する』とあり、『日本原産で、関東地方以西の南部、房総半島から紀伊半島南部(太平洋側)と伊豆諸島・小笠原諸島の太平洋岸に自生する』。『伊豆諸島・伊豆半島・三浦半島および房総半島の個体は、古くから自生している個体であるが、紀伊半島の個体は近年紀伊大島に移植された株である』とあり、『野菜としてアシタバが常食される八丈島は、産地として有名なことからハチジョウソウ(八丈草)の名でも呼ばれている』。『特産地の八丈島や伊豆諸島では昔から若い茎葉が食べられていたが、高い栄養価と滋養強壮効果が健康野菜として注目されて、市場にも流通するようになった』。『セリ科』Apiaceae『植物特有の香りと』、『ほのかな苦味があり、お浸しや汁の実、天ぷらなどに使われる』。『古くから薬効がある山野草として利用されてきた』歴史があり、『アシタバが利用されていた古い記録は江戸時代までさかのぼり』、貝原益軒の「大和本草」(宝永六(一七〇九)年)には、『「八丈島の民は多く植えて朝夕の糧にする」との記載が見られ』、「八丈物産誌」(寛延四・宝暦元(一七五一)年)には『栽培・収穫方法についての記述が残されている』とある。「大和本草」の記載は、二箇所あり、一つ目はウィキの言っているのは、本文立項のもので、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの板本で当該部が視認出来る。「鹹草(アシタ)」である。二つ目は右丁二行目の「鹹草(カンサウ)」がそれ。同前でこちら。それらを読むと。「本草綱目」や「文獻通考」で八丈島を「女國」と称しているのが、興味深い。

「あざみ」キク目キク科アザミ亜科アザミ連アザミ属 Cirsium の総称。アザミの若葉は食用とされ、下茹でしたりして、種々の料理に使う。そのまま天ぷらにしてもとても美味い。なお、あまり知られているとは思われないので次いでに言っておくと、「山牛蒡の漬物」として販売され、寿司屋等で呼ぶそれは、真正のヤマゴボウ(双子葉植物綱ナデシコ目ヤマゴボウ科ヤマゴボウ属ヤマゴボウ Phytolacca acinosa 。葉は食用になるが、有毒植物である)ではなく、キク目キク科アザミ属モリアザミ(森薊)Cirsium dipsacolepis・オニアザミ(鬼薊)Cirsium borealinipponense・キク科ヤマボクチ属オヤマボクチ(雄山火口)Synurus pungens の根である。

「山歸來」本来は生薬(地下の根茎を利尿・解熱・解毒薬として用いる)知られる単子葉植物綱ユリ目サルトリイバラ科シオデ属ドブクリョウ Smilax glabra のことを指すが、これは本邦に自生せず(中国・インドシナ・インドに分布)、ここでは同じように生薬として用いられる本邦にも産するシオデ属サルトリイバラ Smilax china の別名である。ウィキの「サルトリイバラ」を参照されたい。グーグル画像検索「Smilax chinaも併せてリンクしておく。前者リンクによれば、『薬用』として『秋に掘り上げて日干し乾燥させた根茎は薬用に使われ、利尿、解毒、皮膚病に効果があり、リウマチの体質改善に役立つと考えられてきた』。『漢方では菝葜(ばつかつ)とよんで、膀胱炎や腫れ物に治療薬として使われる』。『民間療法として、おでき、にきび、腫れ物などに、乾燥根茎』を『服用する用法が知られている』とあり、『食用』の項には、『若葉は』五~六『月、果実は』十~十一『月ころに採取し、食用にできる』。『若葉は』、『くせがなく、軽く茹でて』、『水にさらし、おひたしや和え物、炒め物などに調理される』。『赤い果実は、そのまま生食したり、焼酎に果糖を加えて漬け込んで果実酒にもできる』。『四国地方などの西日本の地域では、葉で菓子や柏餅を包む風習もある』。『紀州や中勢地域などでは、サルトリイバラの葉で包むので柏餅とはよばず、五郎四郎餅』や、「いばらまんじゅう」と『よばれる。かつては、葉を乾燥させてお茶代わりに飲んだり、タバコに混ぜたりしたといわれる』ともあった。

「肉桂」先の「譚海 卷の七 江戶源兵衞店水戶家藏屋敷肉桂の事」を参照されたい。

『夫を持ざる以前に產するもの、儘、有。是を、「偏五郞」と唱て、家ごとに育す』これは、ここに限ったことではなく、当時の日本の民俗社会では普通に行われた風習である。運命共同体たる村落集団では当たり前のことであった。嬰児放棄や子殺しの蔓延している現代の方が、遙かに野蛮である。

「田村元長」(元文四(一七三九)年~寛政五(一七九三)年)は幕医で本草家。名は善之、号は西湖。同職であった日本最初の「物産会」を平賀源内らと開いたことで知られる田村藍水の長男。優れた博物学者であった栗本丹州の兄。江戸生まれ。ここに記された伊豆諸島での薬草採集は、後に博物誌「豆州諸島物產圖說」に結実した。]

2024/02/13

譚海 卷之七 上總國某寺に樹下に木の子生たる事 附鮹魚梅酢毒する事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。「木の子」は茸(きのこ)のことで、「生たる」は「はえたる」と訓じておく。「附」は「つけたり」、「鮹魚」は二字で「たこ」。]

 

○上總の國、ある寺の山に、あやしき「きの子」、生たり。

 寺の僕(しもべ)、採りて、物(もの)に入置(いれおき)たりしに、夜中、殊外(ことのほか)、光、ありて見えしかば、皆々、あやしみをなせしに、住持、聞(きき)て、

「夜(よる)ひかる「きの子」には、必(かならず)、毒あり。かまへて、食(しよく)すべからず。」

と制して、棄(すて)させける。

 翌日、又、同じ所に、かたの如くの「きの子」、生(しやう)じありしかば、いよいよ、怪(あやし)みて、心を付(つけ)て、せんさくせしに、其側(そのそば)の樹の枝に、大(おほい)なる「くちなは」[やぶちゃん注:蛇。]、死して、枝に、かゝり有(あり)。

「さては。此死(しし)たる蛇[やぶちゃん注:底本ではここに補正注で『(の)』とある。血だけではなく、腐れた肉の体液などを含めたものであろう。]したゝりより、生じけるこそ、かしこく、食さゞりける。食しなば、いかなる禍(わざはひ)にかゝるべきも、しらず。」

と、皆々、恐れあひし、とぞ。

 又、江戶にて、ある垣(かき)にて、人々、日々、蹴鞠(けまり)せしに、ある日ことに、あつかりしかば、

「一盃、くむべし。」

とて、休(やすみ)たるに、料理人、「たこ」の足の煮たるに、折節、有合(ありあは)せつる梅漬(うめづけ)の酢を、かけて、出(いだ)したり。

 殊に、うつくしく、紅に、はへ[やぶちゃん注:ママ。「映ゆ」で「はえ」でよい。]ければ、人々、興じて、

「是は、よき趣向をせしなり。先一(さきいち)より[やぶちゃん注:まずは最初に。]、まりをけてのち、酒、吞(のむ)べし。」

と云(いひ)て、又、垣に入(いり)、鞠、終(をはり)て、

「已前の肴(さかな)は。」

とて、蓋(ふた)を明(あけ)たれば、此「たこ」の足、殊外、大きく成(なり)て、さながら、すさまじく見得(みう)ければ、あやしみて、指にて、いろひ[やぶちゃん注:「弄(いろ)ふ・綺ふ」で「いじる」の意。]みるに、此「たこ」、石・くろがねを、いろふ如く、甚(はなはだ)かたく成(なり)て、中々は、のたつ[やぶちゃん注:「のたくる」で「体をうねくねらせて動く」ことで膨れるの意か。いやいや、タコは普通にそうしましがねぇ?]べき物とも覺えざりしかば、大(おほい)に驚き、

「此(こ)は、たこに酢(す)の氣(き)、きん物(もつ)なる故、如ㇾ此(かくのごとく)、大きくふくれたるべし。先程、そのまゝくひたらましかば、いかなるどくにも、あたりつべき事、しれがたし。くはずして、又、一(いち)より、まりけし[やぶちゃん注:「し」は過去の助動詞。]によりて、ふしぎに、いのち、ひろひたる事。」

と、をのゝきて、やかて、そのたこを、鼠壤(そじやう)[やぶちゃん注:細かな土。]へ、すてさせしに、日をふるほど、放前(はなつまへ)の形の、一倍に、ふえて、すさまじき事、いふばかりなし。

「かく、數日(すじつ)、ふれど、犬・猫のたぐひも、あへて、くらふ事、なければ、どく、有(ある)事、しられぬ。」

と、かたりつ。

「『「うなぎ」に酢を「どく」。』と、いひしが、鮹(たこ)などにも、『す』は、『どく』成(なる)事、はたして、しられたり。但(ただし)、穀汁(こくじる)にて製したる「す」は、猶、さまでに、あらねども、梅、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、『しどみ』などの木(こ)の實(み)より、自然にとりたる『す』は、魚肉に和(わ)して、『毒』となる事、殊に甚し。」

とぞ。

「取肴(とりざかな)などに、『うなぎのかばやき』に、梅漬の物など、盛合(もりあはせ)て出(いだ)す事、まゝ有(ある)事なれど、用心すべき事なる。」

とぞ。

[やぶちゃん注:「上總の國、ある寺の山に、あやしき「きの子」、生たり」「夜中、殊外、光、ありて見えし」ロケーションから、菌界担子菌門ハラタケ綱ハラタケ目クヌギタケ科クヌギタケ属ヤコウタケ Mycena chlorophos であろう。私は知人の撮った写真で見たことがある。当該ウィキによれば、『日本では小笠原諸島や八丈島を主な自生地とし、仙台以南の太平洋側地域に分布が見られる』とある。

「しどみ」バラ目バラ科サクラ亜科リンゴ連ボケ属クサボケ(草木瓜)Chaenomeles japonicaウィキの「ボケ(植物)」によれば、クサボケは『果実にボケ』(ボケ Chaenomeles speciosa )『同様の薬効があり、日本産の意で和木瓜(わもっか)と称される生薬となり、木瓜(もっか)と同様に利用され』、『果実酒』にもあるあった。

「たこに酢の氣、きん物なる」んな、ことは、ないね。私は蛸の酢和えは好物だ。

『「うなぎ」に酢を「どく」』同前。私は複数の料亭で、何度も、食べたことがある。「うなぎ」の危険なのは、生血である。目に入ると、失明する危険さえある。

譚海 卷之七 江戶下谷金杉村安樂院住持流刑の事

[やぶちゃん注:標題の「下谷金杉村」は「したやかなすぎむら」。底本では「目錄」の順列に問題がある。]

 

○同年八月廿七日、金杉安樂寺住持、遠島せられぬ。

 これは、同所根岸むらにある御家人の妹、從來、安樂寺弟子尼(でしあま)にて有(あり)けるが、當春の頃、此尼、かねて死期をしりて、遺言に、

「我、往生せば、結緣(けちえん)のため、しばらく、其まゝにて、ほふむらず、七日の間、諸人にをがませよ。」

と云(いひ)けるが、其日を、あやまたず、臨終絡せしかば、家内の者を始め、皆々、たふとき事に思ひ、住持も、とぶらひ來(きたり)て、世話をいたし、則(すなはち)、住持の差圖にて、棺を溫飩箱(うどんばこ)[やぶちゃん注:底本に「溫」の右に『(饂)』とする補訂注がある。]の如く、さしふたに拵(こしら)へ、其中に此尼を坐せしめ、七日の間、人に、をがませける。

 殊に、彼岸の頃にて有(あり)ければ、誠に生佛(いきぼとけ)の如く、諸人(しよにん)、聞(きき)つたへて、參詣、夥敷(おびただしく)、皆、極樂往生のいちじるしき事を嘆美せしなり。

 第七日にあたり、はふぶり[やぶちゃん注:ママ。「葬(はうぶ)り」。「はふり「はぶり」とも表記した。]にあたるとき、安樂寺住持、又、來て、世話せしに、此亡者の尼、眼をひらき、住持に詞(ことば)をかはし、其後、瞑目して終りければ、いよいよ、

「奇異の事。」

に、人、いひあへりしを、公(おほやけ)にも、おのづから聞えて、

「事のあやしきわざ。」

に御沙汰あり。

 又、かたへには、口さがしきものなど、

「此尼は、實は死果(しにはて)ざれども、年來(としごろ)、住持に密通して有(あり)ければ、住持と、はかりて、此度(このたび)、往生する事に世間へ披露して、はふむりて後(のち)、ひそかに掘出(ほりいだ)し、尼を、他所(よそ)にかくし置(おき)たる。」

など、風說まちまちなるに付(つき)、寺社奉行所より、御糺(おただし)にて、住持、めしとられ、久々(ひさびさ)、入牢せられ、拷問にも及(および)、その尼の墓をも、あばき御覽ありしかども、實證(じつしよう)なき事故(ゆゑ)、かく、遠島に處せられぬる、とぞ。

 其兄の御家人も、是がために、御改易せられたり。

 其後、又、住持の弟子尼、醫師の娘にてありけるもの有(あり)しが、此尼へ右の臨終往生せし尼の靈託(れいたく)して、時々、不思儀成(なる)事を口ばしり、又、是(これ)に、人々、心をかたぶけて、

『奇妙成(なる)事。』

に思ひしかど、

「全く極樂往生せし人、又、此世に、まよひきたりて、人に託(たく)す[やぶちゃん注:依代(よりしろ)する。]べきいはれも、なき。」

など、あやしみ、いふ事も、絕(たえ)ず。

 能々(よくよく)事のわけをしりたる人のいへるは、

「此安樂寺に、惡敷(あしき)狐(きつね)、年久敷(としひさしく)住(すみ)わたる有(あり)て、はじめ死せし尼にも、此狐、託して[やぶちゃん注:ここは「憑依」、「狐憑き」を指す。]、あやしきわざどもを、あらはし、此たびの尼に、以前の臨終せし尼の宣託(せんたく)を承(うけたまは)るといふも、みなみな、此狐の所爲にて、住持も、ともに、夫(それ)をしらず、たぶらかされ、此わざはひにあへるなり。」

と、いへり。

 左(さ)もある事にや、心得ぬ事ども、おほかるに、なん。

「住持は、またく、放逸の僧には、あらず。住所も至(いたつ)て質素の住居(すまい)にて、如法(によほふ)念佛の行者(ぎやうじや)なりしかども、愚(おろか)なるによりて、かく、狐にたぶらかされし事。」

と、かたりぬ。

[やぶちゃん注:まさに、村中ひっくるめて、泡立つ妄想共同体の集団的疑心暗鬼のヒステリー状態に陥ったものと推察される。

「江戶下谷金杉村」サイト「江戸町巡り」の「下谷金杉町」によれば、現在の(リンクはグーグル・マップ・データを私が附した)『東区下谷三丁目入谷一』丁目同『二丁目竜泉二丁目三ノ輪一丁目125番竜泉二丁目20番根岸三五丁目』とあり、『奥州街道裏道沿いの東西に細長い地域』で、『「金杉」とは江戸時代以前からあった古い地名だが、地名の由来は不明。鎌倉時代末の記録によると「金曽木」』(かなそぎ)『といい、それが金杉に変わったと推察される。「金曽木」は現在でも小学校名として残っている』とあった。台東区立金曽木小学校は根岸四丁目にある。

「安樂院」根岸四丁目にある浄土宗佛迎山往生院安楽寺

「饂飩箱」「慳貪箱・倹飩箱」(けんどんばこ)に同じ。「けんどんうどん」・「けんどんそば」などを入れて、注文先へ持ち運ぶ縦長の箱。 上下または左右に溝があり、蓋の取り外しが出来るようにしたもので、後、一般に、その様式の箱や袋戸棚を指した。参照した「精選版 日本国語大辞典」に図がある。この場合は、この中に見える仕切り板のない型のもので、そこに遺体を座らせれたものである。当時は座棺の棺桶が普通であった。民間では、明治になっても田舎では座棺であった。私の連れ合いの父は、岐阜七宗の出身であったが、彼女は小さな時に墓を改修する際、祖母の遺体を現認しているが、土葬で座棺であったそうである。]

譚海 卷之七 房州西山の山崩れて寺一宇土中に落入し事

[やぶちゃん注:標題の「落入し」は「おちいりし」。]

 

○寬政二年四月十七日、安房國西山と云(いふ)所の山、くづれたり。

 二、三日以前より、夥敷(びただしく)、山、嗚動せしかば、かねて、人々、

「變、有(ある)べし。」

と、飼置(かひおき)たる牛馬など、切(きり)はなし、資財を運びうつしなど、せしかば、一人も怪我はなかりしかど、終(つひ)に、十七日の晝、山、われ、へこみて、山上に有(あり)ける淨土宗の寺一宇、土中へおち入(いり)て、山上の其所(そのところ)、沼と成(なり)、寺の屋根、むねばかり、水中に、わづかにみゆるほどに沒したり、とぞ。

 その後(のち)、

「山に數(す)百年へし杉、多く有(あり)けるも、皆、さかしまに、沼へ落入(おちいり)て、木の根計(ばかり)見へける。」

と、いへり。

 いとあやしき事どもになん。

[やぶちゃん注:「房州西山」千葉県鴨川市西山(グーグル・マップ・データ航空写真)であろう。

「寬政二年四月十七日」グレゴリオ暦一七九〇年五月三十日。ネット上では、地震或いは山体崩壊その他の災害がここで起こった記録は見出せなかった。雨と地下水脈による単純な地盤の陥没かと思われる。

「淨土宗の寺」現在の西山の周辺には、浄土宗の寺は見当たらない。

「沼」とあるが、「ひなたGPS」の戦前の地図を見たが、それらしいものは見当たらない。南東直近に「山居堰(さんきょせき)」という千葉県鴨川市天面(あまつら)にある灌漑目的のアースダム(主に土を用いて台形状に形成して建設したダム)があるが、ここは西山耕地整理組合の事業で昭和一四(一九三九)年に竣工したものであり、「ひなたGPS」の戦前の地図を見ても、普通の谷戸の奥であって、沼らしき地形は見当たらないし、西山の山上でもないから、違う。]

譚海 卷之七 江戶源兵衞店水戶家藏屋敷肉桂の事

[やぶちゃん注:なお、底本「目錄」では本篇の標題が脱落しているので、国立国会図書館蔵本の「目錄」に従い、標題を示した。]

 

〇水戶家の藏屋敷、すみた川小梅堀(こうめぼり)に有(あり)て、そこに和肉桂(わにくけい)の大樹ありしに、枯朽(かれくち)てたふれたるを、肉桂ともしらずして、屋敷守の翁、淺草御厩河岸の風呂屋へ、薪(まき)に、うり渡しけり。

 風呂屋にて、此樹を薪に割居(わりをり)たるを、近鄕の醫師、見付(みつけ)て、

「是は、めづらしき木なり。我に賣(うり)あたへくれよ。」

とて、金子三百疋に買得たるに、もはや眞木(まき)は、つかひ、うせたるあとにて、木の皮ばかり買(かひ)たるを、かなたこなたへ、賣鬻(うりひさぎ)て、金子、四、五兩に成(なり)しかば、此醫師、不慮の德、つきたり。

 其刻(そのみぎり)、屑(くづ)とて、酒に浸したるを飮(のみ)たるに、味、よく、肉桂の香(かをり)に、くんじてありし。

 是は、心越禪師、來朝せしはじめ、攜來(たづさへきた)りて、水戶の小石川邸の山地にうゑられたりし時、同じ樹の種(たね)を小梅にもうゑられしが、かく朽殘(くちのこ)りてありし事、とぞ。寬政三年秋の事なりし。

 又、武藏野菅生(すがお)といふ所の村にも、龍眼肉の樹、有(あり)。

 是は、その村の醫師、「龍がんにく」を藥劑に用ゐし事ありしとき、其殼を、塵壺(ちりつぼ)へ棄(すて)けるに、そこより、生(おひ)たるよしなり。

「今は、大木になり、枝・幹のさまも唐木(からき/たうぼく)の葉づきにて、常磐木(ときはぎ)にて、此國には、なき木振(きぶり)なり。」

とぞ。

「其のち、そこの里正(りせい)[やぶちゃん注:「庄屋」「村長(むらをさ)」に同じ。]田澤某、是を聞きて、ことさらに新渡(しんわたり)の「りうがん」を、壹斤(いつきん)[やぶちゃん注:六百グラム。]、求(もとめ)て蒔(まき)たるに、是も、二本、實生(みしやう)せしよし。」

を、かたりぬ。

 むさしのには、「りうがん」のるゐ、土に、あひたる所にや。

[やぶちゃん注:「水戶家の藏屋敷、すみた川小梅堀に有」本所の北にあった小梅村の小梅堤のことであろう。「人文学オープンデータ共同利用センター」の「江戸切絵図」の「本所」の「位置合わせ地図」の絵図の上方の端に「水戶殿」(水戸藩下屋敷)とある附近であろう。

「和肉桂」日本原産の唯一のニッケイの種であるクスノキ目クスノキ科クスノキ属ヤブニッケイ Cinnamomum yabunikkei が、まずは想起される。当該ウィキによれば、『日本の本州(福島県以南)、四国、九州、沖縄、朝鮮の済州島、中国に分布するとされるが』、『日本における自然分布は、近畿以南から沖縄の範囲までと言われている』とある。『葉や樹皮は薬用に使われ、種子からは香油や蝋を取ることができる』。『また』、『葉、根皮などに香気があるが』、『ニッケイ』 Cinnamomum sieboldii 『よりは劣る』とある。しかし、ウィキの「ニッケイ」を見ると、『江戸時代中期に、中国から渡来した桂皮の有用性が国内で認識され、各地でニッケイの栽培が始まった。この栽培種は、東南アジア原産種Cinnamomum loureiroi Nees (1836)と同一とみなされていたが、沖縄本島北部・徳之島などに自生する野生種と同一であると判明したため、近年では日本固有種として扱われるようになって』おり、『これに伴い、学名をCinnamomum sieboldii Meisn. 又は Cinnamomum okinawaense Hatusima と表記する図鑑、書籍が増えている』ともあったので、以下の心越禅師が携えて来朝したものとなら、これは真正のニッケイである可能性が高いか。さらに、『和歌山県では、栽培最盛期の大正』一〇(一九二一)『年頃まで根皮』一万『貫、樹皮(桂辛)』五千『貫の生産があり、ドイツやアメリカにも生薬として輸出された。 一方、この頃、国産ニッケイの精油含量が中国産の桂皮に劣ると報告され』、『医薬品原料としての関心が薄まり始めた』。『昭和以降』には、『医薬品原料としての需要は徐々になくなり、和歌山県の生産量は、昭和』二二(一九四七)『年には』百『貫まで減』った。「日本薬局方」に『おいては、第六改正(昭和』二六(一九五一)『年発行)までは「日本ケイ皮」として収載されていたが、流通実績がないために次の改正から外され、現代においては、医薬品として使用されることはない。また、食品原料としての流通も現在では』、『ほとんどなくなり、上述した和菓子の製造においては、代替としてシナモンを用いているものが多い』とあった。

「三百疋」三千文で一・七五両相当。

「心越禪師」東皐心越(とうこうしんえつ 崇禎十二(一六三九)年~元禄九(一六九六)年)は、江戸初期に明(一六四四年に清となる)から渡来した禅僧で、日本篆刻の祖と呼ばれ、又、中国の古琴を日本に伝えたことから日本琴楽の中興の祖ともされる。彼は、一六七六年、清の圧政から逃れるために杭州西湖の永福寺を出て日本に亡命、一時、清の密偵と疑われて長崎に幽閉されたが、天和三(一六八三)年に、かの徳川光圀の尽力によって釈放され、水戸天徳寺に住して、専ら、篆刻や古琴を教授した。後に病を得、元禄八(一六九五)年に相州塔ノ沢温泉などで湯治をしたが、その帰途、現在の横浜の金沢八景を訪れ、自身が暮らした西湖の美景瀟湘八景に倣って八景を選び、八首の漢詩を残した。これが金沢八景の由来となった(なお、彼は薬石効なく、天徳寺に戻って同年九月に示寂した)。心越の漢詩及び歌川広重の代表作である天保五(一八三四)年頃から嘉永年間にかけて刊行された大判錦絵の名所絵揃物「金沢八景」の全カラー画像は、私の電子テクスト「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の「八景詩歌」の注で掲載している。是非、御覧あれ。

「武藏野菅生」東京都あきる野市菅生(グーグル・マップ・データ)。

「龍眼肉の樹」ムクロジ目ムクロジ科リュウガン属リュウガン Dimocarpus longan

「唐木」シタン・コクタン・ビャクダン・カリン・タガヤサンなど、熱帯地方から本邦への輸入された銘木全般の総称。もと、中国を経て輸入したことから「唐木」と称する。]

譚海 卷之七 豆州新島より歸りたる流人の事

[やぶちゃん注:なお、底本「目錄」では本篇の標題が脱落しているので、国立国会図書館蔵本の「目錄」に従い、標題を示した。]

 

○御家人、口論せし御咎(おんとが)によりて、遠島に處せられ、十九歲より、三十年の間、伊豆の「にひ鳥」に有(あり)て、其名主の田地を、たがやし居(をり)たるが、赦免に逢(あひ)て召返(めしかへ)されしに、親類、殘らず、死絕(しにたえ)、やうやう、伯父壹人(ひとり)、有(あり)けるに、御引渡(おんひきわたし)ありけるに、伯父、ほどなく病死せしかば、身をよする所なく、耕作の外は無筆(むひつ)故、渡世も成(なり)がたく、殊に江戶の振合(ふるまひ)は、弱年より、島にありて、しらぬ事故(ゆゑ)、何事もなしがたく、大(おほい)に困厄(こんやく)[やぶちゃん注:「難儀」に同じ。]してありける折ふし、

「伊豆の船、來(きた)るに、其名主、乘來(のりきた)る。」

と聞(きき)て、御家人、行(ゆき)て、逢(あひ)つゝ、

「またまた、伊豆へ歸りたき。」

由、賴(たのみ)けるに、名主も、從來、律義に勤(つとめ)たる者ゆゑ、ほしがりて、内々、島へ歸り度(たき)願(ねがひ)、問合(とひあはせ)けるに、

「一旦、島より召(めし)かへされたる者、願によりて、島へ遣はさるゝ時は、先(まづ)、入牢仰付(おほせつけ)られ、遠島の罪人、有ㇾ之時(これあるとき)、一所につかさるゝ御法(ごはふ)なる。」

由。

「いつ、遠島の罪人、有(ある)べき事も、さだめがたく、夫(それ)までは、入牢し罷在(まかりある)事も何とも迷惑なる事故(ゆゑ)、しひて[やぶちゃん注:ママ。]島行(しまゆき)の事、御願も成(なし)がたく、進退、谷(きはまり)たる事にて、難儀いたしある。」

と、或(ある)人の物がたりなり。

[やぶちゃん注:「にひ島」現在の東京都新島村の新島(にいじま:当時は伊豆新島。グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『新島は江戸時代から明治三~四(一八七一)年まで『代表的な流刑地の一つとして利用されていた。上平主税(十津川郷士)や相馬主計(元新撰組隊士)など、政治犯を中心とした流人が多く流されてきており、島で再度重い罪を犯した者は、絞首刑とされた。総勢で』、千三百三十三『人が流されたが、島人は彼らに暖かく接したという伝記が残されている。今でも島内の墓地の中には』、『一段低い場所に流人墓地が存在するが、新島特有の白砂が敷き詰められていて、サイコロ型や酒樽型の墓石などもあり、村人が日々花をたむけるため』、『温かい雰囲気がある』(これは若き日に旅した神津島の墓地で激しく感動したのを忘れられない。私は、二晩とも、夜の墓地を訪れたものであった。毎日、島人の墓総てに満艦飾の花が供えられていたからである)。『また、流人の刑場であった向畑刑場跡へと続く道には柳が生えており、刑が執行される直前、罪人が現世を懐かしんで振り返った場所であったことから「見返り柳」と呼び、今でも供養の花や酒が供えられている』。『長い歴史を裏付けるように、島には今でも数多くの物語・民話が残っている。「山ん婆」や「よべーむん(呼ぶ者、の意)」、海坊主、魔物(まむん)、人魚など妖怪の類の話なども多くあるが、中でも海難法師の話は』(当該ウィキを参照されたい)『非常に有名である。海難法師は伊豆諸島の島ごとに少しストーリーが異なっており、リンク先の話とは異なるが、ここでは新島の例の概要を紹介する』として、『かつて伊豆諸島を視察して回っていた悪代官がいた。こんな人間が各島を回っては迷惑がかかり』、『気の毒だ、と考えた伊豆大島は泉津の若者たちが、船の栓を抜いて沈没させ、悪代官ともども溺死した。この亡霊が村を徘徊し、見た者には不幸が訪れると言う。溺死した代官の亡霊を見た物は発狂するととも失明するとも言われており、実際にそうなった人がいると言ういくつもの逸話が村にある』。『今でもその話を信じる習慣は残っていて』、一月二十四『日は「かんなんぼーし」と呼び、漁業を控え、夜は外出せず静かに過ごし、扉にはトベラ』(セリ目トベラ(扉)科トベラ属トベラ Pittosporum tobira当該ウィキによれば、『枝葉は切ると悪臭を発するため、節分にイワシの頭などとともに』、『鬼を払う魔よけとして』、『戸口に掲げられた風習があったことから「扉の木」とよばれ、これが転訛してトベラとなった(学名の種小名 tobira(トビラ)もこれによる)』とあった)『の小枝を挿して早寝する。代官の宿であった者の自宅では祠を設けて霊を祀り、現在でも当日の深夜に海岸へ向かう等の無言の行を行う。その翌日は子だまり、と言われており、子供を中心に同じことが行われるが、そうして親子』二『回に分けて催行される経緯は不明』であるとあった。こういう民俗は、私がすこぶる偏愛するものであるので、特に掲げた。

「無筆」数え十九で、読み書きが出来ないというのは、金回りの悪い御家人の次男以下で、ろくな教育も受けていなかったため、読み書きも出来なかったのであろう。

「江戶の振合」三十年間も新島にあって、今は四十九歳。その彼が、「十年ひと昔」の江戸のカルチャー・ショックに加えて、文盲とくれば、心情は判る。]

譚海 卷之七 江戶谷中根津權現畑中井の事

[やぶちゃん注:なお、底本は順序が入れ替わっているので、国立国会図書館蔵本の「目錄」に従い、標題を示した。その「畑中井」は「はたなかのゐ」と訓じておく。]

 

○谷中(やなか)根津橫現(ねづごんげん)の、瑞籬(みづがき)の東の外(そと)、畑中に、古井(ふるゐ)、有(あり)。

「此井の水を、くみ、水を、うごかすときは、必(かならず)、震雷(しんらい)する事あり。」

と、其地の人、物がたりせり。

[やぶちゃん注:「谷中根津橫現」現在の東京都文京区根津にある根津神社(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『江戸時代には山王神道の権現社であり、当時は「根津権現」とも称された。この呼称は明治初期の神仏分離の際』、『「権現」の称が』、『一時期』、『禁止されたために衰退したが、地元では現在も使われる場合がある。単に「権現様」とも称され』、『根津神社の近くには、森鷗外が文京区に移住してから最初に住み、後に夏目漱石が住んだこともある千朶山房(せんださんぼう)や、鷗外が後半生に暮らした観潮楼(かんちょうろう)が近かったこともあり、これらの文豪に因んだ旧跡も残されている』(先のリンク先を拡大されたい)。『特に鷗外は根津神社の氏子で、小説』「青年」に『「根津権現」として登場するなど縁があり』、二〇一二年に『閉館した旅館「水月ホテル鷗外荘」(台東区池之端)で使用されていた鷗外の旧邸も根津神社に移築されることになった』とあり、近代の『文学作品で』も『「根津権現」として出てくることが多い』。この創始は、『日本武尊が』千九百『年近く前に創祀したと伝える古社で、東京十社の一社に数えられている』。『現在の社殿は宝永』三(一七〇六)年に『甲府藩主の徳川綱豊(後の江戸幕府第』六『代将軍徳川家宣)が献納した屋敷地に造営されたものである。権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作とされて』おり、『社殿七棟が国の重要文化財に指定されている』とあった。

「瑞籬」「瑞垣・水垣」とも書く。古くは「みづかき」。神社などの周囲に設けた垣根(神霊の宿ると考えられた山・森・木などの周囲に巡らした垣も指す)。「玉垣・神垣・斎垣(いがき)」とも称する

「井」現行では確認出来ない。]

譚海 卷之七 上總國加納山うはゞみの事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、この冒頭注は以降では略す。]

 譚 海 卷の七

 

〇上總の加納山には、「人とり」、有(あり)て、每年、人、うする事、有(あり)。

「『ひゝ』といふ、けだ物の所爲なり。」

など、いひ傳へて、人々、恐るれども、往來に、よけぬ道、なれば、人のとほる所なり。

 寬政三年[やぶちゃん注:一七九一年。]の夏、ある村の商人(あきんど)、たばこを壹駄(いちだ)買得て、背に負(おひ)て麓(ふもと)を過(すぎ)けるに、夥しく、山、鳴りければ、

「何事ぞ。」

と見あげたるに、すさまじき「うはばみ」、山のかたより出(いで)て、此人をめがけて、追來(おひきた)りければ、おそろしきに、いちあしを出して、にげけれども、「うはばみ」、やがて追(おひ)かゝりて、せまりければ、

『今は、かなはじ。』

と、おもひて、かたへの木の大成(だいなる)うつろの有(あり)けるに、

『にげ入らん。』

と、するに、うはばみ、迫付(おひつき)て、のまんとす。

 其人は、はふはふ[やぶちゃん注:「這ふ這ふ」。]、うろたへ、かしら、さし入(いれ)たれど、足は、まだ、外に有(あり)けるに、此うはばみ、大口を、あきて、負(おひ)たる、たばこ荷を、一口に、のみて、さりにけり。

 商人、久しくうつろのうちにありて、聞(きく)に、やうやう、物の音、しづまりければ、をづをづ、はひ出(いで)て、跡も見ず、はしり歸りつゝ、

「しかじかの事、あやうき命、ひろひつ。」

など、かたるに、

「されば。とし頃、人とりのあるは、此うはばみ成(なり)けり。」

など、人々も、おのゝき物がたりあひしに、日ごろ經て、ある人、此山を過たるに、大成(だいなる)うはばみ、谷あひに、死してあるを見て、驚き、はしりかへりて、人に告(つげ)ければ、みな、うちぐして行(ゆき)て見るに、はやう、死(しし)たる事としられて、體も、やうやう、くちそこなひ、くさき香(か)、鼻をうちて、よりつくべうも、なし。

「かしらは、四斗樽ほど有(あり)ける。」

とぞ。

 其丈(たけ)も、おもひやるべし。

「されば、たばこ、蛇のたぐひに、きわめて毒なるものなれば、此うはばみ、たばこの荷をのみたるに、あたりて、死(しし)たる成(なる)べし。」

と、いへり。

「めづらしき事。」

に、人、いひあへり。

[やぶちゃん注:「上總の加納山」千葉県君津市にある鹿野山(かのうざん)。標高三百七十九メートル。旧上総国(千葉県中南部)の最高峰。

「ひゝ」「狒々」。本邦に伝わる妖怪で、猿を大型化したような姿をしており、事実、老いた日本猿がこの妖怪になるとも言われる。参照した当該ウィキを読まれたい。但し、そちらにも書かれてあるが、人を攫(さら)うという属性などから、元は中国由来であることが判る(但し、その源流は中国ではなく、シルク・ロード経由で齎された幻獣である)。私は『「和漢三才圖會」卷第四十  寓類 恠類』の「狒狒」で、その想定実在モデルの考証もしているので、是非、読まれたい。

「四斗樽」現行の酒樽のそれは、菰を入れずに実長で、縦・横・高さ各六十五センチメートル程度のものが一般的である。容積は、酒で満タンにすると、七十二リットル入る。枡一杯百二十ミリリットルとして凡そ六百杯分に当たる。無論、こんな巨大な頭部を持つ蛇は、本邦には棲息しない。現行、最大種は爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナミヘビ亜科ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora の♂だが、それでも全長で三メートル超は稀れである。]

2024/02/12

譚海 卷之六 大坂にて干肴商人猫の仇を報ぜし事 / 卷之六~了

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。標題は「おほさかにてほしざかなあきんどねこのあだ(或いは「かたき」)をほうぜしこと」と読んでおく。

 なお、この前にある「譚海 卷之六 武州千住驛北蒲生領の人に托せし狐の事」は、既に「譚海 卷之六 武州千住驛北蒲生領の人に托せし狐の事 / 卷之八 江戶本所にて人に托せし狐にまちんをくはせし事(フライング公開二話)」で電子化注済みである。

 而して、本篇を以って「譚海 卷之六」は終っている。]

 

○大坂にて肴(さかな)あきなふ男、或日、干肴(ほしざかな)を、になひ來り、ある裏借屋(うらかしや)に入(いり)て、あきなひけるに、かなたこなたにて、肴を調(ととの)へけるまゝ、肴を持(もち)あるき、あきなふひまに、荷をおろし置(おき)たる家の猫、干肴を、一枚、とりて、くらひて、半:(なか)ば盡(つく)したる所へ、看賣(さかなうり)歸り、見付(みつけ)て、其家の女房に、いひけるは、

「此猫は、こなたにて飼(か)はるゝにや。さらば、あきなふ肴を、かく、半(なかば)、くらひぬる事なれば、此殘りを、價(あたひ)をまけてうり可ㇾ申(まふすべし)。とゝのへて、猫に給(あた)へかし。」

と、いふに、女房、腹(はら)あしきものにて、

「猫こそ、肴くひて侍るめれ、われら、いかでか、しり侍らん。猫をば、そこの心のまゝに、し給へ。」[やぶちゃん注:第一文は「こそ~(已然形)、……」の逆接用法。]

と、いひて、あかり障子、引(ひつ)たてて、内(うち)に入(いり)ぬ。

 肴うり、腹たてて、

「よし。さらば、猫を、我(わが)まゝにして、見すべし。」

とて、やがて、その猫をとらへて厠(かはや)の中に打入(うちいれ)ける。

 猫、おほつぼの中より、躍り出(いで)て、其家に歸りあがり、障子の紙の、やれたる際(きは)より飛入(とびいり)ければ、家の内、おびたゞしく、けがれに成(なり)て、せんかたなく、あわてける。

 「ようなきすさみ」とは、これらをや、いへるならん。

[やぶちゃん注:最後の「すさみ」は「荒・進・遊」。ここは、女房が、売り言葉に買い言葉で、言わんでもいいことを一方的に荒れて応じたことを指す。]

譚海 卷之六 京都の貧窮の妻狐に托せし事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。「托せし」は「たくせし」徒しか読めないが、憑依したことを言う。なお、底本の「目錄」では、標題の順序がおかしい。国立国会図書館蔵本で訂した。]

 

○京都の貧窮の者の妻に、狐、托しけるに、其夫、是を、

『幸(さいはひ)なる事。』

と、おもひて、日々饗膳を求め、典物を盡(つく)して、美味を調(ととの)へ、奔走しけり。

 日數(ひかず)ありて、此狐、その夫に、いひけるは、

「いかなる譯(わけ)にて、日々、かやうには、馳走ある事にや。日比(ひごろ)、家内のやうすを見るに、殊外(ことのほか)、貧乏にて、質物(しちもの)なども、なきほどのくらしなるに、甚(はなはだ)、ふしんなり。」

と云(いふ)。

 其時、此夫、

「されば、我等、御覽のごとく、如何成(なる)不仕合(ふしあはせ)にや、從來、赤貧にして、心にまかす事、なし。然るに、足下の、我等妻に托せられし事、甚(はなはだ)、幸成(なる)事と存ずれば、かく、質物を盡して、日々、馳走し參(まゐら)する也。其故(ゆゑ)は、『狐は福をあたへらるゝ』と申(まふし)たる事なれば、定(さだめ)て、かく、御出(おいで)あるうへからは、福[やぶちゃん注:底本では編者訂正注が『(富)』とある。]を授(さづく)るべし。此末、御影(おかげ)にて、福、有(ある)に罷成(まかりなり)、是迄の難儀をも忘(わすれ)たく存ずる故也。」

と、いへば、狐、甚(はなはだ)、迷惑のやうすにて、

「左樣の次第を承るにつけては、我等、一日(いちにち)も此處(ここ)にありがたし。只今、爰(ここ)を立去(たちさり)、何方(いづかた)へも參るべし。」

と、いへば、夫、甚、驚入(おどろきいり)て、

「折角、是迄、御馳走申せし志(こころざし)をも顧(かへりみる)なく、我等を捨て、立退(たちのき)給ふべしとは、情(なさけ)なき事、とかく、いつまでも、我等かたに逗留ありて、心おきなくおはすべし。我等も足下に捨られては、是迄、賴(たのみ)たてまつる福も得まじければ、難儀、此一時に侍(はべり)。」

とて、達(たつ)て、とゞめければ、狐、又、申けるは、

「それは、人間の了簡にて、我等中間(われらうちのあひだ)の事は存ぜられぬ故也。我等が同志の内にも、福を人にあたふる狐もあり、又、さる事なし得がたきものも有(あり)。我等は、『のら狐』にて、人に福をあたふる事、成(なし)がたし。然しながら、數日(すじつ)かやうに馳走にも預りし事なれば、此一禮には、福を授る狐と入(いれ)かはり、其元(そこもと)、願(ねがひ)のごとくに致べし。」

と、いひければ、此夫、いよいよ疑(うたがひ)を起(おこ)し、

「仰(おほせ)らるゝ事、尤(もつとも)には聞え候得共(さふらえども)、足下、爰(ここ)を立退(たちのか)れ、萬一、替りの狐、來らざる時は、我等、是迄の物入(ものいり)も、つぐなふべきやう、なく、身上(しんしやう)も立所(たちどころ)につぶれ申せば、願くば、其福を授くる狐を爰へ呼寄(よびよせ)られ、卽刻に、入代(いれかは)り給(たまは)れ。」

と、いへば、狐も、理に折れて、

「先(まづ)、よく、思案致すべし。」

とて、一日ありて、又、狐、夫にいひけるは、

「餘(あまり)に申さるゝ所、深切に候まゝ、昨夜、他所(よそ)の仲間の狐へ相賴(あひたのみ)、入替りくれらるゝやうに相談せしかば、得心なれば、我等、只今、罷歸(まかりかへ)るべし。さらば、右の仲間の者、入代りて、いかやうにも、其元へ、福をあたふるやうに致(いたす)べし。」

と、いへば、夫は、

「昨日も申せし如く、もし僞(いつはり)に相成(あひなり)ては、我等、此上の迷惑なれば、是非に入代るべき狐を同道ありて、願(ねがひ)の如く致さるべし。」

と、いふ。

 狐、

「いやいや、人の骸(むくろ)は一つなれば、二つ、狐、卽時に入替る事は成(なり)がたし。殊に、人に托するには、先(まづ)、我等が骸を、よきやうに隱し置(おき)て後(のち)、さる事にあるわざなれば、卽時には成(なし)がたし。是迄、馳走に罷成たる一禮も有(あり)、此上、何ぞ僞を構へて、其許(そこもと)を欺(あざむ)き申べきや。必ず、疑を、やめらるべし。」

と、いへば、此夫、

「左樣ならば、早々、福をあたふる狐と入替り給るべし。遲々(ちち)に相及(あひおよば)ざるやうに賴み奉る。」

と、許諾して、此妻、外へ出る眞似して、其儘、氣絕して、たふれけり。

 其夜に入(いり)、約束の如く、他の狐、入代りて、又、今までの如く物語し、此夫に、いひけるは、

「其元(そこもと)妻に托せし仲間の者に據(よんどころ)なく賴(たのま)れ、昨夜より入代り、種々(しゆじゆ)の福をあたふべき手段を考見(かんがへみ)れども、其許(そこもと)、生得(しやうとく)貧乏の因緣にて、一向に福を得(う)べき便(たより)見えず。乍ㇾ去(さりながら)、餘り深切の志(こころざし)ゆゑ、少しばかりの福をば、あたふべし。只(ただ)、夫婦、一日(ひとひ)ひだるきめをせず、喉をうるほす程の幸(さいはひ)のみ也。」

と、いひければ、此夫、大(おほい)によろこび、

「それは。千萬、忝(かたじ)けなき仕合(しあはせ)。何とぞ、いかやうにも、是迄のなんぎ、少々は樂々(らくらく)とならば、此上のねがひ、何か有(ある)ベき。」

と、云(いふ)とき、此狐、申けるは、

「其元は、以前、娘壹人(ひとり)もたれたるべし。」

と、いふ。

「成ほど、前年、妻、懷胎致し、女子一人、出生(しゆつしやう)致したれども、剩(あまつさ)へ、乳も、すくなく、養育致(いたす)べき手段なくして、夫婦、いだき出(いで)て、棄(すて)侍りし也。」

と、いふ。

 此狐、

「されば、其娘、今は相應の仕合にて有(あり)。是(これ)、右にいふ所の、喉をうるほす程の福を得べきたより也。やがて此娘に逢(あへ)る事、出來(いでく)べし、然し、只、一度、逢る事也。二度(ふたたび)、『逢(あひ)たき。』などと思ふ心ありては、折角、我等、考付(かんがへつき)たる福を授(さづけ)ても、始終、全(まつた)ふしがたきまゝ、此事を急度(きつと)承知ならば、願(ねがひ)の通(とほり)、かなへやるべし。」

と云(いふ)。

 夫、いよいよ悅び、

「偏(ひとへ)に御庇(ごひ)[やぶちゃん注:「御庇惠(ぎひけい)」の略であろう。「御恩惠」に同じ。]にて福を得侍(えはべ)るべき事、御禮申盡(おんれいまふしつく)しがた

し。忝(かたじけなし)。」

とて、又、種々、馳走を致しければ、狐、甚(はなはだ)、迷惑して、

「其元(そこもと)、如ㇾ此、貧乏のやうす、かやうに物入をかけ馳走せらるゝほど、 甚(はなはだ)、安心致さず。必ず、左樣にては迷惑の至(いたり)也。もはや、われらも、外(ほか)に用なければ、此家を去(さる)べし。」

と暇乞(いとまごひ)をせしかば、夫、殊外(ことのほか)、名殘(なごり)を、をしみ、

「せめて、今しばらく。」

と、とゞめけれど、

「いやいや、かやうの難儀の體(てい)を見うけて、いかで片時(かたとき)も逗留成(なす)べき。」

とて、やがて、

『狐、歸るよ。』

と、おぼえて、又、妻、夢中の如く、暫時、氣絕し、其後(そののち)、やうやう、本復(ほんぷく)、平生に成(なり)し故、是迄の事を物語するに、妻は一向、何事もしらず。

「ともあれ、托せし狐の、少し斗(ばかり)の福をば、あたふべき由なれば。」

とて、たのもしくおもひ、日々、福の來らん事を待(まつ)ほどに、二(ふた)・三月(みつき)迄、何の消息も、なし。

 かくて、ある日、

「下京通(しもぎやうとほ)より。」

とて、男一人、此家(このいへ)を尋(たづね)きたりて、

「娘の口上(こうじやう)にて、不思議成(なる)事にて、爰許(ここもと)に、實(まこと)の兩親(ふたおや)、御座有事(ござあること)承及候(うけたまはりさふらふ)まゝ、明日、御目にかゝりに參るべし。必(かならず)、外出なく御待下さるべし。」

と、いひければ、夫婦も兼(かね)て待(まち)まうけし事なれば、大(おほい)に悅び、約束して、男を返し、そのまうけして居《を》るに、果して、翌日、此娘、尋來(たづねきたつ)て、始(はじめ)て、兩親に、あひ、泣々(なくなく)、かたらひ、暫時、物語して、

「歸る。」

とて、金子三百疋、目錄を殘して行(ゆき)けり。

 其後(そののち)、每月、金三百疋づつ、此娘のかたより送りけるにつけて、やうやう、赤貧の心をも、忘れ、夫婦、以前よりは、ゆるやかに、くらしける。

 されど、娘には、一度(ひとたび)逢(あひ)たるまゝにて、二度(ふたたび)逢(あふ)事ならず。

 娘の方(かた)よりも、

「必(かならず)、尋(たづね)給ふべからず。尋給ひなば、たがひの身のためにも、よろしからず。」

と、度々(たびたび)、聞えければ、さて、そのまゝにて、ありける。

 これは、此(この)捨(すて)たる女子(ぢよし)を拾(ひろひ)たる親、此娘を島原へ賣(うり)たるが、今は、大夫(たいふ)の女郞(ぢよらう)に成(なり)てありしゆゑ、かくは、對面、憚(はばかり)たる事、とぞ。

 さて其實(まこと)の親なる事をしりて、かく、わざわざ、一度、逢(あひ)に來りしは、いかなる事にて尋知(たづねし)りたるにや、その譯(わけ)は、たしかならず。

「もし、彼(かの)、『福をあたふべし。』と、いひける狐、夢などにや、告(つげ)たりけん。」

と、いひし。

[やぶちゃん注:底本の竹内利美氏の後注に、本書には『狐などの動物霊が人に憑依して怪異の所業をさせる話いくつか収録されているが、このキツネツキは一風変わっていて、親しみぶかく、接待して福を与えたことになっている』とある通り、まず、本邦の狐憑き譚の中では、かなり珍しい仕上がりとなっていて面白い。本邦では珍しいが、この話の発想は、恐らく中国の志怪小説が元ネタであろうと推定する。私の偏愛する「聊齋志異」等には、人に福を齎す女の狐妖がさわに出るからである。但し、この話が嘘臭く、作り話であることは、捨てた娘は、この「前年」に生まれたと言っていることである。仮に前年の正月に生まれたとしても、話柄内時制の最後は、せいぜい満二歳が上限となり、凡そ、最後の方のシークエンスで「始て、兩親に、あひ、泣々、かたらひ、暫時、物語」するというのは、どう考えても、無理がある。『せめて、「先年」とぼかしておけばよかったのに。』と、私が昔、これを読んだ後に残念に感じたのを思い出したのである。

「島原」現在の京都市下京区に位置する、日本及び京都五花街で最古の花街の名。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

譚海 卷之六 某藩中浮島賴母の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○某藩中に浮島賴母(うきしまたのも)と云もの有(あり)。同僚に、年來(としごろ)刎頸(ふんけい)の交(まじはり)なるもの有て、往來、密なりしに、ある夏日(かじつ)、賴母、とぶらひ行(ゆき)たるに、同僚、他行(たぎやう)せしかども、懇切の交ゆゑ、その宿の妻、賴母をとゞめて、酒など出(いだ)し、もてなし、久敷(ひさしく)あれば、常の事にて、妻も、賴母に、かまはず、廚下(ちゆうか)[やぶちゃん注:台所仕事。]の事など、いとなみ居(をり)たる折節、夕雨(ゆふだち)、俄(にはか)に降出(ふりいだし)、雷鳴、夥しくありしに、元來、賴母、雷を恐(おそる)る事、人に勝れたるものにて、其家の押入(おしいれ)の内へ、逃入居(にげいりゐ)たるに、同僚の妻も、同じく、雷を恐る事、本質(ほんじち)にて、賴母が押入に籠居(こもりゐ)せるをも、しらず、妻も押入へ逃入て居たる所へ、同僚の士、歸り來(きた)り、雷も止(やみ)て、賴母と妻、押入よりはひ出(いで)ければ、折からといひ、甚(はなはだ)、手(て)もち、あしく[やぶちゃん注:見た目の行動・振舞が甚だまずく。]、同僚も、兼(かね)て賴母が心體(しんてい)よくしつて、不義など振舞(ふるまふ)ものとは、おもはざりし事なれども、眼前如ㇾ此(かくのごとき)次第故、不審なきにもあらず、賴母、別(べつし)て會釋(ゑしやく)もなく、面目(めんぼく)を失ひぬれど、兼て懇切の知己故、雷を恐れて隱居(かくれゐ)たる事、妻も、それを、しらず、一所に逃入たる次第を、段々、申述(まうしのべ)、詫(わび)ければ、元來、隔心(へだてごころ)なき中(なか)故、同僚も、心(こころ)とけて、疑(うたがひ)をはらし、もとの如くの交にて暮(くれ)たるに、又、一日(いちじつ)、賴母、同僚のかたへ行たるに、又、他行の所へ行ぬれど、いつもの事にて、我家の如く、ゆるゆる遊び、晚景行水(ぎやうずい)をして其まゝ椽先(えんさき)に轉寢(うたたね)して居(ゐ)たるを、例の妻、

『我(わが)夫の、湯かたを着て、寢て居(ゐ)たる。』

と、おもひあやまり、其かたわらに、妻も、ひとつに、そひ臥(ふ)して寢入(ねいり)たる所へ、彼(かの)同僚、歸りかゝりて、此體(このてい)、見とがめしに、兩人、驚き、目さめて、

『今は、あやまちとは、いひながら、あまりなる數度(すど)の楚[やぶちゃん注:底本に編者の修正注で『(麁)』とある。]忽(そこつ)、亭主へ、いひわくべき詞(ことば)も、なし。』

と、おもひて、其妻もろともに、その席より、打連(うちつれ)、逐電したりしかば、同僚の男も

「扨は。是まで、妻と密通せし事、實事(じつじ)成(なり)しかども、我(われ)、うたがひを置(おか)ざりしまゝ、月日をへしに、かく、兩度まで、見あらはされ、詮方なく缺落(かけおち)せし事。」

と、治定(ぢぢやう)[やぶちゃん注:確かなこととして認識すること。]の不義に落入(おちいり)、同僚も、おもしろからぬ世を、しばらく、ひとりくらしけるに、漸(やうやう)世話する人ありて、

「後妻を、むかへよ。」

なと[やぶちゃん注:ママ。]、度々(たびたび)勸(すすめ)ければ、家事も不自由なるまゝ、その異見に付(つい)て、後妻をむかへ、夫婦、かたの如く、むつまじくてありけり。

 然るに、賴母は、同僚の妻をつれて立(たち)のきたれども、元來、士の事(こと)故、商賣の業(なりあひ)にも、うとければ、所帶を立(たつ)べき術(すべ)もなきまゝ、所々、流浪して後(のち)に、有馬の溫泉にいたり、家を借り、賴母は酒肴(しゆかう)をうる業を以て、渡世とし、入湯(にうたう)の客酒肴を求(もとむ)る人あれば、其旅舍(りよしや)に行(ゆき)て、「たいこもち」と成(なり)、滑稽の物がたりなどして、客を慰[やぶちゃん注:ここに編者の補正割注『(め)』がある。]笑(わらひ)を賣(うる)事を、常の事とくらし、其女は、客の衣服・ゆかたなど、すゝぎ、あらふ事を業にて、諸共(もろとも)に居(をり)たりけり。

 賴母、女にいひけるは、

「今は、如ㇾ此(かくのごとき)身分に成(なり)ぬれば、是非なき次第。たがひに、徒然(つれづれ)にてあらんも、詮方なければ、實(まこと)の夫婦のかたらひを、なすべき。」

など、折々、すゝめけれど、此女、さらに承引せず。

「元來、そなた樣と實の不義ありて逐電せしにはあらざれども、時宜(じぎ)[やぶちゃん注:あの時に相応の丁度いい。]のいひわけ、立(たち)がたきによりて、かく流浪の身とは成(なり)たり。されども、彼(かの)夫、我に背(そむい)たる事なく、我も又、他心ありて夫に背たるにもあらねば、いつまでも、そなた樣とは、夫婦のかたらひは、成(なし)がたし。今にても、昔の夫、我(わが)實心(まごころ)を知りて呼(よび)かへさるゝ事もあらば、猶、立歸(たちかへ)り、逢(あひ)、そひ度(たく)思ふ故、此一事は、仰(おほせ)に、まかせず、表向計(おもてむきばかり)の夫婦の體(てい)は、いかにも、したしきさまになし給はれ。」

と、いひければ、賴母も、その詞(ことば)侵(おか)すベきかたなく、内内(ないない)は、朋友の妻のあひしらひにて、くらしける。

 かゝるほどに、入湯の客、賴母と心安き人ありて、其宿へも往來し、せんたくの事なども、其妻に賴(たのみ)などしてありけるが、一日(いちじつ)、賴母、客の旅舍へ來たる時、此客、賴母に戲(たはむ)れて、

「そちの妻は、さてさて、うつくしきもの也。羨敷(うらやましき)。」

など、いひけるに、賴母、ふと、身の上を語り出(いで)て、ありつる間違(まちがひ)より、無ㇾ據(よんどころなく)、彼(かの)女を連(つれ)て立退(たちのき)侍りしかど、かうかうのわけにて、實は、夫婦に侍らず。」

抔、女の貞節を守る物語せしに、折節、彼賴母が同僚の後妻の親類、座敷に入湯して居(をり)たるが、此物語を聞(きき)、甚(はなはだ)感心して、歸鄕の上、娘にかたりければ、娘、聞(きき)て、

「扨々(さてさて)、世間には珍敷(めづらしき)貞女も候。さほどの女を指置(さしおき)、自分(おのづと)かくてさぶらふも、本意ならず。何とぞ、もとの如く、よび歸し、そはるゝやうに致し度(たし)。乍ㇾ去(さりながら)彌(いよいよ)誠(まこと)ならんか、能々(よくよく)糺し侍りて見候半(みさふらはん)うへは。」

とて、此後妻、又、有馬へ入湯に來り、段々、手寄(たより)をもとめて、賴母が方(かた)の女に近づき、段々、懇意に成(なり)たる上、互(たがひ)に身の上の物語に及びたる風情(ふぜい)にて、女の心中を聞屆(ききとどけ)たるに、我(わが)親の物語にたがはず、今にも、もとの夫、呼(よび)かへされば、他心(ふたごころ)なきすぢを、なげきて、そひとげたきむねなれば、後妻も其心を感心して、いそぎ歸り、夫にすゝめ、呼返(よびかへ)すべき由を述(のべ)けるに、

「扨は。同僚も、左(さ)もありけること。」

と、前妻の心を感じ、やがて、呼返(よびかへ)して、元の如く、夫婦に成(なり)ぬれば、後妻は、尼に成(なり)て後園(こうゑん)[やぶちゃん注:家の後ろにある庭・畑・空き地。]に別居してありける。

 賴母も、無實の不義のそしりを雪(すゝぎ)て、その事、主人の聞(ぶん)に達し、主人、賴母をも、召歸(めしかへ)し、もとの如く、俸綠を賜(たまひ)て、仕(つか)へありけり、と人の、かたりぬ。

[やぶちゃん注:本書では特異的な長い人情話である。なかなか、いい。但し、二度の見かけ上の不始末は、少々、作り話っぽい。考えて見ると、主人公の名の「浮島」もハマり過ぎている姓ではある。]

譚海 卷之六 大坂にて猫を盜て三味線の皮にせしものの事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。標題の「盜て」は「ぬすみて」と訓じておく。]

 

○大坂にて、人家の猫を盜て殺すもの、有(あり)。

 其事、露顯(ろけん)して捕へられ、

「千日に於[やぶちゃん注:「おいて」。「て」は原本の脱字であろう。]、樹上へ、くゝり釣(つり)さげられ、終日、ありて、責(せめ)られぬ。」

といふ。

 是は、此もの、猫の皮を剝(はぎ)て、三味線の皮とせんため、町々を、うかゞひありき、人なきひまを、うかゞひ、その家にある猫を、とらへ、やがて袂(たもと)の内へ入(いれ)て、其まゝ、ねぢ殺す。

 猫、聲をも、たてず、そのまゝ死する也。

「猫の首を、とらへ、橫に、まげて、首骨を押折(おしを)れば、心易(こころやす)く死ぬる事。」

といふ。

「それを持(もち)て、雪隱(せつちん)抔(など)に入(いり)て、小刀(こがたな)にて、卽時に皮をはぎ取(とり)、肉をば、そこにすてて置(おき)、皮をはぎたる所、甚(はなはだ)奇麗にして、血にも、まみれざる物故(ゆゑ)、紙をたゝみたるやうに何疋も重ね、風呂敷に包(つつみ)てさりげな體(てい)にして、ありきたる事。」

と、いへり。

「人を殺す咎(とが)には、比(ひ)しがたけれども、如ㇾ此(かくのごとく)、數日(すじつ)しばしば、惡行(あくぎやう)をなせし故、こらさん爲(ため)、捕へられぬ。」

といふ。

[やぶちゃん注:あまり理解されていないので言っておくと、現在の高級な三味線でもやはり猫の皮が使用されている。安い物は豚皮であるが、音が各段に異なる。私の妻は琴の名手だが、三味線もやりたいと言い出し、買ったが、やはり猫皮で、ちゃんと乳が見える。買った店主に質問したところ、言葉を濁して、某半島(実際には半島名を言ったが、敢えて隠した)の某所で、専用に飼育しているという答えだった。

「千日」地名。現在の大阪府大阪市中央区千日前(せんにちまえ)附近から東の広域(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ウィキの「千日前」によれば、『江戸初期には近郊農村であった西成郡難波村と西高津村の一部であった』。「大坂の陣」後の慶長二〇・元和元(一六一五)年、『市内の墓地の整理により』、『竹林寺』(ここ)『の南東一帯に「千日墓地」と呼ばれる大規模な墓地がつくられ、刑場・焼き場も併設された。これが後にさまざまな噂話や因縁話の原因にされることとなる。なお、大坂西町奉行所近辺にあった牢獄から本町橋を渡り西へ向かい、西横堀川で南下、道頓堀川を東へ向かい』、『千日墓地手前の刑場に向かうのが市中引き回しルート』であった、とある。まあ、流石に、市中引き回しには、ならなかっただろうがね。]

譚海 卷之六 淡路國住人森五郞兵衞海上無難に渡る事 附長州家士村上掃部淨沓家藏の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。標題の「附」は「つけたり」と読み、「掃部」は「かもん」、「浮沓」は「うきぐつ」と読んでおく。]

 

○淡路國に森五郞兵衞といふ人、松平阿波守殿、家來分にて、公儀の人、住(ぢゆう)す。

 海上の步行、平地のごとし。

 代々、家に奇驗(きげん)ありて、おなじ事也。

「いかなる大風雨(だいふうう)にも渡海するに、覆沒(ふくぼつ)の憂(うれひ)、なし。」と、いへり。

 又、長門毛利家の家中に村上掃部と云(いふ)もの、家に「浮沓」と云ものを傳ふ。

「每歲(まいとし)、元日には、右の沓をはき、隱岐國まで往來し歸りて、元日の朝飯を祝(いは)ふ。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:二つともに、都市伝説のようで、真面目に考証する気にならない。忍者の「水蜘蛛の術」があるが、あれで瀬戸内海上や隠岐へ行けるとは、到底、考えられない。]

南方熊楠「守宮もて女の貞を試む」(正規表現版・オリジナル詳細注附き)

[やぶちゃん注:本稿は南方熊楠が出版を企図していた『續々南方隨筆』の原稿として書かれたものであるが、結局、未発表に終わった。ちなみに『續南方隨筆』の刊行は大正一五・昭和元(一九二六)年十一月で、南方熊楠の逝去は昭和一六(一九四一)年十二月二十九日である。但し、『南方閑話』(一九二六年二月)・『南方隨筆』(同年五月)、『續南方隨筆』と、この時期の出版は矢継ぎ早であることから、かなり早い時期から書き溜めていたと考えてよいと思われる。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『南方熊楠全集』の「第七卷文集第Ⅲ」(澁沢敬三編・一九五二年乾元社刊)のここ以下にある当該論考を用いた。戦後の出版であるが、正字正仮名である。書名・引用等は傍点「丶」は下線に代えた。なお、これは底本では「動物隨筆」という大パートの中の一篇である。また、本作をお読みになった方は、私の電子テクストである寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蠑螈」(イモリ)・「守宮」(ヤモリ)・「避役」(インドシナウォータードラゴン)の部分等も、併せてお読みになることを、是非、お薦めする。

 底本には、ごく僅かしかルビがないが、若い読者のために、ストイックに《 》で推定の読みを歴史的仮名遣で添えた。一部は所持する平凡社『南方熊楠選集』第五巻に添えられたルビを参考にした。また、書名・雑誌名・引用・直接話法部分等には鍵括弧・二重鍵括弧を附した。その関係上もあって、一部に句点を補塡してある。傍点「◦」は下線に代えた。漢文部分は直後に私がよしとする訓読文(熊楠の訓点にはやや不審があるので、必ずしも従ってはいない)を〔 〕で補った。そこでは私の判断で一部に歴史的仮名遣で読みを添えてある。

 実は、私は、二〇〇八年五月四日に、一九八五年平凡社刊「南方熊楠選集 第五巻 続々南方随筆」を底本としたサイト版「守宮もて女の貞を試む 南方熊楠」を公開しているが、今回は零からやり直した。されば、これが決定版になる。]

 

        守宮もて女の貞を試む

 

 「古今圖書集成」、「禽蟲典」一八四に、「淮南萬畢術」を引いて云《いは》く、『七月七日、採守宮、陰カシ、合ハスニ以シ井華水、和女身、有文章、即ㇾ丹ㇾ之、不ㇾ去、去有ㇾ奸。』〔『七月七日、守宮(しゆきゆう)を採り、陰に之れを乾(かは)かし、合(あ)はすに井華水(せいくわすい)を以つてし、和(あ)へて、女身に塗り、文章(もやう)有り、即ち、丹(に)を以つて之れに塗り、去(さ)らざる者は淫ざる。去る者は、奸(かん)有り。』と。〕。晉の張華の「博物志」四には、『蜥蜴、或蝘蜓。以ㇾ器フニテスレハ朱砂、體盡、所ㇾ食滿七斤、治擣スルコト萬許。點スレハ女人支體、終年不ㇾ滅、唯房室ニハ則滅、故「守宮」。傳、『東方朔語武帝、「試ミルニㇾ之有リㇾ驗。」。』〔蜥蜴(せきえき)、或るいは、蝘蜓(えんてい)と曰ふ。器(うつは)を以つて養ふに、朱砂(しゆさ)以つてすれば、體(からだ)、盡(ことご)く赤し。食ふ所(ところ)七斤に滿ち、治(をさ)め擣(つく)すること萬(まん)許(ばかり)。女人(によにん)の支體(したい)に點(てん)ずれば、終年、滅(めつ)せず。唯(た)だ、房室の事には、則ち、滅す。故に「守宮」と號す。傳(でん)に曰(いは)く、『東方朔、漢の武帝に語るに、「之れを試みるに、驗(しるし)、有り。」と。』と。〕。「本草綱目」四三と本邦本草諸家の說を合せ考ふるに、大抵「蜥蜴」はトカゲ、「蝘蜓」はヤモリらしいが、古人は之を混同して、何れも又「守宮」と名づけたらしく、件(くだん)の試驗法に、何れか一つ用ひたか、兩《ふた》つともに用ひたか分らぬ。李時珍が『點スルㇾ臂之說、「淮南萬畢術」、張華「博物志」、彭乘「墨客揮犀」に、皆有其法、大抵不ㇾ眞ナラ、恐クハランㇾ術、今不ㇾ傳ハラ。』〔『臂(ひぢ)に點(てん)ずるの說、「淮南萬畢術」、張華「博物志」、彭乘「墨客揮犀《ぼくかくきさい》」に、皆、其の法(はう)、有り。大抵、眞(しん)ならず。恐くは、別に術(じゆつ)、有らん。今、傳はらず。』〕と云《いへ》る如し。「墨客揮犀」には、北宋の煕寧中《きねいちゆう》、京師久しく旱《ひで》りしに、舊法により雨を禱《いの》るとて、蜥蜴を水に泛《うか》べる積りで、蠍虎《けつこ》(乃《すなわ》ち蝘蜓)を用ひ、水に入《いる》ると死んで了つたので、何の効も無《なか》つたと記す。事の次第を按ずるに、北宋朝に京師で蜥蜴と名《なづ》けたは、トカゲに非ず、水陸兩棲のヰモリだつたのだ。かくトカゲ、ヤモリ、ヰモリを混じて同名で呼《よん》だから、昔し女の貞不貞を試みた守宮は何であつたか全く判らぬ。

[やぶちゃん注:「古今圖書集成」清代(十八世紀)の類書(百科事典)。現存する類書としては中国史上最大で、巻数一万巻。正式名称は「欽定古今圖書集成」。「維基文庫」のここ(「博物彙編 第一百八十四卷」)で、当該原文の電子化されたものを視認出来る。標題は『淮南畢萬術』の『守二則』。上記引用部の後に、

   *

守宮塗臍婦人無子,取守宮一枚,置甕中,及蛇衣,以 新布密裹之,懸於陰處百日。治守宮蛇衣等分,以唾 和之,塗婦人臍,磨令溫,即無子矣。

   *

とあった。

「淮南萬畢術」(わいなんばんひつじゅつ)は前漢の第五代文帝期(在位の始めは紀元前一八〇年)から武帝期(在位の終りは紀元前八七年)にかけて生きた淮南王劉安(紀元前一七九年~紀元前一二二年)が、全国の学者や方士(=道士)を招致して編纂した神仙方術書。彼は思想書「淮南子」(本邦では何故か、古くから、この書名をのみ「えなんじ」と読む)の作者として、とみに知られる。

「井華水」丑の刻に井戸から汲み上げた水。現在の茶の湯でも、この水を一陽来福の水と称して用いる。

『張華「博物志」』三国時代の魏から西晋にかけての政治家で文人の張華(二三二年~三〇〇年)が書いた幻想的博物誌にして奇聞伝説集。全十巻。「維基文庫」の電子化物で探したが、見当たらない。但し、同書の原本はもっと内容が多かった(一説に四百巻あったものを武帝が削除を命じたとも言う)ともされる。フレーズ検索を続けたところ、「国立公文書館デジタルアーカイブ」の「庶物類纂」の「蛇類屬 自十三至十四」PDF)の9コマ目に発見出来た。

『彭乘「墨客揮犀」』北宋の彭乗の撰。宋代の遺聞逸事及び詩話文評などを記したもの。中国の方のブログ「風中的貓咪」の「墨客揮犀 - 蜥蜴祈雨」の冒頭に原文が載る。

「北宋の煕寧」神宗の治世で用いられた元号で、一〇六八年から一〇七七年まで。]

「塵添壒囊抄《ぢんてんあいなうしやう》」八に、『「ゐもりのしるし」と云《いふ》は何事ぞ。是れ和漢共に沙汰ある事也、「いもり[やぶちゃん注:ママ。後掲する板本も同じ。]」とは「守宮《しゆぐう》」共《とも》書けり。「法華經」にも侍り(熊楠按ずるに、「法華經」「譬喩品《ひゆぼん》三」に、長者の大宅頓弊《とんぺい》[やぶちゃん注:衰え廃(すた)れること。]せるを記して、「鴟梟、鵰鷲、守宮、百足等、交橫馳走す」とあるを指す。)其本《そのもと》の名は蜥蜴《せきえき》也。是《この》血を取《とり》て、宮人の臂等にぬる事あり。其法取蜥蜴、飼フニテシ丹砂、體悉時、搗ㇾ之、〔其の法、蜥蜴を取り、飼ふに丹砂を以てし、體(からだ)、悉(ことごと)く赤き時、之れを搗(つ)き、〕其血を官女の臂に塗るに、いかに洗ひ拭へ共《ども》、更に落《おつ》る事なし、然共有レハ浮犯、〔然(しか)れども、浮犯(ふはん)有れば、〕其血則ち消失する也、此を以て敢《あへ》て不調の儀なし、仍《よつ》て守宮とはいふ也。去は[やぶちゃん注:「されば」。]古詩にも、「臂上守宮何ニカエン、鹿葱花落、淚如ㇾ雨」と云《いへ》り。鹿葱《ろくそう》は宜男草《ぎなんさう》なり。去は[やぶちゃん注:同前。]又和語(歌?)にも、「脫ぐ履《くつ》のかさなることの重《かさ》なれば、守宮《ゐもり》のしるし、今はあらじな。」。「ぬぐ履の重なることの重なれば」とは、人の妻のみそかごとする節《をり》に、著けたる履の自《おのづか》ら重なりて脫置《ぬぎおか》るゝ事有《あり》と云《いふ》也。「忘るなよたぶさに付《つき》し蟲の色の、あせては人に如何《いかが》答へん。」。是は其驗《しる》しあせぬべければ難ㇾ合ヒ〔合(あ)ひ難(がた)し〕と云《いへ》る也。此返歌に曰く、「あせずとも、われぬりかへんもろこしの、守宮の守る限りこそあれ。」。』、と出づ。古歌にもろこしのいもり[やぶちゃん注:ママ。]とあるので、守宮もて女人の貞操を試《ため》したことは古く日本に無《なかつ》たと知る。然るにどう間違つたものか、いつの頃よりか、水中のヰモリが雌雄中《なか》よく、交《まじは》れば離れぬとかで、其黑燒きを振懸《ふりかけ》れば、懸られた男又女が、忽ち振かけた女又男に熱く成《なつ》てくるといふ事が、淨瑠璃など(例せば「朝顏日記」)に著はれ出た。然しこれは守宮で女の貞不貞を試すと全く關係なく、古來日本に限った俗信とみえる。序(つい)でにいふ、蜥蜴類で埃及《エジプト》とサハラの沙中にすむスキンクスは、古く催淫劑として著名なと同時に、其羹(あつもの)を蜜と共に啜《すす》れば、折角起《おこつ》た物も忽ち痿了《いえをは》る由。「淮南萬畢術」に、守宮を婦人の臍《へそ》に塗れば子《こ》無《なか》らしむ、とあるも似た事だ。支那の廣西橫州に蛤蚧《かふかい》多し。牝牡上下し相呼ぶこと累日《るゐじつ》、情《じやう》洽《あまね》くして乃《すなは》ち交はる、兩《ふたつ》ながら相抱負して自《みづか》ら地に墮つ。人往《ゆき》て之を捕うるも亦知覺せず。手を以て分劈《ぶんへき》[やぶちゃん注:交合した二個体を縦に立ち割るの意であろう。]するに死すと雖も開かず、乃《すなは》ち(中略)[やぶちゃん注:丸括弧は底本にはないが、躓くので特異的に挿入した。]、曝乾《さらしほし》して之を售《う》り、煉《ねつ》て房中の藥となし、甚だ効ありといふ。是は學名を何という蜥蜴か知《しら》ぬが、昔しは雌雄相抱《いだ》いた儘《まま》紅絲《べにいと》で縛り、源左衞門が非道のやいば、重ね切りの代りに重ねぼしと、乾かして本邦へも舶來したといふ。(一九二〇年三板、「劍橋《ケンブリッジ》動物學」八卷五六一頁。プリニウス「博物志」二八卷三〇章。「本草綱目」四三。「重訂本草啓蒙」三九。)。

[やぶちゃん注:「塵添壒囊抄」先行する原「壒囊抄」は室町時代の僧行誉の作になる類書(百科事典)。全七巻。文安二(一四四五)年に、巻一から四の「素問」(一般な命題)の部が、翌年に巻五から七の「緇問(しもん)」(仏教に関わる命題)の部が成った。初学者のために事物の起源・語源・語義などを、問答形式で五百三十六条に亙って説明したもので、「壒」は「塵(ちり)」の意で、同じ性格を持った先行書「塵袋(ちりぶくろ)」(編者不詳で鎌倉中期の成立。全十一巻)に内容も書名も範を採っている。これに「塵袋」から二百一条を抜粋し、オリジナルの「囊鈔」と合わせて、七百三十七条としたのが、「塵添壒囊抄」(じんてんあいのうしょう)全二十巻である。編者は不詳で、享禄五・天文元(一五三二)年成立で、近世に於いて、ただ「壒囊鈔」と言った場合は、後者(本書)を指す。中世風俗や当時の言語を知る上で有益とされる(以上は概ね「日本大百科全書」に拠った)。南方熊楠御用達の書である。「日本古典籍ビューア」のここ(第八巻の「二十一」「守宮驗事(ヰモリノノシルシノコト)【付本名事 詩歌作倒事】」で当該部が視認出来る。熊楠の引用部は、版本が異なるのか、或いは、熊楠が読み易く改変しているものか、やや表現に異同があるが、叙述全般には問題はない。

「法華經」「譬喩品三」「法華経」の第三。「三車火宅(さんしやくわたく)」「火宅」は三界(衆生が生死を繰り返しながら輪廻する世界を欲界・色界・無色界の三つに分けた世界。「三有」(さんう)とも言う)の喩え。ある長者が、火の燃えさかる家から三人の子どもを助け出すために、それぞれが好む羊車・鹿車・牛車を与えようと約束し、逃げ出して来た後、それぞれに大白牛車を与えた、という話。羊・鹿・牛の三車、すなわち声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)・菩薩の「三乗」の教えによって、火に包まれる家にも等しい三界から、仏が衆生を導き出そうとしたことを指す)の譬(たと)えで知られる。サイト「近松門左衛門と広済寺」の「妙法蓮華経譬諭品第三」他で確認したが、「鴟梟、鵰鷲、守宮、百足等、交橫馳走す:(しきゅう、ちょうしゅう、しゅきゅう、ひゃくそくら、こうおうちそうす:現代仮名遣)と読むものと思われるが、「法華経」の「譬喩品」の本文とはちょっと異なっている。正しくは「鵄梟鵰鷲 烏鵲鳩鴿 蚖蛇蝮蠍 蜈蚣蚰蜒 守宮百足 鼬貍鼷鼠 諸惡蟲輩 交橫馳走」で、」『その古び朽ちた長者の家には、鳶(とび)・梟・熊鷹・鷲・鴉・鵲(かささぎ)・山鳩・家鳩・蜥蜴・蝮・蠍・百足・蚰蜒(げじ)・守宮・馬陸(やすで)・鼬(いたち)・狸・鼷鼠(はつかねずみ)といった、あらゆる害毒を持った生き物どもが住み着き、傍若無人・縦横無尽に走り回っている。』という意味である。

「宜男草」甘草(カンゾウ)のこと。単子葉植物綱ユリ亜綱ユリ目ユリ科ワスレグサ属 Hemerocallis のヤブカンゾウ Hemerocallis fulva var. kwanso 、又は、ノカンゾウ Hemerocallis fulva var. longituba を指していよう。

「脫ぐ履のかさなることの重なれば、守宮のしるし、今はあらじな。」「忘るなよたぶさに付し蟲の色の、あせては人に如何答へん。」最初の和歌は延慶三(一三一〇)年頃に成立した藤原長清撰になる私撰和歌集「夫木和歌抄」の「卷三十二」「雑十四」に「読人不知」で所収するが、この二つの和歌は、それよりも前の平安末期、文治年間(一一八五年~一一九〇年)に歌僧顕昭が撰した歌学書「袖中抄」(しゅうちゅうしょう)の「六」に所収する。但し、やや表記に異同があるので、以下に示す(「GLN(GREEN & LUCKY NET)からこんにちは」以下のページから孫引きさせてもらった)。

   *

ぬぐくつのかさなることのかさなれば ゐもりのしるし今はあらじな

   *

忘るなよたぶさにつけし虫の色の あせなば人にいかにこたへむ

返し

あせぬとも我ぬりかへむもろこしの ゐもりもまもるかぎりこそあれ

   *

「朝顔日記」 正しくは「生寫朝顏話」(現代仮名遣「しょううつしあさがおばなし」)。司馬芝叟(しばしそう)の長咄(ながばなし:小説)の「蕣」(あさがお)を元に、奈河春助(ながははるすけ)が「けいせい筑紫のつまごと」という歌舞伎台本に改作、それを近松徳三が浄瑠璃化したものであるが、未完成で、それを翠松園主人なる人物が完成させたとする。初演は天保三(一八三二)年(以上は河原久雄氏の「人形浄瑠璃 文楽」の「生写朝顔話」の記載を参照して簡約した。当該サイトはリンクの通知を要求しているのでリンクは貼らない)。

「スキンクス」トカゲ亜目スキンク下目ScincidaeScincus 属クスリサンドスキンク Scincus scincus か。和名が如何にもではある。英文の同種のページがある。但し、『アルジェリア発祥の 十三世紀のイスラム神話の中で、小さいながらも、重要な役割を果たしている。今日に至るまで、この地域の遊牧部族は、このトカゲが、砂に潜って天敵を避ける能力を持っており、砂漠の危険から身を守ってくれる恩恵の賜物と信じており、この動物をペットとして飼うことが多い』とあるばかりで、催淫剤の話は載らない。他の言語の記載も見たが、ない。この種ではないのかも知れない。

「源左衞門」「與話情浮名橫櫛』(よわなさけうきなのよこぐし)は歌舞伎の演目。嘉永六(一八五三)年五月、江戸中村座初演。九幕十八場。三代目瀬川如皐(じょこう)作。通称の「切られ与三」・「お富与三郎」・「源氏店(げんやだな)」の通称の方が通りがいい。その登場人物地元の親分で、お富を妾にしていた親分が赤間源左衛門。冒頭、彼に与三郎は彼と子分どもに滅多斬りされる。

『一九二〇年三板、「劍橋動物學」八卷五六一頁』原書に当たれなかった。

『プリニウス「博物志」二八卷三〇章』プリニウス『博物志』二八巻三〇章:以下に所持する一九八九年雄山閣刊の「プリニウスの博物誌Ⅲ」(中野定雄他訳)より、当該箇所を引用する。

   《引用開始》

スキンクから四種[やぶちゃん字注:次の「三〇」の上には節の通し番号の[119]がある。また(注1)は訳者によるもの。]

 三〇 それに[やぶちゃん注:この部分の前掲二九章の薬物の得られるカメレオン十五種を指す。]似た動物はスキンクスそれに似た動物はスキンクス(注1)である――そして実際それは陸のワニと呼ばれた――しかしそれはもっと色が薄く、皮も薄い。だがワニとのおもな違いは鱗の並び方であって、これは鱗が尾から頭の方へと向っている。インドのスキンクスがいちばん大きく、アラビアのそれが次に大きい。これを塩づけにして輸入する。その鼻面と足を白ブドウ酒に入れて飲むと催淫剤になる。とくにサテユリオン<ランの一種>およびカキネガラシの種子を加えたものがよいが、この三つを合せて一ドラクマとコショウ二ドラクマを調合する。この調合物の一ドラクマの丸薬を内服[やぶちゃん字注:ここの頭に節の通し番号[120]が入る。]する。脇腹の肉だけの二オボルスに、没薬およびコショウを同じ割合だけ加え内服すると、同じ目的に対してさらに有効だと信じられている。アベレスの報告によれば、それを負傷の前または後に用いると矢の毒に効くという。それはまた、もっと有名な解毒剤の成分として加えられる。セクスティウスは、重さ一ドラクマ以上を一へミナのブドウ酒に入れて飲めば、それは致死量だと、そしてさらにスキンクスのスープをハチ蜜といっしょに摂ると制淫剤なると言っている。

  注1 トカゲの一種。現存のスキンク(トカゲ)でなく、もっと大きい。

   《引用終了》

『「本草綱目」四三』「漢籍リポジトリ」の同書同巻の「蛤蚧」が当該部。ガイド・ナンバー[102-18a] にある「蛤蚧」を見られたい。影印本画像も見られる。

『「重訂本草啓蒙」三九』国立国会図書館デジタルコレクションの「重訂本草綱目啓蒙」(弘化四(一八四七)板本)ここの「守宮」の次の「蛤蚧」の方を参照されたい。]

 誠や老《おい》たるも若きも、後家も比丘尼も、此迷ひの一《いつ》ぞ忘れ難きで、小生などは、早七十近い頽齡を以てしてなほ、この文を草する内すら、名刀躍脫、さやつかのまも油斷成《なら》ず。ヰモリの黑燒など何のあてに成ぬ物が、年々此迷ひの殊に盛んな歐米へ數萬圓の輸出あり、大分國益となると聞《きけ》ば、件(くだん)の蛤蚧も早く臺灣邊へ移し入《いれ》て養成したらよかろう。榕樹《ようじゆ》間に住む物の由。

[やぶちゃん注:「榕樹」イラクサ目クワ科イチジク属ガジュマル Ficus microcarpa のこと。]

 守宮で女の貞否を驗するに似た事、支那以外にも多い。其一例は、一九〇六年板、デンネットの「黑人の心裏」八九頁に、レムべてふ腕環を佩《おび》て嫁した人妻をンカシ、レムべと呼び、其夫の凡ての守護尊の番人たり、斯《かか》る婦人が「伊勢の留守、天の岩戶をあけ放し」、鬼の不在に洗濯をさせると、夫が歸り來て、婚儀の守りとした品々を入れ置いた籃《かご》を開けば、悉くぬれている[やぶちゃん注:ママ。]ので、扨《さて》は嚴閉《がんぺい》し置《おか》れ乍ら、鬱情勃發して誰かを引き入れ、ぬれ事をしたと判ずとある。

[やぶちゃん注:『一九〇六年板、デンネットの「黑人の心裏」八九頁』ちょっと疲れたので、調べる気にならない。悪しからず。]

 昭和七年[やぶちゃん注:一九三二年。]一月二十八日追記。バープ・サラト・カンドラ・ミトラ氏說に、アフガニスタンとベルチスタンではトカゲを壯陽劑とし、此印度[やぶちゃん注:ママ。筑摩版『選集』では『北インド』である。誤植であろう。]の沙地にすむトカゲの一種ウロマチスク・ハルドウヰキイは陰萎の妙藥と信ぜらる。又印度の或土人はトカゲの油を催淫劑とすと(一八九八年發行『ベンゴル亞細亞協會雜誌』六七卷三部一號、四四―四五頁)。

[やぶちゃん注:「ベルチスタン」バルチスタンとも呼ぶ。パキスタン南西部の地方(グーグル・マップ・データ)。広くはイラン南東部からアフガニスタン南部を含む。イラン高原の南東部を占め、一般に大陸性の乾燥気候を呈する。イラン系バルチ族などが遊牧生活を営む。]

2024/02/11

不審な事件(あなたも巻き込まれる可能性大)

 昨日、夜、数少ない私が使用しているクレジット・カード会社より、普段、対面以外に全く使用していないクレジット・カードで、二万八千円程の、ネット決済をする仕儀が行われている由の電話が同社(確認済み)からあり、私が普段、ネット上で、一度も行っていないネット決済が行われていることに附き、電話があり(されば、同社のコンピュータが「異常」を発し、決済は停止済みの由であった。カードは停止され、十日ほど使えなくなってしまった)、私は「身に覚えがない」ことを答えた。
 ところが、その時刻を聴いたのだが、よくよく考えると、私が先日、文楽を見に行く途中、東日本のスイカ・カードで、一万円をチャージした時間と完全一致するので、それを、先ほど、JR東日本に連絡した。
 私はネットでは、カード決済はネット・セキュリティ会社以外には使用していない(そちらにも本件を連絡済みである)。
 不思議なことだ。
 あなたも、お気を附けあれかし。


 正直、甚だ――殺したいほど――腹が立ったワッツ!!!

南方熊楠発信「今井三子」宛昭和十年十八日朝五時起筆書簡(サイト版『(Phalloideae の一品)』の正規表現版)

[やぶちゃん注:底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの『南方熊楠全集』の「第十二卷書簡第Ⅴ」(澁沢敬三編・一九五二年乾元社刊)の当該書簡を用いた。戦後の出版であるが、正字正仮名である。

 宛名人の今井三子(いまいさんし 明治三三(一九〇〇)年~昭和五一(一九七六)年)は、当時は自身が修了した北海道帝国大学農業生物学科助手であった菌類学者。後の昭和一三(一九三八)年には北海道産ハラタケ科菌類に関する研究成果を発表し、農学博士を授与され、昭和一八(一九四三)年、北海道第一師範学校教授、翌年からは北大農学部助教授を兼任した。昭和二四(一九四九)年から北海道学芸大学教授に就任、昭和二八(一九五三)年より横浜国立大学学芸学部教授として農学教室主任を務めた。昭和四〇(一九六五)年に横浜国立大学を定年退官した後、フェリス女学院大学教授に就任、昭和四三(一九六八)年からは同校で非常勤講師の職にあった。菌類分類学・植物病理学の分野で貢献し、アミガサタケ科Morchellaceaeイモタケ属 Imaia や、チチタケ属の種 Lactarius imaianus の学名に献名されている。サイト「南方熊楠資料研究会」「キノコ図譜描画中の南方熊楠」では、本書簡送付の翌月、今井来紀の折り、彼が熊楠を撮った写真を見ることが出来る。

 ちなみに、この「ハドリアヌス茸」は、南紀白浜にある「南方熊楠記念館」にて実物標本を閲することができ、私は二〇〇六年九月の南紀旅行で見ることが叶った。

 なお、正式には、これは菌界担子菌門菌蕈亜門真正担子菌綱スッポンタケ目スッポンタケ科スッポンタケ属 PhallusFlavophallus節アカダマスッポンタケ Phallus hadriani の仲間と推定される稀種中の稀種であろう(種同定に至ってはいない)ことは、以下のページを参考にされれば、納得されるであろう。ここではアカダマスッポンダケの生態写真も見られる。〔⇒gecko(ゲッコー)氏のサイト「生き物研究室」の「北海道生物図鑑(写真集)」の「植物・菌類」の「アカダマスッポンタケ」である。また、海外の版の“ Phallus impudicus: The Common Stinkhorn”や、“ Phallus hadriani in Santa Fè ”では、Phallus hadriani の生態のみならず、剖検された部分をも視認出来る。因みに、この属名 Phallusは言わずもがなだが、「ファルス」で、古代ギリシャ語の「勃起した陰茎・陰茎のような形をした物」を意味する語をラテン語にしたものである。

 御覧の通り、図は底本にもあるが、これは国立国会図書館の許可を得ないと使用出来ないので、所持する次に記す『河出文庫』にあるものを、OCRで読み込み、トリミング補正して添えた。但し、この『河出文庫』の図版は、本底本の図と比較するに、明らかに手が加えられてあるので、必ず、比較されんことを望む。

 なお、二行目の「南方熊楠再拜」は下三字上げインデントであるが、ブラウザの不具合を考え、引き上げた。結語の「早々敬具」は、本文最終行の下インデント四字上げであるが、引き上げた。読みは、恐らく編者が附したものと推定されるが、採用した。踊り字「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。

 なお、本篇はサイト版で、「(Phalloideae の一品)」として、一九九二年河出書房新社刊の中沢新一編「南方熊楠コレクション Ⅴ 森の思想」(河出文庫)所収の「ハドリアヌスタケ」(新字新仮名)を底本(末尾に、「(平凡社版『南方熊楠全集』第九巻584586頁)」の親本提示がある)で、一度、電子化注しているが、零からやり直したので、こちらを決定版とする。熊楠は送り仮名が不全である。万一、読みに躓いた場合は、整序されたそちらを見られたい。]

 

 昭和六年十月十八日朝五時

  今 井 三 子 樣   南 方 熊 楠 再 拜

 

 拜啓、昨日大阪より舊友來り候付、承り合せし處、大抵大阪より和歌山市まで四十分、又は一時間、和歌山より當地まで四時間にて、優に到着を得ることに御座候。何れも汽車と電車とにて大阪より南部(みなべ)町に到り、南部町より、此田邊町までは自働車(乘合)を用ることに御座候。然し御都合にて大阪天保山(てんぽうざん)より夜の九時に汽船に乘らば、明朝四時に、當田邊町近處文里(もり)といふ小港に着、上陸して乘合自動車に乘らば、小生宅と同町内の終局點(右乘合自動車會社本店)に達することにて、それより小生宅まで小半町ばかりに御座候。これらのことは大阪の旅宿より電話にて、船會社又はその大阪市内切符賣捌(うりさばき)所へ聞き合(ききあは)さば、直ちに知れることの由に御座候。[やぶちゃん注:『河出文庫』版に従うなら、以下の頭に『御都合にて、』とある。]夜分御存知なき初めての所に着し、汽車、自働車[やぶちゃん注:ママ。]にのり後(おく)るゝ等のことありて、如何はしき旅宿に夜を過し、近所喧噪(けんさう)のため眠ることもならぬよりは、夜分御出發を餘儀なくさるゝ節は、船便の方が樂(らく)なることと存じ侯。大阪より當地までの航海は、以前は隨分難路なりしも、只今は船が大きくなりし故、大風などのことなき限りは安樂なものに御座候。

 小生は足惡きをもって、自ら諸方へ御案内申すことは、或は不可望と存じ候故に、諸地の心安き友人を招集し、貴殿御着の上、それぞれ部署して諸方へ御案内申し上ぐるやう賴みおき候。その人々も每度拙宅へ來り、どこに菌が多く產する位い[やぶちゃん注:ママ。]のことは熟知しおる[やぶちゃん注:ママ。]なり。

 

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[やぶちゃん注:図一。キャプションは右の茸に「成熟品」、左の茸に「未熟品」とある。]

 

 拙方の標本圖記は、きわめて多數、且つ混雜しおる[やぶちゃん注:ママ。]を以て、悉皆御覽には數日を全くその方に費やさゞる可らず。小生、時として色々用事もあり、是亦不可望のことに付き、先づ重(おも)立たものを御覽に入るべく、用意致し置べし。而して先日も一寸、書面で申上おきし如く、小生方に近來の雜誌報告等、屆かず、又、家累と老齡衰弱の爲め、精査を遂るに由なく、久しく打ちやり置たるもの多し。其内に必然、無類の新屬と思ふPhalloideaeの一品あり。記憶のまゝに申上ると、上圖[やぶちゃん注:図一。]の如きものなり。生た時は牛蒡(ごばう)の臭氣あり、全體紫褐色、陰莖の前皮がむけたる形そつくりなり。印度より輸入して久しく庫中に貯へられたる綿花(わた)の塊に生したる也。

 

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[やぶちゃん注:図二。]

 

 昔し和蘭人が爪哇(ジヤワ)邊で(多分アンボイナ島)寫生せしLejophallusとか申す菌屬の圖が尤も之に似おり候。( Nees  ab  Esenbeck  の圖を小生持ち居る)然るに此屬の記載、甚だ怪しく簡に過るを以て、サッカルドの菌譜には、たゞその名を載せるのみ、記載すら移し入れおらず[やぶちゃん注:ママ。]。その圖は只今、うろ覺えのまゝ寫生すれば、こんな怪しきもので[やぶちゃん注:図二。]、紫といふよりは紺靑色に彩色しありしと記臆[やぶちゃん注:ママ。]す。

 小生知る所ろ、拙藏の標品の外に例類なきものなり。貴下は拙方に御滯在中に、この菌(酒精に藏しあり、故に變色はせるものゝ)全體の寫生と記載は(外部に關する限り、十分に致して今ももちおれり[やぶちゃん注:ママ。])[やぶちゃん注:以上の丸括弧注は:『河出文庫』版に従うなら、「((外部に關する限り、十分に致して今ももちおれり[やぶちゃん注:ママ。])」である。これは本底本編者が、丸括弧の不全ととり、修正を加えた可能性が高い。]を小生立會ひの上、解剖鏡檢して大抵要點を控え[やぶちゃん注:ママ。]去り、御歸札の上、精査して命名發表下ずや[やぶちゃん注:「くださらずや」。]。顯微鏡は、當方に三四臺あり、故に鏡檢に差支へなきも、なにか貴下得意の手輕な要品あらば(解剖刀等)御攜帶を乞ふなり。藥品等は當地で調ふべし。而して大抵、御心當りの右の圖に近き菌品の文献を、御しらべおき被下度候。外にも一二品、貴下の精査命名を乞度[やぶちゃん注:「こひたき」。]品あり、昨日、人を派して生品を採らせあり、今日、自ら寫生しおく。又、御來臨の上、その菌生ぜる現場へ御案内申し上ぐべし。   早々敬具

 

[やぶちゃん注:当時、南方熊楠は満六十四歳。先立つ昭和三年に長男熊弥の精神病(統合失調症と思われる)が悪化し、京都の岩倉病院に入院させている(大正一四(一九二五)年三月に高知高等学校受験のために高知に赴いたが、その旅先で発病し、それまでは自宅療養をしていたが、発作を起こした彼が熊楠の粘菌図譜を破り捨ててしまうなどの異常行動等があったことが知られている彼は明治四〇(一九〇七)年生まれで、後に海南市藤白(ふじしろ)で療養した。熊楠の死後(昭和一六(一九四一)年十二月二十九日(享年満七十四歳。死因は萎縮腎であった)、五十代半ばで昭和三五(一九六〇)年)に亡くなっている)。

「アンボイナ島」アンボン島(グーグル・マップ・データ)。

Lejophallus」(斜体でないはママ。熊楠は邦文論考でも斜体にしていないことが多い)これは、同じスッポンタケ属アカダマノオオタイマツ Phallus rubicundus のシノニムである。サイト「Picture Mushroom」の「アカダマノオオタイマツ」を参照されたい。

Nees  ab  Esenbeck」ドイツの博物学者にして医師のクリスティアン・ゴットフリート・ダニエル・ネース・フォン・エーゼンベック(Christian Gottfried Daniel Nees von Esenbeck 一七七六年~一八五八年)はゲーテと同時代人で、リンネの存命中に生まれ、博物学者として多くの動植物の記載を行うとともに、一八一八年から一八五八年まで『ドイツ自然科学アカデミー・レオポルディーナ』(Leopoldina)の会長を務めた人物。詳しくは当該ウィキを見られたいが、思うに、熊楠の所持する図譜は、彼の‘ Das System der Pilze und Schwämme. Ein Versuch. 2 Bände ’(一八一六年~一八一七年刊行:全二巻:「茸類と海綿類の体系の試論」であろう。

「サッカルド」イタリアの植物学者・菌学者ピエール・アンドレア・サッカルド(Pier Andrea Saccardo 一八四五年~一九二〇年)。当該ウィキによれば、主に『菌類の研究に従事し、有性生殖を営むステージが未発見の「不完全菌」やフンタマカビ綱 (Sordariomycetes)に関する』百四十『編以上の論文を発表した。ほぼ完全なキノコの目録』‘ Sylloge ’(シロージュ:「コレクション」の意)『が有名である。胞子色や形によって、不完全菌類を分類する体系を開発し、DNA分析をもとにする分類法の前に主流な分類体系であった』とある。]

2024/02/10

ブログ2,100,000アクセス突破記念 南方熊楠「大きな蟹の話」(正規表現版・オリジナル詳細注附き)

[やぶちゃん注:本稿は南方熊楠が出版を企図していた『續々南方隨筆』の原稿として書かれたものであるが、結局、未発表に終わった(実際、後掲する平凡社『南方熊楠選集』第五巻の本篇の本文末下部には、編者による『(未発表手稿)』という文字がある)。因みに『續南方隨筆』の刊行は大正一五・昭和元(一九二六)年十一月で、南方熊楠の逝去は昭和一六(一九四一)年十二月二十九日である。但し、『南方閑話』(一九二六年二月)、『南方隨筆』(同年五月)、『續南方隨筆』と、この時期の出版は矢継ぎ早であることから、かなり早い時期から書き溜めていたと考えてよいと思われる。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『南方熊楠全集』第七卷文集Ⅲ(渋沢敬三編・一九五二年乾元社刊)のここから用いた。戦後の出版であるが、正字正仮名である。なお、これは底本では「動物随筆」という大パートの掉尾である。

 底本には、ごく僅かしかルビがないが、若い読者のために、ストイックに《 》で推定の読みを歴史的仮名遣で添えた。一部は所持する平凡社『南方熊楠選集』第五巻に添えられたルビを参考にした。また、書名・雑誌名・引用・直接話法部分等には鍵括弧・二重鍵括弧を附した。その関係上もあって、一部に句点を補塡してある。

 なお、実は私は、私のサイト「鬼火」の「心朽窩旧館」で、一九八五年平凡社刊の「南方熊楠選集 第五巻 続々南方随筆」を底本とした新字新仮名・後注附きの「大きな蟹の話 南方熊楠」として二〇〇七年四月七日に公開しているが、本篇を正規表現決定版とすることとし、注も零から作り直している。

 また、本電子化は、昨日の深夜、二〇〇六年五月十八日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の二〇〇五年七月六日)、本ブログが2,100,000アクセスを突破した記念として公開する。【二〇二四年二月十日 藪野直史】]

 

       大 き な 蟹 の 話

 

 一八九三年板、ステッビング師の「介甲動物史」二六頁に、一八五五年へッフェル纂「廣傳記新編」一四卷を引いて云《いは》く、キャピテーン・フランシス・ドレイクがアメリカの蟹嶋に上陸して、忽ち蟹群《かにのむれ》に圍まれ、兵器もて健《したた》か抵抗したれど蟹に負けた、是等の怪しい蟹は世界で最大の物で、其螯《はさみ》でドレイクの手脚や頭を散々片々に切りさいなみ、其尸骸を骨ばかりに嚙み盡したと。ス師は此話に多少據所《よりどころ》ある由を述べて云く、ドレイク、實は失望のあまり病《やん》で船中に死んだ。世界周航を爰迄無難に遂來《きたつた》つたのだ。蟹がドレイクを食《くふ》たでなく、ドレイクと其徒《ともがら》が蟹を食ふたので、其蟹一疋で四人の食料に十分だつたと、其徒が後日言つた。そんな事が有《あつ》たかも知れない。と云ふは、濠州の大蟹で、ラマークがプセウドカルキヌス・ギガスと學名を名附けたのは、時に殼の幅二呎《フィート》[やぶちゃん注:ほぼ六十一センチメートル。]に及び、一《ひとつ》の螯が餘程大きいといふ。蘭人リンスショテンスの「ゴア航記」に、ゴアの南サンペテロ州なる地に、人が其一の螯で挾まれたら死ぬ故、注意して禦《ふせ》がにや成《なら》ぬ程大きな蟹がおびただしくすむと書いたも、右樣の大蟹が實在するより推して尤もらしく思はると。(「宋高僧傳」一九、唐の成都法定寺惟忠の傳に、此寺塔より一巨蟹の身足二尺餘なるを獲《え》た、と記す。海より遠い地だから、そんな物がいき居《をつ》た筈なし。どこかの海邊より取寄せた山事《やまごと》だつたらう)。

[やぶちゃん注:『一八九三年板、ステッビング師の「介甲動物史」二六頁』不詳。識者の御教授を乞う。

『一八五五年へッフェル纂「廣傳記新編」一四卷』同前。

「キャピテーン・フランシス・ドレイク」エリザベス朝イングランドのゲール系ウェールズ人航海者で海軍提督にして海賊(私掠船船長)であったフランシス・ドレーク(Francis Drake 一五四三年頃~一五九六年)。イングランド人として初めて世界一周を達成した。当該ウィキによれば、一五九六『年、コロンビアのリオアチャを襲撃し』、『金や真珠を強奪』したが、『スペイン王国のインディアス艦隊が避難所を探していたパナマのポルトベロの海岸から離れて停泊中に、赤痢により』五十五『歳で亡くなった。死ぬ間際には、病床で鎧を着ようとするなど錯乱状態であった(恰好よく死にたかったのだともいわれているが)』とあった。

「アメリカの蟹嶋」不詳。

「濠州の大蟹で、ラマークがプセウドカルキヌス・ギガスと學名を名附けた」「セウ」は右に小文字で附されてあるが、下附きで示した。プセウドカルキヌス・ギガスである。当該ウィキによれば、イソオウギガニ科タスマニアオオガニ属タスマニアオオガニ Pseudocarcinus gigas 。シノニムにCancer gigas Lamarck, 1818 とある。「東京海洋大学海洋科学部附属水産資料館」内の展示の同種のページを参照されたい。解説もある。但し、そこでは和名を「オーストラリアオオガニ」とする。「ラマーク」は上記のシノニムのLamarckで、ブルボン朝から復古王政にかけての十九世紀の著名な博物学者で進化論学者としてが「用不用説」を提唱したジャン=バティスト・ピエール・アントワーヌ・ド・モネ、シュヴァリエ・ド・ラマルク(Jean-Baptiste Pierre Antoine de Monet, Chevalier de Lamarck 一七四四年~一八二九年)。彼は「biology」(生物学)という語を、現代の意味で初めて使った人物の一人であり、「脊椎動物」と「無脊椎動物」を初めて区別したのも彼である(当該ウィキに拠った)。

『蘭人リンスショテンスの「ゴア航記」』オランダの航海者ファン・リンスホーテン(Jan Huyghen van Linschoten 一五六三年頃~一六一一年:オランダ人として最初の東洋事情紹介者となる。若い時、スペインに渡り、一五八三年にインドのゴアに着き,大司教に仕えて約五年、同地に滞在した。一五九二年に帰国し、各地での豊富な見聞を「東方すなわちポルトガル領インド水路誌」(邦訳「東方案内記」)などに記して一五九五年から翌年にかけて出版した。一五九五年にオランダを出帆し、東インドに向かったハウトマンの船隊は、少なくとも、この書物の一部を知っていたと思われる。それ以後の航海者は、この書物を重要な指針とし、航海記を書く際の手本とした。彼は、当時、有力だった北極海経由の東洋到達計画にも興味を示し、一五九四年から翌年にかけて、その第二回航海に参加し、旅行記を著した。晩年は港町エンクハイゼンに住み、町の運営に参加し、著述や翻訳に専念する傍ら、『西インド会社設立計画』にも加わった(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「ゴアの南サンペテロ州」ゴアは南インドの西岸のここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

『「宋高僧傳」一九、唐の成都法定寺惟忠の傳に、此寺塔より一巨蟹の身足二尺餘なるを獲た、と記す』「大蔵経データベース」で確認した。『而獲一巨蟹。身足二尺餘。是塔頗多靈異』とあった。]

 ス氏の書二七頁に云く、現存のカブトガニ(これは蟹よりも蜘蛛に近い)に緣あるプテリゴッスは、全屬過去世に絕滅した、その遺體より推すに、身の長さ六呎[やぶちゃん注:約一・八三メートル。]、最も廣い幅が二呎[やぶちゃん注:約六十一センチメートル。]に及ぶのが有《あつ》たらしい。見樣に由《よつ》て確かに最大のプテリゴッスとその大《おほきさ》を爭ふべく、古來、巨蟹に關する種々の怪談の根本たりと想はるゝ者が日本にある。シマガニ乃《すなは》ち是で、大英博物館に展覽せる者は、其雄の二腕を張《はら》せ兩端の間だ八呎[やぶちゃん注:約二・四四メートル。]あり、十一呎[やぶちゃん注:約三・三五メートル。]に及ぶもありときく。誠に恐れ入《いつ》た大きさだが、此蟹、實はクモガニの一種に過ぎず。足弱く細い方で、其殼、長幅共に十二吋《インチ》[やぶちゃん注:約三十センチメートル半弱。]を踰《こ》えずと。予、英國に在《あつ》た時、介甲類の專門家共に聞いたは、蟹類の頭と胴と分《わか》ち難く密着した物は凡て穎敏活潑《えいびんかつぱつ》で、頭と胴と區別されて腦髓が著るしく發達したらしい者程癡鈍因循だ、と。此シマガニも頭が挺出して賢こそう[やぶちゃん注:ママ。]にみえるが、實は極めてボンヤリで行動頗る遲緩、其につけ込んで棒で敲き殺して罐詰にするは酸鼻の至りと、故福本日南が北海道での目擊談だつた。とにかく世界一の大蟹故、何とか保續させてやりたい。

[やぶちゃん注:「カブトガニ(これは蟹よりも蜘蛛に近い)」節足動物門鋏角亜門節口綱カブトガニ目カブトガニ科カブトガニ属カブトガニ Tachypleus tridentatus で、かなり知られているので言わずもがなであるが、通常の我々が知っている「蟹」(カニ)類は、節足動物門甲殻亜門 Crustacea であるが、本カブトガニ類は、熊楠の言う通りで、鋏角亜門 Chelicerata であって、「カニ」と名附くものの、カニ類とは極めて縁遠く、同じ鋏角亜門 Chelicerata である鋏角亜門クモ上綱蛛形(しゅけい/くもがた/クモ)綱クモ亜綱クモ目 Araneae のクモ類や、その近縁の蛛形綱サソリ目 Scorpiones のサソリ類に遙かに近い種である(鋏角亜門には皆脚(ウミグモ)綱 Pycnogonida も含まれる。なお、現生カブトガニは全四種である)。また、古生代の仲間の形態を色濃く残している「生きている化石」である。私の『毛利梅園「梅園介譜」 鱟 (カブトガニ・「甲之圖」(被覆甲面)及び「腹之圖」(甲下腹面の二図))』を見られたい。

「プテリゴッス」古生代のシルル紀からデヴォン紀にかけて繁栄したウミサソリ、則ち、節足動物門鋏角亜門節口綱†ウミサソリ目†ウミサソリ亜目†プテリゴトゥス上科†ダイオウウミサソリ科†アクチラムス属(旧称ユーリプテルス属 Pterygotus )の一種† Acutiramus macrophthalmus  を指す。ウィキの「アクチラムス」を参照されたい。

「シマガニ」これは世界最大の蟹とされるタカアシガニ(高脚蟹) Macrocheira kaempferi の別名である。「縞蟹」で、恐らくは、脚の縞模様を指す異名であろう。私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蟹(カニ類総論)」を参照されたい。また、同じく「東京海洋大学海洋科学部附属水産資料館」内の同種の展示ページも見られたい。

「福本日南」(安政四(一八五七)年~大正一〇(一九二一)年)は新聞記者で史論家。先進的ジャーナリスト。本名は誠。筑前福岡藩出身。初め、『日本新聞』に入社し、明治三八(一九〇五)年には『九州日報』社長となる。同四一年、衆議院議員に当選した。史伝を得意とし、『九州日報』に連載された「元祿快挙録」は有名。南方熊楠とは在英中に邂逅し、親しくなった。石瀧豊美所長の「イシタキ人権学研究所」内の「福本日南の部屋」を参照されたい。]

 怪異的の巨蟹の咄しが日本の記錄に少なからぬ。例せば寬永二年板、菊岡沾凉の「諸國里人談」五に、『參河國幡頭郡吉良庄冨吉新田の海邊は大塘にして、根通りは石を以てつきたて、髙さ一丈二三尺餘、小山の如くなるが、享保七年八月十四日の大嵐にて此堤きれたり、里人多く出て之を防ぐに、甲の徑七尺許(ばかり)の蟹出たり。水門の傍を穿ちて栖家としける。其穴より潮押込て切たる也。人夫大勢、棒熊手を以て追廻しける、右の鋏を打折りたり、其乍らにして海に沈む。件(くだん)の鋏は人の兩手を束ねたるが如く、今以て時として出ける也。一方の鋏亦出生す。然れども左よりは拔群小さしと云ふ。』とみゆ。古い大津繪節の文句に「蟹の穴から堤が崩れる、氣を附けな」といふた誡めの適切な實證だ。

[やぶちゃん注:私の「諸國里人談卷之五 大蟹」を見られたい。それがあるので、私の読みは附さなかった。]

 播磨の蟹阪《かにさか》は、昔し大蟹屢《しばし》ば出《いで》て往來を妨げ、弘法大師之を池に封じ込《こめ》たといふ(藤澤氏『日本傳說叢書』明石の卷)。萬治元年、了意筆「東海道名所記」五に、伊勢の『蟹坂、蟹が石塔は左の方にあり、松二本植えたり、昔し此所《ここ》に妖怪有りて往來の人を惱まし侍べり、或時、會解僧《ゑときそう》一人爰を通りけるに彼《か》の妖怪出《いで》たり。僧卽ち問ふて曰く、「汝は何物ぞ、名のれ、聞かん。」といふ。怪物答へて曰く、「兩手空をさし双眼天につけり、八足橫行《わうぎやう》して樂しむ者也。」といふ。僧仍《すなは》ち悟りて曰く、「橫行は橫に行くと讀めり、双眼天につける者、兩手空をさし、八足にして橫に行く、汝は定めて蟹にあらずや。」と言はれて、姿を現はしつゝ戒を授かり永く禍《わざはひ》を致さゞりけり。其標《しる》し迚(とて)今に塔石あり云々」と。安永六年成つた太田賴資の「能登國名跡志」坤卷に、右の話の異傳あり。珠洲郡寺社村の蟹寺は、『法成山永禪寺といふ、この寺昔は敎院なりしが、妖怪の爲に住持を取殺《とりころ》す事久し。依りて住職する人もなきあき寺也しに、貞和年中の頃か、同國酒井の永光寺瑩山和尙の御弟子月菴禪師行脚の時此寺に來りて、客殿に終夜坐禪しておはせしに、丑滿の頃震動して、眼《まなこ》日月《じつげつ》のごとくなる恐ろしき物顯はれいで、禪師、「暫く待《まつ》た、問ふことありや。」、彼者曰く、「四足八足兩足大足、右行左行眼天にあり。」といふ、禪師「汝は蟹にて有るや。」迚(とて)、拂子《ほつす》を持つて打給ふ、忽ち消えて失せにけり、夜明けて里人きてみれば、禪師の恙なき事ふしぎに思ひ、其樣子を尋ねみるに、後《うしろ》の山に千尋深き池あり、其水の面《おもて》に幾年ふるとも知《しれ》ぬ一丈餘の蟹の甲八つに破《わ》れて死して浮《うか》みゐたり。其後《そののち》妖怪なし、卽ち月庵禪師を開山として二世天桂和尙、三世北海和尙の木像、開山堂に安置あり、又蟹の住《すみ》し池の跡、後の山にあり、又此月菴和尙、俗姓は曾我家にて至つて美僧なりしと云へり云々」とのせ、「蟹寺の謂《いは》れをきくに今更に猶仰がるゝ法の力は」としやれておる[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:「播磨の蟹阪」現在の兵庫県明石市和坂(わかさ)。個人ブログ「hasyan の 旅の散歩道」の「坂上寺と蟹塚」に『ここには弘法伝説があります』「播磨鑑」『によりますと、昔この和坂に蟹が棲み、旅人を襲った。諸国を回っていた弘法大師がこのことを聞かれ、蟹を封じ込めたので、蟹和坂村と称したが、その後「蟹」を省略して「和坂」となり、「かにがさか」と読ませたとあります』。「播磨名所巡覧図絵」『にも紹介があり、江戸時代の観光スポットの一つであったのだろうと思います。お大師さんを良く見ると』、『カニさんが、まだ改心できないのか』、『お大師さんに錫杖でがっちり押さえ込まれていますよ』とあった。坂上寺はここ

「藤澤氏『日本傳說叢書』明石の卷」藤沢衛彦編・日本伝説叢書刊行会大正七(一九一八)年刊を、幸いにして国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで、「蟹和坂(明石郡林崎村大字和阪)」視認出来る。

『萬治元年』(一六五八年)淺井『了意筆「東海道名所記」五』国立国会図書館デジタルコレクションの「東海道名所記 東海道分間繪圖」(『日本古典全集』昭和六(一九三一)年刊)のこちらで『〇蟹坂』の条が視認出来る。

「安永六年」(一七七七年)「成つた太田賴資の「能登國名跡志」坤卷に、右の話の異傳あり。珠洲郡寺社村の蟹寺」「法成山永禪寺」「能登國名跡志」は加賀金沢の太田道兼頼資(?~一八〇七年)の著になる能登地誌。これも国立国会図書館デジタルコレクションの『大日本地誌大系』第十三冊(大日本地誌大系刊行会編・日本歴史地理学会校訂・大正六(一九一七)年刊)のこちら(左ページ上段三行目以降)で視認出来る。この「蟹寺」は現在の石川県珠洲市上戸町(うえどまち)寺社(じしゃ)に現存し、正しくは「法城山永禪寺」である。「曹洞宗石川県宗務所」公式サイト内の「法城山永禅寺」も見られたい。

「曾我家」法城山永禪寺のサイド・パネルを見ていただくと、ここに『市指定文化財 無縫塔(伝]曽我兄弟の墓)』が現存する。個人ブログ「お寺の風景と陶芸」の「永禅寺 (石川県珠洲市) 伝曽我兄弟の供養塔」に、『日本三大仇討ち(赤穂浪士の討入り、伊賀越えの仇討ち、曽我兄弟の仇討ち)の一つ曽我兄弟(曽我十郎、五郎)の仇討ちの兄・十郎の妾虎御前が、兄弟の菩提を弔う行脚の途次、この珠洲の地に庵を結んだと伝え』、: 延元三/ 建武五・暦応元(一三三八)年、『能登半島の名刹・永光寺の僧月庵が曽我兄弟を勧請開基として、庵を永禅寺として開創したと伝えている』。『境内には、曽我兄弟の供養塔といわれる塔が』二『基ある』とされ、しっかり、『このお寺には、月庵が妖怪となった蟹を退治したと伝える<蟹伝説>が残っている』と紹介しておられる。]

 大正九年『民族と歷史』三卷七號七一三頁に述《のべ》た通り、明治十一年頃[やぶちゃん注:読点なしはママ。]予、和歌山のある河岸《かはぎし》で、當時餘り他に重んぜられなかった或部民が流木を拾ふをみおる[やぶちゃん注:ママ。]と、其一人が、「昨夜何某方に產《うま》れた子は男か女か」と問ふに、今一人「ガニぢや」(蟹だ)と答へた。予方《よのかた》へ同部から來る雪踏直《せつたなほ》しが有合《ありあは》せたのに尋ねると、「蟹は物を挾む故、女兒を『蟹』といふ。工人の地搗唄《ぢつきうた》にも、『おすま[やぶちゃん注:所持する平凡社選集では、『おすき』とある。]おめこは釘貫おめこ、またではさんで金(かね)をとる』と云ふて、總別《さうべつ》女はよく挾むもの」と博識振つて答へた。全體佛僧はよく啌《うそ》をつく。既に月菴和尙は至つて美男と有れば、名門曾我氏の出《で》でもあり、邊土の女共に厚く思ひ付かれたで有《あら》う。そこで男に渴《かつ》えた近村の若後家などが和尙を挾まんと、右行左行で這ひ來り、据膳をしひた[やぶちゃん注:ママ。]ので眼天にありとは其女がヒガラメだつたとみえる。由《よ》つて和尙も鼻もちならず、願意却下としたのを憤つて女が水死でもしたでせう。其を挾みにきたちふ緣起で蟹の妖怪とふれ散らし、衆愚の驚駭《きやうがい》に附込《つけこ》んで、蟹の弔ひに寺を建立させたと熊楠がみる目は違《たが》はじ。又、同書乾卷に、鳳至《ふげし》郡五十里《いかり》村に町野川の淵跡迚(とて)今蟹池とてあり、昔此淵に大《おほい》なる蟹住んで人をとる、弘法大師威力を以て退散あり、其後も此池に在《あり》て大石と成《なり》、色々怪異をなす故、此池を埋めし也。今も此池を穿ち石を顯はすと霖雨《りんう》して數百日已まずとある。

[やぶちゃん注:「大正九年」(一九二〇年)「『民族と歷史』三卷七號七一三頁に述《のべ》た」平凡社「選集」に「スッツパとカニサガシ」を指すとある。これは、国立国会図書館デジタルコレクションでは、当該論考が見当たらない。そこでサイト「私設万葉文庫」で探したところ、『南方熊楠全集』第三巻「雑誌論考Ⅰ」(一九七一年平凡社)の新字新仮名版にあった。以下に引用させて頂く。これは『民族と歷史』同年六・十・十二月発行に載ったもので、引用先では「民族短信民俗談片」という総題の中の一篇である。ノンブルは省略した。「|」はルビの先頭漢字前を示すサイト主の記号である。

   《引用開始》

 

       スッパとカニサガシ

 

 スッパという詞が本誌四月号「佐賀地方雑記」に見える。この名は足利時代すでにあった詞と見え、『続狂言記』二、「宝の笠」、同四、「六地蔵」(ここにはシテが、「罷り出でたる者は都に住居する大スッパでござる。見れば田舎者と見えて何やら呼ばる。ちと彼に当たって見ようと存ずる」とみずから述べる)等に見るところ、いずれも田舎者が物を買い求むるにつけこみ、あらぬ物を売りつける杜騙《とへん》をスッパと呼んだらしい。いわゆる神崎スッパはこれと関係なきか。

 カニサガシ。これも「佐賀地方雑記」にあった。明治十一年ごろ、予和歌山市のある河岸で、当時いわゆる新平民が流木を拾うを見ておると、その一人が、「何某の方に生まれたは男か女か」と問う。いま一人が、「ガニジャ」(蟹なり)と答えた。なお一人、予の家へ雪駄直しに来る者がかたわらにあり合わせたので、何のことかと問うと、「蟹は女根と同じくよく物を挟むから、女の児を蟹と称う。工人のドウツキに唄うにも、『お杉おめこは釘抜きおめこ、股で挟んで金をとる』という。すべて女はよく挟むものじゃ」と博識ぶって答えた。そこでカニサガシとは女児を間引く意味ではなかろうか。(四月十四日)  (大正九年六月『民族と歴史』三巻七号)

【追記】

 スッパについて。足利時代に、田舎者に、あらぬ物を売りつける杜騙をスッパと言ったらしいと、本誌三巻七号(七一二頁)に述べおいたところ、『甲陽軍鑑』三九品に、「家康は、味方が原合戦に負けて、その夜また夜合戦に出ずべき支度をもはら仕りたるに、家老の酒井左衛門尉、石川伯耆両人、スッパを出だし見せつれば、当方|脇備《わきぞなえ》を先へくり、跡備を脇へ繰り廻し、云々、二度めの軍もちたるを見て、夜軍に出ださず候」。また同書五七品、織田勢甲州へ討ち入った時、阿部加賀守「われら同心のスッパをもって敵の人数を見切り候に、ここかしこに陣を取り、猥《みだ》りに候えば」とて、川尻や滝川の陣へ夜討を勧めたが、勝頼その策を用いなんだ、とある。これらは探偵をスッパと呼んだらしい。

 また安永元年板の亀友の『赤烏帽子都気質』二の二に、「さてこの勇介というは、弁舌よく、人に取り入ることの上手な、愛のある男と見ゆれど、心の内は世事にすばしかきスッパ、近所の息子や手代の遊びに行く中店にて文の取次ぎ、色茶屋の払銀《はらいがね》を請け取り渡してやるなど、親切にのら達《たち》の世話焼きしゆえ、云々」。これは惡才のきく者をスッパと言ったらしい。今も紀州などで人を紿《あざむ》くことを何とも思わぬ者をスバクラ者というは、これから出たのかと思う。  (大正九年十月『民族と歴史』四巻四号)

【再追記】

 ガニサガシ。『重訂本草綱目啓蒙』四八に、小児胎屎を、かにくそ、かにここ、うぶはこ(対州)、と出ず。紀州田辺では今もかにここという。うぶはこは初屎の意、ここは田辺等で屎《くそ》を指す。初屎と対照して考えると、どうもかにくそ、かにここのかには、わずかに生まれた赤子を指す名らしい。穴から這い出す蟹に比べて言ったものか。琉球で出産の式に蟹の子を這わすことあって、その子蟹のごとく健やかなれと祝うのだと聞いたが、実は彼方でも初生の赤子を蟹と同名で呼ぶのであるまいか。この推察が当たったら、がにさがし、がにさしのがには、女児でなくて今生まれた赤子の義に相違なかるべし。語原の異同は只今ちょっと分からねど、ドイツ語で幼児をも蟹をも斉《ひと》しくクラッべと呼ぶを攷え合わすべし。  (大正九年十二月『民族と歴史』四巻六号)

   《引用終了》

以上に就いては、正規表現でもないことから、語注はしない。

「當時餘り他に重んぜられなかった或部民」前の引用の『新平民』でお判りの通り、近現代まで根強くあった被差別部落民を指す。「雪踏直し」は動物の皮革を用いたため、差別されていた。批判的視点を以って読まれたい。

「工人」ここは広い意味の「職人」。

「地搗唄」建築に先立って、「地固め」のときに歌う作業唄(ワーク・ソング)。歌詞は不定。音頭と合唱が交互に歌う。

「ヒガラメ」斜視。やぶにらみ。すがめ。ひがら。

「同書」(これは前に出た「能登國名跡志」を指す)「乾卷に、鳳至郡五十里村に町野川の淵跡迚(とて)今蟹池とてあり、昔此淵に大なる蟹住んで人をとる、弘法大師威力を以て退散あり、其後も此池に在て大石と成、色々怪異をなす故、此池を埋めし也。今も此池を穿ち石を顯はすと霖雨」(長雨)「して數百日已まずとある」同じく国立国会図書館デジタルコレクションの『大日本地誌大系』第十三冊(大日本地誌大系刊行会編・日本歴史地理学会校訂・大正六(一九一七)年刊)のこちら(右ページ上段二行目以降)で視認出来る。「鳳至郡五十里村」現在の石川県鳳珠(ほうす)郡能登町(のとちょう)五十里(いかり)だが、「蟹池」の跡らしいものは確認出来ない。伝承としても伝わっていないようで、ネットにもかかってこない。]

 頃日《けいじつ》、中道等君が自ら寫して贈られた弘前の平尾魯仙の著、「谷の響」は、多分嘉永頃の者、其卷五に、『弘前附近の地形村石淵の主は大きな蟹で、魚とりに入る人を魅《み》して動く能はざらしめ、甚しきは死せしむ。又此淵に入る者、手足に傷つくことあり、剃刀傷の樣で深さ一寸程に至るも開かず、痛みも出血も少なく、世に云ふ鎌鼬に逢《あふ》た如し、土人之を主《ぬし》の刄《やいば》に觸れたと云《いふ》。』と。之にやゝ似た話が、一八八三年板、イム・ターンの「ギャナ印旬人《インジアン》内生活記」三八五頁にある。オマールは其體を種々に記載された生物で、巨蟹又大魚に似るといふ。急湍[やぶちゃん注:「きふたん」。河川に於いて、流れが速く、且つ、深く淵となっている箇所を指す。]の水底にすみ、其邊を射て廻る印旬人の船を屢ば引き込むと傳ふ。ウロポカリの瀧に住《すん》だのは常に腐木《くちき》を食ひ、多くの船を浮木《うきぎ》と誤認して引《ひき》いれ、爲に印旬人多く溺死した。因《よつ》てアッカウヲイの覡《げき》が、摩擦せば火をだす二木片を包んで濕氣を禦ぎ、携へて瀧の眞中に潛り入《いつ》てオマールの腹内《はらうち》に入り、みれば夥しく腐木《くちき》を積《つみ》あり。由《よつ》て件(くだん)の木片を擦《すつ》て火を付《つけ》ると、オマール大《おほい》に苦しみて浮き上がり覡を吐出《はきだ》して死《しん》だと。

[やぶちゃん注:「中道等」(なかみちひとし 明治二五(一八九二)年~昭和四三(一九六八)年)は郷土史家・民俗学者。宮城県登米(とめ)郡登米町(とよままち)生まれ。旧姓は「砂金(いさご)」。後に青森県八戸市に移り、青森県立八戸中学校に進学したが、一年で中退し、二松學舍を経て、大正七(一九一八)年に京都帝大教授内藤湖南の下で、東洋文献の考証学を学んだ。同年、八戸の中道トシの養子となり、姓を改め、その後、八戸に戻って、『実業時論』という雑誌を手がけ、さらに推薦を受けて、青森県史編纂委員や青森県史跡名勝天然記念物調査委員を務め、また、かの「南部叢書」の編纂にも従事している。以降の事績は参照した当該ウィキを見られたい。柳田國男とも親しかった。

「谷の響」の話は私の「谷の響 五の卷 十二 石淵の怪 大蟹」を見られたい。作者は画家で国学者であった平尾魯僊(ひらおろせん 文化五(一八〇八)年~明治一三(一八八〇)年:「魯仙」とも表記)が弘前(ひろさき)藩(陸奥国津軽郡(現在の青森県西半部)にあった藩で通称で津軽藩とも呼んだ)領内の神霊・妖魔を採集記録した怪奇談集。

「嘉永」一八四八年から一八五四年まで。上記書の成立は幕末の万延元(一八六〇)年である。

『一八八三年板、イム・ターンの「ギャナ印旬人《インジアン》内生活記」三八五頁』作家・探検家・植物学者で英国植民地管理者でもあったエヴェラード・フェルディナンド・イム・トゥルン(Everard Ferdinand im Thurn 一八五二年~一九三二年:ロンドンでオーストリア移民の銀行家の息子として生まれた。英領ギアナ(イギリスからの独立以来「ガイアナ」と呼ばれていた)に渡り、二十五歳の一八七七年から一八八二年まで英領ギアナ博物館の学芸員となっており、後、フィジー知事を務めた)のギアナ地誌。「Internet archive」のこちらで、同原書‘ Among the Indians of Guiana ’(「ギアナのインディアンの狭間で」)の当該部が視認出来る(右ページ中央附近から、“the omars”と出る)。

「オマール」はここでの謂いから見るなら、十脚(エビ)目ザリガニ下目アカザエビ科(ネフロプス科Nephropidae)ロブスター属 Homarus の一種と読めるが、現在のフランス領ギアナでは、同種の南端限界を超えている。アメリカン・ロブスター Homarus americanus は、カナダからカリブ海までの大西洋西岸に分布するのだが、このギアナをガイアナと読み替えるなら、カリブ海南端圏に辛うじて入るから、まず、同種と見て差支えはないか。

「アッカウヲイ」同前原書に“Ackawoi”とある。

「覡」は「みこ」と訓で訓ませている可能性(則ち、女性)も排除は出来ないが(但し、本邦の場合では「覡」(げき)は男、「巫」(ふ/みこ)が女の呪術師を指すことが多い)、以下の術式から察するに、私は男性の呪術師(シャーマン)であるように思われる。民俗社会での汎世界的に女性シャーマンは、呪術執行型よりも、憑依型が比較的多いからである。]

 支那には、西曆紀元前二千年頃、夏の禹王作てふ「山海經《せんがいきやう》」一二に、『姑射國海中、屬列姑射西南、山環ㇾ之、大蟹在海中。』。郭璞《くわくはく》注に、『蓋《けだ》し千里の蟹也。』と。予《よ》數字に疎く、この千里の大蟹とマレー俚傳の巨蟹と孰れが大きいかを知《しら》ぬ。一九〇〇年板、スキートの「巫來(マレー)方術」六頁に、「海の臍(プサット・クセク)」は大洋底の大穴で、中に巨蟹すみ、日に二度出《いで》て食を求む、蟹が居《を》る内は此穴全く塞がれて、大洋の水、地下に入得《いりえ》ず、其間に百川より海に注ぐ水の行き處無《なくなり》て潮《うしほ》滿つ、蟹出て食を求むる内は、水が其穴より下に落《おつ》るから潮がひくと云《いふ》、と出づ。

[やぶちゃん注:「山海經」中国古代の幻想的地誌書。全十八巻。作者・成立年未詳(聖王禹(う)が治水の際に部下の伯益の協力を得て編んだとされるが、仮託に過ぎない)。戦国時代の資料も含まれるが、前漢以降の成立と推定されている。洛陽を中心に地理・山脈・河川や物産・風俗の他、神話・伝説・異獣幻獣の記載がてんこ盛りの遠大なる幻想地誌。以下、漢文を訓読しておく。南方の句読には必ずしも従わない。

   *

「姑射國(こしやこく)」は海中に在り。「列姑射(れつこしや)」の西南に屬す。山、之れを環(めぐ)ル。大蟹、海中に在り。

   *

「郭璞」(かくはく 二七六年~三二四年)は西晉末から東晉にかけての学者(道家研究家)・詩人。卜筮術に長じた。元帝に仕え、のち、王敦(おうとん)の部下となったが、その謀反を占って、「凶」と断じたため、殺された。「山海経」のほか、「爾雅」・「楚辞」などの注でよく知られる。

「千里」東晉代の度量衡では「一里」は四百三十・四メートル。約四百三十キロメートル。「荘子」並みのスケールだわ。

『一九〇〇年板、スキートの「巫來(マレー)方術」六頁』イングランドの人類学者ウォルター・ウィリアム・スキート(Walter William Skeat 一八六六年~一九五三年:は主にマレー半島に於ける民族誌の先駆的調査に取り組んだことで知られる)の‘ Malay magic ’。「Internet archive」のここからが当該部であるが、次のコマの7」ページの九行目に“The Pusat tasek, or Navel of the Seas, supposed to be a huge hole in the ocean bottom. In this hole there sits a gigantic crab which twice a day gets out in order to search for food. While he is sitting in the hole the waters of the ocean are unable to pour down into the under world, the whole of the aperture being filled and blocked by the crab's bulk. The inflowing of the rivers into the sea during these periods are supposed to cause the rising of the tide, while the downpouring of the waters through the great hole when the crab is absent searching for food is supposed to cause the ebb."”(「『プサット・タセク』、又は『海の臍』は、海底にある巨大な穴であると考えられている。この穴には超巨大な蟹が住んでおり、一日に二回、餌を求めるために出てくる。彼が穴の中に座っている間は、穴全体が、蟹の図体(ずうたい)に因って満たされているため、海水は地の底の世界に注ぐことが、遮断される。この時期、海への川の流入は、潮の干満を引き起こすと考えられており、一方で、蟹が餌を探すために居ない時には、その大きな穴を通って、海水が下(くだ)り注ぎ入ることで、干潮は引き起こされると考えられている。」)とあった。]

2024/02/09

「蘆江怪談集」 「怪談雜記」+「目次」・奥附 / 「蘆江怪談集」~了

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本本文の開始位置はここ。本篇は、蘆江の本書の後書に代えた随想「怪談雜記」である。]

 

 

    怪 異 雜 記

 

 

 怖(こは)がりのくせに、怖いものに出會(でつくわ)して見たいといふ氣持が、いつも動いてゐる。本鄕の素人下宿(しろうとげしゆく)にゐる時分だつた。長六疊のあんまり日當りのよくない上に、緣先(えんさき)に靑桐(あをぎり)がすくすくと伸(の)びてゐるので尙(な)ほ暗(くら)かつたが、夜、寄席などに行つて、遲(おそ)がけにかへつて來る時、あたりがしんとした中へ入るのだから、いろいろな奇異(きい)を想像(さうざう)する事が多かつた。

 からかみをあけて、机(つくえ)の前へすわった途端(とたん)に、机の下から瘠(や)せ細(ほそ)つた手がひよろひよろと伸びて來たらとか、外の寒(さむ)さに冷え切つた手で、埋み火[やぶちゃん注:「うづみび」。]を搔(か)き起(おこ)す途端に、火鉢の鐵瓶(てつびん)がブルブルと蓋(ふた)をゆり動(うご)かして、

「寒いね」と、人語(じんご)を發したらとか、寢支度(ねじたく)をする爲めに押入れをあけると、寢道具がひとり手に、ぼたぼたぼた[やぶちゃん注:この箇所。底本では真ん中の「ぼた」のみが踊り字「〱」となっている。]とひろがつて、疊の上へ展(ひろが)つたらとか、さまざまな空想(くうさう)を描(ゑが)くのが常だつた。

 空想(くうさう)から空想が生(うま)れて、しまひには途方もない事を考へるのに慣(な)れたものだが、其中で、我れながらゾツとした空想(くうさう)は。――

 まづ外から戾つて、部屋のからかみを開(あ)ける、入らうとして不圖(ふと)氣(き)がつくと、正面に据(す)えた机の前に人がすわつてゐる。誰(だ)れだと聲(こゑ)をかけると、坐(すは)つたまま顏だけむけた、その顏は自分と同じ顏だつた。――今でも時々(ときどき)それを空想する。

 芥川龍之介が話した怪談(くわいだん)といふのは、西洋(せいやう)の本で讀んだのださうだが、あめりかのヲール街(がい)か、いぎりすのストランド街のやうなところで、不斷(ふだん)は幾千となく忙(いそ)がしさうな人間が、ざわついてゐる町の晝頃(ひるころ)、卽ち、皆が食事(しよくじ)に行つた爲めに、街頭に一人の人もない、打つてかはつた淋(さび)しさの時、カンカン日の照(て)つてる步道を、ある紳士(しんし)が通つた、とある角(かど)を曲(まが)らうとしたら、曲り角からひよいと現(あら)はれた紳士がある。出あひがしらにばつたり衝突(しようとつ)しさうになつて、兩方から同時に

「ヤ失敬(しつけ)い」

 と云つてすれちがつたが、其時、妙(めう)な感(かん)じがした。[やぶちゃん注:行頭の字空けはママ。]

「おや今のは」と首(くび)をひねる「おれと同じ人だつたが」さう云つてふりむいて見ると、隱(かく)れ場所(ばしよ)などはないのに、そこには何ものも見えなかつたといふ。卽(すなは)ち、同じ人間が同じ人間にぶつかつて、ふりかへつて見たら、もう消(き)えてなくなつてゐたといふのだ。この怪談(くわいだん)を讀(よ)んだ時は、總身が氷(こほり)になつたかと思つたと云(い)つてゐた。

[やぶちゃん注:「芥川龍之介が話した怪談(くわいだん)といふのは、西洋(せいやう)の本で讀んだのださうだが」事前に当該作品を「芥川龍之介 二つの手紙 (オリジナル強力詳注附き)」としてブログで公開しておいたので、是非、読まれたい。現行のネット上の同作の注としては、誰にも負けない自信はあるものに仕上げてある。無論、正字旧仮名である。なお、芥川龍之介は大の怪談好きで、若い頃から、怪奇談を私的に蒐集していた。私のサイト版の「芥川龍之介 椒圖志異(全) 附 斷簡ノート」を未見の方は、強くお勧めする(手書き本文や落書の画像もある)。それに倣って私が書いたオリジナル怪談実話集「淵藪志異」も御笑覧頂ければ、恩倖、之れに過ぎたるは莫(な)い。因みに、この内の「二」の私の祖父の怪奇談は、一九九九年十一月の『ダ・ヴィンチ』に載り、京極夏彦氏他の過褒の言葉を頂戴し、後にメディアファクトリーから刊行された京極夏彦他編「怪談の学校」にも載っているものである。

「ヲール街」Wall Street。アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨークにある、世界の金融センター「ウォール街」(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。ニューヨーク証券取引所を始めとして、アメリカの金融史と所縁のある地区。

「ストランド街」Strand。イギリスのロンドンの、「トラファルガー広場(Trafalgar Square)」から「王立裁判所(Royal Courts of Justice)」までを結ぶ主要道路で、劇場・ホテルが立ち並ぶ繁華街。ここ。]

 自分と同じ人間が、突然(とつぜん)目の前に現はれたら、たしかに怖(こは)い事だらう。先代(せんだい)坂東秀調[やぶちゃん注:「ばんどうしうちやう」。]自身に經驗したといふ怪談(くわいだん)がやはりそれで、ある時、芝居の雪隱(せつちん)へ行つた。花かつみの中形の浴衣(ゆかた)を着て三つ並んだ便所(べんじよ)の左りのはしをあけようとしたら開かない。右のはしも開かない。いやだつたが眞中のをあけると、開(あ)いたから、入らうとしてヒヨイと覗(のぞ)くと、中には自分と同(おな)じ花かつみの浴衣を着た男(をとこ)がしやがんでゐたので、これは失禮(しつれい)といつたら、その男が、ぢろりとふりむいて自分を見上げた。と、その顏(かほ)がやつぱり自分と同じ顏だつたといふのだ。

[やぶちゃん注:「坂東秀調」歌舞伎役者三代目坂東秀調(明治一三(一八八〇)年~昭和一〇(一九三五)年)であろう。]

 多分(たぶん)つくり事であらうと思ふけれど、たしかに凄(すご)い。

 つくり事といへば、年中(ねんぢう)怪談(くわいだん)を空想(くうさう)して、それを人に話すのを仕事のやうにしてゐる人が私の友人(いうじん)にあつた。

 川尻淸潭[やぶちゃん注:「かはじりせいたん」。]氏の兄さんで、鹿鹽秋菊(かしほしうきく)といふ人、怪談製造家(くわいだんせいざうか)などと云つたら、鹿鹽氏怒るかも知れない。併(しか)し、全く、製造家と云つても好(い)いくらゐの怪談ずきで、たまに出會(であ)ふと、先づ挨拶(あいさつ)が、

「如何です、近頃(ちかごろ)は好(い)いお化(ば)けにあひませんか」といふのだ。

 どうかすると、だしぬけに、

「こないだ四谷通(よつやどほ)りで、お岩さまにお目にかかりましたよ」なんて云ひ出す、まさか、あんたによろしくと云ひましたとは云はないが、眞劍(しんけん)なんだから不思議だ。

「お岩さま、あの時は大分(だいぶ)御(ご)きげんがよござんしたよ。ちよつとお瘠(や)せになつたかとは思ひましたがね」

[やぶちゃん注:「川尻淸潭」(明治九(一八七六)年~昭和二九(一九五四)年)は演劇評論家。三木竹二主宰の雑誌『歌舞伎』に「型」の記録や芸談を寄稿、後、『演芸画報』などに執筆した。大正十四(一九二五)年には東京歌舞伎座監事室室長となっている。東京出身。商業素修学校卒。名は義豊。著作に「楽屋風呂」等がある。

「鹿鹽秋菊」前者の実弟で彼と同じく演劇評論家で、俳人でもあったらしい。本名は蕉吉。雑誌『歌舞伎新報』を復刊して盛り立てた。]

 幽靈の肥(ふと)つたなんざおかしな話なんだが、鹿鹽秋菊氏を除(のぞ)いて、私の知人中の怪談好きは、喜多村綠郞[やぶちゃん注:「きたむらろくらう」。]氏だらう。一頃(ころ)、怪談會などいふものを二三度、喜多村氏と一緖(しよ)になつてやつた事がある。喜多村氏自身の經驗談もしばしば聞いた。京都のインクラインで、卷込(まきこ)まれた水死人が、水を逆上(さかのぼ)つて、妙なところに現はれた話などは、喜多村氏の話上手(はなしじやうず)につり込まれて、何度聞いてもゾツとする。

[やぶちゃん注:「喜多村綠郞」新派の女形俳優初代喜多村緑郎(明治四(一八七一)年~昭和三六(一九六一)年)。水谷八重子に女形の芸を伝授して没した。泉鏡花や久保田万太郎と親交があり、ハイカラな文化人でもあった。著書に「芸道礼讃」・「わが芸談」等がある。]

 怪談に出會(でつくわ)した經驗(けいけん)の多い人に坂東のしほ君がゐる。少しひまでもつくつて聞いえゐようものなら、三時間ぐらゐ立てつづけに話して、まだ盡(つ)きないといふくらゐ、而(しか)もそれが皆、自分に關した實說(じつせつ)なんだから愉快だ。

[やぶちゃん注:「坂東のしほ」四代目坂東秀調(明治三四(一九〇一)年~昭和六〇・平成元(一九八五)年)。三代目の養子で、「坂東のしほ」は舞踊家としての名取。]

 その中で、一番秀逸は、のしほ君が鶴見(つるみ)の花月園で、椿茶屋(つばきぢやや)といふ貸席(かしせき)をしてゐる頃のこと、この椿茶屋に大入道(おほにふだう)が現はれるといふ話。

[やぶちゃん注:「鶴見の花月園」現在の鶴見花月園公園附近。]

 はじめ障子に朦朧(もうろう)たるかげがうつる。それが、見る見る中にはつきりして、後には鴨居にとどくほどの大入道になつて、それから影法師(かげばふし)の儘(まゝ)、座敷の中に入つて來るのださうだ。

 はじめに出會(でつくわ)した時は、すぐにも逃(に)げ出(だ)さうと思つたが、でも、あんまり度々出られると、ちつとも怖(こは)いと思はなかつた。

 しまひには、出る日と出ない日の豫想(よさう)がつくくらゐになつたといふ。

 椿茶屋(つばきぢやや)がやりきれなくなつて、のしほ一家は見じめな退却(たいきやく)をする日が來た。荷物はすつかり運(はこ)んで、最後に家人が引上げようとしたらひどい土砂(どしや)ぶり、止(や)むを得(え)ず、今一夜そこに泊(とま)らうとしたが蒲團(ふとん)がない。花月園の事務所へ借(か)りに行つたら、ありませんからと古ぼけた緋毛氈(ひもうせん)を貸してくれた。それにくるまつて、いよいよ更(ふ)けまさる秋の夜の雨を聽(き)きながら、

「ああ、坂東(ばんとう[やぶちゃん注:ママ。])のしほもここまで落ちぶれたら澤山(たくさん)だ、世の中に味方はひとりもない。せめてお馴染甲斐(なじみがひ)に大入道でも出れば好(い)いのに」

 と、愚痴(ぐち)を云つた。[やぶちゃん注:行頭一字空けはママ。]

 その言葉が切(き)れるか切れないかの刹那(せつな)、いつもよりもつとはつきり、もつと大きな大入道がニユツと現(あら)はれて、ひよこひよこひよこと目の前へ近(ちか)づいて來たといふ。居合(ゐあは)せた人全部(と云つても女ばかり三人)が、一塊(かたまり)なりになつて、キヤーツと叫(さけ)んださうだ。

  一體、役者(やくしや)には怪談が多い。

 樂屋(がくや)のつれつれ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]に、又は、旅興行(たびこうぎやう)のつれつれに、お互ひに出たら目を云つてゐるのが、自然とおもしろい話(はなし)にでつち上げられて了ふのかも知れない。

 が、劇場(げきじやう)といふものに何となく凄味(すごみ)のある場所が多くて、自然話はそこへゆくのだらう。殊(こと)に地方の芝居小屋などと來たら、必らず、一ケ所や二ケ所、幽靈(いうれい)の出さうな場所を備(そな)へてゐないところはない。

 便所、風呂場(ふろば)、チヨボ床の下、棧敷(さじき)のすみ等々、きつと薄暗くて、じめついてゐて、氣の弱い人は、なかなか一人ではよりつかれないやうなところがあるものだ。

[やぶちゃん注:「チヨボ床」(ちょぼゆか)は歌舞伎の義太夫狂言で、伴奏の竹本が舞台上手の上にある御簾の内で語るのが決まりで、そこを「チョボ床」と呼んだ。]

 伊井蓉峯(いゐようほう)實見(じつけん)の幽靈といふのも凄(すご)かつた。

 磐城の平の芝居ださうで、今はもう新築(しんちく)になつて元の姿(すがた)はないが、以前のは隨分(ずゐぶん)古(ふる)ぼけた芝居だつたさうな。

 そこの湯殿(ゆどの)に、目も鼻もないのつぺらぼうの坊主あたまの老人(らうじん)が、逢魔(あふま)が時といふ時分に、必らず湯につかつてゐて、人が行くと、兩手(りやうて)にひろげた手拭(てぬぐひ)で、顏をぺろりと洗(あら)つて見せるといふのだ。

 伊井は乘込んだ初日(しよにち)にそれを見た、まさか幽靈(いふれい)とは思はないし、湯(ゆ)けむりの中でのつぺらぼうの事も氣がつかず、只(たゞ)一圖(づ)に樂屋風呂の口あけを、薄汚(うすぎた)ないぢぢいに汚されたと思つて、座主(ざしゆ)をかんかんに叱りつけたといふ。

 座主(ざしゆ)は平あやまりにあやまつて、其場は濟(す)んだが、二十年目に、再(ふたゝ)び、この芝居へ伊井が來た時、始めてのつぺらぼうの話を聞いて慄(ふる)へ上(あが)つたさうだ。これはあの眞面目(まじめ)な伊井の口から直接に聞いた話(はなし)だ。

[やぶちゃん注:「伊井蓉峯」(明治四(一八七一)年~昭和七(一九三二)年)は、発足間もない新派劇で活躍した俳優。本名は伊井申三郎。東京生まれ。詳しくは、当該ウィキを見られたい。]

 水戶の狸(たぬき)といふ怪談も役者(やくしや)たちの間には有名な話で、水戶のある芝居(しばゐ)では夜半になると狸ばやしが始まる、テケテンテケテンとばかり、實におもしろくかすめたり、近(ちか)づけたりしてはやしたてるさうで、尤(もつと)も、これは只それだけの事、但し、いつでもやるんではない。こいつが聞(き)こえはじまると、必らず芝居は大入(おほいり)なのださうな。

 市川紅若といふ老優(らういう)の出會(でくわ)した話は可(か)なり凄い。福島あたりだつたと思ふ、偶然(ぐうぜん)に昔馴染(むかしなじみ)の女とめぐりあつて、とある隱(かく)れ場所(ばしよ)で出あひをしてゐた。

[やぶちゃん注:「市川紅若」(いちかわこうじゃく 明治三(一八七〇)年~昭和一三(一九三八)年)は兵庫県生まれ。明治十七年、十五歳で、中村宗十郎の門人となり、千代松の名で中座で初舞台を踏む。明治二十五年に上京し、七代目市川団蔵の門人となり。翌年、中村源之助を市川紅若と改めた。明治二八(一八九五)年、春木座にて名題(なだい:名題役者のこと。名題看板に名前が載るような幹部級の役者を指す。明治までは「大名題」・「名題」・「名題下」・「間中上分」(あいちゅうかみぶん)・「間中」・「下立役」の五階級に分かれていた)に昇進、団蔵一座の花形として巡業した。明治四十四年九月に師の七代目団蔵が没した後は、主に初代中村吉右衛門一座に勤めた(主に日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」に拠った)。]

 尤も芝居(しばゐ)がはねてからだから、相當(さうたう)遲(おそ)い時間、場所は地方によくある旅館料理屋(りよくわんれうりや)で、その晚は客が立てこんでゐたので、紅若たちはお藏(くら)の二階へ廻(まは)された。

 夏のことで蚊帳(かや)が吊(つ)つてある。女は眠(ねむ)つてゐたが紅若は眠(ねむ)れなかつた。すると、蚊帳のすそに人の姿(すがた)があらはれて、おやと思つて見つめてゐると、それがずんずん伸(の)びて、蚊帳より高くなり、蚊帳の天井(てんじやう)へ折(を)り曲(まが)つて、丁度紅若の顏の上まで伸(の)びて來(き)た。ぐうもすうもいへず射(い)すくめられたやうになつてゐると、天井(てんじやう)の顏が紅若を充分(じうぶん)眺(なが)めてからニヤリと笑つて消えたといふのだ。

 無論、紅若の若(わか)い時(とき)の話らしいが、今だにあの老人はこの話を滅多(めつた)に云はないさうだ。

 天井の顏(かほ)といへば、宇治(うぢ)の菊屋には天井一盃おかめの面(めん)が現はれるといふ部屋があるさうだ。夫婦ものや、男同士又は女同士(をんなどうし)の泊(とま)り客の前(まへ)には決してあらはれない。人目を忍(しの)ぶ仲(なか)の男女が泊ると、必(かな)らずあらはれて、ニコニコと笑つて見せる。

 まるでうそのやうな話だが、ある時、役者たちが多勢(おほぜい)ゐるところで、この噂(うはさ)をしたら、全くその通りです。現(げん)に私は見ましたと裏書(うらがき)をしたために、かくし事がばれたといふ。ユーモアがある。

 今の吉右衞門の父親(ちゝおや)歌(か)六老人(らうじん)は、怪談のタネを譯山(たくさん)持(も)つてゐた。尤も、この老人も、いくらか怪談製造家の氣味(きみ)はあつたが。

[やぶちゃん注:「今の吉右衞門の父親歌六」初代中村吉右衛門の実父である三代目中村歌六(嘉永二(一八四九)年~大正八(一九一九)年)。]

 大阪の北の新地(しんち)のあるお茶屋で、手水場(てうづば)へ行つて、手をあらひながら、もう何時(なんじ)だらうと云つたら、どこからともなく、モウ二時だよといふ聲が聞こえたといふ話(はなし)などは、多分歌六老人自作の怪談だらうと思(おも)はれる。

[やぶちゃん注:「大阪の北の新地」現在の大阪府大阪市北区梅田附近の江戸時代からの高級歓楽街。]

 月の美くしい晚に、子守唄(こもりうた)をうたふ聲が聞こえる。今時分(いまじぶん)、だれがどこで唄(うた)つてゐるのだらうと思ひながら、座敷を廊下(らうか)へ出て見ると、廊下は雨戶(あまど)がしまつてゐた、併(しか)し、子守唄は雨戶の外卽ち中庭(なかには)のやうなところで唄(うた)つてゐるものと思はれた。

 丁度雨戶に節穴(ふしあな)があつたので、外をのぞいて見ると、中庭の正面は笹藪(さゝやぶ)、それに靑い月の光がさしてゐて、廣々とした海(うみ)の底(そこ)を見るやうな景色(けしき)、その中庭の眞中に、黑髮をさばいた女が乳呑兒(ちのみご)を抱(だ)いて、うしろ向で唄つてゐるのだつた。

 着物は浴衣(ゆかた)で白地に黑のはつきりした瓢簞(へうたん)か何かを散して[やぶちゃん注:「ちらして」。]あつて、黑髮(くろかみ)があまり美くしく月光にゆれてゐるし、姿(すがた)が惚(ほ)れ惚(ぼ)れするほど好(い)いので、どんなに美人だらう、顏が見たいなアと思つた途端(とたん)、女は節穴の方へくるりとふりむいて、只(たゞ)一言(こと)、覗(のぞ)いちやいけないと云(い)つたさうだ。

 この話も、可(か)なり古く云ひ傳へられてゐるのだらうが、歌六老人からの又(ま)た聞(き)きでおぼえてゐる。

 芝居に關(くわん)した怪談で、一番(ばん)有名(いうめい)なのは、先代萩の床下(ゆかした)の場(ば)で、仁木[やぶちゃん注:「にき」。]が天上したといふ話だ。

 男之助[やぶちゃん注:「をとこのすけ」。]が鼠(ねづみ)を打つ、鼠がどろどろで花道のすつぽんへ入る、入(い)りかはつて、すつぽんの穴にムラムラと立ちのぼる掛煙硝(かけえんせう)のけむりと共に、印(いん)を結んだ仁木彈正がスースースーと上つて來る。

 見物は一心(しん)に仁木を見つめてゐるのだが、仁木はいつまでもいつまでも上へ上へと伸(の)びてゆく、おやおやと思ふ中、仁木の身體(からだ)は芝居の天井(てんじやう)までとどいた。よう仁木の宙乘(ちうの)りだ、妙(めう)な芝居だ、一體誰(だ)れの型(かた)だらうと云つてゐる中、仁木は天井をつきぬけて、消(き)えてなくなつたといふ。これは話し方によつては凄(すご)い。ある田舍(いなか)まはりの役者(やうしや)に、この話を始めて聞いた時には總身(そうみ)の毛が逆立(さかだ)ちしたやうに思(おも)はれた。

[やぶちゃん注:「先代萩の床下の場」当該ウィキの「床下の場」を読まれたい。

「掛煙硝」「掛焰硝」とも書く。芝居で、化け物や忍者が現れたり、消えたりする場面に、ぱっと立ち上る煙。また、その仕掛け。樟脳の粉を入れた煙硝を、火の上にかけて、出す。]

 いつぞや、實川延若君に逢(あ)つて此話をしたら、この怪談はこれだけが全部(ぜんぶ)ではなくて、前半に相當曲折(きよくせつ)があつておもしろいといふので、委(くは)しく聞く事が出來た、なるほど一篇の小說に出來てゐる。

[やぶちゃん注:「實川延若二代目」實川延若(じつかわえんじゃく 明治一〇(一八七七)年~昭和二六(一九五一)年)。大阪出身の歌舞伎役者。初代實川延若の長男として大阪難波新地に生まれた。なお、蘆江は彼を君付けしているが、蘆江より五つ年上である。]

 甲州(かふしう)の小松屋怪談とか、井戶(ゐど)の中に、女が二人つながつて落ちた話、仁木の天上、等々はいづれ、小幡小平次などの怪談(くわいだん)と同樣、芝居道の人々の間に流布(るふ)した一種の怪談物語とでもいふのだらう。物語の筋(すぢ)に人情味(にんじやうみ)があつて、話のヤマが巧(たく)みに出來てゐて、聞く人をして手に汗(あせ)を握(にぎ)らせるやうなところがある。

[やぶちゃん注:「甲州の小松屋怪談」不詳。識者の御教授を乞う。

「井戶の中に、女が二人つながつて落ちた話」不詳。同前。

「小幡小平次」私の「耳囊 卷之九 小はた小平次事實の事」、及び、「耳囊 卷之四 戲場者爲怪死の事」、また、最も新しい私の記事『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「小幡小平次」』を参照されたい。]

 かうした話を皆まとめて、物語風怪談(ものがたりふうくわいだん)といふ一册(さつ)をつくつて置きたいなど思つた事もある。

 人魂(ひとだま)といふものは實際(じつさい)にあるらしい、それを見たといふ人にも隨分(ずゐぶん)出逢(であ)つてゐるが、幽靈や、おばけけなんてものは、さう無造作(むざうさ)には出ないものだ。

 大抵(たいてい)は話の中に花が咲(さ)いて、それをくりかへす中に、相當(さうたう)實(み)のある話になつて了(しま)ふんではないかと思ふ。

 曾てこんな事(こと)があつた。

 都新聞に入社(にふ)して四五年目の頃、同僚(どうれう)の伊藤みはるといふ男が死んだ。生粹(きつすゐ)の江戶つ子で、すべてに齒切(はぎ)れの好(い)い男だつたが、中途でへんに固(かた)くるしくなり、酒も女もやめて了(しま)つた。それがある日、突然、品川へあそびに行かうぢやないかと云(い)ひ出(だ)したので、こいつは稀有(けう)な事だ、よし行かうと賛成(さんせい)したのが長谷川伸と私。

 萬事(ばんじ)、伊藤任せで、日どりもゆく先もきめたが、いよいよ明後日(あさつて)といふ日に伊藤は腦溢血(なういつけつ)で死んだ。

 全(まつた)くだしぬけなので、品川(しながは)ゆきも何もない、長谷川と私が葬儀委員(さうぎゐいん)になつてあと始末(しまつ)や、供養(くやう)にとりかかつた。

 あいつ、生(い)きて居つたら、今頃は、この家へ上り込んで、引(ひき)つけに坐(すは)つた時分だつけなアと云ひながら、偶然(ぐうぜん)にも定めの目の定めの時刻(じこく)に、かねて名ざした娼樓(うち)の前を、長谷川と私は通(とほ)つたのだつた。

 伊藤の住居(すまゐ[やぶちゃん注:ママ。])は品川淺間臺にあつたのだから葬儀(さうぎ)や、通夜(つや)の打合せをして、一先づ我家へ引取らうとした私たちが、丁度(ちやうど)その時刻に品川の遊廓町(いうくわくまち)を通つたのは當(あた)り前(まへ)だが、何となくへんな氣がした。

 つれは二人の外(ほあ)にTといふ人がゐた。

 伊藤は思(おも)ひを殘(のこ)して死んでゐるんだから供養(くやう)の爲めに、三人で上らう、おれが伊藤の代(かは)りになつてやるよとTは云(い)つた。

 で、三人である家へ上ると、不思議(ふしぎ)といへば云はれる事が次から次に起(おこ)つて來る。先づ座蒲團(ざぶとん)が四枚出る、盃(さかづき)が四人分ならべられる、花魁(おいらん)が四人やつて來て、その中の一人は、徹頭徹尾(てつとうてつび)ものをいはずに、フイと立(た)つて消(き)えて了(しま)ふ、といふ風だつた。

 伊藤の幽靈(いうれい)がついて來てゐたんだらうと三人は笑(わら)つたが、笑ひ切れない後日話(ごじつばなし)がある。

 たしか初七日の晚(ばん)だつた、又、同じところを通りかかつたので、伊藤追善會(いとうついぜんくわい)をもう一度しようかなんて冗談(じようだん)まじりどやどやと同じ樓(うち)へ入らうとしたら、門前に半みすがかかつて、忌中(きちう)の紙が貼つてあり、家内からは盛(さか)んな香(かう)のけむりが漾(たゞよ)つてゐた。時が時なので、ぞつとするほどの驚ろき、もしや前日の無言(むごん)のおいらんが頓死(とんし)したのではないかと思つたら、それはさうでなく、その樓の家人(かじん)であつたといふ。

 こんな事(こと)が人の口から口へ云ひ傳へられて、あるひは純然(じゆんぜん)たる怪談(くわいだん)になり、三人のそばに朦朧(もうらう[やぶちゃん注:ママ。])と伊藤の姿(すがた)が見えてゐたなどいふ事になるのではないかなど、あとで噂(うはさ)をした事であつた。

[やぶちゃん注:「都新聞に入社(にふ)して四五年目の頃」「都新聞」明治から昭和にかけて発行された新聞。明治一七(一八八四)年に夕刊紙『今日新聞』として創刊されたが、同二十一年に『みやこ新聞』に、翌年には『都新聞』と改題し、朝刊紙となった。芸能、特に文芸や演劇関係の記事に特徴があったが、昭和一七(一九四二)年、『国民新聞』と合併して『東京新聞』となった。蘆江は満洲放浪に後、帰国して、明治末、『都新聞』の記者となり、花柳演芸欄を担当していた。

「長谷川伸」(明治一七(一八八四)年~昭和三八(一九六三)年)は小説家・劇作家。横浜市生まれ。本名は伸二郎。四歳の時、実母と別れ、その思慕の情が、戯曲「瞼(まぶた)の母」(昭和五(一九三〇)年)に結晶している。小学校を中退し、煙草屋の丁稚、土建屋の使い走り、撒水夫などを転々し、その後、『毎朝新聞』を経て、『都新聞』に勤め、大正六(一九一七)年頃から、「長谷川芋生(いもお)」「山野芋作(やまのいもお)」などの筆名で雑報や小説を発表した。大正一二(一九二三)年の「天正殺人鬼」で認められ、さらに翌年、「夜もすがら検校」を書いて、短編作家としてスタートした。大衆演芸にも早くから関心を示し、「瞼の母」・「沓掛時次郎」(昭和三(一九二八)年)・「一本刀土俵入」(昭和六(一九三一)年)等を上演、上映された劇作品は実に百六十七編に上ぼる。作風は庶民性によって裏打ちされた堅実なものが大部分で、股旅物の第一人者となった。後、次第に史伝物に傾斜し、「荒木又右衛門」・「上杉太平記」・「江戸幕末志」(出版に際して『「相楽総三(さがらそうぞう)とその同志』に改題)・「日本捕虜志」・「日本敵(かたき)討ち異相」等を纏めた。捕虜志や敵討ち研究は彼のライフ・ワークであり、その姿勢に一つの世界観が示されている。昭和三七(一九六二)年、「朝日文化賞」を受賞した。『新鷹会』(しんようかい)の中心として大衆文学の新人育成に当たり、村上元三・山手樹一郎(きいちろう)・山岡荘八らを輩出した。没後、遺言により、蔵書と著作権を基に『財団法人新鷹会』が設置され、『長谷川伸賞』も制定されている(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「品川淺間臺」現在の品川区南品川のこの附近

「品川の遊廓町」現在の北品川のこの附近。]

 女郞屋には一體(たい)怪談(くわいだん)が多い。

 左團次の弟子某から聞いた話に、ある時、吉原の小見世(こみせ)へあそんだ、部屋へ入つて、女(をんな)のまはつて來るのを待(ま)つてゐると、やがて廊下(らうか)に草履(ざうり)の音がする、來たなと思つたので狸寢入(たぬきねい)りをしてしてゐたら、女は障子(しやうじ)をあけ、二三度聲をかけたあとで、屛風(びやうぶ)ごしにのぞき込んで、お前さん、寢(ね)てゐるのなら、あとでゆつくり來ますよと云(い)ひ捨(す)てて立ち去つた。

 某(ばう)は、しまつたと思つたが、あとのまつり、たつた今女が覗(のぞ)き込(こ)んで去(さ)つた屛風を空しく見つめて、チッ、薄情(はくじやう)ものと云つたが、よくよく考へれば合點(がてん)のゆかぬ話だ、屛風といふのは六曲屛風で、屛風の高さは鴨居(かもゐ)まで屆(とゞ)くほどだのに、覗き込んだ女は、胸(むね)から上をありありと屛風の上にとび出してゐたのだ、それを男は薄目(うすめ)をあきながら、見てゐたのだから、不思議(ふしぎ)とも何とも云ひやうがない。鴨居(かもゐ)から上ヘ胸(むね)までのぞかせられるやうな、そんなべら棒(ぼう)もなく背(せ)の高(たか)い女がある筈(はづ)がないと思ひはじめると、俄(にはか)にゾツと怖氣立(おぢけだ)つて飛び起きさま逃(に)げ出(だ)してかへつたといふ。

 これなどは怪談の中(うち)でも、一寸(ちよつと)類(るい)のかはつた怪談で、それに出逢(であ)つた時は何とも思はず、あとで考へてゾツとするといふ落語(らくご)ならば考へ落ちといふ奴だ。

[やぶちゃん注:「左團次」二代目市川左團次(明治一三(一八八〇)年~昭和一五(一九四〇)年)。]

 私たちは、怪談會といふものをしばしば催(もよほ)した事を前に云つた。

 ところが、怪談會をやる度(たび)に人が死ぬといふ慣例(くわんれい)がくりかへされた事がある。其中一番(ばん)凄(すご)い死に方は、京橋の畫博堂といふ書畫屋(しよぐわや)が、營業宣傳(えいげふせんでん)の爲めにやつた怪談會の時で、當日(たうじつ)飛(と)び入(い)りでやつて來た會員の一人が、怪談をはなしてゐる中に、顏色蒼白(がんしょくさうはく)となり、ふらふらと立ち上つたがその儘(まゝ)あの世の人となつた事がある。そこに立ち會つた人は喜多村綠郞氏(きたむらろくらうし)や、鈴木鼓村氏、それに泉鏡花氏(いづみきやうくわし)などもゐられたので、死んだ人といふのは、萬朝報[やぶちゃん注:「よろづてうほう」。]社の事務員だつた。

 話しをはじめる時、この話をすると、覿面(てきめん)に祟(たゝ)りがあるといふのですが、皆樣のはなしを聞いてゐる中(うち)に、私も何か云つて見たくなりましたから、思(おも)ひ切つてお話(はな)しいたしますと、前置(まへおき[やぶちゃん注:底本では、ルビは「まへお」のみ。脱字と断じて、特異的に訂した。])をしただけに凄みが一層はげしかつたのだ。

 其時以來、泉鏡花氏などは、怪談會は好(す)きだが、なるだけ凄味(すごみ)をつけないやうに、そして怖(こは)がらせをしないやうにして會をやつてもらひたいなどと、むづかしい注文(ちうもん)を出したくらゐだ。

[やぶちゃん注:「鈴木鼓村」(こそん 明治八(一八七五)年~昭和六(一九三一)年)は箏曲家で日本画家。宮城県生まれ。本名は映雄(てるお)。陸軍時代に箏曲・洋楽を学んだ。高安月郊・与謝野鉄幹夫妻らと交流し、新体詩に作曲して『新箏曲』を提唱し、京極流を名のった。日本音楽史に詳しく、晩年は大和絵『古土佐』に専念した。別号に那智俊宣(なちとしのぶ)。著作に「日本音楽の話」、作曲に「紅梅」等がある(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。

「萬朝報」新聞。明治二五(一八九二)年十一月一日、黒岩涙香が創刊した日刊新聞。第三面に社会記事を派手に取り扱い、「三面記事」の語を生んだ。内村鑑三・幸徳秋水らも在社し、労働・社会運動に関心を示し、日露開戦に反対したことで知られる。涙香の論説や翻訳小説で人気を集めた。昭和一五(一九四〇)年『東京毎夕新聞』に合併して廃刊となった。]

 私が世話人(せわにん)になつて井の頭翠紅亭(すゐこうてい)でやつた時も、不思議な事があつた。吉原(よしはら)の丸子といふ藝者が、幇間や藝者を誘(さそ)つて吉原を出たのが夕刻(ゆふこく)の六時、夏の六時だからまだ明(あか)るかった。その頃はまだ澤山(たくさん)はなかつた自動車に乘つて井の頭まで一直線(ちよくせん)にやつて來たので、吉祥寺の踏切(ふみきり)へ來てもまだ明(あか)るかつたさうだ。

 で、踏切で汽車の通過(つうくわ)するのを待ちながら、丁度そばに赤ン坊の守(もり)をしてゐた老人(らうじん)に、翠紅亭への道を聞いた。

 老人といふのが問題(もんだい)で、赤いほうづき提灯(ちやうちん)をぶらさげて、子供をあやしてゐたさうだが、丁寧(ていねい)に敎(をし)へてくれたので、その通りに自動車を運轉(うんてん)すると、翠紅亭へは出ずに、元(もと)の踏切へ出る、と又例の老人(らうじん)が立つてゐる、又聞く、又敎へられる、と、又(また)元(もと)のところへといふ風に、三遍(べん)くりかへして漸(やうや)く翠紅亭へ辿(たど)りついたのが、午前三時だつた。

 踏切から翠紅亭(すゐこうてい)までたつた四五丁ぐらゐの道のりなんだが、それを自動車で七時間餘もかかつたといふのだから妙(めう)な話だつた。

 鼠色浴衣(ねずみいろゆかた)で子供を負つて、赤(あか)い頬(ほう)づき提灯(ちやうちん)をぶらさげた老人、それが何遍(なんべん)でも、同じ態度(たいど)で道を敎(をし)へてくれる、その通りに行くと、ぐるりとまはつて元(もと)の道(みち)へ出(で)るといふのだから、而(しか)も五分とかからない道に七時間(じかん)もかかつたのだから、翠紅亭へついてから、丸子(まるこ)の一行は身慄(みぶる)ひをして顏色(かほいろ)をかへてゐた。

 その丸子は、その後十日目に大震災(だいしんさい)で死んだのだが。

 三萬圓とか記入した貯金帳(ちよきんちやう)を帶にはさんで、花園池(はなぞのいけ)で死んでゐたといふのだ。一時は名妓(めいぎ)と立てられた名物女(めいぶつをんな)だつたが。

[やぶちゃん注:「井の頭翠紅亭」現在の都立井の頭恩賜公園内にあった料亭。

「その後十日目に大震災で死んだ」とあるので、この怪談会は、大正一二(一九二三)年八月二十二日から二十三日未明に行われたことになろうか。この、丸子奴の話、如何にも哀れである。]

 通りがかりに道を尋(たづ)ねるといふ怪談(くわいだん)は類(るい)が多い。大村嘉代子女史の體驗(たいけん)といふのを、何かで讀んだ時に、隨分(ずゐぶん)凄(すご)いと思つたが、昔の怪談にもこんな類(たぐひ)がある、私の記憶(きおく)に殘つてゐる中の一番凄いのは、芝(しば)の札(ふだ)の辻(つぢ)で、すれちがつた女が侍に道を聞いた。聞かれる儘(まま)に敎(をし)へた侍が、何の氣なしにすれちがつてうしろを見たら、向(むか)ふもふりむいたさうだが、その時、女は目も鼻(はな)も口(くち)もない、卵に髮を結(ゆ)はしたやうな姿(すがた)の好(い)い女だつたといふので、侍は腰(こし)をぬかしたといふ話。その女もやはり赤ン坊を負(おぶ)つてゐたさうだ。

[やぶちゃん注:「大村嘉代子女史」(明治一七(一八八四)年~昭和二八(一九五三)年) は劇作家。群馬県生まれ。日本女子大卒。岡本綺堂に師事し、大正九(一九二〇)年、「みだれ金春」で評価を得る。『新演芸』などで劇評も手がけた。作品は「たそがれ集」。「水調集」等に収められてある。]

 大震災(だいしんさい)といへば、あの時も隨分いろいろな怪談(くわいだん)がいひふらされた。被服廠(ひふくしやう)のあとに人魂(ひとだま)が出るとか、子供の泣聲(なきごゑ)がするとか、自分の死んでゐる場所を近親(きんしん)に知らせる爲めに幽靈(いうれい)がやつて來たとか。

[やぶちゃん注:「被服廠」旧陸軍被服廠。現在の東京都墨田区横網にあったが、この年、王子区(現在の北区)赤羽台に移転した後、公園化工事が行われていた。震災時、ここに避難した人だけで、実に三万八千名が巨大な火災旋風で亡くなった。詳しくは、ウィキの「横網町公園」を見られたい。]

 聞いてゐる間は、矢先(やさき)が矢先なので、大抵(たいて)の人はぞつとしたものだが、程經(ほどへ)て、よくよく考へ見ると、大抵(たいてい)はつくり話である。

 其證據には、其後、三陸の海嘯(つなみ)の時も凾館(はこだて)の大火の時も、同巧異曲(どうこういきょく)の怪談が、その土地土地の人によつて語(かた)り傳(つた)へられるので知れる。

[やぶちゃん注:「三陸の海嘯(つなみ)」「明治三陸地震」。明治二九(一八九六)年六月十五日午後七時三十二分、岩手県上閉伊郡釜石町(現在の釜石市)の東方沖二百キロメートルの三陸沖を震源として起こった地震。マグニチュード8.28.5の巨大地震で、さらに、当時の本州での観測史上最高の遡上高だった海抜三十八・二メートルを記録する大津波が発生し、甚大な被害を与えた(当該ウィキに拠った)。

「凾館(はこだて)の大火」「函館大火」。北海道函館市で昭和九(一九三四)年三月二十一日に発生した大規模火災。死者二千百六十六名、焼損棟数一万千百五棟を数える大惨事となった。参照した当該ウィキを見られたい。]

 こんな話は、一體(たい)だれがつくつて、だれがいひはじめるのか、昔(むかし)のはやり歌と同じで、驚ろくべき創作(さうさく)といはねばならぬ。

 さうしたつくり話の中の一二をあげて見(み)よう。

 被服廠(ひふくしやう)に近いところに救護所(きうごしよ)が出來た。そこに三三人の救護員がつめてゐると、夜の三時頃、天幕(てんと)の外で、すみませんが水を一杯飮まして下さいませんかといふ聲(こゑ)がする。アイよと答(こた)へて外へ出ようとすると、外(そと)の聲は更(さら)に、實は多勢居るんですから、手桶(てをけ)に一杯下さいましといふ。

 で、どんな人が、どんな風(ふう)にして來かかつてゐるものとも知(し)らず、兎(と)に角(かく)手桶(てをけ)一杯の水を汲(く)んで天幕(てんと)の外へ出ると、だれもゐない。只(たゞ)、眞暗な中に夜風(よかぜ)がひえひえと吹いてゐるばかり。而(しか)もどういふわけとも知れぬ陰慘(いんざん)な氣分がひしくひしと四面を壓迫(あつぱく)して來るので、思はずゾツとして、手桶をおつぽり出したまま救護員(きうごゐん)は中へ入る。と、間もなく外では、ぢやぶぢやぶと水(みづ)を汲(く)んだりこぼしたりする音が聞こえる。ざわざわと人の犇(ひし)めく聲(こゑ)もする。

 やがて、ありがたうございましたといふ聲と共(とも)にあとはしんとなるので、そつと出(で)て見(み)ると、誰(だ)れもゐない、空(から)の手桶(てをけ)のみが殘つて、そのまはりには水がびちやびちやこぼれてゐた。

 こんな事が、每晚(まいばん)つづくので、しまひには人聲がしなくても、その時刻(じこく)になると、天幕の外(そと)に水を出しておいてやる事にしたが、いつも、手桶(てをけ)はからになつてゐたといふのだ。

 大震災のあとで、この事をはじめて聞いた私は、凄(すご)い話だと思つてゐたら、其後(そのご)凾館(はこだて)の大火で燒(や)け出(だ)されて來た人も、同じ話をしてゐた。只(たゞ)ちがつてゐるのは、救護所が交番(かうばん)に、手桶がバケツに、救護員が巡査(じゆんさ)にかはつてゐるだけである。

 もう一つは、屍骸(しがい)の澤山ゐるところに人魂(ひとだま)がふはりふはりととんで、時折(ときをり)助(たす)けてくれ助けてくれと叫(さけ)ぶ聲がするといふのだ。あまりにもその噂(うはさ)が高くなつたので、警察(けいさつ)でも打棄(うつちや)つておけず、巡査が六人づれで人魂探檢(ひとだまたんけん)をすると、なるほど鈍(にぶ)い光(ひか)りがぽかりぽかりと屍骸(しがい)の上にゆれはじめた。六人の巡査は手をつなぎ合はして、人魂を追(おつ)かけると、どうしたものか人魂がパツと消(き)えた。尤もその前(まへ)から消えたりついたりはしてゐたさうだ。

 ところがこの時(とき)は、消えたばかりでなく若い女の姿(すがた)が、人魂(ひとだま)のそばをふわふわ[やぶちゃん注:ママ。底本では後半は踊り字「〱」。]と浮いて見えたさうだ。それも人魂と共(とも)に消(き)えたのだといふ。

 ソレツといふので、見當(けんたう)をつけてそばへゆくと、むしろをかぶせた屍骸(しがい)ばかりで、何の異狀(いじやう)もない。ぢつ見つめてゐるとたん、屍骸(しがい)にかぶせたむしろがムクムクと動(うご)いた。

 巡査たちは勇を鼓(こ)してむしろをひきめくつたら、そこには若い女が屍骸の中にまぎれて寢(ね)ころがつてゐた。

 なぜそんなところにゐるんだと引起(ひきおこ)すと、女は御ゆるし下さい御ゆるし下さいと泣(な)いて訴(うつた)ヘる、よくよくしらべて見たら、この女は、屍骸の口に殘つた入齒(いれば)の金や、指環(ゆびわ)の類時計の類を盜(ぬす)む女盜[やぶちゃん注:「ぢよたう」。]だつたといふ話。

 これが凾館(はこだて)の大火の時にも、そつくりその儘(まま)、實話として傳(つた)へられた。をかしい事には、この話のあとに必らず云(い)ひ添(そ)へる言葉がある。

 若い女のくせに、むごい事をするぢやありませんか、指環(ゆびわ)なんぞぬけにくいものですから、指ごと切つて取つて、風呂敷(ふろしき)にくるんでゐたさうです。警察ではその儘留置場へはふり込(こ)んだといひますが、まだしらべは濟まないさうです、ですけど、あまりにも無慘(むざん)な仕方(しかた)なので、新聞記事も差止(さしと)めてあるんださうですよ。と、かういふ風(ふう)にいふんだ。

 あまりにも殘酷(ざんこく)だから新聞には出させないといふ文句(もんく)の絡まつてゐる事は、當然(たうぜん)、この話がつくり話だといふ事を裏書(うらがき)してゐるのだから愉快だ。

 こんな風(ふう)にして書いてゐると、際限(さいげん)はないが、兎もあれ、人の口から口へ傳(つた)へられる怪談といふものは、一人が一人へ話(はな)す度(たび)に、いろいろな訂正(ていせい)が加へられ、尾ひれがついて、おもひがけなく面白(おもしろ)い話になるものだと思ふ。

[やぶちゃん注:以上を以って「蘆江怪談集」は終っている。

 以下、ペンディングしていた「目次」を示す。底本のここから。但し、リーダとページ・ナンバーは省略した。字間はそれとなく似せただけで、正確な再現ではない。「表紙繪・題字 … … … …平 山 蘆 江」は「怪異雜記」の「記」の字の左中央位置から始まっているが、ブラウザの不具合を考えて、引き上げた。]

 

  蘆 江 怪 談 集  目  次

 

序 … … 妖 怪 七 首

お 岩  伊  右  衞  門

空 家 さ が し

靑   眉   毛

[やぶちゃん注:頭に「怪談」がないのはママ。]

二 十 六 夜 待

火 焰 つ つ じ

鈴 鹿 峠 の 雨

天   井  の   怪

惡  業  地  藏

縛  ら れ   塚

う  ら 二   階

投   丁    半

[やぶちゃん注:「投げ」でないのはママ。]

大   島   怪  談

        ✕   ✕   ✕

怪   異  雜   記

 

  表紙繪・題字 … … … …平 山 蘆 江

 

[やぶちゃん注:以下、奥附。全体を上下を有意に空けて、中央に二重罫線で囲み、そのまた中央に罫線を上下に挟んで「蘆江怪談集」が右から左に太字で示されてある。この裏に同書店から刊行された「平山蘆江先生名著五種」と題した広告があるが、省略する。上段・中段・下段の順に電子化した。ポイント・字間・行空けはそれとなく合わせただけで、再現していない。]

 

《上段》

本 書 定價一圓貳拾錢[やぶちゃん注:右端。]

 

岡   倉   書   房[やぶちゃん注:右端。]

 

《中段》

 集 談 怪 江 蘆

 

《下段》

著  者 平 山 蘆 江

裝  幀 平 山 蘆 江

用紙提供 小  山  洋  紙  店

美術印刷 渥  美  堂

製  本 柏  谷  秀  二  郞

印  刷  所  東 京 市 牛 込 區

     鷹 匠 町 八 番 地

     高  木  活  版  所

印刷責任 高  木  文  之  助

發  行  者 岡 村 祐 之

發  行  所 東 京 市 神 田 區

     淡路町貳丁目七番地

發  賣 岡 倉 書 房

振  替 東  京  貳五九參碁盤

印  刷  日 昭和九年七月二十六日

發  行  日 昭和九年七月三十一日

定  價 壹圓貳拾錢 送料十錢

2024/02/08

芥川龍之介 二つの手紙 (オリジナル強力詳注附き)

[やぶちゃん注:現在進行中の「蘆江怪談集」の注に必要となったため、電子化注した。

 本篇の初出は、大正六(一九一七)年九月一日発行の雑誌『黑潮』に掲載され、後の第二作品集「煙草と惡魔」(新潮社『新進作家叢書』第八編・大正六年十一月十日発行)に所収された。なお、当時の芥川龍之介は満二十五歳で、海軍機関学校の英語教官時代であり、横須賀に下宿していた。

 底本は旧岩波版『芥川龍之介全集』の「第一卷」(一九七七年刊)を使用した。なお、加工データとして「青空文庫」の新字新仮名の同作のテキスト・ファイル(入力:j.utiyama氏/校正:かとうかおり氏)を、ここからダウン・ロードして使用させて頂いた。ここに御礼申し上げる。本篇はごく一部を除き、ルビがない。若い読者が躓くかも知れないと思う箇所には、《 》で私の推定の読みを歴史的仮名遣で挿入した。踊り字「〱」は生理的に嫌いなので、正字とした。傍点「﹅」は太字に代えた。注は、一部を所持する筑摩書房『筑摩全集類聚』版「芥川龍之介全集」第一巻(昭和四六(一九七一)年三月刊)を参考にしようとしたが、既に注が古びており、『不詳』が多くて、殆んど使い物にならない。概ね、ネットを駆使して施した。]

 

 

 二つの手紙

 

 

 或機會で、予は下に揭げる二つの手紙を手に入れた。一つは本年二月中旬、もう一つは三月上旬、――警察署長の許へ、郵稅先拂ひで送られたものである。それをここへ揭げる理由は、手紙自身が說明するであらう。[やぶちゃん注:「郵稅先拂ひ」郵便料金を受取人が支払う方法。この仕儀自体が、相手の精神状態を疑わせる伏線である。]

 

      第一の手紙

 

 ――警察署長閣下、

 先ず何よりも先に、閣下は私の正氣だと云ふ事を御信じ下さい。これ私があらゆる神聖なものに誓つて、保證致します。ですから、どうか私の精神に異常がないと云ふ事を、御信じ下さい。さもないと、私がこの手紙を閣下に差上げる事が、全く無意味になる惧があるのでございます。その位なら、私は何を苦しんで、こんな長い手紙を書きませう。

 閣下、私はこれを書く前に、ずゐぶん躊躇致しました。何故かと申しますと、これを書く以上、私は私一家の祕密をも、閣下の前に暴露しなければならないからでございます。勿論それは、私の名譽にとつて、可成大きな損害に相違ございません。しかし事情はこれを書かなければ、もう一刻の存在も苦痛な程、切迫して參りました。こゝで私は、遂に斷乎たる處置を執る事に、致したのでございます。

 さう云ふ必要に迫られて、これを書いた私が、どうして、狂人扱ひをされて、默つて居られませう。私はもう一度、こゝに改めてお願ひ致します。閣下、どうか私の正氣だと云ふ事を御信用下さい。さうして、この手紙を御面倒ながら、御一讀下さい。これは私が、私と私の妻との名譽を賭して、書いたものでございますから。

 かやうな事を、くどく書きつづけるのは、繁忙な職務を御鞅掌になる閣下にとつて、餘りに御迷惑を顧みない仕方かも知れません。しかし、私の下に申上げようとする事實の性質上、閣下が私の正氣だと云ふ事を御信用になるのは、どうしても必要でございます。さもなければ、どうしてこの超自然な事實を、御承認になる事が出來ませう。どうして、この創造的精力の奇怪な作用を、可能視なさる事が出來ませう。それほど、私が閣下の御留意を請ひたいと思ふ事實には不可思議な性質が加はつてゐるのでございます。ですから、私は以上のお願ひを敢て致しました。猶これから書く事も、或は冗漫の譏《そしり》を免れないものかも知れません。しかし、これは一方では私の精神に異狀がないと云ふ事を證明すると同時に、又一方ではかう云ふ事實も古來決して絕無ではなかつたと云ふ事をお耳に入れるために、幾分の必要がありはしないかと、思はれるのでございます。

[やぶちゃん注:「御鞅掌」「ごあうしやう(ごおうしょう)」。「鞅掌」は「忙しく立ち働いて暇(いとま)がないこと」を言う。]

 歷史上、最も著名な實例の一つは、恐らくカテリナ女帝に現われたものでございませう。それから又、ゲエテに現れた現象も、やはりそれに劣らず著名なものでございます。が、これらは、餘り人口に膾炙しすぎて居りますから、こゝにはわざと申上げません。私は、それより二三の權威ある實例によつて、出來る丈手短に、この神祕の事實の性質を御說明申したいと思ひます。まづ Dr. Werner の與へてゐる實例から、始めませう。彼によりますと、ルウドウイツヒスブルクの Ratzel と云ふ寶石商は、或夜街の角をまがる拍子に、自分と寸分もちがはない男と、ばつたり顏を合せたさうでございます。その男は、後《のち》間もなく、木樵りが檞《かし》の木を伐り倒すのに手を借して、その木の下に壓《あつ/お》されて歿《な》くなりました。これによく似てゐるのは、ロストツクで數學の敎授をしてゐた Becker に起つた實例でございませう。ベツカアは或夜五六人の友人と、神學上の議論をして、引用書が必要になつたものでございますから、それをとりに獨りで自分の書齋へ參りました。すると、彼以外の彼自身が、いつも彼のかける椅子に腰をかけて、何か本を讀んでゐるではございませんか。ベツカアは驚きながら、その人物の肩ごしに、讀んでゐる本を一瞥致しました。本はバイブルで、その人物の右手の指は「爾《なんぢ》の墓を用意せよ。爾は死すべければなり」と云ふ章を指さして居ります。ベツカアは友人のゐる部屋へ歸つて來て、一同に自分の死の近づいた事を話しました。そさして、その語《ことば》通り、翌日の午後六時に、靜《しづか》に息をひきとりました。

[やぶちゃん注:「カテリナ女帝」十八世紀に最も権力を握ったロシア皇帝エカチェリーナⅡ世(アレクセーエヴナ Екатерина II Алексеевна(ラテン文字転写:Yekaterina II Alekseyevna)  一七二九年~一七九六年/在位:一七六二年~一七九六年)。彼女の事績は当該ウィキを参照されたいが、ネットの初期以来、よく見る「カラパイア」の「自らのドッペルゲンガーを見たという10人の偉人の逸話」によれば、彼女は、『ある夜、エカテリーナが寝室で休んでいると、召使がエカテリーナが王座の間に入って行くのを見たと言ってきた。本人が自分で調べにいくと、幽霊のような自分の分身が静かに王座に座っていたという。エカテリーナは』、『急いで』、『衛兵に』、『その分身に銃を放つよう』、『命令した。果たして弾が当ったのかどうかは語られていないが、その後』、『まもなくエカテリーナ本人は亡くなってしまった』とある。

「ゲエテ」ドイツの文豪にして博物学者・政治家でもあったヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)。同じく「カラパイア」の「自らのドッペルゲンガーを見たという10人の偉人の逸話」によれば、彼は、『ある日、フリーデリケという女性と別れたショックで』、『意気消沈して馬で帰る途中』、『馬でこちらに向かってくる男に出会った。ゲーテ曰く』、「『実際の目ではなく、心の目で見た』」『というのだが、その男は』、『着ている服は違えど、まさにゲーテ本人だったという。その人物はすぐに姿を消したが、ゲーテはその姿に』、『なぜか』、『心が穏やかになって、このことは』、『まもなく忘れてしまった』。八『年後、ゲーテが』、『その同じ道を』、『今度は』、『反対方向から馬を進めていたとき、数年前に会った自分の分身と同じ服装をしていることに気づいたという。また』、『別のとき、ゲーテは友人のフリードリッヒが通りを歩いているのを見た。なぜか、友人はゲーテの服を着ていたという。不思議に思ったまま』、『ゲーテが自宅に帰ると、フリードリッヒが』、『ゲーテが通りで見たのと同じ服を着て』、『そこにいた。友人は』。「『急に雨が降ってきたので、ゲーテの服をかりて、自分の服を乾かしていたのだ』」と言ったという逸話がある。

Dr. Werner」『筑摩全集類聚』版には、『ヴェルナー博士について未詳。したがって以下に挙げられている実例とか書簡についても未詳。芥川の仮構とも考えられる。』とあるのだが、ネット検索で、「飯田橋文学会」公式サイト内の「芥川龍之介全集を読む」で、アラビア語通訳・翻訳家でエジプトのカイロ生まれのマイサラ・アフィーフィー氏の記事に、以上の引用を示され、かく『説明であったが、調べているうちに、同じ作品に芥川が出した「自然の暗黒面」という書籍を見つけた。それは、Catherine Croweという著者が書いた「The Night Side of Nature」』(「自然界の暗黒面」。後で本文でも全く同じに訳している)『というタイトルで』、一八五二年(嘉永四年~嘉永五年相当)に、『ロンドン』で『刊行された本であった。著作権が切れているのでグーグルブックスでダウンロードできる。僕は実際』、『ダウンロードし、全部ではないが、ところどころに目を通しみたら、芥川は』、『ヴェルナー博士や以下に挙げられていた実例とか書簡とか書籍とか』の『全てを、その本から引用していたようだ』と記しておられる。この同書は“The Project Gutenberg eBook”で“The Night-Side of Nature, by Catherine Croweとして電子化されている。自動翻訳でも、以下に記される事例が、総て、十分に読める。作者はイギリスの女流作家キャサリン・アン・クロウ(旧姓はスティーブンス)(Catherine Ann Crowe 一八〇三年~一八七六年)が一八四八年にロンドンで刊行した超自然的現象を蒐集した作品である。「Dr. Werner」はそこに七回言及されているが、事績は不詳。

「ルウドウイツヒスブルク」ルートヴィヒスブルク(Ludwigsburg)はドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州シュトゥットガルト行政管区のルートヴィヒスブルク郡に属する市。シュトゥットガルト内市街の北約 十三キロメートルに位置し、「シュトゥットガルト地域」(一九九二年までは「ミットレラー・ネッカー地域」)及び「シュトゥットガルト大都市圏」に含まれ、本市はルートヴィヒスブルク郡の郡庁所在地であり、同郡最大の都市である、と当該ウィキにあった。ここ(グーグル・マップ・データ)。

Ratzel」ラッツェル。

「ロストツク」ロストック(Rostock)は、当該ウィキによれば、『ドイツ連邦共和国北部』の『メクレンブルク=フォアポンメルン州の』『バルト海に面する港湾都市で、中世のハンザ同盟の中心都市』であり、『旧東ドイツ最大の港湾都市であった』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

Becker」ベッカー。]

 これで見ると、Doppelgaenger の出現は、死を豫告するやうに思はれます。が、必ずしもさうばかりとは限りません。Dr. Werner は、デイレニウス夫人と云ふ女が、六歲になる自分の息子と夫の妹と三人で、黑い着物を着た第二の彼女自身を見た時に、何も變事の起らなかつた事を記錄してゐます。これは又、さう云ふ現象が、第三者の眼にも映じると云ふ、實例になりませう。Stilling 敎授が擧げてゐるトリツプリンと云ふワイマアルの役人の實例や、彼の知つてゐる某M夫人の實例も、やはり、この部類に屬すべきものではございませんか。

[やぶちゃん注:「Doppelgaenger」ドッペルゲンガー(ドイツ語。正しくは現行では“Doppelgänger”と綴る)。当該ウィキによれば、『自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種で、「自己像幻視」とも呼ばれる現象で』、『自分とそっくりの姿をした分身』、『第』二『の自我、生霊』(いきりょう)の類(たぐい)を指す。『同じ人物が同時に別の場所(複数の場合もある)に姿を現』わ『す現象を指すこともあ』り、『第三者が目撃する』ケースも『含む』。心霊学やオカルトの中では『超常現象のひとつとして扱われる』とある。詳しくは、そちらを見られたいが、私のブログ記事で、この三年間、常に私の記事の内、アクセス・ランキングが常に上位にある、『芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』を、是非、読まれたい。巷には、芥川龍之介の自死を、これに求めるとする憶説が蔓延している。

「デイレニウス夫人と云ふ女」前掲英文先に“a lady named Dillenius”とあるケース。

Stilling 敎授」作家でゲーテの弟子にして、さまざまな教授職を経たヨハン・ハインリヒ・ユング(Johann Heinrich Jung 一七四〇年~一八一七年)。彼は両親の姓を重ねてJung-Stillingとも名乗った。

Stilling 敎授が擧げてゐるトリツプリンと云ふワイマアル」(Weimar:音写は「ヴァイマー」が近い。ドイツ・テューリンゲン州の都市で、ここ。主要な歴史的文化都市の一つ)「の役人の實例」前掲英文書に“Stilling relates that a government-officer, of the name of Triplin, in Weimar, on going to his office to fetch a paper of importance, saw his own likeness sitting there, with the deed before him. Alarmed, he returned home, and desired his maid to go there and fetch the paper she would find on the table. The maid saw the same form, and imagined that her master had gone by another road, and got there before her. His mind seems to have preceded his body.”とあるのを指す。

「彼の知つてゐる某M夫人」同前で“There are numerous examples of similar phenomena to be met with. Professor Stilling relates that he heard from the son of a Madame M⁠——, that his mother, having sent her maid up stairs on an errand, the woman came running down in a great fright, saying that her mistress was sitting above, in her arm-chair, looking precisely as she had left her below. The lady went up stairs, and saw herself as described by the woman, very shortly after which she died.”とあるのを指す。]

 更に進んで、第三者のみに現れたドツペルゲンゲルの例を尋ねますと、これもまた決して稀ではございません。現に Dr. Werner 自身もその下女が二重人格を見たさうでございます。次いで、ウルムの高等裁判所長の Pflzer と申す男は、その友人の官吏が、ゲツテインゲンにゐる息子の姿を、自分の書齋で見たと云ふ事實に、確かな證明を與へて居ります。その外、「幽靈の性質に關する探究」の著者が擧げて居りますカムパアランドのカアクリントン敎會區で、七歲の少女がその父の二重人格を見たと云ふ實例や「自然の暗黑面」の著者が擧げて居りますH某と云ふ科學者で藝術家だつた男が、千七百九十二年三月十二日の夜、その叔父の二重人格を見たと云ふ實例などを數へましたら、恐らくそれは、夥しい數に上る事でございませう。

[やぶちゃん注:「Dr. Werner 自身もその下女が二重人格を見たさうでございます」先に掲げた英文書に載るが、“Dr. Werner relates that Professor Happach had an elderly maid-servant, who was in the habit of coming every morning to call him, and on entering the room, which he generally heard her do, she usually looked at a clock which stood under the mirror. One morning, she entered so softly, that, though he saw her, he did not hear her foot. She went, as was her custom, to the clock, and came to his bedside, but suddenly turned round and left the room. He called after her, but she not answering, he jumped out of bed and pursued her. He could not see her, however, till he reached her room, where he found her fast asleep in bed. Subsequently, the same thing occurred frequently with this woman.”であって、ウェルナー教授「自身」ではなく、彼がHappach教授の使用人の話を又聞きしたものである。

「ウルムの高等裁判所長の Pflzer と申す男は、その友人の官吏が、ゲツテインゲンにゐる息子の姿を、自分の書齋で見たと云ふ事實に、確かな證明を與へて居ります」同前で、“A president of the supreme court, in Ulm, named Pfizer, attests the truth of the following case: A gentleman, holding an official situation, had a son at Göttingen, who wrote home to his father, requesting him to send him, without delay, a certain book, which he required to aid him in preparing a dissertation he was engaged in. The father answered that he had sought but could not find the work in question. Shortly afterward, the latter had been taking a book from his shelves, when, on turning round, he beheld, to his amazement, his son just in the act of stretching up his hand toward one on a high shelf in another part of the room. “Hallo!” he exclaimed, supposing it to be the young man himself, but the figure disappeared; and, on examining the shelf, the father found there the book that was required, which he immediately forwarded to Göttingen; but before it could arrive there, he received a letter from his son, describing the exact spot where it was to be found.”が、その話である。

「幽靈の性質に關する探究」前掲書の中に“The author of a work entitled “An Inquiry into the Nature of Ghosts,” who adopts the illusion theory, relates the following story, as one he can vouch for, though not permitted to give the names of the parties:—”とあって、““Miss ——, at the age of seven years, being in a field not far from her father’s house, in the parish of Kirklinton, in Cumberland, saw what she thought was her father in the field, at a time that he was in bed, from which he had not been removed for a considerable period. There were in the field also, at the same moment, George Little, and John, his fellow-servant. One of these cried out, ‘Go to your father, miss!’ She turned round, and the figure had disappeared. On returning home, she said, ‘Where is my father?’ The mother answered, ‘In bed, to be sure, child!’—out of which he had not been.””がそれ。「カムパアランドのカアクリントン敎會區」現在のイギリスのカンブリア州カーライル地区カークリントン(グーグル・マップ・データ)であろう。

『「自然の暗黑面」の著者が擧げて居りますH某と云ふ科學者で藝術家だつた男が、千七百九十二年三月十二日の夜、その叔父の二重人格を見たと云ふ實例』先のそれで、““On the evening of the 12th of March, 1792,” says Mr. H⁠——, an artist, and a man of science, “I had been reading in the ‘Philosophical Transactions,’ and retired to my room somewhat fatigued, but not inclined to sleep. It was a bright moonlight night and I had extinguished my candle and was sitting on the side of the bed, deliberately taking off my clothes, when I was amazed to behold the visible appearance of my half-uncle, Mr. R. Robertson, standing before me; and, at the same instant, I heard the words, Twice will be sufficient!’ The face was so distinct that I actually saw the pock-pits. His dress seemed to be made of a strong twilled sort of sackcloth, and of the same dingy color. It was more like a woman’s dress than a man’s—resembling a petticoat, the neck-band close to the chin, and the garment covering the whole person, so that I saw neither hands nor feet. While the figure stood there, I twisted my fingers till they cracked, that I might be sure I was awake.”が、それ。]

 私はさし當り、これ以上實例を列擧して、貴重なる閣下の時間を浪費おさせ申さうとは致しますまい。唯《ただ》、閣下は、これらが皆疑ふ可らざる事實だと云ふ事を、御承知下さればよろしうございます。さもないと、或は私の申上げようとする事が、全然とりとめのない、馬鹿げた事のやうに思召すかも知れません。何故かと申しますと、私も、私自身のドツペルゲンゲルに苦しまされてゐるものだからでございます。さうして、その事に關して、聊《いささか》閣下にお願ひの筋があるからでございます。

 私は私自身のドツペルゲンゲルと書きました。が、詳しく云へば、私及《および》私の妻のドツペルゲンゲルと申さなくてはなりません。私は當區――町――丁目――番地居住、佐々木信一郞と申すものでございます。年齡は三十五歲、職業は東京帝國文科大學哲學科卒業後、引續き今日まで、私立――大學の倫理及英語の敎師を致して居ります。妻ふさ子は、丁度四年以前に、私と結婚致しました。當年二十七歲になりますが、子供はまだ一人もございません。こゝで私が特に閣下の御注意を促したいのは、妻にヒステリカルな素質があると云ふ事でございます。これは結婚前後が最も甚しく、一時は私とさへ殆ど語《ことば》を交へない程、憂欝になつた事もございましたが、近年は發作も極めて稀になり、氣象も以前に比べれば、餘程快活になつて參りました。所が、昨年の秋から又精神に何か動搖が起つたらしく、この頃では何かと異常な言動を發して、私を窘《くるし》める事も少くはございません。唯、私が何故《なにゆゑ》妻のヒステリイを力說するか、それはこの奇怪な現象に對する私自身の說明と、或關係があるからで、その說明については、いづれ後で詳しく申上る事に致しませう。

 さて、私及私の妻に現れたドツペルゲンゲルの事實は、どんなものかと申しますと、大體に於てこれまでに三度ございました。今それを一つづゝ私の日記を參考として、出來るだけ正確に、こゝへ記載して御覽に入れませう。

 第一は、昨年十一月七日、時刻は略《ほぼ》午後九時と九時三十分との間でございます。當日私は妻と二人で、有樂座の慈善演藝會へ參りました。打明けた御話をすれば、その會の切符は、それを賣りつけられた私の友人夫婦が何かの都合で行かれなくなつたために、私たちの方へ親切にもまはしてくれたのです。演藝會そのものの事は、別にくだくだしく申上げる必要はございません。また實際音曲《おんぎよく》にも踊《をどり》にも興味のない私は、云はゞ妻のために行つたやうなものでございますから、プログラムの大半は徒《いたづら》に私の退屈を增させるばかりでございました。從つて、申上げようと思つたと致しましても、全然その材料を缺《か》いてゐるやうな始末でございます。ただ、私の記憶によりますと、仲入りの前は、寬永御前仕合と申す講談でございました。當時の私の思量に、異常な何ものかを期待する、準備的な心もちがありはしないかと云ふ懸念は、寬永御前仕合の講談を聞いたと云ふこの一事でも一掃されは致しますまいか。

[やぶちゃん注:「昨年」本作の最後には、脱稿を大正六(一九一七)年八月十日とする。機械的にそれに即すなら、大正五年となる。

「有樂座」明治四一(一九〇八)年に、現在の東京数寄屋橋附近の、ここ(グーグル・マップ・データ)に出来た西洋風(初の全席椅子席)の高等演芸場有楽座のことで、当時の日本の新劇運動のメッカであった。因みに、ここは旧南町奉行所跡で、明治になって裁判所、次に陸軍練兵場となった、その跡地でもある。大正九(一九二〇)年に帝劇に合併されたが、大正十二年の関東大震災で焼失するまで、この地にあった。

「寬永御前仕合と申す講談」江戸時代の寛永年間に将軍徳川家光の御前で行われたという設定で語られている架空の御前試合の講談で、史実ではない。『筑摩全集類聚』版注には、『有楽座はこの頃』確かに『慈善演芸会が催されていたが、このような講談は演じられていない』とあった。]

 私は、仲入りに廊下へ出ると、すぐに妻を一人殘して、小用を足しに參りました。申上げるまでもなく、その時分には、もう𢌞りの狹い廊下が、人で一ぱいになつて居ります。私はその人の間を縫ひながら、便所から歸つて參りましたが、あの弧狀になつてゐる廊下が、玄關の前へ出る所で、豫期した通り私の視線は、向うの廊下の壁によりかゝるやうにして立つてゐる、妻の姿に落ちました。妻は、明《あかる》い電燈の光がまぶしいやうに、つゝましく伏眼《ふしめ》になりながら、私の方へ橫顏を向けて、靜《しづか》に立つてゐるのでございます。が、それに別に不思議はございません。私が私の視覺の、同時にまた私の理性の主權を、殆ど刹那に粉碎しようとする恐ろしい瞬間にぶつかつたのは、私の視線が、偶然――と申すよりは、人間の知力を超越した、ある隱微な原因によつて、その妻の傍《かたはら》に、こちらを後《うしろ》にして立つてゐる、一人の男の姿に注がれた時でございました。

 閣下、私は、その時その男に始めて私自身を認めたのでございます。

 第二の私は、第一の私と同じ羽織を着て居りました。第一の私と同じ袴を穿いて居りました。さうしてまた、第一の私と、同じ姿勢を裝つて居りました。もしそれがこちらを向いたとしたならば、恐らくその顏も亦、私と同じだつた事でございませう。私はその時の私の心もちを、何と形容していゝかわかりません。私の周圍には大ぜいの人間が、しつきりなしに動いて居ります。私の頭の上には多くの電燈が、晝のやうな光を放つて居ります。云はゞ私の前後左右には、神祕と兩立し難《がた》い一切の條件が、備《そなは》つてゐたとでも申しませうか。さうして私は實に、そう云ふ外界の中に、突然この存在以外の存在を、目前に見たのでございます。私の錯愕《さくがく》は、そのために、一層驚くべきものになりました。私の恐怖は、そのために、一層恐るべきものになりました。もし妻がその時眼をあげて、私の方を一瞥しなかつたなら、私は恐らく大聲をあげて、周圍の注意をこの奇怪な幻影に惹《ひ》かうとした事でございませう。

 しかし、妻の視線は、幸《さいはひ》にも私の視線と合《がつ》しました。さうして、それと殆ど同時に、第二の私は丁度硝子《ガラス》に龜裂の入るやうな早さで、見る間《ま》に私の眼界から消え去つてしまひました。私は、夢遊病患者のやうに、茫然として妻に近づきました。が、妻には、第二の私が眼に映じなかつたのでございませう。私が側へ參りますと、妻はいつもの調子で、「長かつたわね」と申しました。それから、私の顏を見て、今度はおづおづ「どうかして」と尋ねました。私の顏色は確《たしか》に、灰のやうになつてゐたのに相違ございません。私は冷汗を拭ひながら、私の見た超自然な現象を、妻に打明けようかどうかと迷ひました。が、心配さうな妻の顏を見ては、どうして、これが打明けられませう。私はその時、この上《うへ》妻に心配させないために、一切第二の私に關しては、口を噤《つぐ》まうと決心したのでございます。

[やぶちゃん注:「夢遊病患者」『筑摩全集類聚』版本文には、この『夢遊病患者』(同書は新字)には『ソムナンビユウル』とある。底本の「後記」には、ここに、そんなルビのある、或いは、あったとする書誌が記されいない。おまけに『筑摩全集類聚』版では、これに注があって、『Somnambule(英)』として、夢遊病疾患の説明が載るが、この綴りの単語は英語ではなく、ドイツ語である。正しい音写は「ソォムナンブーレ」か。『筑摩全集類聚』版は岩波旧全集版を底本としいるはずだが、おかしい。実は『筑摩全集類聚』版編者が以下の後に出る本文に唐突に出る『ソムナンビユウル』という語を、前のここのルビに前倒しで移したと考えられる。まあ、欧語の、この単語を知らぬ圧倒的多数の読者のことを考えれば、そうした方が、遙かに親切ではあるとは言えるけれども。]

 閣下、もし妻が私を愛してゐなかつたなら、さうしてまた私が妻を愛してゐなかつたなら、どうして私にかう云ふ決心が出來ませう。私は斷言致します。私たちは、今日まで眞底から、互に愛し合つて居りました。しかし世間はそれを認めてくれません。閣下、世間は妻が私を愛してゐる事を認めてくれません。それは恐しい事でございます。恥づべき事でございます。私としては、私が妻を愛してゐる事を否定されるより、どのくらい屈辱に價《あたひ》するかわかりません。しかも世間は、一步を進めて、私の妻の貞操をさへ疑ひつゝあるのでございます。――

 私は感情の激昂に驅《か》られて、思はず筆を岐路《きろ》に入れたやうでございます。

[やぶちゃん注:「岐路」「脇道(わきみち)」の意。]

 さて、私はその夜以來、一種の不安に襲はれはじめました。それは前に揭げました實例通り、ドツペルゲンゲルの出現は、屢々《しばしば》當事者の死を豫告するからでございます。しかし、その不安の中にも、一月ばかりの日數《につすう》は、何事もなく過ぎてしまひました。さうして、その中に年が改まりました。私は勿論、あの第二の私を忘れた譯ではございません。が、月日の經つのに從つて、私の恐怖なり不安なりは、次第に柔らげられて參りました。いや、時には、實際、すべてを幻覺(ハルシネエシヨン)と云ふ名で片づけてしまはふとした事さへございます。

[やぶちゃん注:「幻覺(ハルシネエシヨン)」hallucination(英語)。]

 すると、恰《あたか》も私のその油斷を戒めでもするやうに、第二の私は、再び私の前に現れました。

 これは一月の十七日、丁度木曜日の正午近くの事でございます。その日私は學校に居りますと、突然舊友の一人が訪ねて參りましたので、幸《さいはひ》午後からは授業の時間もございませんから、一しよに學校を出て、駿河臺下のあるカツフエへ飯を食ひに參りました。駿河臺下には、御承知の通りあの四つ辻の近くに、大時計が一つございます。私は電車を下りる時に、ふとその時計の針が、十二時十五分を指してゐたのに氣がつきました。その時の私には、大時計の白い盤が、雪をもつた、鉛のやうな空を後にして、ぢつと動かずにいるのが、何となく恐しいやうな氣がしたのでございます。或は事によるとこれも、あの前兆だつたかも知れません。私は突然この恐しさに襲はれたので、大時計を見た眼を何氣なく、電車の線路一つへだてた中西屋の前の停留場へ落しました。すると、その赤い柱の前には、私と私の妻とが肩を並べながら、睦《むつま》しさうに立つてゐたではございませんか。

[やぶちゃん注:「駿河臺下」「四つ辻」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「中西屋」『筑摩全集類聚』版注に『駿河台にあった洋書洋品店』とある。]

 妻は黑いコオトに、焦茶の絹の襟卷をして居りました。さうして鼠色のオオヴア・コオトに黑のソフトをかぶつてゐる私に、第二の私に、何か話しかけてゐるやうに見えました。閣下、その日は私も、この第一の私も、鼠色のオオヴア・コオトに、黑のソフトをかぶつてゐたのでございます。私はこの二つの幻影を、如何に恐怖に充ちた眼で、眺めましたらう。如何に憎惡に燃えた心で、眺めましたらう。殊に、妻の眼が第二の私の顏を、甘えるやうに見てゐるのを知つた時には――ああ、一切が恐しい夢でございます。私には到底當時の私の位置を、再現するだけの勇氣がございません。私は思はず、友人の肘をとらえたなり、放心したやうに往來へ立ちすくんでしまひました。その時、外濠線《そとぼりせん》の電車が、駿河臺の方から、坂を下りて來て、けたたましい音を立てながら、私の目の前をふさいだのは、全く神明の冥助とでも云ふものでございませう。私たちは丁度、外濠線の線路を、向うへ突切らうとしてゐた所なのでございます。

[やぶちゃん注:「外濠線」「外堀線」とも言った。東京の皇居の外濠に沿って走っていた路面電車線の名称。明治三七(一九〇四)年、東京電気鉄道が敷設した御茶ノ水から土橋までの線路が最初。]

 電車は勿論、すぐに私たちの前を通りぬけました。しかしその後で、私の視線を遮《さへぎ》つたのは、唯《ただ》中西屋の前にある赤い柱ばかりでございました。二つの幻影は、電車のかげになつた刹那に、どこかへ見えなくなつてしまつたのでございます。私は、妙な顏をしてゐる友人を促して、可笑《をか》しくもない事を可笑しさうに笑ひながら、わざと大股に步き出しました。その友人が、後に私が發狂したと云ふ噂を立てたのも、當時の私の異常な行動を考へれば、滿更無理な事ではございません。しかし、私の發狂の原因を、私の妻の不品行にあるとするに至つては、好んで私を侮辱したものと思はれます。私は、最近にその友人への絕交狀を送りました。

 私は、事實を記すのに忙しい餘り、その時の妻が、妻の二重人格にすぎない事を證明致さなかつたやうに思ひます。當時の正午前後、妻は確《たしか》に外出致しませんでした。これは、妻自身はもとより、私の宅で召使つてゐる下女も、さう申して居る事でございます。又、その前日から、頭痛がすると申して、とかくふさぎ勝ちでゐた妻が、俄《にはか》に外出する筈もございません。して見ますと、この場合、私の眼に映じた妻の姿は、ドツペルゲンゲルでなくて、何でございませう。私は、妻が私に外出の有無を問はれて、眼を大きくしながら、「いゝえ」と云つた顏を、今でもありありと覺えて居ります。もし世間の云ふように、妻が私を欺いているのなら、あゝ云ふ、子供のやうな無邪氣な顏は、決して出來るものではございません。

 私が第二の私の客觀的存在を信ずる前に、私の精神狀態を疑つたのは、勿論の事でございます。しかし、私の頭腦は少しも混亂して居りません。安眠も出來ます。勉强も出來ます。成程、二度目に第二の私を見て以來、稍《やや》ともすると、ものに驚き易くなつて居りますが、これはあの奇怪な現象に接した結果であつて、斷じて原因ではございません。私はどうしても、この存在以外の存在を信じなければならないやうになつたのでございます。

 しかし、私は、その時も妻には、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]、あの幻影の事を話さずにしまひました。もし運命が許したら、私は今日《こんにち》までもやはり口を噤んで居りましたろう。が、執拗な第二の私は、三度私の前にその姿を現しました。これは前週の火曜日、卽《すなはち》二月十三日の午後七時前後の事でございます。私はその時、妻に一切を打明けなければならないやうな羽目《はめ》になつてしまひました。これもさうする外に、私たちの不幸を輕くする手段が、なかつたのですから、仕方がございません。が、この事は後で又、申上げる事に致しませう。

 その日、丁度宿直に當つてゐた私は、放課後間もなく、はげしい胃痙攣に惱まされたので、早速校醫の忠告通り、車で宅へ歸る事に致しました。所が午頃《ひるごろ》からふり出した雨に風が加はつて、宅の近くへ參りました時には、たゝきつけるやうな吹き降りでございます。私は門の前で匇々《そうそう》車賃《くるまちん》を拂つて、雨の中を大急ぎで玄關まで駈けて參りました。玄關の格子には、いつもの通り、内から釘がさしてございます。が、私には外からでも釘が拔けますから、すぐに格子をあけて、中へはいりました。大方《おほかた》雨の音にまぎれて、格子のあく音が聞えなかつたのでございましょう。奧からは誰も出て參りません。私は靴をぬいで、帽子とオオヴア・コオトとを折釘《をれくぎ》にかけて、玄關から一間置いた向うにある、書齋の唐紙をあけました。これは茶の間へ行く間に、敎科書其他のはいつている手提鞄を、そこへ置いて行くのが習慣になつてゐるからでございます。

 すると、私の眼の前には、たちまち意外な光景が現れました。北向きの窓の前にある机と、その前にある輪轉椅子《りんてんいす》と、さうしてそれらを圍んでゐる書棚とには、勿論何の變化もございません。しかし、こちらに橫をむけて、その机の側に立つてゐた女と、輪轉椅子に腰をかけてゐた男とは、一體誰だつたでございませう。閣下、私はこの時、第二の私と第二の私の妻とを、咫尺《しせき》の間に見たのでございます。私は當時の恐しい印象を忘れようとしても、忘れる事は出來ません。私の立つてゐる閾《しきゐ》の上からは、机に向つて竝《なら》んでいる二人の橫顏が見えました。窓から來るつめたい光をうけて、その顏は二つとも銳い明暗を作つて居ります。さうして、その顏の前にある、黃いろい絹の笠をかけた電燈が、私の眼には殆どまつ黑に映りました。しかも、何と云ふ皮肉でございませう。彼等は、私がこの奇怪な現象を記錄して置いた、私の日記を讀んでゐるのでございます。これは机の上に開いてある本の形で、すぐにそれがわかりました。

 私はこの光景を一瞥すると同時に、私自身にもわからない叫び聲が、自(おのづか)ら私の唇を衝《つ》いて出たやうな記憶がございます。また、その叫び聲につれて、二人の幻影が同時に私の方を見たやうな記憶もございます。もし彼等が幻影でなかつたなら、私はその一人たる妻からでも、當時の私の容子《ようす》を話して貰ふ事が出來たでございませう。しかし勿論それは不可能な事でございます。唯《ただ》、確かに覺えてゐるのは、その時私がはげしい眩暈《めまひ》を感じたと云ふ事よりほかに、全く何もございません。私はその儘、そこに倒れて、失神してしまつたのでございます。その物音に驚いて、妻が茶の間から駈けつけて來た時には、あの呪ふべき幻影ももう消えてゐたのでございませう。妻は私をその書齋へ寢かして、早速氷囊《ひようなう》を額へのせてくれました。

 私が正氣にかへつたのは、それから三十分ばかり後の事でございます。妻は、私が失神から醒めたのを見ると、突然聲を立てゝ泣き出しました。この頃の私の言動が、どうも妻の腑に落ちないと申すのでございます。「何かあなたは疑つていらつしやるのでせう。さうでせう。それなら、何故《なぜ》さうと打明けてくださらないのです。」妻はかう申して、私を責めました。世間が、妻の貞操を疑つてゐると云ふ事は、閣下も御承知の筈でございます。それはその時既に、私の耳へはいつて居りました。恐らくは妻も亦、誰からと云ふ事なく、この恐しい噂を聞いてゐたのでございませう。私は妻の語が、私もさう云ふ疑《うたがひ》を持つてはゐはしないかと云ふ掛念《けねん》で、ふるえてゐるのを感じました。妻は、私のあらゆる異常な言動が、皆その疑から來たものと思つてゐるらしいのでございます。この上私が沈默を守るとすればそれは徒《いたづら》に妻を窘《くるし》める事になるよりほかはございません。そこで、私は、額にのせた氷囊が落ちないやうに、靜《しづか》に顏を妻の方へ向けながら、低い聲で「許してくれ。己《おれ》はお前に隱して置いた事がある。」と申しました。さうしてそれから、第二の私が三度まで私の眼を遮《さへぎ》つた話を、出來るだけ詳しく話しました。「世間の噂も、己の考へでは、誰か第二の己が第二のお前と一しよにいるのを見て、それから捏造したものらしい。己は固くお前を信じている。その代りお前も己を信じてくれ。」私はその後で、かう力を入れてつけ加へました。しかし、妻は、弱い女の身として、世間の疑《うたがひ》の的になると云ふ事が、如何にも切ないのでございませう。或は又、ドツペルゲンゲルと云ふ現象が、その疑を解くためには餘りに異常すぎたせいもあるのに相違ございません。妻は私の枕もとで、何時《いつ》までも啜《すす》り上げて泣いて居ります。

 そこで私は、前に揭げた種々の實例を擧げて、如何にドつペルゲンゲルの存在が可能かと云ふ事を、諄々《じゆんじゆん》として妻に說いて聞かせました。閣下、妻のやうにヒステリカルな素質のある女には、殊にかう云ふ奇怪な現象が起り易いのでございます。その例もやはり、記錄に乏しくはございません。例へば著名なソムナンビユウルの Auguste Muller などは、屢々その二重人格を示したと云ふ事です。但《ただし》さう云ふ場合には、その夢遊病患者(ソムナンビユウル)の意志によつて、ドツペルゲンゲルが現れるのでございますから、その意志が少しもない妻の場合には、當てはまらないと云ふ非難もございませう。又一步を讓つて、それで妻の二重人格が說明出來るにしても、私のそれは出來ないと云ふ疑問が起るかも知れません。しかしこれ等は、決して解釋に苦むほど困難な問題ではございません。何故かと申しますと、自分以外の人間の二重人格を現す能力も、時には持つてゐるものがある事は、やはり疑ひ難《がた》い事實でございます。フランツ・フオン・バアデルが Dr. Werner に與えました手紙によりますと、エツカルツハウズンは、死ぬ少し前に、自分は他の人間の二重人格を現す能力を持つてゐると、公言したさうでございます。して見ますれば、第二の疑問は、第一の疑問と同じく、妻がそれを意志したかどうかと云ふ事になつてしまふ譯でございませう。所で、意志の有無と申す事は、存外不確《ふたしか》なものでございますまいか。成程、妻はドツペルゲンゲルを現さうとは、意志しなかつたのに相違ございません。しかし、私の事は始終念頭にあつたでございませう。或は私とどこかへ一しよに行く事を、望んで居つたかも知れません。これが妻のやうな素質を持つてゐるものに、ドツペルゲンゲルの出現を意志したと、同じやうな結果を齎《もたら》すと云ふ事は、考へられない事でございませか。少くとも私はさうありさうな事だと存じます。まして、私の妻のやうな實例も、二三外に散見してゐるではございませんか。

 私はかう云ふやうな事を申して、妻を慰めました。妻もやつと得心が行つたのでございませう。それからは、「唯あなたがお氣の毒ね」と申して、ぢつと私の顏を見つめたきり、淚を乾かしてしまひました。

[やぶちゃん注:「フランツ・フオン・バアデルが Dr. Werner に與えました手紙によりますと、エツカルツハウズンは、死ぬ少し前に、自分は他の人間の二重人格を現す能力を持つてゐると、公言したさうでございます。」これも先に掲げた英文書に載るが、“Franz von Baader says, in a letter to Dr. Kerner, that Eckartshausen, shortly before his death, assured him that he possessed the power of making a person’s double or wraith appear, while his body lay elsewhere in a state of trance or catalepsy. He added that the experiment might be dangerous, if care were not taken to prevent intercepting the rapport of the ethereal form with the material one.”とあって、Dr. Werner」ではなく、「Dr. Kerner」の誤りである。]

 閣下、私の二重人格が私に現れた、今日までの經過は、大體右のやうなものでございます。私は、それを、妻と私との間の祕密として、今日まで誰にも洩らしませんでした。しかし今はもう、その時ではございません。世間は公然、私を嘲《あざけ》り始めました。そうしてまた、私の妻を憎み始めました。現にこの頃では、妻の不品行を諷《ふう》した俚謠《りえう》をうたつて、私の宅の前を通るものさへございます。私として、どうして、それを默視する事が出來ませう。

 しかし、私が閣下にかう云ふ事を御訴へ致すのは、單に私たち夫妻に無理由な侮辱が加へられるからばかりではございません。さう云ふ侮辱を耐へ忍ぶ結果、妻のヒステリイが、益《ますます》昂進する傾《かたむき》があるからでございます。ヒステリイが益昂進すれば、ドツペルゲンゲルの出現も或はより頻繁になるかも知れません。さうすれば、妻の貞操に對する世間の疑《うたがひ》は、更に甚しくなる事でございませう。私はこのデイレムマをどうして脫したらいゝか、わかりません。

 閣下、かう云ふ事情の下《もと》にある私にとつては、閣下の御保護《ごほご》に依賴するのが、最後の、さうして又唯一の活路でございます。どうか私の申上げた事を御《お》信じ下さい。さうして、殘酷な世間の迫害に苦しんでゐる、私たち夫妻に御同情下さい。私の同僚の一人は故《ことさら》に大きな聲を出して、新聞に出てゐる姦通事件を、私の前で喋々《てふてふ》して聞かせました。私の先輩の一人は、私に手紙をよこして、妻の不品行を諷《ふう》すると同時に、それとなく離婚を勸めてくれました。それから又、私の敎えてゐる學生は、私の講義を眞面目に聽かなくなつたばかりでなく、私の敎室の黑板に、私と妻とのカリカテユアを描《ゑが》いて、その下に「めでたしめでたし」と書いて置きました。しかし、それらは皆、多少なりとも私と交涉のある人々でございますが、この頃では、赤の他人の癖に、思ひもよらない侮辱を加へるものも、決して少くはございません。或者は、無名のはがきをよこして、妻を禽獸に比しました。或者は、宅の黑塀へ學生以上の手腕を揮《ふる》つて、如何《いかが》はしい畫《ゑ》と文句とを書きました。さうして更に大膽なる或者は、私の庭内へ忍びこんで、妻と私とが夕飯を認《したた》めてゐる所を、窺《うかが》ひに參りました。閣下、これが人間らしい行《おこなひ》でございませうか。

 私は閣下に、これだけの事を申上げたい爲に、この手紙を書きました。私たち夫妻を凌辱し、脅迫する世間に對して、官憲は如何なる處置をとる可きものか、それは勿論閣下の問題で、私の問題ではございません。が、私は、賢明なる閣下が、必ず私たち夫妻の爲に、閣下の權能を最《もつとも》適當に行使せられる事を確信して居ります。どうか昭代《せうだい》をして、不祥の名を負わせないように、閣下の御職務を御完《おまつた》うし下さい。

[やぶちゃん注:「昭代をして、不祥の名を負わせない」「昭代」は「よく治まっていて、栄えている世の中・太平の世」の意で、『筑摩全集類聚』版注には、『あきらかに治』ってい『る太平な時代に悪い評判を与えないこと』とあった。]

 猶、御質問の筋があれば、私は何時《いつ》でも御署《おんしよ》まで出頭致します。ではこれで、筆を擱《お》く事に致しませう。

 

       第二の手紙

 

 ――警察署長閣下、

 閣下の怠慢は、私たち夫妻の上に、最後の不幸を齎《もたら》しました。私の妻は、昨日突然失踪したぎり、未《いまだ》にどうなつたかわかりません。私は危《あやぶ》みます。妻は世間の壓迫に耐へ兼ねて、自殺したのではございますまいか。

 世間は遂に、無辜《むこ》の人を殺しました。さうして閣下自身も、その惡《にく》む可き幇助者《ほうじよしや》の一人になられたのでございます。

 私は今日限り、當區に居住する事を止めるつもりでございます。無爲無能なる閣下の警察の下《もと》に、この上どうして安んじてゐる事が出來ませう。

 閣下、私は一昨日《いつさくじつ》、學校も辭職しました。今後の私は、全力を擧げて、超自然的現象の硏究に從事するつもりでございます。閣下は恐らく、一般世人と同樣、私のこの計畫を冷笑なさる事でせう。しかし一警察署長の身を以て、超自然的なる一切を否定するのは、恥づべき事ではございますまいか。

 閣下は先《まづ》、人間が如何に知る所の少ないかを御考へになるべきでせう。たとへば、閣下の使用せられる刑事の中にさへ、閣下の夢にも御存知にならない傳染病を持つてゐるものが、大勢居ります。殊にそれが、接吻によつて、迅速に傳染すると云ふ事實は、私以外に殆《ほとんど》一人も知つてゐるものはございません。この例は、優に閣下の傲慢なる世界觀を破壞するに足りませう。……

 

         *    *    *    *

 

 それから、先は、殆《ほとんど》意味をなさない、哲學じみた事が、長々と書いてある。これは不必要だから、こゝには省く事にした。 (大正六年八月十日)

[やぶちゃん注:この手紙主は、明らかに閉鎖系の強力な妄想体系(内部では完全に自己完結して矛盾がない)を構成している精神疾患で、不安や恐怖の影響を強く受けており、「他人が常に自分を批判している」という根強い固着型の被害妄想を抱くところの「妄想性パーソナリティ障害」の一種である「パラノイア(paranoia)」である。フロイトが「ラポートが起こらない」として治療不能と匙を投げた、あれ、である。]

2024/02/07

「蘆江怪談集」 「大島怪談」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本本文の開始位置はここ。本篇は冒頭に蘆江の添書がある通り、「市川八百藏」氏の実話である。彼は歌舞伎役者で俳優の八代目市川中車(明治二九(一八九六)年~昭和四六(一九七一)年)本名は喜熨斗倭貞(きのししずさだ)。初代市川猿之助の次男である。詳しくは当該ウィキを見られたい。写真もある。添書は一行であるが、ブラウザの不具合を考えて、二行に分けた。

 なお、本篇で怪談小説篇は終わっており、後に蘆江の本書の後書に代えた随想「怪談雜記」が載る。]

 

 

    大 島 怪 談

 

 

    これは、市川八百藏君の實驗談である、
    文中私とあるは八百藏君自身である。

 

       

 

 私は曾(かつ)て自殺の覺悟(かくご)をした事がありました。まだ二十歲(はたち)になる前で、只(たゞ)無やみに死にたくなつたのです。今(いま)から考へて見れば、一つも死ななければならぬ理由(わけ)などはありません。けれども、其時の私(わたし)は、どうでもかうでも死んで了(しま)ひたいと思ひ込んで居(を)りました。

 いよいよ死なうと覺悟(かくご)した時、私は二つの條件(でうけん)を自分自身に定(き)めました。

 第一は人に邪魔(じやま)をされず、悠々と死ねる場所を探(さが)す事、

 第二は死んだあとで死骸(しがい)を人に見(み)つからないやうにする事、

 どちらも六ケ敷い條件(でうけん)です。いろいろ考へた末火山(くわざん)の噴火口に飛び込む事に思ひ當(あた)りました。

 火山といへば淺間(あさま)か伊豆大島の三原山が手近(てぢか)にあります。

 その二つの中で淺間山(あさまやま)の方では、山へ登(のぼ)つてゐる間に追ひかけられる恐(おそ)れがある、三原山なら海を渡(わた)つてゆくだけにその心配(しんぱい)がありません。

「三原山にしよう」と私(わたし)はきめました。

 まだ袷衣(あはせ)を着てたやうに思ひますから初夏(しよか)の頃ででもあつたでせう。私の目的(もくてき)は着々と進んで間もなく私は三原山(みはらやま)の頂上へ只一人誰にも妨(さまた)げられずに立つ事が出來(でき)ました。

「これなら思(おも)ふ通りに死ねる」と思つて、私は落付(おちつ)いた心持になりました。全くあ時(とき)のやうな落付(おちつ)いた心持になつた事はあとにも先(さき)にも只の一度(ど)もありません。

 足許(あしもと)をすくはれさうな强い風を全身(ぜんしん)に受けながら私は一步々々上がります。[やぶちゃん注:底本では、句点はないが、『ウェッジ文庫』に従い、特異的に打った。]眼前(がんぜん)は次第に次第にひろびろと開(ひら)けてゆきます。而も目の下は縹渺(べうしや[やぶちゃん注:ママ。「へうべう」が正しい。])たる大海です。私の心持(こゝろもち)はいやが上のびのびとして來ました。愈々(いよいよ)頂上に達した私は死(し)といふものに、直面(ちよくめん)した喜びに胸を轟(とゞろ)かしながら、頂上の火口を覗(のぞ)き込みました。

 朦々(まうまう)と吹上げる硫黃(ゆわう[やぶちゃん注:「いわう」は古くはこうも読んだ。])の烟は濃霧のやうに私の顏を蔽(おほ)つて、一寸先も見(み)えません、むせかへるばかりの硫黃(ゆわう)の香に呼吸を壓(あつ)せられながら私は暫(しば)らく立ちつくしてゐますと、火口(くわこう)を吹きまくる風は始終(しじう)四方へ舞つて居ります。その風の爲めに硫黃(ゆわう)の烟は、パツと亂れて向ふへ吹(ふ)き拂(はら)はれました。

 此のひまにと思(おも)つて、私は岩角(いはかど)へすがりながら、火口を見下(おろ)しました。見下すと共にアツと叫びました。

 こゝこそ屈竟(くつきやう)の死に場所と思つた私の考へはがらりと外(はづ)れて了つてゐます。

 今が今まで火口(くわこう)だとばかり私が思つてゐたのは、舊火口(きうくわこう)の方で、目の下は七八丈[やぶちゃん注:二十一・二一~二十四・二四メートル。]もあらうと思はれる深さの斷崖(だんがい)でした。この斷崖(だんがい)の谷を越して向ふは丘その丘(をか)の彼方こそ本當(ほんたう)の噴火口です、卽ちこの山の火口(くわこう)は二重丸のやうになつてゐるのです。ですから頂上(ちやうじやう)まで上つたところで噴火口の側(そば)へは寄りつく事が出來(でき)ないといふわけになります。

 三原山が新舊(しんきう)二つの噴火口(ふんくわこう)を持つてゐる複式火山であらうとは今が今まで心付(こゝろづ)かなかつた。私は只呆然(ぼうぜん[やぶちゃん注:ママ。])として舊火口の緣(ふち)に坐つた儘、谷底を睨(にら)みつけてゐました。

「折角(せつかく)來たのだからこの谷へ飛(と)び込まうか、併し、これでは死骸(しがい)が見える。新火口まで行く方法を考へようか。迚(とて)も考へたところで人間業(にんげんわざ)では出來ない事(こと)だ、あゝどうしようどうしよう」

 と私は只々(ただただ)考(かんが)へました。[やぶちゃん注:一字下げはママ。]

 轢死を企(くはだ)てる人が線路をまくらにしてゐても、汽車の轟(とゞろ)きを聞くと、慌(あは)てゝ飛び起きるものだといひます。切腹(せつぷく)をしかけてゐる人の前へ石を投(な)げつけると思はず知らず危(あぶ)ないといふさうです。

 如何に死を決心(けつしん)しても、愈々といふ土坦場(どたんば)[やぶちゃん注:「坦」はママ。「土檀場」が正しい。]に坐ると、死にたくないといふ心(こゝろ)がひしひしと身に迫つて來るといふ事は平生(へいぜい)人(ひと)の話に聞いてゐました。話にばかり聞(き)いてゐる時は、それは決心(けつしん)が足(た)りないからだと思(おも)ひつめて居りました。

 併し、今時分が其場(そのば)に當つて見ると、全くその通(とほ)りだといふ事がしみじみ感(かん)じられます。

「死(し)なうか、止さうか」と思ひ迷(まよ)ひながら、丁度三時間(じかん)、私はこの舊火口の斷崖(だんがい)の上に坐つて考へましたが、兎に角死場所(しにばしよ)をかへようといふ心の方が勝(か)つて山を下(くだ)りはじめました。

 さあさうなると、晴れ晴れとして上つた山道が、急に怖(おそ)ろしくなつて、始終(しじう)何者かに追ひ迫(せま)られるやうで足は滿足(まんぞく)に地につきません。私は只々(ただただ)、あとを見ずに一目散に驅(か)け下りました。麓の船着場の旅館(りよくわん)に私は宿を取つて居(を)りました。

 追手(おつて)に追はれた落人のやうな心持(こゝろもち)で、私は息を切らして宿(やど)の戶口へ駈(か)け込みました。

 

       

 

 宿には私が山へ登る前(まへ)に同じやうに、美術學校(びじゆつがくかう)の生徒が三人と、品(ひん)のよい若女房が一人泊(とま)つて居りました。

 若女房(わかにようぼ)と云つても、もう二十五六にはなつてゐたでせう。この人(ひと)は少し、離れた座敷(ざしき)を借りてゐるので、私は美術學生(びじゆつがくせい)三人だけと懇意(こんい)になつて居りました。

「頂上まで行(ゆ)きましたか」

「實に天下の壯觀(さうくわん)と云ひ得られる景色(けしき)でせう、さうは思ひませんか」

 などと三人は口々(くちぐち)に話しかけました。私はそれに對(たい)して本當の私の心持をいふ事が出來(でき)ません。好い加減に相槌(あひづち)を打つた儘、疲(つか)れたからといふので其夜は早く床(とこ)につきました。

 丁度(ちやうど)私が山を下り切つた時から島は激(はげ)しい風に襲(おそ)はれました。島が根こぎに持(も)つて行かれるかと思ふくらゐの物凄(ものすご)さです。

 枕(まくら)につくが早いか私は一日の疲(つか)れでぐつすり寢ましたが、間(ま)もなく雨戶を打破(うちやぶ)るほど吹きつける風の爲(た)めに目をさまされました。それからといふものどうしても眠(ねむ)れません。只何となく冴(さ)え冴(さ)えとして來る目を見張(みは)つて、床の上で寢(ね)がへりばかりしてゐますと隣(とな)りの部屋で俄(には)かに人聲が仕始(しはじ)めました。

「今時分(じぶん)まで行くところもないのに、一體(たい)どうしたのだらう」

「風に吹き飛(と)ばされやしないかね」

「一體(たい)何時(いつ)頃から出かけたんです」といふのは美術學生(びじゆつがくせい)たちの聲。

「夕方前(ゆふがたまへ)でございました。一寸(ちよつと)散步(さんぽ)して來ると仰しやつて」といふのは宿の主人の聲。

 だんだん聞いてゐると離室(はなれ)の若女房が出たつきりかへつて來ないといふ騷(さは)ぎらしい。矢先(やさき)が矢先ですから、私(わたし)はすぐに、――自殺――といふ心持が浮(うか)び出ました。そして頭から水を浴(あ)びせられたやうにぞつとしました。もう寢(ね)てなんぞ居られません。

 直ぐに私もその評定(へうじやう[やぶちゃん注:ママ。])の仲間に入りました。

「何(いづ)れにしましても、一寸(ちよつと)お部屋を調べて見たいと思ふのでございますが」と主人(しゆじん)が云ひますと美術生(びじゆつせい)たちは一齊に

「それが好(い)いそれが好い」と同意しました。

「では、甚だ恐(おそ)れ入りますが、皆樣でお立會(たちあ)ひを願ひたうごさいます」と主人は先に立つて離室(はなれ)の客間(きやくま)へ入りました。四人(にん)はぞろぞろとそのあとへついてゆきました。

 離室(はなれ)に何一つ取り散(ち)らしたものもありません。

 部屋の主が一寸(ちよつと)散步(さんぽ)にと出かけたあとのやうな事は少(すこ)しもありません。

「馬鹿に片付(かたづ)いてるね」

「少し怪(あや)しいぞ」と美術生(びじゆつせい)は口々に云ひました。

 押入(おしい)れを開けて見てもきちんとして居ります。押入(おしい)れの中のものに手をつける前(まへ)に、床の間に据(す)ゑた鏡臺をしらべましたが、鏡臺(きやうだ)の抽斗(ひきだし)のどれにも異狀はありません。

「君その筥(はこ)の中を見たまへ」と一人がいふので、學生(がくせい)の一人が鏡臺の側に置いてあつた櫛疊紙(くしたゝみがみ)のやうなものを開けて見ますと、櫛(くし)やすき油がきちんと入れてある下(した)に何やら半紙(はんし)が一枚入つて居ります。

 何氣(なにげ)なしに主人が半紙を引き出して、折(をり)かへして見ました。一同の視線(しせん)は一度に此の半紙に集まりました。

 ところが果して果して

 此の半紙(はんし)一枚が卽ち「書置(かきおき)の事」であります。

「探(さが)して見よう、今から探したら、喰(く)ひとめる事が出來るかも知れない」と、私は眞先(まつさき)に云ひました。

 

       

 

 思へば妙(めう)な話です、數時間と隔(へだ)つる其日の午前中までは堅(かた)い堅い決心で死(し)なうとしてた私が、仕遂(しと)げなかつた自殺の歸り途(みち)に、今度は同宿の人の自殺(じさつ)を止めようとする身の上(うへ)になつてゐるのです。私としてはとりわけ身(み)にしみてこの若女房の身の上に同情(どうじやう)するのに當然(たうぜん)でせう。宵に一寢人りした私は、もう夜明(よあ)け近くだと思つて

ゐたのですが、まだ十二時前(じまへ)といふ刻限(こくげん)でした、私たちは主人と番頭(ばんとう)を加へて都合六人手に手に提灯(ちやうちん)を降りかざしながら、外へ出ました。風(かぜ)はまだ少しも止(や)みません。

 主人と番頭(ばんとう)が道案内で、私たちは島の海外(かいがん)[やぶちゃん注:ママ。『ウェッジ文庫』版もそのままだが、この「外」は「岸」の誤記か誤植。]へ木の茂みを、それからそれと足(あし)に任(まか)せて步きました。

 益々吹き募(つの)る風(かぜ)に、幾度か提灯の火をとられながら、六人は高聲(たかごゑ)に叫(さけ)び合つてはどんよりと暗い海岸を隨分(ずゐぶん)長い間逍遙(さまよ)ひました。

 が、何しろ只さへ早寢(はやね)ぐせの大島です、然も眞夜半(まよなか)ですから、人一人通る事(こと)ではない。私たちはだんだん宿(やど)から遠く離(はな)れてうろつきました。

「少し風が止(や)んでくれないかな」

「さうだ、これで風(かぜ)が止んでさへくれれば、一寸(ちよつと)愉快な探(さが)しものだぜ」

「どうだい、三原山(みはらやま)の烟が眞赤になつて燃(も)え上る眞夜半(まよなか)を、かうして山をめぐツて、步いてゐる心持は、爽快(さうくわい)をきはめたものだぜ」

「うん、一寸この經驗(けいけん)は我々一生の中に、又味はふ事の出來ないほど、深い印象(いんしやう)を殘す事だと思ふね」

「それあ全(まつた)くさうだ」と云つた風に美術學生(がくせい)たちはもう少し好い心持になりかけて居(を)ります。そして中には好(い)い心持さうに軍歌(ぐんか)などを歌ひはじめるものもありました。

 が、私(わたし)一人はどうしても、其樣(そんな)な氣になれません。

 私の身體は、けふの晝頃(ひるごろ)あの山の頂上にあつたのだ、いや本來(ほんらい)ならば、今頃(いまごろ)はあの山の頂上の底知(そこし)れぬ穴の中に燒けただれて了)しま)つてゐなければならなかつたのだ。そして、人の自殺(じさつ)を探すどころか自分自身が行方(ゆくゑ[やぶちゃん注:ママ。])を氣づかはれて探(さが)されなければならなかつたのだ。それが今は、主客轉倒(てんたふ[やぶちゃん注:ママ。])して、かういふ一行(かう)の中に交(まじ)つて、あの怖ろしい山の裾(すそ)をめぐる事になつてゐる。

 あまりといへば手(て)のうらをかへすやうな運命(うんめい)の不思議さを私は胸一杯に考へさせられ、眞赤(まつか)な三原山の火の下に彷徨(はうくわう)させられてゐるのですから、ものをいふ元氣(げんき)さへありません。萬(まん)一、あの若女房の自殺(じさつ)を喰ひとめる事が出來なかつたら、それは私が殺したも同然(どうぜん)な因緣(いんねん)になるのではあるまいか、あの若女房(わかにようぼ)は私の身代りに死ぬやうな運命(うんめい)を强ひられたのではあるまいかと、いろいろな考へが頭の中に渦(うづ)を卷くにつけ、どのやうな困難(こんなん)を冒してでも、助(たす)けなければならないと思ひつめました。

 丁度私の時計(とけい)が三時を過した頃です。私たちの一行は長根岬(ながねさき)といふところへ出ました。[やぶちゃん注:「長根岬」大島西端長根岬(グーグル・マップ・データ)。実は東端にも同名の岬があるが、女性であることからの位置と捜索の経過時間、及び、「海岸を隨分長い間逍遙ひました」という表現と、以下の「突堤のやうにつき出た岬」という表現から、そちらと同定した。]

 突堤(とつてい)のやうにつき出た岬(みさき)でしたが、そこの鼻まで行つて見ようと道芝(みちしば)の草を踏みわけて進む中に先頭の番頭(ばんとう)が、ぴたりと止(とゞ)まりました。次に立つた主人も止まりました。

「何かありますか」と三番目に進(すゝ)んでゐた私が覗き込みますと、番頭がさしかざした提灯(ちやうちん)の光りの下に女の下駄(げた)が一足揃(そろ)へてあります。

「うむ、こゝだこゝだ」と學生(がくせい)たちは口々に云ひました、主人は下駄(げた)を仔細(しさい)に見て、

「どうもさうらしい」と云(い)ひました。

 番頭(ばんとう)にとつても見おぼえのある彼の[やぶちゃん注:「かの」。]若女房(わかにようぼ)の下駄です。

「こゝに下駄(げた)を脫ぎすてたとすると、この邊(へん)から身を投げたものに相違(さうゐ)ないが、海の中(なか)をどうして探(さが)したものだらう」と學生(がくせい)の一人が云ひます。

「まだ其處(そこ)の草の茂みに居るんぢやないか」といふ人(ひと)もあります。

「若し海(うみ)の中とすると舟を出さなければなるまいが、此(この)夜更(よふけ)で、而もこのあらしでは迚(とて)も舟を出す事も出來まい」と二の足を踏(ふ)む人(ひと)もあります。

「兎に角、この岬(みさき)をすつかり調(しら)べて見ようぢやありませんか」と私は岬の鼻(はな)の方ヘ一足(あし)進(すゝ)みました。

 其時海(うみ)の方から眞面(まとも)に吹きしきつてゐた風はぴたりと止んで、前方から壓(お)し戾されるやうになつてゐた私の身體(からだ)は、不意に前のめりにのめらせられるやうな心持がしました。途端(とたん)に私は何ともつかず、ぞつとおぞ毛立(けだ)つて、身慄(みぶる)ひを感じました。皆の連中が

「さうださうだ、岬(みさき)を調べよう調べよう」と云つて私に從(した)がはなかつたら、私の足はこの儘(まゝ)すくんで了つたかも知(し)れません。

 私たちは岬の、兩側(りやうがは)の葭[やぶちゃん注:「よし」又は「あし」。この時の縁起担ぎの心持ちからは「よし」を採りたい。]の茂みに提灯さしつけさしつけして、到頭(たうとう)岬のとつ先まで進(すゝ)みました。

 私が不圖(ふと)うしろを振かへると[やぶちゃん注:「ふりかへると」。]、三原山の烟(けむり)は一際一團の大きな人塊(ひとだま)[やぶちゃん注:「塊」はママ。『ウェッジ文庫』も修正はしていない。]のやうになつて、パツと立つてゐました。

 うつかりとその火焰(くわえん)に見入らうとする時

「それ、そこだそこだ」といふ聲(こゑ)が二三人の口から湧き出ました。振(ふ)りかへつて見ると、岬(みさき)の鼻の岩の上に無殘(むざん)な姿で打上げられてゐる女の屍骸(しがい)が見えます。

 

       

 

 下駄を說ぎすてゝあつたのは岬の中程で、屍骸(しがい)は鼻のところです、思ふに若女房(わかにようぼ)は岬の中程から身を投げたのですが、折からの風浪(ふうらう)に打ちかへされてすぐに岬の鼻へ打上(うちあ)げられたのでせう、左程水(みづ)も呑まなかつたと見えて、姿(すがた)は亂(みだ)れてゐましたが、佛は殆(ほと)んど其儘でした。

 とは云へ、もうどうする事もなりません。屍骸(しがい)をずつと引上(ひきあ)げて置いて、學生の一人と番頭(ばんとう)とは宿へ駈(か)け戾つて屍骸(しがい)を運ぶ戶板をとりに行きました。私たち四人は殘(のこ)つて屍骸(しがい)の張り番をしてゐます。

 顏かたちの整(とゝの)つた美人で、只何となく淋しい姿(すがた)で、始終沈んでゐるやうな樣子(やうす)をしてゐる女でした。まだ漸々(やうやう)二十四五の盛りの花を、むざむざと殺(こ)ろしたものだと、皆は噂(うはさ)を仕合つて居ります。

 やがて戶板(といた)が來て皆が交(かは)る交(がは)る荷(かつ)ぎながら宿へつれ戾(もど)つたのはもうほのぼのと夜は明ける頃(ころ)でした。

 宿ではとりあへず、宿帳(やどちやう)によつて電報を打つやら檢視(けんし)を願ひ出るやら、それぞれ手筈(てはず)を運びます。

 宿帳(やどちやう)には東京日本橋區何々とあつたさうで何でも相當(さうたう)に大きな商家の若女房(わかにようぼ)であつたらしい。

 死なねばならぬほどの理由(りゆう[やぶちゃん注:ママ。])は何であつたか、此の女がどれほどの苦しい心を抱(いだ)いて身を投(な)げたかは私たちの知(し)る事(こと)ではない、けれども、私は只此の人が私の身代(みがは)りといふ心持ばかしが心にひしひしと當(あた)つて他の人たちよりも、一層惱(なや)ましい心持になつてゐました事はいふまでもありません。

 美術學生たちと私とは一通り手傳(てつだ)ひをすると、好い加減(かげん)にして、廣間へ集(あつ)まりました。

 それやこれやで殆(ほと)んど一日を費して夕飯(ゆふはん)を食べる時も皆が始終一緖(しよ)に集まつてゐました。冷々別の部屋(へや)に居る事が何となく薄氣味(うすきみ)惡さを覺(おぼ)えられてたまらないのです。

「今夜は迚(とて)も別々に寢(ね)られないね」

「何だか淋(さび)しくつてたまらない」

「いつそ一緖(しよ)に寢る事にしようぢやないか」と皆(みな)で申し合つて私も美術生の仲間入(なかまい)りをさしてもらひ五人には少し狹(せま)い部屋へ固(かた)まりました。

 其日の話(はなし)をすると、あまり好い心持はしませんから、なるだけ他(ほか)の話をしたいと思(おも)ひましたが、兎角(とかく)話は其れになつて了(しま)ひます。

「どうも厭(いや)な事が出來上つたものだね」

「實に氣持(きもち)がわるいね」と云ひかはしてゐるところへ、番頭(なんとう)が來て

「どうも皆さん、大層(たいそう)御迷惑(ごめいわく)をかけまして濟みません。只今お湯(ゆ)を湧(わ)かさせましたから、一風呂身體をお淸(きよ)めなすつてお伏せりを願(ねが)ひます」と云ひましたのが、渡りに舟、五人(にん)揃(そろ)つて湯殿へ入りました。

 かれこれ九時を過(す)ぎてゐました。いや十時にもなつてたか知(し)れません。この時もまだ風は相變(あひかは)らず吹(ふ)きすさんで居ります。

 湯殿(ゆどの)へ入ると、五人とも一寸氣持が變(かは)つたので、少しは冗談(じやうだん)もいふやうになつてゐました。

 が、話はこれからが怪談(くわいだん)になるのです。ところがこゝにこの湯殿(ゆどの)の位置を說明(せつめい)して書かなければならない。

 この宿屋は旅館(りよくわん)とは云ひ條[やぶちゃん注:「でう」。]、伊豆大島といふ離れ小島の淋しい旅籠屋(はたごや)の事ですから、海岸(かいがん)の廣場に面した頑丈(ぐわんじやう)な母屋が立つて居り、其の母屋のうしろ手に湯殿は廊下續(らうかつゞ)きの別の棟(むね)になつて居ります。湯殿(ゆどの)の前は濱つづきの空地で、その空地(あきち)に丸太を二本立てゝそれを物干場(ものほしば)にしてある湯殿の中の光(ひかり)はこの物干から取(と)り入(い)れるやうになつてゐます。

 さて私たち五人は思ひ思ひに湯(ゆ)につかつて好い心持で雜談(ざつだん)を始めました。湯(ゆ)けむりはムラムラと立つて脫衣場(だういば)に釣つた釣(つり)ランプの光を曇(くも)らして了つてゐました。

 充分に溫(あつた)まつた美術生の一人(ひとり)は、

「誰れか上(あが)らないか」と、實は廊下傳(らうかづた)ひに母屋へ行くまでが、一寸薄氣味惡(うすきみわる)いと見えて、さそひかけながら流(なが)し場へ上り、何心なく物干場(ものほしば)に向つた高窓の側へよつて、外の樣子を一寸(ちよつと)見ようとしました。

 多分(たぶん)風がいつまでも止まないので明日の天氣(てんき)はどうだらうとでも思つたのでせう、不用意(ふようい)に高窓の格子(かうし)ごしに外の物干場(のもほしば)を見たかと思ふと、

「アツ」といふ聲(こゑ)を出してドシンと尻餅をつきました。

「どうしたんだどうしたんだ」と二三人がばらばらと飛び出して來ると、倒(たふ)れた學生は、齒の根(ね)をガタガタ云はせながら窓(まど)の外を指さしてゐるばかり、一言も聲(こゑ)を出しません。

「何をワクワクしてるんだい、君(き)」と云ひながら次の一人が又(また)窓(まど)の外を見ますと、これも續(つゞ)いてワツと聲(こゑ)を立てゝ打倒(うちたふ)れました。

 餘り變(へん)ですから、今度は殘りの三人が一緖(しよ)に窓から外を見ました。私も其の三人の中(うち)の一人です。

 窓の外は薄月夜(うすづきよ)です。その薄月の明[やぶちゃん注:「あかり」。]の下に物干竿(ものほしざを)が長々と橫たはつてゐる。この物干竿に女(をんな)物の袷衣が(あはせ)ぶら下げてある。これは水死した若女房の着物を脫(ぬ)がして、經帷子(きやうかたびら)に着せかへたといひましたから、脫(ぬ)がした着物を夜干しにしてあるのでせう、死人の着物(きもの)を干してあつたからつて膽をつぶして尻餅(しりもち)をつくには當るまいと思ひながら、よく見るとうしろ向(む)きにひろげて干(ほ)してある着物の襟(えり)のところには眞黑(まつくろ)なものがもやもやとなつて垂(た)れ下つて居ります、よく注意(ちうい)すると女の髮(かみ)の毛です。而も向ふむきにうなだれてゐる女の頭(あたま)です。もう一つ云ひかへれば、物干竿(ものほしざを)にかけた着物の襟(えり)から女の頭が出て、それが向ふ向(む)きにうなだれてゐるのです。不思議(ふしぎ)はこればかりでなく、兩側(りやうがは)へひろげた袖の袖口のところには手首(てくび)がだらりと下つてゐるのです。

 と見ると、三人(にん)とも、キヤツと聲(こゑ)をあげてぞうと[やぶちゃん注:ママ。「ぞつと」の誤植であろうが、『ウェッジ文庫』版もそのままである。]なりました。

 何しろ五人(にん)もゐる人數ですから、遉(さす)がに氣絕をするやうな事もありませんが、五人とも屹度(きつと)顏の色が眞靑(まつさを)になつてゐた事でせう。齒の根はがちがち鳴(な)つてゐた事でせう。

 折角(せつかく)溫まつた身體が冷え切(き)つて了ふまで五人とも坐(すわ)つて顏を見合してゐましたが、それにしてもあるまじき事、屹度(きつと)心の迷(まよ)ひだらうと思ひはじめましたので、勇氣(ゆうき)を起して

「も一度(ど)見直(みなほ)して見よう」と誰いふとなくとぼとぼと立上りました。

 そして今度(こんど)は五つの顏を窓際(まどぎは)へ並べて、改めて外を見ますと、物干竿(ものほしざを)に干した着物の襟と兩袖から垂(た)れ下(さが)つてゐる手と頭は以前の通りです。而(しか)も前にはハツと思(おも)つたので氣(き)が付きませんでしたが、脊(せ)に垂(た)れた長い髮の毛からはダラダラと水が垂(た)れて居ります。どう見直(みなほ)しても、五人が五人とも幻影(げんえい)ではありません。只もう總毛立つて了つて、我(わ)れ先に濡(ぬ)れた身體に着物を引(ひつ)かけると一散に廊下(らうか)を走つて座敷へ戾(もど)つてもう肩の息(いき)になつて居りました。

 翌朝(よくてう)になつて五人は申し合(あは)せて、手をつなぎながら、この物干(ものほし)を三度見直したのですがこの時はもう水死人(すいしにん)の着物が干してある許りで何の不思議(ふしぎ)もありませんでした。

 とこれだけの話(はなし)をして、市川八百藏君は、ぶるぶると身ぶるひをして居た。「晝間(ひるま)だからこれだけの話が出來(でき)るけれど、夜では十年過ぎた今でさへも、此の事を思ひ出すさへ恐(おそ)ろしいと思ひます」と云つた。

[やぶちゃん注:本篇は、実話であり、その元の語り手が、当時の有名な歌舞伎役者であったこと、しかも、その八代目市川中車自身が自殺をせんとして赴き、躊躇したその直後に起きた怪奇現象であることが、強烈なリアリズム怪奇談に仕上がっており、何らの疑問(集団錯覚)を差し入れる余地も、全く、ない。なお、彼は大正七(一九一八)年十月に「市川八百蔵」の名跡を譲られて襲名している(満二十一歳)から、蘆江が彼からこの話を聴いたのは、本「蘆江怪談集」刊行の昭和九(一九三四)年七月を閉区間とする十六年余りの間ということになる。極上の怪奇実話の一つと言える。

2024/02/06

「蘆江怪談集」 「投げ丁半」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本本文の開始位置はここ。本篇は御覧の通り、パート章題があり、全四パートからなる。但し、オムニバスではない。]

 

 

    投 げ 丁 半

 

 

        音 な し の 宮

 

「けさ出がけに天井(てんじやう)から蜘蛛(くも)が下つたの」

「いやだな」

「いやな事ないわ、えんぎが好(い)いんでせう。朝の蜘蛛(くも)だから」

「どうだか」

「茶(ちや)ばしらが立つて、自動車の番號(ばんごう)も汽車の番號も、皆んな丁目(ちゃうめ)だし」[やぶちゃん注:原本では、「丁目」のルビは「ちやうわ」となっている。誤植と断じて、特異的に訂した。言わずもがな、「偶数」の意。]

「いやにかつぐね」

「かつぐわ、洗(あら)ひ髮(がみ)でもないのに、前髮は割(わ)れるし」

「割(わ)れるとどうなんだ」

「思(おも)はれるつていふの」

「フウン」

「あんた、氣(き)がないのね、思はれるつてわけ知(し)つてる」

「知らない」

「前髮は顏(かほ)のおもてにあるでせう。それが割(わ)れるから、誰れかに思(おも)はれるつて……」

「宿(やど)へかへらう」

 男はへんに無愛想(ぶあいさう)だつた。女だつて相當(さうたう)に話しかけたが、男のそばに寄(よ)り添(そ)ふなんて事はしなかつた。こんなに暗い、人影(ひとかげ)のない社(やしろ)の裏の川つぷちだのに。

「音(おと)なしの宮(みや)つて云つたわね」

「うん」

「なぜ音なしの宮なんだらう」

「賴朝と政子姬(まさこひめ)と逢曳(あいびき)をしたところだから」

「逢曳はおとなしくしろつていふことなの、ほほほ」

「まさか」

「この川(かは)が音なし川で……」

 云ひかけて、女はアツと叫(さけ)んだ。

 雜木(ざうぎ)の生(お)ひ茂(しげ)つた社殿のうら手は、しけ臭(くさ)くて、靑臭くて、晝間にしてあんまり好(い)い氣持(きもち)ではない。で表の方へと拜殿(はいでん)の橫をぬける時、古木の梅(うめ)の枝(えだ)が、女の鬢(びん)に引かゝつたのかと、男は思つた。それほど道(みち)が狹(せま)かつた。

「どうした」

「えりりに何(なに)か入つたの」

「毛虫か」

「おゝいやだ」

 女はむづむづして、拜殿(はいでん)の前へ出た。そこに燈籠(とうらう)がともつてゐる。

「取つて頂戴(ちやうだい)」

 えりをぐつとはだけて、女は美(うつ)くしいえりあしを脊筋(せすぢ)へかけて男の面前(めんぜん)にさらした。

 男は遠(とほ)くの方から覗(のぞ)き込んで、

「何もゐないよ」

「もつとよく見てよ。身(み)を入(い)れてさ」

「見てるよ」

 もう賴(たの)まないといふ氣持を、足どりに見せて、女は、どんどん鳥居(とりゐ)の方へあるいた。そこには緣日(えんにち)がちらりほらりと見世を片付(かたづけ)けはじめてゐる。もうそんな時間だ。

 男は遣(や)る瀨(せ)なげに、無言(むごん)で女のあとについた。

 とある露店(ろてん)に立つて、女は買(か)ひものをしはじめた。

 柳の枝に大福帳と、福助(ふくすけ)と、小判と、一升枡(しやうます)ほどの張子(はりこ)の賽(さい)コロなどがぶらさげてあるのを、女はかついでゐた。こんな繭玉(まゆだま)を、こんなところで賣つてゐるのも不思議(ふしぎ)だが、一夜泊(やとま)りの溫泉で、そんなものを女が買ふのは、尙(な)ほ更(さら)、妙な氣まぐれだつた。[やぶちゃん注:「繭玉」本来は旧正月の飾り物の一種で、桑や赤芽柏(かめがしわ)の枝に、繭のようにまるめた餠や団子を数多くつけ、小正月に飾るもの。その年の繭の収穫の多いことを祈って行なった。後には、葉のない柳や笹竹などの枝に、餠や菓子の玉をつけたり、七宝・宝船・千両箱・鯛・大福帳などをかたどった縁起物の飾りを吊るしたりしたものになった。神社などで売っているのを買って神だなや部屋に飾る。「なりわい木」「まゆだんご」等とも呼ぶ(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

「どうするんだえ、そんなもの」

 男はよびかけたが、女は返事(へんじ)をしなかつた。

 「里(さつ)ちやん、持つてやらうよ」

 男がいくらかお世辭(せじ)の氣味(きみ)で、追ひすがつて柳(やなぎ)の枝に手をかける。女がいぢわるく前へ引く、はづみに、大(おほ)さいころが、ポトリと落(お)ちた。

 カラカラと石疊(いしだゝみ)から土の上へころがつて、暗い地上(ちじやう)で、白々とうづくまつた。

「丁(ちよう)」

 女は走りよつて、さいころの表に鼠鳴(ねずな)きをした。[やぶちゃん注:「人が鼠の鳴き声を真似て口を尖らして「チュッ!」と出す声。人の注意を促したり、合図をしたりする際にする。]

「二が出た」

 男も云つて、さいころを拾(ひろ)つた。

 それを女が引(ひつ)たつくつて、

「丁か半(はん)か」

 改(あらた)めて投げるつもりだ。

「半」

「いやよいやよ、丁でなけあ」

 丁出ろと大きく念(ねん)じて、ポンと投(な)げる。又前の通りに二が出た。女はとびかゝつて、抱(だ)きとるやうにして嬉(うれ)しがつた。

「うしろ側(がは)の五のところが、重いんだよ、張(は)り子(こ)だから」

「雀部(さゝべ)さん、あんたケチをつけるつもり」

 女があんまりムキになつたので、男(をとこ)はまごついた。

「猿島(さしま)、そろそろ着(つ)く時分だぜ。早くかへらう」

 女は耳にも入れずに、あるきながら、三度目(どめ)のさいころを投(な)げた。

「それ御覽(ごらん)、今度は二ぢやありません。でもちやんと丁が出ましたよ」

 石の上に落(お)ちた大さいころは六になつてゐた。

「もう止(よ)せよ、早くかへらう」

「止せといふなら、いつまででもやつてゐるわ」

 四度、五度のさいころを振(ふ)つてはあるき、振つてはあるき、梢々(やゝ)人通(ひとどほ)りの絕(た)えかけた溫泉町の暗(くら)い小溝(こみぞ)に沿(そ)つて、女は餘念(よねん)なくさいころを振つた。併(しか)し、振つても、振つても、丁は出ないで一が出たり、五が出たり。

 女はぢりぢりして道(みち)の眞中(まんなか)に立ちどまつた。

「おい、里(さつ)ちやん、どうしたといふんだ。猿島(さしま)が着く時分だといふのに。ねえ里奴(さとやつこ)」

 雀部(さゝべ)は行きすぎて戾(もど)りかけた。

 按摩(あんま)の笛(ふえ)が、遠いのと近いのと、互(たが)ひちがひに響いて、何かの合圖(あひづ)でもしてゐるやうだつた。波の音が、凉しい夜風(よかぜ)を送つて、伊豆(いづ)の伊東(いとう)の夜をゆり動かした。

[やぶちゃん注:「音(おと)なしの宮(みや)」現在の静岡県伊東市音無町(おとなしちょう)にある音無神社(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『源頼朝と八重姫』(北条政子との関係以前の女性)『の逢瀬の場としても知られ、頼朝が対岸の』「日暮八幡(ひぐらしはちまん)神社」(伊東市桜木町。前掲地図に西に配してある)で『日が暮れるまで待ってから』、『音無神社で』その監視役であった在地豪族伊東祐親の三女八重姫と逢瀬を重ねたと『され、境内の玉楠神社には、彼ら』及び、の間に生まれた男児『千鶴丸』(祐親の命により川に沈められて殺害された)『が祀られている』とある。個人的には参拝して、祈願するなら、政子と頼朝所縁の密会の地、熱海の伊豆山神社の方を、断然、お薦めするものである。

「音なし川」両神社の間を貫流している「伊藤大川」は別に「音無川」「松川」の異名を持つ。]

 

        蜘 蛛 の 振 舞

 

 暖香園(だんかうえん[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])のはなれ座敷、例の柳の枝を脇床(わきどこ)に立てかけて、男は女にかまはず、手拭(てぬぐひ)をぶらさげ、浴槽(よくさう)へ行かうとしてゐた。[やぶちゃん注:「暖香園」明治二〇(一八八七)年開業の老舗温泉旅館である伊東温泉暖香園(グーグル・マップ・データ)。今はすっかり巨大ホテル化している。]

 出あひがしらの閾際(しきゐぎは)で、遲(おく)れてかへつた里奴(さとやつこ)は、

「フン」と鼻をならして、肩(かた)をいからしたまゝ座敷(ざしき)へ入る。例の大さいころはしつかり抱(だ)いたまゝで。

 雀部(さゝべ)は知らん顏をして廊下(らうか)へ出たが、立戾つて一言(ごん)、

「猿島(さしま)來(こ)ないよ。コンヤイカレヌ、アスアサイクだとさ」

 女は返事もせずに卓臺(ちやぶだい)の上の電報をひろげた。男は廊下傳(らうかづた)ひに浴槽(よくそう[やぶちゃん注:ママ。])に行つて了つた。

 一風呂浴びて男が戾(もど)つて來た時、里奴(さとやつこ)はさいころを疊の上でやけに振(ふ)つてゐた。

「湯に入らないの。誰(だ)れもゐないで、好(い)い湯(ゆ)だぜ」

「どうしても、丁(ちやう)が出なくなつた」

 最後の賽(さい)を叩(たゝ)きつけて、平手で押しつぶした。

「おつれさん、お見(み)えにならないんですつてね」

 丁度(ちやうど)閾際(しきゐぎは)へ來てさう云つた女中へ、

「さうだつてさ、猿島の珍(ちん)ケイトウ奴(め)、いつでもこの手ですつぽかすんだよ」[やぶちゃん注:「珍(ちん)ケイトウ」不詳。綽名で、頭髪が逆立っているか、赤ら顔なのか。後の里奴の彼を評する台詞からは、優柔不断で摑みどころのない奇天烈な人柄を鶏頭のふにゃふしゃした奇体な花に喩えたもののようには、見える。]

 手拭をぎくりと摑(つか)んで、無愛想(ぶあいさう)に廊下へ出て行つた。

「お孃(ぢやう)さま御かんむりだ。――ところで、猿島(さしま)が來ないときまつたら、御飯にするかな」

「畏(かし)こまりました」

 女中は返事(へんじ)のしようがなくて引下つた。

 猿島は里奴の旦那で、雀部(さゝべ)は猿島の親友である。

 猿島は下田(しもだ)へ用足(ようた)しに行つてゐる。

「土曜日の晚、伊東(いとう)へ行く。君も出て來い、その時、迷惑(めいわく)でも里奴(さとやつこ)をつれて來てくれ」

 かういふ打合(うちあは)せが猿島(さしま)と雀部(さゝべ)の間に出來てゐた。で、二人はけふ、東京から暖香園(だんかうえん)へ來たのだが。

「仕方がない、飯(めし)にしやう[やぶちゃん注:ママ。]」

 里奴が湯(ゆ)から戾つて來た時、雀部は膳(ぜん)の前に坐(すは)つてゐた。かれこれ十一時である。

「姐(ねえ)さん、お銚子(てうし)を一本」

 里奴は鏡臺(きやうだい)の前へ來て、團扇(うちわ[やぶちゃん注:ママ。])をつかつてゐる。烏羽玉(うばたま)の黑髮が、しとっしとと浴衣(ゆかた)の脊中へ流れてゐた。

「まア、美(うつ)くしいおぐし」

 惚れ惚れと[やぶちゃん注:「ほれぼれと」。底本では後の「惚れ」が踊り字「〲」で前にはルビは、ない。]里奴のうしろ姿に見惚(みと)れた女中は、板場(いたば)へ立つて行つた。

「飮むのか困(こま)るなア」

「あんた見てゐらつしやい」

「よせやい」

「ねえ、雀(さあ)さん」

「何だ」

「醉(よ)つても好(い)いでせう」

「いけない」

「くどくかも知れない」

「どうぞ御白由(ごじいう)に」

 手を肩(かた)ごしにうしろへ𢌞して、ぬれ髮(がみ)をバラバラと乾(かは)かしながら女はちやぶ臺ヘやつて來た。

 雀部(さゝべ)と向ふ前にならべた食器(しよくき)を、橫へ置きかへて、男の膝(ひざ)と自分の膝とを、すれすれぐらゐの角合せに坐(すは)ると、團扇の風を柔(やは)らかに男へ送つた。

 お銚子(てうし)が來ると、女中を追ひやつて、

「ねえ貴郞(あなた)、思ひざし」など、しなだれて見せる。[やぶちゃん注:「思ひざし」「思ひ差し」で、「この人と思う人に杯を差すこと・相手を指定して酒をつぐこと・その杯」を言う。]

「どうかしてるね」

「どうもしないわ。これが私の本性(ほんしやう)なの。はつきり云ふとあんたつて人を好(す)きなのよ」

「どうもありがたう」

「冗談(じようだん)ごかしにしないで、身を入れて聞いてよ」

「聞いてるよ」

「あんたのお友(とも)だちだけど、あの猿島(さしま)つて人、一體血が通(かよ)つてると思ふ」[やぶちゃん注:最後は疑問文。]

「あいつは口下手(くちへた)だからなア」

 女はやけに手を振つて、否定(ひてい)して、

「口下手でも、情合(じやうあひ)つてものが、どこかに見えるものよ。一週間(しうかん)に一遍(ぺん)か十日に一遍、それも、こつちから電話(でんわ)をかけなけあ出て來ないし、忙(いそ)がしいんですかつても、いや。閑(ひま)ですかと云つても、いや。額(ひたひ)に玉の汗(あせ)を搔(か)いてるから、扇(あふ)いでやれば、うるさいといふし、上衣をおとんなすつたらといへば、さうしちやゐられないといふし、さうかと思(おも)ふと、新聞(しんぶん)か何か一つところを何時間も見つめたあとで、フワフワ[やぶちゃん注:ママ。]と立上(たちあが)つて、さよならでも何でもなく、もう靴(くつ)を穿(は)いてるんだから。およそあんな珍(ちん)ケイトウの、碌(ろく)でなしの、張合(はりあひ)なしと云つたら、類(るい)がないわねえ」

「そこが好(い)いといふ人もあるんだとさ」

「何(なに)が好(い)いもんですか。あんた、友だち甲斐(がひ)に、もう少しは叩(たゝ)いて音(おと)のするやうに、仕込んでやつてよ」

「あれはあれで好いんだよ」

「よかないつたら」

「好いつて證據(しようこ)には、君ほどの女が、ぞつこん惚(ほ)れてるぢやないか」

「へん、誰れが惚(ほ)れてなんぞゐるものですか。緣(えん)あつてお世話(せわ)になつてるから、旦那にしてあげてるばかしよ」

「うそをつけ、惚(ほ)れてるからこそ、慾(よく)が出て、いらいらするんだ。惚(ほ)れてゐないものなら、とうの昔(むかし)切(き)れて了(しま)ふか、浮氣をするか――尤(もつと)も、浮氣つて奴あ、別(べつ)なものだが」

「別なものといふと」

「氣(き)が堅(かた)いから、浮氣なんて君にや出來ない。もう少し世間(せけん)の女なみに、柔(やは)らかいところがあつたら、氣まぐれの浮氣でもして、紛(まぎ)れるところなんだが、何しろ、固いからなア」

「アラ、蜘蛛(くも)、蜘株」

 二三尺(じやく)飛(と)びのいて、里奴は騷(さは)ぎ立(た)てた。

 丁度、二人の眞中(まんなか)あたり、疊(たゝみ)の上に、足長蜘蛛(あしながぐも)が、逃げもせず走りもせずに、八本の脚(あし)をつゝぱつて、二人を睨(にら)んでゐる。[やぶちゃん注:「足長蜘蛛」狭義の標準和名の種は、節足動物門鋏角亜門クモ綱クモ目クモ亜目クモ下目コガネグモ上科アシナガグモ科アシナガグモ属アシナガグモ Tetragnatha praedonia である。同種は田圃や池などの水辺に棲息するが、都市部の家内に出現することも稀にある。しかし、巣を作る種であり、私はここで言うのは、足が長い蜘蛛の意で、そうなると、現代住宅にもかなりの頻度で出現する、網を張らずにゴキブリなどの獲物を待ち伏せ、目の前に来た獲物を捕食する益虫である、本邦に棲息する徘徊性クモ類では最大種であるところの、クモ目アシダカグモ科アシダカグモ属アシダカグモ Heteropoda venatoria の中型個体と考える。私の建て替える前の家内にも掌大の個体がおり、夜中に、顔が誰かに摑まれたような気がして、飛び起きて見ると、実にグローブ大のそ奴がおり、叩き潰したことがある。未だに、あの顔面のひきつけた感触は忘れるものではない。但し、彼らは、大型になると、敏捷であるから、以下のシークエンスが相応しくないと考えて、中型とした。]

「困つたな。おれも嫌(きら)ひなんだ」

「意氣地(いくじ)なしね、夜の蜘蛛(くも)は親に似(に)ても殺せつていふから」

「だけど……」

 雀部(さゝべ)は尠(すくな)からずまごついたが、女中がおはちの上へ置きつぱなしにしておいた黑(くろ)ぬりのお給仕盆(きふじぼん)をとつて、蜘蛛(くも)の上へ、べつたり冠(かぶ)せた。

「これで好(い)い。其中、女中が來たら始末(しまつ)をしてもらはう」

「何だか氣味(きみ)がわるいわ」

 女は反對側へすわりなほして、盃(さかづき)を重(かさ)ねた。

「早く、御飯(ごはん)にしたまへ」

「待つてよ、せめて一本だけ飮(の)んで了(しま)はなけあ、くどけないわ」

「まだ、くどくつもりか、散々(さんざん)、猿島(さしま)ののろけを云つておきながら」

「のろけぢやない、愚痴(ぐち)を云つたのよ」

「愚癡はのろけの化身(けしん)にして、惡態は未練の權化(ごんげ)なり」

「うるさいね」

 女は盃をつき出した。男が受取(うけと)らうとすると、やけに首を振つて、

「お酌(しやく)」と云つた。

「ヘイヘイ」

「今夜(こんや)は、おとなしく私のお守(もり)をするのよ」

「ありがたき仕合(しあは)せで」

「雀(さあ)さん」

「何だ」

「なぜ私が賽(さい)ころを振(ふ)つたか知つてる」

「知らない」

「あんた、盆(ぼん)くらね、今夜(こんや)猿島(さしま)が來るか來ないかを占なつてたの」

「當(あた)つたかい」

「だからさ、あんなに喜(よろこ)んだぢやないの。丁(ちやう)が出るやうに出るやうにつて、東京を立つ時から念(ねん)じてゐたわ」

「丁が出ればどうなるんだ」

「二人なら丁で、三人は半(はん)でせう。判(わか)らないのかなア」

 男は聞き流して鈴(りん)を押(お)しに立つた。

「お膳(ぜん)を片付けてくれたまへ、この人にあんまり飮(の)ましちやいけない」

 女は最後(さいご)の一たらしを盃(さかづき)にうけてゐるところだつたので、女中の方がまごついた。

「姐(ねえ)さん、お給仕盆の下に、蜘蛛(くも)が伏せてありますから、始末(しまつ)して頂戴(ちやうだ)、この人、男のくせに、いくぢなしなの」

「ほほほ、でも蜘蛛と長虫(ながむし)は隨分(ずゐぶん)おきらひな方がおありでございますわ」

 女中は片手に紙片(かみきれ)、片手で給仕盆(きふじぼん)を、そつと、そつと開けて、のろのろと這(は)ひ出(で)る怪物(くわいぶつ)を、パツと押(おさ)える。……つもりだつたが、お盆(ぼん)の下には何もゐなかつた。

「おやつ」

「あら」

 二人は息(いき)づまるほど驚ろいた。

「へんだなあ、たしかに押(おさ)へておいたんだが」

「こんな事、よくあるんでございますよ。蜘蛛(くも)になめくじ、なめくじなんぞ、一間(けん)[やぶちゃん注:一・八一メートル。]でも二間でも飛ぶんださうです」

「魔(ま)ものだつてね」

 三人とも默(だま)つて了(しま)つた。

 ガサリ。

 變な音が突然器(うつは)に起つた。

「あれつ」

 女中が飛びのいたうしろには、柱(はしら)かけの一輪(りん)ざしから、大きな白百合(しらゆり)の花が落ち

てゐた。

 脇床(わきどこ)に立てた繭玉(まゆだま)の柳が、ぼそぼそと搖(ゆ)れてゐる。

 女中は慌(あわた)だしく食卓(ちやぶだい)を片付けた。

 

        洗  ひ  髮

 

 雀部(さゝべ)は廊下(らうか)に出て風を入れた。

「いやに蒸(む)して來た」

 誰(だ)れにいふともなく、眞暗(まつくら)な中庭を眺(なが)めてゐる。

「風がぴつたり凪(な)ぎましたから」

 輕く合槌(あひづち)を打つて、女中は食器(しよくき)を運び去つた。

 眞暗な中庭(なかには)を見つめてゐると、丁字(つやうじ)の香りが匂(にほ)つて、どうだんつゝじの小枝(こえだ)が、おぼろげながら見えはじめて、しんとした土(つち)の上を、によつきり立つた石燈籠(いしどうらう)が、ずるずると近よつて來さうな夢(ゆめ)の國(くに)のやうな風景(ふうけい)だつた。

 空には星(ほし)一つ見えない。露(つゆ)の落ちる音(おと)まで聞こえさうなしづかさ。

 くどくどと云(い)つたくせに、女はうしろ向(む)きになつて、おとなしく寢(ね)てゐる。

 雀部(さゝべ)は、ぬき足して自分の蒲團(ふとん)を壁際(かべぎは)の方へ、女のから引はなした。

 ごろりと足腰(あしこし)をのばして、改(あらた)めて座敷を見まはすと、目の上には墨繪(すみゑ)の牡丹(ぼたん)がかいてあり、床には投網(とあみ)を干(ほ)した海岸の繪が下つて居り、二疋(ひき)蟹(かに)の黑つぽい置きものがあり、床柱の一輪(りん)ざしには、首のもげた百合(ゆり)のむくろがのぞいて、脇床からは例(れい)の繭玉(まゆだま)の柳(やなぎ)が手をさしのべてゐる。

 それやこれやを見まはしてゐる中に、心(こゝろ)が落(お)ちついて來た。途端(とたん)に、女が、うしろ向の儘(まゝ)で、

「雀(さあ)さん、眠(ねむ)れる」と聞いた。

「うむ」

「眠れないでせう」

「うむ」

「どつちさ」

「君(きみ)は」

「なぜ布團(ふとん)をそつちへ引張つたの」

「知(し)つてたかい」

「知らなくてさ。――ねえ雀(さあ)さん。やけないのか知ら」

「やけないかとは」

「猿島(さしま)がさ」

「二人きりで、こゝに泊(とま)つてるからか」

「今夜(こんや)ばかりぢやないわ。いつかもこんな事があつたぢやないの」

「うむ、あれは箱根(はこね)だつたね。あいつは商賣熱心だからなア」

「いくら商賣熱心だからつて、一度(ど)ならずこんなすつぽかしを食ふと、何だか馬鹿(ばか)にされたやうな氣(き)がするわ」

「ひがみだよ」

「この頃(ごろ)ぢや、もう馴(な)れたから、何とも思つてやしないけど、でも、たまには腹(はら)の立(た)つ事もあるわ。お荷物にされてるつて感(かん)じね」

「何しろ性分(しやうぶん)つてやつは――」

「雀(さあ)さん、今夜寢かさないよ」

「困(こま)るなア」

「寢かしませんとも、せめて、夜(よ)つぴて、話(はな)してませう」

「困るよ」

「明日(あす)になつても、あの人きつと來ないと思ふわ」

「そんな事はない」

「いゝえ、箱根の二の舞(まひ)をさせられるやうな氣がします」

「何しろ、猿島(さしま)はあやかりものだよ。君ほどの人間(にんげん)をこんなにいらいらさせるんだから」

「雀(さあ)さん、怒(おこ)るわよ」

「怒つても好い。僕(ぼく)のいふ事に間違(まちが)ひはないんだから」

「いゝえちがひます」

「ちがひません。ちがはないわけを云(い)つて見(み)やうか[やぶちゃん注:ママ。]」

「云つて御覽(ごらん)なさい」

「君が宵(よひ)の口(くち)から、むやみにモーシヨンをかけてゐるのは、僕を猿島(さしま)に見立てゝゐるんだよ。もし、僕がつり込(こ)まれたら、君はポンと蹴(け)つて飛(と)びのくだらう」

「そんなこと……」

「猿島がそつけないから、君の方で、追(おつ)かける氣になるんだ。若(も)し、あいつが積極的(せつきよくてき)に出て來たら、きつと君は逃(に)げ腰(ごし)になるよ」

「うそ、そんな事、斷(だん)じてありません」

「あります。追(おつ)かければ逃(に)げる、逃げれば追かける、男と女は皆(み)んなさうだ。何しろ皮肉(ひにく)に出來てるよ」

「さう見える」

「さういふものなんだ」

「ですけど雀(さあ)さん。あんたがそんなにいふなら、本當(ほんたう)の事をいひませうか」

「うむ」

「止(よ)さう――私、寢るわ」

 里奴(さとやつこ)はくるりとうしろ向きになつた。枕(まくら)の向ふへ捌(さば)いた黑髮(くろかみ)がねぢれて散らばつた。

「ははは圖星(づぼし)をさゝれたものだから」

「待合(まちあひ)の女中さんに、さあさんがと云はれた時、私は一圖(づ)に、ほかのさあさんだと思つたの」

「ほかのさあさんて」

「猿島(さしま)のさあさんでないさあさんよ」

「卜だつてて雀部(さゝべだからアさんだが、……」

「默(だま)つてらつしやい。さあさんと聞いて早合點(はやがてん)で喜んだ私が惡(わる)かつたんだわ」

「だけど、猿島(さしま)はあの時分、まる一ケ月(げつ)通(かよ)つて、君を呼(よ)んでたといふぢやないか、あんな無口な男だから、いやに手數(てすう)ばかりかけやがつて……それほどのさあさんを前において、さあさんを間違へるなんて、そんな見當(けんたう)ちがひの早合點(はやがてん)があるものか」

 女は身を揉(も)んだ、立上つた、いきなり自分の寢道具(ねだうぐ)を男の方へ引よせる。

 男もごそりと起(お)きて、夜具を壁際(かべぎは)へぴつたり、以前(いぜん)の通りの間隔(かんかく)を保(たも)つ。女は蒲團をすつぽりかぶつた。枕(まくら)の上はばらばらになつた黑髮(くろかみ)ばかりが、海松(みる)のやうに流れ出て、五燭(しよく)の光りで伸びつちゞみつするやうに見(み)えた。[やぶちゃん注:「五燭」五カンデラ(ラテン語:: candela)の電灯。ほぼ八ワット。寝室や便所の常夜灯。]

 云ひ落したが、二人の寢床(ねどこ)は大きな蚊帳(かや)で包まれてゐた。

 雀部は、女の髮(かみ)をぢつと見つめて、勝氣(かちき)な女は可愛(かあい)さうだなアと思つてゐた。

「雀(さあ)さん」

 蒲團(ふとん)にもぐつたまゝで女が云つた。

「うん」

「私、猿島(さしま)と別れようと思ふ」

「それも好(い)いだらう」

「馬鹿にされてるとは思はない。だけど、およそあんなつまらない、面白(おもしろ)くない人つてないわ」

「だけど……」

「こつちもつまんないが、向(むか)ふだつてつまんないでせう。顏(かほ)を見合はせたつて、二三時間(じかん)も默(だま)りこくつてゐる事、のべつなんだもの。人情(にんじやう)つて、そんなもんぢやないわ」

「だけど……」

「ねえ雀(さあ)さん」

「何だ」

「猿島と切(き)れたら、あんた私のいふ事を聞(き)いてくれる」

「馬鹿、猿島はおれの親友(しんいう)だよ」

「知つてるわ、猿島(さしま)とあんたの間柄(あひだがら)だからこそいふのよ。それに、猿島は腹(はら)の中で、あんたと私を結(むす)びつけようとしてるにちがひない」

 どこかで、ボンボン時計(とけい)が鳴つた。たつた一つ、あとを聞かうとした雀部(さゝべ)の耳ヘは風の音だけがさやさやと入(はい)つたばかりだつた。

 十二時半かしら、一時(じ)かしら、一時半(じはん)かしら、そんな事を雀部(さゝべ)は、しきりに考ヘやう[やぶちゃん注:ママ。]としてゐた。

「もう寢(ね)たまへ、遲(おそ)いから」

 女は返事(へんじ)をしないで泣(な)いてゐるらしい。

 「もつと氣を安らかに持つ修業(しゆげふ)をしたまへ、猿島(さしま)つて男は、君が思つてるほど情(じやう)なしぢやない。口にこそ出さないが、腹(はら)の中は君の事で一杯(ぱい)なんだ。僕は君をこれほど思(おも)つてると、はつきり言葉で云はなけれあ、女には得心(とくしん)が行かないものかもしれないが、男の立場(たちば)からいや、さうぢやない。思(おも)へば思(おも)ふほど、ものを云はないもんだぜ」

「もう止(よ)してよ」

 蚊帳(かや)ごしに照(てら)す電燈で、ちらちらと底光りのする黑髮(くろかみ)から、雀部(さゝべ)はどうしても目が離(はな)せなかつた。

 見つめてゐると、黑髮(くろかみ)の一筋一筋(すぢ)が、もやもやと伸(の)びて、こちらの枕へ忍び寄つて來るやうに思(おも)はれる。

「雀(さあ)さん、もつと低(ひく)い聲で、私の耳(みゝ)のそばで、今の話をして下さらない」

「耳のそばだつて――」

「だから蒲團(ふとん)をもつと寄(よ)せてさ」

「おれを困(こま)らせるなよ」

 雀部はぐるりと仰向(あふむ)けになつた。

「思つても思つても思ひがとゞかない辛(つら)さ、叩(たゝ)いても音の聞(き)こえないさびしさ。それは誰(だ)れに持つてゆきやうもない苦(くる)しみなんだが、君のは、もう一つ瘠(や)せ我慢(がまん)と負けずぎらひの輪(わ)がかゝつてるんだから、自分の本當(ほたう)の氣持が、自分に判(わか)らないんだよ」

 獨(ひと)り言(ごと)のやうに云つて、雀部はほうつと溜息(ためいき)をついた。

 

        蜘 蛛 を 抱 く

 

 うとうととしたやうにもあり、眠(ねむ)れなかつたやうにもあり、何時間(なんじかん)すぎたかも判(わか)らなかつた。

 仰向(あふむ)けになつてゐた雀部の額(ひたひ)へ、つめたいものがばさりと落ちた。

 かきのけようとする手に女の黑髮(くろかみ)がからんだ、蚊帳(かや)ごしの電燈はへんに靑(あを)ずんだ光に見えた。

「寄(よ)つちやいけない」

 雀部(さゝべ)は、黑髮のぬしをおしやるやうにした。が、黑髮のぬしは鈴(すゞ)を張つたやうな瞳(ひとみ)で、雀部を見つめて、口許(くちもと)にわらひを含んで、ぴつたり男により添(そ)つたまよ動かうともしない。

「寄つちやいけない」

 雀部の聲はだんだん弱(よわ)くなる。

「雀(さあ)さん、なぜ私が賽(さい)ころを振つたか知つてる、丁(ちやう)が出れば好(い)い、丁が出れば好いつて念じつめて振(ふ)つたさいころ。振つても振つても二が出た時、私はどんなに嬉(うれ)しかつたか、だのに、あんたつて人は、人の氣(き)も知(し)らないで――」

 女はひしひしと迫(せま)る。美くしい手が、雀部(さゝべ)の首に卷きついてゐた。强(つよ)い强い力だ。こんな力が女の腕(うで)にあるのかと思ふほど强(つよ)い力(ちから)。

 女の手が首(くび)から胸(むね)へかゝつてゐるので、雀部は返事(へんじ)が出來なかつた。女の身體(からだ)が、雀部の片手を下敷(したじき)にしてゐるので、押(お)しのける事も出來なかつた。

「人にばかりものを云はせて、なぜ返事(へんじ)をして下さらないの、あんたは意氣地」いくぢ)なしよ。あんたの本心を當(あ)てゝ見(み)ませうか、あんたつて人は、私が好(す)きで好きでたまらないんだわ。

 さいころの丁(ちやう)が出て喜(よろこ)ぶのは、私ばかりでなくて、あんたもさうなの。だけど、あんたは、猿島(さしま)といふものに氣がねをして自分の本心(ほんしん)をいふ事も出來ず、意氣地(いくぢ)もなく、いぢけてちゞみ上つてゐるんだわ。女の私(わたし)に、これほどものを云(い)はせて、これほどの思ひをさせて、それでも、逃げ腰(ごし)になつてゐる、あんた見たいな踏(ふ)んばりのつかない、意氣地なしは、このくらゐにしないと、本心を明(あ)かさないでせう。あんたは卑怯(ひけふ)だわ。さもさも私を敎(をし)へるやうにして、さつきから默(だま)つて聞いてれあ、猿島の心持(こゝろもち)を云ふやうな振(ふり)をして、皆んな御自分の事(こと)を云つてるんだわ。卑怯なさあさん、意氣地(いくぢ)なしのさあさん、踏(ふみ)ぎりのわるいさあさん、さあ、本心を、はつきり聞(き)かして下さい。ねえ、雀(さあ)さんたら」

 男の胸(むね)をむちやくちやにゆすぶつて、女は身(み)をもだえた。女の頰(ほゝ)が、黑髮が、唇(くちびる)が、男の顏の上で、段々に亂(みだ)れた。

 雀部(さゝべ)はもうたまらなくなつた。

「里(さつ)ちやん、どうなつても好(い)い。何もかも君は知つてゐるんだ。かうなつたら、友だちの義理(ぎり)も糸瓜(へちま)もない。――なアに、猿島(さしま)だつて、おれが、君の事を一生懸命(しやうけんめい)に思つてゐるのも、ちやんと察(さつ)してゐるんだ、だからあいつ、かうして二人に逢(あ)はせる機會をつくつてくれたんだ。箱根の時だつてさうだ、里(さつ)ちやん、僕の里ちやんになつてくれるか」

 男の手の力が女の手に負(ま)けないほど働(はた)らきかけた。

 靑(あを)ずんだ光の中で、ゆめうつゝのやうな蚊帳(かや)の波に包(つゝ)まれて、二人の身體は一つになつて了(しま)ふかと思はれた。

 苦しい、切(せつ)ない抱擁(はうよう)の中から、男はかすかに目をあいて、女の顏を見た。

 紅を含(ふく)んだやうな唇に、きらきらと光(ひか)る瞳(ひとみ)、しつかり見つめてゐる間に、唇は血(ち)がにじみ出るかと思はれ、瞳(ひとみ)は火を吐(は)くかと見えた。

 男はあまりに銳(するど)い女の瞳(ひとみ)と唇を少しよける爲めに、蚊帳(かや)の外へ目をそらした。

 と、額に描(か)いた墨繪(すみゑ)の牡丹(ぼたん)が、一かゝへもあるほど大きくひろがつた。首のない柱(はしら)かけの百合が、毛(け)むくじやらの細く長い手になつて、蚊帳(かや)の中に伸(の)びて來さうだつた。

 脇床の柳(やなぎ)の枝(えだ)も、一本一本のび切つて、蚊帳ごしにつきさゝつて來る。柳の枝に吊つた大福帳(だいふくちやう)と福助と、繭玉が空(そら)に舞(ま)ひ上つた。掛地の繪の投網(とあみ)はいやが上にひろがつて、蚊帳へかぶさりかかると共に、部屋一杯(おあい)の蜘蛛(くも)の巢(す)になつた。

 男はあはて[やぶちゃん注:ママ。]ながら、眼(め)を女の顏へもどしたが、その時、女(をんな)の顏(かほ)はもう美くしい里奴(さとやつこ)ではなかつた。大きな大きな蜘蛛(くも)の精(せい)が、爛々(らんらん)たる眼を見張り、熱火(ねつか[やぶちゃん注:ママ。])のやうな唇を洞穴(どうけつ)のやうにあいて、ニヤリニヤリと笑(わら)つてゐる。

 男は右に左に顏をそむけて、逃(に)げようとしたが、怖(おそ)ろしい笑ひ顏は、男の顏のよける方へ、よける方へと向つて來る。雲(くも)のやうな黑髮をふり亂した蜘蛛(くも)の精(せい)が雀部を抱(だ)きしめてゐるのだ。蚊帳と一緖(しよ)に見え、投網(とあみ)と見えたのは蜘蛛の巢(す)であつた。墨繪の牡丹でさへも、小蜘蛛になつて、雀部の身のまはりを踊をど)り狂(くる)つた。中に眞白(まつしろ)な蜘蛛が、疊の上をひらめくやうに亂舞(らんぶ)してゐる。黑い二つの目をつけた眞白な蜘蛛、それは時折(ときをり)押(お)しつぶされた賽ころの姿に變(かは)つたりしながら。

 賽(さい)ころ蜘蛛(くも)の差圖(さしづ)につれて、幾つもの白蜘蛛が踊(をど)つた。それは各々、柳の枝につるした繭玉(まゆだま)であり、大福帳(だいふくちやう)であり福助であつたりした。

「苦しい、助(たす)けて、うゝむ」

 雀部はある限りの聲と、ある限りの力で蜘蛛(くも)の圍(かこ)みを逃(に)げようとしたが聲も力も出なかつた。

 只(たゞ)いたづらに、

 「苦しい」と叫(さけ)びつゞけるばかりである。

 「雀(さあ)さん、雀さん」

 どこかでかすかに、やさしい聲(こゑ)がよびかける、それを力(ちから)に、やうやく立上らうとして、見ひらいた目には、何もなかつた。何もかもが、寢(ね)る前と同じ姿(すがた)であつた。もう朝だ。

 いつの間にか蚊帳は綺麗(きれい)に片付けてあつた、里奴(さとやつこ)はあけ放(はな)つた緣側(えんがは)に、あらひ髮のうしろ姿を見せて、靑葉(あをば)を見ながら、すがすがしく立つてゐた。

「僕、苦(くる)しんでたかい」

 雀部は起上る力(ちから)もなかつた。

「いゝえ。ちつとも――どうかしたの、眞靑(まつさを)になつてるわ。それとも靑葉(あをば)のかげがうつゝてるせゐかしら」

 女の手には電報(でんぽう)がひろげられてあつた。

「どうもしやしないが、いやな夢(ゆめ)を見(み)た」

「ねえ、あいつ、又(また)電報(でんぽう)をよこしたわ。ドウシテモイカレヌ、ユツクリアソンデ、マツテテクレだとさ。相變(あいひかは)らずの珍(ちん)けいとうね」

 電報を見せに、里奴(さとやつこ)が枕もとへ來た。男(をとこ)ははね上るやうに起きて、浴衣(ゆかた)の着くづ

れをきちんと直(なほ)した。

「二三日この儘(まゝ)であそびませうよ。十國峠(こくたうげ)でもドライブして」

 女はわだかまりもなく云(い)つた。

「いやかへらう」

「いやよ、かへるなんて、それにもう自動車も賴(たの)んだし」

「いや、兎(と)に角(かく)かへらう」

「どうして、もうくどきやしないわよ。ゆうべのあなたの話で私、すつかり猿島の氣持(きもち)が判(わか)つたから、私おとなしく、猿島(さしま)を思つてゐるといふ事にきめたのよ。安心(あんしん)して下さい」

 女はニコニコしてゐた。

 男(をとこ)はちつともうれしくなかつた。

「やつぱりかへる方が好(い)いんだ」の一點張(てんば)りで、女のやさしい眼(め)を逃げて、浴場ヘ行つた。

[やぶちゃん注:個人的には、どうも好きになれない一篇である。三人の登場人物のそれぞれ、ある種の極め利己的な変態的嗜好を隠し持っており、その誰にも私は共感や憐憫をさえも全く感じないからである。]

2024/02/05

「蘆江怪談集」 「うら二階」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本本文の開始位置はここ。また、本篇もまた、最後に蘆江が添えているように、実話談を元にして創作されたものである。

 なお、「うら二階」「裏二階」とは、正式な二階ではなく、屋根裏などが二階になっているところを言う語である。]

 

 

    う ら 二 階

 

 

      

 

 ある都會(とくわい)の下町、と云つても仕舞屋(しもたや)ばかりの物靜かな河岸通(かしどほ)りに賃家が一軒(けん)出來(でき)た、これが貸家札を貼(は)つてから三日目にふさがつた。

 引越して來たのはこれまで山(やま)の手(て)に住んでゐた萩原精(はぎはらせい)一といふ人の一家(か)。

 夫婦(ふうふ)の間に七つの子が一人。

「三人家内に少し廣(ひろ)いけれど、家賃(やちん)が割(わり)に安いからね」と家の中の一通(とほ)り片付(かたづ)いたところで精(せい)一は下座敷の障子(しやうじ)をポンと開(あ)け放(はな)して初秋の風を家の中一杯(ぱい)に入れた。

「本當(ほんたう)ですね、好(い)い家(うち)が目付かりましたわ、家の中が廣(ひろ)いと少しお掃除が厄介(やくかい)ですけれど、どうせ私の身體(からだ)は大して用がないんですから」と妻君(さいくん)のおきみは良人の側(そば)に煙草盆(たばこぼん)を持出す。

「なあに掃除が面倒(めんだう)なら、女中を一人雇(やと)ふさ、何しろ五間(ま)もあるんだからなあ」

「それには及びませんわ、精太郞(せいたらう)だつてもう七つですもの、手(て)のかゝる子ぢやなし、學校にでも行くやうになつたら、朝寢坊の我儘(わがまゝ)が出來ないから、そしたら女中を置(お)いても好(い)いけれど、それまではまア、當分(たうぶん)此儘(このまゝ)でやつて見ませうよ」

「でも何だぜ、これまでの家(うち)のやうに木戶の中と違(ちが)つて、これでも通り筋(すぢ)だから、まるつきり留守(るす)にして外へ出るわけにも行かないしね、留守居のつもりにでも女中を置いた方が可(よ)かないか」

「なるだけ留守にしなければ好(い)いでせう、それに女中とは云へ、水入(みづい)らずの内輪(うちわ)ばかりで暮(くら)して來た中へ、一人でも他人(たにん)が交(まじ)ると、萬事(ばんじ)が違つて來ますから」と女は何かにつけて大マカな事をいふ。[やぶちゃん注:「大マカな」は底本では『ヤマカな』となっている。『ウェッジ文庫』版で訂した。]

「ぢやまア、お前の好(す)きなやうにやつて見るさ」と精一も賛成(さんせい)した。

 入つて取付(とつつき)が三疊(でふ)、つゞいて八疊が客間(きやくま)、それにつゞいた四疊半が茶(ちや)の間(ま)、茶の間の橫に六疊の書齋(しよさい)がある、その書齋と茶の間との間の廊下(らうか)のつき當りに杉戶(すぎと)が一枚立つてゐる、これが開き[やぶちゃん注:「ひらき」。]になつてゐて、開(あ)けると中をヲドリ場をつけて曲(まが)り角(かど)のある暗い梯子だん、この梯子だん[やぶちゃん注:「はしごだん」。]を上ると二階が六疊一間といふ妙(めう)な間(ま)どり、

「どつちかといふと、此家は二階(かい)の六疊だけが不用(ふよう)なようだね、一寸(ちよつと)使(つか)ひ道(みち)がないぢやないか」

「さうですね、間貸(まが)しでもするには好(い)いかも知れませんが」

「あれだけは全(まつた)く離(はな)れ島だ、尤(もつと)もあの二階だけはお神樂屋臺(かぐらやたい)になつてゐるやうだね、あとから何かの必要(ひつえう)があつてくつゝけたものだらう」

「さうらしうございますわ、何しろ遊(あそ)ばして置くのは勿體(もつたい)ないから、貸間(かしま)にでもしませうか」

「いや、いけないいけない、女中を置(お)いてさへ氣兼(きが)ねがあるやうな事(こと)を云つてゐるお前ぢやないか、況(ま)して他人を同居(どうきよ)させるなんて以(もつ)ての外だ」

「それもさうですね」

 ゆつたりとした心持で二人が家(うち)の中を見まはしてゐる中に、お君(きみ)は不圖(ふと)氣(き)が付(つ)いた、

「精太郞(せいたらう)はどこへ行つたのでせう」

「さうだね、先刻(さつき)まで茶の間に遊(あそ)んでゐたやうだつたが」と覗(のぞ)いて見たが居ない、玄關(げんくわん)の三疊にも居(ゐ)ない。

「精ちやん精ちやん」とお君(きみ)が呼(よ)ぶと、ずつと遠(とほ)いところで、

「ハーイ」と答(こた)へる。

「何處にゐるの、何(なに)かおいたをしてゐるんぢやありませんか」

「何もしないよ、僕(ぼく)ね、只(たゞ)遊(あそ)んでるの」と云ひながら廊下(らうか)の方からぬつと出て來た。

「何處へ行(い)つてたんです」

「あのお二階(かい)で遊んでたよ」

「お二階で、まアお前さん、よく淋(さび)しくないね、今お蕎麥(そば)が來ますから、こゝにいらつしやい」

 お蕎麥(そば)が來ると、それを親子三人が車座(くるまざ)になつてたぐり込(こ)んだあとで、お茶づけを輕(かる)く濟(す)ましてこれが夕(ゆふ)めし。

 往來の河岸通りで、蜻蛉(とんぼ)を釣(つ)る子供たちががやがやと一しきり、何となくお盆(ぼん)すぎらしい蟲賣(むしうり)の蟲(むし)の聲(こゑ)がしんみりとざわついたあとは、とつぶりと日が暮れた、萩原(はぎはら)一家(か)の新居の第一夜が來る。

[やぶちゃん注:主人公一家は引っ越したその日の最初の食事を「蕎麥」にしているのは、所謂「引っ越し蕎麦」の風習の名残りである。「出雲そば 本田屋」公式サイトの「引っ越しそばの由来と起源は? 引っ越しのご挨拶マナーも紹介」を見られたい。]

 

         

 

 翌日(よくじつ)から精一が會社へ出勤(しゆつきん)するのは朝の八時、そのあとはおきみと精太郞(せいたらう)と二人きり、落付(おちつ)いたとは云へ、まだ引越(ひつこし)したばかりの新宅(しんたく)、家の中がそここゝと片付(かたづ)かないので、お君は殆んど終日(しうじつ)こそこそ動いてゐた。

 精太郞はその母親の側(そば)へ時々顏を見せては又(また)どこかへ行つて一人でよく遊(あそ)んで來る。

「往來(わうらい)に出るんぢやありませんよ、大川へ落(おつ)こつたら大變(たいへん)ですから」と母親がいヘば「表へなんぞ出やしないよ」と云つては、ちよこちよこと廊下(らうか)を走(はし)つてゐる。

 其晚、精(せい)一が歸つて來て、親子三人夕餉(ゆふげ)の膳を圍(かこ)んだ時、おきみは眉(まゆ)をひそめながらかう云つた。

「ねえ、貴郞、此邊(こへん)の人、隨分(ずゐぶん)變(へん)なんですよ、それほど品(ひん)の惡い人が住んでる樣子(やうす)もないんですがね、どうしたわけだか、人の家を覗(のぞ)きにばかり來るんですよ」

「なあに氣(き)にする事はないよ、新しい人が越して來たから、どんな人かと思つて覗(のぞ)き込(こ)むんだらう、當座(たうざ)の間の事さ、その中二三日も經(た)つたら、自然(しぜん)顏馴染(かほなじみ)にもなつて氣心(きごころ)も知れるだらうよ」

「ですけれどね、こんなに仕舞屋(しもたや)つゞきではお馴染(なじみ)なんざ中々出來さうもありませんわ」

「出來なけれあ、いつそ出來ないが好いさ、其(そ)の方(はう)がいくら氣樂(きらく)だか知れない」

「でもあんなに迂散(うさん)さうに覗き込まれると、私(わたし)、いやになつて了(しま)ふわ」

「まあなるだけ氣にしないでゐるさ、――精坊(せいばう)や、お前はどうだ、先(せん)のお家と今度のお家とどつちが好(い)い」

「僕、今度(こんど)のお家の方がよつぽど好(い)いや、だつてお二階(かい)があるんだもの」

「ははは、お二階(かい)があるか、だけど精坊、お二階(かい)へ上つたり下りたりしてゐると今に落(お)ちるよ、お母さんに捕(つか)まへてもらふやうにしなければいけないよ」

「お母(かあ)ちやんなんかつかまへてくれなくても好(い)いよ、叔母(おば)ちやんがちやんと坊や坊やつて抱(だ)つこしてくれるよ」

「叔母さんて誰(だれ)だえ」と精(せい)一は妙(めう)な顏をした。

「叔母さんさ、二階の叔母さんぢやないか、父(とう)ちやん知らないのかな」

 精(せい)一は目をぱちくりさした。

「二階の叔母さんて誰(だ)れの事だらう」

「誰れも居やしないぢやないの、精坊(せいぼう[やぶちゃん注:ママ。以下同じく混雑する。])」

「居るよ、知(し)らないのかな、お父さんもお母さんも知(し)らないんだ。好(い)い叔母さんだぜ」と「誰れだらう」「誰れだらう」と夫婦(ふうふ)は顏を見合せたが、親子(おやこ)三人家内、外に人が居さうな事(こと)はない、精太郞は其樣事(そんなこと)に頓着(とんちやく)しないで繪本などをひねくつて獨(ひと)り言(ごと)をしてゐたが、

「お母さん、僕(ぼく)眠(ねむ)くなつちやつた」とお君の膝(ひざ)に這(は)ひ上(あが)つてぐつたりしたと思つたが、小さな欠伸(あくび)を一つして、もうすやすやと眠(ねむ)つた。

「何を云つてるんだか判(わか)つたもんぢやない、寢(ね)かしておやり」

「ほんとに何か思(おも)ひ違(ちが)ひでもしてゐるんでせうよ」

 精太郞を寢(ね)かしてから良人(をつと)は新聞など膝(ひざ)の上にひろげてゐたが、針仕事(はりしごと)を始めたお君が頻(しき)りに手足を動(うご)かしてゐるのを見て、

「下町はまだ中々(なかなか)蚊が多いね、少し早いけれど寢るとしようか」

「え、さうしませう」とお君(きみ)は床を展(の)べる、精一はまだ新宅(しんたく)の何となく落付(おちつ)かないので、戶締りを見まはつて來ませうと下の部屋々々(へやへや)をまはりながら二階(かい)へ上つた。

 やがて二階(かい)から下りて來た精一が

「おきみ、精坊(せいぼう)のいふ二階の叔母さんが判つたよ」といふ。

 お君は一寸(ちよつと)驚(おどろ)いて振向くと、

「ほら、お母さんの寫眞(しやしん)を引伸(ひきの)ばして額にしたらう、あれが裏(うら)二階(かい)の額になつてるものだから、その事を云(い)つてるんぢやないか」

「あ、さうですか、裏(うら)二階(かい)は丁度隱居所に好いからつて貴郞(あなた)があの額をおかけになりましたね、さういへばお母さんはよく精坊を可愛(かあい)がつて下さいましたわね」

「うん、こんな子供でも、自分(じぶん)を可愛がつてくれた人の事は中々(なかなか)忘れないものと見える」

 これで精太郞(せいたらう)のいふ「二階の叔母さん」は一應(おう)解決(かいけつ)がついて、夫婦は寢支度(ねじたく)にかゝつた。

[やぶちゃん注:「大川」「一」の冒頭で、「ある都會(とくわい)の下町」とあったが、萩原一家の言葉遣いに訛りがなく、「大川」(おほかは)とくれば、これは隅田川で、その「下町」「河岸通(かしどほ)り」とくれば、東京都墨田区の凡そ南半分を範囲とする本所附近がモデル・ロケーションであると言える。

「裏(うら)二階(かい)は丁度隱居所に好いからつて貴郞(あなた)があの額をおかけになりましたね、さういへばお母さんはよく精坊を可愛(かあい)がつて下さいましたわね」ちょっと躓くような表現だが、これは、精一の母は、ここへ引っ越す有意な前に亡くなっているようで、而して、その母の写真を額にして、新居の、この二階を、母の霊の隠居所にちょうどいいと言って、精一が掲げた、というのである。]

 

         

 

 三日(か)經(た)ち、四日經ちしてゐる間に、夫婦(ふうふ)は此の家に追々(おひおひ)馴染(なじ)みがついて來た、住(す)めば住むほど居心のよい家(うち)といふ事になつた。

「只近所の人がいやだわ、相變(あひかは)らず覗(のぞ)きに來るんですもの」とお君はそれを氣にしたが、

「仕方がないよ、一つぐらゐは惡(わる)い事がなけれあ、それに覗(のぞ)かれたつて不都合(ふつがふ)な事のあるやうな家の中ぢやないんだから、覗(のぞ)く奴(やつ)には覗かして置けば好(い)いぢやないか」と良人(をつと)は笑ひ消して了つた。

 五日六日經(た)つと、

「この頃(ごろ)精坊(せいばう)が大變大人(おとな)しくなつたぢやないか、お前、さうは思(も)はないか」と良人(をつと)が云つた。

「え、私もさう思つてるんですの、此家(このうち)に來てからといふもの打(う)つて變(かは)つて大人(おとな)しい子になりましたわ」

「病氣(びやうき)でもあるんぢやないか」

「いゝえ、身體(からだ)は何ともないらしいやうですよ、あの淋(さび)しい裏(うら)二階(かい)が馬鹿に氣に入つたと見えて、此頃は終日(いちんち)裏(うら)二階(かい)を上つたり下りたりして遊(あそ)んでますわ」

「よくあんな淋しい部屋へ獨(どく)りで行けるね、子供(こども)といふものは、家の中でも人の居(ゐ)るところにばかり居たがるものだが、裏二階で何(なに)をして遊(あそ)んでゐるんだ」

「それがね、可笑(をか)しいんですよ、今日なんざ半日(はんにち)の餘(よ)も裏二階に上つたきりですから、何(なに)をして遊んでるのかと思つて、そつと階子段(はしごだん)から覗いて見ましたら、床の間を枕(まくら)にして、寢そべつたままで獨りでお話しをしてるんですの、精坊(せいばう)や、お前何を云(い)つてるんだえと私が聲(こゑ)をかけましたらね、私の方は振向(ふりむ)きもしないで、お母さん、今(いま)叔母(をば)さんとお話してるんだよ、お母さんも上つていらつしやい、なんて濟(す)ましてるんです」

「ははは、床の間に枕(まくら)をすると、丁度目の上へお母さんの額(がく)があるといふわけだね、他愛(たあい)もない奴だな」

「でもよく飽(あ)きないと思つて感心(かんしん)しましたわ」とそれで其日は濟(す)んだ。

 が更に二三日(にち)經(た)つたある日、おきみは良人(をつと)のかへりを待ち受けて、一寸(ちよつと)聲(こゑ)をひそめながら、

「貴郞(あなた)、精太郞に何か憑(つ)きものでもしてるんぢやないでせうか]といふ。

「何故(なぜ)、どうかしたかい」

「いゝえ、どうもしませんが、その二階(かい)の叔母(をば)さんといふのが、私は變(へん)だと思ふんです」

「二階の叔母(をば)さんならお母さんの事ぢやないか、氣にする事はない」

「いゝえ、それがね、今日(けふ)汚穢屋(をわいや)さんが來て臭くつて仕樣(しやう)がありませんから、二階の地袋(ぢぶくろ)まで香盒(かうごふ)をとりに上りましたらね、いつもの通(とほ)りに床の間を枕にして獨話(ひとりばな)しをしてた精太郞が、だしぬけに泣(な)き出(だ)したんですの」

「びつくりしてかえ」

「いゝえ、だしぬけにお母(かあ)さんが上つて來るものだから、叔母(をば)さんが何處かへ行つて了(しま)つたと云つておいおい泣(な)くんです、お前の祖母(おばあ)さんならちやんとこゝに居(を)らつしやるぢやないかとあのお寫眞(しやしん)を指さして見せましたら、この祖母(おばあ)さんぢやないんだ、いつでも坊を抱(だつ)こしてくれる叔母さんだ、何處(どこ)かに行つちやつた。叔母(をば)さん叔母さんと云つて、只(たゞ)泣(な)いてばかり居るんです」

「ふうむ、それは變(へん)だね、さうすると、精太郞(せいたらう)のいふ叔母(をば)さんはお母さんの寫眞(しやしん)の事ぢやなかつたのかね」

「え、どうもさうらしいんですのよ」

「それで、其後(そのご)はどうした」

「それから下へ連れて來て、お菓子(くわし)をやつたりして、やつと機嫌(きげん)を直させると、又(また)こそこそお二階(かい)へ上つて行きましたが、今度は又先の通り大人(おのな)しく遊(あそ)んでましたわ、相變(あひかは)らず獨(ひと)りでお話をして」

「變(へん)な子だね」

「それに裏(うら)二階(かい)へばかり行きたがるのが、私にはどうしても不思議(ふしぎ)でなりませんわ」

「うん、それは只(たゞ)蟲(むし)が好(す)くんだとばかり俺(おれ)も思つてゐたが、さうなつて見ると、ちつと可怪(をか)しいね、今も行つてるかえ」

「え、多分(たぶん)さうでせう、精坊や精坊や」と呼べば、案(あん)の定(ぢやう)、裏二階の方で「ハーイ」と返事(へんじ)をしてちよこちよこと下りて來(き)た。

「お二階の叔母(をば)さん、どうしたい」と精(せい)一が聞くと、

「お二階の叔母さんね、今僕に猿坊(えて)のお話をしてくれたよ、お月樣(つきさま)がね、ずつと遠(とほ)くのお山の中のお池(いけ)へ下りていらつしやるんだつて、さうするとね、猿坊(えて)がね、木の枝にとまりながら、お池の中で行水(ぎやうずゐ[やぶちゃん注:ママ。既に先行す作品で注したが、「水」の音の正しい歴史的仮名遣は、現在では「すい」が正しい。])してるお月樣を捕(つか)まへてやらうと思つて手を伸(のば)して、ヒヨイと飛び込むと、お月樣の方が早(はや)いもんだから、ピンと天へ上つて了(しま)ふんだつて、そしてどうしても捕(つか)まらないんだつて」

「猿喉水月(えんこうすゐげつ)か、ほう洒落(しやれ)た話を知つてるね、そんな事を二階の叔母(をば)さんが坊やに話して下すつたのかい」

「あゝ。もつと澤山(たくさん)話してくれるよ、雨の神さまとお天道樣(てんたうさま)と喧嘩(けんくわ)した話も、それから鼠が描の仇討(あだうち)をするお話も、それから――」

「二階(かい)の叔母(をば)さんてどんな人だい」

「お父さん知らないの、變(へん)だな二階(かい)の叔母さんはお父さんの事も、お母さんの事も、よく知(し)つてるよ、好(い)い叔母(をば)さんだよ、僕が行くとすぐに抱(だつ)こしてくれるよ、それから面白(おもしろ)い話をいくつもいくつもしてくれるよ、お母(かあ)さん見たいに、うるさいなんてちつとも云はないや」

 お君は笑(わら)つたがすぐ眞面目(まじめ)になつて良人(をつと)と顏を見合した。

「變(へん)でせう」

「うむ、妙(めう)な事を云つてるね」

 それから長い間かゝつて、精(せい)一が精坊の話(はなし)で聞いたところによると、二階(かい)の叔母さんといふのは、切下(きりさ)げ髮にした色の白い老女(らうぢよ)で、紋羽二重の被布(ひふ)を着て白足袋[やぶちゃん注:「しろたび」。]を穿(は)いてゐるといふ事だけは判(わか)つた。

 其樣人(そんなひと)が裏二階に居さうな事がない、それにさういふ姿(すがた)をした人は親類の中に一人も居ない。

 夫婦(ふうふ)はぞつとした。

 精太郞を寢(ね)かしてから、

「一體(たい)何(なん)でせう」

「何だらう」と暫(しば)らく云ひ合つて見たが、解決(かいけつ)のつきさうな筈(はづ[やぶちゃん注:ママ。])がない。

 兎に角裏二階を調(しら)べて見ようといふ事で、夫婦が懷中電燈を照(てら)しながら、そつとと上つて見たが何の異狀(いじやう)もない、押入れ、地袋、床(とこ)の隅々(すみずみ)、屛風(びやうぶ)のうしろなどゝすつかり調(しら)べて見たが、更に異狀はない、矢張(やは)り

「變(へん)ですね」と云ひながら下りて來るより外はなかつた。

[やぶちゃん注:「汚穢屋(をわいや)さん」文化式溜め便所の汲み取り屋さんのこと。私が小学生六年生頃には、今住んでいる家の旧家屋には、近くのお百姓さんが、桶を担いで、汲み取り、お百姓が、お金を払って買って行かれていた。私は三十二歳で結婚して家を新築するまで、ぽっとん便所だった。今や、それを知らない若者が多くなったな。

「猿喉水月」「欲に駆られて身のほどを忘れ、命を落とすこと。」の喩えで、仏語。猿猴は猿こと。昔、インドの波羅那(ハラナ)城で、五百匹の猿が、樹下の池の面に映った月を取ろうとし、互いに他の猿の尾をつかんで高い枝を下りて池に臨んだが、遂には枝が折れて、皆、水に落ち、溺れ死んだ、という故事で、仏陀が比丘たちを戒めたと伝える、東晋の仏書「僧祇律」(そうぎりつ)の載る。単に「猿猴が月」とも、また「猿猴の水の月」猿猴が月に愛す」「猿猴月を取る」とも言う(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「切下(きりさ)げ髮」髪の毛を首のつけ根のあたりで切りそろえ、束ねて後ろに垂らしておく髪型。中国で夫の死後、操(みさお)をたてるためにした髪の模倣で、多く未亡人が行ない、大正時代頃まで行なわれた。「下げ毛」「切髪」「切り下げ」とも言う。

「紋羽二重」(もんはぶたへ(もんはぶたえ))は「紋織りの羽二重」。文様を浮き織りにした羽二重(平織りと呼ばれる 経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を交互に交差させる織り方で織られた織物の一種。

「被布(ひふ)」着物の上に羽織る上衣。襠(まち)があり、たて衿(えり)と小衿がつき、錦の組み紐で留める。江戸時代、茶人や俳人などが着用して流行し、後、一般の女性も用いた。おもに縮緬・綸子(りんず)などで作る。]

 

         

 

 其の翌日、精太郞が不意(ふい)に居なくなつた。丁度午後の四時頃の事、お君(きみ)が臺所(だいどころ)で煮物(にもの)をしてゐると、表へ廣告(くわうこく)の樂隊が來た、煮物の傍(そば)に居た精太郞は急いで飛んで出た、それまでは判(わか)つてゐる。

 が、その樂隊(がくたい)が遠くへ行つて了つても、精太郞(せいたらう)は戾(もど)つて來なかつた。

「精坊や、精坊や」とおきみが呼んだのはものゝ二十分も經(た)つてからの事、が、どこにも精太郞の返事(へんじ)は聞こえなかつた。

 お君はすぐに裏(うら)二階(かい)に上つて見た、併(しか)しその裏二階にも居ない、さあ心配(しんぱい)になつて來た、煮物は打棄(うつちや)らかして、おきみは往來(わうらい)へ出て見た、通りの方へも行つたし河岸通(かしどほ)りをすつかり探(さが)しながら、其處にゐる子供(こども)たちにも聞いて見た、が、どうしても見えない、手近の交番(かうばん)へ行つて、其の事を話して置いて、まるで氣(き)ぬけのしたやうになつて戾(もど)つて來た。

 其處へ精一が會社(くわいしや)から戾つて來た。

 今度は夫婦で氣を揉(も)んで、精一は勤めに出る洋服(やうふく)を着た儘で可成(かな)り遠くまで探しまはつた、けれども到頭(たうとう)行方(ゆくえ[やぶちゃん注:ママ。])は知れない儘(まゝ)に夜は十時といふ時間になつて了(しま)つた。

 お君はもう泣(な)き倒(たふ)れて正體もないくらゐ、精一もボーツとなつて、女房(にようぼ)を勵(はげ)ます勇氣(ゆうき)もなくなつてゐた。

 穩(おだや)かな家庭が、急(きふ)にじめじめとした家庭になつて了つた。

 十時半(じはん)になつても、十一時になつても、二人とも寢(ね)ようとする氣(き)にもなれなかつた。

 夫婦の中に一粒種(つぶだね)、而(しか)もかけがへのない男の子を、あれだけに仕上(しあ)げてから、もうこれつきり顏を見る事が出來ないのかといふ心持に二人ともなつてゐた。

 十二時といふ時間(じかん)になつたので、二人はさらばかうもしてゐられない。

「なあに、明日(あした)になつたら判るだらう、あの子は利口(りこう)な子だから迷見(まひご)になつても、多分こゝの町名(ちやうめい)番地(ばんち)をお巡査(まはり)さんに云ふ事が出來るだらうから、そしたら何(なん)とかして誰れかゞ送(おく)つて來てくれるに違ひない」と精(せい)一はお君に氣休(きやす)めを云つて、一先(ま)づ床(とこ)につく事にした、お君(きみ)とてもそれだけの事は判(わか)つてゐるが、それは只氣休めだ、氣休めで自分の心(こゝろ)を押(おさ)へるとあとからあとからと怖(おそ)ろしい想像(さうざう)が攻めつけて來るので寢(ね)ても寢ても寢つかれない。

 一時の時計の音(おと)も耳に響(ひゞ)いた、二時も判(わか)つてゐた、その二時が打つて二人が溜息(ためいき)をしながら寢がへりをした時、二人は外(そと)で

「お母さん」といふ聲(こゑ)を聞いた。

 夫婦は一齊(せい)に枕(まくら)を上げた。

「お母さん」と又(また)一聲(こゑ)。

「精坊かい」と夫婦は一緖(しよ)に飛び起きた。

「お父(とう)さん」

「おゝ歸(かへ)つて來たか歸つて來たか」と夫婦は一緖(しよ)に飛び出して戶を開(あ)けた。

 外には精太郞が滾(こぼ)れ落(お)ちるほどちらついてゐる星月夜(ほしづきよ)の下に悄然(せうぜん)と立つてゐる。

「どうしたんだ、どこへ行(い)つたんだ」

「まアよく歸(かへ)つて來ておくれだね」と左右(さいう)から手を取つて内へ入れると、精坊(せいばう)は到(いた)つて平氣な顏をして、

「僕ね迷兒(まひご)になつちやつたの、それで以(もつ)て困(こま)つてね、僕オーオーつて泣(な)いたの、さうすると二階の叔母(をば)さんが迎(むか)ひに來てくれたんだよ」といふ、夫婦(ふうふ)は此時ぞつと水を浴(あび)せられたやうな氣がした。

「そして二階の叔母さんはどうなすつて」

「今僕と一緖(しよ)に立つてたでせう、おや居ないや、お父(とう)さん、二階の叔母さんを閉(し)め出(だ)しちやいけないや、表(おもて)にゐるよ、きつと」と慌(あは)てゝ表の戶の際(きは)へ驅(か)けよつた、精一はそれに引かれるやうにして表の戶を開けたが、外(そと)は川水にうつる星(ほし)の光(ひかり)ばかりであつた。

「居ないや居ないや、二階(かい)の叔母さん」叔母さんと精太郞は狂氣(きやうき)したやうに外へ驅(か)け出(だ)さうとするのを父親がしつかり捕(つか)まへて、

「おいおい、折角歸つて來て又(また)飛(と)び出(だ)しちやいけない、早(はや)く中へ入つておいで」と引戾(ひきもど)す時、精太郞は急に廊下(らうか)の方を振(ふ)りかへつた。そして、につこりして、

「何だ、叔母(をば)さん、もうちやんと二階(かい)に上つてらあ」と安心(あんしん)した樣子をする。

 夫婦は顏を見合(みあは)せた、二階の叔母(をば)さんの正體を見屆(みとゞ)けるのはこゝだといふ心持。

「精坊や、叔母さんとこへお父さんたちを連(つれ)てつておくれ、お禮(れい)を云はなけれあならないから」と云(い)へば、

「あゝ」と優(やさ)しく返事(へんじ)をして精坊は先に立つて、とんとんと二階(かい)へ上る。

 夫婦がそのあとへ跟(つ)いて行つたが、二階(かい)はいつもの通り何の異狀(いじやう)もない。

「叔母さん、居(ゐ)ないぢやないか」

「居るよ、あそこにゐらあ、叔母(をば)さんありがたう」と精太郞(せいたらう)だけがどんどんとと床(とこ)の間へ進(すす)んでちやんとお辭儀(じぎ)をする。

 又しても夫婦(ふうふ)はぞつとした、もうそこに立つてる空(そら)はなかつた。

 翌朝(よくてう)になつておきみが勝手口(かつてぐち)で出あひがしらに隣(となり)の内儀(おかみ)とばつたり出逢つて、

「昨日(きのふ)はどうもお世話樣(せわさま)でございました、お庇(かげ)で昨晚遲がけに歸つて來ました」と禮(れい)をいふと、

「そんな樣子(やうす)でございましたね、それにしてもよくお歸(かへ)んなさいましたわね、どこに行つてらしたんでございます」

「矢張り迷兒(まひご)になつたんださうでね」とありの儘の話をすると、内儀は變な顏して、身慄ひをしたが、

「それぢや矢張り出(で)るんでございますか」と云つた。

 これが話の緖(いとぐち)になつて、隣(となり)の内儀の目からほぐれた話は、忽(たちま)ち二階の叔母さんの謎(なぞ)を解(と)いた。

 それは七八年の前までこの家に住んでゐた淺田(あさだ)といふ一家の人々の事である、夫婦(ふうふ)に子供一人それに老母と合せて四人家内(にんかない)であつたが、八年ほど前に夫婦が流行病(りうかうびやう)にかゝつて殆(ほと)んど三四日前後したくらゐで死(し)んだ、あとは子供一人と老母一人、尤(もつと)も當分(たうぶん)食(た)べて送るだけの貯(たくは)へはあつたらしい、老母(らうば)が孫(まご)一人を大事にかけて一年ほどもこの家で暮(くら)した、孫はその時十五ぐらゐになつてゐたので、あと四五年も辛抱(しんばう)して仕込めば、どうにか稼(かせ)いでくれる、それを樂(たの)しみにして、まアまアそれまでのつなぎはつけられさうだから、と、貯金(ちよきん)の利子(りし)と恩給(おんきふ)で暮してゐたらしいが、その孫が又しても一年目に兩親(りやうしん)のあとを追(お)つた、矢張り流行病である。

 ひとりぼつちになつた老母(らうば)の力落(ちからおと)しはいふまでもない。

「今貴女の仰(おつし)やる通り、切髮でね、披布(ひふ)を着て白足袋を穿(は)いた品(ひん)のよいお方でしたが、每日々々お墓詣(はかまゐ)りばかりしながら私は何の爲めに世の中に生殘(いきのこ)つてゐなけれあならないんでせうと云ひくらしてゐらつしやる中(うち)、お二階の軒(のき)の梁(はり)に紐(ひも)を釣(つる)して首をくゝつて死んでおしまひなすつたんですよ」と内儀(おかみ)は凄(すご)い顏をして說明した[やぶちゃん注:句読点なしはママ。]「私はその姿を見ましたので今でも目(め)をつぶるとあれがはつきり目の前に浮びますが、本當(ほんたう)にお氣の毒だと思(おも)ひました、それからこつち、此處(ここ)の家はどうも越して來る人が長續(ながつゞ)きしないんですよ、何でも裏二階で始終(しじう)お念佛(ねんぶつ)の聲がするんですつて、今だから申しますが、お宅(たく)で越(こ)してらつした時にも何か變(かは)つた樣子(やうす)が起るだらう起るだらうつて、近所で噂(うはさ)をしましたの」

「道理で、私どもを覗(のぞ)き込(こ)む人が多かつたんですわね」

「え、左樣(さう)でございます、それが一向(かう)平氣(へいき)で落ちついていらつしやるでせう、だから、幽靈(いうれい)ももう七年忌(ねんき)がすんだから諦(あき)らめたのかしらなんてね、皆で蔭口(かげぐち)を申して居りましたわ」

「まアさういふわけですか、して見(み)ると、私どもの家族(かぞく)が矢張り夫婦に子供一人だものですから[やぶちゃん注:行末で禁則処理が組版上、出来ないため、読点が、ない。]自分の孫(まご)のつもりで私らの坊(ぼう)やにだけ自分の姿を見せて始終(しじう)庇(ば)つてくれるんですね」

「どうもさうらしうございます、さう云(い)へば思ひ當(あた)る事がありますわ、七年の間(あひだ)に、約そ[やぶちゃん注:「およそ」。]何十人といふ人が越(こ)して來ましたが、十四五から下のお子さんのいらつしやる一家(か)は只一度でしたがね、その方がいらつしやる間(あひだ)は少しも念佛(ねんぶつ)の聲も聞こえないし、内の方も平氣(へいき)でいらした樣子です、それでたしか三四年も住(す)んでいらしたでせう、他(ほか)の家(うち)は大抵(たいてい)三月が關の山ですもの」

「その方(かた)はどうなすつたんです」

「御主人が地方へ轉任(てんにん)とかをなさるについてお引上(ひきあ)げなすつたんです」

「まアさうですか、それでやつと判(わか)りました、私どもでも坊やが時々(ときどき)變(へん)な事を申しますので、不思議だ不思議だと云(い)つて居(を)つたんでございます、でも、そのお婆さんの魂(たましひ)が自分の孫(まご)のつもりで私どもの坊を守(まも)つて下さるんですわね」

「え、さうなんですよ、多分(たぶん)お子さんのいらつしやらない御(ご)一家(か)が住んでると幽靈(いうれい)が淋しいとでも思(おも)ふんでございませうよ」

「何にしても、不思議(ふしぎ)な事があるものですね、それにこんな事(こと)があるので家賃(やちん)も安いんでございませう、どうも安(やす)すぎると思ひましたわ」

 とおきみは、薄氣味(うすきみ)の惡いやうな、安心したやうな心持になつて、早(はや)く話(はな)してやりませうと良人(をつと)の歸りを待受(まちう)けた。そして例の通り二階へ遊びに行つてゐる精太郞のうしろ姿を水口の前から見上げて變(へん)な氣持(きもち)になってゐた。

                       ――これは二十數年前橫濱にあった話  

[やぶちゃん注:「交番」に精一が行くという表現があるが、当該ウィキによれば、明治七(一八七四)年に『東京警視庁が設置され』た年に『巡査を東京の各「交番所」(交番舎)に配置した。当初は施設を伴うものではなく、巡査が警察署から徒歩でパトロールを行いながら、交代で立番(りつばん)などを行なう場所として指定された地点を示した』が、同年の八月には、『「交番所」に設備を設置して周辺地域のパトロールなどを行う拠点』としたとある。しかし、明治一四(一八八一)年には、『「交番所」から「派出所」に改称された』とあり、「派出所」の正式名称が「交番」に再決定されたのは、平成六(一九九四)年であるとある。しかし、本篇の雰囲気は、凡そ明治七年から同十四年の雰囲気ではない。第一、私は昭和三二(一九五七)年生まれだが、幼年期・少年期を通して、私は「派出所」という言い難い呼称を使った覚えは、一度も、ない。総て「交番」であったし、そう認識していた。「廣告の樂隊」というのが、やや古い印象を与えるようにも思われるが、これは所謂、「チンドン屋」ではなく、中規模の西洋楽器を用いたそれで、明治中期には行われており、本書の初版は昭和九(一九三四)年刊であるから、最後の蘆江の附記から、明治四一(一九〇八)年前後が話柄内時制であると考える。則ち、本書の中でも、ごく近代の実話が元なのだと断ずるものである。則ち、私のブログカテゴリ「怪奇談集」「怪奇談集Ⅱ」全篇の中でも、最も現在に近い、しかも、子どもにだけ見え、子どもを愛し、守るところの老女の霊の哀話にして、正統な都市伝説(アーバン・レジェンド)の古層の逸品として、私は、すこぶる好きな一篇なのである。

「蘆江怪談集」 「縛られ塚」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本本文の開始位置はここ。なお、本篇は冒頭に以下の通りあるように、前回の実話怪談「惡業地藏」ように、実話談を元にして創作されたものである。標題は「しばられづか」と読んでおく。

 なお、冒頭の作者の附記は、ポイント落ちで五字下げ二行下インデントであるが、プラウザの不具合を考え、一行字数を減じた。読み難くなるので、ポイントは少しだけ落とした。]

 

 

    縛 ら れ 塚

 

 

     別項「惡業地藏」に書いたやうな實話から
     生み出したのが、この一篇です。私の小說
     の種明しといふ意味で、採錄して置きます。

 

         

 

「法華宗(ほつけしう)のお堂と見かけてお賴(たの)み申(まを)します。病ひの爲めに難澁(なnじふ)いたして居りますもの、しばらくの間板緣をお貸(かし)し下さい」と旅の僧は脇腹(わきばら)を片手でおさへながら云つたが、堂(だう)の中からは返事がない。

「お賴み申す、お賴み申す」とくりかへしたが何(なん)と答(こた)へる人もない。

 旅僧(たびそう)はもう苦しさに堪(たへ)られなくなつたらしい、お堂の前の賽錢箱(さいせんばこ)の橫にぺたりと腰(こし)を落し、片手を賽錢箱(さいせんばこ)へかけてぐつたりとなつた。それから二聲三聲呻(うな)り聲をあげて、その儘息も絕(た)え絕(だ)えになつた。

 お堂といふのは伊豆(いづ)の天城(あまぎ)の山中、二里ほどゆけば下田(しもだ)の港(みなと)へ出られるといふ道(みち)に、おぼつかなくも建ちくされになつた小さな堂で、時(とき)は秋(あき)のはじめの晝さがりであつた。

 旅(たび)の僧(そう)がぐつたりとなつたあと、何程も經(た)たぬ時分にこの堂(だう)の前を通りかかつたのは炭燒(すみやき)の杢助(もくすけ)、何の氣なしに旅僧の倒(たふ)れた姿(すがた)を見つけて抱き起したり、介抱(かいはう)をしたりすると、漸(やうや)く細々と目をあいた。

「お坊(ぼう)さん、どうなされたな」

「ハイ」

「氣がつかれたか、私はところのものぢや、お氣分(きぶん)でも惡(わる)いかな」

「ハイ、ありがたうござります、持病(じびやう)の癪(しやく)がさし込みまして身動(みうご)きもなりませぬ、少しの間ここへ休(やす)まして頂(いたゞ)くつもりで腰を下しましたまではおぼえて居(を)りましたが――」[やぶちゃん注:「癪」多くは古くから女性に見られる「差し込み」という奴で、胸部、或いは、腹部に起こる一種の痙攣痛。医学的には胃痙攣・子宮痙攣・腸神経痛などが考えられる。別称に「仙気」「仙痛」「癪閊(しゃくつかえ)」等がある。]

「ほう、それからあとは判(わか)らなくなつたと仰(おつし)やるのか、併(しか)し、よいところへ私が通り合はせました。もう少(すこ)しでも遲(おそ)かつたらどうにもとりかへしがつかなんだかも知(し)れぬ、兎に角、まだ本當(ほんたう)の囘復(くわいふく)ではなささうぢや、この堂(だう)の中で心おきなく養生をなさるがよい」と杢助爺(もくすけぢい)は旅僧の手を取つて、堂の奧へ入れたり、氣付けの藥(くすり)などをどこからか運(はこ)んで來て手厚(てあつ)い介抱(かいはう)をしてやつた。

「ありがたうござる、もう大丈夫(だいじやうぶ)でござります。飛(と)んだ御造作(ござうさ)に預(あづ)かつて、お禮の申し上げやうもござらぬ」と少(すこ)し元氣(げんき)が出ると、今にも立上りさうにする。

「これこれ、その樣な輕はずみをして、又道中で再發(さいはつ)したらどうなさる、幸(さいは)ひここは住む人のないお堂ぢや、幾日(いくにち)でも心置なく養生(やうじやう)して行きなさい、殊(こと)によつたら、お前さまの御都合で、いつまでも堂守(だうもり)をして下さるがよい」

 なるほど無住(むぢう)らしい。と、旅の僧はあたりを見(み)まはした。

「ここの住職(ぢうしよく)は半歲[やぶちゃん注:「はんとし」。]ほど前から行方(ゆくえ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])が判(わか)らなくなつたのでな、その時以來、このお堂も無住(むぢう)の儘で立ちぐされになつて居りますのぢや。併(しか)し、御本尊(ごほんぞん)もその儘(まゝ)にある事ぢやし、折角の御堂(みだう)の事ゆゑ、私が折々見まはつては掃除(そうぢ)もしたり、炭小屋で寢にくい時はここで寢泊(ねとま)りもする事もありますわい。まアまア今(いま)では私の爲めに出來てゐる寮(れう)のやうなものぢや、いつその事、お前樣(まへさま)が住みつづけて、お堂守(だうもり)をして下さると、結句(けつく)、兩爲め[やぶちゃん注:「りやうだめ」。]といふものではあるまいか」と云つた。

「先住(せんじう)の行方(ゆくえ)はどうしても判りませんか」

「ハイ、少し樣子が變(へん)だと思はないでもなかつたのでございますから、まア、氣が狂うたのぢやな、そしてうかうかとここを飛(と)び出(だ)したものかと思はれまする、尤(もつと)も飛び出すところを誰れも見屆けたわけではないが、いつもここでお勤(つと)めをしてゐた筈(はづ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])の人が、ひよつくり居なくなつて、その儘、半年も月日(としつき)が經(た)つて見れば、まア、氣が狂うて飛び出したものとでも見(み)るより仕方(しかた)がありませんな」

 旅僧は默(だま)つて聞(き)いてゐたが、その内に日(ひ)は暮(く)れかかる、今から山路(やまみち)にもかゝれぬので「兎に角それではお言葉に甘(あま)えて、少しの間このお堂に居させて頂(いたゞ)きませうわい。私は房州船形(ぼうしうふながた)から參つたものぢや、妙兼(みやうけん)と申す尼(あま)でございます」と名乘つた。

「ほゝ、尼樣(あまさま)でござつたか、道理でどことなく物言(ものい)ひの優(やさ)しいお人ぢやと思ひました。それではまア、一先(ま)づここで落付く事にして下され、あとで私の小屋に預(あづ)かつてある臺所道具(だいどころだうぐ[やぶちゃん注:底本は「だうぐ」は「たうぐ]であるが、誤植と断じて、特異的に訂した。])や諸道具(しよだうぐ)も一通り運んで置いて進(しん)ぜる」と親切(しんせつ)さうに杢助(もくすけ)は炭燒小屋へ駈(か)け出(だ)して行つた。

[やぶちゃん注:「房州船形」現在の千葉県館山市船形(ふなかた:清音。グーグル・マップ・データ)。]

 

          

 

 一人お堂に殘(のこ)つた妙兼尼(めうけんに)は、先づ堂の中をそこここと見まはした。お堂の中の須彌檀(しゆみだん)のうしろ手に三尺にも足らぬ厨子(ずし)が据(す)ゑてある。妙兼は厨子の前に鄭重(ていちよう)に禮拜(らいはい)してそつと扉(とびら)をひらいた。

 そして扉の中を覗(のぞ)いた妙兼は思(おも)はずハツと飛びすさつた。眞暗(まつくら)な中に白蛇(はくじや)がこんもり高くとぐろを卷いてゐる。妙兼(めうけん)は扉をぴつたり閉(し)めると、兩手を合はして題目(だいもく)をくりかへした。

 が、暫(しば)らくしてから何となく考へた。扉をあけた機(はづ)みに、ちらりと見た本尊(ほんぞん)を正しく[やぶちゃん注:「まさしく」。]とぐろを卷いた白蛇と思つたが、よくよく考へて見ると、どうも白蛇としては合點(がてん)のゆかぬ形でもある。

「ハテ、薄暗(うすくら)がりに慌(あは)てて居つたので、見損(みそこ)なひかも知れぬ」と獨(ひと)り言(ごと)をいひながら、妙兼は又こつそり扉(とびら)へ手をかけた。

 今度は一心に題目(だいもく)を唱(とな)へ、目を見据(みす)ゑるやうにして、そろそろと扉をあけると、白蛇(はくじや)ではなかつた。

 ぐるぐるとうづ高く卷上げた荒繩(あらなは)であつた。併(しか)し卷上げた荒繩のかたまり、それが何でこの厨子(づし)へ入れてあるのかと妙兼(めうけん)は小首をひねつた。

 どう考(かんが)へても判らない、判らない儘に、手燭(てしよく)をかざして厨子の中側(なかがは)を仔細(しさい)に見ると、又ちがつた。

 荒繩(あらなは)のかたまりと思つたのは、さうばかりでもない、どうやら荒繩の内側に何ものか卷(ま)き込(こ)めてあるらしい。

 と見、かう見してゐる間(うち)に、荒繩(あらなあ)にはほぐれ小口があつて、それが厨子(づし)の扉の方へ長くつき出てゐる。その小口を一寸(ちよつと)引(ひ)くと荒繩のかたまりは上の方からずるずるとくづれさうになつた。繩(なは)のくづれた下には靑黑(あをぐろ)いものが見える。[やぶちゃん注:「小口」(こぐち)は「切断面・切り口」の意。]

 とだけで、まだ正體が知れぬので、妙兼(めうけん)は鄭重(ていちよう)に荒繩を解(と)きはじめた。

 さて、上の方から解(と)きほごして見ると、今妙兼の目前(もくぜん)の厨子の中に鎭座(ちんざ)してゐるのは二尺に足(た)らぬ自然石(しぜんせき)を彫(ほ)つた一基の石塔(せきたふ)であつた。

「石塔がどうしてこんな事に」と妙兼は只々(たゞたゞ)呆氣(あつけ)にとられた。

 厨子こそ堂(だう)の床[やぶちゃん注:「ゆか」。]の上に區切(くぎ)つてはあるが、厨子は底(そこ)なしで、石塔は床下から立つてゐるが、その石碑(せきひ)を荒繩ですつかり縛(しば)り上(あ)げてあるといふ。[やぶちゃん注:文末は不全。「上げてあるといふ按配である。」或いは「上げてあるのである。」ぐらいがよかろう。]

「妙な事をしたものぢや、一體何の因緣(いんねん)で、このやうに荒々(あらあら)しい事をしたのであらう」と獨(ひと)り言(ごと)を云つてゐたが、石塔を縛り上げるなどの所由(いはれ)はどう考へても判(わか)らなかつた。

「兎に角、出家にあるまじい事ぢや、かうして私(わたし)の目に見た以上(いじゃう)は、何が何であらうと解(と)いてやる事にしませう」と妙兼(めうけん)はそつと繩の小口(こぐち)をほごして行つた。

 荒繩(あらなは)をすつかりほごして、石碑(せきひ)の面(おもて)を撫(な)で𢌞してゐたが、手燭(てしよく)の火に石碑の表をすかした妙兼は又更に驚(おど)ろかされた。

 石碑の表は「丑年(うしどし)の女、俗名(ぞくみやう)おかね」と大きく彫(ほ)つてある、いそいそとうしろヘ𢌞(まは)ると、裏には「伊豆稻取(いづいなとり)の出生」とだけ。

「わたしの石塔ぢや、わたしの石塔を一體(たい)誰(だ)れが建(た)てたのであらう、建てたばかりでなく、何故縛つたのであらう、縛る爲めに建(た)てたのか、何れにしても容易(ようい)ならぬ沙汰(さた)ぢや」と、妙兼は題目(だいもく)を唱へながら塚の前に突立(つゝた)つてゐた。

 

         

 

「どうぢや、馴(な)れぬ塒(ねぐら)で寢られなかつたぢやろ」と翌朝(よくてう)早々(さうさう)とやつて來た杢助(もくすけ)に、

「杢助さん、一體(たい)先住(せんぢう)といふ人は、どのやうな人でござつたのぢや」と妙兼は聞いた。

「先住(せんぢう)かな、日道(にちだう)さんというて、元は伊豆(いづ)の人ぢやさうなが、默(だま)つてばかりゐる人ぢやつた。何でも以前は瀨戸物師(せとものし)とやらでな、このお堂に籠(こも)ると其日から朝晚のお勤(つと)をしたあとは一心に瀨戶物ばかりをして居られたやうぢや、それそれ、うら手に今でも瀨戶物燒(せとものやき)のかまが殘(のこ)つて居りますがな、瀨戶物もなみの皿(さら)茶碗(ちやわん)は燒かんで、女の姿の人形(にんぎやう)ばかり造つては燒いて居つたが、おしまひに氣(き)に入(い)つた人形が出來たと見えて、それはそれは私へも自慢(じまん)にして見せましたな」

「その人形(にぎやう)はどうしましたえ」[やぶちゃん注:最後は「へ」であるが、誤植と断じて、特異的に訂した。]

「さあさあ、あとを聞(き)きなさい。その造(つく)り上げた人形に何(なん)でもおかねといふ名をつけてな、大層(たいそう)大事にかけて居(を)りましたわい」

 妙兼は目を異樣(いやう)に輝(かゞや)かして、杢助爺の顏を見つめた。杢助爺は一向(かう)無頓着(むとんちやく)に、

「その人形が出來てからといふもの、それをすつかり活物扱(いきものあつ)かひにしましてな、始終(しじう)獨(ひと)り言(ごと)を云つては喜(よろこ)んで居りましたわい」

「どのやうな事を云うて居(を)りましたな」

 私が何の氣なしにこのお堂の側(そば)を通(とほ)りかゝるとな、おいおかねや、さあかうなつたら、私の側から逃(に)げ出(だ)す事はなるまい。逃げるなら逃げて見やれ、元々(もともと)は私(わし)の手で造(つく)つた人形ぢやが、今ではおぬしの魂(たましひ)がしつかり籠(こも)つて居る。私の目から見れば、活(い)きて居るおかねなのぢや。見事(みごと)、活(い)きてゐるおかねどのなら、私の手から逃げる氣ぢやらう。さあ、逃げて見(み)い、逃げられるなら逃げて見なされと、どうかするとなあ、それはそれは物凄(ものすご)い顏をして人形を睨(にら)みつけて居る時もありましたな、ある時(とき)などは、あんまり呶鳴(どな)り聲が高いので、本物(ほんもの)の人間が居るのかと思うて、破目板(はめいた)からそつと覗(のぞ)いて見ましたら、なあに、やつぱり人形(にんぎやう)を相手のくり言(ごと)ぢや、そのおかねどのをな、かう橫抱(よこだ)きにきつと抱きしめてな、ぎらぎら光る目で睨(にら)みつけながら、くりかへして居りましたが、段々(だんだん)くりかへしてゐる中にぼろぼろと大粒(おほつぶ)の淚(なみだ)をこぼして、泣(な)き伏(ふ)して了ひました。何しろ妙(めう)な坊(ぼう[やぶちゃん注:ママ。])さんでござんした――」

 妙兼は聞いてゐる中に、顏色(かほいろ)が變つて來た。杢助(もくすけ)の目をぢつと見たままで返事(へんじ)さへしなくなつた。と思ふと、額際(ひたひぎは)ににじみ出る汗(あせ)は玉のやうにタラタラと、果(は)ては顏一面に流れるほどであつた。

「妙兼さん、どうかしましたか、又(また)氣分(きぶん)でも惡(わる)くなつたのか」

「いえ、何(なん)ともない、それでどうしました」

「それでな、さうかと思(おも)ふと、大層(たいそう)優(やさ)しくなつて、人形を相手に、おかねどんや、御飯(ごはん)にしようかの、お茶(ちや)でもいれやうかのつて、仲(なか)よく話しをしてゐる時もあります。それが、機嫌(きげん)よく話をしてゐるかと思ふと、よいがよいにならんのでな、忽(たちま)ち風向(かざむき)が變つて來るし、ある時は、ものをひやかしでもするやうに、ヘヘヘ、活(い)きた人間を相手(あひて)にするから、捨(す)てられもする、嫌(きら)はれもする。今宮(いまみや)の來山(らいざん)ではないが、人形を相手にして居れば、第一に嫌(きら)ふ氣(き)づかひがない、寢(ね)かさうと思へば寢(ね)る、起さうと思へば起きる、何(なに)から何まで私の心の儘(まゝ)ぢや、のう杢助爺(もくすけぢい)さん。などと上機嫌の時もあります。いやはやどうも、他愛(たあい)もない人でござつた」

「それがどうして行方(ゆくえ)も知(し)れなくなつたのでござんす」

「さ、それは私(わし)にも分らんのぢや」

「一體(たい)そのおかねさんといふのは」と妙兼は云ひかけて、杢助(もくすけ)の顏をぢろぢろと見ながら、

「おかねさんといふ女に、日道(にちだう)さんとは、どういふ關係(くわんけい)になつて居つたのぢや」

「さあわしは日道さんから、これこれの次第(しだい)と聞いたわけぢやないのでよくは知(し)らんが、何でもその日道さんが、俗人(ぞくじん)であつた折に、從妹(いとこ)にあたる女におかねといふ人があつて、そのおかねどんにぞつこん惚(ほ)れたものと見えますな、ところが、そのおかねは別(べつ)にいろ男でも出來たか、日道(にちどう[やぶちゃん注:ママ。誤植であろう。])さんをふり捨て逃げて了(しま)うたものぢや。それからといふもの、日道さんは、すつかり世(よ)の中(なか)を味氣なく思つた揚句(あげく)が、坊さんになんなすつたものらしい、それでも發心(ほつしん)が出來ぬからして自分(じぶん)の在所を飛び出し、諸國(しよこく)を經(へ)めぐつた揚句8あげく」、この土地へ足をとめる因緣(いんねん)になつたわけぢやと思はれますな。坊さんになつても思(おも)ひ切(き)れずに、切(せ)めて人形に名をつけて、よしない心やりにして居られるのでありませう、それにつけても相手(あいて)のおかねさんとやら、よくよく邪樫(じやけん)な仕打(しうち)ぢや、今頃はどこにどう暮(くら)してゐる事か、何でも日道さんの獨(ひと)り言(ごと)の口ぶりでは、其のおかねさんは色男(いろをとこ)が出來た爲めに、許嫁(いひなづけ)であつた日道さんを振り捨てて色男と一緖(しよ)につつ走(ぱし)つたものらしいが、どうせ許嫁をふりすてる位(くらゐ)の女ぢや、今頃(いまごろ)はどこかで色男に捨(す)てられて、女郞(ぢやらう)にでもなつて居るかも知れませぬなあ」

 杢助は屈托(くつたく)もなささうに云つたが、妙兼(めうけん)は笑ひ顏一つ見せず、ものも云はずに考(かんが)へ込(こ)んでゐたが、

「杢助さん、それで日道(にちだう)さんとやらは行方が判(わか)らなくなつたとしても、その人形といふのはどうなりましたえ」

「さあ、それも私には判(わか)らんのでな、尤(もつと)も、日道(にちだう)さんが、いよいよお堂を立退(たちの)いたと判つた時にどこかに行方(ゆくえ)の手がかりでもあるかと、隅(すみ)から隅まで探(さが)しまはりましたが、人形をどこへ藏(しま)ひ込(こ)んだか、それともお堂を出る時、自分の手の中にしつかり抱(だ)いて去(い)つたか、さらに樣子(やうす)は判りませぬ。尤(もつと)も人形といふのも、見つかつたところで滿足(まんぞく)な人形ではござらぬ。日道(にちだう)さんが居なくなる少し前の事ぢやから、さうさな、去年(きよねん)の秋(あき)ぢや、私がこの窓下(まどした)を通りかかりますとな、やい薄情(はくじやう)もの、强情(がうじやう)ものめ、人形にまで性(しやう)をうつして、私を捨(す)てやう[やぶちゃん注:ママ。]とするのか。と大聲をあげたのを橫恵手の窓(まど)から私がそつと覗(のぞ)いて見るとな、日道さんは人形(にんぎやう)を膝(ひざ)の下に敷いて、兩手で人形の咽喉佛(のどぼとけ)をぐいぐと押(お)し伏(ふ)せて居りますのぢや、けふは少し手荒(てあら)いなと思うて居る中(うち)、怖(おそ)ろしい聲を出して、握(にぎ)り拳(こぶし)で人形の頭をグワンと叩(たゝ)いたのが、一心ぢやな、おかねさんの橫面(よこめん)から肩(かた)ぶしにかけて滅茶々々(めちやめちや)に破(こは)れました。そして人形の顏(かほ)が血(ち)みどろになりましたな」

「人形から血(ち)が出ましたか」

「いや、人形から出たのではない、日道(にちだう)さんの握り拳がくづれて血を吹(ふ)いたのぢや、物凄(ものすご)いほどの血糊(ちのり)ぢやつた。私もびつくりして思はず知らず庵室(なか)へ飛び込みましたわい、あとで考へて見れば可笑(をか)しな話ぢやが、私にしても、相手(あいて)を人形とは思つてゐられなくなりましてな」

「其時に氣(き)が狂(くる)うたのかえ」

「いや、其時はまだ正氣(しやうき)ぢやつた、只(たゞ)人形(にんぎやう)を見つめてゐる中に、人形がものを云う[やぶちゃん注:ママ。]たらしいのぢや、あれだけに魂を吹込(ふきこ)まれた人形なら、何かの拍子(へうし[やぶちゃん注:ママ。])でものを云はんとも限(かぎ)らぬからなあ、それで人形のものの云ひ方が、よくよく氣(き)にさはつたのぢやろ。飛(と)び込(こ)んだ私が段々と宥(なだ)めてやると一旦は心持が納(をさ)まつた、あとはしくしくと泣(な)いてゐなすつたが、人形の缺片(かけら)をつき合せたり、拾ひ集めたりしたあげ句(く)の果(はて)が、おかねを弔(とむ)らうてやらうと言ひ出してな、それで後(あと)とも云(い)はず、その場から石(いし)を切(き)つて、石塔の表もうらも自分の手で彫(ほ)り上(あ)げてな、人形塚(にんぎやうづか)を建てたのぢや、その人形塚といふのが、――」と杢助(もくすけ)が云はうとするのを、

「判(わか)

りました、その人形塚がこのお厨子(づし)の中でござんしよ」

「ハイハイ、お前さまはそれではもう御覽(ごらん)になりましたな」

「うむ、それで人形塚を祀(まつ)つたいはれは判(わか)りましたが、あの塚(つか)を、まア、むごたらしいがんじがらみに縛(しば)つてあるのはどうしたわけでござんす」

「さあ、その事は私(わたし)にも判(わか)りませぬ。いつ頃(ごろ)どういふわけで、あんな事をしたものか、判らぬがああして人形を叩(たゝ)きこはした時の事から思ふと、ああして石塔(せきたふ)にまでした人形が、やつぱり石塔になつての後も尙、日道さんの手許(てもと)を逃(に)げ出しさうな樣子ぢやから、ああして縛(しば)つたものではないかと思ひます。人形に籠(こも)つてゐる女の一心が恐(おそ)ろしいのか、その女を思(おも)ひつめてゐる日道さんの一心が恐(おそ)ろしいのか、いやどうも物凄(ものすご)い話ぢや、此上は、お前(まへ)さまにまでその日道さんの生靈(いきりやう)がとつつかぬとばかりは云(い)はれぬ、どうぞお厨子(づし)にさはらぬやうに、況(ま)して、石塔に指(ゆび)でもさはらぬやうにして下され」とくりかへしくりかへし云つて、杢助(もくすけ)は、身慄(みぶる)ひをしながら出て行つた。

 

         

 

 杢助のうしろ姿を見送(みおく)ると、やがて妙兼(めうけん)は厨子の方へふりかへつた。

 妙兼の顏は眞靑(まつさを)になつてゐる。その眞靑な顏は眞直(まつすぐ)に石塔(せきたふ)を見すゑて座(ざ)を占(し)めた。

「丑年(うしどし)の女、おかね」と石碑(せきひ)の表を聲に出して讀(よ)み上(あ)げた。

「日道、日道」と又(また)云(い)つた。

 そしてあとは目を瞑(つぶ)つて默々(もくもく)と石塔の前に端座(たんざ)した。晝になつても晝下りになつても、もの一つ食(た)べようともせず、どこへ行く樣子(やうす)もなく、ただぼんやりして石塔を見つめた。正(まさ)に釋迦趺坐(しやかふざ)といふのである。日は追々(おひおひ)西(にし)にまはつて、只さへ暗(くら)い堂の中はもう人顏(ひとかげ[やぶちゃん注:ママ。])も見分ぬほどになつた、それでも妙兼(めうけん)は動かなかつた。

 初秋の雲は低(ひく)くお堂の緣(えん)へ垂(た)れて、石塔の苔(こけ)が鬼火(おにび)のやうにちらつきはじめた。今、大宇宙(だいうちう)の惡鬼妖魔(あつきようま[やぶちゃん注:ママ。])が天地の間に徘徊(はいくわい)するといふ逢魔(あふま)が時である。

 妙兼の心の中には惻々(そくそく)として鬼氣(きき)が食入つたにちがひない。

「日道さん」と悲痛(ひつう)な聲が出た。

「日道さん、岩(いは)五郞(らう)さん」と、もつと强(つよ)い聲で呼(よ)んだ。

「お前さんはどこまでも執念深(しうねんぶか)いんです、なるほど私はお前さんといふ許嫁(いひなづけ)をふり切つて、甚四郞さんと夫婦(ふうふ)になりました、なつた事(こと)はなつたが、お前さんにそれほどまで恨(うら)まれる覺えはありません。お前さんと私の間は許嫁(いひなづけ)といふだけで、夫婦の盃(さかづき)を交(かわ)したわけではなかつたんです。況(ま)して私は、お前さんのおもはく通り、甚(じん)四郞(らう)さんに捨(す)てられて今では一人ぼつちになつてゐる身體です。ましてお前さんも坊主(ばうづ[やぶちゃん注:ママ。])、私も坊主、坊主同士になつて何のいがみ合(あ)ふ事(こと)があるでせう。一體(たい)何(なん)の爲めにお前さんは坊主になつたんです。何の爲めにこんなお堂にまで住(す)む身體(からだ)になつたんです」

 尼(あま)の聲(こゑ)はだんく强くなつた。そして眞暗(まつくら)なお堂の中で、ぢりぢりと(ひざ)膝を進(すゝ)めた。

 進んだ膝がお厨子(づし)の中へ入ると、膝がしらが床(ゆか)からトンと外(はづ)れた。そして妙兼の身體は床下へ落ちこんだあふりで前(まへ)のめりになつて、繩(なは)を半分ときかけた儘(まゝ)の石塔へしつかり抱(だ)きついた。が、捨て身でよりかかつた妙兼の身體(からだ)を支(さゝ)へるには石塔(せきたふ)のまはりがあまりにぐらぐらであつた。妙兼は白分の石塔と一緖(しよ)にどさりと橫倒(よこだふ)しに倒れた。

「畜生め、岩五郞の畜生(ちくしやう)め、そつちがその氣(き)なら、こつちだつて、なあに、お前なんぞに引戾(ひきもど)されやしないぞ」と呻(うな)つた。

 呻ると共にぐつと起上(おきあが)らうとすると、起(お)きられない。手足をばたつかして、上體(じやうたい)をぐんぐん起さうとしたが、どうにもならない。妙兼(めうけん)は左の腕を石塔(せきたふ)の下に敷き込まれてゐたのであつた。

 敷(し)き込(こ)まれながら、妙兼は、

「畜生(ちくしやう)め畜生め」と云ひつづけた。そしてもがきつづけた。が、女の力では倒(たふ)れた石塔一つをどうする事も出來(でき)なかつた。

 到頭(たうとう)精(せい)も根(こん)もぬけ果てて、呻(うな)り聲(ごゑ)さへ立たなかつた。かうして夜は深々(しんしん)と更(ふ)けてゆく。

 朝になつて、杢助(もくすけ)がお堂の前を通りかかる時、かすかな聲(こゑ)が、

「杢助さん」と呼(よ)んだ。杢助は一寸あたりを見まはしたが、さて、外(ほか)に人のゐる筈(はづ)もないので、つかつかと堂の中へ入ると、厨子(づし)の扉は壞(こは)れ、厨子は半分(はんぶん)倒(たふ)れかかつてゐる。

「妙兼(めうけん)さん、妙兼さん」と呼びかけながら、厨子の中を覗(のぞ)き込(こ)むと、妙兼は石塔(せきたふ)の下から顏を半分出した儘(まゝ)で、

「杢助さん、この石塔をどけて下さい」と片息(かたいき)になつてゐる。

「何で又そのやうなところへ人つたのぢや。それだから私(わし)がどうぞ厨子(づし)にさはらぬやうにと云(い)つて置いたのに、厨子(づし)をいじるもんぢやから、そんな事(こと)になるのぢや。どれどれ待(ま)ちなされ。動くか動かぬか、一つやつて見(み)ませう」と石塔(せきたふ)に兩手(りやうて)をかけていろいろにいぢつたが、漸々(やうやう)の思ひで石塔が少(すこ)しゆれた。

 妙兼はほつとして、身體(からだ)を半分(はんぶん)起(おこ)し右手をつかつて塚の臺石(だいいし)につかまりながら、ぐんと起き(お)ようとすると、今度は臺石(だいいし)がガタリと搖(ゆ)れた。と思ふと、妙兼(めうけん)の身體は、ひらり飜(ふるが)へつて[やぶちゃん注:底本では、ここのルビは「ひるがへ」であるが、衍字と断じて、特異的に「へ」を除去した。]臺石の下へかくれ、影(かげ)も形ちも見(み)えなくなつた。

 杢助がびつくりして臺石(だいいし)のまはりをぐるぐるまはりながら仔細(しさい)に見ると、どうも臺石(だいいし)の下に穴(あな)が掘(ほ)つてあるらしい。妙兼(めうけん)が消えたのは、その穴の中に落(お)ち込(こ)んだものらしいが、さて塚(つか)の墓石を取(と)りのぞくまでには大分の手數(てすう)と力が要(い)つた。

 杢助は加茂(かも)まで一散(さん)に走つて、二三人の百姓たちを呼(よ)んで來ると、早速(さつそく)塚の臺石をとりのけて見た。塚(つか)の下から人形の壞(こは)れが出て來たのは當然(たうざん)だが、妙兼の身體も怪我(けが)をした上に生埋(いきう)めの有樣だつたので、掘(ほ)り出(だ)された時には人形同樣の壞(こは)れ方(かt)であつた。そして更(さら)にもう一つの不思議は、穴へ落ち込んだ妙兼の細腰(ほそごし)を大きな腕(うで)がしつかり抱(だ)いたやうにしてゐるのがちらと見え、妙兼を引上げるにつれて、その腕の主(ぬし)が、穴(あな)の中からずるずると出て來た。

[やぶちゃん注:「加茂」冒頭で、「お堂といふのは伊豆(いづ)の天城(あまぎ)の山中、二里ほどゆけば下田(しもだ)の港(みなと)へ出られるといふ道(みち)に、おぼつかなくも建ちくされになつた小さな堂」とあったから、これは、伊豆半島の先端部分に当たる旧静岡県賀茂郡の内の村落を指すと考えらえれる。資料によっては、古くは「加茂郡」とも表記した。]

 穴の中から妙兼(めうけん)の屍骸(しがい)に引ずられて出て來た人、――いや穴の中へ妙兼を引ずり込んで生埋(いきう)めにしたのは半年前(はんとしまへ)に行方不明(ゆくえふめい)になった日道の岩(いは)五郞(らう)であつた。無論半年も穴の中に埋(う)まつてゐて生きて居る筈(はづ)はないが、思ひ込んだ女を縛(しば)りつけて、我が手もとから離(はな)すまいとした一生(しやう)の怨念(をんねん)は正に成功(せいこう)したわけであつた。

 坊主(ぼうづ[やぶちゃん注:ママ。])あたまの二つの屍骸(しがい)が、お堂の外に掘(ほ)り起(おこ)された時、杢助が加茂(かも)からつれて來た百姓の中に、稻取(いなとり)の人間が交(まぢ[やぶちゃん注:ママ。])つてゐた。二つの屍骸(しがい)をそつと覗(のぞ)き込(こ)んで、

「尼(あま)の方はおかねといふ女で、男の方は岩(いは)五郞(らう)だ、どつちも稻取(いなとり)で生れて從兄弟(いとこ)だつた。幼少から女の方が男を嫌(きら)つてゐたが、結納(ゆひなふ)まで取りかはしたところで甚四郞といふ奴(やつ)と逃げたんだ。然し逃(に)げは逃げても、やつぱりこの二人は緣(えん)があつたんだ、一つ穴の中で無理往生(むりわうじやう)するんだから本望(ほんまう)だらう」と云(い)つてゐた。

[やぶちゃん注:「稻取」静岡県賀茂郡東伊豆町(いずちょう)稲取(グーグル・マップ・データ)。而して、この稲取の百姓が、妙兼(おかね)と日道(岩五郎)と言い当てている以上、妙兼が冒頭で「房州船形(ぼうしうふながた)から參つたものぢや」と言ったのとは、一見、矛盾を感じる。少なくとも、二人は俗人であった時、稲取にいたと考えてよい。でなければ、半年も経った岩五郎の遺体を見て、「彼だ」と名指すことはあり得ないからである。但し、棄てられた「おかね」が日蓮宗の寺院で尼となったならば、日蓮所縁の房総で剃髪したとすることは、強ち、おかしくはなく、矛盾とは言えない。さらに、やはり、冒頭で、この「お堂といふのは伊豆(いづ)の天城(あまぎ)の山中、二里ほどゆけば下田(しもだ)の港(みなと)へ出られるといふ道(みち)に、おぼつかなくも建ちくされになつた小さな堂で」あったと言っているから、この中央東西(グーグル・マップ・データ航空写真)附近がロケーションと読める。

 さて、本篇は、無住の堂での数日の出来事であり、コーダを除いて、妙兼と炭焼き杢助の二人で語られる構造になっている。これは過去の話に出る人物が、ごっちゃごちゃになって五月蠅かった前の似たシークエンスを用いている「惡業地藏」に比して、遙かに自然で、躓きがなく、一気に読ませる佳品と言える。

2024/02/04

「蘆江怪談集」 「惡業地藏」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本本文の開始位置はここなお、この前のページのパート標題は、実は、「惡 業 地 獄」となっている。しかし、「目次」では「惡 業 地 藏」となっている。しかし、本文の左ページの柱は開始位置から最後まで「惡 業 地 藏」である。『ウェッジ文庫』版の奥附の前にある編集部による「編集附記」の最後に、『「悪業地蔵」は原本作品扉に「悪業地獄」と記されているが、本文柱・目次等では「悪業地蔵」と記載されており、また内容から推しても扉の表記は誤植と考えられる。本書では「悪業地蔵」とした』と記してある。これらから、『ウェッジ文庫』編集部の見解が正しいと考え、特異的に標題を「惡 業 地 藏」と訂することとした。読みは、私の判断で「あくごふぢざう」と読んでおく。

 

 

    惡 業 地 藏

 

 

         

 

 根岸に手頃(てごろ)な家を見付(みつけ)けましたので、引移(ひきうつ)しました。目當りもよし、間取(まど)りもよし、第一家賃が、馬鹿に格安(かくやす)な上に、庭も相當(さうたう)廣(ひろ)くて、どことなくのんびり出來た家でした。

 引移しの騷(さわ)ぎが、すつかり片付いたのは夕方(ゆふがた)、行水(ぎやうずゐ)をすまして、表へ出ると、うしろからいつもの通(とほ)りジヨンがついて來(き)ます。

 まだ御行(おぎやう)の松が靑々(あをあを)と茂つてゐる頃でした。土地柄(とちがら)、蚊(か)の多いのは閉口(へいこう)ですが、皆、しもた家のつゞきで夕方の散步(さんぽ)ごゝろもよし、煙草の烟(けむり)だつて、ふわりふわり[やぶちゃん注:ママ。但し、底本では後半は踊り字「〱」。]と淀(よど)むやうな靜かな町です。左へ出れば花見寺(はなみでら)、右へ出れば日暮里道と思(おも)ひながら片側町(かたがはまち)にさしかゝると、今までキヨトキヨト走(はし)つてゐたジヨンが、ぴつたり、足(あし)をとめて、そばの空[やぶちゃん注:「から」。]どぶをのぞき込みながら頻(しき)りと吠(ほ)え立(た)てます。

「ジヨンジヨン」と呼(よ)んでも犬(いぬ)は身動きもせず、

「へんな奴がゐるんですよ。一寸(ちよつと)こゝまで戾(もど)つて下さいまし」とでも、いひさうな顏(かほ)で、どぶに首をつゝ込んでは、吠(ほ)える。

「何だい、何(なに)を吠(ほ)えてゐるんだえ」

 といひながら、どぶを覗(のぞ)き込(こ)むと、圓い石に、目鼻の彫(ほ)つたのがころがつてゐる。

 地藏樣(じぞう[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])の首らしいと、思つて、どぶの向(むか)ふを見ると、そこには首のない地藏の胴體(どうたい)が、臺座(だいざ)の上でのんきさうに立(た)つておいでになる。

 首なし地藏なのです。いや地藏樣の首(くび)をチヨン切(ぎ)つて、どぶへ捨(す)てゝあると云つた方が早判(はやわ)りです。

「ジヨンの奴(やつ)、いやに信心氣(しんじんき)を出して、お地藏樣の首を拾(ひろ)つてやれといふのか」

 私はかう思つて、首(くび)をひろひました、十二三の子供(こども)の頭ほどもありましたが、兩手(りやうて)に持つて、づゝしり持重(もちおも)りのするほどなのを、どうやら持上(もちあ)げて、胴體(どうたい)の上へ載(の)せて見ますと、割れ目がぴつたり合つて、地藏樣(ぢぞうさま)はニツコリお笑(わら)ひになつた。かと思はれる氣持です。

「ジヨンや、これで氣(き)が濟(す)んだかえ」といへば、ジヨンの奴(やつ)も、滿足(まんぞく)さうに小首をひねつて、またウーウーと呻(うな)つてゐる。

「もしもし、そんないたづらをしちやいけません」

 突然(とつぜん)、橫あひから聲をかけたのは、大家(おほや)さんでした。

「いたづらなもんですか、勿體(もつたい)ない、お地藏樣の首を、どぶの中へ轉(ころ)がしてあつたから胴體(どうたい)へお載(の)せ申(まを)したんです」

「飛(と)んでもない、これは首なし地藏で通(とほ)つてゐるんです。此首(このくび)をつなぐと、祟(たゝ)りがあります」

 大家さんはかう云(い)つて、いろいろ先例(せんれい)を並(なら)べはじめました。此前の住人(ぢうにん)は、此首をつないだゝめに腦溢血(なういつけつ)で死んだの。其前の人は夫婦別(ふうふわか)れをしたの。ある通りがゝりの人が、首(くび)をつなぐと、何丁もあるかぬ中に、踏切(ふみきり)で汽車に轢(し)かれて死んだの、……凄(すご)い話ばかりです。

 私も一寸(ちよつと)驚(おどろ)きましたが、如何にも理窟(りくつ)が合はない。

 「冗談(じようだん)云(い)つちやいけない、大家(おほや)さんの前だけれど、お地藏樣の首(くび)を刎(は)ねて、どぶの中へ蹴轉(けころ)げしたらそれこそ罰(ばち)が當(あた)るつて事もあるだらうが、とれたお首をつないでわるいんです」と、こんな風(ふう)に云(い)ひ張(は)つて見ました。すると、大家さんは、

「へん、勝手(かつて)になさいまし、人のいけないといふ事(こと)をやつて、いまに思(おも)ひ知(し)る事があるから」と、づけづけ云(い)つてゐます。さりとて、此首(このくび)を橫(よこ)あひから、他の人が乘(の)せたつて、災難(さいなん)をのがれるわけのものぢやないさうで、結句(けつく)、首(くび)なし地藏(ぢざう)は私によつて、首あり地藏となつたのです。

 ところが、それかあらぬか、私のうちでは覿面(てきめん)に不幸續(ふかうつゞ)き、災難つゞきといふわけです。私が病氣(びやうき)になる。私の仕事にまちがひが起る、家族(かぞく)の誰れかれが病氣になる。遠國(ゑんごく)にゐる伯父(をぢ)さんまでが電車にはね飛(と)ばされて、瀕死(ひんし)の重傷を負ふといふ風で、いやもう散々(さんざん)です。

「きつと、あのお地藏樣が、祟(たゝ)つたんでせう」と、家内は怖(こは)がつてしきりに、お地藏樣の首(くび)をはづして置(お)けといひつゞけるのです。

「あ、その中(うち)に、はづすよ」とは云つたものゝ、私としては、折角(せつかく)どぶから拾(ひろ)ひ上(あ)げたお首を、私の手で引(ひつ)ぱづして、どぶへ捨(すて)るつて事がいかにも勿體(もつたい)なくて、出來兼(できか)ねます。つひつひ、其儘に過(す)ごして、お地藏樣の首は安穩(あんをん)につながつておいででした。

 

          

 

 ところへ、もう一つ不思議(ふしぎ)が持上りました。不思議といふのは、每晚(まいばん)夜半(よなか)の二時といふ時間にきまつてジヨンが遠吠(とほぼ)えをはじめる事です。始めの中は

「火事(くわじ)でもあるしらせか」などゝ云(い)つてましたが、あんまり每晚(まいばん)つゞくので、ヘンだなといふ事になりました。

「泥棒にでも覘(ねら)はれてゐるのか」

「二時ごろから啼(な)きはじめて、あけ方の四時(じ)に、ぴつたり止(や)める、といふのがをかしい」

 ある晚(ばん)、犬がほえはじめた午前二時に、私は下男(げなん)をつれて、鳥打帽子(とりうちばうし)に尻(しり)ばしより、木太刀(きだち)と棍棒(こんぼう)を抱込(かゝへこ)んで、家のまはりを見(み)まはりはじめました。

 裏口から出て、塀(へい)に沿ふて、表の方へと、家の裏手(うらて)へかゝると、そこに、ジヨンの奴(やつ)、足を踏(ふ)んばりながら、家の中に向つて、やけに吠(ほ)えつゞけてゐます。そこは物置(ものおき)のあるところです。

「いつでも、こゝで吠えるやうだな」

「さうでごぎいます。ご時打つと同時に吠(ほ)えはじめて、四時(じ)が打つと、ぴつたりやめて、犬小屋(いぬごや)へ入(はい)つて了(しま)ふやうです」

「塀(へい)の下に、蛇(へび)でもゐるんぢやないか」

「あるいは物置の中に鼬(いたち)か貂(むじな)でも死んでるのかも知れません」

 兎(と)に角(かく)といふので、翌日(よくじつ)、物置と、塀(へい)のあたりを、家中總がゝりで調(しら)べはじめました。

[やぶちゃん注:「貂(むじな)」の漢字はママ。「貂」は「てん」で、「むじな」とは読まない。「貉」の誤植か、或いは、蘆江の思い込みの誤用か。因みに、「むじな」は狭義にはニホンアナグマを指すが、本邦の民俗社会では、ホンドタヌキ、或いは、ハクビシン(私はハクビシンは近代に台湾から齎された外来種と考えているので、「貉」と同義とすることには否定的である)を指す。]

 

         

 

 全體(ぜんたい)この家は、以前、ある大身(たいしん)の旗本が下邸(しもやしき)に建てた家で、廣い母屋(おもや)の外に隱居所(いんきよじよ)のやうな離れが出來てゐます。その離(はな)れを、先住者の軍人が二つに仕切(しき)つて、一方を馬丁(ばてい)の住居に、殘(のこ)りの一しきりを物置(ものおき)に使つてゐたらしく、私が往(す)むやうになつてからは、別に馬丁(ばてい)などもゐないので離れそつくりを、物置(ものおき)につかつてゐましたのです。

 で、早速(さつそく)、翌日は早朝(さうてう)から、その物置の大掃除(おほそうぢ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])をはじめました。部屋の中、床下(ゆかした)、屋根(やね)うらまで、手の屆(とゞ)く限り掃除もし、つゝきはしても見ましたが、鼬(いたち)の死骸(しがい)も出なければ、大蛇などのもぐつてゐる穴(あな)もありません、結局犬の吠える理由(りいう)は判(わか)らずじまひでした。

 次の日は朝から雨で、近頃(ちかごろ)めつきり陰氣(いんき)になつた家の中が、更に欝陶(うつたう)しさを增(ま)しましたので、家中集まつて花合(はなあは)せでもしようかといふ事になりました。といふのは、きのふ、物置の掃除(さうぢ)の折に、思ひがけない場所へ、花札(はなふだ)をしまひ込んでゐた事を發見(はつけん)したからです。

 で、物置の簞笥(たんす)のひきだしまで、花札(はなふだ)をとりに行つた女中が、戾(もど)つて來る時に、顏色(かほいろ)をかへて

「あのね、奧樣(おくさま)、物置がへんなんでございますよ」といひます。

 一同の目は女中の顏(かほ)へ集(あつ)まりました。

「簞笥(たんす)の橫から、靑い火が、ポツポツと燃(も)えてゐます」皆、ぞつとしました。

 兎に角と、皆(みんな)がつながるやうに行つて見ると、なるほど、簞笥の橫手(よこて)に、もやもやとけむりのやうな火(ひ)のやうなものが見える。

 きのふ、掃除の時に、簞笥(たんす)の置(お)き場(ば)をかへたのですが、丁度(ちやうど)靑(あを)い火のもえてゐるところは、前に簞笥(たんす)のかげになってゐた場所です。

「化(ば)けもの正體(しやうたい)が、こゝにあるんだな」

 懷中電燈を照(てら)して見ると、別に何もない。只(たゞ)疊(たゝみ)が五寸四方ばかりづゝ三ケ所、どす黑(ぐろ)く腐(くさ)つたやうになつてゐるだけです。

「血(ち)の痕(あと)ぢやありませんか」

 だれかゞずつと昔(むかし)、この疊で腹でも斬(き)つたのが、あとになつて……などゝすぐに考(かんが)へましたが、

「だつてお前、この疊(たゝみ)は、うちでかへたんだから」といふわけで、どうも、シミの原因(げんいん)が判(わか)らない。

 疊(たゝみ)をあげて見ると、ねだ板が、ヘンに腐(くさ)つてゐます、ねだ板のくさりが疊の底(そこ)から上へ通(とほ)したのかと思はれるやうなくさり方です。

「たしかに、血(ち)の痕(あと)だ。ずつと以前、恐らくこの家が旗本邸(はたもとやしき)であつた時分、そして、此の物置が隱居所(いんきよじよ)の佛間でゞもあつた頃、こゝで切腹(せつぷく)をした人があるのかも知れないよ」

 話はかういふ風に解決しました。併(しか)し、犬の吠える原因(げんいん)については何の解決もつきません。

「あの隱居所で、だれが切腹(せつぷく)したんですか」と、大家(おほや)さんへ、カマをかけて見ましたら、大家さん、目を丸(まる)くして

「誰にお聞きでした」と問(と)ひかへす。

「一寸(ちよつと)あるところで聞いたのですが」と、話(はなし)の糸口(いとぐち)を引ぱり出すと、

「實は、お聞(き)かせするやうな話ぢやありませんが、旗本邸(はたもとてい)であつた時分、その主人が切腹(せつぷく)をしたのださうで」と云ひました。

 どんな理由(りいう)で切腹をしたにもせよ、こんな腐(くさ)つたねだ板(いた)を、其儘(そのまゝ)にして置くのは氣持が惡(わる)いからと大家さんにも相談(さうだん)の上、ねだ板を仕(し)かへる事になりました。

 すぐに大工(だいく)を入れましたが、仕事(しごと)にかゝつた大工が

「もし旦那、あの隱居所(いんきよじよ)には、かくれ間(ま)がつくつてあるのですか」と聞きに來た。

「いや、かくれ間なんぞ、そんなものはない筈(はづ[やぶちゃん注:ママ。])だが」

「さうですかねえ、實はあの板ばりへ金槌をあてたら、カーンカーンと響(ひゞ)いて、へんな音を立てますんでねえ」と迂散(さん)くさゝうに云ひます。

「どんな音(おと)がするんだ」

「羽目板の向ふに、もう一間、祕密(ひみつ)の部屋が出來てゐるやうなんです」

「をかしいね、第一、そんなゆとりはないぢやないか、すぐ外(そと)は堀(ほり)なんだから」

「さあ私も、さうは思(おも)つてゐるんですが、それにしてもへんだな」

 大工は小首(こくび)をひねつて、合點(がてん)のゆかぬ樣子でしたが、

「あの羽目板を、少しばかりはづして見(み)てもよいでせうか」といひます。

 恰度(ちやうど)幸(さいは)ひ、殊(こと)によつたら、犬の吠(ほ)える理由も判るか知れないと、板張(いたば)りを外させる事にしました。

 板ばりは食ひ合せのしつかりした、手丈夫(てじやうぶ)な仕事になつてゐましたが、どうやら外(はづ)して見ると板の向ふから、すうつと冷(つめ)たい風(かぜ)が來るといふのです。

「やつぱりさうだ、この奧(おく)に隱(かく)し部屋(べや)がつけてあるんですよ」

 五寸巾(すんはゞ)の板を二枚(まい)はづしたら、果して、板ばりの向ふは奧行(おくゆき)二尺ぐらゐの空地(あきち)をとつてあるやうで、眞暗(まつくら)でつめたくて、何となく悽慘(せいさん)な氣持です。

 と思ふ途端(とたん)に、ジヨンの奴(やつ)が盛んに吠えはじめました。火のつくやうな聲(こゑ)で吠(ほ)えるかと思ふと哀しさうに遠吠(とほぼ)えをします。而(しか)も、尻尾(しつぽ)をすっかり股(また)の下へ折り込んでゐるところを見ると、怖(こは)くてたまらない、といふ樣子(やうす)なのです。

 到頭大工は板を三枚ほどめくりました。そこへ懷中電燈(くわいちうでんとう)をさしつけると、今まで、隱居所(いんきよじよ)の板張だと思つたのは、上(うは)ばりで、その奧(おく)へ更(さら)に二尺ぐらゐ隔(へだ)てたところに本當の壁(かべ)がついてゐる。つまりこの部屋(へや)は不思議な二重張(ぢうばり)の壁(かべ)になつてゐるのだといふ事が判(わか)りました。

「祕密室(ひみつしつ)でもないやうですが、妙(めう)な事をしたものですね。廣(ひろ)くつかへる部屋に、わざわざ、こんな仕切りをつけて、狹(せま)くするなんて」獨(ひと)り言(ごと)をいひながら大工は、氣昧惡(きみわる)さうに、仕切りの中をのぞき込(こ)んでゐましたが、

「アツ」と奇妙(きめう)な聲をあげました。

「何(なん)だ、何があるんだ」

「あそこに、あそこに、へんなものが」

 少し慄(ふる)へ聲(ごゑ)です、大工の指す方へ電燈(でんとう)をさしつけると、古(ふる)い古い藁(わら)むしろをかぶつたものが薄暗(うすぐら)く冷(つめ)たい空間(くうかん)に、しよんぼりと立つてゐます。

「人間の屍骸を、菰(こも)でまいて、立たせてあるんでせうか」

 大工はかう云ひました。私も無論(むろん)さうだと思つて、その莚(むしろ)づゝみのあるあたりの破目板(はめいた)がはづれた時、そつと、莚(むしろ)の𨻶間(すきま)をのぞくと、この人型(ひとがた)の莚づつみの内側には、荒繩(あらなは)がまきつけられてある。

「莚(むしろ)をとつて見ませうか」

「お待ち、警察(けいさつ)へ屆(とゞ)けなけあいけないだらう」

「さうでござんすね」大工は尙(な)ほ仔細(しさい)に隅々を檢分(けんぶん)してゐましたが、

「旦那、こいつは人間の屍骸(しがい)ぢやございません。人間の形(かたち)はしてゐるが、石の地藏(ぢぞう[やぶちゃん注:ママ。])のやうなものですよ」

 それなれば別段(べつだん)、警察(けいさつ)にも及ぶまい、稍々(やゝ)安心(あんしん)してむしろを取りのけました。

 身の丈二尺ほどの石の地藏をこんな狹くるしいところへ建(た)てた上に、荒繩(あらなは)で、がんじがらみに縛(しば)り上(あ)げてあるのです。

 

         

 

 この家は妙(めう)な家だ。表には首(くび)なし地藏(ぢぞう)、裏には縛(しば)られ地藏、一體(たい)何(なん)のいはれで、このお地藏樣たちは、あんな慘たらしい責苦(せめく)にお逢(あ)ひなさるのだらう。

 と、その晚、例(れい)によつて、犬が吠(ほ)えはじめた時(とき)、私たちは云ひました。

「ジヨンはあのお地藏さまを吠えてゐるんでせうか」

「さうかも知(し)れない、始めに、表(おもて)の首なし地藏の首に吠えたんだ」

「あなた、あのお首(くび)を早く、引ぱづして、どぶの中へ戾(もど)して下(くだ)さい」女房は、これをしきりに氣にしてゐました。

「うん、さうかも知(し)れない」と私はいひましたが、翌朝(よくてう)になると、不圖(ふと)考(かんが)へました。首なし地藏と縛(しば)られ地藏、何か關係(くわんけい)があるに相違(さうゐ)ない。とすると表(おもて)のお地藏樣のお首をつないであげたのだから、裏(うら)のお地藏樣のお繩(なは)も解(と)いてあげたら、好いではないか。で、早速(さつそく)、表のお首(くび)を引ぱづす代りに、裏(うら)の地藏の繩(なは)を切りほどいて了(しま)ひました。丁度、表の地藏と同じやうな大きさで、同じやうなお姿(すがた)です。で、繩を解きほごした時、地藏の胸(むね)のあたりからぱらりと落(お)ちたものがある。ぼろぼろになつた手紙(てがみ)一通(つう)です。何十年縛られてゐたものか、ぼろぼろになつて、字性(じしやう)も判(わか)らず紙質も黑(くろ)ずんでゐますが、文字(もじ)のどす黑い樣子(やうす)が、血で書いたものではないかと思はれる。

 四十二歲男……石切國七郞……奉祈(ほうき)……墮地獄(だじごく)……

 などといふ文字(もじ)が拾(ひろ)ひ讀(よ)まれました。紛(まぎ)れもない呪咀(じゆそ)の文言(ぶんげん)です。私は、地藏を水で洗つてあげて、胴體(どうたい)をすつかりしらべて見ると、ずつと裾(すそ)の方に、かすかな刀(かたな)のあとがあつて、

 願主(ぐわんしゆ)二十二歲女。とあります。

 その文字を讀(よ)みとつてゐる中に不圖(ふと)氣(き)がつきましたので、すぐに、表へ出て、表の地藏の裾(すそ)のあたりをよくしらべて見ると、これにも果(はた)して、

 願主(ぐわんしゆ)廿二歲女。とありました。

 同じ二十二歲女とあるからは一人の女が、二人の男(をとこ)を呪ふために建(た)てた地藏かあるひは[やぶちゃん注:ママ。]、二十二歲の女の思ふ男二人を誰(だれ)か他(た)のものが呪(のろ)つたのか、何れにしても、二體(たい)の地藏尊につながりのある事だけは判(わか)りました。

 で、もう一度(ど)大家(おほや)さんへ行つて、旗本(はたもと)の名前といふのを聞きますと、

「さあ、私も、よくは存(ぞん)じませんが、服部(はつとり)とかいふやうに聞いて居ります。何でも彰義隊(しやうぎたい)の戰爭に出た人だとかいふ事でございますよ」といひました。中年者(ちうねんもの)の大家さんですが、俄成金(にはかなりきん)で、この家を買(か)つたまでの事で、文字(もじ)[やぶちゃん注:ここは「學問」の意であろう。]もなければ、趣味(しゆみ)もないといふ人物(じんぶつ)ですから、これ以上、話相手にはなりません。前(まへ)の家主が、山の手に、逼塞(ひつそく)してゐるやうだから、あしたになつたら、聞きに行つて見ませうと思ひ思ひ、其晚(そのばん)はやすみました。[やぶちゃん注:最後の一文は、ちょっと不全である。]

 不思議に其晚から、犬(いぬ)が吠(ほ)えなくなりました。

「それ御覽(ごらん)、お地藏樣のお繩を解(と)いてあげたからなんだ」

 かう云つて、私は好(い)い心持(こゝろもち)になつてゐました。

「きつと二十二の女が、自分の良人(をつと)か情人(じやうにん)かを、四十二になる岩切何某(いはきりなにばう)といふ男にいぢめられるのがくやしくつて呪(のろ)ひをかけたんぢやないか」と私がいひますと、

「でも、それならば縛(しば)つたり首(くび)を落(おと)したりする筈(はづ[やぶちゃん注:ママ。])はないぢやありませんか」と女房がいひます。

「いや、それは、岩切といふ奴(やつ)が殘つたんだらう」[やぶちゃん注:「殘つた」「そこなつた」と訓じておく。]

「でも、お地藏樣(おじぞうさま)二體(たい)おまつりするのは、どういふわけでせう」

「さあこれが、つまり女つてやつは、執念(しうねん)が深いし愚痴(ぐち)なもんだから、一つで足(た)りなくて――」

「え、え、どうせさうですよ」

 女房(にようぼ)はツンとして了(しま)つた。いつものヒステリーが起(おこ)りはじめた、えらい事になりさうなところまで行つた時、天井(てんじやう)で、カタリと音(おと)がした、かと思ふと、トンと落ちて來たものがある。それが丁度女房と私の枕(まくら)の眞中です。

 見ると、疊の上に、短刀(たんたう)が一本、ぬき身の儘(まゝ)で、疊に突(つ)き剌(さ)さつてゐます。短刀の柄(つか)には紐(ひも)が結(むす)びつけてある。

 天井はと見ると、丁度、短刀(たんたう)の刄先(ほさき)がえぐりぬいたほどに割(わ)れてゐる。

「あぶないなア、此短刀を屋根うらからつりさげてあつたんだぜ。紐(ひも)が古(ふる)びたものだから、自然(しぜん)に落(おち)て來(き)たんぢやあるまいか」と、私がいひましたら、女房が凄(すご)い顏をして、

「今まで隱(かく)してゐましたが、實(じつ)はこれと同じ短刀が、あの隱居所(いんきよじよ)の天井にもつるしてあつたのをはづさして置(お)いたんです」といひました。

「兎に角、あしたの事だ。この家(うち)にゐる[やぶちゃん注:ママ。「ゐた」の誤植か。]前の家主に聞いても判るだらう」と、その晚は不審(ふしん)ながらも寢入(ねい)りました。

 翌日(よくじつ)、前の大家さんといふのもすぐに見付(みつ)かりました。そして、二體地藏(たいじぞう)の始末(しまつ)がどうやら判りました。

 旗本(はたもと)は服部半左衞門と云つて、立派な若者(わかもの)だつたさうですが、同じ旗本から二十二になるおさめといふ女を嫁(よめ)にもらひました。ところが、外に薩藩(さつぱん)の岩切長七郞といふ人の妹(いもうと)おときといふのが、この半左衞門に惚(ほ)れて、命にかけても、自分の良人(をつと)にしたいと云(い)ひ張(は)つた上、おしかけ女房にやつて來ました。亂暴(らんばう)な話ですが、どうも大變(たいへん)氣(き)の强(つよ)い女だつたらしい。半左衞門はいろいろ斷りを云つて、おときを岩切家(いはきりけ)へかへさうとしたのですが、長(ちやう)七郞(らう)が、馬鹿な妹思ひだものですから、却々(なかなか)おいそれと引取つてくれません。おまけに、服部家(はつとりけ)では、前々から岩切家によつて、救(すく)はれた事があるといふわけで、斷(ことわ)りを押し通すわけにいかない。

 といふ騷(さは)ぎのところへ、彰義隊(しやうぎたい)の戰爭がはじまりました。そしておさめの弟の光岡大助(みつをかだいすけ)といふのと共に半左衞門は上野(うへの)の山へ走らうといふ相談(さうだん)をしてゐる、それを立聞(たちき)いたのがおときで、思ふ男を戰爭(せんさう)にやつては一大事と長七郞にダヾをこねたのです、ところが長七郞の方は元より薩州藩(さつしうはん)ですから、いざ戰爭となれば、上野の山を攻(せ)めなければならない、いつその事半左衞門を味方に引入れた方がなどゝ考(かんが)へて、長年の恩誼(おんぎ)をかせに足どめにかゝつた。

 困(こま)つたのは半左衞門です、おときとおさめは、彰義隊(しやうぎたい)も薩州もない、自分の思ふ男をそばに引つけて置(お)けば好(い)いのだから、その目的(もくてき)の爲めに、それとなく地藏樣のお姿(すがた)に僞(いつは)りて、おときは大助を、おさめは長(ちやう)七郞(らう)を目あての地藏をつくらせた。そして、一方は首(くび)を刎(は)ねてのろひ、一方は縛(しば)り上げてのろつたのださうです。

「でも兩方(りやうはう)とも、二十二の女とありますが]と云つたら、大家さんは

「いや、おときも、おさめも同じ年なんです」と云つた。

 ところが、こののろひが相方に利(き)いたものか、長七郞は上野の山下で討死(うちじに)をする、大助は捕(とら)はれの身となつたが、良人(をつと)の半左衞門は一旦(たん)彰義隊(しやうぎたい)に入つたが、首尾(しゆび)よく落人(おちうど)となつて、我家へこつそり戾(もど)つて來た。

 その時、おさめとおときは隱居所(いんきよじよ)と、母屋(おもや)の書齋とに、双方(さうはう)とも、閉(と)ぢこもつて、お互に相方の女をのろひ殺す爲めに斷食の行(ぎやう)をしてゐたといふ事が判つた。

 そのもの凄(すご)い有樣を見た半左衞門は、白分の身體(からだ)は彰義隊のお尋(たづ)ねものである上に、二人の女に、かほどまで怖(おそ)ろしい思はれ方をしてゐる事が辛(つら)くなつて、隱居所の簞笥(たんす)のかげで腹を切つたのだといふわけでした。天井(てんじやう)につるした短刀は、女二人が、自分たちの斷食荒行(だんじきあらぎやう)に、身を責(せ)める爲めの道具(だうぐ)だつた。

「それで、女二人の最期(さいご)といふのがあはれですよ。目當(めあて)の男がかへつて來たのも知らず、切腹したのも知らず、一心に念じつめた揚句、二人とも、餓鬼(がき)のやうになつて、殆(ほと)んど同日同刻に死んでゐたさうです」と大家(おほや)さんは云ひました。

[やぶちゃん注:展開は読ませるが、怪奇談としては、個人的には食い足りない終わり方で、二人の女のおぞましい怨念とするのも、今一、好きになれない。二人の女の映像が、少しも脳裏に浮かばないのが瑕疵である。但し、次の「縛られ塚」の冒頭にある筆者の附記によれば、これは『実話から生み出した』作品(『ウェッジ文庫』の東雅夫氏の解説によれば、当時、文人の間で盛んに行われた怪談会や『百物語等で語られた実話怪談』とされる)であることを明かしてはいる。だとすると、詳細を聴き出し、人物像をリアルにさせることは、出来ぬことではないが、話者が蘆江と親しくない場合、やり難い。或いは、最後の因縁話が痩せているのも判らなくはない。にしても実話そのままではないわけで、エンディングのバラシは、もう少し、二人の女の造形を浮き彫りにすべきであったと思うのである。]

2024/02/03

「蘆江怪談集」 「天井の怪」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本本文の開始位置はここ。鈴鹿峠や諸地名については、前回の「鈴鹿峠の雨」の注で紹介した「亀山市生活文化部文化スポーツ課まちなみ文化財グループ」作成の「東海道五十三次の内 坂下宿 鈴鹿峠 イラスト案内図」PDF)のイラストが判り易い。但し、検索で本篇に来られた方は、前回の「鈴鹿峠の雨」を先に読んで戴けるよう、お願い申し上げるものである。続き物ではないものの、この二つを並べたのは、蘆江の確信犯であろうから。

 

 

    天 井 の 怪

 

 

 阪(さか)は曇(くも)つてゐた、鈴鹿峠にかかつて、大粒(おほつぶ)の雨がぽつりぽつり、峠の茶屋を目のあたりに見ると共に、橫なぐりのどしやぶり、笠(かさ)を打ちぬくほどに覆(くつが)へして來る、二人はたゞやみ雲(くも)に茶見世へ逃げ込んだ。

「間もなく止(や)みませうから」と茶見世の婆(ばあ)がいつてくれる言葉(ことば)をたよりに待つても待つても止みさうになく、かれこれ茶見世の緣先(えんさき)に半時(はんとき)か一時も休(やす)んだ。

 どうやら小降(こぶ)りになつたのを幸ひ、これから江州水口(ごうしうみづぐち[やぶちゃん注:前回の注で示した通り、「みなくち」が正しい。以下同じ])まで一のし、日のある中に行きつければ好(い)いがといひながら、峠(たうげ)を下り道にかゝつたが、更らに半時(はんとき)と經(た)たぬ中に、又しても降りしきる雨。

 男は絲楯(いとたて)[やぶちゃん注:前回の注を参照。]をはづして女の肩にかけてやり、すべりやすい足元を、かばひつゝ急ぎに急いだ、時からいつても、疲れぐあひから見ても、水口(みづぐち)は兎に角、土山[やぶちゃん注:「つちやま」。]ぐらゐは通(とほ)らねばならぬと思つてゐるのに、どうしたものか、茶見世(ちやみせ)を出て以來家(うち)らしいもの一軒(けん)見受(みうけ)けず、人つ子一人あはず、道さへだんだんに狹(せば)まつて來る。

「どこで踏(ふ)みまよつたのであらう」と心づいた時分には、現在(げんざ)手(て)をとりあつた女の顏(かほ)さへはつきりは見(み)えなくなつてゐた。

「到頭日が暮(くれ)ました、見渡す限り笹藪(さゝやぶ)と雜木山ばかり、一體(たい)これはどうなるのでござんせう」と女が心細(こゝろぼそ)い事をいふのを、

「なあに、道(みち)がある以上は、人里(ひとざと)のない事もあるまい、どうせ迷(まよ)うた道(みち)ならば、今夜は人家の見つかり次第、一夜の宿(やど)を無心して、明朝(みやうえう)本街道(ほんかいだう)へ案内してもらふ事にしよう」と男は氣强(きづよ)く慰(なぐさ)めたが、

「吉(きち)さん、私は心細うなつて來ました」と女はたゞ男の袖(そで)へしつかりと、とりすがつた。

「おぬひさん、今更(いまさら)そんな弱い事をいふ約束(やくそく)ではなかつた筈(はづ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])だ、どのやうな苦勞(くらう)をしてもと、江戶を出たではないか、鈴鹿峠(すゞかたうげ)といへば、京まではいくらの道でもない、ここまで來て平太張(へたば)つたら、江戶つ子の恥(はぢ)ぢや」

「それでも吉さん、私(わたし)は」

「いやどうも困(こま)つた弱虫(よわむし)だぞ、しつかり私の手につかまつたがよい、町人(ちやうにん)でこそあれ、武士の胤(たね)ぢや、尺三寸關(せき)の孫六(まごろく)、祖父(ぢい)さまのかたみがちやんと腰(こし)に頑張(ぐわんば)つてゐる」と吉之助は女の心を引立てた。

[やぶちゃん注:「關の孫六」(生没年未詳)美濃国の刀工孫六兼元、また、その後継者の鍛えた刀剣。室町後期から江戸時代まで数代に渡り、始め、美濃国赤坂、後に同国関で作刀された。「三本杉」と呼ばれる刃文に特色があり、業物(わざもの)として著名である。]

「あい、もう怖(ぢ)けません、お前(まへ)といふ人をたよりに江戶(えど)を出たからは、どんな山の奥でも厭(いと)はぬ筈(はづ)の私でござんした。道(みち)を迷(まよ)うたのでつい弱い事をいひましたが、もう何が來ても驚(おどろ)く事ではござんせぬ」と女は甲斐々々(かひがひ)しく絲楯(いとたて)をゆり上げて、

「吉さん、私がこれをとり上(あ)げては、お前こそ、びしよ濡(ぬ)れで氣味(きみ)が惡(わる)うござんせう、いつその事、これをかうして半分(はんぶん)づゝかけようではないかえ」と片手(かたて)をのばして、絲楯(いとたて)の端を男の肩へ引かける。

「吉(きち)さん」

「何(なん)だ」

「嬉(うれ)しいといふ事さ」

「何の、いま更(さら)らしい」

「それでも」

 二人の體は一枚(まい)の絲楯(いとたて)に、しつくり包(つゝ)まつて、身も心も一つになつたやう、互(たがひ)に身をすりよせ縺(もつ)れるやうな足どりで熊笹(くまざゝ)を踏(ふ)みしめた。

 それから何里(なんり)あるいた事やら、何時(なんどき)あるいた事やら、いくらあるいても、水口(みづぐち)の水も見えねば土山の土も見えない、初秋(しよしう)の日は暮れて、眞暗(まつくら)な道中になつた。

 さすがに男も途方(とはう)に暮(くれ)て、あるく勇氣(ゆうき)もなくなる。女は元より男の側(そば)にぴつたりとすがりついたまゝ、二人はとある大木の下露(したつゆ)にぬれながら、立ちつくした。

 雨は少(すこ)し止(や)んだ、が、風(かぜ)がさらさらとわたるにつれて、夕立(ゆふだち)かと思ふもの音が騷(さわ)ぐのは、二人の身體が深(ふか)く茂つた藪(やぶ)だたみの中に立つてゐるしるしである、立つ足元(あしもと)に笹(さゝ)の葉の茂(しげ)りの多いのは、ふだんさへ、人通(ひとどほ)りのない道(みち)である事を示(しめ)してゐる。[やぶちゃん注:「藪(やぶ)だゝみ」藪が幾重にも重なって茂っている所。]

 男は空(むな)しく眞暗(まつくら)な中を、見まはしたが、

「おぬひさん、あれ、あのあたりに灯(ひ)がちらついて居るとは思(おも)はないか」

「さうぢや、たしかに灯りでござんす」

 二人は聊(いさゝ)か力づいた。

 辿(たど)りついたのは一軒(けん)の古寺である。

「道を迷(まよ)つて難儀(なんぎ)をして居るもの。近頃(ちかごろ)御無心(ごむしい)ながら、一夜の宿(やど)を願(ねが)へますまいか」と廣い庫裏(くり)のくぐり戶をあけて男が賴(たの)んだ。[やぶちゃん注:最後の「だ」は脱字らしく、一字空けであるが、訂した。『ウェッジ文庫』でも『だ』である。]

 柱(はしら)も縁(えん)も黑光りに光つた庫裏の奧の杉戶(すぎと)を重(おも)さうに開けて出て來たのは小づくりの坊主(ばうづ[やぶちゃん注:ママ。])であつた。

「それはそれはお困りでござんせう、早くお上りなさい、御覽(ごらん)の通りの荒(あ)れ寺(でら)ゆゑ、何もおもてなしも出來ませんが、雨露(あまつゆ)だけはどうやら凌(しの)げませう、さあさあ」ともの優しく、すゝぎの水を取つたり、冷々(ひえびえ)と肌寒さをおぼゆる山寺の初秋(しよしう)の夜に、ふさはしく圍爐裏(ゐろり)に榾(ほだ)などさしくべる。

 二人はほつとして、顏(かほ)を見合せながら、先づ一安心(あんしん)と爐(ろ)の側(そば)にさしよつた、ぱつと燃え上る榾火に三人の顏(かほ)がはつきりと見交(みかは)されると、坊さんが先づ

「お、お見受(みう)けするところ、まだお若(わか)い方(かた)のやうぢやが、どこからどこへおいでになる道中でございますな」と聞く。

「京都(きやうと)までまゐりませうと思(おも)うて四日市の方から來(き)ました」

「鈴鹿を越(こ)して西(にし)へ向いて步いた人が、一體どんな風(ふう)に迷(まよ)へば、この山の中へ出るのでござんせう、これは鈴鹿峠(すゞかたうげ)につゞいた勢州寄(せいしうよ)りの山の中でござるが」

「さうしますと、京都へ出ます本街道は」

「ハイ、それは一寸口では申(まを)されません、まづ今夜(こんや)はここへお泊りなされて、明日にでもなつたら、私が街道(かいだう)まで御案内(ごあんない)いたしませう、兎に角、この寺(てら)のうしろ山を越して兎(うさぎ)の通(とほ)るやうな道をぬけますと、ざつと三里ばかり、丁度(ちやうど)鈴鹿峠の頂上の茶見世(ちやみせ)のうしろへ出られます」

 唐茄子(たうなす)の粥(かゆ)に古菜漬(ふるなづけ)、何はなくとも、あるじの僧(そう)は甲斐々々しく二人をもてなしてくれる。

 女はその時、一寸(ちよつと)吉之助に囁(さゝや)いた。

「尼(あま)さんのやうに見えますが」

「お見受(みう)け申し(まを)ますところ、お一人住居[やぶちゃん注:「おひとりすまひ」。]のやうでござんすが」

「ハイ、愚憎(ぐそう)一人でござる、尤(もつと)も、去年までは老僧(らうそう)がをられましたが、入寂(にふじやく)せられましたので」

「失禮(しつれ)ながら尼僧樣(にそうさま)でおいでの御樣子」

「ほほほ、お判(わか)りでござつたか、もう幼少(ようせう)の頃から母親(はゝおや)とたゞ二人でこの寺にをりました。去年滅(めつ)しました老僧といふのが、卽ち私の俗緣(ぞくえん)の母でもあり、師(し)の御坊でもありといふ次第で」

「まるで、石童丸(いしどうまる)の昔話に伺(うかゞ)ひますやうなお話」とおぬひは心を動(うご)かされた。

[やぶちゃん注:「石童丸」説経節の「苅萱」(かるかや)に出てくる幼い主人公の名。この元になる話は,中世の高野山の蓮華谷や往生院谷あたりの「萱堂」(かやんどう)に住む聖(ひじり)の間で生まれたもので。それが後に、謡曲の「苅萱」と説経節に分かれて展開したものである。説経節「苅萱」の世界は、筑紫麓ヶ国の所領と家族を捨てて、東山黒谷から高野山へ逃れた苅萱を追って、御台所と石童丸が還俗(げんぞく)を迫る話である。御台所と姉の千代鶴姫は死に、石童丸は、父と対面しながらも、真実の父とは知らずに別れ、高野と善光寺で、別々に往生するところで終わっている。石童丸については、石童の名が、石堂・石御堂・石塔と言う地名が全国に多いところから考えると、石堂(辻堂)を拠点とする聖に関係する名で、塚と死者の埋葬を営む聖との深い交渉の中から生じたものであろう。なお、説経節「苅萱」の伝承を今日まで残し、苅萱道心と石童丸の親子地蔵をまつる寺が、善光寺周辺に二つある。苅萱山寂照院西光寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)と苅萱堂往生寺という(私は大学一年の時、前者の寺に参り、凡そ一時間に亙って、住職から父の苅萱上人についてのお話しを伺って、はなはだ感銘したのを思い出す)。西光寺の所在が妻科村石堂(現在の長野市北石堂町。苅萱山寂照院西光寺の所在地)西光寺となっているのは、石堂に拠る聖と、幼い主人公の因縁が、偲ばれる一つの証しである。高野山の萱堂聖や、善光寺周辺の石堂の聖の間で語られた話を統合したものに、時宗化した高野聖の存在が考えられるが、彼らは高野山と善光寺を往還しながら、説経節「苅萱」の成立に深く関与したことは、間違いない。父が苅萱であることを、生涯、知らずに終わり、母や姉の死を見届けて、荼毘(だび)にするなど、「苅萱」の主題である家族の解体と死に、最後まで立ち会ったのが石童丸であった(以上は、主文を平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

「いや、それがな、今も申す通り幼少からの住居ゆゑ、山中の一木一草皆(みな)幼馴染(おさななじみ[やぶちゃん注:ママ。])、とんと寂(さび)しいとか心細(こゝろぼそ)いとか申す事を知りませぬ、何しろ街道筋(かいだうすぢ)からこゝまでの山には、蛇(へび)の巢(す)もあれば梟(ふくろ[やぶちゃん注:こうも訓ずる。])の森もござる、狼(おほかみ)こそをりませぬが山猿(やまざる)などは、時たま、本堂の緣(えん)へ來て遊(あそ)んでをります」

「蛇の巢と申しますと」とおぬひは眉(まゆ)をひそめる。

「蛇谷(へびだに)と申しましてな、何萬匹となく蛇が木(き)の枝(えだ)、谷(たに)の流(なが)れ、石のかげ、などにのた打(う)つてをりますところで、後學(こうがく)のため、あした、御案内(ごあんない)しても宜しうござるが」

「いやもうそのやうなところへは參(まゐ)りたうもござんせぬ」

「ほほほ、おいやならば、無理(むり)にお目にかけようとはいひませぬが、蛇(へび)といふものは、あれで、中々(なかなか)情合(じやうあい[やぶちゃん注:ママ。「愛」の当て字ならば、問題はない。])の深いものでござる」

「御冗談(ごじようだん)ばかり」

「いや、あれで中々(なかなか)毛(け)ぎらひをいたしますな、交(まじ)りの時がまゐれば枝から枝へ傳(つたは)つてこれと思ふ相手を探(さが)すものでな、あれほど一心(いつしん)の强(つよ)いものはありませぬ」

 尼僧(にそう)の話は蛇物語りになつた。

 梢(こずえ)から下枝へ下りるには、梢の枝一杯に身をからまして、下枝の距離(きより)を計(はか)り、ここと思ふ頃、尻尾だけを梢に食ひとめて、だらりと眞(ま)つ逆樣(さかさま)にぶら下る、それでも下枝(したえだ)へまだ屆(とゞ)かぬとなれば逆樣に下つた身體(からだ)にはずみをつけて搖(ゆ)り動(うご)かした上、何かしら側(そば)の枝(えだ)をかかり場にして、トンと落ちて首尾(しゆび)よく下枝へ卷(ま)きつく。

 下枝から梢の相手(あひて)に上る時は、眞(ま)一文字(もんじ)に身を起こして、のび上り、梢(こずえ)の枝へ頭をかけてからみつく、さし出た枝と枝とへ飛(と)びうつる時は、尻尾(しつぽ)にはずみをくれて、體(からだ)を宙(ちう)に投げかける、などと、女は聞(き)く中(うち)にはや、ちぢみ上つた。

「そのやうなところを、通(とほ)らねば、本街道(ほんかいだう)へ出られませんか」

「さ、蛇谷を通(とほ)らぬとすれば、深い森の中をぬけてゆくのぢやが、その梟(ふくろ)の森には、一つ厄介(やくかい)な奴(やつ)がをります」

「狼(おほかみ)でも」

「いや、狼は滅多(めつた)にをりますまい、蛭(ひる)といふ虫を知つておいでか」

「黑血を吸(す)はせる虫でござんすな」[やぶちゃん注:「黑血」(くろち)は腫れ物などに生ずる腐敗して黒みを帯びた血。]

「さうぢや、あれが夥(おびただ)しく梢(こずえ)にをりましてな、人が通ると、ばらばらと木の枝(えだ)から落(お)ちかかります」

 おぬひは靑くなつた。

 二人の寢間は八疊(でふ)ばかりの客間(きやくま)に設けてあつた、尼僧(にそう)は方丈へ入つて寢たらしい、まだそれほどの夜更(よふ)けとも思はれぬが、淋(さび)しさは深夜(しんや)のやうであつた、本堂の方でごとごとと怪(あや)しげなもの音の聞こえて來るのは鼠(ねずみ)かも知れぬ、寺の外から、時折(ときをり)風音(かぜおと)にまぎれて、ウーンとうなつて來るのは何であらう。

「吉(きち)さん、又うなります」

「さあ何であらうな、兎(と)に角(かく)今夜一夜ぢや、さあ關(せき)の孫(まご)六を枕元(まくらもと)に引つけて置いてやらう、どれほどの妖魔(ようま)でも、この名刀が拂(はら)つてくれる筈だ」

「あれ、又(また)うなりました」

 吉之助は突伏(つゝぷ)して慄(ふる)へてゐるおぬひを膝近(ひざちか)く引よせてやつて、ぢつと耳(みゝ)をすましたが、俄(にはか)に笑ひ出した。

「おぬひさん、あれは何でもない、鐘樓(せうろう[やぶちゃん注:ママ。「しようろう」でよい。])の鐘(かね)に風がわたつて、風の音が鐘に響(ひゞ)くのぢや」

 あたりの靜(しづ)かさは一入(しほ)深(ふか)くなりまさる、折から又(また)異樣(いやう)のうなり聲が今度は天井(てんじやう)の方に聞こえはじめた。

「あれ、又(また)」

「なに鐘(かね)のゆれ音であらう」

「いゝえ、今度のは天井(てんじやう)でござんす」

「風の工合で天井のやうに聞(きこ)えるのであらう」とはいつたが、前(まへ)のうなり聲(ごゑ)とは全くちがつた聲である。

 赤子(あかご)の泣(な)く聲とも思はれる。

 鞭(むち)などを振まはして折檻(せつかん)する音とも思はれる。

 女の責(せ)め殺(ころ)される叫び聲のやうな時もある。

 一種(しゆ)異樣(いやう)の哀音(あいおん)がワーンと響(ひゞ)いて今度はやむ時もなく一しきり呻(うな)り立(た)てた。

「うむこれは不思議ぢや、おぬひさんお前(まへ)蒲團(ふとん)の中にくるまつてゐて下され、私が仔細(しさい)を聞きとどけて見よう」と關の孫六を引(ひき)よせながら、音のする見當(けんたう)へぢりぢりと進んで天井を睨(にら)んだ。

 おぬひもぢつとはしてゐない。

「お前ひとりはやられませぬ、見屆(みとゞ)けるのなら私も一緖(しよ)に」と吉之助の帶際(おびぎは)につかまりながら、一と足一と足進む。

 天井(てんじやう)のうなり聲はあたりが靜(しづ)かになるにつれていよいよ激(はげ)しくなつて來た。

 どう聞きなほしても赤子(あかご)の啜(すゝ)り上げる聲である。でなければ責(せ)められる女の苦(くる)しむ聲(こゑ)である。

 吉之助は道中差(だうちうざし)をすらりとぬいて靑眼(せいがん)にかまへた、今にもあれ、天井(てじやう)から何ものかが落ちかかつたら、ズブリと一突(つき)、突上げるだけの身がまへをして、うなり聲(ごゑ)に可(か)なり近(ちか)いところまで進んだ。

 二人は息(いき)をひそめて天井(てんんじやう)を見つめてゐる、天井の聲(こゑ)は丁度二人の眞上のところに强(つよ)く、それが折々橫へそれ、うしろへ逃(に)げ、又(また)前(まへ)へまはつては

「ウーンウーン」と泣き「ワーツワーツ」と叫(さけ)ぶ。

「尼樣(あまさま)に知らして見ようか」

「いゝえ、あの尼樣(あまさま)が恐ろしい人かもしれぬ」

「いや、それはお前(まへ)の思ひひがみであらう」

「それにしても、わざわざ人のいやがる話(はなし)をあのやうに長々(ながなが)とするのでござんすもの、私はたゞものではないと思ひます。第一、どこの誰とも知(し)れぬのに、私たちの宿(やど)をすらすらと引受(ひきう)けた事も不思議(ふしぎ)、こんな山寺に女一人で暮(くら)してゐるといふのも、受取(うけと)れぬ話です」

 その中におぬひは疊(たゝみ)の上を指(ゆび)さして慄(ふる)へはじめた。

 おぬひの指の方向にはいつの間(ま)に落(お)ちたか、血汐(ちしほ)の一しづく、それが八疊(でふ)の眞(ま)ん中(なか)の古疊にぽたりと落ちてパツと散(ち)つてゐる。

「血だ」吉之助の目前(もくぜん)に又一滴(てき)、ぽたり、つづいて又ぽたり、忽(たちま)ちの間に疊(たゝみ)の上に五六滴もの血汐が天井(てんじやう)から滴(したゝ)つて來た。

 と思ふ中に、天井の聲(こゑ)は一しきり

「ワーン」と高く響(ひゞ)いた、おぬひはもうたまらなくなつて、氣を失つた。

 吉之助(きちのすけ)はおぬひの耳に口をあてて、

「おぬひやあい」と呼(よ)んだ。

「どうなされましたな」と眞(ま)つ暗(くら)な廊下に朦朧(もうろう)と現れた人かげ。それは尼僧(にそう)であつた。

「尼樣(あまさま)、おつしやつて下さいませ、包(つゝ)み隱(かく)しをなさらずに、あの天井から落ちて來る血汐(ちしほ)の仔細(しさい)を、もし、人に話(はな)してならぬ事なら、決して洩(も)らしはいたしませぬ。さあどうぞおつしやつて」と吉之助は片手(かたて)におぬひをかばひ片手に關(せき)の孫(まご)六の鯉口(こいくち)を切つてつめよつた。

 が、尼僧(にそう)は顏色もかへなかつた、不思議(ふしぎ)さうに吉之助の樣子(やうす)に目をつけながら、

「天井の血」ふり向いた尼僧(にそう)は、俄(にはか)に笑ひ出した。

「どうも濟(す)まん事(こと)でござつた。これは血(ち)ではありません、蜜(みつ)でござる、蜜蜂(みつばち)でござる、いや、今夜は大層(たいそう)出來(でき)ましたと見えますな、なるほど、大分(だいぶ)羽音(かねおと)がやかましいやうぢや」と天井を見上げた。吉之助の不思議(ふしぎ)はまだ解(と)けなかつた。

 尼僧は兎に角と、おぬひを介抱(かいはう)して、

「御無理(ごむり)はござらん、實は私も最初(さいしよ)は驚きましたのぢやが、この寺の天井(てんじやう)にはいつの頃からか、蜜蜂が巢す」を作(つく)つてをりましてな、あのうなり聲は蜜蜂(みつばち)の羽の音、こゝに落(お)ちて來(く)るのは蜂(はち)がつくつてくれる蜜(みつ)でござる」

「それにしても、血(ち)の色(いろ)をしてをります」

「いや、これは血(ち)の色(いろ)ではない、何しろ古寺(ふるでら)でござる、天井を洩(も)れて落ちる蜜が媒(すゝ)を溶(と)かして、この通りの色(いろ)になります。袖(そで)すり合ふも他生(たしやう)の緣(えん)ぢや、明日は一つこの天井へ蜜箱をつくる手傳(てつだ)ひをして下さらぬか」

[やぶちゃん注:この寺のモデルは地図上を探したが、見当たらなかった。

 さても、一読、お判り戴けることと思うが、本擬似怪談は、ロケーションと言い、蛇と蛭の話と言い、遠く泉鏡花の傑作「高野聖」へのオマージュであることが判る。なお、怪音が蜂の音というオチは、江戸期の擬似怪談に枚挙に遑がない。]

「蘆江怪談集」 「鈴鹿峠の雨」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本の本文開始位置はここ。]

 

 

    鈴 鹿 峠 の 雨

 

 

         

 

 考(かんが)へて見れば十五年も前の事です、私は樂(たの)しみが半分(はんぶん)、止(や)むを得(え)ずが半分、一人旅で東海道(とうかいだ)を步(ある)いて京へ上りました。四日市を早立(はやだち)で、其日の中に江州(ごうしう)へ入りたいと痛む足を踏〆(ふみし)め踏〆步きました。[やぶちゃん注:「鈴鹿峠」はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)で、「四日市」市街は、その東北。]

 坂(さか)へかゝつて、宿[やぶちゃん注:坂下宿。]外(しゆくはづ)れで草鞋(わらぢ)を穿代(はきか)へながら、小荷物の紐(ひも)を結び直してゐますと、茶見世の婆さんが「峠(たうげ)へかかつて降らんだら好(えゝ)がなあ」といひますので、不圖(ふと)空(そら)を見上げましたら、成程、今が今まで晴(は)れてゐた空がドンョリと曇(くも)つて、今にもざあと來さうな樣子です「何だか怪(あや)しい雲(くも)が出たね、まア降(ふ)られたらそれまでさ、急(いそ)ぐとしやう」と私はさつさと步(ある)き始(はじ)めました。

 坂(さか)は照る照る鈴鹿(すゞか)は曇る、といふ唄(うた)[やぶちゃん注:「鈴鹿馬子唄」。線翔庵氏のサイト「庵主の趣味の間 線翔庵」の「鈴鹿馬子唄」に解説があり、歌詞はこちら。そこ出る「あいの土山」については、諸説があり、「甲賀市」公式サイトの『あいの土山の「あい」の意味について』に詳しい。]は此處の事です、坂へかかる時晴れてゐたのが、此處まで來て急に曇つて、曇つた儘(まゝ)で鈴鹿を越(こ)せば、後(あと)は下り道の土山邊(ついやまあた)りで雨が降るのかも知(し)れまい、出來る事なら峠(たうげ)を上り詰(つ)めてから降つて貰(もら)ひたいものだと思ひ思ひ、足を急がせました。

 本街道(ほんかいだう)でも、もう汽車が通つてゐる世の中ですから、往來(わうらい)を步(ある)いてゐる人なんてありません、廣い道を私一人で七曲(まが)りの樣な處ヘテクテク步きかけると、何處ともなく人の聲(こゑ)がします。

 何處で何を話(なに)してゐたのか、男か女か、若(わか)い者か老人(らうじん)か、些(ちつ)とも判(わか)りませんが、人の話聲が私の頭の眞上(まうへ)で聞えます、ずつと上を向いて見ましたが、只(たゞ)崖(がけ)の雜木(ざうき)がこんもりと頭の上へ冠(かぶ)さつてゐる許(ばか)りです、山男とかいふ者が私を何(なん)とかしようと云つて相談(さうだん)でもしてゐるのではあるまいかと、私は迷(まよ)ひました、誰れか道連(みちづ)れが欲しいものだと思ひ思ひ私は更(さら)に足を早めました、私の足の早まるに連れて、話聲は髙(たか)くなつて來ます、足を止(と)めて見ると、話聲も止まる、又(また)步(ある)き出すと又聞える、妙(めう)な事があるものだと思ひ思ひ、尙(なほ)道(みち)を急ぐ中にポツリポツリと落ちて來ました、私は菅笠(すげがさ)の紐を締(し)め直し、絲楯(いとたて)を身體に纏(まと)ひつけて、やつしやつしと上りました、雨は一足每に强くなつて行く、そして山に上るに從(した)がつて深(ふか)くなつて行く、其れで、前の話聲(はなしごゑ)はいつまでもいつまでも私の耳に響(ひゞ)きます。

[やぶちゃん注:「絲楯(いとたて)」「糸立て」で、「いとだて」。糸を入れて補強した渋紙。簡易の雨具。]

 

         

 

 私は不圖(ふと)此の話聲は、私より半町(はんちやう)[やぶちゃん注:五十四・五メートル。]許(ばかり)り先に上(のぼ)る人の聲(こゑ)ではないかと思ひました、私は足を急がせて七曲(まが)りの三つ目をぐつと曲つて見ますと、果(はた)して、女と男と二人連れで話(はな)しながら行くのでした。

[やぶちゃん注:「七曲(まが)り」正しくは「八町二十七曲り」。「亀山市生活文化部文化スポーツ課まちなみ文化財グループ」作成の「東海道五十三次の内 坂下宿 鈴鹿峠 イラスト案内図」PDF)のイラストが判り易い。その解説の「鈴鹿峠」に、『伊勢と近江の国境にまたがる鈴鹿山の脇を縫うように越えるのが鈴鹿峠越えです。古くは「阿須波道」と呼ばれ』、仁和二(八八六)年に『開通したとされています。「鈴鹿山」は、本来は「三子山」のことを指しているとみられますが』、「今昔物語」や『和歌などに登場する「鈴鹿山」は鈴鹿峠越えを指しているものが多いようです。なだらかな近江側と違い、山深い「八町二十七曲り」の急な山道は、古くは山賊の話が伝えられ、江戸時代には箱根越えに次ぐ東海道の難所として知られていました』とある。この「七曲りの三つ目」というのは、下方のイラストの『⑮燈籠坂』か、その上の部分かと思われる。以下に出るそれより上の「曲がり」は、各自で確認されたい。]

 男は藍微塵(あいみじん)の素袷(すあはせ)に八端の三尺帶を締め、女は髮を馬の尻尾(しつぽ)といふのに結んで、辨慶(べんけい)の單衣(ひとへ)、黑繻子(くろじゆす)と茶献上(ちやけんじやう)の腹合せの帶を手先さがりに引かけ、裾(すそ)をぐつと片端折(かたはしをり)に腰紐へ挾(はさ)み、裾へ白い腰卷をだらりと見せて、二人とも跣足(はだし)で、番傘(ばんがさ)を相合傘といふ姿です、鈴鹿峠といふ上方道で迚(とて)も見かけられさうもない姿です、私は一方[やぶちゃん注:「ひとかた」。]ならず驚(おどろ)きました、而(しか)も、それが私の足音を聞いて、二人一緖(しよ)に振返(ふりかへ)りました、女は眉毛(まゆげ)の跡靑々と、男は苦味走(にがみばし)つた顏立といふのが、又私に取つて頗(すこぶ)る異樣(いやう)に見られました、私は私の身體(からだ)が一足飛びに東京近在へ引戾(ひきもど)されてゐるのではないかと思ひ迷(まよ)はされながらも、足を早めて其の二人を通(とほ)り越(こ)しました、そして私の足は四曲(まが)り目で曲つて急な坂道を一氣(き)に上りました、二人を通り過ごすと同時に、今まで聞(きこ)えた話聲(はなしごゑ)は聞えなくなつて、只雨の音ばかりがしとしとと耳に響(ひゞ)きます。

[やぶちゃん注:「藍微塵(あいみじん)」縞柄の一種。経糸(たていと)・緯糸(よこいと)ともに藍染糸を二本ずつ、濃淡の藍を用いた格子縞、又は、その布を言う。

「素袷(すあはせ)」下に肌着類を着けずに、袷だけを着ること。

「八端」「八反」とも書く。「破れ斜文」や「山形斜文」などの綾組み織りに織った絹織物で、縞や格子などの先染めにしたものや、捺染(なっせん)などの加工を施したものがある。

「馬の尻尾(しつぽ)」髷がなく、垂らした髪を単に結んだものを言う。田舎娘や女房がこうした髪をしていた。

「辨慶(べんけい)の單衣(ひとへ)」「弁慶格子」の単衣物。ギンガム・チェックのような、白地に黒の格子柄を指す。縦より横の方が少し太くなっている。

「黑繻子(くろじゆす)」「繻子」は精錬した絹糸を使った繻子織(しゅすおり)の織物。経糸(たていと)・緯糸(よこいと)それぞれ五本以上から構成され、経・緯どちらかの糸の浮きが非常に少なく、経糸又は緯糸のみが表に表れているように見える織り方で、密度が高く、地は厚いが、柔軟性に長け、光沢が強い。但し、摩擦や引っ掻きには弱い。その黒染めのもの。

「茶献上(ちやけんじやう)」江戸時代、博多藩主から将軍へ献上したところから、上等の博多織りの茶色の帯地。また、その帯。「献上博多」。

「腹合せの帶」表と裏を異なる布で仕立てた女帯。もと、黒ビロードと白繻子(しろじゅす)とを合わせて作られたところから、白と黒を昼と夜に喩えて「晝夜帶(ちうやおび)」とも呼ぶ。他に「鯨帯」とも。]

 五曲り目を曲る時までは何の異狀(いじやう)もなかつたのですが、六曲り目を掛(かゝ)らうとする時、又しても頭の上で話聲がします、第二の一組が次(つぎ)の曲(まが)り目から上に步(ある)いてゐるのかと私は思ひながら、六曲り目をぐるりと曲(まが)つて見ますと、何(ど)うでせう、現在(げんざい)今(いま)追(お)ひ越(こ)した許りの二人の男女の姿(すがた)が、半丁ばかり先(さき)に前の通りな形で步(ある)いてゐます。似た如(やう)な人もあるものだと私は思ひながら、その二人を又追越さうとすると、又しても前(まへ)の通(とほ)りに、此の二人が私を振返(ふりかへ)りました、通り越すと同時に話聲は絕(た)えました。

 七曲りを上り詰(つ)めて、鈴鹿峠の頂上にはがつしりとした昔普請(むかしぶしん)の家が二軒(けん)並(なら)んでゐます、昔は嘸(さぞ)繁昌(はんじやう)したらうと思はれる茶見世(ちやみせ)ですが、此處では汁粉(しるこ)と名物お團子の看板が出てゐます、私は其家の屋根(やね)の見える頃から、又足を急がせました、漸々(やうやう)屋根(やね)を見盡し、軒(のき)が現はれ、椽臺(えんだい)が見える處まで上つたら、何うです、前の二人の姿(すがた)が、私よりも先に上り着いてゐて、茶見世の椽臺(えんだい)に腰をかけて茶を啜(すゝ)つてゐるではありませんか。

[やぶちゃん注:「茶見世」先のPDFのイラストの峠にある『⑱峠の茶屋跡』。解説に、江戸時代には、『鈴鹿峠山頂の伊勢と近江の国境には、松葉屋・鉄屋・伊勢屋・井筒屋・堺屋・山崎屋の六軒の茶屋が建ち並び、峠を往来する人々でにぎわっていました。現在でも当時の茶屋の石垣が残されています』とある。]

 

         

 

 私の足はもう此(こ)の二人を追越す勇氣(ゆうき)がありません、此の二人の腰(こし)をかけてゐる茶屋の隣(となり)の茶見世に倒(たふ)れかゝる樣(やう)に腰(こし)を下しました[やぶちゃん注:句読点はない。]「お茶(ちや)を一つ」と小娘が私に宥(すゝ)めました、私は之れを呼び止めて「姐(ねえ)さん、あの二人は土地の人かえ」と指(ゆび)さして聞きますと、小女(こをんな)は指される方を覗(のぞ)いて見て「あの二人て誰(だ)れです」と聞きます[やぶちゃん注:句読点なしはママ。]「隣(おなり)に休んでゐる二人連れさ」と云ひましたら小女は「誰(だ)れも居りません」と素氣(すげ)ないものです[居ない筈(はづ[やぶちゃん注:ママ。])はない、隣の茶見世で休(やす)んでゐるぢやないか、男と女二人連れでさ]と說明(せつめい)しながら、私はそつと隣を覗いて見ました、すると又しても意外(いぐわい)な事には、確(たしか)に今休んでゐた筈の二人が影(かげ)も形も見えません、ハツと思ふと、天も地も眩(まばゆ)くなりました、都合(つがふ)三度(ど)脅(おびや)かされた私は、もう後へも先へも步(ある)く氣(き)がなくなりました、と云つて其處へ腰をかけてゐる事も出來ない、そこそこにして茶見世(ちやみせ)を立ちかけた、隣(となり)の家を、も一度、覗(のぞ)き込(こ)んで見ましたが、矢張何の姿(すがた)も見えませんでした、斯(か)うなると、もう一刻(こく)も早く此の薄氣味(うすきみ)の惡い鈴鹿峠(すゞかたうげ)を越して了ひたいと其(そ)ればかり思ひ入つて、小止(こや)みもなく降り頻(しき)る雨の中を、私は一散(さん)に駈下(かけお)りました、鈴鹿峠を下り切つた處は、一面に杉(すぎ)樅(もみ)の木の林のこんもりとした處です、天氣の好い日でさへ暗(くら)からうと思はれる程ですから、況(ま)して雨の日の旅(たび)の道(みち)、宵闇(よひやみ)の中を步いてゐるとしか思はれませんでした、若(も)しこんな處であの不思議(ふしぎ)な二人に會つたら、什麼(どん)なでしたらうか、併(しか)し幸(さいは)ひに、もう其後は全く姿(すがた)も見せず、頭の上の話聲もしなくなりました、そして其日の夕方(ゆふがた)江州水口(ごうしうみづぐち)の町に入りました。

[やぶちゃん注:「江州水口」「みづぐち」ではなく、「みなくち」が正しい。滋賀県甲賀市水口町(みなくちちょう)水口(みなくち)。江戸時代は東海道五十三次の土山(つちやま)宿と石部(いしべ)宿の間の宿駅。加藤氏二万五千石の城下町として発達した。]

 街道(かいだう)に沿(そ)つた一本町[やぶちゃん注:ママ。『ウェッジ文庫』では、『一本道』と訂してある。]をずつと通つてゐると、中に舊家(きうか)らしい宿屋がありますので、元より路用(ろよう)の乏(とぼ)しい旅の事、こんな宿(やど)の方が手堅(てがた)くてよからうと私は其處ヘ一夜(や)の宿を定めました[やぶちゃん注:句読点なしはママ。]「お世話を願ひます」と云(い)ひながら、椽(えん)に腰をかけて、草鞋(わらぢ)を解(と)き、出された洗(せんそく)足の盥(たらひ)へ兩足をすつと入れた時、表の方で、雨の音が一しきり、ザヽザツと强(つよ)くなりましたので、不圖(ふと)見(み)るともなしに往來を見ると驚(おどろ)いた、鈴鹿峠で見た相合傘(あひあひがさ)の粹(いき)な二人が、傍目(わきめ)も振らずに西の方へと此の家の前を通り過ぎる處でした。私は濡(ぬ)れた足の儘で飛び上つて、手當り次第に宿の座敷(ざしき)へ飛び込んで了ひました。

 

         

 

「どうなされましたのかいな」と女中が呆氣(あつけ)に取られながら、私に尋(たづ)ねたので、私は漸(やつ)と心を落付けてから、實(じつ)はこれこれと鈴鹿峠(すゞかたうげ)を上る時の話をしますと、女中は左程(さほど)驚(おどろ)いた顏もせず「餘程足の早い人どつしやろ」と簡單(かんたん)に打消(うちけ)して了ひました、私は合點(がつてん)ゆかぬ思ひをして自分の座敷(ざしき)へ入りました、斯(か)うして女中の爲に一口に打消(うちけ)されて見たり、腰(こし)を落付(おちつ)けても見ると、どうやら心も落付くので「取敢(とりあへ)ず一と風呂(ふろ)汗(あせ)を流した上で御飯にしたいが」と云ひましたら、女中は氣の毒さうに「竈(かまど)が壞(こは)れましたので、お氣の毒ですが、もう一時間も經(た)たんと湯が湧(わ)きまへんので」と云ひます、仕方なしに御飯(ごはん)を濟(す)ませ、其日の旅日記(たびにつき)など書き、差當りの手紙など二三本書いて、そしてゴロリとなりましたが、まだ湯(ゆ)が湧(わ)いたといふ知(し)らせが來ません。

 秋の日は例の釣甁落(つるべおと)しといふので、宿へ着いた時にまだ明(あか)るかつたのが、草鞋(わらぢ)を脫ぐ中に暮れて了つたのですから、彼(か)れ此(こ)れ九時頃でしたらう「お湯が湧きましたから」と云(い)つて來(き)たので、浴衣(ゆかた)一つで長い廊下(らうか)をずつと奧まで行つて、此處と示(しめ)された湯殿(ゆどの)の扉(とびら)を開けると、非常に廣い湯殿でした、三間(げん)[やぶちゃん注:五・四五メートル。]四方もあらうかと思はれる板(いた)の間の眞中(まんなか)に、三四人は悠々(いういう)入れようと思はれる湯槽(ゆぶね)が片付きよく出來てゐます、

そして其湯槽の壁際(かべぎは)に照射(てりかへ)し附きの洋燈がしよぼしよぼと瞬(またゝ)いてゐる上に、湯(ゆ)の煙が濛々(もうもう)と立昇(たちのぼ)つてゐますので、型(かた)の通りにどんよりとして見えます、浴衣(ゆかた)を脫(ぬ)いで板(いた)の間(ま)ヘ一足下した時、私は何の爲か、ぞつと水(みづ)を浴(あ)びせられるやうな心持がしました、風邪(かぜ)でも引いたか知らと思(おも)ひながら、汲(く)んである小桶(こをけ)の湯をざつと身體へ浴(あ)びせて、よい心持で湯槽へずつと身體を漬(つ)けようとすると、何かは知らず、湯槽(ゆぶね)の湯に浮いてゐる物(もの)が二つあります[やぶちゃん注:句読点なしはママ。]「何だらう」と思はず呟(つぶや)きながらぢつと見ると、男と女の首(くび)が後ろ向(む)きに浮(う)いてゐるのでした、無論私は息(いき)も止(とま)るばかりに驚いて、危(あぶ)なく倒(たふ)れやう[やぶちゃん注:ママ。]としましたが、必死(ひつし)の勇(ゆう)を奮つて足を踏(ふ)み〆(し)め、尙(なほ)一度(ど)見定(みさだ)めましたら、二つの首はくるりと此方(こちら)を向きました、そして「お先(さき)に」と私へ會釋(ゑしやく)をしました、首(くび)が浮(う)いてゐるのではなかつたので、正(まさ)に男と女と二人が入(はい)つてゐたのですから何やら安心が出來て、動悸(どうき)の高まつた胸(むね)を押へながら浴槽(ゆぶね)へ入つて、成るたけ此の男と女の方を見ないやうにしてゐました。

 もうめつきり寒(さむ)さを覺える晚秋(ばんしう)の頃でしたから、ゆつくり溫(あたゝ)まつてゐたいのですが、私の心は其日一日脅(およや)かされてゐますので、尻(しり)を落付(おちつ)ける事が出來ません、ざつと溫(あたゝ)まつて板の間へ上らうとしながら湯槽(ゆぶね)を見𢌞したら、現在人つてゐて會釋(ゑしやく)をした男と女との顏は何處(どこ)にも見えませんでした「いつの間に上つたらう」と板(いた)の間(ま)を見、脫衣場(だついば)を見ても影さへ見えません、可笑(をか)しな人があるものだ、それにしても餘程(よほど)素敏(すばし)こい人達だと思つて、私は板の間で汗(あせ)を流(なが)し始めました、石鹸(せつけん)を使ひながら不圖(ふと)考(かんが)へ付くと、今の二人の顏は鈴鹿峠で逢(あ)つた男女の顏(かほ)に似(に)てゐたやうです、ハツとして思はず聲を出して、私は碌々(ろくろく)身體(からだ)を流しもせず、湯(ゆ)を飛(と)び出(だ)して了(しま)ひました。

 

         

 

 私には譯が判りません、何(ど)う云ふ譯であの二人に付纏(つきまと)はれてゐるのか、あの二人は私を何しようと云ふのか、生(い)きた人間(にんげん)か死んでるのか、思へば思ふ程薄氣味(うすきみ)が惡(わる)いので、私は其儘(そのまゝ)蒲團(ふとん)へ潛(もぐ)り込んで、一夜をまんじりともしませんでした、屹度(きつと)人が靜(しづ)まつて了つた時分に何事か起るのだらうと思ふ心(こゝろ)が止(や)みませんので、寢返(ねがへ)りばかりを打つてゐましたが、意外(いぐわい)にも其夜は何事もなくもう二人の姿も見えず、厭(いや)な夜(よ)はほのほのと明けました、朝飯(あさめし)の時に、宿の女中へ又私は湯殿(ゆどの)の首の事を話して「一體何か譯(わけ)があるのか」と聞(き)きました、女中は初め中々云ひませんでしたが、私があんまり神經(しんけい)を惱(なや)ましてゐるのを見ると、仔細(しさい)を話してくれました、其仔細といふのは斯(か)うです。

 其頃(そのころ)から尙三年も前に、伊勢(いせ)の桑名の博突打(ばくちうち)が、親分の女房と人目を忍(しの)ぶ仲(なか)になつて、桑名を逃げ出し、街道筋(かいだうすぢ)を眞直ぐに此の水口まで逃(に)げて來た事がある、丁度(ちやうど)昨日(きのふ)の樣(やう)に雨の降る日の事[やぶちゃん注:行末で禁則処理の読点が打てない版組みである。]藍微塵(あいみぢん)の着物を着た男と、小辨慶(こべんけい)の單衣(ひとへ)を着た女とが番傘(ばんがさ)を相合傘にして、びつしより濡(ぬ)れて飛び込んだのが此(こ)の宿屋(やどや)であつた、秋近い頃の日(ひ)の暮(く)れ方(かた)であつたので、冷(ひ)え切(き)つた身體に二人とも胴慄(どうぶる)ひが止(や)まないと云ひながら、宿へ着くなり湯槽(ゆぶね)へ飛び込んで溫(あたゝ)まつたまではよかつたが、それが病氣の因(もと)で、男は其晚(そのばん)からの大熱(おほねつ)でどつと床に付いて了つた、女はそれを熱心(ねつしん)に介抱(かいはう)して一日も早(はや)く治(なほ)さねば、此處に此儘(このまゝ)でゐては追手(おつて)のかゝる心配があるといふので、餘程苦しんでゐたが、到頭(たうとう)看病(かんびやう)の甲斐(かひ)もなく僅(わづ)か一週間で男は息(いき)を引取つて了つた、女は落膽(がつかり)したが、さて何する事も出來ない、旅費(りよひ)と云つても漸(やうや)く五十圓あるかなしだつたらしいので、一週間(しうかん)の宿料(しゆくれう)と醫者の藥禮(やくれい)とに拂つて了(しま)へば、餘(あお)は男の屍骸(しがい)の始末をする金さへ乏(とぼ)しいらしいので、頭のものを女中に賣らせたりして、それを補(おぎな)ひに佛(ほとけ)の始末をしようかと云つてゐる處へ追手(おつて)が訪(たづ)ねて來た、もう絕體絕命(ぜつたいぜつめい)で、女は隨分張の强い樣子であつたにも拘(かゝは)らず、おろおろして了(しま)つて、其夜を追手と共に明し、翌日(よくじつ)は止(や)むを得(え)ず連れ戾されねばならぬと定まつた其(そ)の晚(ばん)、人の𨻶(すき)を見て、湯に入る樣子をして、湯殿へ臺所の庖丁(はうちやう)を持込み、美事に咽喉(のど)を突(つ)いて死んで了(しま)つたといふのです[やぶちゃん注:句読点なしはママ。]「其の幽靈はんどつしやろ[やぶちゃん注:底本では「とつしやら」。『ウェッジ文庫』に従って訂した。]、雨の日の一人旅で東から桑名(くわな)を進(すゝ)んで來やはるお客(きやく)はんと云(い)ふたら、屹度(きつと)此(こ)の二人の衆(しう)が踉(つ)いて見えはります、貴郞(あなた)はんが昨日(きのふ)お着きだした時にも、又かいなと思うて居(を)りました、何にもアタはしまへん、好(い)い人どすけど、薄氣味(うすきみ)の惡(わる)いものどすえなあ、雨の日に東から來やはる一人旅(ひとりたび)の男の人でなければ見えしまへんのやろ、私達(わたしたち)は見た事おまへん」と女中は云ひ添(そ)へました。

[やぶちゃん注:私の読んだ怪奇談の中でも、例を見ないオリジナリティに富んだ哀しい情話怪談である。]

杉田久女 朱欒の花のさく頃 (正規表現版・オリジナル注附)

[やぶちゃん注:杉田久女の本随想は初出誌は不詳。底本では、最後に『(大正九』(一九二〇)『年十月三十一日』の執筆或いは脱稿クレジットがある。標題の中の「朱欒」は文末にひらがなで出る通り、「じやぼん」(じゃぼん)と読んでおく。今は「ざぼん」が優勢だが、第二世界大戦前は「じやぼん」と呼んでいたとするネット記事が多くある。ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン連ミカン亜連ミカン属ザボン Citrus maxima

 底本は所持する一九八九年立風書房刊「杉田久女全集第二巻」を用いたが、幸いにも本文は歴史的仮名遣が採用されていることから、恣意的に私の判断で多くの漢字を正字化した。そうすることが、敗戦前までが、俳人としての活動期であった彼女の本来の表現原形に近づくと考えるからである(久女は昭和二〇(一九四五)年十月末に大宰府の県立筑紫保養院に入院し、翌昭和二十一年一月二十一日に同院で腎臓病で逝去している。満五十五歳であった)。

 一部の読みで若い読者が躓きそうな箇所に限って、《 》で歴史的仮名遣で読みを添えた。傍点「﹅」は太字に代えた。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。

 なお、篇中に挙げられてある句、

   塀外の膚橘かげを掃きうつり

「膚橘」は、上記底本の誤植か、或いは、原原稿の誤記、或いは、判読の誤りである。私の「杉田久女句集 133 塀そとの盧橘かげを掃き移り」を見られたい。そこでは、久女は「たちばな」とルビしている。なお、私は「青空文庫」の新字新仮名のそれを(底本の親本は私の底本と同じ)、一切、参考にしていないが、たまたま、Q&Aサイトのこちらで、これを「青空文庫」の誤植と批判しているのを見かけたので(個人的には、強い疑惑――私の電子化データが加工データとして杜撰に複数回流用されている可能性で、例えば、ここ)――から大嫌いな「青空文庫」ではあるのだが)、それは「青空文庫」の入力者の誤植ではないことを言い添えておく。以下の本文を参照されたい。

 最後にオリジナル注を附した。]

 

 

 朱欒の花のさく頃

 

 

 私が生れた鹿兒島の平(ヒラ)の馬場の屋敷といふのは、明治十年鹿兒島にわたつて十七年間も住つてゐた父母が、自ら設計して建てた家なので、九年母《くねんぼ》や朱欒、枇杷《びは》、柹《かき》など色々植ゑてあつたと母からよく聞かされてゐた。

 城山の見える其家で長兄をのぞく私達兄弟五人は皆生れたのであるが、無心の子供心には、あさ夕眺めた城山も、櫻島の噴煙も、西鄕どんも、朱欒の花のこぼれ敷く庭の記憶もなく只冠木門だけがうつすら頭にのこつてゐる。

 年若な官員樣であつた父は、母と幼い長子とを神戶に殘して一足先に鹿兒島へ赴任すると間もなくあの西南戰爭で命からがら燃えつゝある鹿兒島を脫出して、櫻島に逃げ民家の床下にかくれて芋粥をもらつたり、山中に避難してゐる中《なか》官軍の勝になつたので、縣の書類丈《だけ》を身にしよつてゐたのをもつて碇泊中の軍艦に辿りつき漸く命びろひしたと云ふ。

 母達も其翌春かにはるばる鹿兒島に上陸した時は、只まつ暗な燒野原で一軒の宿屋もなく漁師の家に一と晚とめて貰つたが言葉はわからず怖ろしかつた相《さう》である。だが十七年もすみついてすべてに豐富な桃源の樣なさつまで私の兄姊達は皆鹿兒島風にそだてあげられた。私は長姊の死後三年目に生れたので父母が大變喜んで、舊藩主久光公の久の一字にちなみ長壽する樣にと命名されたものだとか。三四歲迄しか住まない其家の事も只母からきくのみで四十年來一度も遊んだ事はないが、兄月蟾《げつせん》が十數年前、平の馬場の其家をたづねて見たところ今は敎會に成つてゐて家も門もそつくり其儘殘つてゐたのであまりの懷しさに兄は其庭には入《い》つて朱欒や柹の樹の下に佇んで幹をさすつたり仰いだり去りがたく覺えたといふ事を私に語つてきかせたことがあつた。

 一體私の父は松本人。母はあの時じくの香ぐの木の實を常世の國から携へ歸つた田道間守《たぢまもり》の、但馬の國出石(いづし)の產なので、こじつけの樣ではあるが、私が南國にうまれ、其後又琉球、臺灣と次第に南ヘ南へ渡つて絕えず朱欒や蜜柑の香氣に刺激されつゝ成長した事も面白くおもはれる。

 臺北の官舍では芭蕉や佛桑花《ぶつさうくわ》、蘭など澤山植ゑてあつたが、私のまつ先に思ひ出すのは父が一番大切にしていた[やぶちゃん注:ママ。]一株の佛手柑《ぶつしゆかん》である。指をもつらした樣な面白い形の佛手柑はもいで籠に盛られて父の紫檀の机の上や、彫刻した支那の大テーブルの上に靑磁の花甁などと共にかざられてゐた。

 佛手柑は香氣が高くて雅致のあるものだつた。

 臺灣では文旦《ぶんたん》といふ形の尖つたうちむらさきや普通の丸いざぼんや、ぽんかん、すいかん(ネーブル)等を籠に入れて每日の樣《やう》土人が賣りにきた。

 ぽんかんの出盛りの頃になると百も二百も買つて石油鑵に入れておいては食べ放題たべた。お芋だのお菓子の嫌ひだつた私は、非常に果物ずきで、蜜柑畠には入つて、枝のぽんかんをもいでは食べ食べした事や、唐黍《たうきび》をかじり、香りの高い鳳梨《ほうり》[やぶちゃん注:パイナップルの漢名。]をむいたり、びろど[やぶちゃん注:「びろうど・ビロード」に同じ。]の樣な朱欒の皮をむきすてて平らげたり、八九段もついてゐるバナナの房を軒に吊しておく樂しみなど、すべて香氣のつよいしたたる樣な熱帶地方の果物のうまさを思ひ出すと今でもよだれが出る樣で、實際よくもあんなにたべられたものと思ふくらゐ。お正月など、お雜煮も御飯もたべず私は顏の色がきいろくなるほど蜜柑ばかりよくたべたものである。又朱欒や佛手柑を思ひ出すと、私達の帶や布團や袴にまでザザクサによく使用された支那ドンスの緋や空色、樺桃色[やぶちゃん注:不詳だが、これ、「櫻(桜)桃色」の誤植か、判読の誤りのように思われる。]などの幅廣い反物が色どりよくつみ上げられてゐた土人の吳服店の事や、まつりくわの花をほしまぜたウーロン茶のむしろや、小さい刺繡靴などを斷片的に思ひ起すのである。

 其頃母からおちごといふ牛若丸のやうな髷《まげ》にいつも結つてもらつて友禪の被布《ひふ》をきておとぎ文庫の因幡の白兎や、松山鏡を讀みふけり乍ら盆の蜜柑をしきりに飽食する少女だつた私は、南國といふものによほど緣があると見え、嫁して二十五年餘り、小倉の町にすみ馴れて年每に柑橘の花をめでるのである。

 靜かな屋敷町の塀の上から、或は富野《とみの》邊《あたり》の大きなわら屋根の門口から、まつ白い膚橘の花が匂つてきたり、まつ白に散りしいたりしてゐるのは中々感じのいいものである。朱欒の花は夏橙《なつだいだい》や柚の花よりずつと大きくて花數もすくないが、膚橘の方はもみつけた樣に花を咲きこぼす。もとゐた堺町の家の簷《ひさし》にも一本夏みかんの木があつて年々花をつけては塀外《へいそと》へこぼれるのを每朝起きて掃くのがたのしみで二、三句出來た事がある。

  塀外の膚橘かげを掃きうつり

 私の見た中で朱欒の巨樹は福岡の公會堂の庭にあるのがまず日本一と勝手にいつてもいいだらう。八方から支へ木《ぎ》で支へた老樹の枝は何百といふ朱欒をるゐるゐと地に低くたれてゐた。

 先年大阪でひらかれた關西俳句大會の翌日、飛鳥川をわたり、橘寺(たちばなでら)へ行つた時鐘樓の簷にかげてあつた美しい橘の實の幾聯《いくれん》も、橘のかげをふみつゝ往來し、或は時じくの香ぐの實の枝をかざして歌つた萬葉人と共になつかしいものの一つであつた。今南國の小倉邊では深綠の葉かげにまつ靑な橙がかつちり實のり垂れ、町の人々はふぐちぬが手に入る度《た》びに、庭のだいだいをちぎつて來ては湯豆腐々々《どうふ》としきりにこのき酢《す》[やぶちゃん注:「生酢」。]の味をよろこぶ時候となつてきた。

 つい四、五日前も門司の棧橋通りの果物店の前に佇んで富有柹や林檎やバナナに交つて靑みかんや臺灣じやぼんが並べられてゐるのを見ると、私の生れたあの鹿兒島の家の朱欒ももうゆたかに實り垂れてゐるのであらうと思ひ出されるのであつた。

[やぶちゃん注:「鹿兒島の平(ヒラ)の馬場」現在の鹿児島県鹿児島市平之町の、この鹿児島教会(グーグル・マップ・データ)のある場所であろう。

「明治十年」一八七七年。

「父母」久女の父赤堀廉蔵は長野県松本市宮淵(みやぶち:現行では「宮渕」。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ出身で、久女(本名は久(ひさ))が生まれた(明治二三(一八九〇)年五月三十日)時は、鹿児島県庁勤務の官吏で、母きよは、旧姓岡村で、兵庫県出石町(いづしちょう)出身。

「九年母」双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン連ミカン属コウキツ(香橘)Citrus nobilis var. kunep のこと。クネンボの方が知られる。他に「クニブ」、沖繩方言では「九年母木(くんぶぬき/くぬぶんぎ/ふにゃらぎ)」と呼び、沖縄在来の柑橘「カーブチー」や「オート―」、及び、本土の「温州蜜柑」の祖先とされる蜜柑品種の一つ。名の由来については種を植えてから実がなるのに九年かかる、「クニブ」という音の「ニブ」が、ヒンディー語の「酸味の強い小さいレモン」の意で、それが、語源ともされる。本来はインドシナ半島原産で南中国を経て、琉球に渡り、羽地(はねじ:現在の名護市)で栽培が盛んに行われたことから「羽地蜜柑」とも呼ばれた。果皮は厚く、表面に凹凸が見られ、味は濃厚で酸味が強く、テレピン油に似た独特の香りを特徴とする。十六世紀、室町期には琉球から日本本土にも伝えられて栽培もされ、果実サイズが大きなために、もて囃された。水戸黄門は、これを「マーマレード」にして食したという記録も残っている。中でも美味しさを誇る琉球産は重宝されたという。江戸期までは、日本本土に於ける柑橘の主要品種であったものの、その後、「紀州蜜柑」が広まり、また、近代に至って大正八(一九一九)年からのミカンコミバエ(双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目ミバエ上科ミバエ科 Bactrocera 属ミカンコミバエ Bactrocera dorsalis)の侵入阻止のため、移出禁止措置がとられてからは、生産量が激減し、今では沖縄本島にも数本しか残っていない貴重な木となってしまった(以上は主に、非常によく纏められてある puremcolumn 氏のブログ「The Herb of Ryukyu」の「クネンボ 01 柑橘の母」の記載、及び、同記載のリンク先などを参考にさせて戴いた)。

「朱欒」ムクロジ目ミカン科ミカン属ザボン Citrus maxima。漢字では「朱欒」「香欒」「謝文」などと表記するが、私は「ブンタン」(文旦)或いは「ボンタン」(同じく漢字表記は「文旦」)という呼称の方が親しい。私の亡き母の郷里は鹿児島で、小さな頃から郷里の祖母が送って呉れた「ボンタン飴」がいつもオヤツだったし、あの巨大な生の実も食べたことがあるからである。梶井基次郎の「檸檬」(私のサイト版)ではないが、剝き始めは、まさに劉基(一三一一年~一三七五年:元末明初の軍人政治家で詩人)の「賣柑者之言」(賣柑者(ばいかんしや)の言(げん))の「鼻を撲(う)つ」それであった(関東の人はブンタンを生食したことのある人はあまり多くないと思う)。

「城山」平の馬場の後背地。城山公園展望台(グーグル・マップ・データ)をリンクさせておく。因みに、城山には私の母方の美しい伯母が住んでおり、懐かしい場所である。

「私達兄弟五人」久女は三女。後で語られるように、姉の一人は彼女の生まれる三年前に夭折している。

「西鄕どん」平の馬場の東北の直近、城山直下に知られた西郷隆盛銅像が立つ。

「兄月蟾」次兄の赤堀月蟾(げっせん:本名は忠雄)。久女は二六歳の大正五(一九一六)年の秋に、彼から俳句の手ほどきを受け(結婚後六年で次女が八月に生まれている)。翌大正六年『ホトトギス』一月号お「台所雑詠」に五句が掲載された(「杉田久女句集 1 春の日の小景」の私の冒頭注に掲げたものがそれ)。同年五月、早くも高浜虚子に会っている。

「あの時じくの香ぐの木の實を常世の國から携へ歸つた田道間守」記紀等に伝わる古代日本の人物。垂仁(すいにん)天皇の代に、常世(とこよ)の国にあるとされた「非時香菓(ときじくのかくのみ:別に「登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)」とも記す)を求めて派遣された説話上の人物。「多遅摩毛理」とも書く。「古事記」・「日本書紀」は「非時香菓」を「橘(たちばな)」とみなし、田道間守が十年後に「香菓」と八竿(やほこ:矛)・八縵(やかげ)(葉をとった枝、葉のついた枝、各八枝の意)を持って帰国したが、すでに垂仁天皇は崩御しており、天皇の陵墓のそばで、嘆き悲しんで死んだと物語る。渡来系の三宅連(みやけのむらじ)らの祖先と伝える。「古事記」の応神天皇の条には、「天之日矛(あめのひぼこ)」の子孫の系譜を記し、そこに「多遅摩毛理」の名が見える。「日本書紀」が田道間守の常世訪問の説話中で、「常世の国」を「神仙の秘区」と書くように、その常世伝承には中国の神仙思想の影響があることが判る。この「常世行き説話」を垂仁天皇の代の出来事とするのは、垂仁天皇を長寿とした有様(ありよう)(「古事記」では百五十三歳、「日本書紀」では百四十歳)と関連があるとみなす説がある(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「其後又琉球、臺灣と次第に南ヘ南へ渡つて」私の「杉田久女 南の島の思ひ出 (正字正仮名版)」を参照されたい。以下の語りの内容が、より細かに語られてある。

「佛桑花」ハイビスカス(hibiscus)。アオイ目アオイ科フヨウ属 Hibiscus の種群の総称。こと。また、そこに含まれる植物の総称。

「佛手柑」ムクロジ目ミカン科ミカン属シトロン変種ブッシュカン Citrus medica var. sarcodactylis。インド東北部原産で、果実は芳香があり濃黄色に熟すが、長楕円体を成す上に先(下方)が細い指のように分岐する。名はその形を合掌する両手に見立てて「仏の手」と美称したものである。本邦の南日本で主として観賞用に栽植される。食用にもするが、身が少ないので、生食には向かず、砂糖漬けなどにする。私も小さな頃、母の実家の鹿児島で食べた記憶がある。私の「杉田久女 梟啼く (正字正仮名版)」の注を引用した。

 佛手柑は香氣が高くて雅致のあるものだつた。

「文旦」ザボンに同じ。

「ぽんかん」ミカン属マンダリンオレンジ 変種ポンカン Citrus reticulata var poonensis

「すいかん(ネーブル)」ミカン属オレンジ変種ネーブルオレンジ Citrus sinensis

「唐黍」トウモロコシ。

「ザザクサ」不詳。識者の御教授を乞うものである。

「被布」着物の上にはおる上衣。襠(まち)があり、たて衿(えり)・小衿がつき。錦の組み紐で留める。江戸時代、茶人や俳人などが着用して流行し、後、一般の女性も用いた。おもに縮緬・綸子(りんず)などで作る。女児用の袖なし被布もあり、ここは、それ。

「おとぎ文庫」『日本おとぎ文庫』初期刊行を調べ得ないが、博文館発行の子ども向けの絵入り昔話叢書。

「松山鏡」落語。原話は仏典の「百喩経」(ひゃくゆきょう)で、明末の笑話集「笑府」に入り、日本で民話になった。能「松山鏡」や狂言「鏡男」もそれを受けて成立したもので、類話も各地に残るが、その落語化である。越後松山村の正助は、親孝行で領主に褒められ、望みの品を問われたので、亡父に会いたいと答えた。そのころ、村に鏡がなかったので、領主は鏡を与えた。正助は鏡に写る自分を父と思って、ひそかに、日夜、拝んでいた。女房が不審がり、夫の留守に鏡を見ると、女の顔が写るので、けんかになった。比丘尼が仲裁に入り、鏡をのぞき「二人とも心配しなさるな。中の女は、きまりが悪いといって坊主になった」でオチとなる八代目桂文楽が得意とした(小学館「日本大百科全書」に拠った。

「小倉の町にすみ馴れて」久女が杉田宇内(うない)へ嫁したのは、明治四〇(一九〇七)年八月(満十九)で、宇内は東京上野美術学校西洋画科出身で、福岡県小倉中学校の美術教師として赴任、住まいは小倉市鳥町(とりまち)の神崎方であった。現在の福岡県北九州市小倉北区魚町

「富野邊」同小倉北区富野。但し、そこを航空写真にすると、完全な山間地であるので、その下の平地の住宅地である小倉北区常盤町、及び、その海側の上富野附近の広域を指しているように思われる。「ひなたGIS」の戦前の地図を見ると、まさに現在の「上富野」の位置に、「富野」とあるからである。

「福岡の公會堂」旧福岡県公会堂貴賓館であろう。ストリートビューで見ても、画像が鮮明でないので、よく判らないが、周辺は整備された「天神中央公園」となっており、恐らく、「日本一」の「朱欒の巨樹」は、樹種から考えても、公園にはちょっとと思われ、もうないように思われる。「旧福岡県公会堂貴賓館 朱欒」の検索でもかかってこない。

「先年大阪でひらかれた關西俳句大會の翌日、飛鳥川をわたり、橘寺(たちばなでら)へ行つた時」この旅は年譜には書かれていないので、不詳。

ふぐ」条鰭綱フグ目フグ科 Tetraodontidae のフグ類。古くからの食用種としてはトラフグ属トラフグ属トラフグ Takifugu rubripes・トラフグ属マフグ Takifugu porphyreus が知られる。孰れも猛毒で解毒剤のないテトロドトキシン tetrodotoxin(TTX:C11H17N3O8:真正細菌ドメイン Bacteriaプロテオバクテリア門Proteobacteriaガンマプロテオバクテリア綱Gammaproteobacteriaビブリオ目 Vibrionalesビブリオ科ビブリオ属 Vibrioやガンマプロテオバクテリア綱シュードモナス目Pseudomonadalesシュードモナス科シュードモナス属 Pseudomonas などの一部の真正細菌由来のアルカロイド)を持つ(卵巣・肝臓は猛毒で皮膚と腸も強毒性を持つ)。

ちぬ」ここは、スズキ目タイ科ヘダイ亜科クロダイ属クロダイ Acanthopagrus schlegelii の異名としてよい。

「だいだい」ミカン属ダイダイ Citrus aurantium 。]

2024/02/02

甲子夜話卷之八 23 越前の雪中、鹿を捕る事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。標題の「え」はママ。]

 

8-23 越前の雪中、鹿を捕る事

 予が堅士に越前生れのものあり。その言(いひ)しは、

「越前は、山國ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、寒(さむさ)、甚々(はなはだし)。雪も、屢(しばしば)、ふれり。又、鹿、多く產す。因(よつ)て、農夫、雪の降積(ふりつみ)たるときを見て、數(す)百人、寄集(よりあつま)り、鹿を、山々より逐出(おひだ)して谿間(けいかん)の處に、驅(かけ)ゆかしむ。又、豫(あらかじ)め、㵎流(たにながれ)の中(なか)に、竹もて、格子(かうし)を造り、雪に埋(うづ)め置く。鹿、㵎を渡(わたら)んとして、竹上(たけうへ)に、のれば、四足を格子に陷入(おちい)れて、步動(ほどう)すること、能(あた)はず。その時、馳寄(かけより)て、竹槍を以て、突(つき)て、これを獲(とる)。一時(いつとき)、三十餘頭、或(あるい)は、一日、百四、五十に及ぶ。」

となり。

「故に、寒(さむさ)强き翌年は、必ず、豐作なり。これ、雪の瑞(ずゐ)によるのみならず。常年(つねのとし)、鹿、多(おほく)して、穀(こく)を害す。鹿を取ること、多きときは、其(その)患(わずらひ)、少きを以て、故に豐年なり。」

と。

 其國の者は目前(もくぜん)のことなれど、山川を隔(へだて)ては、吾邦のことにても、知らざる事、多き也。

甲子夜話卷之八 22 京都御所えは申樂入ことを禁ず。又、「平家」をかたるも、撿校、申樂へは、不ㇾ傳事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。標題の「え」はママ。]

 

2-22 京都御所えは申樂(さるがく)入(いる)ことを禁ず。又、「平家」をかたるも、撿校(けんげう)、申樂へは、不ㇾ傳(つたへざる)事

 禁廷の御能には、能役者、其場に入ることを禁ず。

 因(よつ)て素人(しろうと)のみなれば、能役者のする能を、關東にて見物する如くならず。

 院御所には、その禁、なし。

 先年、觀世大夫、上京のときも、召(めし)て叡覽あり、と。

 此等の談話、今春、高倉宰相の旅館に赴(おもむき)たるとき、聞(きき)し所なり。

 時に、傍(かたはら)に、勝與八郞、居(をり)て云(いふ)。

「平家をかたるも、能役者には、撿校等(ら)、傳へず。」

と。

 是も始(はじめ)て聞(きき)たり。河原者(かはらもの)を賤(いや)しめる古風の遺(い)なり。

■やぶちゃんの呟き

「高倉宰相」「甲子夜話卷之八 18 高倉宰相家傳唐櫃のこと幷圖」で注済み。

「勝與八郞」御勘定組頭であったようだ。

「河原者」江戸時代における諸舞台の役者を始め、芝居関係者・大道芸人・旅芸人などの蔑称。「河原乞食」(かわらこじき)とも称した。本来は、中世に、河原に居住した人々の称で、十二世紀頃から、天災・戦乱・貧困などによる流亡民のうち、非課税地の河原に逃れた者を卑称したのが始まりである。零細な農耕・行商・屠畜、皮革の加工・染色、清掃・死体埋葬などのほか、散楽(さんがく)の伝統を引く雑芸能を行なう者が多かったのが特色である。近世に入ると、彼らの一部は、独立した職業として確立したが、大半は、厳格な身分制度の下で、四民の下の「制外者」(にんがいもの)扱いにされ、差別を受けた。しかし、寺社の権力を背景にして、いろいろな特権を得て、特に、諸種の芸能の勧進興行は河原で催されることが多かったため、河原者が、その支配権を握り、説経・浄瑠璃・操(あやつ)り・からくり等に、地方の新芸能も加わって、近世の庶民芸能は、殆んどが、河原を発信・発展した経緯がある。京都・四条河原で行われた「出雲の阿国」の歌舞伎踊りは、最も有名で、こうした発生の由来から、劇場が河原を離れた後も、「河原者」という語が、芝居関係者への差別語として用いられ、一般社会から卑しめられる風習が明治になるまで続いた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

甲子夜話卷之八 21 塙撿校の詠歌

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。本篇は前の「甲子夜話卷之八 20 萩原宗固幷門人塙撿校、橫田袋翁の事」の塙保己一のことを受けて、書かれたもの。「又、云」とあるからには、話者は同じ林述斎。]

 

2-21 塙撿校の詠歌

 又、云(いふ)。

「塙和、學に長じたる始末は、世の人、知る所なり。その緖餘にて、たまたま、よめる歌も、頗る采(と)るべきもの、多し。

   曉梅

 月はとく人し軒端も開(ひらく)梅の

      花の光に明(あけ)がたのそら

   きさらぎ

 かりがねのゆくゑやいづこつばくらめ

      軒のふる巢にきさらぎの空

   霞中春雨

 そことなく霞む夕(ゆふべ)もくつの音に

      やがて雨しる庭の眞砂地(まさごぢ)

[やぶちゃん注:「雨しる」「雨(あめ)著(し)る」で、「しっかりと降り始めた」の意か。]

   夏天象

 わか葉もる月こそあらめ大空の

      ほしの林も影ぞ涼しき

   原照射

 ともしけつ木の下露(したつゆ)や棹鹿(さをしか)の

      いのちとたのむ宮木のゝ原

[やぶちゃん注:前書きは「はら、てりいる」か。「棹鹿」これは当て字で、「さをしか」は「小牡鹿」で、「さ」は美称の接頭語で「雄の鹿・牡鹿(おじか)」。思うに、これは、「源氏物語」の「匂宮」の帖の「秋は、よの人のめづる女郎花、さをしかのつまにすめる萩の露にも、をさをさ、御心、うつし給はず。」辺りをインスパイアしたものか。]

   水鷄(くひな)

 岩間もる音も聞へて山かげの

      柴の戶たゝく水の庭とり

[やぶちゃん注:「水鷄」鳥綱ツル目クイナ科クイナ属クイナ亜種クイナ Rallus aquaticus indicus 。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 水雞 (クイナ・ヒクイナ)」を参照されたい。]

   泉

 すゞしさを秋ともいはゞいはし水

      いづこに夏は木がくれのやど

   秋水

 朝貌(あさがほ)のませがき近くせき入て

      いさごもるりのそこの池水

   蟲

 夜をのこす霧の籬(まがき)になくむしは

      明(あけ)てもしばし聲のひまなき

   秋鳥

 もみぢ葉はのこらぬ枝にてりうその

      猶つれなくも秋をしむ聲

[やぶちゃん注:「てりうそ」「照鷽」で、スズメ目アトリ科ウソ属ウソ亜種ウソ Pyrrhula pyrrhula griseiventris の雄を指す語。ウソの雄は頬・喉が淡桃色を呈するが、雌には、この特徴は発現しない。私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鸒(うそどり) (鷽・ウソ)」を参照されたい。]

   庭初雪

 つもれるも待(まち)し日數にくらべては

      まだ淺ぢふの庭のしら雪

   鴛鴦敷翅(おしどりしきばね)

 くるゝ日やおしとなくらん波にしく

      つばさの錦廣澤(ひろさは)の池

   冬獸(ふゆけもの)

 あさるべき木の實もそこと白雪に

      うきをましらの冬ごもりして

[やぶちゃん注:「ましら」猿。]

   月前獸(つきまへけもの)

 窓とぢてみぬ月かげや晴(はれ)ぬらん

      門(かど)もる犬の聲ぞさやけき

   寄夢懷舊【故水戸宰相殿三年忌。】

 うつゝとはたれか三とせの花の陰

      月のまとゐも夢のまにして

[やぶちゃん注:「故水戸宰相殿三年忌」。常陸水戸藩第七代藩主徳川治紀(安永二(一七七三)年~文化一三(一八一六)年)。この歌は珍しく詠歌の時期が文政元(一八一八)年八月に特定されていることになる。

「月のまとゐ」「月の圓居(まとゐ)」。月見のために治紀が人を呼び集めて団欒したことを指す。]

これら、

「たまたま、臆記(おくき)したり。」

とて、林氏、談中に、吟じけり。撿校が詠は、

「風調、卑(ひ)くし。」

との世評なり。

 當人の意は、

「風調の高き所は、搢紳家(しんしんけ)にあるべし。我輩は、たゞ、陳腐ならず、尖新(せんしん)なるほどにて、事足(ことた)るべし。」

と常に云(いひ)けり。

 予も、年來(ねんらい)の相識(さうしき)なり。

■やぶちゃんの呟き

「搢紳家」笏 (しゃく) を「紳」 (おおおび) に「搢」 (はさ) むの意から、「官位が高く、身分のある家系を指す。

甲子夜話卷之八 20 萩原宗固幷門人塙撿校、橫田袋翁の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]

 

8-20 萩原宗固(はぎはらそうこ)幷(ならびに)門人塙撿校(はなわけんげう)、橫田袋翁の事

 蕉軒(せうけん)、云(いふ)。

「萩原宗固は『百花庵』と號して、一時(いつとき)、和歌には名高き人なりけり。

 門人の内、橫田孫兵衞【與力士なり。退休して「袋翁(たいをう)」と稱す。】には、

『和學は、よきほどにせよ。たゞひたすら、歌、よむべし。』

と敎へ、保己一(ほきいち)【盲人なり。後に「塙撿校」と呼ぶ。】には、

『歌に心入るべからず。專ら、和學に出精(しゆつせい)せよ。』

とこそ、誡(いまし)めける。

 是を聞(きく)もの、咄(はなし)けるは、

『目の明(あき)たるものに、和學は、させず。歌を、よませ、目しひたる者に、歌を考(かんがへ)させず。和學さするほど、事の倒(さかしま)なることは、よもあらじ。いかなる師の訓(をしへ)にや。』

と、人々、評しけり。

 然(しか)るに、兩弟子、年老(としよ)るに至(いたり)て、塙は和學、袋翁は和歌を以て、一世を動かしたり。ここに於て、宗固が、人を知る鑑(かがみ)の、凡(ぼん)ならざるを感ぜぬものぞ、無(なか)りける。

■やぶちゃんの呟き

「荻原宗固」(はぎわらそうこ 元禄一六(一七〇三)年~天明四(一七八四)年)は幕府の先手組に所属した幕臣で歌人。名は貞辰。号は百花庵。烏丸光栄(からすまるみつひで)・武者小路実岳(さねおか)・冷泉為村(れいぜいためむら)らに師事して、和歌・歌学を学ぶ。江戸の武家歌人として、名声高く。また、同じく幕臣で狂歌師であった内山賀邸(がてい)とともに、「明和十五番狂歌合」の判者をも勤めて、「天明狂歌」の原点に位置したことでも知られる。家集「志野乃葉草」、歌学随筆「一葉抄」・「もずのくさぐき」等が伝わる。「塙氏雑著」も宗固自筆の雑抄。為村との問答である「冷泉宗匠家伺書」には宗固の苦悩も、ほの見えて、興味深い(朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「塙撿校」塙保己一(延享三(一七四六)年~文政四(一八二一)年)は国学者。幼名は寅之助、号は水母子。家号は温古堂。武蔵国保木野村(現在の埼玉県児玉町)の農家に生まれ、七歳の時に失明した。十五歳で江戸に出、雨富(あめとみ)検校須賀一(すがいち)の門に入る。後、萩原宗固・賀茂真淵らに国学を学んだ。天明三(一七八三)年、検校となり、「大日本史」などを校正し、また、幕府保護の下に「和学講談所」を起こし、国学の振興に努めた。また、文政二(一八一九)年には、かのた国学・国史を主とする一大叢書『群書類従』の刊行を完成、さらに『続群書類従』の編纂に着手した。著に「武家名目抄」・「螢蠅(けいよう)抄」・「鶏林拾葉」・「花咲松」等がある(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「蕉軒」お馴染みの静山の親友、林家第八代林述斎(明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。「蕉軒」は「述斎」とともに彼の号の一つ。

「橫田孫兵衞」「袋翁」(寛延二(一七四九)年~天保六(一八三五)年)は詳細事績は以上以外には知らないが、音曲の歌詞を多く手掛けている。

「和學」一般に国学と同義で用いられるが、本来はもっと広く、本邦の文学・歴史・法制・有職故実などについての学問を指す。

譚海 卷之六 藝州巖島祭禮幷神靈の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。正確な標題表現は「藝州巖島」(いつくしま)「祭禮神靈」(しんれい)「の事」で、「幷」は「ならびに」と読む。]

 

○藝州巖島明神の祭禮、每年六月十七日、十八日なり。近國の人まで、參詣、群集する事、限(かぎり)なし。

 祭る神輿(しんよ)を、船にうつし奉り、往來(わうらい)有(あり)。船を停(とむ)る所にて、音樂、有(あり)。甚(はなはだ)、神妙なる事なり。

 當日、拜見の船、神輿往來の道を明(あけ)て、其餘は、海上、悉(ことごと)く、船、集(あつまり)て、陸地の如し。

 又、巖島の別島に「黑髮」といふ所、有(あり)。其かみ、明神、ましませし所にて、今に、社頭鳥居、のこりて有(あり)。

「此島に、犬、なし。犬の吠(ほゆ)る聲を、にくませ給ふゆゑ。」

と、いへり。

 巖島には、雉子(きじ)、なし。是も、

「にくませ給ふゆゑ。」

といふ。

 いつくしまにては、甚(はなはだ)、火を忌(いむ)。

 死人あれば、そのまゝ、死骸を船にのせて、他所(よそ)へ、うつし、しばらくも、おく事、なし。

 又、「月の女」[やぶちゃん注:生理期間中の女性。]、別に往(ぢゆう)する所、島のかたすみに、一村、有(あり)、月水になる時は、高貴人妻(かうきひとづま)なりとも、婢(ひ)をつれ、此村に、うつりて居(を)る事也。

 いつくしまは、神靈の地にて、奇異、おほし。

 笹・竹の類(るい)、ある事、なし。

「若(もし)、人、笹の類を眼に見る時は、かならず、怪異あり。」

とて、甚、是を恐(おそる)る事也。

 いつくしまの彌山(みせん)參詣は、晝八つ時まで也。

「そののちは、天狗のために、人、とらるゝ。」

とて、まゐる事、なし。

[やぶちゃん注:「巖島祭神社」公式サイトのこちらを見られたい。現在は月次祭は各月十七日に固定で、『三月十七日は祈年祭』、『六月十七日は例祭』、『十月十七日は神嘗奉祝祭』とある。詳しくは、各月をクリックされたい。また、当該ウィキの、「穢れの忌避」の項には、『島全体が神域(神体)とされたため、血や死といった穢れの忌避は顕著であった』。戦国時代から安土桃山時代にかけての厳島神社神官であった棚守房顕(たなもりふさあき)の記した「棚守房顯覺書」に『よれば、島に死人が出ると』、『即座に対岸の赤崎の地に渡して葬っている。赤崎は現在のJR宮島口駅のやや西にあり、遺族は喪が明けるまで』、『島に戻ることができなかった。「~の向こう」と言うと』、『「あの世」を連想するため、「~の前」と言い換えていた。この風習は第二次世界大戦頃までは続いていた。また、島には墓地も墓も築いてはならず、現在でも』一『箇所も』一『基も存在しない。島の妊婦については』、「棚守房顯覺書」に『「婦人、児を産まば、即時に子母とも舟に乗せて地の方に渡す。血忌、百日終わりて後、島に帰る。血の忌まれ甚だしき故なり」とあるように、出産が近づくと対岸に渡り、そこで出産を終えたのち』、百『日を過ごすことで』、『血の穢れが払われれば、ようやく』、『島へ戻れるという仕来りがあった。 厳島神社の境外摂社を「地御前神社」(所在地:廿日市市地御前、江戸時代における安芸国佐伯郡地御前村)というように、ここでいう「地の方」とは対岸の本州を指す。また、生理中の女性も、やはり血の穢れを忌避されて、町衆が設けた小屋に隔離されて過ごした。この様子を』、「棚守房顯覺書」は、

『「あせ山」とて東町・西町の上の山にあり。各々。茅屋數戶を設けたり。「あせ山」は「血山」なるべし。島内婦人月經の時、その間、己が家を出て、此處に避け居たりし。』

『と記している』とあった。ここに出る「別島」「黑髮」は不審。厳島の西南五十三キロメートルの位置に、山口県周南市大津島の「黒髪島」があるが(ここには、ごく小さい祠の厳嶋神社(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)がある)、余りにも離れ過ぎているし、ここが同神社の元の地であるとする記載も見出せなかった。

「犬、なし」当該ウィキの、「鹿・猿との共生」の項には、『厳島に棲息するニホンジカは太古から棲息していたと見られるが、歴史時代に入ると奈良の春日大社にある神鹿(しんろく)思想の影響も受けつつ、神使として大切に扱われるようになった。それ以来、厳島では、鹿が家に入らないように「鹿戸」を立て、家々で出た残飯は「鹿桶」に入れて与えるようになった』。「棚守房顕覚書」に『よると、鹿を害するのを避けるため、島内では犬を飼わず、外から犬が入り込むと』、『島民が捕まえて対岸に放したという』。『厳島に棲息するニホンザルは古くから、彼らが家に入り込んで食べ物を盗っていっても捕まえて罰することはなかったという』とあった。

「雉子、なし」確認出来ない。

「彌山」宮島(厳島)の中央部にある標高五百三十五メートルの弥山(みせん)。古くから信仰の対象になっている。

「晝八つ時」不定時法で、夏至の頃で午後二時半過ぎ、春分・秋分点で同二時十五分頃、冬至で同二時。

「天狗」神霊の地なのに、天狗がいるのは、笑止だ。優れて清浄な神聖の地なればこそ、対する魔界への通底器でもあるということか。]

譚海 卷之六 同所非人の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。「同所」は前条を指し、「大坂」である。なお、以下の地名は総てどこであるか判っているが、同和の観点から、地図等の注は示さない。「富田林市」の「文化財デジタルアーカイブ」の「富田林市史」第二巻の「本文編Ⅱ」の「近世編」「第二章 富田林地方の近世村落」の「第二節 近世身分制と近世部落」の「近世部落の成立」以下を見られ、批判的視点を以って読まれたい。]

 

○大坂に非人の頭(かしら)、四人、有(あり)。

 東・西・南・北の四隅なる、千日(せんにち)・よしはら・小長谷(をばせ)・富田(とんだ)と云(いふ)所に住(ぢゆう)す。

 士人は「四箇(しこ)」と呼(よぶ)事なり。又、白き股引(ももひき)に、白き「ぼたん」付(つけ)たるは、「ゑた」のみ、はく。只の人は、はく事、なし。

 下の帶(おび)も染(そめ)たるを、しめるは、非人・「ゑた」のみなり。

 又、刑罪人(けいざいにん)、町中(まちぢゆう)引(ひき)まはさるゝ時、科(とが)の次第、紙のぼりに、しるしある事なれども、其罪科の次第を、一町(ちやう)ごとに、馬を、とゞめて、よむもの有(あり)。此役は、無地の染物(そめもの)する紺屋の役也。馬に付(つき)そひて、ありく事也。

 又、しろき股引に、くろき「ぼたん」付(つけ)たるをば、町の髮ゆひを業(なりはひ)とする者のみ、はく也。髮ゆひも、役、ありて、入牢の罪人の月代(さかやき)剃る事を、つとむる也。

[やぶちゃん注:まず、「一般社団法人ひょうご部落解放・人権研究所」の「部落問題用語解説」の「穢多」・「非人」の解説を見られたい。その上で、「非人」は当該ウィキを見られたいが、その「関西」の項には、『畿内においては、中世以来』、『有力寺社との結びつきが強く、多くが』、『各寺社の管理下に置かれた。しかし』、『制度として整備された関東の弾左衛門による組織的な集中支配下に置かれた関係とは異なる。そのためか』、『京都や大坂の町奉行で解決できなかった例が多く残る。時代・地域によっても多様であり、未だ解明されていない部分が多い』とある。「ゑた」(穢多)も、当該ウィキを見られたい。因みに、私は高校教員時代、特に同和教育推進校に指定された学校に於いて、一年間、委員会の委員長を務めたことがあり、「全国人権・同和教育研究大会」にも出席した。会場となった複数の中学校で生徒たちが、自主的に「遠い所から、ありがとう御座います!」と声を掛けられたのを思い出す。]

「蘆江怪談集」 「火焰つつじ」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本の本文開始位置はここ。]

 

 

    火 焰 つ つ じ

 

 

         

 

 あとの汽車(きしや)にしたらと云はれたのを聞かずに重助(ぢうすけ)は重い荷物を持つて上州筋(じやうしうすぢ)の汽車に乘つた。其夜の中に先方へ着(つ)いて置く事が、翌日(よくじつ)の仕事の手順(てじゆん)の上から都合(つがふ)がよかつたので、强情を張つたのだが、目的(もくてき)の停車場へ着いた時には一寸(ちよつと)後悔(こうくわい)した。雨だ。而(しか)もどしや降り。

 其れも車(くるま)があれば、それを呼んで宿まで駈(か)けさせるのは譯(わけ)はないのだが、其の車がないと來てゐる。加之(おまけ)に荷の重い吳服物(ごふくもの)の見本を持つてゐるのである。

 重肋は停車場の出口(でぐち)で呆然(ばうぜん)と暫らく立つてゐた。

「まあ酷(ひど)い降(ふ)り」といふ聲が、自分のすぐうしろで、思ひがけなく聞えたので、振(ふ)りかへつて見ると、二十四五の水々した女が一人、これも今(いま)の汽車(きしや)を下りたものらしい。

 女の言葉は强(あなが)ち重助に云つたのではなかつたが、かうなれば乘(の)り合(あ)ふ舟(ふね)のよしみ、お互ひに懷(なつか)し相手の欲(ほ)しい時である。

「酷い降ですね」と重助(ぢうすけ)は水を向(む)けた。

「貴郞(あなた)、雨具(あまぐ)がお有(あり)なさらないんですか」と女はいふ。

「ありませんとも、なあに空身(からみ)ならばね、尻端折(しりぱしを)りで駈(か)け出しても好(い)いんですが、どうもこんな物を持(も)つてゐますので」

「まア、御難儀(ごなんぎ)ですわね、どうしたら好いんでせう」

「さあ殆(ほと)んど途方(とはう)に暮れましたね」

 此樣事(こんなこと)を云つてる間に、停車場はもうあとに來る汽車(きしや)もないので、二人を閉(し)め出(だ)しにして、邪慳(じやけん)に扉をどんと閉めて了つた。

「待(ま)つても車は來ないでせうか」

「迚(とて)も來ませんね」

「失禮ですが、今(いま)何時(なんじ)でせう」

「一時一寸[やぶちゃん注:「ちよつと」。]まはりました。いつもは此處に一臺(だい)や二臺の車は屹度(きつと)居(ゐ)るんですがね」

「どうしたら、好(い)いんでせう」

「さあ」と考(かんが)へても、どうしようといふ智惠(ちゑ)は一寸出なかつた。

 暫(しば)らく二人とも無言で、降りしきる雨を睨(にら)んで立ちつくした。やがて女が、

「貴郞(あなた)はどちらまで被入(いらつしや)るんですか」と聞く。

「本町(ほんまち)まで行きます、本町の越後屋(えちごや)といふのが定宿(ぢやうやど)ですがね、貴女は」

「私も本町の越後屋といふ宿を聞いて參(まゐ)つたのです、遠(とほ)いんでせうか」

「さうですね、六七丁(ちやう)はありませうよ、始(はじ)めてですか」[やぶちゃん注:「六七丁」六百五十五~七百六十四メートル。]

「はい、一寸(ちよつと)止(や)みさうもありませんわね」

「中々、兎に角お困(こま)りですね、何かよい工夫(くふう)は……」と考へてゐる中に重助は不圖(ふと)思(おも)ひついた事がある、それは荷物(にもつ)の中に入れてある桐油紙(とうゆがみ)であつた。

「かうして夜明(よあけ)まで立つてるわけにも參りませんが、私は桐油紙(とうゆがみ)を二枚(まい)持(も)つてゐます。一枚は小さいんですから、この荷物(にもつ)の蔽(おほ)ひにしまして、あとの一枚を合羽(かつぱ)のつもりでお被(かぶ)んなさい、私は外套(ぐわいたう)を着てますから、そして二人が足ごしらへをして步(ある)きませうぢやありませんか」といひいひ荷を解いて油紙(あぶらがみ)を出した。

 大きな油紙をうけとつた女は、それを擴(ひろ)げて見(み)て、

「あの、これを私だけ頂(いたゞ)いては、貴郞(あなた)に申し譯がありませんから、寧(いつ)そお一緖(しよ)に被(かぶ)つて參つては如何(いかゞ)でせう」と云ひ出した。

「なるほど、それはよい工夫(くふう)です、併し御迷惑(ごめいわく)ですね」

「いゝえ私(わたし)こそ」

 二人はすつかり身仕度(みしたく)をして跣足(はだし)になると、重助は荷物を背中に背負(せお)うて、一枚(まい)の大桐油紙の中に女と一緖(しよ)に包(くる)まつた。

 女も男も一寸(ちよつと)ためらつたが、ためらつては兩方(りやうはう)濡(ぬ)れるので、すぐにぴつたり寄(よ)り添(そ)つた、さうして雨の中へ突(つ)き進(すゝ)んだ。

 

         

 

 越後屋(えちごや)へ着いた時、二人の身體が骨(ほね)の髓(ずゐ)まで泌(し)み入るほど濡(ぬ)れてゐた事はいふまでもない、丁度寢入り端(ばな)で中々起きないのを叩(たゝ)き起(おこ)して、漸々(やうやう)二人は中へ入ると、直ぐに湯殿(ゆどの)へ行つて、冷めかかつた湯で手足を洗(あら)ひ身體を拭(ふ)いた。

 さうして薄暗(うすぐら)くなってゐる廊下(らうか)を幾曲(いくまが)りかして、此方(こちら)へと入れられた座敷は八疊の一間であつた。

「もう何も出來ないだらうかね」といふと、番頭(ばんとう)は眠(ねむ)さうな目で、而(しか)も物をいふのさへ不足(ふそく)らしく、

「ヘイ」とばかり「どうぞお寢(やす)みなすつて下(くだ)さいまし」と云つた。

 番頭の不機嫌(ふきげん)も無理はないと思つて、重助はすべての我儘(わがまゝ)を控(ひか)へて默(だま)つてゐた。それに構(かま)はず番頭はお辭儀(じぎ)だけ恭(うやうや)しく直ぐに引下つた。

「仕方がない贅澤(ぜいたく)はいへませんね」といふと女が、

「え、何しろ遲(おそ)いんですから」とこれは左程(さほど)困(こま)つた顏もせず「でも身體を拭(ふ)いたので、さつぱりしましたわ」と云つた。

「相宿(あひやど)といふ始末でお迷惑(めいわく)ですね」

 女も冷(つめ)たくなつた茶を啜(すゝ)つた。

「いゝえ貴郞(あなた)こそ本當に御迷惑ですわね」

「どういたして……併(しか)し緣(えん)といふものは妙(めう)なものですね」

「全(まつた)くですわね」

「や、失念(しつねん)いたしましたが、御安心の爲に私の名剌(めいし)を差上(さしあ)げて置きませう]と重助はさすが商人である、實は相手の素性(すじやう)を聞いて置く爲めに白分の名刺を女に差(さ)し出(だ)した。

「御丁寧(ごていねい)に」と女はそれを受取つて、自分の名刺(めいし)を重助に差出した。名刺には東京××區××町の岩崎(いはさき)すみとあつた。

 そしてお互(たが)ひにお寢(やす)みなさいと云つて、寢にくい寢にくい枕(まくら)についた。

 何處かで時計が三時を打つのを聞(き)いた時(とき)、女は、

「お暑(あつ)かありませんか」と聞いた。

「暑うござんすね、まだ此樣(こんな)陽氣(ようき)でない筈(はづ[やぶちゃん注:ママ。])だのに」

「一寸(ちよつと)雨戶(あまど)を開けませうか、雨のしめりで幾何(いくら)か凌(しの)ぎよいかも知れません」と女はもう起上(おきあが)つてゐた。

「どうも憚(はゞか)り樣(さま)」と重助が云つた頃には雨戶を一枚(まい)繰(く)りあけたが、どうしたのか「アツ」と細(ほそ)く悲鳴(ひめい)をあげて、直ぐにぴつたり戶を閉(し)めた。

「どうしました」と重助(ぢうすけ)が身を起した時に、女は重助の傍近(そばちか)く俯伏(うつぶ)せになつてゐた。

「どうしました、何があつたんです」と重助は不安(ふあん)心さうに、女の背中(せなか)のあたりを見つめた。[やぶちゃん注:「不安(ふあん)心」「ふあん」は「不安」の二字にのみある。「不安」と同義の「ふあんしん」もあるので問題はないが、個人的には、三字で「ふあん」と当て訓したい気はする。]

「どうしました」と重(かさ)ねて聞く重助の言葉(ことば)に女は、

「どうぞ、わけを聞(き)かないで下さい、それよりも何か面白(おもしろ)い世間話(せけんばなし)をして下さい、譯(わけ)は明日(あす)、夜が明(あ)けたらお話しいたしますから」とのみ云(い)つた。

 重助は女の怯(おび)えてゐる樣子を氣(き)の毒(どく)がつて、成るたけ毒にも藥にもならぬやうな世間話(せけんばなし)をしつつ、女の心を紛(まぎ)らしてやらうとした。

 女は其れに氣(き)を紛(まぎ)らされようとしながらも、重助を賴(たよ)る樣子であつた。

 女の樣子が、幾分(いくぶん)づつ安(やす)まつて來るに從(した)がつて、重助の心は平(たひ)らになつて行つた。

 改(あらた)めていふが、女は二十四五、男は三十を三つ越(こ)したばかりである。

 

         

 

 夜(よ)が明(あ)ける頃、二人はぐつすり眠(ねむ)つた。

 驚(おどろ)いて目をさましたのは彼(か)れこれ十時頃であつた。

「そろそろ起(お)きませうかね」と重助が云ふと、

「え」と女は重助(ぢうすけ)の顏を見(み)た。

「けふはこれから何方(どつち)へ行くの」と重助は、全(まつた)く打解(うちと)けた言葉を使つた。

「これからね、又三里山の中へ入(はい)つて行(い)くんです」

「東京へは歸(かへ)らないんですか」

「え、歸(かへ)りたくも歸れません」

「どうして」

「歸る家がないし、それから東京(とうきやう)に落付(おちつ)いてゐるわけに行かない身體(からだ)です」

「昨夜(ゆふべ)なぜあんなに怯(おび)えてゐたんです、もう夜が明けたから話しても好(い)いでせう」

「え、雨戶(あまど)を開けない中(うち)に話しますわ」

「話して下さい、一體(たい)何(なに)が居たの」

「何も居やしません、居ないことは判(わか)つてゐるんですけれど、それが怖(こは)くてたまらなかつたんです」

「居ない事が判(わか)つてて怖(こは)いといふのは」

「私には生靈(いきりやう)がとつついてゐるんださうです」

「生靈」

「え、女の生靈(いきりやう)ですつて、それがね、不斷(ふだん)は何ともないんですけれど、つつじの花が咲(さ)いてるところに行くと其生靈が業(わざ)を始(はじ)めるんです」

「つつじの花と生靈とどんな關係(くわんけい)があるんです」

「恥(はぢ)を云はなきあ判(わか)りませんが、私は二十の年まで東京で藝者(げいしや)をしてゐまして、その秋に落籍(ひか)されて、ある人のお妾(めかけ)になつたんですの」

「ぢや本妻(ほんさい)の生靈とでもいふんだな」

「え、さうなんです、何も彼(か)もお話ししますわ、落籍(ひか)されてから、半年ばかりは旦那の本妻(ほんさい)に知れない儘(まゝ)で暮(くら)してゐました、けれど、其中に不圖(ふと)した事から奧樣に知れましてね、私も旦那も一寸(ちよつと)困(こま)つたんですけれど、今更(いまさら)仕方(しかた)がありませんわ、面倒(めんだう)になつたら私は身を引くつもりでゐましたの、するとね、其の奧樣が大層(たいそう)捌(さば)けた方でね、家を二軒(けん)持(も)つてゐては物入りも大變(たいへん)だし、お自分も氣(き)づまりだらうから、いつそ一緖(しよ)になつたら如何(どう)ですと仰(おつし)やり始めたんです、本妻と妾(めかけ)と一緖(しよ)になる事はあんまり好(い)い事とは思ひませんでしたけれど、それを嫌(いや)だといへば何だか依估地(いこぢ)に當りますから、まあ不性無性(ふしやうぶしやう)に一緖に住(す)まふ事にいたしました」[やぶちゃん注:「依估地」「意固地・依怙地」が一般的だが、この「估」を用いる場合もある。]

「一緖(しよ)になると、本妻が貴女(あなた)を邪魔(じやま)に仕始めたな」

「處(ところ)が、さうぢやないの、何事につけても私を立ててくれるし、それはそれは大事(だいじ)にしてね、よく庇(かば)つて下さいました」

「それがどうして生靈(いちりやう)になつたんです」

「今(いま)足許(あしもと)の雨戶を開けると見えますが、この家の庭に眞赤(まつか)なつつじが咲(さ)いてゐます、其のつつじの咲いてゐる頃に一緖(しよ)の家に住むやうになつて、二度目の花(はな)が咲(さ)いた時ですから、まア一年目ですわね、私に赤(あか)ン坊(ぼう[やぶちゃん注:ママ。])が出來たんです」

「ふん、ぢや、一緖の住居(すまゐ[やぶちゃん注:ママ。「居」は当て字で「すまひ」が正しい。])になる時分(じぶん)から宿(やど)つたんですね」

「え、まアさうですわね、旦那(だんな)の家のお庭(には)にもつつじの花がありました、それが眞盛(まつさか)りに咲いてゐる時、私は無事(ぶじ)に身二つになつて、而(しか)も男の子を生(う)みました。私に子が出來ると、奧(おく)さんはそれはそれは喜(よろこ)んでね、といふのは、奧(おく)さんと旦那とは十年から連(つ)れ添(そ)つてゐるのに、子供がない爲め、いろいろな養生(やうじやう)をなすつたんださうです。其位(それくらゐ)欲(ほし)しがつて被居(いらつしや)るところですから、私の生んだ赤ン坊は私よりは奧さんに馴(なづ)く[やぶちゃん注:「なつく」は「なづく」とも書く。]ほどに、奧さんが可愛(かあい)がつて下すつたんです、私も全(まつた)く仕合(しあは)せな身の上だと思つて居りました、それで奧樣(おくさま)が赤ン坊を可愛(かあい)がつて下さるので、私は其子の行末(ゆくすゑ)の爲め、いつそ奧樣(おくさま)の子のやうにして置(お)いた方が好(い)いかも知れぬといふ氣が出まして、奧樣の思ふまゝに、成(な)るだけお任(まか)せ申して、私の方へ三度(ど)抱(だ)く間に、奧樣の手へ五度(ど)以上(いじやう)渡(わた)すやうにく渡すやうにとしてゐました、尤(もつと)も其の子の籍(せき)も奧さんの胎(はら)から出たやうに屆(とゞ)けてあるんです、かうしてゐる中に、どうもその子が何處(どこ)が惡いといふのでなく弱(よわ)いのです、年中醫者と藥(くすり)は絕(た)やした事はない有樣(ありさま)だものですから、私も奧さんも旦那も元より隨分(ずゐぶん)苦勞(くらう)をしました、けれども一向(かう)强(つよ)くなりません」

「貴女(あなた)のかげにまはつて、奧樣が子供を苛(いぢ)めるんではないか」

「いゝえ、さうぢやないんです、奧樣(おくさま)は全つたく可愛(かあい)がつてでした[やぶちゃん注:ママ。会話表現としては私は躓かない。]、それに利口(りこう)な奧樣(おくさま)でしたからね、私といふものは、イザとなつたら追(お)ひ出(だ)す事の出來る身體(からだ)ですが奥樣と子供とは引放(ひきはな)す事の出來ない戶籍(こせき)の關係(くわんけい)になつてゐるんでせう、だから奧樣としては子供(こども)を大事にすればする程(ほど)弱味がつくんですわ」

「成(な)る程(ほど)、それもさうだな」

「何しろ餘(あん)まり心配ですから、私はある時、人に勸(すゝ)められる儘(まゝ)に、銀座の易者(えきしや)に見て貰(もら)ひに行つたのです、さうすると易者が不思議(ふしぎ)な事を云ひました」

「不思議な事(こと)」

「え、私と子供の身(み)の上(うへ)に生靈(いきりやう)がとりついてゐるといふのです、若(も)し子供(こども)の身體が丈夫になる事があれば、其時、私の身體に故障(こしやう)の出來(でき)る時だつて」

「はあ、矢張(やは)りよくは見せても本妻(ほんさい)のやきもちだな」

「いゝえ、そればかりは誰(だ)れが何と云つても少(すこ)しもない事は私が承知(しようち)して居ります、決(けつ)して奧樣に其樣(そんな)心持(こゝろもち)は毛程(けほど)もありません」

「ぢや誰(だ)れの生靈(いきりやう)だらう」

「それが私にも判(わか)りませんから、一體(たい)どうすれば私と子供の身體(からだ)が兩方とも丈夫(じやうぶ)になるのかと聞きましたら易者(えきしや)は、私といふものが旦那(だんな)の家に入つてゐる事がいけないのださうです」

「それぢや矢張り本妻の生靈といふ事になるぢやないか」

「まア、さうだわね、それで私は決心(けつしん)して旦那におひまを頂(いたゞ)く事にはしましたものの、扨(さて)、それが云ひ出せないんです、旦那にも奧樣にも隨分(ずゐぶん)義理(ぎり)があるんでせう、其樣(そんな)水(みづ)くさい事が云ひ出せないほど奧樣は親切(しんせつ)にして下さるんですもの、今日は云はうか明日(あす)云はうかと思(おも)ふままに、一年は過(す)ぎて、又つつじの花の眞赤(まつか)になる頃になつて了(しま)ひました。するとある日旦那も奧樣(おくさま)もお留守(るす)の時の事です、私は不圖(ふと)緣側(えんがは)へ出ますと、お庭(には)の端(はし)にムラムラと火焰(くわえん)が上つて、大きな庭一面を燒(や)き盡(つく)しさうにしてゐる樣な樣子を見ました」

「庭(には)の火事つてのは可笑(をか)しいね」

「ですけども、全く庭が燃(も)えてるんです、私びつくり仕了(しちま)つて、あツ誰(だ)れか來ておくれと云つたまでは覺(おぼ)えてゐましたが、もう其あとは何も判(わか)らなくなりました、漸(や)つと氣(き)が付(つ)いた時は、もう私の身體は蒲團(ふとん)の上に寢(ね)かされて醫者(いしや)は來てゐるし、奥樣はちやんと枕許(まくらもと)について下すつて、頭を冷(ひや)して下すつたり何か大變(たいへん)な騷ぎなのです」

「庭を見た時、目が眩(くら)んだんだらう」

「いゝえ、目は決(けつ)して眩みません、確(たし)かに燃(も)え上る火を見たにちがひないんです、其れが眞晝間(まつぴるま)なんでせう、たしかに火でした、今(いま)考(かんが)へても目の前にちやんと見えますわ、燃(も)え上(あが)る火の下には私の大事な子供(こども)が、素裸(すつぱだか)になつて轉(ころ)がされてゐるんですもの、あツ、私は、もう此話は止(よ)しませう、貴郞(あなた)、雨戶は閉(し)めてありますか」

「あ、閉(し)まつてゐるよ、もう十一時(じ)位(くらゐ)だらうけれど、こんなに暗(くら)いぢやないか、まあ私がついてゐるんだから怖(こは)い事はない、貴郞のは神經(しんけい)なんだよ、それからどうしたの、話しをした方が紛(まぎ)れて好(い)いんだから」

 重助は女の背中(せなか)を撫(な)でさすつてやつた、女は少しづつ氣(き)が落(お)ちついたらしかつたが、顏(かほ)の色(いろ)は眞靑(まつさを)になってゐた。

 

         

 

「でもね、神經(しんけい)だつたかも知(し)れないんですわねえ、あとで怖々(こはごは)庭を覗(のぞ)いて見ましたら、たしかに火焰(くわえん)が上つたと思ふ場所(ばしよ)には、例(れい)のつつじの花が眞赤に咲いてゐて、子供が裸(はだか)に轉(ころ)がされてゐたと思ふ場所には、靑石の捨石(すていし)が一つあつたのですもの、だけれどそれが私には神經(しんけい)と思はれないほどはつきりしてゐるんですよ」

「銀座(ぎんざ)の易者先生がすつかり祟(たゝ)つたんだ、脅かされちや不可ませんよ」[やぶちゃん注:「祟(たゝ)つたんだ」は、底本では、「崇(たゝ)つたんだ」。誤植と断じ、特異的に訂した。]

「火焰(くわえん)の事があつてから三日目でしたか、ある日、晝間(ひるま)の用向が張物(はりもの)だの、解(と)きものなので、奧樣も私も相應(さうおう)に忙(いそ)がしくて、日一杯で仕事が納(をさ)まらず、到頭(たうとう)暮(く)れて了(しま)つてから、其處中[やぶちゃん注:「そこうち」。]を片付けて、私が庭先(にはさき)の戶じまりをしに行きました、其時(そのとき)庭先(にはさき)には、いつの間にか雨(あめ)が降り出してましてね、眞暗(まつくら)でしたが、其眞暗な中からヒーヒーつて聲がするんです、何(なん)の聲だらうと思(おも)つて耳をすましてゐると、確(たし)かに子供の泣(な)き聲(ごゑ)でせう、ああ坊やが泣(な)いてるのかしらと聲のする方へ目をつけると又(また)驚(おど)ろきましたね」[やぶちゃん注:「泣(な)いてるのかしら」この「かしら」は、底本では、「しから」。誤植と断じて、特異的に訂した。]

「又(また)火焰(くわえん)ですか」

「いゝえ、今度は坊(ぼう)やがね、矢張(やは)り裸(はだか)にされて庭先に轉がされてゐるんです、而(しか)も腋(わき)の下から胸のあたり、顏(かほ)へかけて、血(ち)みどろなんです」

「それもつつじだな」

「貴郞は自分に關係(くわんけい)のない事だから、そんなに同情(どうじやう)のない事を仰(おつし)やるけれど、私は眞劍(しんけん)ですよ」

「私も眞劍に聞(きい)てるからこそ、神經(しんけい)だといふんです」

「何とでも仰(おつし)やいな、私は知らないわ」と女はくるりうしろを向(む)いた、そして何と云つても、もう重助の方を振(ふ)りかへらなかつた。

 重助は遉(さす)がに持餘(もてあま)して、

「少しお前さんの厭(いや)がらない方の雨戶を開(あ)けようね、そしたら氣(き)が晴(は)れるかも知れないから」と捨臺詞(すてぜりふ)のやうに云ひながら、ついと立つて雨戶を二三枚(まい)繰(く)つた。

 雨はいつの間にか止(や)んで、きらきらと眠不足(ねぶそく)の目を刳(えぐ)るやうな日が當つてゐた。

「さあ、頭をあげて御覽(ごらん)なさい、こんな好(い)い天氣になつたから」

 女はやうやう氣を變(か)へた樣(やう)になつた。

「氣分(きぶん)はなほつたかえ」

「え、もうさつぱりしたわ、だけど、それ以來(いらい)つつじの花(はな)が咲くと、さういふ事が必(かな)らず一度(ど)づつあるんですもの。」

「昨夜(ゆふべ)だつてそれなんです」[やぶちゃん注:言わずもがなだが、これも前と続けて同じ岩崎すみの台詞である。一息入れて、きっぱりと言ったととれば、私は違和感はない。

「矢張りつつじが燃(も)え出(だ)したのかえ」

「いゝえ、子供(こども)が血みどろになつたんです、後生(ごしやう)ですから彼方側(あつちがは)の雨戶は開(あ)けないでおいて下さいね」

「ああ、好(い)いとも、然しもうお午(ひる)だぜ」

「え、何だか始(はじ)めて泊(とま)つた宿で、こんなに寢坊をしてきまりが惡(わる)いわ」

「始めての宿なら好(い)いが、始終(しじう)定宿(じやうやど[やぶちゃん注:ママ。])にしてゐる僕はもつときまりの惡(わる)い人だよ、いつでも商賣用で來るんだから、店(みせ)の者を連(つ)れて來るか、さもなければ一人だのに、すつかり連(つ)れ込(こ)み扱(あつか)ひにされたんだからね」

「御迷惑(ごめいわく)さまですわね」

「どういたしまして、手前(てまへ)こそ」

 

         

 

 どうやら女の心持(こゝろもち)も治(なほ)つて、二人とも顏を洗(あら)つてさつぱりしたところで、座敷(ざしき)ヘ戾ると「開けないで置いて下さい」と女が云つた雨戶(あまど)は名殘(なご)りなく開(あ)け放(はな)してあつた。稍々(やゝ)深(ふか)くなりかけた庭木の綠(みどり)は、目(め)を射(い)るやうに照(て)りかへした雨後の初夏の日蔭(ひかげ)に、きらきらと輝(かゞや)いてゐた。

「ヤ、開けて了つたね、もう好(い)いだらう」と重助が努めて元氣よく云ふと、女は、

「え」ともう氣(き)にもしないらしく云つた。

 お茶を淹(い)れてゐる女の手つきのしとやかさをぢつと見ながら、重助(ぢうすけ)は、

「そして到頭(たうとう)旦那(だんな)と別れて了(しま)つたのかえ」と聞いた。

「え」

「子供(こども)は」

「子供は先方(せんぱう)へやりました、大方無事に達者(たつしや)に育(そだ)つてゐると思ひます」

「いつ別(わか)れたの」

「つい二三日前(にちまへ)です」

「旦那は無事に納(をさ)まつたかえ」

「大分(だいぶん)六(むつ)ケ敷(し)かつたんですけれど」

「それで東京に居(ゐ)たくないといふわけだな」

「え」

「ここから三里先の田舍(ゐなか)つてのは、親(おや)の家(うち)かえ」

「いゝえ、兄(あに)の家(うち)なんです」

「兄さんの家では少し氣兼(きが)ねだな」

「え、ですけれど仕方がないんですもの」と淹(い)れたお茶を重助(ぢうすけ)の前へさしよせた、襟足(えりあし)がくつきりと白い橫顏(よこがほ)の美くしい、頰(ほゝ)のあたりに得難(えがた)い愛嬌(あいけう)のある女だと重助は思つた。

「兄の家に行(い)つてどうするつもり」

「どうと云(い)つて的(あえ)はありませんけれど」

 重助(ぢうすけ)はかねがね思つてゐる事を考(かんが)へて居た。かねがね思つてゐる事とは、月(つき)に一度(ど)づつはこの土地へ來なければならぬ商賣(しやうばい)を持つてゐるのだから、其都度(そのつど)宿屋住居(やどやずまゐ[やぶちゃん注:ママ。]でなく、出張所を一軒(けん)造(つく)らうかと思つてゐるのであった、併(しか)しそれには經費(けいひ)と收入(しうにふ)とがしつくり合ふかどうだかと思つてゐたのであるが、このおすみの住居を(すまゐ[やぶちゃん注:ママ。])造つてやつて、それを出張所にして置(お)いたらと思ひついた事である。そして思(おも)つた事を直(すぐ)と云ひ出した。

「お前さん、此(この)土地(とち)で家を持つ氣になれないか、さうすれば私がうしろ楯(だて)にならうぢやないか」

「嬉(うれ)しいわね、願(ねが)つてもさうして頂(いたゞ)きたい位よ」と女も無造作(むざうさ)だつた。昨夜一夜の雨でお互ひに心持は充分(じうぶん)判(わか)り盡してゐた。

「うん、きまりが早(はや)くて好(い)い、さうしちまはうよ」

「え、どうぞお願(ねが)ひします」

「これも緣(えん)だらうさ」

「ほんとに奇體(きたい)な御緣(ごえん)ですわね」と二人はすがすがとした心持になつてゐた。

「さう極(きま)つたら早速(さつそく)、家を探(さが)す事にしよう、今日中に私は當用(たうよう)を片付けて、それから場所を探さうぢやないか、其の代り私の東京にゐる間(あひだ)は店(みせ)の用もしてくれなければならないよ」

「私(わたし)に出來るなら」

「出來るさ、出來ない用向(ようむき)には私が出て來るから」

「好(い)いわね、好いわね」と女は子供のやうに喜(よろこ)んで、重助の男らしい顏(かほ)をしげしげと見た。

 重助はのびんのびとして莨(たばこ)を燻(くや)らしながら廊下(らうか)を出た、それは夜前(やぜん)、おすみが氣分を惡(わる)くした方の廊下(らうか)であつたが、其處へ出た重助の目(め)の前(まへ)にはキラキラと光るものがあった、と思ふと庭の一隅(ぐう)から火が燃(も)え出して、それが庭一面に擴(ひろ)がつた、ハツと思ふ途端(とたん)に、重助の身體はトンと倒(たふ)れた。

 庭には三株(かぶ)四株のつつじの花が眞盛(まつさか)りであつた。女はアツと云つて重助の身により添(そ)つた。

 

 重助の身體はおすみの介抱(かいはう)で間もなく治(なほ)つたが、治つた時、おすみは重助の前に手をついて聞(き)いた。

「貴郞(あなた)にはお内儀(かみ)さんがおありでせう」

「うむ」

「あの、折角(せつかく)お親切(しんせつ)にお考へ下すつたんですけれど、只今のお約束(やくそく)はおやめなすつて下さいませんか、私は氣兼(きが)ねでも矢張り兄の家の食客(ゐさうらう)になります」と淚(なみだ)と共に云つた。

 重助は何(いづ)れとも返事はしなかつたが、長い嘆息(ためいき)をついてゐた。

[やぶちゃん注:本篇は、上州の停車場での未明の二人の出逢いから、凡そ十二時間足らずの越後屋の宿部屋を舞台時制としている。怪奇現象は、概ね、山崎すみの回想によるものであるが、あたかも、その異様なホラー・シーンが読者の脳裡に適正確実にフィードバックするように、リアルに語られており、遂に、最後には、重助も、実際に「火焰つつじ」の怪異に襲われることになる。まことに、「燻(いぶ)し銀」の文体で、無理が全くない。重助はさかんに、彼女の語りを、「神經」の齎した幻覚であると評する。私も、読みながら、「奥樣」に対する申しわけないという心理が、強迫神経症的な妄想幻覚を惹き起こしたものと考えていたのを思い出す(但し、「生靈」とは、やはり、「奥樣」の無意識化の嫉妬が引き起こしたものとは言えるように今も感ずる。「易者」は、明らかに「奥樣」とグルである。重助の遭遇した怪火と短時間の昏倒も、重助自身が、山崎すみへ、半ば確信犯的に、懸想してしまっていることへの、同じく一過性の強迫神経症による重助の自責の念が生み出した幻覚であるとも、今も、私には思われる)。しかし、重助自身が、その怪異を見てしまうというコーダは、甚だ、鮮烈である。本篇は、それらを総合して、優れた怪奇談の逸品と言えるのである。

2024/02/01

譚海 卷之六 大坂土地風俗の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○大坂は、冬、あたゝかなる事、江戶にくらぶれば、衣裳ひとつ、ちがふ也。

 二月になれば、足袋(たび)を、はく事、なし。

 風のふく事、はげしき事、なし。小雨のみにて、雨、はるれば、天氣、よろし。

 砂地なるゆゑ、道、かはきやすきまゝ、おほかた、下駄のみを、はきて、あしだをもちゆる事、稀也。日和げた・ざうり下駄、はなたず。又、皮にて作りたるくつを、上下とも、このみて、時雨(しぐれ)にも、おほくは、はなたず。いやしきものも、是を用ざるは、なし。

 梅・柳などの、春を催すも、江戶よりは、十日も、はやかるべし。

「夏は、暑氣(しよき)、堪(たへ)がたし。」

といふ。

 冬は、雪、つもる事、稀也。

 其所(そこ)、東橫堀より、西橫堀までの間は、川すぢ、いくらも、絲すぢの如く、掘(ほり)とほしたるゆゑ、一町ごとに、はし、有(あり)。凡(およそ)、橋のかず、百八十八あり、とぞ。

 町の住居(すまひ)は、普請、みな、念を入(いれ)て、心ゆくまで、作り、すむ所は湯どの・臺所・路次のはしばしまで、皆、たゝき土(つち)にて、かためたるは、畢竟(ひつきやう)、たゝき土、心やすく出來るゆゑ也。

[やぶちゃん注:「たゝき土」花崗岩などが風化して出来た漆喰土(しっくいど)。]

 下水の樋(かけひ)、掘入(ほりいれ)たる家、すくなく、皆、土下(つちした)を、うがちて、樋を、とほし、川へ、水をながすやうに、せり。

 かまどは「六臺」とて、しつくいにて、ぬりあげたる也。大小、六つは、ならべすゑざる家、なし。竈(かまど)の底は、瓦(かはら)にて、敷(しき)つめ、灰を、たくはふ事、なし。火を焚止(たきやむ)ときは、卽(すなはち)、灰を、かきすてて、さる。貧家といへども、六代[やぶちゃん注:「代」の右に編者の補正傍注があって、『(台)』とする。]をかまへざるもの、なし。灰を「こやし」にかふ者、つねに、たえず。小便は桶(をけ)のみにして、みだりに外(そと)へ失(しつ)する事、なし。小便を菜にかふる事は、京と同じ。

 井(ゐ)、稀にして、皆、川水をくみて飮(のむ)。

 石、自由なるゆゑ、價(あたひ)も安ければ、住居、石を用(もちひ)て造(つくり)たるもの、おほし。

 そのほか、諸物のあたひ、江戶にくらぶれば、ことごとく、貴(たか)し。

 諸物のあきなひもの、町々に、わかれて有(あり)、江戶をはじめ諸方へ出(いだ)すとひや[やぶちゃん注:「問屋」。]、おほきゆゑ也。

 船は、江戶の屋根船の如く成(なる)も、又、二階ある船、まゝあり。大なる船には、殊に、二階を作(つくり)たる、おほし。

 「べか車(ぐるま)」とて、くるまのわを、木にて、丸くつくりたる小車(こぐるま)あり。少しのものを、のせて、引(ひき)あるくに、甚(はなはだ)、便利なり。大八車は、すくなく、馬、少(すくな)くして、牛を用(もちひ)て、おほく、用をなす。

[やぶちゃん注:「べか車」は人力台車。detailofmodel氏のブログ「模型の詳細」の「大阪と江戸の荷車の違い」が、模型写真と当時の絵附き解説(「街廼噂」(ちまたのうわさ:戯作者畑銀鶏(はたぎんけい 寛政二(一七九〇)年~明治三(一八七〇)年)の著。畑は上野(こうずけ)七日市藩藩医。天保五(一八三四)年から一年間、大坂に滞在して滑稽本風の風俗書である本書や、人情本「浪花夢」(なにわのゆめ)などを刊行した)があって、大八車との違いや形が視覚的にも理解し易い。当該ウィキによれば、『「ベカ車」の名称が現われるのは、安永年間』(一七七二年~一七八一年)『である』ともあった。]

 肴(さかな)は、やはらかに、酒は、からく、醬油は、味、うすし。

 たばこは、油、引たる、おほくして、よき品、少(すくな)し。

 諸國の米は、輻湊(ふくそう)[やぶちゃん注:方々から集まって来ること。]するゆゑ、米を、もちて、奇貨とす。米商内(こめあきない)よりして暴富(ばうふ)を得たるもの、あり。

 人の、ものいひ、やさしきゆゑ、短慮なる人を、見わかたず。

 又、綿服(めんふく)を、きるもの、おほきは、商人(あきんど)の常體なるべし。

 あきなひの事に、かしこきゆゑに、人々、姦智、おほし、人を欺(あざむく)事を、常とせり。

 武家、少(すくな)き故、公邊(こうへん)へ、うとければ、世間の大體(だいたい)を、しらず。

 私のみを、いふて、おのづから、義理にかなはぬ事、おほし。

 人、禮讓(れいじやう)なく、あぐらかき、疎略(そりやく)をする事を覺えざる[やぶちゃん注:認識しない。気にしない。]は、武家のすくなきゆゑ也。

 女は、殊の外、ながき笄(かうがい)をさし、髮の容體、仰山(ぎやうさん)にて、見ぐるしく見ゆる也。

 夏・冬、共に、綿帽子を、きる。

 夜中にも、女のあるく事を、いとはず、獨(ひとり)あるけども、なぶる人、少(すくな)し。

 美婦は、すくなく、大かたは、丸ひたへ[やぶちゃん注:髪の生え際(ぎわ)が丸く剃ったような額。]、生れつきにて、内裏雛(だいりびな)の顏の如し。

 たて臼(うす)にて米をつく家、なし。からうす斗(ばか)りを用る也。

 藥種は、諸方に、すぐれてあたらしきは、年々、長崎より、先(まづ)、此地にひさぎ、諸方へ賣出(うりいだ)すゆゑ也。

 天滿(てんま)はし・天神橋・難波橋(なにはばし)を、大はしとす。百二十間餘(あまり)づつあり、江戶兩國のはしよりは、長かるべし。

[やぶちゃん注:「天滿はし」ここ(グーグル・マップ・データ)。その下流のそれが「天神橋」で、そのまた下流のそれが「難波橋」。]

 天滿宮(てんまんぐう)の社、おほき所也。淀川のたよりよきゆゑ、京へ往來する事、鄰(となり)あるきのやうに覺たる所也。

 雪駄(せつた)なほしの非人よび聲、つかふとなく[やぶちゃん注:必要でない時でも、しょっちゅう。]聞ゆ。すべて、非人おほき所也。ゑたも、皮をなめしつくる事、妙を得たり。又、「犬とり」といふものあり、箭(や)を負(おひ)、棒を突(つき)て、町中を、あるき、死(しし)たる犬あれば、やがて籠に入(いれ)て去る。蠟燭のたぐひに、獸肉を用(もちゆ)る故、かくの如し。「犬とり」を見れば。群犬、ほゆる事、甚(はなはだ)、さわがし。圍繞(ゐねう)せらるゝ時は、「犬とり」、此棒をもちて、道をひらき通る也。

 遊女も、あまたあるゆゑ、ことさらに獨行(ひとりありき)すれども、缺落(かけおち)の氣遣(きづかひ)なきにや、其家(そのいへ)、制せず。旅客、遊女にしたしめば、常に旅館へ來(きた)り、起臥(きが)して、側室の如く馴(なれ)たり。人あやしむ事、なし。町小路の木戶ごとに、觀音・不動・金毘羅神等の像を安置せざる所、すくなし。人家にも、堂を仕(し)つけて、安置し、又、木戶の際(きは)にも小祠をかまへて、まつれり。

 橋々は、殘らず、其橋の名を、板に書(かき)て打付(うちつけ)て有(あり)。

 帶刀(たいとう)の人を見れば、皆、道を避(さけ)て、甚(はなはだ)、恐る體(てい)也。

 常には、物を借(かる)事、心とせず、五節句には、きびしく、かけを、はたる也。

 世事、いとま、おほしとみえて、常に、婦人、遊山(ゆさん)に出(いづ)る事、おほし。

 女兒は、七、八歲、十二、三歲迄、大かた、切禿(きりかむろ)[やぶちゃん注:「きりかぶろ」とも。頭髪を肩の辺りで、切り揃え、結ばないでいる子ども。所謂「おかっぱ」である。]にて、おく也。

 男子は、前髮、すくなし。幼稚より、皆、「やらう」にする也。[やぶちゃん注:「やらう」「野郞」で前髪を剃り落とした若者。一般には一人前になったことのしるしを示す髪型である。]

 鴻の池・加島屋・袴屋(はかまや)など、すべて諸大名の仕送りをするもの驕奢(きやうしや)、甚し。人も敬(うやま)ふ事、神の如し。是等の類(たぐひ)、海濱へ新地を築出(つきいだ)し、黃金を盡して、大莊(たいさう)なる普請をかまへ、別莊となし、新田(しんでん)等を開き、もちたるもの、多く有(あり)。誠に逸樂の一世界といふべし。

 蜜柑・蕪菜(かぶらな)は、大(だい)にして、牛房[やぶちゃん注:「牛蒡(ごばう)」。ゴボウ。]・うどは、細し。其餘(そのよ)、何も菜疏(さいそ)[やぶちゃん注:「蔬菜」。人が副食物とする草本作物の総称。]のものは、和(やはらか)なる事、江戶に、こえたり。

「蘆江怪談集」 「二十六夜待」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本の本文開始位置はここ。「二十六夜待(にじふろくやまち)」は、江戸時代、陰暦一月と七月の二十六日の夜に月(下弦の月)の出る(「月の出」を待って拝むこと。月光の中に彌陀・観音・勢至の三尊の姿が現われるとされ、高輪から品川辺りにかけて、盛んに行なわれた。多くは「七月」のそれを指し、単に「六夜待」とも言う。冒頭に「今から六十年も前の話」とあるので、刊行時から機械計算すると、明治七(一八七四)年となる。既に西暦が採用されているが、西暦の当日(「前日」とあるので七月二十五~二十六日)の「月の出」は午後二時四十分で、シークエンスと全く合わない。されば、ここは陰暦で言っていると判断できるので、旧暦換算すると、同年六月十三~十四日に当たり、「月の出」は〇時十五分でピッタリである。

 

 

    

 

 

          

 

 二十六夜(や)の前の晚といふのですから、隨分(ずゐぶん)暑(あつ)い時分の事です、薩摩邸(さつまてい)の御用を承(うけたま)はつてゐる松原新五郞といふ人が、品川宿(しながはじゆく)の送り茶屋田中家といふ家(うち)で一杯(ぱい)やって居りました。もう今から六十年も前の話(はなし)です。六十年前の薩摩邸と云つたら、羽振(はぶり)のよいものの骨頂(こつちやう)でしたから、自然其の邸のお出入なら、松原新五郞さんの威勢(ゐせい)も大したものです。おきくといふ深(ふか)い馴染(なじみ)の女に家を持たして、品川に見世(みせ)を出させたのが、この田中家(たなかや)ですから、つまり新五郞さんは今自分の家で飮(の)んでるも同然(どうぜん)なのです。海近い二階の廣間を開(あ)け放(はな)して、お臺場(だいば)から吹きさらしの風をうけて、品川中の景氣(けいき)を一人で背負(せお)つた心持になつて、全盛を極(きは)めて居りますと、この田中家の裏木戶(うらきど)あたりで「やあ、心中(しんじう)だい、心中だい、心中が流(なが)れて來たアイ」と犇(ひし)めき立つ人の聲がしました。「妙(めう)な事を云つてるぢやねえか、誰れか見て來ねえ」と云ひながら、廊下(らうか)に便々(べんべん)たる[やぶちゃん注:太って腹が出ているさま。太鼓腹であるさま。]肌(はだ)を寬(くつろ)げて大安座(おほあぐら)になってゐた新五郞が、不圖(ふと)、櫺子(れんじ)[やぶちゃん注:竹などの細い材を、縦又は横に一定の間隔を置いて、窓や欄間に取り付けたもののこと。]から外を眺(なが)めると、櫺子の下は頃しも上(あ)げ汐(しほ)の事ですから、滿々(まんまん)たる水がぽちやりぽちやりと波打(なみう)つてゐます。それへもう澄(す)み切(き)つた下弦(かげん)の月が低(ひく)くうつろつて、波がしらがきらきらと光(ひか)る、其の波のはづれ、自分が見下した櫺子(れんじ)の眞下(ました)のところへ、成程(なるほど)心中(しんじう)ででもありませう。二つの屍骸(しがい)が、ぴつたりくつついた儘(まゝ)、ふはりふはりと流れついてゐます。

「成る程本當の心中だ。可愛(かあい)さうに、どこから流れて來たのか知らねえが、こゝヘ流(なが)れ着(つ)くのも因緣事(いんねんごと)だらう。葬(はうむ)つてやりてえが、今と云つちや手が付けられめえ、それとも何(なん)とかなるかえ」と幇間(たいこもち)に聞きますと、幇間の新(しん)八が、

「さうでござんすね。この上(あ)げ汐(しほ)で、流れ着いた場所が場所ですから、一寸(ちよつと)弄(いじ)りにくうござんすね」

「さうか、ぢや仕樣(しやう)がねえ」と新五郞さんは屍骸(しがい)をぢつと見下してゐましたが、

「お前も緣(えん)があつて來たんだらうから、私に始末(しまつ)をさしてくれ。其の淺間(あさま)しい姿を隱(かく)して貰(もら)ひたかつたら、何處へも行きなさんなよ」と、云ひ聞かせるともなく獨(ひと)り言(ごと)を云ひました。と同時に波(なみ)がざぶりと來て、二つの屍骸(しがい)が一ゆりゆつたかと思ふ死骸は波にさらはれたのか、見えなくなつて了(しま)ひました。

[やぶちゃん注:「田中家」「海近い二階の廣間を開け放して、お臺場から吹きさらしの風をうけて」「品川」以上と最後のシークエンスから、「田中家」は現在の高輪・東品川附近の海岸端にあると考えてよい。現在では干拓が有意に行われているので、「ひなたGPS」の戦前の地図を見られたい。]

 

         

 

 翌(あく)る朝(あさ)になりますと、一旦波に隱(かく)れたかと思つた心中ものの屍骸(しがい)は、波にも風にもさらはれず田中家の家の臺石(だいいし)に引かかつた儘、腰(こし)から上は陸へ上つて居ります。

「心中が引(ひつ)かかつてるよう」といふ聲が又、近所の者の口から口へ傳(つた)はりました。

「成る程、緣(えん)があつたんだと見える。引上げて見ねえ、何か持物(もちもの)を調(しら)べて、若し何處の者だか手がかりでもあつたら、送(おく)り屆(とゞ)けさせよう」と新五郞は、自分(じぶん)で下へ下りて見ました。屍骸は二人とも同じやうに白無垢(しろむく)を着て、二人の胴中(どうなか)を赤い扱帶(しごき)でしつかりと結(ゆは)えてあります。立派な覺悟(かくご)の死裝束(しにしやうぞく)ですから、袂(たもと)にも懷(ふところ)にも名前の手がかりさへありません。加之(おまけ)に幾日の間か水の中を浮きつ沈(しづ)みつしてゐた爲めか、二人が二人とも目鼻口(めはなくち)のあともなく、只のつぺらぼうの顏になってゐるので人相を推量(すいりやう)する事さへ出來ません。

「何にも手がかりはございませんね」と賴(たの)まれて屍骸(しがい)を引上げた町の若いものが云ふので、新五郞も一寸(ちよつと)困(こま)つたが、

「ぢや仕方(しかた)がねえ。折角家の前へ流れ着いたものを、彼方此方(あつちこつち)持步(もちある)いちや可愛さうだから家の橫手の空地(あきち)へそうつと埋(う)めといてやんなせえ」とそれぞれ差圖をして、二つの屍骸を一緖(しよ)の棺(くわん)に入れて、田中家の橫手(よこて)の空地へ埋め、其處へ印(しるし)のものを樹(た)てて坊主(ばうず)を呼んで來てお經(きやう)を一卷上げてやりました。

「死ななくつても濟(す)んだらうに好(い)い若(わか)い者を可愛(かあい)さうな事をした」と新五郞は一寸ひよんな氣(き)になりました。其夜(そのよ)は前にも云ふ二十六夜の當夜(たうや)ですから、田中家で月待(つきまち)をすれば申し分はないし前(まへ)の晚(ばん)から其のつもりで、末社(まつしや)[やぶちゃん注:「幇間」の異名。]どもをも呼び集めてあつたのですが、新五郞どうしても、心持(こゝろもち)が引立たない。心中塚(しんぢうづか)のお經(きやう)が濟むと直ぐに、高輪の駕籠を呼んで、ぶらりと何處へか舁(かつ)がして行きました。

「俺(おら)あ何處かで心持を直して來るから、若(も)し連中(れんぢう)が來たら、俺に構(かま)はず、飮まして遊ばしといてやんな。張出(はりだ)しの座敷で月待なら頂上だから、其の中氣持が直つたら、俺(おれ)も歸(かへ)つて來るか知れねえ」と云ひ置いたので、田中家(たなかや)では二十六日のお晝時分(ひるじぶん)から末社どもばかりで、頭[やぶちゃん注:「かしら」。]ぬきの散財(さんざい)が始まりました。新五郞さんだつて氣(き)づまりな人ではありませんが、それさへ居(ゐ)ないとなると末社どもこゝを先途(せんど)と大噪(おほはしや)ぎの有樣です。

 末(ひつじ)の下刻(げこく)といふのですから、今の午後三時頃です。餘(あま)り騷(さわ)いで、騷ぎ氣臥(きづか)れた藝者のお粂(くめ)が、張出しの端先(はなさき)へ出て酒にほてる顏を濱風(はまかぜ)に吹かせながら、お臺場(だいば)の沖(おき)を見渡さうとすると、羽田沖の方から同じ大きさの舟が何れも二挺櫓(ちやうろ)を立てて、やつしやつしと漕(こ)いで來ます。あとからあとからと都合五隻(せき)を數(かぞ)へました。[やぶちゃん注:「羽田沖」現在の東京国際空港附近(ひなたGPS)。]

「何處へ急ぐ舟なんだらう、大變な勢(いき)ほひだねえ」と獨り言を云ひ云ひ、見るともなしに見てゐると、五隻の舟はずんずん近よつて、この張出しの側(そば)まで來ました。

 「おやおやここへ着(つ)くのか知ら」と思ふ中に張出しの前を通(とほ)りぬけて、芝浦(しばうら)の方ヘ入らうとしましたが、又(また)何時(いつ)とはなしに五隻の舳(へさき)が向きかはつて、矢張り田中家の裏手(うらて)へ戾(もど)つて來る、田中家へ着くのかと思ふと、又(また)沖(おき)へ出る、沖へ出るかと思ふと戾(もど)つて來ると云ふ風に、掛聲(かけごゑ)と威勢(ゐせい)ばかりは大したもんですが、舟はいつまでもいつまでも同(おな)じ處(ところ)をぐるぐると𢌞(まは)つてゐるばかりです。

「どうしたといふんだらうね、一寸(ちよつと)お仲(なか)さんあの舟は一體何だらう」とお粂(くめ)が不審(ふしん)を打ち出したのを始(はじ)めとして、張出(はりだ)しにゐた五六人が一同に、その舟(ふね)を見ましたが、舟は相變(あひかは)らず田中家のうら手を中心(ちうしん)にして、只(たゞ)一つところを五隻が𢌞(まは)つてゐるばかりです。

「成る程妙(めう)な舟だ、何の爲めに乘(の)りまはして居るんだらう」

「一體何處へ行く舟(ふね)だらう」

「妙(めう)な舟ぢやないか」といふ風に、張出しでは總立(そうだ)ちになつて騷(さわ)いでゐる。すると、舟の方でもよくよく持餘(もてあま)したと見えて、五隻に乘つた十人の舟子(ふなこ)が、もうぐたぐたに弱(よわ)つてゐるらしい、動(やゝ)もすれば櫓(ろ)は流されさうな有樣でしたが、到頭(たうとう)、漕(こ)ぐ手を止めて、一人二人がぼんやり立つて了ひました、と、あとの七八人も張合(はりあひ)なげに手をやめて、

「どうも驚ろいた、幾何(いくら)漕(こ)いでも、漕ぐ方へは行かねえで、ここの家(うち)へばつかり戾(もど)つて仕樣がねえ」

「迚も此上は俺達(おれたち)の力に了(を)へねえから、一先づここらで休(やす)まして貰(もら)はうぢやねえか」などと云ふ聲が張出しへも聞こえます。乘(の)つてる客もすつかり引締(ひきしま)つた顏になつて了つて、

「さうださうだ此上(このうへ)漕(こ)いでて、引くり返されでもしたら往生(わうじやう)だ、心中ものの行方を探(さが)しに來て、心中もののお供(とも)をするなア、餘り丁寧(ていねい)に過ぎらあ」

「此家は送(おく)り茶屋(ちやや)らしいから、一つここへ着けて暫(しば)らく休(やす)まして貰(もら)はうぢやねえか」などと云つて居ましたが、直(すぐ)に田中家の水門(すゐもん)へ、五隻の舟が着(つ)きました。

 どやどやと裏口から上つて來たのは、商家(しやうか)の手代(てだい)らしい人が七八人に、廓(くるわ)の若い衆[やぶちゃん注:「しゆ」。]やうなのが二三人、それに六十を越(こ)して見えるお婆(ばあ)さんが一人といふ顏觸(かほぶ)れです。

「私たちは探(さが)しものをする爲めに、四日前から舟を出して、房州沖(ぼうしうおき)までも乘りまはして來たもんだが、五日目の今日(けふ[やぶちゃん注:底本では、「けけ」。誤植と断じて特異的に訂した。])、ここまで來ると、この家の前で、舟(ふね)が五隻とも何うしたものか動(うご)かなくなつたから、まやかしに着(つ)かれたのかも知れません。少し氣を拔く間、休(やす)まして下さい」

 といふ口上ですから、サアサアと仔細(わけ)もなく、この裏口(うらぐち)からの客を二階(かい)へ通しました。其處で不圖(ふと)氣(き)がついたのはお粂(くめ)です。側に居た幇間(たいこもち)の新八の袖(そで)を一寸引きました。

[やぶちゃん注:「送り茶屋」吉原で言う「引手茶屋」(遊郭で客を遊女屋へ案内する茶屋)を、品川などでは「送り茶屋」と呼んだ。]

 

          

 

「あの舟は何(なに)か引寄(ひきよ)せるものがあるんぢやないかね、お前(まへ)さん、何う思ふへ」とお粂(くめ)が云ひますと、

「さうですねえ、殊(こと)によつたらさうかも知(し)れない。私は今一寸見當つけた事(こと)があるんで、實はいやな氣持(きもち)になってゐるところさ」

「いやな氣持(きもち)つて、あの一件ぢやないの」

「其通り其通り、旦那が今朝(けさ)埋(う)めておやりになつた心中ものでせう」

「さうよ。先刻(さつき)、舟を上る前に、心中者を探(さが)しに出たとか云つた事から考(かんが)へ合(あ)はせると、殊によったら、昨夜(ゆふべ)の心中者の幽靈(いうれい)が、その舟を引寄せてゐるんぢやあるまいか、と私は思(おも)ふのさ」

「姐(ねえ)さんも、さう思ひますか、兎(と)に角(かく)、あの人たちに知らしてやつて見ませう」

「さうした方(はう)が好(い)いわ」で、二人は直ぐに五隻(せき)の舟の乘手のところへ思つた儘(まゝ)を申し出して見ました。それと聞(き)くと、舟の連中(れんぢう)は橫手を打つて「成るほどそれに違えねえ、兎に角掘(ほ)り起(お)して貰つて見(み)よう」となつた。

 さあかうなると、田中家は又(また)しても一騷(さわ)ぎです。町役場(まちやくば)へ驅(か)け付けて、役人に立會を賴(たの)むものは賴む、人足(にんそく)を呼びに行く奴は行く、といふ風で、空地(あきち)に埋(う)められた二つの死骸(しがい)は又元の通りの姿で塚穴(つかあな)を出ました。例(れい)ののつぺらぼうで白裝束(しろしやうぞく)をした二つの死骸は、五隻の舟(ふね)の人たちに取り圍(かこ)まれて、いろいろに調(しら)べられたが、何しろ、顏はのつぺらぼうだし、持物(もちもの)は何もなくて、着物は白裝束、僅(わづ)かに見分けをつける目途(めあて)になるのは二人の身體(からだ)を結び合はした赤い扱帶(しごき)ですが、これとても無地の非縮緬[やぶちゃん注:ママ。「緋縮緬」の誤記か誤植。]、目印(めじるし)であつて目印の用を成(な)しません、尋(たづ)ねる死骸と定めてよいのか何だか全(まつた)く見當がつかない。

「困(こま)つたね」とばかり顏を見合せました。

「一體(たい)貴郞方(あなたがた)のお探(さが)しになる心中ものと云ふのは、何處の方です、決(けつ)して他言(たごん)はいたしませんから」と田中家の女將(おかみ)のおきくさんが尋(たづ)ねますと、舟に乘つてゐた人たちが、交(かは)る交(がは)る話しを始めました。

 

         

 

 吉原(よしはら)で玉屋といへば當時の大見世(おほみせ)です。其の玉屋のみつぎといふ花魁(をいらん[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])に初見世からの馴染(なじみ)で通ひつめたのが馬喰町(ばくろちやう[やぶちゃん注:同町はこうも呼んだ。])三丁目の和泉屋(いづみや)といふ砂糖問屋(さたうとんや)の若旦那で吉太郞と云ふ男、女も例(れい)の憎(にく)からず思つた末(すゑ)が、二人とも無理の仕放題(しはうだい)、揚句(あげく)には手も足も出なくなつたので心中と出かけて、丁度二十六夜(や)から七日前といふのだから、十九日の夜(よる)であらう。吉太郞が豫(か)ねて自分の家の出入の吳服屋に男ものと女ものと死裝束(しにしやうぞく)を仕立てさせ、それを持つて家出をしたので、廓(くるわ)を裲襠(しかけ)の儘で拔けて來た女と、吉野橋(よしのばし)[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。吉原の南東直近。江戸時代は「山谷橋」と呼んだが、明治二(千八百六十九)年の地区名改称で変更されている。]で落合つて、人目を忍び忍び、吾妻橋(あづまばし)[やぶちゃん注:ここ。]へ出た。彼れこれ夜も子(ね)の刻下(こくさがり)卽ち午前一時頃といふのだから、人通りも殆(ほと)んど絕(た)えてゐます、其吾妻橋の上で二人は白裝束(しろしやうぞく)に着かへました。男の縞(しま)の上布(じやうふ)、女は水色無地絹の長襦袢(ながじゆばん)に、露芝(つゆしば)[やぶちゃん注:中央の膨らんだ弧と、大小の点で、芝と露を表わした紋様。]の繡(ぬひ)をした藤色絹の裲襠(しかけ)を着て居りましたが、それを一まとめにして今まで、白裝束を包(つゝ)んであつた風呂敷(ふろしき)に丸め込みました。

[やぶちゃん注:「吉原」「玉屋」江戸新吉原江戸町一丁目の妓楼角の「玉屋」(「火焔玉屋」とも称した)。

「裲襠(しかけ)」「打ち掛け」に同じ。他の衣類の上から、打ち掛けて着るところから、着流しの重ね小袖の上に羽織って着る小袖。古く室町以降の武家女性の礼服で、夏季を除いて用いた小袖で、色は白・黒・赤を正式とし、紗綾(さや)か、綸子(りんず)の地に、金糸などで、総模様を差し縫いしてあるものを指した。羽織のようにうちかけて着るので「打掛」と呼ぶが、歩く際、裾をかいどるので「掻取(かいどり)」とも称した。江戸時代になると、富裕町人の婚礼衣装にも用いられ、また、遊女も「仕掛(しかけ)」と称して、道中着に用いた。貸衣装の普及とともに現代でも婚礼衣装として多く用いられるようになった(主に平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。]

「さあこれで、いつでも死(し)ねます」と女が男の顏を月かげに見上げますと、

「あ、心靜(こゝろしづ)かに死なうね、もつと此方(こつち)へお寄り」

「え、貴郞(あなた)、しつかり抱(だ)いて下さいな」と云ふ風に二人の身體(からだ)がぴつたり寄り添つた機(はぢみ)にこの橋下からのそりと現はれたのが、橋下(はしした)を定宿(ぢやうやど)にしてゐる乞食(こじき)の常公でした。橋の上で何やら人聲がすると思つて、顏(かほ)を上げて見たのですが、眞白の着物を着た人間が目の前に突立(つゝた)つてゐたのですから、野郞(やらう)驚(おど)ろいた。

「ワーツ」と頭を抱(かゝ)へて、其場へ腰(こし)を拔(ぬ)かして了つたので、此方の二人がそれと氣付(きづ)くと、不圖考(かんが)へ出した事があります。

「橋(はし)の下にゐる乞食だらう、よい事がある、二人の身體(からだ)をあの乞食の力で、しつかり結(ゆは)へさせやう、そして二人が抱(だ)き合(あ)つた儘(まゝ)、大川へ突落して貰(もら)はうではないか」

「やつてくれるでせうか」

「何有(ななに)金さへやれば、何でもしてくれる、ここに使(つか)ひ餘(あま)りが三兩二分ある、これとお前と私の着物をやつて賴んで見やう[やぶちゃん注:ママ。]」突差(つきざし)に極(き)めて「おいおい若いの、少し賴まれてくれないか」と呼(よ)びかけました。

 乞食(こじき)は腰(こし)をぬかした體(てい)で「へいへい、どうぞお助けなされて下さりませ」とおどおどしてゐるのを宥(なだ)めるやうにして吉太郞は側(そば)へ寄つた、そして片手に持つた三兩二分の金を金入(かねい)りぐるみ乞食の手へ渡(わた)しました。

 づつしりと手にこたへる金入れの重(おも)みに、乞食も少しは人心(ひとごゝろ)がついたらしい「何のお用でございますか」と云ふと、

「ここに扱帶(しごき)があるから、それで二人の身體(からだ)をしつかり結び合はしてくれないか」

「これで結(むす)ぶんですか、そして何(どう)なさらうと云ふのです」

「結び合はしたらね、お前の力で、二人を橋(はし)の上から突落(つきおと)しておくれ」

「えツ、橋(はし)の上から、冗談(じようだん)ぢやない、旦那、橋の下は大川ですぜ」

「大川は判(わか)つてるよ」

「大川へ突落したら死(し)にますよ」

「さうよ、死にたいから賴(たの)むのさ」

「死にたいから、そ、そ、そんな事が出來るもんで御座(ござ)いますか」

「出來ても出來なくつても賴(たの)むからやつておくれ、いやなら其金(そのかね)は返(かへ)してくれ、其金は持つた儘で私たちが勝手(かつて)に飛び込むまでの事さ」

「あ、あ、あ、氣(き)が早(はや)い、私が突落さなければ貴郞方(あなたがた)は勝手(かつて)に飛び込むといふんですか、それではお金までが水の泡(あは)になつて了ひますが」

「さうだよ、お前が呍(うん)と云つてくれれば、お金はお前の手に渡(わた)るんだ、その上、ここに是(こ)れだけの着物(きもの)があるが、これもお前にやらう、どうだね、賴(たの)まれてくれるかえ、いやなら、いやでも可(い)い」

 かう云はれると、乞食(こじき)の常公、一寸(ちよつと)迷(まよ)つてゐたが、

「ようがす、やりませう」と造作(ぞうさ)もなく引受けました。

「やつてくれるか、其れで私達(わたしたち)も安心した、ぢや直(す)ぐに持つてくれ、人の來ない中に早(はや)く早く」と吉太郞(きちたらう)はみつぎを引寄(ひきよ)せて、二人がにつこり笑ひながら抱(だ)き合(あ)ひました、常公はみつぎが出した緋(ひ)ちりめんの扱帶(しごき)で、二人の胴中(どうなか)をしつかりと結(ゆは)へてから、二人の顏を始めて見上げたさうですが、月の光を眞橫(まよこ)に受けて、二つの美くしい顏が、蠟(らう)のやうに透(す)き通(とほ)つてゐたと申します。

「おみさ、思(おも)ひ殘(のこ)す事はないかえ」

「何にもありません、吉さん、嬉(うれ)しく死にます、抱(だ)いた手を放さないで下さいまし」

 

「あ、放(はな)すものか、それぢや若いの、もう少し欄干(らんかん)の際(きは)まで行くから、思ひ切つて突飛(つきと)ばしておくれ」

 「ハイ、よ、よ、よろしうございます」と常公(つねこう)、今更(いまさら)になつておどおどしてゐます。

 

         

 

 かうして二人を大川(おほかは)へ突落した乞食は、翌日(よくじつ)すぐに女と男の着物を屑屋(くづや)に賣りました。それが間もなく馬道の(うまみち)の古着屋(ふるぎや)にぶら下つたので、手がかりとなりました、玉屋からと、和泉屋(いづみや)からと出た人數が、件(くだん)の通り五隻の舟に乘り別れて、先づ大川筋(おほかはすぢ)を芝浦(しばうら)沖へ下り、それから木更津(きさらづ)あたりから房州(ぼうしう)までも探し探し、五日に亘(わた)つて漕(こ)ぎ𢌞つたのですが、どうしても其れらしい屍骸は見當(みあた)りません。五目目といふのが、廿六夜待(やまち)の當日です、もうすつかり力を落して例(れい)の品川沖まで戾つて米ると、田中家の前で船がぐるぐる𢌞(まは)りを始(はじ)め、漕(こ)いでも漕いでも動かなくなつたといふ始末(しまつ)です。

「さういふ譯(わけ)でしたら、云ふまでもなく、この白裝束(しろしやうぞく)といひ、緋ぢりめんの扱帶(しごき)といひ、紛(まぎ)れもない尋(たづ)ぬるお方でせう」と女將(おかみ)のおきくが云ひますと、和泉屋の手代(てだい)は、

「え、元(もと)よりそれに相違(さうゐ)はないと思つては居ますが、何しろ二人が二人とも、この通(とほ)りのつぺらぼうの顏になつてゐるのですから、萬一同じやうな死態(しにざま)がありまして、それと取違(とりちが)へる事にでもなりましてはね」

「さあそれもさうですがね」と此樣事(こんなこと)を云ひ合つてゐる中に、舟に乘つた連中(れんぢう)の中の六十位の婆(ばあ)さんが堪らなくなつたやうにして、進み出ました、この婆さんといふのは卽ち花魁(をいらん)みつぎの實の母親です、つかつかと進むと、人々を兩方(りやうはう)へかき分けて、

「これ娘(むすめ)、どうぞ證據(しやうこ)を見せておくれ、若しお前が私の娘なら、これほどに親(おや)を迷(まよ)はせる事はあるまい、本當(ほんたう)に娘だつたのなら、どうぞ一目何か證據(しようこ)を見せておくれ、これ娘、それとも赤の他人か、さあどうだえどうだえ」と言つてる中に、もう氣(き)はそぞろになつて、白裝束(しろしやうぞく)の屍骸にすがりつくばかりになり、人目(ひとめ)も恥(は)ぢず泣(な)きました、すると不思議や、今が今まで、抱(だ)き合(あ)つてぐつたりと息(いき)を引取つてゐた、のつぺらぼうの二人の屍骸(しがい)の中、女の方の屍骸の顏が、氣の所爲(せい[やぶちゃん注:ママ。])でかむらむらとゆらめいた樣(やう)でしたが、のつぺらぼうの鼻と思はれるあたりから、タラタラタラと生々(なまなま)しい血が流れて來ました。

 お婆(ばあ)さんの樣子の哀(あは)れさは譬(たと)ふるに物もありません「娘か矢張り娘であつたか、ああ飛(と)んだ事をしてくれた、お前ばかり勝手(かつて)なところへ行つて、年(とし)を老(と)つた私はどうなると思ふのだえ、アヽ情(なさけ)ない事をしておくれだ」とばかり止(と)め途(ど)もなく、泣(な)き狂(くる)ひました。

 この上はこの屍骸(しがい)に何の疑(うた)がひもありません、探(さが)し舟(ぶね)を引寄せた事、血を見せて親子の知らせをした事、この二つを證據(しようこ)と認(みと)めて、お役人もこの死骸の引取りを許しました、が、ここに今一つ障(さは)りがあります。

 其頃の掟(おきて)として、かういふ變死人(へんしにん)の死骸は最初に假埋葬(かりまいさう)などをしてやつた人の許しを得なければお役人(やくにん)でさへも動かす事が出來ないのです、卽(すなは)ちかうなると一刻(こく)も早く、松原新五郞さんに立會つて貰(もら)はなければならぬといふ一埒(らち)なのです。

 元より其以前から幇間(たいこもち)の新八が、旦那の行方を探(さが)しに出てはゐるのですが、心當(こゝろあた)りを次から次にと尋(たづ)ねて𢌞(まは)つても、皆目(かいもく)行方(ゆくえ[やぶちゃん注:ママ。])が判りません、辿(たど)り辿つて吉原へ見當をつけ、かねて行きつけの茶屋(ちやや)三軒(げん)の中、二軒まで尋ねた時にはもう亥(ゐ)の刻(こく)過ぎ、卽ち夜の十時過ぎでありました。

「あとは長崎屋(ながさきや)一軒(けん)だな、ここにおいでがなかつたら、もう當(あた)りがつかないが、困(こま)つたもんだ」と獨(ひと)り言(ごと)を云ひ云ひ、草臥(くたび)れ切つて新八は、三軒目の茶屋の敷居(しきゐ)をまたぎました。

 

         

 

 心中の死骸(しがい)を見て、すつかり氣をくさらして了(しま)つた新五郞さんは、駕新(かごしん)の駕籠にゆられる間も氣持わるく一散(さん)に白魚河岸(しらうをがし)へ乘りつけさせました、そして荒木屋(あらきや)の二階で酒の力を借(か)りて氣を晴さうとしましたが、どうしても心(こゝろ)がさらりとなりません、日(ひ)の暮(く)れかゝつた時分に又してもこゝを出て柳橋(やなぎばし)へ行きました、場所をかへたらと思つたのですが、それでも心は晴(は)れません、只(たゞ)の半時も過ぎぬ中に、猪牙(ちよき)を山谷堀(さんやぼり)へ着けさせました、そして吉原の引手茶屋(ひきてぢやや)長崎屋(ながさきや)へ、へとへとになつた身體(からだ)を送り込まれ、どつしり御腰(みこし)を落付けて、追ひかけ追ひかけ茶碗酒(ちやわんざけ)をあふりました。藝者たちをどれほど叱(しか)りつけたか、女中にがみ付いた[やぶちゃん注:「かみつく」に同じ。]か、其樣事(そんあこと)は一切お構(かま)ひなしで、丸で平生(へいぜい)の新五郞さんが人違(ひとちが)へをしたほどのやんちやを云つた揚句(あげく)、發しなかつた酒が一氣に欝結(うつけつ)して、二階坐敷にごろりとなつて了(しま)ひました。

 寢(ね)るともなしにうとうととしてゐますと、

「御免下(ごめんくだ)さいまし、御免下さいまし」といふ聲(こゑ)が何處やらでしてゐます。

「はて、誰(だ)れが何處(どこ)で、誰れを呼(よ)んでゐるんだらう」と思つて、うるささうに寢がへりを打つと又しても

「御免下さいまし、御免下さいまし」と云(い)ひます。今度は其聲(そのこゑ)が、つい手近の枕許(まくらもと)に響きます。

「誰(だ)れだえ」

「へい、私でございます、一寸(ちよつと)お目にかゝりたうございます」

「誰(だ)れだつたらう、只私ぢや判(わか)らねえ」

「へい、お目にかゝれば判りますが、名前(なまへ)を申してもお思ひつきが御座(ござ)いますまい、一寸ここをお開(あ)け下さいまし」

「うるさいな、好(い)い心持で寢(ね)てるのに、まア何でも好いから、開(あ)けて入(はい)んなせえ」

「へい、難有(ありがた)うございますが、當り前のところからは入りにくうございますから、どうぞこゝをお開(あ)け下さいまし」

「こゝつて何處(どこ)だえ」

「書院棚(しよゐんだな)の障子でございます」

「書院棚の障子(しやうじ)、妙なところを開けたがる奴だな、何でも好い、構(かま)はず開けなさい」

「ハイ、ではお言葉に甘(あま)へまして、開けたうございますが、何ですか、かう、手が黏(ねば)つて開けられませんから、恐(おそ)れ入(い)りますが、お開けなさつて下さいまし」

「何、手が黏つて開けられない」と鸚鵡返(あふむがへ)しに自分の目で云つて見たが、どうしたものか其時(そのとき)ぞうつと身の毛(け)がよだつた。

「手(て)が黏(ねば)る」

「ハイ、手が黏りますから、どうぞ旦那(だんな)のお手で」

「チヨツ、仕樣(しやう)がねえな」と云つて、書院棚の障子(しやうじ)をガラリと開けました。小振の上に滑(すべ)りの好い書院棚の障子は、つるりと走(はし)つて柱(はしら)ヘポンと打突り、ガラリと跳(は)ねかへつて一尺ばかりの𨻶(すき)を造(つく)りました。

 機(はづ)みに、冷(つめ)たい風が、じめじめと入つて來たかと思ふと、

「へい、御免下(ごめんくだ)さいまし」と云つて、其の一尺の𨻶(すき)から、ぬうと顏を出し、書院棚へ外からぴたりと兩手(りやうて)をついたものがあります。

 新五郞さんが起直(おきなほ)つて振向(ふりむ)くと、其者は顏をずつと書院棚へ低(ひく)くすりつけて、

「誠(まこと)にありがたうございました、お庇樣(かげさま)で只今宿許へ引取(ひきと)られて參るところでございます、一寸旦那樣にお禮(れい)を申し上げたいと思ひまして、伺(うかゞ)ひましてございます」と、病人(びやうにん)のやうな聲を出して云つて了(しま)ふと、不意と顏(かほ)を上げた、其顏は、其顏は……

 新五郞さんは一言(ごん)の聲も出ません、新(たゞ)油汗(あぶらあせ)をぐつしより搔(か)いて、其場へ突伏(つゝぶ)して了ひましたがもうあとは前後不覺(ぜんごふかく)です。

 

         

 

 暫(しば)らくして目を覺(さ)ましますと、夜はしんしんと更けた樣に思(おも)はれながら、外の方は可成(かなり)賑(にぎ)やかな樣子(やうす)です。

「一體、今のは夢(ゆめ)だつたのか知ら、それとも現(うつゝ)だつたのか」と氣味わるわる、あたりを見(み)まはしますと、自分の手で開(あ)けたおぼえのある書院棚(しよゐんだな)の障子は正に開いて居ります、而(しか)もポンと開けた力が餘(あま)つて跳(は)ねかへり、結局一尺ばかりの開きになつた、其の通りに開(あ)け放(はな)されて居ります。

「アツ、開けたまゝだ」と口に出して云つた新(しん)五郞(らう)は只(たゞ)茫然(ばうぜん)となつた。其耳許へ、又しても、又しても、

「御免下(ごめんくだ)さい、御免下さい」といふ聲がします。もう誰れだと勇氣(ゆうき)さへなくて、聲のする方を見返らないやうにして、ポンポンと手(て)を打(う)ちました。が其の手は鳴(な)りません。

「御免下さい、旦那樣(だんなさま)、お寢(やす)みですか、開けましても宜しうございますか」と、今度は云ひ方が少(すこ)し違(ちが)ひます。

「誰(だ)れだ」

「私でございます、お目覺(めざ)めですね」

「誰れだ」

「私、新八でございます、へいどうもお妨(さまた)げをいたしまして相濟(あひす)みません」と云ひく葭障子[やぶちゃん注:「よししやうじ」。]を開けて入つて來たのは、紛(まぎ)れもない幇間(たいこもち)の新八でした。

「何だ新公(しんこう)か、何ぞ用でもあつて來たのか」

「へい少々(せうせう)」

「歸(かへ)れといふんだらう」

「へえ、よく御存(ごぞん)じで」

「うむ、大抵(たいてい)判(わか)つてる、心中ものゝ身許(みもと)が知れたのか」

「おやおやおや、これはこれは驚(おどろ)きましたな、どうも、全(まつた)く其通りでございます、夕刻(ゆふこく)に判りまして、早速(さつそく)引取(ひきと)つて參りたいと申しましたが、何分旦那が被居(ゐらつしや)らないと引渡す事が出來ませんので、併(しか)しどうして旦那には、それがお判(わか)りになりました」

「今(いま)、知らせが來た」

「えツ、誰(だ)れか手前より先に參(まゐ)つたものがありますか」

「うむ、今(いま)來(き)た」

「へえ、誰れが參(まゐ)りました。手前の外には誰(だ)れもお迎(むか)へに出なかつた筈(はづ[やぶちゃん注:ママ。])でございますが」

「いや、來(き)た」

「金孝(きかう)でございますか」

「いや、違(ちが)ふ」

「では茶利兵衞(ちやりべゑ)でございますか」

「いや違(ちが)ふ」

「では駕新(かごしん)の若い者でも」

「いや違ふ」

「一寸當りが付(つ)きませんね、誰れでございませう」

「本人(ほんにん)が來たんだ」

「本人、本人と申(まを)しますと」

「本人は本人さ、心中(しんぢう)の本人」

「えツ、心中の本人、では幽靈(いうれい)でございますね」

「先(ま)づさうよ」

「へヘヘヘ、お冗談(じようだん)ばかり」

「いや、冗談ぢやない、其處にその通(とほ)り、來たあとが殘(のこ)つて居るぢやねえか」

「幽靈(いうれい)の來たあと、ええ、氣味(きみ)の惡い事ばつかり」

「その書院棚の障子(しやうじ)を見て御覽(ごらん)」

「えつ、本當(ほんたう)ですか」

「本當どころか、現在其の障子をおれが開(あ)けてやつたんだ、そして、お庇樣(かげさま)で只今、宿元(やどもと)へ引取られて參(まゐ)るところで――と云ひながらひよいと上げた顏を見るとね、――ああ、意氣地(いくぢ)がねえやうだが、俺(おら)あもう一生(しやう)忘(わす)れられねえぜ」

「へえ、………」

「其の書院棚(しよゐんだな)の外から、ピタリと手をついて、突伏(つゝぶ)してゐる間は正に一人の姿(すがた)で、誰れだらう、いやに白い着物(きもの)を着てゐやあがるなあと思つてゐただけだが、今(いま)のやうに云つて、すうつと顏を上げると、それが目も鼻も口もないのつぺらぼうさ。而(しか)も、一つの首(くび)から二つの顏が並(なら)んで出てな、一人の方は本當(ほんたう)ののつぺらぼうだが、一人の方は、鼻のあたりと思(おも)はれるところから血がタラタラタラタラと流(なが)れてゐたつけ。現在、俺が昨日(きのふ)葬(はうむ)つてやつた心中ものゝ顏ぢやねえか、ぐうもすうも云(い)へなくて突伏して了つたが、其のあとの事は何にも知らず、それからだ、それからやがて目がさめてから、今のは夢(ゆ)かと思ひながら、その書院棚(しよゐんだな)を第一に見るとどうだえ、一度も開けた事のねえ書院棚の障子(しやうじ)が、俺の手で跳(は)ねただけ開け放してあるぢやねえか、心中の幽靈がお禮(れい)に來たのは夢(ゆめ)としても、書院棚の障子を開けた事だけは實際(じつさい)なのだから、俺(おいら)どうしても、かうしても、こゝに居られなくなつたところへ、お前が煮(に)え切れねえ聲を出してやつて來たもんだから、あの通り怒鳴(どな)りつけたわけだあね、いや、これぢや、迎(むか)へが來なくとも、かへりたい、すぐに駕籠(かご)を云ひつけてくれ」と、新五郞さんは、一刻(こく)の猶豫(いうよ)も出來ません。新八と一緖(しよ)に夜の更けるのも厭(いと)はず田中家へ引(ひき)かへして來(き)ました。

 かうしてのつぺらぼうの死骸(しがい)二つは、それぞれ親許(おやもと)へ引取られようとしましたが、こゝにも亦不思議が起(おこ)りました。二つの身體を結び合はしてゐた緋(ひ)ぢりめんの扱帶(しごき)が、二人の身體にしつかり食ひ入つて了つて、どうしても解(と)けなくなつてゐるのでございます。

「遉(さす)がは、思ひ合つての心中だ、一緖(しよ)に埋(う)めてくれといふのでゞもあらうよ、和泉屋さんも玉屋さんも、これは一番(ばん)然(しか)るべきお計(はか)らひをしておやりなすつたら如何(どう)です。こんな事にまで私が口を出しては濟(す)まないわけですが」と新五郞は口添(くちぞ)へをしました。

 和泉屋(いづみや)の番頭も、玉屋(たまや)の番頭も異存(いぞん)はありません。みつぎ花魁(をいらん)のお母も一寸考ヘてはゐましたが、直ぐに承知(しようち)をしました。それで、二人の死骸(しがい)は、結び合はしたなりで、馬喰町[やぶちゃん注:前に徴して「ばくろちやう」と読んでおく。後も同じ。]へ引取られて行きました。そして和泉屋の墓地(ぼち)へ、夫婦(ふうふ)として葬られました。

 松原新五郞さんの息子(むすこ)さんは今(いま)兜町(かぶとちやう)に出入りをしてゐます。其の二代目新五郞さんが、

「まだ十四五の時から、よく此の話を親爺(おやぢ)に聞かされましたつけ、あんな薄氣味(うすきみ)の惡い目に會つた事は、俺(おいら)あ、六十年の生涯(しやうがい)に只つた[やぶちゃん注:「たつた」と訓じておく。]一度だ。思ひ出してもぞつとするねと、死ぬまで云つてゐましたつけ」

 と云はれました。[やぶちゃん注:一字下げはママ。]

 因(ちな)みに申します、吉原の玉屋は其後(そのご)間(ま)もなくなくなり、馬喰町の砂糖問屋(さたうとんや)は二十年ほど前まで續いてゐましたが、今(いま)はありません。

 ですからこの心中者の比翼塚(ひよくづか)は今どうなりましたか、二代目松原氏は知(し)らないとの事です。

[やぶちゃん注:加工データの『ウェッジ文庫』版の東雅夫氏の本篇の解説に、『この作品には典拠となった原話がある。大正八年(二九一九)七月十九日夜、向島百花園の喜多の家茶荘で開催された納涼怪談会の席で、「株式に出ている松原という人」が、父親の実体験談として披露した話なのだ。泉鏡花や新派の名女形・喜多村緑郎らが中心となって催されたこの怪談会の模様は、「都新聞」紙上で一ケ月近く(七月二十一日~八月十四日)にわたり詳報されており、その概要を知ることができる。原話には心中者の細かな来歴などは端折られているものの、大筋は同じである。ちくま文庫版』「文豪怪談傑作選・特別篇 鏡花百物語集」『(二○○九)に「向島の怪談祭」として全話が復刻収録されているので、読み較べてごらんになるのも一興だろう』『なお』、「芸者繁昌記」『所収の随筆「怪談」(前掲』「鏡花百物語集」『に併録)には、「怪談会というものの発起人となって、都合三度ほどやった事がある。第一回は向島の喜多の家茶荘、第二回は井の頭の翠紅亭、第三回は私の宅の二階で」とあって、蘆江もこのとき発起人の一人に名を連ねていたことが分かる。そればかりか、文章の書き癖や内容から推して、大正期の「都新聞」にしばしば掲げられた怪談関連記事の多くは、蘆江自身の筆になる可能性がきわめて高いのである』とあった。私は二十五年前、『ウェッジ文庫』版を買って本篇を読み、以上の「文豪怪談傑作選・特別篇 鏡花百物語集」を買い、確かに読んだのだが、書庫の藻屑の底に沈んで、同書をサルベージ出来ないのが、遺憾である。]

譚海 卷之六 大坂北中島崇禪寺馬場敵討の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。標題の「崇禪寺馬場」は「そうぜんじばば」、「敵討」は「かたきうち」。この敵討(但し、結果は「返り討ち」)は、かなり知られた事件で、浄瑠璃「敵討崇禪寺馬場」(竹田小出雲他合作・初代金沢竜玉他補作・宝暦一〇(一七六〇)年五月大坂嵐吉三郎座初演)・歌舞伎・映画に脚色されており、ネット上でも複数の記事があり、ウィキの「崇禅寺馬場の仇討」もある。「大阪市立図書館」公式サイト内の「大阪に関するよくある質問」の「崇禅寺(そうぜんじ)馬場の敵討について知りたい」の回答をリンクさせておく。「北中島崇禪寺馬場」は現在の東淀川区東中島五丁目のここ(グーグル・マップ・データ)に跡がある。]

 

○大坂北中嶋崇禪寺馬場敵討略記。

 遠城治左衞門(ゑんじやうぢざゑもん)重橫[やぶちゃん注:「重橫」は「重擴」(「しげひろ」か)の誤記。]・安西喜八郞光泉は、元(もと)和州郡山(こほりやま)の城主本多(ほんだ)侯の家士也。

 同じ末弟に遠城宗左衞門重次といふもの有(あり)。

 郡山にある日、傍輩生田傳八郞と、劍術の功を、あらそひて、生田に勝(かち)たり。生田、憤(いきどほり)を含(ふくみ)て、重次を殺し、浪華(なには)に遁(にぐ)る。時に、重次は十七歲也。

 重次が母、悲歎にたへず、重橫・光泉に語(かたり)て曰(いはく)、

「兄弟の讐(かたき)には與(とも)に國を同じくせず。今、あだ、走(はしり)て、境外に出(いづ)といへども、猶、遠からずして、有(あり)。豈(あに)むなしく聞(きく)に堪(たへ)んや。」

と云(いふ)。

 兩士、爰に於て國を去(さり)、直(ただち)に山口武兵衞・伊藤勝右衞門と改名して難波(なんば)に來(きた)り、生玉(いくたま)邊(へん)に留(とまり)、一日(ひとひ)生田を市(いち)に見て、

「勝負を決せん。」

と云(いふ)。

 傳八、曰(いはく)、

「我、昔日(せきじつ)、非理(ひり)にして、重次を殺し、今、大に悔(くひ)、又、兩士に遇(あふ)、何ぞ敢(あへ)て死を、をしまん。乍ㇾ然(さりながら)、我、今日(けふ)、去(さり)がたき事、有(あり)。請(こ)ふ、三日をへて、崇禪寺馬場に會(くわい)して、死を決(けつす)べし。」

と云(いふ)。

 仍(よつて)、兄弟、約日(やくじつ)を待(まつ)て、此所(ここ)へ來(きた)れ共(ども)、面謁(めんえつ)を經(へ)ず、空(むなし)く退(しりぞ)く。

 他日、傳八、私計(しけい)を以て、弓屋丹波大和屋五兵衞といふものに書(ふみ)を託して、又、日を約して、崇禪寺の松原に會せん事を、兩士に云(いふ)。

 兩士、悅(よろこん)で、又、約日に及(およん)で、此所に至れば、生田も來會(りくわい)して、鋒刄(ほうじん)をまじふ。

 傳八方(がた)に、數多(また)の加勢あれば、兄弟、祕術を盡すといへども、竟(つひ)に生田が爲(ため)に、うたる。時に正德五乙未(きのとひつじ/いつび)霜月四日也。

 嗚呼(ああ)可ㇾ惜(をしむべし)、天乎命乎(てんかめいか)。余(よ)、其志(そのこころざし)を感じて、一塔を建て、亡魂を弔(とふら)ふもの也。

遠城治左衞門年二十六歲、法名「劍樹心英居士」。

安藤喜八郞二十四歲、法名「刀山天雄居士」。

治左衞門所帶刀筒井越中守入道紀充、同脇指攝州住藤原忠行、同長刀關兼安。

喜八郞刀無銘備前兼光之由、脇指無銘筑州住左末之由、同鑓銘河内守國助千鳥十文字也。

外に鎖帷子・手裏劍・小道具等有。

兄弟傳八郞に遣す一通、

一昨廿八日之日付之一封、今晦日相達令披見候。先達而弓屋丹波大和屋六兵衞方ヘ一封被指越候由、不相屆返事不申入候。然ば多田道攝州崇禪寺邊に密居所ㇾ致候由、每日尋行候得共無面談候處、右崇禪寺馬場にて日限を定め、可ㇾ被出合之旨被申越侯。尤之至得貴意候。此返書通達候ほども候之間、來月四日朝五つ時、必々可ㇾ致面談候以上。

  十月卅日

生田傳八郞長刀に結書置の一通、

今日此所にて及勝負候意趣は、相手遠城宗左衞門と申者難見捨儀御座候に付、仕留立退候の處、兄兩人恨可ㇾ申旨相尋候。私儀遠方に罷在候得者、私へ尋當り不ㇾ申、近親類共へ恨可ㇾ申旨、非道の心指相聞得候に付、出向勝負仕候。御見分の御方御座候はば、右の趣被仰上可ㇾ被ㇾ下候已上。

  未十一月四日

右の品々、攝州西成郡北中島凌雲山崇禪寺に有。

[やぶちゃん注:ここで大事な点は、この「敵討」(かたきうち)は、公的には「敵討」としては絶対に成立しない、認められないものであることである。「敵討」とは、年下の者が年上の者の仇を討つもので、その逆は認められないからである。無論、心情に於いては、大いに同情するものではある。さればこそ、かく芝居にもなったのである。

 なお、書付の漢文部は特に読み難い所はないので、読みも添えず、訓読も示さない。刀工等の注記もする気にならない。

「朝五つ時」不定時法で午前八時半。

「正德五乙未霜月四日」グレゴリオ暦一七一五年十一月二十九日。徳川家継の治世。]

譚海 卷之六 駿遠國境栗世村風俗の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。標題は「すんとほくにざかひくりよむらふうぞくのこと」と読んでおくが、この「栗世村」は誤りで、正しくは旧「三河國加茂郡阿助庄」(あすけのしやう)「名藏」(なぐら)「鄕里」(読み不明)「河内」(かふち)「粟世村」(あわよむら)で、旧愛知県北設楽郡にあった上粟代村及び下粟代村、現在の愛知県北設楽郡豊根(とよね)村三沢(グーグル・マップ・データ航空写真)である。東と南部分で静岡県浜松市と接している。現在も、かなりの山深い地ではある。上記の江戸時代の地名を参照した平凡社「日本歴史地名大系」のこちらによれば、『樫谷下(かしやげ)村の上流にあたる。村内諏訪神社の』慶長一三(一六〇八)年の『棟札に「三河国加茂郡阿助庄名蔵郷里河内粟世村」とあり、大本願に「熊谷拾左門尉・借上夏目孫太夫尉」と記される。これは寛永二一』(一六四四)年の『棟札に』、『樫谷下名主として』、『夏目四郎衛門盛重、粟世名主として熊谷九郎左衛門守長とあるので、当社は樫谷下・粟世両氏子の勧請であることがわかる』とあった。差別的な記事であるので、批判的な視点を以って読まれたい。

 

○駿河・遠江(とほたふみ)の境の山奥、粟世(あはよ)といふ所は、一向に、無文(むもん)[やぶちゃん注:文盲。]の地にて、壹人(ひとり)も、文字を知(しり)たるもの、なし。

 もし、公儀の被仰渡(おほせわたさるる)文書(もんじよ)など到來する時は、其所(そこ)より、二里餘(あまり)の山を、こえ、寺へ持行(もちゆき)て、住持に、よみてもらひ、諸事、奉行(ぶぎやう)する事也。

 人物、愚魯(ぐろ)にして、我(わが)思ふ事より外(ほか)は、『よし。』と、おもはず、たとひ、

「いかやうの非理(ひり)成(なる)事にて、夫(それ)は其方(そのはう)の存寄(ぞんじより)惡敷(あしき)也。」

と、いひきかせても、

「左樣では御座らふけれど、わしは、『よい。』と、おもひます。」[やぶちゃん注:口語表現はママ。]

と、いひて、幾度(いくたび)、說聞(とききか)せても合點せず、一向、治(をさめ)がたき所也。

 されど、親をば、大切にするやうす、たが、をしふるとも、なけれど、天然の理(ことわり)、ふしぎなる事也。

『結繩(けつじよう)の民(たみ)か。』

と、おもヘど、我意(がい)は、すぐれて、たつる人のみにて、誠に、人間外(にんげんぐわい)わたくしの了簡ある所の、さま也。

[やぶちゃん注:「たが、をしふるとも、なけれど」「誰(た)が、敎ふるとも、無けれど」。

「結繩の民」「結繩」(けつじょう)は、古く、文字の無かった時代に、縄の結び方で意思を通じ合い、記憶や意志交換の便(べん)としたこと。中国・エジプト・中南米・ハワイなどで用いられた。本邦でも古代に使用され、文字を持たなかったと一般的には言われるアイヌや、沖縄、及び、一部の地方では、近代まで用いられていた。当該ウィキが詳しいので、参照されたいが、そこに、古代中国の『日本に関して』記載が載る、「隋書」巻八十一の「東夷傳倭國」の『条には、倭人の風俗として』、「文字、無し。唯だ、木を刻み繩を結ぶのみ」と『記している。関連は定かでないが、唐古・鍵遺跡や鬼虎川遺跡など弥生時代の遺跡からは、結び目の付いた大麻の縄や』、『イグサの結び玉と考えられるものも発見されている』。『また古来日本では』「草結び」『と言って、萱や菖蒲などの長い葉を取って』二、三『か所』、『玉結びにして、その結び方や場所によって』、『祝意や恋愛などの様々な意味を表したとされている』とあり、さらに、「東アジア」の項に、『近年に至るまで、琉球諸島や台湾、中国、アイヌ社会、あるいは日本内地でも類例が報告されている』とあって、「北海道」では、『アイヌの結縄文化については』、元文四(一七三九)年に『坂倉源次郎が著した』「北海随筆」や、文化五(一八〇八)年に『最上徳内が著した』「渡島筆記」に『言及されている。これらによれば、和人や山丹人』(「山旦」「山靼」とも書く。主に、ウリチ族や大陸ニヴフなどの黒竜江(ロシア名「アムール川」)下流の民族。樺太アイヌのと間で交易が行われていた)、『オロッコ』(ウィルタ。ロシア連邦サハリン州の樺太(サハリン島)東岸を主な居住域とする少数民族で、ツングース系に属する。その生活の舞台は、伝統的には、樺太中部の幌内川流域と、北部のロモウ川流域であった。アイヌからは「オロッコ」と呼ばれた。オロチ族、乃至は、オロチョン族と混同されることもあるが、実際には異なる民族である。本来の言語はツングース諸語の系統であるウィルタ語)『との交易において』、『勘定用の結縄・刻木が用いられており、和人が交易に出向いた際には』一『年前の情報でも詳細に記憶していた。また、記録法は恣意的に運用されるのではなく、古い慣習に従って行われていた』。『明治の人類学者の坪井正五郎は、帝国大学理科大学にアイヌの結縄を持ち帰っている』とあり、「日本(内地)」では、『宮中行事で大嘗祭の前日に行われる鎮魂の儀に「糸結び(御魂結び)」があり、結びを用いて百を数え、遊離する魂を鎮める習わしがある』。『同様の鎮魂祭は、奈良の石上神宮・新潟の弥彦神社・島根の物部神社などにも伝わっている』。『本居宣長の』「玉勝間」第十三巻には、『讃岐の田舎に伝わる求婚の風習が記されている。男が女に』二つの『結び目のついた藁を送り、女は拒絶する場合には』、『結び目を外して返し、承諾の場合には』、『結び目を中央に集めて返すものという』、『坪井』『が柏原学而』(がくじ)『から伝え聞いた話によると、現在の静岡市駿河区久能山付近』(☜)『では家々の勝手』口『に縄が二本下げてあり、塩売りが塩を置いて行く際』、『その量に従って』、『縄に結び玉を作り、勘定を受け取るときには』、『この玉を数える習慣があった』とある。「沖縄」の条には、『琉球諸島では』、『文字使用を許されなかった庶民の間の記録法として』「スーチューマ」や「カイダ文字」等と『並び』、「藁算(ワラザン・バラザン)」と『呼ばれる結縄の慣習が行われていた。スーチューマやカイダ文字は』、『比較的』、『上層の人々が用いたのに対して、一般庶民は、藁あるいはイグサの結び方によって数量を表す方法を用いたのである。これには人数を表すもの、貢納額を表すもの、材木の大きさを表すもの、祈願用のものがあった』。『明治期に初めて藁算の考察を残した民俗学者の田代安定は、特に八重山地方において普及が著しく、ここでは会計上の意味を超えて、禁止や告訴、命令などの文書的通達に代わる「会意格」の用法があることを記している』とあった。]

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