譚海 卷之七 江戶柴三島町に日蓮上人畫の大黑天を所藏せし事
[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。]
○江戸芝三島町(しばみしまちやう)の要谷堂といへるものの家に、日蓮上人眞蹟の大黑天、有(あり)。
半紙のはゞほどある紙へ、大黑天、立(たち)て、槌(つち)を振上(ふりあげ)たる下に、寶珠、二、三顆(くわ)、ゑがきて、
「文永二年八月何日日蓮」
と書(かき)て華押(くわおう)、有(あり)。
此先祖、品川、古道具見世(みせ)にて、僅(わづか)の價(あたひ)に、かひ來り、日蓮眞蹟にて、いよいよ、信仰せしゆゑ、所帶、有福に成(なり)て數(す)千金を、まうけ、今は、雪蹈[やぶちゃん注:底本に「蹈」の右に編者の補正注が『(駄)』とある。「雪駄(せつた)」である。]見世を開(ひらき)て、あり。
此大黑の繪、有德院公方樣[やぶちゃん注:徳川吉宗。]、御聞(おきき)に達し、
「甲子(かつし)の御年(おんとし)。」[やぶちゃん注:寛保四・延享元(一七四五)年甲子。この翌年、隠居し、大御所となった。]
とて、大黑天、御みづからも、ゑがゝせ、天下に施し給ひしほどの事なれば、召上(めしあげ)られ、しばらく御城(ごじやう)に有(あり)て、上覽相濟(あひすみ)、返し下されける。其時節の寺社奉行連名の御書(ごしよ)を賜(たまは)り、[やぶちゃん注:この時の寺社奉行は松平武元(たけちか)。当時は陸奥国棚倉藩主。]
「日蓮上人眞蹟、大切に致すべき。」
よしの文言をしるされ、奇代の物に成(なり)ける、とぞ。
今に甲子の日ごとに、其(その)二階に厨司(ずし)[やぶちゃん注:底本に「司」の右に編者の補正注が『(子)』とある。]を出(いだ)し、祭禮す。
「行(ゆき)て拜せん事を乞(こふ)ものあれば、誰(たれ)にも拜さする事。」
と、いへり。
[やぶちゃん注:幕府将軍家徳川家は公的には宗派は天台宗であるが、家康は、実は元は日蓮宗信者であったし、歴代の将軍の妻や高位の側近にも、日蓮宗の信者が多かった。
「芝三島町」現在の港区芝大門(しばだいもん:グーグル・マップ・データ)。
「要谷堂」店名であろう。「ようこくだう」と読んでおく。
「文永二年」一二六五年。第七代執権北条政村の治世。日蓮は数え四十四歳。当該ウィキによれば、日蓮は前年の『文永元年』の『秋、日蓮は母の病が重篤であることを聞き、母の看病のため、故郷の安房国東条郷片海の故郷に帰った』が、『それを知った東条郷の地頭』『東条景信は日蓮を襲撃する機会を狙った』(これは日蓮が建長五(一二五三)年四月に清澄寺に於いて自己の法華経信仰を説いたが、その中で景信の信仰している念仏宗も住生極楽の教えどころか、無間地獄に陥(おちい)る教えであると批判し、「法華経」のみが成仏の法であると述べたことに怒りを発したためである)。『同年』十一月十一日『夕刻、天津に向かって移動していた日蓮と弟子の一行に対し、東条景信は』、『弓矢や太刀で武装した数百人の手勢をもって襲撃し』、『日蓮は頭』部『に傷を受け、左手を骨折するという重傷を負った』(「小松原の法難」)。この時、『鏡忍房と伝えられる弟子が討ち死にし、急を聞いて駆け付けた工藤吉隆も瀕死の重傷を負い、その傷が原因となって死去した』。十一月十四日、『日蓮は見舞いに訪れた旧師・道善房と再会した』が、『日蓮は』性懲りもなく、『道善房に対し、改めて念仏が地獄の因であると説き、法華経に帰依するよう説いた』。『その後、日蓮は』文永四(一二六七)年まで『房総地域で布教し』、『母の死を見届けて、同年末には鎌倉に戻ったと推定され』ている、とあった。]