「蘆江怪談集」 「縛られ塚」
[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本本文の開始位置はここ。なお、本篇は冒頭に以下の通りあるように、前回の実話怪談「惡業地藏」ように、実話談を元にして創作されたものである。標題は「しばられづか」と読んでおく。
なお、冒頭の作者の附記は、ポイント落ちで五字下げ二行下インデントであるが、プラウザの不具合を考え、一行字数を減じた。読み難くなるので、ポイントは少しだけ落とした。]
縛 ら れ 塚
別項「惡業地藏」に書いたやうな實話から
生み出したのが、この一篇です。私の小說
の種明しといふ意味で、採錄して置きます。
一
「法華宗(ほつけしう)のお堂と見かけてお賴(たの)み申(まを)します。病ひの爲めに難澁(なnじふ)いたして居りますもの、しばらくの間板緣をお貸(かし)し下さい」と旅の僧は脇腹(わきばら)を片手でおさへながら云つたが、堂(だう)の中からは返事がない。
「お賴み申す、お賴み申す」とくりかへしたが何(なん)と答(こた)へる人もない。
旅僧(たびそう)はもう苦しさに堪(たへ)られなくなつたらしい、お堂の前の賽錢箱(さいせんばこ)の橫にぺたりと腰(こし)を落し、片手を賽錢箱(さいせんばこ)へかけてぐつたりとなつた。それから二聲三聲呻(うな)り聲をあげて、その儘息も絕(た)え絕(だ)えになつた。
お堂といふのは伊豆(いづ)の天城(あまぎ)の山中、二里ほどゆけば下田(しもだ)の港(みなと)へ出られるといふ道(みち)に、おぼつかなくも建ちくされになつた小さな堂で、時(とき)は秋(あき)のはじめの晝さがりであつた。
旅(たび)の僧(そう)がぐつたりとなつたあと、何程も經(た)たぬ時分にこの堂(だう)の前を通りかかつたのは炭燒(すみやき)の杢助(もくすけ)、何の氣なしに旅僧の倒(たふ)れた姿(すがた)を見つけて抱き起したり、介抱(かいはう)をしたりすると、漸(やうや)く細々と目をあいた。
「お坊(ぼう)さん、どうなされたな」
「ハイ」
「氣がつかれたか、私はところのものぢや、お氣分(きぶん)でも惡(わる)いかな」
「ハイ、ありがたうござります、持病(じびやう)の癪(しやく)がさし込みまして身動(みうご)きもなりませぬ、少しの間ここへ休(やす)まして頂(いたゞ)くつもりで腰を下しましたまではおぼえて居(を)りましたが――」[やぶちゃん注:「癪」多くは古くから女性に見られる「差し込み」という奴で、胸部、或いは、腹部に起こる一種の痙攣痛。医学的には胃痙攣・子宮痙攣・腸神経痛などが考えられる。別称に「仙気」「仙痛」「癪閊(しゃくつかえ)」等がある。]
「ほう、それからあとは判(わか)らなくなつたと仰(おつし)やるのか、併(しか)し、よいところへ私が通り合はせました。もう少(すこ)しでも遲(おそ)かつたらどうにもとりかへしがつかなんだかも知(し)れぬ、兎に角、まだ本當(ほんたう)の囘復(くわいふく)ではなささうぢや、この堂(だう)の中で心おきなく養生をなさるがよい」と杢助爺(もくすけぢい)は旅僧の手を取つて、堂の奧へ入れたり、氣付けの藥(くすり)などをどこからか運(はこ)んで來て手厚(てあつ)い介抱(かいはう)をしてやつた。
「ありがたうござる、もう大丈夫(だいじやうぶ)でござります。飛(と)んだ御造作(ござうさ)に預(あづ)かつて、お禮の申し上げやうもござらぬ」と少(すこ)し元氣(げんき)が出ると、今にも立上りさうにする。
「これこれ、その樣な輕はずみをして、又道中で再發(さいはつ)したらどうなさる、幸(さいは)ひここは住む人のないお堂ぢや、幾日(いくにち)でも心置なく養生(やうじやう)して行きなさい、殊(こと)によつたら、お前さまの御都合で、いつまでも堂守(だうもり)をして下さるがよい」
なるほど無住(むぢう)らしい。と、旅の僧はあたりを見(み)まはした。
「ここの住職(ぢうしよく)は半歲[やぶちゃん注:「はんとし」。]ほど前から行方(ゆくえ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])が判(わか)らなくなつたのでな、その時以來、このお堂も無住(むぢう)の儘で立ちぐされになつて居りますのぢや。併(しか)し、御本尊(ごほんぞん)もその儘(まゝ)にある事ぢやし、折角の御堂(みだう)の事ゆゑ、私が折々見まはつては掃除(そうぢ)もしたり、炭小屋で寢にくい時はここで寢泊(ねとま)りもする事もありますわい。まアまア今(いま)では私の爲めに出來てゐる寮(れう)のやうなものぢや、いつその事、お前樣(まへさま)が住みつづけて、お堂守(だうもり)をして下さると、結句(けつく)、兩爲め[やぶちゃん注:「りやうだめ」。]といふものではあるまいか」と云つた。
「先住(せんじう)の行方(ゆくえ)はどうしても判りませんか」
「ハイ、少し樣子が變(へん)だと思はないでもなかつたのでございますから、まア、氣が狂うたのぢやな、そしてうかうかとここを飛(と)び出(だ)したものかと思はれまする、尤(もつと)も飛び出すところを誰れも見屆けたわけではないが、いつもここでお勤(つと)めをしてゐた筈(はづ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])の人が、ひよつくり居なくなつて、その儘、半年も月日(としつき)が經(た)つて見れば、まア、氣が狂うて飛び出したものとでも見(み)るより仕方(しかた)がありませんな」
旅僧は默(だま)つて聞(き)いてゐたが、その内に日(ひ)は暮(く)れかかる、今から山路(やまみち)にもかゝれぬので「兎に角それではお言葉に甘(あま)えて、少しの間このお堂に居させて頂(いたゞ)きませうわい。私は房州船形(ぼうしうふながた)から參つたものぢや、妙兼(みやうけん)と申す尼(あま)でございます」と名乘つた。
「ほゝ、尼樣(あまさま)でござつたか、道理でどことなく物言(ものい)ひの優(やさ)しいお人ぢやと思ひました。それではまア、一先(ま)づここで落付く事にして下され、あとで私の小屋に預(あづ)かつてある臺所道具(だいどころだうぐ[やぶちゃん注:底本は「だうぐ」は「たうぐ]であるが、誤植と断じて、特異的に訂した。])や諸道具(しよだうぐ)も一通り運んで置いて進(しん)ぜる」と親切(しんせつ)さうに杢助(もくすけ)は炭燒小屋へ駈(か)け出(だ)して行つた。
[やぶちゃん注:「房州船形」現在の千葉県館山市船形(ふなかた:清音。グーグル・マップ・データ)。]
二
一人お堂に殘(のこ)つた妙兼尼(めうけんに)は、先づ堂の中をそこここと見まはした。お堂の中の須彌檀(しゆみだん)のうしろ手に三尺にも足らぬ厨子(ずし)が据(す)ゑてある。妙兼は厨子の前に鄭重(ていちよう)に禮拜(らいはい)してそつと扉(とびら)をひらいた。
そして扉の中を覗(のぞ)いた妙兼は思(おも)はずハツと飛びすさつた。眞暗(まつくら)な中に白蛇(はくじや)がこんもり高くとぐろを卷いてゐる。妙兼(めうけん)は扉をぴつたり閉(し)めると、兩手を合はして題目(だいもく)をくりかへした。
が、暫(しば)らくしてから何となく考へた。扉をあけた機(はづ)みに、ちらりと見た本尊(ほんぞん)を正しく[やぶちゃん注:「まさしく」。]とぐろを卷いた白蛇と思つたが、よくよく考へて見ると、どうも白蛇としては合點(がてん)のゆかぬ形でもある。
「ハテ、薄暗(うすくら)がりに慌(あは)てて居つたので、見損(みそこ)なひかも知れぬ」と獨(ひと)り言(ごと)をいひながら、妙兼は又こつそり扉(とびら)へ手をかけた。
今度は一心に題目(だいもく)を唱(とな)へ、目を見据(みす)ゑるやうにして、そろそろと扉をあけると、白蛇(はくじや)ではなかつた。
ぐるぐるとうづ高く卷上げた荒繩(あらなは)であつた。併(しか)し卷上げた荒繩のかたまり、それが何でこの厨子(づし)へ入れてあるのかと妙兼(めうけん)は小首をひねつた。
どう考(かんが)へても判らない、判らない儘に、手燭(てしよく)をかざして厨子の中側(なかがは)を仔細(しさい)に見ると、又ちがつた。
荒繩(あらなは)のかたまりと思つたのは、さうばかりでもない、どうやら荒繩の内側に何ものか卷(ま)き込(こ)めてあるらしい。
と見、かう見してゐる間(うち)に、荒繩(あらなあ)にはほぐれ小口があつて、それが厨子(づし)の扉の方へ長くつき出てゐる。その小口を一寸(ちよつと)引(ひ)くと荒繩のかたまりは上の方からずるずるとくづれさうになつた。繩(なは)のくづれた下には靑黑(あをぐろ)いものが見える。[やぶちゃん注:「小口」(こぐち)は「切断面・切り口」の意。]
とだけで、まだ正體が知れぬので、妙兼(めうけん)は鄭重(ていちよう)に荒繩を解(と)きはじめた。
さて、上の方から解(と)きほごして見ると、今妙兼の目前(もくぜん)の厨子の中に鎭座(ちんざ)してゐるのは二尺に足(た)らぬ自然石(しぜんせき)を彫(ほ)つた一基の石塔(せきたふ)であつた。
「石塔がどうしてこんな事に」と妙兼は只々(たゞたゞ)呆氣(あつけ)にとられた。
厨子こそ堂(だう)の床[やぶちゃん注:「ゆか」。]の上に區切(くぎ)つてはあるが、厨子は底(そこ)なしで、石塔は床下から立つてゐるが、その石碑(せきひ)を荒繩ですつかり縛(しば)り上(あ)げてあるといふ。[やぶちゃん注:文末は不全。「上げてあるといふ按配である。」或いは「上げてあるのである。」ぐらいがよかろう。]
「妙な事をしたものぢや、一體何の因緣(いんねん)で、このやうに荒々(あらあら)しい事をしたのであらう」と獨(ひと)り言(ごと)を云つてゐたが、石塔を縛り上げるなどの所由(いはれ)はどう考へても判(わか)らなかつた。
「兎に角、出家にあるまじい事ぢや、かうして私(わたし)の目に見た以上(いじゃう)は、何が何であらうと解(と)いてやる事にしませう」と妙兼(めうけん)はそつと繩の小口(こぐち)をほごして行つた。
荒繩(あらなは)をすつかりほごして、石碑(せきひ)の面(おもて)を撫(な)で𢌞してゐたが、手燭(てしよく)の火に石碑の表をすかした妙兼は又更に驚(おど)ろかされた。
石碑の表は「丑年(うしどし)の女、俗名(ぞくみやう)おかね」と大きく彫(ほ)つてある、いそいそとうしろヘ𢌞(まは)ると、裏には「伊豆稻取(いづいなとり)の出生」とだけ。
「わたしの石塔ぢや、わたしの石塔を一體(たい)誰(だ)れが建(た)てたのであらう、建てたばかりでなく、何故縛つたのであらう、縛る爲めに建(た)てたのか、何れにしても容易(ようい)ならぬ沙汰(さた)ぢや」と、妙兼は題目(だいもく)を唱へながら塚の前に突立(つゝた)つてゐた。
三
「どうぢや、馴(な)れぬ塒(ねぐら)で寢られなかつたぢやろ」と翌朝(よくてう)早々(さうさう)とやつて來た杢助(もくすけ)に、
「杢助さん、一體(たい)先住(せんぢう)といふ人は、どのやうな人でござつたのぢや」と妙兼は聞いた。
「先住(せんぢう)かな、日道(にちだう)さんというて、元は伊豆(いづ)の人ぢやさうなが、默(だま)つてばかりゐる人ぢやつた。何でも以前は瀨戸物師(せとものし)とやらでな、このお堂に籠(こも)ると其日から朝晚のお勤(つと)をしたあとは一心に瀨戶物ばかりをして居られたやうぢや、それそれ、うら手に今でも瀨戶物燒(せとものやき)のかまが殘(のこ)つて居りますがな、瀨戶物もなみの皿(さら)茶碗(ちやわん)は燒かんで、女の姿の人形(にんぎやう)ばかり造つては燒いて居つたが、おしまひに氣(き)に入(い)つた人形が出來たと見えて、それはそれは私へも自慢(じまん)にして見せましたな」
「その人形(にぎやう)はどうしましたえ」[やぶちゃん注:最後は「へ」であるが、誤植と断じて、特異的に訂した。]
「さあさあ、あとを聞(き)きなさい。その造(つく)り上げた人形に何(なん)でもおかねといふ名をつけてな、大層(たいそう)大事にかけて居(を)りましたわい」
妙兼は目を異樣(いやう)に輝(かゞや)かして、杢助爺の顏を見つめた。杢助爺は一向(かう)無頓着(むとんちやく)に、
「その人形が出來てからといふもの、それをすつかり活物扱(いきものあつ)かひにしましてな、始終(しじう)獨(ひと)り言(ごと)を云つては喜(よろこ)んで居りましたわい」
「どのやうな事を云うて居(を)りましたな」
私が何の氣なしにこのお堂の側(そば)を通(とほ)りかゝるとな、おいおかねや、さあかうなつたら、私の側から逃(に)げ出(だ)す事はなるまい。逃げるなら逃げて見やれ、元々(もともと)は私(わし)の手で造(つく)つた人形ぢやが、今ではおぬしの魂(たましひ)がしつかり籠(こも)つて居る。私の目から見れば、活(い)きて居るおかねなのぢや。見事(みごと)、活(い)きてゐるおかねどのなら、私の手から逃げる氣ぢやらう。さあ、逃げて見(み)い、逃げられるなら逃げて見なされと、どうかするとなあ、それはそれは物凄(ものすご)い顏をして人形を睨(にら)みつけて居る時もありましたな、ある時(とき)などは、あんまり呶鳴(どな)り聲が高いので、本物(ほんもの)の人間が居るのかと思うて、破目板(はめいた)からそつと覗(のぞ)いて見ましたら、なあに、やつぱり人形(にんぎやう)を相手のくり言(ごと)ぢや、そのおかねどのをな、かう橫抱(よこだ)きにきつと抱きしめてな、ぎらぎら光る目で睨(にら)みつけながら、くりかへして居りましたが、段々(だんだん)くりかへしてゐる中にぼろぼろと大粒(おほつぶ)の淚(なみだ)をこぼして、泣(な)き伏(ふ)して了ひました。何しろ妙(めう)な坊(ぼう[やぶちゃん注:ママ。])さんでござんした――」
妙兼は聞いてゐる中に、顏色(かほいろ)が變つて來た。杢助(もくすけ)の目をぢつと見たままで返事(へんじ)さへしなくなつた。と思ふと、額際(ひたひぎは)ににじみ出る汗(あせ)は玉のやうにタラタラと、果(は)ては顏一面に流れるほどであつた。
「妙兼さん、どうかしましたか、又(また)氣分(きぶん)でも惡(わる)くなつたのか」
「いえ、何(なん)ともない、それでどうしました」
「それでな、さうかと思(おも)ふと、大層(たいそう)優(やさ)しくなつて、人形を相手に、おかねどんや、御飯(ごはん)にしようかの、お茶(ちや)でもいれやうかのつて、仲(なか)よく話しをしてゐる時もあります。それが、機嫌(きげん)よく話をしてゐるかと思ふと、よいがよいにならんのでな、忽(たちま)ち風向(かざむき)が變つて來るし、ある時は、ものをひやかしでもするやうに、ヘヘヘ、活(い)きた人間を相手(あひて)にするから、捨(す)てられもする、嫌(きら)はれもする。今宮(いまみや)の來山(らいざん)ではないが、人形を相手にして居れば、第一に嫌(きら)ふ氣(き)づかひがない、寢(ね)かさうと思へば寢(ね)る、起さうと思へば起きる、何(なに)から何まで私の心の儘(まゝ)ぢや、のう杢助爺(もくすけぢい)さん。などと上機嫌の時もあります。いやはやどうも、他愛(たあい)もない人でござつた」
「それがどうして行方(ゆくえ)も知(し)れなくなつたのでござんす」
「さ、それは私(わし)にも分らんのぢや」
「一體(たい)そのおかねさんといふのは」と妙兼は云ひかけて、杢助(もくすけ)の顏をぢろぢろと見ながら、
「おかねさんといふ女に、日道(にちだう)さんとは、どういふ關係(くわんけい)になつて居つたのぢや」
「さあわしは日道さんから、これこれの次第(しだい)と聞いたわけぢやないのでよくは知(し)らんが、何でもその日道さんが、俗人(ぞくじん)であつた折に、從妹(いとこ)にあたる女におかねといふ人があつて、そのおかねどんにぞつこん惚(ほ)れたものと見えますな、ところが、そのおかねは別(べつ)にいろ男でも出來たか、日道(にちどう[やぶちゃん注:ママ。誤植であろう。])さんをふり捨て逃げて了(しま)うたものぢや。それからといふもの、日道さんは、すつかり世(よ)の中(なか)を味氣なく思つた揚句(あげく)が、坊さんになんなすつたものらしい、それでも發心(ほつしん)が出來ぬからして自分(じぶん)の在所を飛び出し、諸國(しよこく)を經(へ)めぐつた揚句8あげく」、この土地へ足をとめる因緣(いんねん)になつたわけぢやと思はれますな。坊さんになつても思(おも)ひ切(き)れずに、切(せ)めて人形に名をつけて、よしない心やりにして居られるのでありませう、それにつけても相手(あいて)のおかねさんとやら、よくよく邪樫(じやけん)な仕打(しうち)ぢや、今頃はどこにどう暮(くら)してゐる事か、何でも日道さんの獨(ひと)り言(ごと)の口ぶりでは、其のおかねさんは色男(いろをとこ)が出來た爲めに、許嫁(いひなづけ)であつた日道さんを振り捨てて色男と一緖(しよ)につつ走(ぱし)つたものらしいが、どうせ許嫁をふりすてる位(くらゐ)の女ぢや、今頃(いまごろ)はどこかで色男に捨(す)てられて、女郞(ぢやらう)にでもなつて居るかも知れませぬなあ」
杢助は屈托(くつたく)もなささうに云つたが、妙兼(めうけん)は笑ひ顏一つ見せず、ものも云はずに考(かんが)へ込(こ)んでゐたが、
「杢助さん、それで日道(にちだう)さんとやらは行方が判(わか)らなくなつたとしても、その人形といふのはどうなりましたえ」
「さあ、それも私には判(わか)らんのでな、尤(もつと)も、日道(にちだう)さんが、いよいよお堂を立退(たちの)いたと判つた時にどこかに行方(ゆくえ)の手がかりでもあるかと、隅(すみ)から隅まで探(さが)しまはりましたが、人形をどこへ藏(しま)ひ込(こ)んだか、それともお堂を出る時、自分の手の中にしつかり抱(だ)いて去(い)つたか、さらに樣子(やうす)は判りませぬ。尤(もつと)も人形といふのも、見つかつたところで滿足(まんぞく)な人形ではござらぬ。日道(にちだう)さんが居なくなる少し前の事ぢやから、さうさな、去年(きよねん)の秋(あき)ぢや、私がこの窓下(まどした)を通りかかりますとな、やい薄情(はくじやう)もの、强情(がうじやう)ものめ、人形にまで性(しやう)をうつして、私を捨(す)てやう[やぶちゃん注:ママ。]とするのか。と大聲をあげたのを橫恵手の窓(まど)から私がそつと覗(のぞ)いて見るとな、日道さんは人形(にんぎやう)を膝(ひざ)の下に敷いて、兩手で人形の咽喉佛(のどぼとけ)をぐいぐと押(お)し伏(ふ)せて居りますのぢや、けふは少し手荒(てあら)いなと思うて居る中(うち)、怖(おそ)ろしい聲を出して、握(にぎ)り拳(こぶし)で人形の頭をグワンと叩(たゝ)いたのが、一心ぢやな、おかねさんの橫面(よこめん)から肩(かた)ぶしにかけて滅茶々々(めちやめちや)に破(こは)れました。そして人形の顏(かほ)が血(ち)みどろになりましたな」
「人形から血(ち)が出ましたか」
「いや、人形から出たのではない、日道(にちだう)さんの握り拳がくづれて血を吹(ふ)いたのぢや、物凄(ものすご)いほどの血糊(ちのり)ぢやつた。私もびつくりして思はず知らず庵室(なか)へ飛び込みましたわい、あとで考へて見れば可笑(をか)しな話ぢやが、私にしても、相手(あいて)を人形とは思つてゐられなくなりましてな」
「其時に氣(き)が狂(くる)うたのかえ」
「いや、其時はまだ正氣(しやうき)ぢやつた、只(たゞ)人形(にんぎやう)を見つめてゐる中に、人形がものを云う[やぶちゃん注:ママ。]たらしいのぢや、あれだけに魂を吹込(ふきこ)まれた人形なら、何かの拍子(へうし[やぶちゃん注:ママ。])でものを云はんとも限(かぎ)らぬからなあ、それで人形のものの云ひ方が、よくよく氣(き)にさはつたのぢやろ。飛(と)び込(こ)んだ私が段々と宥(なだ)めてやると一旦は心持が納(をさ)まつた、あとはしくしくと泣(な)いてゐなすつたが、人形の缺片(かけら)をつき合せたり、拾ひ集めたりしたあげ句(く)の果(はて)が、おかねを弔(とむ)らうてやらうと言ひ出してな、それで後(あと)とも云(い)はず、その場から石(いし)を切(き)つて、石塔の表もうらも自分の手で彫(ほ)り上(あ)げてな、人形塚(にんぎやうづか)を建てたのぢや、その人形塚といふのが、――」と杢助(もくすけ)が云はうとするのを、
「判(わか)
りました、その人形塚がこのお厨子(づし)の中でござんしよ」
「ハイハイ、お前さまはそれではもう御覽(ごらん)になりましたな」
「うむ、それで人形塚を祀(まつ)つたいはれは判(わか)りましたが、あの塚(つか)を、まア、むごたらしいがんじがらみに縛(しば)つてあるのはどうしたわけでござんす」
「さあ、その事は私(わたし)にも判(わか)りませぬ。いつ頃(ごろ)どういふわけで、あんな事をしたものか、判らぬがああして人形を叩(たゝ)きこはした時の事から思ふと、ああして石塔(せきたふ)にまでした人形が、やつぱり石塔になつての後も尙、日道さんの手許(てもと)を逃(に)げ出しさうな樣子ぢやから、ああして縛(しば)つたものではないかと思ひます。人形に籠(こも)つてゐる女の一心が恐(おそ)ろしいのか、その女を思(おも)ひつめてゐる日道さんの一心が恐(おそ)ろしいのか、いやどうも物凄(ものすご)い話ぢや、此上は、お前(まへ)さまにまでその日道さんの生靈(いきりやう)がとつつかぬとばかりは云(い)はれぬ、どうぞお厨子(づし)にさはらぬやうに、況(ま)して、石塔に指(ゆび)でもさはらぬやうにして下され」とくりかへしくりかへし云つて、杢助(もくすけ)は、身慄(みぶる)ひをしながら出て行つた。
四
杢助のうしろ姿を見送(みおく)ると、やがて妙兼(めうけん)は厨子の方へふりかへつた。
妙兼の顏は眞靑(まつさを)になつてゐる。その眞靑な顏は眞直(まつすぐ)に石塔(せきたふ)を見すゑて座(ざ)を占(し)めた。
「丑年(うしどし)の女、おかね」と石碑(せきひ)の表を聲に出して讀(よ)み上(あ)げた。
「日道、日道」と又(また)云(い)つた。
そしてあとは目を瞑(つぶ)つて默々(もくもく)と石塔の前に端座(たんざ)した。晝になつても晝下りになつても、もの一つ食(た)べようともせず、どこへ行く樣子(やうす)もなく、ただぼんやりして石塔を見つめた。正(まさ)に釋迦趺坐(しやかふざ)といふのである。日は追々(おひおひ)西(にし)にまはつて、只さへ暗(くら)い堂の中はもう人顏(ひとかげ[やぶちゃん注:ママ。])も見分ぬほどになつた、それでも妙兼(めうけん)は動かなかつた。
初秋の雲は低(ひく)くお堂の緣(えん)へ垂(た)れて、石塔の苔(こけ)が鬼火(おにび)のやうにちらつきはじめた。今、大宇宙(だいうちう)の惡鬼妖魔(あつきようま[やぶちゃん注:ママ。])が天地の間に徘徊(はいくわい)するといふ逢魔(あふま)が時である。
妙兼の心の中には惻々(そくそく)として鬼氣(きき)が食入つたにちがひない。
「日道さん」と悲痛(ひつう)な聲が出た。
「日道さん、岩(いは)五郞(らう)さん」と、もつと强(つよ)い聲で呼(よ)んだ。
「お前さんはどこまでも執念深(しうねんぶか)いんです、なるほど私はお前さんといふ許嫁(いひなづけ)をふり切つて、甚四郞さんと夫婦(ふうふ)になりました、なつた事(こと)はなつたが、お前さんにそれほどまで恨(うら)まれる覺えはありません。お前さんと私の間は許嫁(いひなづけ)といふだけで、夫婦の盃(さかづき)を交(かわ)したわけではなかつたんです。況(ま)して私は、お前さんのおもはく通り、甚(じん)四郞(らう)さんに捨(す)てられて今では一人ぼつちになつてゐる身體です。ましてお前さんも坊主(ばうづ[やぶちゃん注:ママ。])、私も坊主、坊主同士になつて何のいがみ合(あ)ふ事(こと)があるでせう。一體(たい)何(なん)の爲めにお前さんは坊主になつたんです。何の爲めにこんなお堂にまで住(す)む身體(からだ)になつたんです」
尼(あま)の聲(こゑ)はだんく强くなつた。そして眞暗(まつくら)なお堂の中で、ぢりぢりと(ひざ)膝を進(すゝ)めた。
進んだ膝がお厨子(づし)の中へ入ると、膝がしらが床(ゆか)からトンと外(はづ)れた。そして妙兼の身體は床下へ落ちこんだあふりで前(まへ)のめりになつて、繩(なは)を半分ときかけた儘(まゝ)の石塔へしつかり抱(だ)きついた。が、捨て身でよりかかつた妙兼の身體(からだ)を支(さゝ)へるには石塔(せきたふ)のまはりがあまりにぐらぐらであつた。妙兼は白分の石塔と一緖(しよ)にどさりと橫倒(よこだふ)しに倒れた。
「畜生め、岩五郞の畜生(ちくしやう)め、そつちがその氣(き)なら、こつちだつて、なあに、お前なんぞに引戾(ひきもど)されやしないぞ」と呻(うな)つた。
呻ると共にぐつと起上(おきあが)らうとすると、起(お)きられない。手足をばたつかして、上體(じやうたい)をぐんぐん起さうとしたが、どうにもならない。妙兼(めうけん)は左の腕を石塔(せきたふ)の下に敷き込まれてゐたのであつた。
敷(し)き込(こ)まれながら、妙兼は、
「畜生(ちくしやう)め畜生め」と云ひつづけた。そしてもがきつづけた。が、女の力では倒(たふ)れた石塔一つをどうする事も出來(でき)なかつた。
到頭(たうとう)精(せい)も根(こん)もぬけ果てて、呻(うな)り聲(ごゑ)さへ立たなかつた。かうして夜は深々(しんしん)と更(ふ)けてゆく。
朝になつて、杢助(もくすけ)がお堂の前を通りかかる時、かすかな聲(こゑ)が、
「杢助さん」と呼(よ)んだ。杢助は一寸あたりを見まはしたが、さて、外(ほか)に人のゐる筈(はづ)もないので、つかつかと堂の中へ入ると、厨子(づし)の扉は壞(こは)れ、厨子は半分(はんぶん)倒(たふ)れかかつてゐる。
「妙兼(めうけん)さん、妙兼さん」と呼びかけながら、厨子の中を覗(のぞ)き込(こ)むと、妙兼は石塔(せきたふ)の下から顏を半分出した儘(まゝ)で、
「杢助さん、この石塔をどけて下さい」と片息(かたいき)になつてゐる。
「何で又そのやうなところへ人つたのぢや。それだから私(わし)がどうぞ厨子(づし)にさはらぬやうにと云(い)つて置いたのに、厨子(づし)をいじるもんぢやから、そんな事(こと)になるのぢや。どれどれ待(ま)ちなされ。動くか動かぬか、一つやつて見(み)ませう」と石塔(せきたふ)に兩手(りやうて)をかけていろいろにいぢつたが、漸々(やうやう)の思ひで石塔が少(すこ)しゆれた。
妙兼はほつとして、身體(からだ)を半分(はんぶん)起(おこ)し右手をつかつて塚の臺石(だいいし)につかまりながら、ぐんと起き(お)ようとすると、今度は臺石(だいいし)がガタリと搖(ゆ)れた。と思ふと、妙兼(めうけん)の身體は、ひらり飜(ふるが)へつて[やぶちゃん注:底本では、ここのルビは「ひるがへ」であるが、衍字と断じて、特異的に「へ」を除去した。]臺石の下へかくれ、影(かげ)も形ちも見(み)えなくなつた。
杢助がびつくりして臺石(だいいし)のまはりをぐるぐるまはりながら仔細(しさい)に見ると、どうも臺石(だいいし)の下に穴(あな)が掘(ほ)つてあるらしい。妙兼(めうけん)が消えたのは、その穴の中に落(お)ち込(こ)んだものらしいが、さて塚(つか)の墓石を取(と)りのぞくまでには大分の手數(てすう)と力が要(い)つた。
杢助は加茂(かも)まで一散(さん)に走つて、二三人の百姓たちを呼(よ)んで來ると、早速(さつそく)塚の臺石をとりのけて見た。塚(つか)の下から人形の壞(こは)れが出て來たのは當然(たうざん)だが、妙兼の身體も怪我(けが)をした上に生埋(いきう)めの有樣だつたので、掘(ほ)り出(だ)された時には人形同樣の壞(こは)れ方(かt)であつた。そして更(さら)にもう一つの不思議は、穴へ落ち込んだ妙兼の細腰(ほそごし)を大きな腕(うで)がしつかり抱(だ)いたやうにしてゐるのがちらと見え、妙兼を引上げるにつれて、その腕の主(ぬし)が、穴(あな)の中からずるずると出て來た。
[やぶちゃん注:「加茂」冒頭で、「お堂といふのは伊豆(いづ)の天城(あまぎ)の山中、二里ほどゆけば下田(しもだ)の港(みなと)へ出られるといふ道(みち)に、おぼつかなくも建ちくされになつた小さな堂」とあったから、これは、伊豆半島の先端部分に当たる旧静岡県賀茂郡の内の村落を指すと考えらえれる。資料によっては、古くは「加茂郡」とも表記した。]
穴の中から妙兼(めうけん)の屍骸(しがい)に引ずられて出て來た人、――いや穴の中へ妙兼を引ずり込んで生埋(いきう)めにしたのは半年前(はんとしまへ)に行方不明(ゆくえふめい)になった日道の岩(いは)五郞(らう)であつた。無論半年も穴の中に埋(う)まつてゐて生きて居る筈(はづ)はないが、思ひ込んだ女を縛(しば)りつけて、我が手もとから離(はな)すまいとした一生(しやう)の怨念(をんねん)は正に成功(せいこう)したわけであつた。
坊主(ぼうづ[やぶちゃん注:ママ。])あたまの二つの屍骸(しがい)が、お堂の外に掘(ほ)り起(おこ)された時、杢助が加茂(かも)からつれて來た百姓の中に、稻取(いなとり)の人間が交(まぢ[やぶちゃん注:ママ。])つてゐた。二つの屍骸(しがい)をそつと覗(のぞ)き込(こ)んで、
「尼(あま)の方はおかねといふ女で、男の方は岩(いは)五郞(らう)だ、どつちも稻取(いなとり)で生れて從兄弟(いとこ)だつた。幼少から女の方が男を嫌(きら)つてゐたが、結納(ゆひなふ)まで取りかはしたところで甚四郞といふ奴(やつ)と逃げたんだ。然し逃(に)げは逃げても、やつぱりこの二人は緣(えん)があつたんだ、一つ穴の中で無理往生(むりわうじやう)するんだから本望(ほんまう)だらう」と云(い)つてゐた。
[やぶちゃん注:「稻取」静岡県賀茂郡東伊豆町(いずちょう)稲取(グーグル・マップ・データ)。而して、この稲取の百姓が、妙兼(おかね)と日道(岩五郎)と言い当てている以上、妙兼が冒頭で「房州船形(ぼうしうふながた)から參つたものぢや」と言ったのとは、一見、矛盾を感じる。少なくとも、二人は俗人であった時、稲取にいたと考えてよい。でなければ、半年も経った岩五郎の遺体を見て、「彼だ」と名指すことはあり得ないからである。但し、棄てられた「おかね」が日蓮宗の寺院で尼となったならば、日蓮所縁の房総で剃髪したとすることは、強ち、おかしくはなく、矛盾とは言えない。さらに、やはり、冒頭で、この「お堂といふのは伊豆(いづ)の天城(あまぎ)の山中、二里ほどゆけば下田(しもだ)の港(みなと)へ出られるといふ道(みち)に、おぼつかなくも建ちくされになつた小さな堂で」あったと言っているから、この中央東西(グーグル・マップ・データ航空写真)附近がロケーションと読める。
さて、本篇は、無住の堂での数日の出来事であり、コーダを除いて、妙兼と炭焼き杢助の二人で語られる構造になっている。これは過去の話に出る人物が、ごっちゃごちゃになって五月蠅かった前の似たシークエンスを用いている「惡業地藏」に比して、遙かに自然で、躓きがなく、一気に読ませる佳品と言える。]