譚海 卷之九 寬政元年大坂燒亡の事
○寬政元年十二月廿二日暁、大坂西橫堀東町二丁目より出火して、御城大手馬場前にて燒(やけ)とまり、西は玉造稻荷まで、凡(およそ)、燒失町家、六、七十町に及べり。みな、大坂の繁華の所のみ、やけたりと、いへり。
[やぶちゃん注:「WEB防災情報新聞」のこちらに、『大坂寛政元年』の「上町大火」=「東横堀焼」とあって、寛政元年十二月二十二日から同二十三日(一七九〇年二月五日から六日相当)の記事が載る。それによれば、『卯の刻(午前』六『時ごろ)、『南本町二丁目』(現在のこの附近。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『堺筋東へ入る北側にある辰巳屋久左衛門の家守(管理人)浅田屋源七が支配する貸家、姫路屋平八(呉服商)の居宅から出火した』。『炎は』、『折からの強烈な西風にあおられて瞬く間に本町一丁目南側に延焼し』、『東に焼け抜けた。その上、南本町浜より内本町橋詰町曲がりへ飛び火し、そこから炎は東北へと延び、松屋町から骨屋町』(ほねやちょう)、『御祓筋、善庵筋、谷町、大手筋まで焼け抜け、城代屋敷をはじめ近辺の武家屋敷を総なめにし、南は上本町三丁目』(現在の大阪府大阪市天王寺区上本町三丁目か)『まで焼け抜けた』。『ところが』『申の下刻(午後』四『時ごろ)この火勢に合』(あは)『するかのように、南久宝寺町一丁目』(ここだろう)『の穂積屋正三郎宅の二階から出火した。新しい炎は東へと延焼、内久宝寺町から安堂寺町東へ焼け抜けようやく』翌二十三日『寅の中刻(午前』四『時ごろ)鎮火』とあり、『その被害、町数』五十二『町、焼失範囲は東西広いところで』六百二十九『間ほど(約』一・一『km)、南北は』四百四十二『間ほど(約』八百『800m)。町家、家数にして』一千百十『軒、かまど数(世帯数)にして』五千四百六十八、『道場』十三『か所、蔵屋敷』一『か所、町の惣会所』一『か所、空き貸家』四百六十四『軒、油屋』六十九『軒、土蔵』三十六『か所、穴蔵』十二『か所。そのほか』、『大坂城代中屋敷、御城番中屋敷、地方役人衆屋敷』十一『軒、代官屋敷』二『軒ほかが』、『焼失』したとある。]