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2024/02/05

「蘆江怪談集」 「うら二階」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本本文の開始位置はここ。また、本篇もまた、最後に蘆江が添えているように、実話談を元にして創作されたものである。

 なお、「うら二階」「裏二階」とは、正式な二階ではなく、屋根裏などが二階になっているところを言う語である。]

 

 

    う ら 二 階

 

 

      

 

 ある都會(とくわい)の下町、と云つても仕舞屋(しもたや)ばかりの物靜かな河岸通(かしどほ)りに賃家が一軒(けん)出來(でき)た、これが貸家札を貼(は)つてから三日目にふさがつた。

 引越して來たのはこれまで山(やま)の手(て)に住んでゐた萩原精(はぎはらせい)一といふ人の一家(か)。

 夫婦(ふうふ)の間に七つの子が一人。

「三人家内に少し廣(ひろ)いけれど、家賃(やちん)が割(わり)に安いからね」と家の中の一通(とほ)り片付(かたづ)いたところで精(せい)一は下座敷の障子(しやうじ)をポンと開(あ)け放(はな)して初秋の風を家の中一杯(ぱい)に入れた。

「本當(ほんたう)ですね、好(い)い家(うち)が目付かりましたわ、家の中が廣(ひろ)いと少しお掃除が厄介(やくかい)ですけれど、どうせ私の身體(からだ)は大して用がないんですから」と妻君(さいくん)のおきみは良人の側(そば)に煙草盆(たばこぼん)を持出す。

「なあに掃除が面倒(めんだう)なら、女中を一人雇(やと)ふさ、何しろ五間(ま)もあるんだからなあ」

「それには及びませんわ、精太郞(せいたらう)だつてもう七つですもの、手(て)のかゝる子ぢやなし、學校にでも行くやうになつたら、朝寢坊の我儘(わがまゝ)が出來ないから、そしたら女中を置(お)いても好(い)いけれど、それまではまア、當分(たうぶん)此儘(このまゝ)でやつて見ませうよ」

「でも何だぜ、これまでの家(うち)のやうに木戶の中と違(ちが)つて、これでも通り筋(すぢ)だから、まるつきり留守(るす)にして外へ出るわけにも行かないしね、留守居のつもりにでも女中を置いた方が可(よ)かないか」

「なるだけ留守にしなければ好(い)いでせう、それに女中とは云へ、水入(みづい)らずの内輪(うちわ)ばかりで暮(くら)して來た中へ、一人でも他人(たにん)が交(まじ)ると、萬事(ばんじ)が違つて來ますから」と女は何かにつけて大マカな事をいふ。[やぶちゃん注:「大マカな」は底本では『ヤマカな』となっている。『ウェッジ文庫』版で訂した。]

「ぢやまア、お前の好(す)きなやうにやつて見るさ」と精一も賛成(さんせい)した。

 入つて取付(とつつき)が三疊(でふ)、つゞいて八疊が客間(きやくま)、それにつゞいた四疊半が茶(ちや)の間(ま)、茶の間の橫に六疊の書齋(しよさい)がある、その書齋と茶の間との間の廊下(らうか)のつき當りに杉戶(すぎと)が一枚立つてゐる、これが開き[やぶちゃん注:「ひらき」。]になつてゐて、開(あ)けると中をヲドリ場をつけて曲(まが)り角(かど)のある暗い梯子だん、この梯子だん[やぶちゃん注:「はしごだん」。]を上ると二階が六疊一間といふ妙(めう)な間(ま)どり、

「どつちかといふと、此家は二階(かい)の六疊だけが不用(ふよう)なようだね、一寸(ちよつと)使(つか)ひ道(みち)がないぢやないか」

「さうですね、間貸(まが)しでもするには好(い)いかも知れませんが」

「あれだけは全(まつた)く離(はな)れ島だ、尤(もつと)もあの二階だけはお神樂屋臺(かぐらやたい)になつてゐるやうだね、あとから何かの必要(ひつえう)があつてくつゝけたものだらう」

「さうらしうございますわ、何しろ遊(あそ)ばして置くのは勿體(もつたい)ないから、貸間(かしま)にでもしませうか」

「いや、いけないいけない、女中を置(お)いてさへ氣兼(きが)ねがあるやうな事(こと)を云つてゐるお前ぢやないか、況(ま)して他人を同居(どうきよ)させるなんて以(もつ)ての外だ」

「それもさうですね」

 ゆつたりとした心持で二人が家(うち)の中を見まはしてゐる中に、お君(きみ)は不圖(ふと)氣(き)が付(つ)いた、

「精太郞(せいたらう)はどこへ行つたのでせう」

「さうだね、先刻(さつき)まで茶の間に遊(あそ)んでゐたやうだつたが」と覗(のぞ)いて見たが居ない、玄關(げんくわん)の三疊にも居(ゐ)ない。

「精ちやん精ちやん」とお君(きみ)が呼(よ)ぶと、ずつと遠(とほ)いところで、

「ハーイ」と答(こた)へる。

「何處にゐるの、何(なに)かおいたをしてゐるんぢやありませんか」

「何もしないよ、僕(ぼく)ね、只(たゞ)遊(あそ)んでるの」と云ひながら廊下(らうか)の方からぬつと出て來た。

「何處へ行(い)つてたんです」

「あのお二階(かい)で遊んでたよ」

「お二階で、まアお前さん、よく淋(さび)しくないね、今お蕎麥(そば)が來ますから、こゝにいらつしやい」

 お蕎麥(そば)が來ると、それを親子三人が車座(くるまざ)になつてたぐり込(こ)んだあとで、お茶づけを輕(かる)く濟(す)ましてこれが夕(ゆふ)めし。

 往來の河岸通りで、蜻蛉(とんぼ)を釣(つ)る子供たちががやがやと一しきり、何となくお盆(ぼん)すぎらしい蟲賣(むしうり)の蟲(むし)の聲(こゑ)がしんみりとざわついたあとは、とつぶりと日が暮れた、萩原(はぎはら)一家(か)の新居の第一夜が來る。

[やぶちゃん注:主人公一家は引っ越したその日の最初の食事を「蕎麥」にしているのは、所謂「引っ越し蕎麦」の風習の名残りである。「出雲そば 本田屋」公式サイトの「引っ越しそばの由来と起源は? 引っ越しのご挨拶マナーも紹介」を見られたい。]

 

         

 

 翌日(よくじつ)から精一が會社へ出勤(しゆつきん)するのは朝の八時、そのあとはおきみと精太郞(せいたらう)と二人きり、落付(おちつ)いたとは云へ、まだ引越(ひつこし)したばかりの新宅(しんたく)、家の中がそここゝと片付(かたづ)かないので、お君は殆んど終日(しうじつ)こそこそ動いてゐた。

 精太郞はその母親の側(そば)へ時々顏を見せては又(また)どこかへ行つて一人でよく遊(あそ)んで來る。

「往來(わうらい)に出るんぢやありませんよ、大川へ落(おつ)こつたら大變(たいへん)ですから」と母親がいヘば「表へなんぞ出やしないよ」と云つては、ちよこちよこと廊下(らうか)を走(はし)つてゐる。

 其晚、精(せい)一が歸つて來て、親子三人夕餉(ゆふげ)の膳を圍(かこ)んだ時、おきみは眉(まゆ)をひそめながらかう云つた。

「ねえ、貴郞、此邊(こへん)の人、隨分(ずゐぶん)變(へん)なんですよ、それほど品(ひん)の惡い人が住んでる樣子(やうす)もないんですがね、どうしたわけだか、人の家を覗(のぞ)きにばかり來るんですよ」

「なあに氣(き)にする事はないよ、新しい人が越して來たから、どんな人かと思つて覗(のぞ)き込(こ)むんだらう、當座(たうざ)の間の事さ、その中二三日も經(た)つたら、自然(しぜん)顏馴染(かほなじみ)にもなつて氣心(きごころ)も知れるだらうよ」

「ですけれどね、こんなに仕舞屋(しもたや)つゞきではお馴染(なじみ)なんざ中々出來さうもありませんわ」

「出來なけれあ、いつそ出來ないが好いさ、其(そ)の方(はう)がいくら氣樂(きらく)だか知れない」

「でもあんなに迂散(うさん)さうに覗き込まれると、私(わたし)、いやになつて了(しま)ふわ」

「まあなるだけ氣にしないでゐるさ、――精坊(せいばう)や、お前はどうだ、先(せん)のお家と今度のお家とどつちが好(い)い」

「僕、今度(こんど)のお家の方がよつぽど好(い)いや、だつてお二階(かい)があるんだもの」

「ははは、お二階(かい)があるか、だけど精坊、お二階(かい)へ上つたり下りたりしてゐると今に落(お)ちるよ、お母さんに捕(つか)まへてもらふやうにしなければいけないよ」

「お母(かあ)ちやんなんかつかまへてくれなくても好(い)いよ、叔母(おば)ちやんがちやんと坊や坊やつて抱(だ)つこしてくれるよ」

「叔母さんて誰(だれ)だえ」と精(せい)一は妙(めう)な顏をした。

「叔母さんさ、二階の叔母さんぢやないか、父(とう)ちやん知らないのかな」

 精(せい)一は目をぱちくりさした。

「二階の叔母さんて誰(だ)れの事だらう」

「誰れも居やしないぢやないの、精坊(せいぼう[やぶちゃん注:ママ。以下同じく混雑する。])」

「居るよ、知(し)らないのかな、お父さんもお母さんも知(し)らないんだ。好(い)い叔母さんだぜ」と「誰れだらう」「誰れだらう」と夫婦(ふうふ)は顏を見合せたが、親子(おやこ)三人家内、外に人が居さうな事(こと)はない、精太郞は其樣事(そんなこと)に頓着(とんちやく)しないで繪本などをひねくつて獨(ひと)り言(ごと)をしてゐたが、

「お母さん、僕(ぼく)眠(ねむ)くなつちやつた」とお君の膝(ひざ)に這(は)ひ上(あが)つてぐつたりしたと思つたが、小さな欠伸(あくび)を一つして、もうすやすやと眠(ねむ)つた。

「何を云つてるんだか判(わか)つたもんぢやない、寢(ね)かしておやり」

「ほんとに何か思(おも)ひ違(ちが)ひでもしてゐるんでせうよ」

 精太郞を寢(ね)かしてから良人(をつと)は新聞など膝(ひざ)の上にひろげてゐたが、針仕事(はりしごと)を始めたお君が頻(しき)りに手足を動(うご)かしてゐるのを見て、

「下町はまだ中々(なかなか)蚊が多いね、少し早いけれど寢るとしようか」

「え、さうしませう」とお君(きみ)は床を展(の)べる、精一はまだ新宅(しんたく)の何となく落付(おちつ)かないので、戶締りを見まはつて來ませうと下の部屋々々(へやへや)をまはりながら二階(かい)へ上つた。

 やがて二階(かい)から下りて來た精一が

「おきみ、精坊(せいぼう)のいふ二階の叔母さんが判つたよ」といふ。

 お君は一寸(ちよつと)驚(おどろ)いて振向くと、

「ほら、お母さんの寫眞(しやしん)を引伸(ひきの)ばして額にしたらう、あれが裏(うら)二階(かい)の額になつてるものだから、その事を云(い)つてるんぢやないか」

「あ、さうですか、裏(うら)二階(かい)は丁度隱居所に好いからつて貴郞(あなた)があの額をおかけになりましたね、さういへばお母さんはよく精坊を可愛(かあい)がつて下さいましたわね」

「うん、こんな子供でも、自分(じぶん)を可愛がつてくれた人の事は中々(なかなか)忘れないものと見える」

 これで精太郞(せいたらう)のいふ「二階の叔母さん」は一應(おう)解決(かいけつ)がついて、夫婦は寢支度(ねじたく)にかゝつた。

[やぶちゃん注:「大川」「一」の冒頭で、「ある都會(とくわい)の下町」とあったが、萩原一家の言葉遣いに訛りがなく、「大川」(おほかは)とくれば、これは隅田川で、その「下町」「河岸通(かしどほ)り」とくれば、東京都墨田区の凡そ南半分を範囲とする本所附近がモデル・ロケーションであると言える。

「裏(うら)二階(かい)は丁度隱居所に好いからつて貴郞(あなた)があの額をおかけになりましたね、さういへばお母さんはよく精坊を可愛(かあい)がつて下さいましたわね」ちょっと躓くような表現だが、これは、精一の母は、ここへ引っ越す有意な前に亡くなっているようで、而して、その母の写真を額にして、新居の、この二階を、母の霊の隠居所にちょうどいいと言って、精一が掲げた、というのである。]

 

         

 

 三日(か)經(た)ち、四日經ちしてゐる間に、夫婦(ふうふ)は此の家に追々(おひおひ)馴染(なじ)みがついて來た、住(す)めば住むほど居心のよい家(うち)といふ事になつた。

「只近所の人がいやだわ、相變(あひかは)らず覗(のぞ)きに來るんですもの」とお君はそれを氣にしたが、

「仕方がないよ、一つぐらゐは惡(わる)い事がなけれあ、それに覗(のぞ)かれたつて不都合(ふつがふ)な事のあるやうな家の中ぢやないんだから、覗(のぞ)く奴(やつ)には覗かして置けば好(い)いぢやないか」と良人(をつと)は笑ひ消して了つた。

 五日六日經(た)つと、

「この頃(ごろ)精坊(せいばう)が大變大人(おとな)しくなつたぢやないか、お前、さうは思(も)はないか」と良人(をつと)が云つた。

「え、私もさう思つてるんですの、此家(このうち)に來てからといふもの打(う)つて變(かは)つて大人(おとな)しい子になりましたわ」

「病氣(びやうき)でもあるんぢやないか」

「いゝえ、身體(からだ)は何ともないらしいやうですよ、あの淋(さび)しい裏(うら)二階(かい)が馬鹿に氣に入つたと見えて、此頃は終日(いちんち)裏(うら)二階(かい)を上つたり下りたりして遊(あそ)んでますわ」

「よくあんな淋しい部屋へ獨(どく)りで行けるね、子供(こども)といふものは、家の中でも人の居(ゐ)るところにばかり居たがるものだが、裏二階で何(なに)をして遊(あそ)んでゐるんだ」

「それがね、可笑(をか)しいんですよ、今日なんざ半日(はんにち)の餘(よ)も裏二階に上つたきりですから、何(なに)をして遊んでるのかと思つて、そつと階子段(はしごだん)から覗いて見ましたら、床の間を枕(まくら)にして、寢そべつたままで獨りでお話しをしてるんですの、精坊(せいばう)や、お前何を云(い)つてるんだえと私が聲(こゑ)をかけましたらね、私の方は振向(ふりむ)きもしないで、お母さん、今(いま)叔母(をば)さんとお話してるんだよ、お母さんも上つていらつしやい、なんて濟(す)ましてるんです」

「ははは、床の間に枕(まくら)をすると、丁度目の上へお母さんの額(がく)があるといふわけだね、他愛(たあい)もない奴だな」

「でもよく飽(あ)きないと思つて感心(かんしん)しましたわ」とそれで其日は濟(す)んだ。

 が更に二三日(にち)經(た)つたある日、おきみは良人(をつと)のかへりを待ち受けて、一寸(ちよつと)聲(こゑ)をひそめながら、

「貴郞(あなた)、精太郞に何か憑(つ)きものでもしてるんぢやないでせうか]といふ。

「何故(なぜ)、どうかしたかい」

「いゝえ、どうもしませんが、その二階(かい)の叔母(をば)さんといふのが、私は變(へん)だと思ふんです」

「二階の叔母(をば)さんならお母さんの事ぢやないか、氣にする事はない」

「いゝえ、それがね、今日(けふ)汚穢屋(をわいや)さんが來て臭くつて仕樣(しやう)がありませんから、二階の地袋(ぢぶくろ)まで香盒(かうごふ)をとりに上りましたらね、いつもの通(とほ)りに床の間を枕にして獨話(ひとりばな)しをしてた精太郞が、だしぬけに泣(な)き出(だ)したんですの」

「びつくりしてかえ」

「いゝえ、だしぬけにお母(かあ)さんが上つて來るものだから、叔母(をば)さんが何處かへ行つて了(しま)つたと云つておいおい泣(な)くんです、お前の祖母(おばあ)さんならちやんとこゝに居(を)らつしやるぢやないかとあのお寫眞(しやしん)を指さして見せましたら、この祖母(おばあ)さんぢやないんだ、いつでも坊を抱(だつ)こしてくれる叔母さんだ、何處(どこ)かに行つちやつた。叔母(をば)さん叔母さんと云つて、只(たゞ)泣(な)いてばかり居るんです」

「ふうむ、それは變(へん)だね、さうすると、精太郞(せいたらう)のいふ叔母(をば)さんはお母さんの寫眞(しやしん)の事ぢやなかつたのかね」

「え、どうもさうらしいんですのよ」

「それで、其後(そのご)はどうした」

「それから下へ連れて來て、お菓子(くわし)をやつたりして、やつと機嫌(きげん)を直させると、又(また)こそこそお二階(かい)へ上つて行きましたが、今度は又先の通り大人(おのな)しく遊(あそ)んでましたわ、相變(あひかは)らず獨(ひと)りでお話をして」

「變(へん)な子だね」

「それに裏(うら)二階(かい)へばかり行きたがるのが、私にはどうしても不思議(ふしぎ)でなりませんわ」

「うん、それは只(たゞ)蟲(むし)が好(す)くんだとばかり俺(おれ)も思つてゐたが、さうなつて見ると、ちつと可怪(をか)しいね、今も行つてるかえ」

「え、多分(たぶん)さうでせう、精坊や精坊や」と呼べば、案(あん)の定(ぢやう)、裏二階の方で「ハーイ」と返事(へんじ)をしてちよこちよこと下りて來(き)た。

「お二階の叔母(をば)さん、どうしたい」と精(せい)一が聞くと、

「お二階の叔母さんね、今僕に猿坊(えて)のお話をしてくれたよ、お月樣(つきさま)がね、ずつと遠(とほ)くのお山の中のお池(いけ)へ下りていらつしやるんだつて、さうするとね、猿坊(えて)がね、木の枝にとまりながら、お池の中で行水(ぎやうずゐ[やぶちゃん注:ママ。既に先行す作品で注したが、「水」の音の正しい歴史的仮名遣は、現在では「すい」が正しい。])してるお月樣を捕(つか)まへてやらうと思つて手を伸(のば)して、ヒヨイと飛び込むと、お月樣の方が早(はや)いもんだから、ピンと天へ上つて了(しま)ふんだつて、そしてどうしても捕(つか)まらないんだつて」

「猿喉水月(えんこうすゐげつ)か、ほう洒落(しやれ)た話を知つてるね、そんな事を二階の叔母(をば)さんが坊やに話して下すつたのかい」

「あゝ。もつと澤山(たくさん)話してくれるよ、雨の神さまとお天道樣(てんたうさま)と喧嘩(けんくわ)した話も、それから鼠が描の仇討(あだうち)をするお話も、それから――」

「二階(かい)の叔母(をば)さんてどんな人だい」

「お父さん知らないの、變(へん)だな二階(かい)の叔母さんはお父さんの事も、お母さんの事も、よく知(し)つてるよ、好(い)い叔母(をば)さんだよ、僕が行くとすぐに抱(だつ)こしてくれるよ、それから面白(おもしろ)い話をいくつもいくつもしてくれるよ、お母(かあ)さん見たいに、うるさいなんてちつとも云はないや」

 お君は笑(わら)つたがすぐ眞面目(まじめ)になつて良人(をつと)と顏を見合した。

「變(へん)でせう」

「うむ、妙(めう)な事を云つてるね」

 それから長い間かゝつて、精(せい)一が精坊の話(はなし)で聞いたところによると、二階(かい)の叔母さんといふのは、切下(きりさ)げ髮にした色の白い老女(らうぢよ)で、紋羽二重の被布(ひふ)を着て白足袋[やぶちゃん注:「しろたび」。]を穿(は)いてゐるといふ事だけは判(わか)つた。

 其樣人(そんなひと)が裏二階に居さうな事がない、それにさういふ姿(すがた)をした人は親類の中に一人も居ない。

 夫婦(ふうふ)はぞつとした。

 精太郞を寢(ね)かしてから、

「一體(たい)何(なん)でせう」

「何だらう」と暫(しば)らく云ひ合つて見たが、解決(かいけつ)のつきさうな筈(はづ[やぶちゃん注:ママ。])がない。

 兎に角裏二階を調(しら)べて見ようといふ事で、夫婦が懷中電燈を照(てら)しながら、そつとと上つて見たが何の異狀(いじやう)もない、押入れ、地袋、床(とこ)の隅々(すみずみ)、屛風(びやうぶ)のうしろなどゝすつかり調(しら)べて見たが、更に異狀はない、矢張(やは)り

「變(へん)ですね」と云ひながら下りて來るより外はなかつた。

[やぶちゃん注:「汚穢屋(をわいや)さん」文化式溜め便所の汲み取り屋さんのこと。私が小学生六年生頃には、今住んでいる家の旧家屋には、近くのお百姓さんが、桶を担いで、汲み取り、お百姓が、お金を払って買って行かれていた。私は三十二歳で結婚して家を新築するまで、ぽっとん便所だった。今や、それを知らない若者が多くなったな。

「猿喉水月」「欲に駆られて身のほどを忘れ、命を落とすこと。」の喩えで、仏語。猿猴は猿こと。昔、インドの波羅那(ハラナ)城で、五百匹の猿が、樹下の池の面に映った月を取ろうとし、互いに他の猿の尾をつかんで高い枝を下りて池に臨んだが、遂には枝が折れて、皆、水に落ち、溺れ死んだ、という故事で、仏陀が比丘たちを戒めたと伝える、東晋の仏書「僧祇律」(そうぎりつ)の載る。単に「猿猴が月」とも、また「猿猴の水の月」猿猴が月に愛す」「猿猴月を取る」とも言う(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「切下(きりさ)げ髮」髪の毛を首のつけ根のあたりで切りそろえ、束ねて後ろに垂らしておく髪型。中国で夫の死後、操(みさお)をたてるためにした髪の模倣で、多く未亡人が行ない、大正時代頃まで行なわれた。「下げ毛」「切髪」「切り下げ」とも言う。

「紋羽二重」(もんはぶたへ(もんはぶたえ))は「紋織りの羽二重」。文様を浮き織りにした羽二重(平織りと呼ばれる 経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を交互に交差させる織り方で織られた織物の一種。

「被布(ひふ)」着物の上に羽織る上衣。襠(まち)があり、たて衿(えり)と小衿がつき、錦の組み紐で留める。江戸時代、茶人や俳人などが着用して流行し、後、一般の女性も用いた。おもに縮緬・綸子(りんず)などで作る。]

 

         

 

 其の翌日、精太郞が不意(ふい)に居なくなつた。丁度午後の四時頃の事、お君(きみ)が臺所(だいどころ)で煮物(にもの)をしてゐると、表へ廣告(くわうこく)の樂隊が來た、煮物の傍(そば)に居た精太郞は急いで飛んで出た、それまでは判(わか)つてゐる。

 が、その樂隊(がくたい)が遠くへ行つて了つても、精太郞(せいたらう)は戾(もど)つて來なかつた。

「精坊や、精坊や」とおきみが呼んだのはものゝ二十分も經(た)つてからの事、が、どこにも精太郞の返事(へんじ)は聞こえなかつた。

 お君はすぐに裏(うら)二階(かい)に上つて見た、併(しか)しその裏二階にも居ない、さあ心配(しんぱい)になつて來た、煮物は打棄(うつちや)らかして、おきみは往來(わうらい)へ出て見た、通りの方へも行つたし河岸通(かしどほ)りをすつかり探(さが)しながら、其處にゐる子供(こども)たちにも聞いて見た、が、どうしても見えない、手近の交番(かうばん)へ行つて、其の事を話して置いて、まるで氣(き)ぬけのしたやうになつて戾(もど)つて來た。

 其處へ精一が會社(くわいしや)から戾つて來た。

 今度は夫婦で氣を揉(も)んで、精一は勤めに出る洋服(やうふく)を着た儘で可成(かな)り遠くまで探しまはつた、けれども到頭(たうとう)行方(ゆくえ[やぶちゃん注:ママ。])は知れない儘(まゝ)に夜は十時といふ時間になつて了(しま)つた。

 お君はもう泣(な)き倒(たふ)れて正體もないくらゐ、精一もボーツとなつて、女房(にようぼ)を勵(はげ)ます勇氣(ゆうき)もなくなつてゐた。

 穩(おだや)かな家庭が、急(きふ)にじめじめとした家庭になつて了つた。

 十時半(じはん)になつても、十一時になつても、二人とも寢(ね)ようとする氣(き)にもなれなかつた。

 夫婦の中に一粒種(つぶだね)、而(しか)もかけがへのない男の子を、あれだけに仕上(しあ)げてから、もうこれつきり顏を見る事が出來ないのかといふ心持に二人ともなつてゐた。

 十二時といふ時間(じかん)になつたので、二人はさらばかうもしてゐられない。

「なあに、明日(あした)になつたら判るだらう、あの子は利口(りこう)な子だから迷見(まひご)になつても、多分こゝの町名(ちやうめい)番地(ばんち)をお巡査(まはり)さんに云ふ事が出來るだらうから、そしたら何(なん)とかして誰れかゞ送(おく)つて來てくれるに違ひない」と精(せい)一はお君に氣休(きやす)めを云つて、一先(ま)づ床(とこ)につく事にした、お君(きみ)とてもそれだけの事は判(わか)つてゐるが、それは只氣休めだ、氣休めで自分の心(こゝろ)を押(おさ)へるとあとからあとからと怖(おそ)ろしい想像(さうざう)が攻めつけて來るので寢(ね)ても寢ても寢つかれない。

 一時の時計の音(おと)も耳に響(ひゞ)いた、二時も判(わか)つてゐた、その二時が打つて二人が溜息(ためいき)をしながら寢がへりをした時、二人は外(そと)で

「お母さん」といふ聲(こゑ)を聞いた。

 夫婦は一齊(せい)に枕(まくら)を上げた。

「お母さん」と又(また)一聲(こゑ)。

「精坊かい」と夫婦は一緖(しよ)に飛び起きた。

「お父(とう)さん」

「おゝ歸(かへ)つて來たか歸つて來たか」と夫婦は一緖(しよ)に飛び出して戶を開(あ)けた。

 外には精太郞が滾(こぼ)れ落(お)ちるほどちらついてゐる星月夜(ほしづきよ)の下に悄然(せうぜん)と立つてゐる。

「どうしたんだ、どこへ行(い)つたんだ」

「まアよく歸(かへ)つて來ておくれだね」と左右(さいう)から手を取つて内へ入れると、精坊(せいばう)は到(いた)つて平氣な顏をして、

「僕ね迷兒(まひご)になつちやつたの、それで以(もつ)て困(こま)つてね、僕オーオーつて泣(な)いたの、さうすると二階の叔母(をば)さんが迎(むか)ひに來てくれたんだよ」といふ、夫婦(ふうふ)は此時ぞつと水を浴(あび)せられたやうな氣がした。

「そして二階の叔母さんはどうなすつて」

「今僕と一緖(しよ)に立つてたでせう、おや居ないや、お父(とう)さん、二階の叔母さんを閉(し)め出(だ)しちやいけないや、表(おもて)にゐるよ、きつと」と慌(あは)てゝ表の戶の際(きは)へ驅(か)けよつた、精一はそれに引かれるやうにして表の戶を開けたが、外(そと)は川水にうつる星(ほし)の光(ひかり)ばかりであつた。

「居ないや居ないや、二階(かい)の叔母さん」叔母さんと精太郞は狂氣(きやうき)したやうに外へ驅(か)け出(だ)さうとするのを父親がしつかり捕(つか)まへて、

「おいおい、折角歸つて來て又(また)飛(と)び出(だ)しちやいけない、早(はや)く中へ入つておいで」と引戾(ひきもど)す時、精太郞は急に廊下(らうか)の方を振(ふ)りかへつた。そして、につこりして、

「何だ、叔母(をば)さん、もうちやんと二階(かい)に上つてらあ」と安心(あんしん)した樣子をする。

 夫婦は顏を見合(みあは)せた、二階の叔母(をば)さんの正體を見屆(みとゞ)けるのはこゝだといふ心持。

「精坊や、叔母さんとこへお父さんたちを連(つれ)てつておくれ、お禮(れい)を云はなけれあならないから」と云(い)へば、

「あゝ」と優(やさ)しく返事(へんじ)をして精坊は先に立つて、とんとんと二階(かい)へ上る。

 夫婦がそのあとへ跟(つ)いて行つたが、二階(かい)はいつもの通り何の異狀(いじやう)もない。

「叔母さん、居(ゐ)ないぢやないか」

「居るよ、あそこにゐらあ、叔母(をば)さんありがたう」と精太郞(せいたらう)だけがどんどんとと床(とこ)の間へ進(すす)んでちやんとお辭儀(じぎ)をする。

 又しても夫婦(ふうふ)はぞつとした、もうそこに立つてる空(そら)はなかつた。

 翌朝(よくてう)になつておきみが勝手口(かつてぐち)で出あひがしらに隣(となり)の内儀(おかみ)とばつたり出逢つて、

「昨日(きのふ)はどうもお世話樣(せわさま)でございました、お庇(かげ)で昨晚遲がけに歸つて來ました」と禮(れい)をいふと、

「そんな樣子(やうす)でございましたね、それにしてもよくお歸(かへ)んなさいましたわね、どこに行つてらしたんでございます」

「矢張り迷兒(まひご)になつたんださうでね」とありの儘の話をすると、内儀は變な顏して、身慄ひをしたが、

「それぢや矢張り出(で)るんでございますか」と云つた。

 これが話の緖(いとぐち)になつて、隣(となり)の内儀の目からほぐれた話は、忽(たちま)ち二階の叔母さんの謎(なぞ)を解(と)いた。

 それは七八年の前までこの家に住んでゐた淺田(あさだ)といふ一家の人々の事である、夫婦(ふうふ)に子供一人それに老母と合せて四人家内(にんかない)であつたが、八年ほど前に夫婦が流行病(りうかうびやう)にかゝつて殆(ほと)んど三四日前後したくらゐで死(し)んだ、あとは子供一人と老母一人、尤(もつと)も當分(たうぶん)食(た)べて送るだけの貯(たくは)へはあつたらしい、老母(らうば)が孫(まご)一人を大事にかけて一年ほどもこの家で暮(くら)した、孫はその時十五ぐらゐになつてゐたので、あと四五年も辛抱(しんばう)して仕込めば、どうにか稼(かせ)いでくれる、それを樂(たの)しみにして、まアまアそれまでのつなぎはつけられさうだから、と、貯金(ちよきん)の利子(りし)と恩給(おんきふ)で暮してゐたらしいが、その孫が又しても一年目に兩親(りやうしん)のあとを追(お)つた、矢張り流行病である。

 ひとりぼつちになつた老母(らうば)の力落(ちからおと)しはいふまでもない。

「今貴女の仰(おつし)やる通り、切髮でね、披布(ひふ)を着て白足袋を穿(は)いた品(ひん)のよいお方でしたが、每日々々お墓詣(はかまゐ)りばかりしながら私は何の爲めに世の中に生殘(いきのこ)つてゐなけれあならないんでせうと云ひくらしてゐらつしやる中(うち)、お二階の軒(のき)の梁(はり)に紐(ひも)を釣(つる)して首をくゝつて死んでおしまひなすつたんですよ」と内儀(おかみ)は凄(すご)い顏をして說明した[やぶちゃん注:句読点なしはママ。]「私はその姿を見ましたので今でも目(め)をつぶるとあれがはつきり目の前に浮びますが、本當(ほんたう)にお氣の毒だと思(おも)ひました、それからこつち、此處(ここ)の家はどうも越して來る人が長續(ながつゞ)きしないんですよ、何でも裏二階で始終(しじう)お念佛(ねんぶつ)の聲がするんですつて、今だから申しますが、お宅(たく)で越(こ)してらつした時にも何か變(かは)つた樣子(やうす)が起るだらう起るだらうつて、近所で噂(うはさ)をしましたの」

「道理で、私どもを覗(のぞ)き込(こ)む人が多かつたんですわね」

「え、左樣(さう)でございます、それが一向(かう)平氣(へいき)で落ちついていらつしやるでせう、だから、幽靈(いうれい)ももう七年忌(ねんき)がすんだから諦(あき)らめたのかしらなんてね、皆で蔭口(かげぐち)を申して居りましたわ」

「まアさういふわけですか、して見(み)ると、私どもの家族(かぞく)が矢張り夫婦に子供一人だものですから[やぶちゃん注:行末で禁則処理が組版上、出来ないため、読点が、ない。]自分の孫(まご)のつもりで私らの坊(ぼう)やにだけ自分の姿を見せて始終(しじう)庇(ば)つてくれるんですね」

「どうもさうらしうございます、さう云(い)へば思ひ當(あた)る事がありますわ、七年の間(あひだ)に、約そ[やぶちゃん注:「およそ」。]何十人といふ人が越(こ)して來ましたが、十四五から下のお子さんのいらつしやる一家(か)は只一度でしたがね、その方がいらつしやる間(あひだ)は少しも念佛(ねんぶつ)の聲も聞こえないし、内の方も平氣(へいき)でいらした樣子です、それでたしか三四年も住(す)んでいらしたでせう、他(ほか)の家(うち)は大抵(たいてい)三月が關の山ですもの」

「その方(かた)はどうなすつたんです」

「御主人が地方へ轉任(てんにん)とかをなさるについてお引上(ひきあ)げなすつたんです」

「まアさうですか、それでやつと判(わか)りました、私どもでも坊やが時々(ときどき)變(へん)な事を申しますので、不思議だ不思議だと云(い)つて居(を)つたんでございます、でも、そのお婆さんの魂(たましひ)が自分の孫(まご)のつもりで私どもの坊を守(まも)つて下さるんですわね」

「え、さうなんですよ、多分(たぶん)お子さんのいらつしやらない御(ご)一家(か)が住んでると幽靈(いうれい)が淋しいとでも思(おも)ふんでございませうよ」

「何にしても、不思議(ふしぎ)な事があるものですね、それにこんな事(こと)があるので家賃(やちん)も安いんでございませう、どうも安(やす)すぎると思ひましたわ」

 とおきみは、薄氣味(うすきみ)の惡いやうな、安心したやうな心持になつて、早(はや)く話(はな)してやりませうと良人(をつと)の歸りを待受(まちう)けた。そして例の通り二階へ遊びに行つてゐる精太郞のうしろ姿を水口の前から見上げて變(へん)な氣持(きもち)になってゐた。

                       ――これは二十數年前橫濱にあった話  

[やぶちゃん注:「交番」に精一が行くという表現があるが、当該ウィキによれば、明治七(一八七四)年に『東京警視庁が設置され』た年に『巡査を東京の各「交番所」(交番舎)に配置した。当初は施設を伴うものではなく、巡査が警察署から徒歩でパトロールを行いながら、交代で立番(りつばん)などを行なう場所として指定された地点を示した』が、同年の八月には、『「交番所」に設備を設置して周辺地域のパトロールなどを行う拠点』としたとある。しかし、明治一四(一八八一)年には、『「交番所」から「派出所」に改称された』とあり、「派出所」の正式名称が「交番」に再決定されたのは、平成六(一九九四)年であるとある。しかし、本篇の雰囲気は、凡そ明治七年から同十四年の雰囲気ではない。第一、私は昭和三二(一九五七)年生まれだが、幼年期・少年期を通して、私は「派出所」という言い難い呼称を使った覚えは、一度も、ない。総て「交番」であったし、そう認識していた。「廣告の樂隊」というのが、やや古い印象を与えるようにも思われるが、これは所謂、「チンドン屋」ではなく、中規模の西洋楽器を用いたそれで、明治中期には行われており、本書の初版は昭和九(一九三四)年刊であるから、最後の蘆江の附記から、明治四一(一九〇八)年前後が話柄内時制であると考える。則ち、本書の中でも、ごく近代の実話が元なのだと断ずるものである。則ち、私のブログカテゴリ「怪奇談集」「怪奇談集Ⅱ」全篇の中でも、最も現在に近い、しかも、子どもにだけ見え、子どもを愛し、守るところの老女の霊の哀話にして、正統な都市伝説(アーバン・レジェンド)の古層の逸品として、私は、すこぶる好きな一篇なのである。

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