杉田久女 朱欒の花のさく頃 (正規表現版・オリジナル注附)
[やぶちゃん注:杉田久女の本随想は初出誌は不詳。底本では、最後に『(大正九』(一九二〇)『年十月三十一日』の執筆或いは脱稿クレジットがある。標題の中の「朱欒」は文末にひらがなで出る通り、「じやぼん」(じゃぼん)と読んでおく。今は「ざぼん」が優勢だが、第二世界大戦前は「じやぼん」と呼んでいたとするネット記事が多くある。ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン連ミカン亜連ミカン属ザボン Citrus maxima 。
底本は所持する一九八九年立風書房刊「杉田久女全集第二巻」を用いたが、幸いにも本文は歴史的仮名遣が採用されていることから、恣意的に私の判断で多くの漢字を正字化した。そうすることが、敗戦前までが、俳人としての活動期であった彼女の本来の表現原形に近づくと考えるからである(久女は昭和二〇(一九四五)年十月末に大宰府の県立筑紫保養院に入院し、翌昭和二十一年一月二十一日に同院で腎臓病で逝去している。満五十五歳であった)。
一部の読みで若い読者が躓きそうな箇所に限って、《 》で歴史的仮名遣で読みを添えた。傍点「﹅」は太字に代えた。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。
なお、篇中に挙げられてある句、
塀外の膚橘かげを掃きうつり
の「膚橘」は、上記底本の誤植か、或いは、原原稿の誤記、或いは、判読の誤りである。私の「杉田久女句集 133 塀そとの盧橘かげを掃き移り」を見られたい。そこでは、久女は「たちばな」とルビしている。なお、私は「青空文庫」の新字新仮名のそれを(底本の親本は私の底本と同じ)、一切、参考にしていないが、たまたま、Q&Aサイトのこちらで、これを「青空文庫」の誤植と批判しているのを見かけたので(個人的には、強い疑惑――私の電子化データが加工データとして杜撰に複数回流用されている可能性で、例えば、ここ)――から大嫌いな「青空文庫」ではあるのだが)、それは「青空文庫」の入力者の誤植ではないことを言い添えておく。以下の本文を参照されたい。
最後にオリジナル注を附した。]
朱欒の花のさく頃
私が生れた鹿兒島の平(ヒラ)の馬場の屋敷といふのは、明治十年鹿兒島にわたつて十七年間も住つてゐた父母が、自ら設計して建てた家なので、九年母《くねんぼ》や朱欒、枇杷《びは》、柹《かき》など色々植ゑてあつたと母からよく聞かされてゐた。
城山の見える其家で長兄をのぞく私達兄弟五人は皆生れたのであるが、無心の子供心には、あさ夕眺めた城山も、櫻島の噴煙も、西鄕どんも、朱欒の花のこぼれ敷く庭の記憶もなく只冠木門だけがうつすら頭にのこつてゐる。
年若な官員樣であつた父は、母と幼い長子とを神戶に殘して一足先に鹿兒島へ赴任すると間もなくあの西南戰爭で命からがら燃えつゝある鹿兒島を脫出して、櫻島に逃げ民家の床下にかくれて芋粥をもらつたり、山中に避難してゐる中《なか》官軍の勝になつたので、縣の書類丈《だけ》を身にしよつてゐたのをもつて碇泊中の軍艦に辿りつき漸く命びろひしたと云ふ。
母達も其翌春かにはるばる鹿兒島に上陸した時は、只まつ暗な燒野原で一軒の宿屋もなく漁師の家に一と晚とめて貰つたが言葉はわからず怖ろしかつた相《さう》である。だが十七年もすみついてすべてに豐富な桃源の樣なさつまで私の兄姊達は皆鹿兒島風にそだてあげられた。私は長姊の死後三年目に生れたので父母が大變喜んで、舊藩主久光公の久の一字にちなみ長壽する樣にと命名されたものだとか。三四歲迄しか住まない其家の事も只母からきくのみで四十年來一度も遊んだ事はないが、兄月蟾《げつせん》が十數年前、平の馬場の其家をたづねて見たところ今は敎會に成つてゐて家も門もそつくり其儘殘つてゐたのであまりの懷しさに兄は其庭には入《い》つて朱欒や柹の樹の下に佇んで幹をさすつたり仰いだり去りがたく覺えたといふ事を私に語つてきかせたことがあつた。
一體私の父は松本人。母はあの時じくの香ぐの木の實を常世の國から携へ歸つた田道間守《たぢまもり》の、但馬の國出石(いづし)の產なので、こじつけの樣ではあるが、私が南國にうまれ、其後又琉球、臺灣と次第に南ヘ南へ渡つて絕えず朱欒や蜜柑の香氣に刺激されつゝ成長した事も面白くおもはれる。
臺北の官舍では芭蕉や佛桑花《ぶつさうくわ》、蘭など澤山植ゑてあつたが、私のまつ先に思ひ出すのは父が一番大切にしていた[やぶちゃん注:ママ。]一株の佛手柑《ぶつしゆかん》である。指をもつらした樣な面白い形の佛手柑はもいで籠に盛られて父の紫檀の机の上や、彫刻した支那の大テーブルの上に靑磁の花甁などと共にかざられてゐた。
佛手柑は香氣が高くて雅致のあるものだつた。
臺灣では文旦《ぶんたん》といふ形の尖つたうちむらさきや普通の丸いざぼんや、ぽんかん、すいかん(ネーブル)等を籠に入れて每日の樣《やう》土人が賣りにきた。
ぽんかんの出盛りの頃になると百も二百も買つて石油鑵に入れておいては食べ放題たべた。お芋だのお菓子の嫌ひだつた私は、非常に果物ずきで、蜜柑畠には入つて、枝のぽんかんをもいでは食べ食べした事や、唐黍《たうきび》をかじり、香りの高い鳳梨《ほうり》[やぶちゃん注:パイナップルの漢名。]をむいたり、びろど[やぶちゃん注:「びろうど・ビロード」に同じ。]の樣な朱欒の皮をむきすてて平らげたり、八九段もついてゐるバナナの房を軒に吊しておく樂しみなど、すべて香氣のつよいしたたる樣な熱帶地方の果物のうまさを思ひ出すと今でもよだれが出る樣で、實際よくもあんなにたべられたものと思ふくらゐ。お正月など、お雜煮も御飯もたべず私は顏の色がきいろくなるほど蜜柑ばかりよくたべたものである。又朱欒や佛手柑を思ひ出すと、私達の帶や布團や袴にまでザザクサによく使用された支那ドンスの緋や空色、樺桃色[やぶちゃん注:不詳だが、これ、「櫻(桜)桃色」の誤植か、判読の誤りのように思われる。]などの幅廣い反物が色どりよくつみ上げられてゐた土人の吳服店の事や、まつりくわの花をほしまぜたウーロン茶のむしろや、小さい刺繡靴などを斷片的に思ひ起すのである。
其頃母からおちごといふ牛若丸のやうな髷《まげ》にいつも結つてもらつて友禪の被布《ひふ》をきておとぎ文庫の因幡の白兎や、松山鏡を讀みふけり乍ら盆の蜜柑をしきりに飽食する少女だつた私は、南國といふものによほど緣があると見え、嫁して二十五年餘り、小倉の町にすみ馴れて年每に柑橘の花をめでるのである。
靜かな屋敷町の塀の上から、或は富野《とみの》邊《あたり》の大きなわら屋根の門口から、まつ白い膚橘の花が匂つてきたり、まつ白に散りしいたりしてゐるのは中々感じのいいものである。朱欒の花は夏橙《なつだいだい》や柚の花よりずつと大きくて花數もすくないが、膚橘の方はもみつけた樣に花を咲きこぼす。もとゐた堺町の家の簷《ひさし》にも一本夏みかんの木があつて年々花をつけては塀外《へいそと》へこぼれるのを每朝起きて掃くのがたのしみで二、三句出來た事がある。
塀外の膚橘かげを掃きうつり
私の見た中で朱欒の巨樹は福岡の公會堂の庭にあるのがまず日本一と勝手にいつてもいいだらう。八方から支へ木《ぎ》で支へた老樹の枝は何百といふ朱欒をるゐるゐと地に低くたれてゐた。
先年大阪でひらかれた關西俳句大會の翌日、飛鳥川をわたり、橘寺(たちばなでら)へ行つた時鐘樓の簷にかげてあつた美しい橘の實の幾聯《いくれん》も、橘のかげをふみつゝ往來し、或は時じくの香ぐの實の枝をかざして歌つた萬葉人と共になつかしいものの一つであつた。今南國の小倉邊では深綠の葉かげにまつ靑な橙がかつちり實のり垂れ、町の人々はふぐやちぬが手に入る度《た》びに、庭のだいだいをちぎつて來ては湯豆腐々々《どうふ》としきりにこのき酢《す》[やぶちゃん注:「生酢」。]の味をよろこぶ時候となつてきた。
つい四、五日前も門司の棧橋通りの果物店の前に佇んで富有柹や林檎やバナナに交つて靑みかんや臺灣じやぼんが並べられてゐるのを見ると、私の生れたあの鹿兒島の家の朱欒ももうゆたかに實り垂れてゐるのであらうと思ひ出されるのであつた。
[やぶちゃん注:「鹿兒島の平(ヒラ)の馬場」現在の鹿児島県鹿児島市平之町の、この鹿児島教会(グーグル・マップ・データ)のある場所であろう。
「明治十年」一八七七年。
「父母」久女の父赤堀廉蔵は長野県松本市宮淵(みやぶち:現行では「宮渕」。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ出身で、久女(本名は久(ひさ))が生まれた(明治二三(一八九〇)年五月三十日)時は、鹿児島県庁勤務の官吏で、母きよは、旧姓岡村で、兵庫県出石町(いづしちょう)出身。
「九年母」双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン連ミカン属コウキツ(香橘)Citrus nobilis var. kunep のこと。クネンボの方が知られる。他に「クニブ」、沖繩方言では「九年母木(くんぶぬき/くぬぶんぎ/ふにゃらぎ)」と呼び、沖縄在来の柑橘「カーブチー」や「オート―」、及び、本土の「温州蜜柑」の祖先とされる蜜柑品種の一つ。名の由来については種を植えてから実がなるのに九年かかる、「クニブ」という音の「ニブ」が、ヒンディー語の「酸味の強い小さいレモン」の意で、それが、語源ともされる。本来はインドシナ半島原産で南中国を経て、琉球に渡り、羽地(はねじ:現在の名護市)で栽培が盛んに行われたことから「羽地蜜柑」とも呼ばれた。果皮は厚く、表面に凹凸が見られ、味は濃厚で酸味が強く、テレピン油に似た独特の香りを特徴とする。十六世紀、室町期には琉球から日本本土にも伝えられて栽培もされ、果実サイズが大きなために、もて囃された。水戸黄門は、これを「マーマレード」にして食したという記録も残っている。中でも美味しさを誇る琉球産は重宝されたという。江戸期までは、日本本土に於ける柑橘の主要品種であったものの、その後、「紀州蜜柑」が広まり、また、近代に至って大正八(一九一九)年からのミカンコミバエ(双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目ミバエ上科ミバエ科 Bactrocera 属ミカンコミバエ Bactrocera dorsalis)の侵入阻止のため、移出禁止措置がとられてからは、生産量が激減し、今では沖縄本島にも数本しか残っていない貴重な木となってしまった(以上は主に、非常によく纏められてある puremcolumn 氏のブログ「The Herb of Ryukyu」の「クネンボ 01 柑橘の母」の記載、及び、同記載のリンク先などを参考にさせて戴いた)。
「朱欒」ムクロジ目ミカン科ミカン属ザボン Citrus maxima。漢字では「朱欒」「香欒」「謝文」などと表記するが、私は「ブンタン」(文旦)或いは「ボンタン」(同じく漢字表記は「文旦」)という呼称の方が親しい。私の亡き母の郷里は鹿児島で、小さな頃から郷里の祖母が送って呉れた「ボンタン飴」がいつもオヤツだったし、あの巨大な生の実も食べたことがあるからである。梶井基次郎の「檸檬」(私のサイト版)ではないが、剝き始めは、まさに劉基(一三一一年~一三七五年:元末明初の軍人政治家で詩人)の「賣柑者之言」(賣柑者(ばいかんしや)の言(げん))の「鼻を撲(う)つ」それであった(関東の人はブンタンを生食したことのある人はあまり多くないと思う)。
「城山」平の馬場の後背地。城山公園展望台(グーグル・マップ・データ)をリンクさせておく。因みに、城山には私の母方の美しい伯母が住んでおり、懐かしい場所である。
「私達兄弟五人」久女は三女。後で語られるように、姉の一人は彼女の生まれる三年前に夭折している。
「西鄕どん」平の馬場の東北の直近、城山直下に知られた西郷隆盛銅像が立つ。
「兄月蟾」次兄の赤堀月蟾(げっせん:本名は忠雄)。久女は二六歳の大正五(一九一六)年の秋に、彼から俳句の手ほどきを受け(結婚後六年で次女が八月に生まれている)。翌大正六年『ホトトギス』一月号お「台所雑詠」に五句が掲載された(「杉田久女句集 1 春の日の小景」の私の冒頭注に掲げたものがそれ)。同年五月、早くも高浜虚子に会っている。
「あの時じくの香ぐの木の實を常世の國から携へ歸つた田道間守」記紀等に伝わる古代日本の人物。垂仁(すいにん)天皇の代に、常世(とこよ)の国にあるとされた「非時香菓(ときじくのかくのみ:別に「登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)」とも記す)を求めて派遣された説話上の人物。「多遅摩毛理」とも書く。「古事記」・「日本書紀」は「非時香菓」を「橘(たちばな)」とみなし、田道間守が十年後に「香菓」と八竿(やほこ:矛)・八縵(やかげ)(葉をとった枝、葉のついた枝、各八枝の意)を持って帰国したが、すでに垂仁天皇は崩御しており、天皇の陵墓のそばで、嘆き悲しんで死んだと物語る。渡来系の三宅連(みやけのむらじ)らの祖先と伝える。「古事記」の応神天皇の条には、「天之日矛(あめのひぼこ)」の子孫の系譜を記し、そこに「多遅摩毛理」の名が見える。「日本書紀」が田道間守の常世訪問の説話中で、「常世の国」を「神仙の秘区」と書くように、その常世伝承には中国の神仙思想の影響があることが判る。この「常世行き説話」を垂仁天皇の代の出来事とするのは、垂仁天皇を長寿とした有様(ありよう)(「古事記」では百五十三歳、「日本書紀」では百四十歳)と関連があるとみなす説がある(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「其後又琉球、臺灣と次第に南ヘ南へ渡つて」私の「杉田久女 南の島の思ひ出 (正字正仮名版)」を参照されたい。以下の語りの内容が、より細かに語られてある。
「佛桑花」ハイビスカス(hibiscus)。アオイ目アオイ科フヨウ属 Hibiscus の種群の総称。こと。また、そこに含まれる植物の総称。
「佛手柑」ムクロジ目ミカン科ミカン属シトロン変種ブッシュカン Citrus medica var. sarcodactylis。インド東北部原産で、果実は芳香があり濃黄色に熟すが、長楕円体を成す上に先(下方)が細い指のように分岐する。名はその形を合掌する両手に見立てて「仏の手」と美称したものである。本邦の南日本で主として観賞用に栽植される。食用にもするが、身が少ないので、生食には向かず、砂糖漬けなどにする。私も小さな頃、母の実家の鹿児島で食べた記憶がある。私の「杉田久女 梟啼く (正字正仮名版)」の注を引用した。
佛手柑は香氣が高くて雅致のあるものだつた。
「文旦」ザボンに同じ。
「ぽんかん」ミカン属マンダリンオレンジ 変種ポンカン Citrus reticulata var poonensis 。
「すいかん(ネーブル)」ミカン属オレンジ変種ネーブルオレンジ Citrus sinensis 。
「唐黍」トウモロコシ。
「ザザクサ」不詳。識者の御教授を乞うものである。
「被布」着物の上にはおる上衣。襠(まち)があり、たて衿(えり)・小衿がつき。錦の組み紐で留める。江戸時代、茶人や俳人などが着用して流行し、後、一般の女性も用いた。おもに縮緬・綸子(りんず)などで作る。女児用の袖なし被布もあり、ここは、それ。
「おとぎ文庫」『日本おとぎ文庫』初期刊行を調べ得ないが、博文館発行の子ども向けの絵入り昔話叢書。
「松山鏡」落語。原話は仏典の「百喩経」(ひゃくゆきょう)で、明末の笑話集「笑府」に入り、日本で民話になった。能「松山鏡」や狂言「鏡男」もそれを受けて成立したもので、類話も各地に残るが、その落語化である。越後松山村の正助は、親孝行で領主に褒められ、望みの品を問われたので、亡父に会いたいと答えた。そのころ、村に鏡がなかったので、領主は鏡を与えた。正助は鏡に写る自分を父と思って、ひそかに、日夜、拝んでいた。女房が不審がり、夫の留守に鏡を見ると、女の顔が写るので、けんかになった。比丘尼が仲裁に入り、鏡をのぞき「二人とも心配しなさるな。中の女は、きまりが悪いといって坊主になった」でオチとなる八代目桂文楽が得意とした(小学館「日本大百科全書」に拠った。
「小倉の町にすみ馴れて」久女が杉田宇内(うない)へ嫁したのは、明治四〇(一九〇七)年八月(満十九)で、宇内は東京上野美術学校西洋画科出身で、福岡県小倉中学校の美術教師として赴任、住まいは小倉市鳥町(とりまち)の神崎方であった。現在の福岡県北九州市小倉北区魚町。
「富野邊」同小倉北区富野。但し、そこを航空写真にすると、完全な山間地であるので、その下の平地の住宅地である小倉北区常盤町、及び、その海側の上富野附近の広域を指しているように思われる。「ひなたGPS」の戦前の地図を見ると、まさに現在の「上富野」の位置に、「富野」とあるからである。
「福岡の公會堂」旧福岡県公会堂貴賓館であろう。ストリートビューで見ても、画像が鮮明でないので、よく判らないが、周辺は整備された「天神中央公園」となっており、恐らく、「日本一」の「朱欒の巨樹」は、樹種から考えても、公園にはちょっとと思われ、もうないように思われる。「旧福岡県公会堂貴賓館 朱欒」の検索でもかかってこない。
「先年大阪でひらかれた關西俳句大會の翌日、飛鳥川をわたり、橘寺(たちばなでら)へ行つた時」この旅は年譜には書かれていないので、不詳。
「ふぐ」条鰭綱フグ目フグ科 Tetraodontidae のフグ類。古くからの食用種としてはトラフグ属トラフグ属トラフグ Takifugu rubripes・トラフグ属マフグ Takifugu porphyreus が知られる。孰れも猛毒で解毒剤のないテトロドトキシン tetrodotoxin(TTX:C11H17N3O8:真正細菌ドメイン Bacteriaプロテオバクテリア門Proteobacteriaガンマプロテオバクテリア綱Gammaproteobacteriaビブリオ目 Vibrionalesビブリオ科ビブリオ属 Vibrioやガンマプロテオバクテリア綱シュードモナス目Pseudomonadalesシュードモナス科シュードモナス属 Pseudomonas などの一部の真正細菌由来のアルカロイド)を持つ(卵巣・肝臓は猛毒で皮膚と腸も強毒性を持つ)。
「ちぬ」ここは、スズキ目タイ科ヘダイ亜科クロダイ属クロダイ Acanthopagrus schlegelii の異名としてよい。
「だいだい」ミカン属ダイダイ Citrus aurantium 。]