譚海 卷之八 同藩中駒木根三左衞門はいかい妙なる事
[やぶちゃん注:「駒木根」は「こまきね」或いは「こまぎね」。冒頭の「又同藩」は直前の話を受けているので、秋田(久保田)藩を指す。同じ藩の特異な才能の持ち主の紹介という強い親和性があり、確信犯で並べて記したものである。]
○又、同藩家司に駒木根三右衞門と云(いふ)人、俳諧を好(このみ)て、朝夕、口に誦(じゆ)せざる事、なし。
いつのとしにや、八月十六日、晴光[やぶちゃん注:空がよく晴れて明るく気持ちがよいこと。]なれば、同僚を、いざなひて、
「矢橋(やばせ)といふ所の茶屋に、月、みん。」
とて、[やぶちゃん注:「とて行くに、」ぐらいは欲しいところ。]折ふし、茶屋の娘、
「難產にて、宿を、かしがたき。」
よし申せしに、三右衞門、
「我(われ)、よき安產の守(まもり)をもちたり。」
とて、ひそかに、
「いざよひやなんの苦もなくはぢき豆」
といふ句を短册に書(かき)て、枕上(まくらがみ)におかせしに、やがて平產せしかば、一家、大(おほき)によろこびて、酒肴(しゆかう)を、とゝのへ、馳走(ちさう)しければ、月見の興附(きやうづけ)にして歸りたり、とぞ。
又、年のくれに、友達、來(きたり)て、
「今日(けふ)、無盡會(むじんくわい)なり。兼て不如意の我々なれば、此鬮(くじ)にあたらざれば、春のもふけ事(ごと)ゆかず、難義(なんぎ)[やぶちゃん注:「難儀」に同じ。]きはまりたり。」
と、かたりしかば、三右衞門、やがて、
「十(とお)に十皆とらるゝや寒玉子」
といふ發句をいひて、
「是、持(もち)ていませ。」
とて、やりけるに、はたして、其友、
「くじに、あたりぬる。」
とて、よろこび申(まふし)つかはしける、とぞ。
[やぶちゃん注:「矢橋」旧秋田城の南東方向直近の旧広域地名。「ひなたGPS」の戦前の地図を見られたい。グーグル・マップ・データで見ると、現在は小さく、北にごく狭い飛地がある。また、当該ウィキによれば、『江戸時代には久保田城から土崎港方面へ向かう羽州街道の、久保田を出て最初の集落であった。当地に一里塚(八橋一里塚)が存在し、塚は現存しないものの「八橋一里塚」交差点に標柱が立てられている。また多くの寺社も置かれており、日吉八幡神社(山王権現)は久保田町人町(外町)の鎮守、毘沙門社は保戸野足軽町の鎮守として参拝客を集め、沿道には茶屋が軒を並べていた』(☜)。『草生津川』(さそおづかわ:「ひなたGPS」の戦前の地図の『橋八(セバヤ)』の文字の上に南北に貫流する川に『草生津(サソウヅ)川』の名が確認出来る)『の対岸に草生津刑場があり、架けられている橋は』、『罪人が最期に自分の姿を水面に映す場所として「面影橋」と呼ばれるようになった』とある。
「はぢき豆」そら豆を煎って弾き出させること。また、ソラマメそのものを指す。ここは、「いざよひ」が難産を指しつつ、勢いよく、ポン! と弾ける空豆を安産の予祝とした挨拶句であると同時に、共感呪術的効果を狙っている。
「無盡會」「無盡講」「賴母子講(たのもしこう)」に同じ。相互に金銭を融通し合う目的で組織された講。世話人の募集に応じて、講の成員となった者が、一定の掛金を持ち寄って、定期的に集会を催し、抽籤(ちゅうせん:くじびき)や入札などの方法で、順番に各回の掛金の給付を受ける庶民金融の組織。貧困者の互助救済を目的としたため、初期は無利子・無担保だったが、掛金を怠る者があったりしたため、次第に利息や担保を取るようになった。江戸時代に最も盛んで、明治以後でも、近代的な金融機関を利用し得ない庶民の間で行なわれ続けた。
「十(とお)に十皆とらるゝや」こちらは先に人間が言上げすることで、それが結果して、天命を変えさせる逆効果を惹起せざるを得ない呪術として作用しているのである。]