譚海 卷之九 奥州宮城郡燕澤碑の事
○寬政元年、奧州仙臺領、宮城郡燕澤といふ所にて、古碑を掘(ほり)得たり。
文字、五十一字あり。古文にして、讀(よみ)がたかりしを、仙臺の儒者、讀考(よみかんがへ)て、元(げん)の蒙古の亡魂をとぶらひし碑なる事を知り、釋文にせしなり。淸俊といへるは鎌倉蘭溪禪師の弟子にして、奥州に住(ぢゆう)せしに、蘭溪、元人(げんじん)なれば、溺死の亡魂をいたみ、淸俊に命じて、奥州にて、其とぶらひをなせしものなるベし。
鎌倉にては、とぶらひ、遠慮ありしにや、此碑文も、わざと古文に書して、事のしれがたかるべきやうに、ひそかに、とぶらひをせられし事にや、といへり。
其(その)本文。
夫目ノ直宜※1※2乙豆益※3
※4の乙※5※6※7※8砥
吊※9※10元※11麁※12
後殞矣
弘安第五兒玄戰敦 仲秋二十日彼岸修里末淸俊謹 此釋文
夫以人直宜從道人正益擧敎云刈丘斷 砥弔亡魂元前死次後殞矣。
[やぶちゃん字注:「※1」=(上)「𠔅」の「尸」を除去した上部とし、(下)「開」の「門」を除いたものを下部とするもの。
「※2」=(へん)(上:「甾」―「田」)+(下:「首」)+(つくり)「寸」。
「※3」=「叫」-「口」。
「※4」=(へん)「メ」+「メ」(縦に二つ並べる)+(つくり)(「竹」の左を除去したもの)。
「※5」=「乂」左上の短い左払いがないもの。
「※6」=「並」の三画目までを除去したもの。
「※7」=(へん)「寸」+(つくり)「刂」。
「※8」=(上:「土」の第三画を除去したもの)+(下)「山」の第一画を除去し、左右の縦画の殆んどを下方に寸詰めたようなもの。
「※9」=「区」の一画目を除去したもの。
「※10」=(上:「云」)+(下:「鬼」)。これは、則ち、「魂」の(へん・つくり)を「上・下」に配したものと読める。
「※11」=(上:「止」)+(下:「冉」)。
「※12」=(上:「匕」+(下:「十」の上部の縦画が極く寸詰ったもの)。
なお、以下のウィキの「燕沢碑」が起こしている字とはかなり激しい異同があるので、必ず、そちらを見られたい。]
[やぶちゃん注:この碑は「宮城郡燕澤」現在の宮城県仙台市宮城野区燕沢(つばめさわ)建つ石碑で、ウィキの「燕沢碑」があり、『燕沢の善応寺境内』(ここ)『に立つ石碑仙台市内に散見される蒙古碑(もうこのひ)と呼ばれる古碑の一』つ『で、元からの帰化僧である無学祖元が鎌倉時代後期(』十三『世紀後葉)の文永・弘安両度の元寇における元軍戦歿者の追善の為に建てたものと推測されている』。『江戸時代に一時』、『埋もれたが、発掘された後に「大乗妙典(法華経)一字一石の塔(記念碑)』『」として利用された』とあるものの、ここに書かれた「蘭溪禪師』(蘭溪道隆(らんけいだうりゆう 嘉定六(一二一三)年~弘安元(一二七八)年)『の弟子にして、奥州に住せしに、蘭溪、元人なれば、溺死の亡魂をいたみ、淸俊に命じて、奥州にて、其とぶらひをなせしものなるベし」とあるのとは異なり、一説に、『江戸時代中期の塩竃神社の祠官』であった『藤塚知明』(元文)二(一七三七)年~寛政一一(一七九九)年)の書いたものに『よれば、南宋出身の蘭渓道隆が遷化した後に建長寺の住持となった、同じく南宋の無学祖元が『弘安』四(一二八一)『年の』「弘安の役」に『おける元軍戦歿者の追善の為に建碑を発願し、役の一周忌に当たる翌年』八月二十日の『彼岸』の『日に建てたものであり、役直後という事情を鑑みて』、『僻遠の地を卜した上で』、『なおかつ』、『古体や離合体の文字を用いて難解な文面にしたものであろうと推測している』。『また「清俊謹拝」について長久保赤水は、祖元が建碑を円福寺(松島瑞巌寺の前身)の開山である法身(ほっしん)に託し、法身の弟子である清俊が事に当たったものであろうと説いている』とあり、蘭溪説は載らない。また、他にも異説が幾つもあり、また、「※」の字は「從」異体字として起こしてある。他に、サイト「仙台風景写真館」の「仙台Today」の『街探検・燕沢の「蒙古の碑」』がよい。そこに『高さは』一メートルを『軽く超える程の大きさで』、『表面には文字が刻まれています。以前は燕沢の別の場所にありましたが、長い間、土の中に埋もれていたのを掘り出して現在の場所に置かれました。そのためか』、『表面の摩耗も少なく文字も良く見えましたが、弘安』五年(一二八二年)の『年号以外は、漢字の字体を省略して単純化した文字で書かれていて、もとの漢字が分らないものが多く、ほぼ解読不可能だそうです』とあった。また、最後に、『謎の多い「蒙古の碑」ですが、地元には伝説が言い伝えられています。それによると、元寇で生き残った蒙古兵が奥州まで逃げてきて、疲れ果てて倒れたところを僧侶に助けられました。しかし幕府に知られてしまい、僧侶は泣く泣く蒙古兵の首をはねて鎌倉へ送ったそうです。蒙古兵の首をはねた時に血しぶきがはねて近くの沢まで飛び散り一面血に染まったことから、このあたりを「血ばね沢(ちばねざわ)」と呼ぶようになり、それが訛って「燕沢(つばめざわ)」になったそうです。燕沢に住んでいる人にとってはあまりいい気分がしない伝説ですが、「信じるか信じないかは、あなた次第」ということでしょうね』ともある。
「寬政元年」一七八九年一月二十六日から一七九〇年二月十三日まで。]