[やぶちゃん注:本稿は南方熊楠が出版を企図していた『續々南方隨筆』の原稿として書かれたものであるが、結局、未発表に終わった(実際、後掲する平凡社『南方熊楠選集』第五巻の本篇の本文末下部には、編者による『(未発表手稿)』という文字がある)。因みに『續南方隨筆』の刊行は大正一五・昭和元(一九二六)年十一月で、南方熊楠の逝去は昭和一六(一九四一)年十二月二十九日である。但し、『南方閑話』(一九二六年二月)、『南方隨筆』(同年五月)、『續南方隨筆』と、この時期の出版は矢継ぎ早であることから、かなり早い時期から書き溜めていたと考えてよいと思われる。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『南方熊楠全集』第七卷文集Ⅲ(渋沢敬三編・一九五二年乾元社刊)のここから用いた。戦後の出版であるが、正字正仮名である。なお、これは底本では「動物随筆」という大パートの掉尾である。
底本には、ごく僅かしかルビがないが、若い読者のために、ストイックに《 》で推定の読みを歴史的仮名遣で添えた。一部は所持する平凡社『南方熊楠選集』第五巻に添えられたルビを参考にした。また、書名・雑誌名・引用・直接話法部分等には鍵括弧・二重鍵括弧を附した。その関係上もあって、一部に句点を補塡してある。
なお、実は私は、私のサイト「鬼火」の「心朽窩旧館」で、一九八五年平凡社刊の「南方熊楠選集 第五巻 続々南方随筆」を底本とした新字新仮名・後注附きの「大きな蟹の話 南方熊楠」として二〇〇七年四月七日に公開しているが、本篇を正規表現決定版とすることとし、注も零から作り直している。
また、本電子化は、昨日の深夜、二〇〇六年五月十八日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の二〇〇五年七月六日)、本ブログが2,100,000アクセスを突破した記念として公開する。【二〇二四年二月十日 藪野直史】]
大 き な 蟹 の 話
一八九三年板、ステッビング師の「介甲動物史」二六頁に、一八五五年へッフェル纂「廣傳記新編」一四卷を引いて云《いは》く、キャピテーン・フランシス・ドレイクがアメリカの蟹嶋に上陸して、忽ち蟹群《かにのむれ》に圍まれ、兵器もて健《したた》か抵抗したれど蟹に負けた、是等の怪しい蟹は世界で最大の物で、其螯《はさみ》でドレイクの手脚や頭を散々片々に切りさいなみ、其尸骸を骨ばかりに嚙み盡したと。ス師は此話に多少據所《よりどころ》ある由を述べて云く、ドレイク、實は失望のあまり病《やん》で船中に死んだ。世界周航を爰迄無難に遂來《きたつた》つたのだ。蟹がドレイクを食《くふ》たでなく、ドレイクと其徒《ともがら》が蟹を食ふたので、其蟹一疋で四人の食料に十分だつたと、其徒が後日言つた。そんな事が有《あつ》たかも知れない。と云ふは、濠州の大蟹で、ラマークがプセウドカルキヌス・ギガスと學名を名附けたのは、時に殼の幅二呎《フィート》[やぶちゃん注:ほぼ六十一センチメートル。]に及び、一《ひとつ》の螯が餘程大きいといふ。蘭人リンスショテンスの「ゴア航記」に、ゴアの南サンペテロ州なる地に、人が其一の螯で挾まれたら死ぬ故、注意して禦《ふせ》がにや成《なら》ぬ程大きな蟹がおびただしくすむと書いたも、右樣の大蟹が實在するより推して尤もらしく思はると。(「宋高僧傳」一九、唐の成都法定寺惟忠の傳に、此寺塔より一巨蟹の身足二尺餘なるを獲《え》た、と記す。海より遠い地だから、そんな物がいき居《をつ》た筈なし。どこかの海邊より取寄せた山事《やまごと》だつたらう)。
[やぶちゃん注:『一八九三年板、ステッビング師の「介甲動物史」二六頁』不詳。識者の御教授を乞う。
『一八五五年へッフェル纂「廣傳記新編」一四卷』同前。
「キャピテーン・フランシス・ドレイク」エリザベス朝イングランドのゲール系ウェールズ人航海者で海軍提督にして海賊(私掠船船長)であったフランシス・ドレーク(Francis Drake 一五四三年頃~一五九六年)。イングランド人として初めて世界一周を達成した。当該ウィキによれば、一五九六『年、コロンビアのリオアチャを襲撃し』、『金や真珠を強奪』したが、『スペイン王国のインディアス艦隊が避難所を探していたパナマのポルトベロの海岸から離れて停泊中に、赤痢により』五十五『歳で亡くなった。死ぬ間際には、病床で鎧を着ようとするなど錯乱状態であった(恰好よく死にたかったのだともいわれているが)』とあった。
「アメリカの蟹嶋」不詳。
「濠州の大蟹で、ラマークがプセウドカルキヌス・ギガスと學名を名附けた」「セウ」は右に小文字で附されてあるが、下附きで示した。プセウドカルキヌス・ギガスである。当該ウィキによれば、イソオウギガニ科タスマニアオオガニ属タスマニアオオガニ Pseudocarcinus gigas 。シノニムにCancer gigas Lamarck, 1818 とある。「東京海洋大学海洋科学部附属水産資料館」内の展示の同種のページを参照されたい。解説もある。但し、そこでは和名を「オーストラリアオオガニ」とする。「ラマーク」は上記のシノニムのLamarckで、ブルボン朝から復古王政にかけての十九世紀の著名な博物学者で進化論学者としてが「用不用説」を提唱したジャン=バティスト・ピエール・アントワーヌ・ド・モネ、シュヴァリエ・ド・ラマルク(Jean-Baptiste Pierre Antoine de Monet, Chevalier de Lamarck 一七四四年~一八二九年)。彼は「biology」(生物学)という語を、現代の意味で初めて使った人物の一人であり、「脊椎動物」と「無脊椎動物」を初めて区別したのも彼である(当該ウィキに拠った)。
『蘭人リンスショテンスの「ゴア航記」』オランダの航海者ファン・リンスホーテン(Jan Huyghen van Linschoten 一五六三年頃~一六一一年:オランダ人として最初の東洋事情紹介者となる。若い時、スペインに渡り、一五八三年にインドのゴアに着き,大司教に仕えて約五年、同地に滞在した。一五九二年に帰国し、各地での豊富な見聞を「東方すなわちポルトガル領インド水路誌」(邦訳「東方案内記」)などに記して一五九五年から翌年にかけて出版した。一五九五年にオランダを出帆し、東インドに向かったハウトマンの船隊は、少なくとも、この書物の一部を知っていたと思われる。それ以後の航海者は、この書物を重要な指針とし、航海記を書く際の手本とした。彼は、当時、有力だった北極海経由の東洋到達計画にも興味を示し、一五九四年から翌年にかけて、その第二回航海に参加し、旅行記を著した。晩年は港町エンクハイゼンに住み、町の運営に参加し、著述や翻訳に専念する傍ら、『西インド会社設立計画』にも加わった(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。
「ゴアの南サンペテロ州」ゴアは南インドの西岸のここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。
『「宋高僧傳」一九、唐の成都法定寺惟忠の傳に、此寺塔より一巨蟹の身足二尺餘なるを獲た、と記す』「大蔵経データベース」で確認した。『而獲一巨蟹。身足二尺餘。是塔頗多靈異』とあった。]
ス氏の書二七頁に云く、現存のカブトガニ(これは蟹よりも蜘蛛に近い)に緣あるプテリゴッスは、全屬過去世に絕滅した、その遺體より推すに、身の長さ六呎[やぶちゃん注:約一・八三メートル。]、最も廣い幅が二呎[やぶちゃん注:約六十一センチメートル。]に及ぶのが有《あつ》たらしい。見樣に由《よつ》て確かに最大のプテリゴッスとその大《おほきさ》を爭ふべく、古來、巨蟹に關する種々の怪談の根本たりと想はるゝ者が日本にある。シマガニ乃《すなは》ち是で、大英博物館に展覽せる者は、其雄の二腕を張《はら》せ兩端の間だ八呎[やぶちゃん注:約二・四四メートル。]あり、十一呎[やぶちゃん注:約三・三五メートル。]に及ぶもありときく。誠に恐れ入《いつ》た大きさだが、此蟹、實はクモガニの一種に過ぎず。足弱く細い方で、其殼、長幅共に十二吋《インチ》[やぶちゃん注:約三十センチメートル半弱。]を踰《こ》えずと。予、英國に在《あつ》た時、介甲類の專門家共に聞いたは、蟹類の頭と胴と分《わか》ち難く密着した物は凡て穎敏活潑《えいびんかつぱつ》で、頭と胴と區別されて腦髓が著るしく發達したらしい者程癡鈍因循だ、と。此シマガニも頭が挺出して賢こそう[やぶちゃん注:ママ。]にみえるが、實は極めてボンヤリで行動頗る遲緩、其につけ込んで棒で敲き殺して罐詰にするは酸鼻の至りと、故福本日南が北海道での目擊談だつた。とにかく世界一の大蟹故、何とか保續させてやりたい。
[やぶちゃん注:「カブトガニ(これは蟹よりも蜘蛛に近い)」節足動物門鋏角亜門節口綱カブトガニ目カブトガニ科カブトガニ属カブトガニ Tachypleus tridentatus で、かなり知られているので言わずもがなであるが、通常の我々が知っている「蟹」(カニ)類は、節足動物門甲殻亜門 Crustacea であるが、本カブトガニ類は、熊楠の言う通りで、鋏角亜門 Chelicerata であって、「カニ」と名附くものの、カニ類とは極めて縁遠く、同じ鋏角亜門 Chelicerata である鋏角亜門クモ上綱蛛形(しゅけい/くもがた/クモ)綱クモ亜綱クモ目 Araneae のクモ類や、その近縁の蛛形綱サソリ目 Scorpiones のサソリ類に遙かに近い種である(鋏角亜門には皆脚(ウミグモ)綱 Pycnogonida も含まれる。なお、現生カブトガニは全四種である)。また、古生代の仲間の形態を色濃く残している「生きている化石」である。私の『毛利梅園「梅園介譜」 鱟 (カブトガニ・「甲之圖」(被覆甲面)及び「腹之圖」(甲下腹面の二図))』を見られたい。
「プテリゴッス」古生代のシルル紀からデヴォン紀にかけて繁栄したウミサソリ、則ち、節足動物門鋏角亜門節口綱†ウミサソリ目†ウミサソリ亜目†プテリゴトゥス上科†ダイオウウミサソリ科†アクチラムス属(旧称ユーリプテルス属 Pterygotus )の一種† Acutiramus macrophthalmus を指す。ウィキの「アクチラムス」を参照されたい。
「シマガニ」これは世界最大の蟹とされるタカアシガニ(高脚蟹) Macrocheira kaempferi の別名である。「縞蟹」で、恐らくは、脚の縞模様を指す異名であろう。私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蟹(カニ類総論)」を参照されたい。また、同じく「東京海洋大学海洋科学部附属水産資料館」内の同種の展示ページも見られたい。
「福本日南」(安政四(一八五七)年~大正一〇(一九二一)年)は新聞記者で史論家。先進的ジャーナリスト。本名は誠。筑前福岡藩出身。初め、『日本新聞』に入社し、明治三八(一九〇五)年には『九州日報』社長となる。同四一年、衆議院議員に当選した。史伝を得意とし、『九州日報』に連載された「元祿快挙録」は有名。南方熊楠とは在英中に邂逅し、親しくなった。石瀧豊美所長の「イシタキ人権学研究所」内の「福本日南の部屋」を参照されたい。]
怪異的の巨蟹の咄しが日本の記錄に少なからぬ。例せば寬永二年板、菊岡沾凉の「諸國里人談」五に、『參河國幡頭郡吉良庄冨吉新田の海邊は大塘にして、根通りは石を以てつきたて、髙さ一丈二三尺餘、小山の如くなるが、享保七年八月十四日の大嵐にて此堤きれたり、里人多く出て之を防ぐに、甲の徑七尺許(ばかり)の蟹出たり。水門の傍を穿ちて栖家としける。其穴より潮押込て切たる也。人夫大勢、棒熊手を以て追廻しける、右の鋏を打折りたり、其乍らにして海に沈む。件(くだん)の鋏は人の兩手を束ねたるが如く、今以て時として出ける也。一方の鋏亦出生す。然れども左よりは拔群小さしと云ふ。』とみゆ。古い大津繪節の文句に「蟹の穴から堤が崩れる、氣を附けな」といふた誡めの適切な實證だ。
[やぶちゃん注:私の「諸國里人談卷之五 大蟹」を見られたい。それがあるので、私の読みは附さなかった。]
播磨の蟹阪《かにさか》は、昔し大蟹屢《しばし》ば出《いで》て往來を妨げ、弘法大師之を池に封じ込《こめ》たといふ(藤澤氏『日本傳說叢書』明石の卷)。萬治元年、了意筆「東海道名所記」五に、伊勢の『蟹坂、蟹が石塔は左の方にあり、松二本植えたり、昔し此所《ここ》に妖怪有りて往來の人を惱まし侍べり、或時、會解僧《ゑときそう》一人爰を通りけるに彼《か》の妖怪出《いで》たり。僧卽ち問ふて曰く、「汝は何物ぞ、名のれ、聞かん。」といふ。怪物答へて曰く、「兩手空をさし双眼天につけり、八足橫行《わうぎやう》して樂しむ者也。」といふ。僧仍《すなは》ち悟りて曰く、「橫行は橫に行くと讀めり、双眼天につける者、兩手空をさし、八足にして橫に行く、汝は定めて蟹にあらずや。」と言はれて、姿を現はしつゝ戒を授かり永く禍《わざはひ》を致さゞりけり。其標《しる》し迚(とて)今に塔石あり云々」と。安永六年成つた太田賴資の「能登國名跡志」坤卷に、右の話の異傳あり。珠洲郡寺社村の蟹寺は、『法成山永禪寺といふ、この寺昔は敎院なりしが、妖怪の爲に住持を取殺《とりころ》す事久し。依りて住職する人もなきあき寺也しに、貞和年中の頃か、同國酒井の永光寺瑩山和尙の御弟子月菴禪師行脚の時此寺に來りて、客殿に終夜坐禪しておはせしに、丑滿の頃震動して、眼《まなこ》日月《じつげつ》のごとくなる恐ろしき物顯はれいで、禪師、「暫く待《まつ》た、問ふことありや。」、彼者曰く、「四足八足兩足大足、右行左行眼天にあり。」といふ、禪師「汝は蟹にて有るや。」迚(とて)、拂子《ほつす》を持つて打給ふ、忽ち消えて失せにけり、夜明けて里人きてみれば、禪師の恙なき事ふしぎに思ひ、其樣子を尋ねみるに、後《うしろ》の山に千尋深き池あり、其水の面《おもて》に幾年ふるとも知《しれ》ぬ一丈餘の蟹の甲八つに破《わ》れて死して浮《うか》みゐたり。其後《そののち》妖怪なし、卽ち月庵禪師を開山として二世天桂和尙、三世北海和尙の木像、開山堂に安置あり、又蟹の住《すみ》し池の跡、後の山にあり、又此月菴和尙、俗姓は曾我家にて至つて美僧なりしと云へり云々」とのせ、「蟹寺の謂《いは》れをきくに今更に猶仰がるゝ法の力は」としやれておる[やぶちゃん注:ママ。]。
[やぶちゃん注:「播磨の蟹阪」現在の兵庫県明石市和坂(わかさ)。個人ブログ「hasyan の 旅の散歩道」の「坂上寺と蟹塚」に『ここには弘法伝説があります』「播磨鑑」『によりますと、昔この和坂に蟹が棲み、旅人を襲った。諸国を回っていた弘法大師がこのことを聞かれ、蟹を封じ込めたので、蟹和坂村と称したが、その後「蟹」を省略して「和坂」となり、「かにがさか」と読ませたとあります』。「播磨名所巡覧図絵」『にも紹介があり、江戸時代の観光スポットの一つであったのだろうと思います。お大師さんを良く見ると』、『カニさんが、まだ改心できないのか』、『お大師さんに錫杖でがっちり押さえ込まれていますよ』とあった。坂上寺はここ。
「藤澤氏『日本傳說叢書』明石の卷」藤沢衛彦編・日本伝説叢書刊行会大正七(一九一八)年刊を、幸いにして国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで、「蟹和坂(明石郡林崎村大字和阪)」視認出来る。
『萬治元年』(一六五八年)淺井『了意筆「東海道名所記」五』国立国会図書館デジタルコレクションの「東海道名所記 東海道分間繪圖」(『日本古典全集』昭和六(一九三一)年刊)のこちらで『〇蟹坂』の条が視認出来る。
「安永六年」(一七七七年)「成つた太田賴資の「能登國名跡志」坤卷に、右の話の異傳あり。珠洲郡寺社村の蟹寺」「法成山永禪寺」「能登國名跡志」は加賀金沢の太田道兼頼資(?~一八〇七年)の著になる能登地誌。これも国立国会図書館デジタルコレクションの『大日本地誌大系』第十三冊(大日本地誌大系刊行会編・日本歴史地理学会校訂・大正六(一九一七)年刊)のこちら(左ページ上段三行目以降)で視認出来る。この「蟹寺」は現在の石川県珠洲市上戸町(うえどまち)寺社(じしゃ)に現存し、正しくは「法城山永禪寺」である。「曹洞宗石川県宗務所」公式サイト内の「法城山永禅寺」も見られたい。
「曾我家」法城山永禪寺のサイド・パネルを見ていただくと、ここに『市指定文化財 無縫塔(伝]曽我兄弟の墓)』が現存する。個人ブログ「お寺の風景と陶芸」の「永禅寺 (石川県珠洲市) 伝曽我兄弟の供養塔」に、『日本三大仇討ち(赤穂浪士の討入り、伊賀越えの仇討ち、曽我兄弟の仇討ち)の一つ曽我兄弟(曽我十郎、五郎)の仇討ちの兄・十郎の妾虎御前が、兄弟の菩提を弔う行脚の途次、この珠洲の地に庵を結んだと伝え』、: 延元三/ 建武五・暦応元(一三三八)年、『能登半島の名刹・永光寺の僧月庵が曽我兄弟を勧請開基として、庵を永禅寺として開創したと伝えている』。『境内には、曽我兄弟の供養塔といわれる塔が』二『基ある』とされ、しっかり、『このお寺には、月庵が妖怪となった蟹を退治したと伝える<蟹伝説>が残っている』と紹介しておられる。]
大正九年『民族と歷史』三卷七號七一三頁に述《のべ》た通り、明治十一年頃[やぶちゃん注:読点なしはママ。]予、和歌山のある河岸《かはぎし》で、當時餘り他に重んぜられなかった或部民が流木を拾ふをみおる[やぶちゃん注:ママ。]と、其一人が、「昨夜何某方に產《うま》れた子は男か女か」と問ふに、今一人「ガニぢや」(蟹だ)と答へた。予方《よのかた》へ同部から來る雪踏直《せつたなほ》しが有合《ありあは》せたのに尋ねると、「蟹は物を挾む故、女兒を『蟹』といふ。工人の地搗唄《ぢつきうた》にも、『おすま[やぶちゃん注:所持する平凡社選集では、『おすき』とある。]おめこは釘貫おめこ、またではさんで金(かね)をとる』と云ふて、總別《さうべつ》女はよく挾むもの」と博識振つて答へた。全體佛僧はよく啌《うそ》をつく。既に月菴和尙は至つて美男と有れば、名門曾我氏の出《で》でもあり、邊土の女共に厚く思ひ付かれたで有《あら》う。そこで男に渴《かつ》えた近村の若後家などが和尙を挾まんと、右行左行で這ひ來り、据膳をしひた[やぶちゃん注:ママ。]ので眼天にありとは其女がヒガラメだつたとみえる。由《よ》つて和尙も鼻もちならず、願意却下としたのを憤つて女が水死でもしたでせう。其を挾みにきたちふ緣起で蟹の妖怪とふれ散らし、衆愚の驚駭《きやうがい》に附込《つけこ》んで、蟹の弔ひに寺を建立させたと熊楠がみる目は違《たが》はじ。又、同書乾卷に、鳳至《ふげし》郡五十里《いかり》村に町野川の淵跡迚(とて)今蟹池とてあり、昔此淵に大《おほい》なる蟹住んで人をとる、弘法大師威力を以て退散あり、其後も此池に在《あり》て大石と成《なり》、色々怪異をなす故、此池を埋めし也。今も此池を穿ち石を顯はすと霖雨《りんう》して數百日已まずとある。
[やぶちゃん注:「大正九年」(一九二〇年)「『民族と歷史』三卷七號七一三頁に述《のべ》た」平凡社「選集」に「スッツパとカニサガシ」を指すとある。これは、国立国会図書館デジタルコレクションでは、当該論考が見当たらない。そこでサイト「私設万葉文庫」で探したところ、『南方熊楠全集』第三巻「雑誌論考Ⅰ」(一九七一年平凡社)の新字新仮名版にあった。以下に引用させて頂く。これは『民族と歷史』同年六・十・十二月発行に載ったもので、引用先では「民族短信民俗談片」という総題の中の一篇である。ノンブルは省略した。「|」はルビの先頭漢字前を示すサイト主の記号である。
《引用開始》
スッパとカニサガシ
スッパという詞が本誌四月号「佐賀地方雑記」に見える。この名は足利時代すでにあった詞と見え、『続狂言記』二、「宝の笠」、同四、「六地蔵」(ここにはシテが、「罷り出でたる者は都に住居する大スッパでござる。見れば田舎者と見えて何やら呼ばる。ちと彼に当たって見ようと存ずる」とみずから述べる)等に見るところ、いずれも田舎者が物を買い求むるにつけこみ、あらぬ物を売りつける杜騙《とへん》をスッパと呼んだらしい。いわゆる神崎スッパはこれと関係なきか。
カニサガシ。これも「佐賀地方雑記」にあった。明治十一年ごろ、予和歌山市のある河岸で、当時いわゆる新平民が流木を拾うを見ておると、その一人が、「何某の方に生まれたは男か女か」と問う。いま一人が、「ガニジャ」(蟹なり)と答えた。なお一人、予の家へ雪駄直しに来る者がかたわらにあり合わせたので、何のことかと問うと、「蟹は女根と同じくよく物を挟むから、女の児を蟹と称う。工人のドウツキに唄うにも、『お杉おめこは釘抜きおめこ、股で挟んで金をとる』という。すべて女はよく挟むものじゃ」と博識ぶって答えた。そこでカニサガシとは女児を間引く意味ではなかろうか。(四月十四日) (大正九年六月『民族と歴史』三巻七号)
【追記】
スッパについて。足利時代に、田舎者に、あらぬ物を売りつける杜騙をスッパと言ったらしいと、本誌三巻七号(七一二頁)に述べおいたところ、『甲陽軍鑑』三九品に、「家康は、味方が原合戦に負けて、その夜また夜合戦に出ずべき支度をもはら仕りたるに、家老の酒井左衛門尉、石川伯耆両人、スッパを出だし見せつれば、当方|脇備《わきぞなえ》を先へくり、跡備を脇へ繰り廻し、云々、二度めの軍もちたるを見て、夜軍に出ださず候」。また同書五七品、織田勢甲州へ討ち入った時、阿部加賀守「われら同心のスッパをもって敵の人数を見切り候に、ここかしこに陣を取り、猥《みだ》りに候えば」とて、川尻や滝川の陣へ夜討を勧めたが、勝頼その策を用いなんだ、とある。これらは探偵をスッパと呼んだらしい。
また安永元年板の亀友の『赤烏帽子都気質』二の二に、「さてこの勇介というは、弁舌よく、人に取り入ることの上手な、愛のある男と見ゆれど、心の内は世事にすばしかきスッパ、近所の息子や手代の遊びに行く中店にて文の取次ぎ、色茶屋の払銀《はらいがね》を請け取り渡してやるなど、親切にのら達《たち》の世話焼きしゆえ、云々」。これは惡才のきく者をスッパと言ったらしい。今も紀州などで人を紿《あざむ》くことを何とも思わぬ者をスバクラ者というは、これから出たのかと思う。 (大正九年十月『民族と歴史』四巻四号)
【再追記】
ガニサガシ。『重訂本草綱目啓蒙』四八に、小児胎屎を、かにくそ、かにここ、うぶはこ(対州)、と出ず。紀州田辺では今もかにここという。うぶはこは初屎の意、ここは田辺等で屎《くそ》を指す。初屎と対照して考えると、どうもかにくそ、かにここのかには、わずかに生まれた赤子を指す名らしい。穴から這い出す蟹に比べて言ったものか。琉球で出産の式に蟹の子を這わすことあって、その子蟹のごとく健やかなれと祝うのだと聞いたが、実は彼方でも初生の赤子を蟹と同名で呼ぶのであるまいか。この推察が当たったら、がにさがし、がにさしのがには、女児でなくて今生まれた赤子の義に相違なかるべし。語原の異同は只今ちょっと分からねど、ドイツ語で幼児をも蟹をも斉《ひと》しくクラッべと呼ぶを攷え合わすべし。 (大正九年十二月『民族と歴史』四巻六号)
《引用終了》
以上に就いては、正規表現でもないことから、語注はしない。
「當時餘り他に重んぜられなかった或部民」前の引用の『新平民』でお判りの通り、近現代まで根強くあった被差別部落民を指す。「雪踏直し」は動物の皮革を用いたため、差別されていた。批判的視点を以って読まれたい。
「工人」ここは広い意味の「職人」。
「地搗唄」建築に先立って、「地固め」のときに歌う作業唄(ワーク・ソング)。歌詞は不定。音頭と合唱が交互に歌う。
「ヒガラメ」斜視。やぶにらみ。すがめ。ひがら。
「同書」(これは前に出た「能登國名跡志」を指す)「乾卷に、鳳至郡五十里村に町野川の淵跡迚(とて)今蟹池とてあり、昔此淵に大なる蟹住んで人をとる、弘法大師威力を以て退散あり、其後も此池に在て大石と成、色々怪異をなす故、此池を埋めし也。今も此池を穿ち石を顯はすと霖雨」(長雨)「して數百日已まずとある」同じく国立国会図書館デジタルコレクションの『大日本地誌大系』第十三冊(大日本地誌大系刊行会編・日本歴史地理学会校訂・大正六(一九一七)年刊)のこちら(右ページ上段二行目以降)で視認出来る。「鳳至郡五十里村」現在の石川県鳳珠(ほうす)郡能登町(のとちょう)五十里(いかり)だが、「蟹池」の跡らしいものは確認出来ない。伝承としても伝わっていないようで、ネットにもかかってこない。]
頃日《けいじつ》、中道等君が自ら寫して贈られた弘前の平尾魯仙の著、「谷の響」は、多分嘉永頃の者、其卷五に、『弘前附近の地形村石淵の主は大きな蟹で、魚とりに入る人を魅《み》して動く能はざらしめ、甚しきは死せしむ。又此淵に入る者、手足に傷つくことあり、剃刀傷の樣で深さ一寸程に至るも開かず、痛みも出血も少なく、世に云ふ鎌鼬に逢《あふ》た如し、土人之を主《ぬし》の刄《やいば》に觸れたと云《いふ》。』と。之にやゝ似た話が、一八八三年板、イム・ターンの「ギャナ印旬人《インジアン》内生活記」三八五頁にある。オマールは其體を種々に記載された生物で、巨蟹又大魚に似るといふ。急湍[やぶちゃん注:「きふたん」。河川に於いて、流れが速く、且つ、深く淵となっている箇所を指す。]の水底にすみ、其邊を射て廻る印旬人の船を屢ば引き込むと傳ふ。ウロポカリの瀧に住《すん》だのは常に腐木《くちき》を食ひ、多くの船を浮木《うきぎ》と誤認して引《ひき》いれ、爲に印旬人多く溺死した。因《よつ》てアッカウヲイの覡《げき》が、摩擦せば火をだす二木片を包んで濕氣を禦ぎ、携へて瀧の眞中に潛り入《いつ》てオマールの腹内《はらうち》に入り、みれば夥しく腐木《くちき》を積《つみ》あり。由《よつ》て件(くだん)の木片を擦《すつ》て火を付《つけ》ると、オマール大《おほい》に苦しみて浮き上がり覡を吐出《はきだ》して死《しん》だと。
[やぶちゃん注:「中道等」(なかみちひとし 明治二五(一八九二)年~昭和四三(一九六八)年)は郷土史家・民俗学者。宮城県登米(とめ)郡登米町(とよままち)生まれ。旧姓は「砂金(いさご)」。後に青森県八戸市に移り、青森県立八戸中学校に進学したが、一年で中退し、二松學舍を経て、大正七(一九一八)年に京都帝大教授内藤湖南の下で、東洋文献の考証学を学んだ。同年、八戸の中道トシの養子となり、姓を改め、その後、八戸に戻って、『実業時論』という雑誌を手がけ、さらに推薦を受けて、青森県史編纂委員や青森県史跡名勝天然記念物調査委員を務め、また、かの「南部叢書」の編纂にも従事している。以降の事績は参照した当該ウィキを見られたい。柳田國男とも親しかった。
「谷の響」の話は私の「谷の響 五の卷 十二 石淵の怪 大蟹」を見られたい。作者は画家で国学者であった平尾魯僊(ひらおろせん 文化五(一八〇八)年~明治一三(一八八〇)年:「魯仙」とも表記)が弘前(ひろさき)藩(陸奥国津軽郡(現在の青森県西半部)にあった藩で通称で津軽藩とも呼んだ)領内の神霊・妖魔を採集記録した怪奇談集。
「嘉永」一八四八年から一八五四年まで。上記書の成立は幕末の万延元(一八六〇)年である。
『一八八三年板、イム・ターンの「ギャナ印旬人《インジアン》内生活記」三八五頁』作家・探検家・植物学者で英国植民地管理者でもあったエヴェラード・フェルディナンド・イム・トゥルン(Everard Ferdinand im Thurn 一八五二年~一九三二年:ロンドンでオーストリア移民の銀行家の息子として生まれた。英領ギアナ(イギリスからの独立以来「ガイアナ」と呼ばれていた)に渡り、二十五歳の一八七七年から一八八二年まで英領ギアナ博物館の学芸員となっており、後、フィジー知事を務めた)のギアナ地誌。「Internet archive」のこちらで、同原書‘ Among the Indians of Guiana ’(「ギアナのインディアンの狭間で」)の当該部が視認出来る(右ページ中央附近から、“the omars”と出る)。
「オマール」はここでの謂いから見るなら、十脚(エビ)目ザリガニ下目アカザエビ科(ネフロプス科Nephropidae)ロブスター属 Homarus の一種と読めるが、現在のフランス領ギアナでは、同種の南端限界を超えている。アメリカン・ロブスター Homarus americanus は、カナダからカリブ海までの大西洋西岸に分布するのだが、このギアナをガイアナと読み替えるなら、カリブ海南端圏に辛うじて入るから、まず、同種と見て差支えはないか。
「アッカウヲイ」同前原書に“Ackawoi”とある。
「覡」は「みこ」と訓で訓ませている可能性(則ち、女性)も排除は出来ないが(但し、本邦の場合では「覡」(げき)は男、「巫」(ふ/みこ)が女の呪術師を指すことが多い)、以下の術式から察するに、私は男性の呪術師(シャーマン)であるように思われる。民俗社会での汎世界的に女性シャーマンは、呪術執行型よりも、憑依型が比較的多いからである。]
支那には、西曆紀元前二千年頃、夏の禹王作てふ「山海經《せんがいきやう》」一二に、『姑射國ハ在リ二海中ニ一、屬ス二列姑射ノ西南ニ一、山環ルㇾ之ヲ、大蟹在リ二海中ニ一。』。郭璞《くわくはく》注に、『蓋《けだ》し千里の蟹也。』と。予《よ》數字に疎く、この千里の大蟹とマレー俚傳の巨蟹と孰れが大きいかを知《しら》ぬ。一九〇〇年板、スキートの「巫來(マレー)方術」六頁に、「海の臍(プサット・クセク)」は大洋底の大穴で、中に巨蟹すみ、日に二度出《いで》て食を求む、蟹が居《を》る内は此穴全く塞がれて、大洋の水、地下に入得《いりえ》ず、其間に百川より海に注ぐ水の行き處無《なくなり》て潮《うしほ》滿つ、蟹出て食を求むる内は、水が其穴より下に落《おつ》るから潮がひくと云《いふ》、と出づ。
[やぶちゃん注:「山海經」中国古代の幻想的地誌書。全十八巻。作者・成立年未詳(聖王禹(う)が治水の際に部下の伯益の協力を得て編んだとされるが、仮託に過ぎない)。戦国時代の資料も含まれるが、前漢以降の成立と推定されている。洛陽を中心に地理・山脈・河川や物産・風俗の他、神話・伝説・異獣幻獣の記載がてんこ盛りの遠大なる幻想地誌。以下、漢文を