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2024/02/03

「蘆江怪談集」 「鈴鹿峠の雨」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本の本文開始位置はここ。]

 

 

    鈴 鹿 峠 の 雨

 

 

         

 

 考(かんが)へて見れば十五年も前の事です、私は樂(たの)しみが半分(はんぶん)、止(や)むを得(え)ずが半分、一人旅で東海道(とうかいだ)を步(ある)いて京へ上りました。四日市を早立(はやだち)で、其日の中に江州(ごうしう)へ入りたいと痛む足を踏〆(ふみし)め踏〆步きました。[やぶちゃん注:「鈴鹿峠」はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)で、「四日市」市街は、その東北。]

 坂(さか)へかゝつて、宿[やぶちゃん注:坂下宿。]外(しゆくはづ)れで草鞋(わらぢ)を穿代(はきか)へながら、小荷物の紐(ひも)を結び直してゐますと、茶見世の婆さんが「峠(たうげ)へかかつて降らんだら好(えゝ)がなあ」といひますので、不圖(ふと)空(そら)を見上げましたら、成程、今が今まで晴(は)れてゐた空がドンョリと曇(くも)つて、今にもざあと來さうな樣子です「何だか怪(あや)しい雲(くも)が出たね、まア降(ふ)られたらそれまでさ、急(いそ)ぐとしやう」と私はさつさと步(ある)き始(はじ)めました。

 坂(さか)は照る照る鈴鹿(すゞか)は曇る、といふ唄(うた)[やぶちゃん注:「鈴鹿馬子唄」。線翔庵氏のサイト「庵主の趣味の間 線翔庵」の「鈴鹿馬子唄」に解説があり、歌詞はこちら。そこ出る「あいの土山」については、諸説があり、「甲賀市」公式サイトの『あいの土山の「あい」の意味について』に詳しい。]は此處の事です、坂へかかる時晴れてゐたのが、此處まで來て急に曇つて、曇つた儘(まゝ)で鈴鹿を越(こ)せば、後(あと)は下り道の土山邊(ついやまあた)りで雨が降るのかも知(し)れまい、出來る事なら峠(たうげ)を上り詰(つ)めてから降つて貰(もら)ひたいものだと思ひ思ひ、足を急がせました。

 本街道(ほんかいだう)でも、もう汽車が通つてゐる世の中ですから、往來(わうらい)を步(ある)いてゐる人なんてありません、廣い道を私一人で七曲(まが)りの樣な處ヘテクテク步きかけると、何處ともなく人の聲(こゑ)がします。

 何處で何を話(なに)してゐたのか、男か女か、若(わか)い者か老人(らうじん)か、些(ちつ)とも判(わか)りませんが、人の話聲が私の頭の眞上(まうへ)で聞えます、ずつと上を向いて見ましたが、只(たゞ)崖(がけ)の雜木(ざうき)がこんもりと頭の上へ冠(かぶ)さつてゐる許(ばか)りです、山男とかいふ者が私を何(なん)とかしようと云つて相談(さうだん)でもしてゐるのではあるまいかと、私は迷(まよ)ひました、誰れか道連(みちづ)れが欲しいものだと思ひ思ひ私は更(さら)に足を早めました、私の足の早まるに連れて、話聲は髙(たか)くなつて來ます、足を止(と)めて見ると、話聲も止まる、又(また)步(ある)き出すと又聞える、妙(めう)な事があるものだと思ひ思ひ、尙(なほ)道(みち)を急ぐ中にポツリポツリと落ちて來ました、私は菅笠(すげがさ)の紐を締(し)め直し、絲楯(いとたて)を身體に纏(まと)ひつけて、やつしやつしと上りました、雨は一足每に强くなつて行く、そして山に上るに從(した)がつて深(ふか)くなつて行く、其れで、前の話聲(はなしごゑ)はいつまでもいつまでも私の耳に響(ひゞ)きます。

[やぶちゃん注:「絲楯(いとたて)」「糸立て」で、「いとだて」。糸を入れて補強した渋紙。簡易の雨具。]

 

         

 

 私は不圖(ふと)此の話聲は、私より半町(はんちやう)[やぶちゃん注:五十四・五メートル。]許(ばかり)り先に上(のぼ)る人の聲(こゑ)ではないかと思ひました、私は足を急がせて七曲(まが)りの三つ目をぐつと曲つて見ますと、果(はた)して、女と男と二人連れで話(はな)しながら行くのでした。

[やぶちゃん注:「七曲(まが)り」正しくは「八町二十七曲り」。「亀山市生活文化部文化スポーツ課まちなみ文化財グループ」作成の「東海道五十三次の内 坂下宿 鈴鹿峠 イラスト案内図」PDF)のイラストが判り易い。その解説の「鈴鹿峠」に、『伊勢と近江の国境にまたがる鈴鹿山の脇を縫うように越えるのが鈴鹿峠越えです。古くは「阿須波道」と呼ばれ』、仁和二(八八六)年に『開通したとされています。「鈴鹿山」は、本来は「三子山」のことを指しているとみられますが』、「今昔物語」や『和歌などに登場する「鈴鹿山」は鈴鹿峠越えを指しているものが多いようです。なだらかな近江側と違い、山深い「八町二十七曲り」の急な山道は、古くは山賊の話が伝えられ、江戸時代には箱根越えに次ぐ東海道の難所として知られていました』とある。この「七曲りの三つ目」というのは、下方のイラストの『⑮燈籠坂』か、その上の部分かと思われる。以下に出るそれより上の「曲がり」は、各自で確認されたい。]

 男は藍微塵(あいみじん)の素袷(すあはせ)に八端の三尺帶を締め、女は髮を馬の尻尾(しつぽ)といふのに結んで、辨慶(べんけい)の單衣(ひとへ)、黑繻子(くろじゆす)と茶献上(ちやけんじやう)の腹合せの帶を手先さがりに引かけ、裾(すそ)をぐつと片端折(かたはしをり)に腰紐へ挾(はさ)み、裾へ白い腰卷をだらりと見せて、二人とも跣足(はだし)で、番傘(ばんがさ)を相合傘といふ姿です、鈴鹿峠といふ上方道で迚(とて)も見かけられさうもない姿です、私は一方[やぶちゃん注:「ひとかた」。]ならず驚(おどろ)きました、而(しか)も、それが私の足音を聞いて、二人一緖(しよ)に振返(ふりかへ)りました、女は眉毛(まゆげ)の跡靑々と、男は苦味走(にがみばし)つた顏立といふのが、又私に取つて頗(すこぶ)る異樣(いやう)に見られました、私は私の身體(からだ)が一足飛びに東京近在へ引戾(ひきもど)されてゐるのではないかと思ひ迷(まよ)はされながらも、足を早めて其の二人を通(とほ)り越(こ)しました、そして私の足は四曲(まが)り目で曲つて急な坂道を一氣(き)に上りました、二人を通り過ごすと同時に、今まで聞(きこ)えた話聲(はなしごゑ)は聞えなくなつて、只雨の音ばかりがしとしとと耳に響(ひゞ)きます。

[やぶちゃん注:「藍微塵(あいみじん)」縞柄の一種。経糸(たていと)・緯糸(よこいと)ともに藍染糸を二本ずつ、濃淡の藍を用いた格子縞、又は、その布を言う。

「素袷(すあはせ)」下に肌着類を着けずに、袷だけを着ること。

「八端」「八反」とも書く。「破れ斜文」や「山形斜文」などの綾組み織りに織った絹織物で、縞や格子などの先染めにしたものや、捺染(なっせん)などの加工を施したものがある。

「馬の尻尾(しつぽ)」髷がなく、垂らした髪を単に結んだものを言う。田舎娘や女房がこうした髪をしていた。

「辨慶(べんけい)の單衣(ひとへ)」「弁慶格子」の単衣物。ギンガム・チェックのような、白地に黒の格子柄を指す。縦より横の方が少し太くなっている。

「黑繻子(くろじゆす)」「繻子」は精錬した絹糸を使った繻子織(しゅすおり)の織物。経糸(たていと)・緯糸(よこいと)それぞれ五本以上から構成され、経・緯どちらかの糸の浮きが非常に少なく、経糸又は緯糸のみが表に表れているように見える織り方で、密度が高く、地は厚いが、柔軟性に長け、光沢が強い。但し、摩擦や引っ掻きには弱い。その黒染めのもの。

「茶献上(ちやけんじやう)」江戸時代、博多藩主から将軍へ献上したところから、上等の博多織りの茶色の帯地。また、その帯。「献上博多」。

「腹合せの帶」表と裏を異なる布で仕立てた女帯。もと、黒ビロードと白繻子(しろじゅす)とを合わせて作られたところから、白と黒を昼と夜に喩えて「晝夜帶(ちうやおび)」とも呼ぶ。他に「鯨帯」とも。]

 五曲り目を曲る時までは何の異狀(いじやう)もなかつたのですが、六曲り目を掛(かゝ)らうとする時、又しても頭の上で話聲がします、第二の一組が次(つぎ)の曲(まが)り目から上に步(ある)いてゐるのかと私は思ひながら、六曲り目をぐるりと曲(まが)つて見ますと、何(ど)うでせう、現在(げんざい)今(いま)追(お)ひ越(こ)した許りの二人の男女の姿(すがた)が、半丁ばかり先(さき)に前の通りな形で步(ある)いてゐます。似た如(やう)な人もあるものだと私は思ひながら、その二人を又追越さうとすると、又しても前(まへ)の通(とほ)りに、此の二人が私を振返(ふりかへ)りました、通り越すと同時に話聲は絕(た)えました。

 七曲りを上り詰(つ)めて、鈴鹿峠の頂上にはがつしりとした昔普請(むかしぶしん)の家が二軒(けん)並(なら)んでゐます、昔は嘸(さぞ)繁昌(はんじやう)したらうと思はれる茶見世(ちやみせ)ですが、此處では汁粉(しるこ)と名物お團子の看板が出てゐます、私は其家の屋根(やね)の見える頃から、又足を急がせました、漸々(やうやう)屋根(やね)を見盡し、軒(のき)が現はれ、椽臺(えんだい)が見える處まで上つたら、何うです、前の二人の姿(すがた)が、私よりも先に上り着いてゐて、茶見世の椽臺(えんだい)に腰をかけて茶を啜(すゝ)つてゐるではありませんか。

[やぶちゃん注:「茶見世」先のPDFのイラストの峠にある『⑱峠の茶屋跡』。解説に、江戸時代には、『鈴鹿峠山頂の伊勢と近江の国境には、松葉屋・鉄屋・伊勢屋・井筒屋・堺屋・山崎屋の六軒の茶屋が建ち並び、峠を往来する人々でにぎわっていました。現在でも当時の茶屋の石垣が残されています』とある。]

 

         

 

 私の足はもう此(こ)の二人を追越す勇氣(ゆうき)がありません、此の二人の腰(こし)をかけてゐる茶屋の隣(となり)の茶見世に倒(たふ)れかゝる樣(やう)に腰(こし)を下しました[やぶちゃん注:句読点はない。]「お茶(ちや)を一つ」と小娘が私に宥(すゝ)めました、私は之れを呼び止めて「姐(ねえ)さん、あの二人は土地の人かえ」と指(ゆび)さして聞きますと、小女(こをんな)は指される方を覗(のぞ)いて見て「あの二人て誰(だ)れです」と聞きます[やぶちゃん注:句読点なしはママ。]「隣(おなり)に休んでゐる二人連れさ」と云ひましたら小女は「誰(だ)れも居りません」と素氣(すげ)ないものです[居ない筈(はづ[やぶちゃん注:ママ。])はない、隣の茶見世で休(やす)んでゐるぢやないか、男と女二人連れでさ]と說明(せつめい)しながら、私はそつと隣を覗いて見ました、すると又しても意外(いぐわい)な事には、確(たしか)に今休んでゐた筈の二人が影(かげ)も形も見えません、ハツと思ふと、天も地も眩(まばゆ)くなりました、都合(つがふ)三度(ど)脅(おびや)かされた私は、もう後へも先へも步(ある)く氣(き)がなくなりました、と云つて其處へ腰をかけてゐる事も出來ない、そこそこにして茶見世(ちやみせ)を立ちかけた、隣(となり)の家を、も一度、覗(のぞ)き込(こ)んで見ましたが、矢張何の姿(すがた)も見えませんでした、斯(か)うなると、もう一刻(こく)も早く此の薄氣味(うすきみ)の惡い鈴鹿峠(すゞかたうげ)を越して了ひたいと其(そ)ればかり思ひ入つて、小止(こや)みもなく降り頻(しき)る雨の中を、私は一散(さん)に駈下(かけお)りました、鈴鹿峠を下り切つた處は、一面に杉(すぎ)樅(もみ)の木の林のこんもりとした處です、天氣の好い日でさへ暗(くら)からうと思はれる程ですから、況(ま)して雨の日の旅(たび)の道(みち)、宵闇(よひやみ)の中を步いてゐるとしか思はれませんでした、若(も)しこんな處であの不思議(ふしぎ)な二人に會つたら、什麼(どん)なでしたらうか、併(しか)し幸(さいは)ひに、もう其後は全く姿(すがた)も見せず、頭の上の話聲もしなくなりました、そして其日の夕方(ゆふがた)江州水口(ごうしうみづぐち)の町に入りました。

[やぶちゃん注:「江州水口」「みづぐち」ではなく、「みなくち」が正しい。滋賀県甲賀市水口町(みなくちちょう)水口(みなくち)。江戸時代は東海道五十三次の土山(つちやま)宿と石部(いしべ)宿の間の宿駅。加藤氏二万五千石の城下町として発達した。]

 街道(かいだう)に沿(そ)つた一本町[やぶちゃん注:ママ。『ウェッジ文庫』では、『一本道』と訂してある。]をずつと通つてゐると、中に舊家(きうか)らしい宿屋がありますので、元より路用(ろよう)の乏(とぼ)しい旅の事、こんな宿(やど)の方が手堅(てがた)くてよからうと私は其處ヘ一夜(や)の宿を定めました[やぶちゃん注:句読点なしはママ。]「お世話を願ひます」と云(い)ひながら、椽(えん)に腰をかけて、草鞋(わらぢ)を解(と)き、出された洗(せんそく)足の盥(たらひ)へ兩足をすつと入れた時、表の方で、雨の音が一しきり、ザヽザツと强(つよ)くなりましたので、不圖(ふと)見(み)るともなしに往來を見ると驚(おどろ)いた、鈴鹿峠で見た相合傘(あひあひがさ)の粹(いき)な二人が、傍目(わきめ)も振らずに西の方へと此の家の前を通り過ぎる處でした。私は濡(ぬ)れた足の儘で飛び上つて、手當り次第に宿の座敷(ざしき)へ飛び込んで了ひました。

 

         

 

「どうなされましたのかいな」と女中が呆氣(あつけ)に取られながら、私に尋(たづ)ねたので、私は漸(やつ)と心を落付けてから、實(じつ)はこれこれと鈴鹿峠(すゞかたうげ)を上る時の話をしますと、女中は左程(さほど)驚(おどろ)いた顏もせず「餘程足の早い人どつしやろ」と簡單(かんたん)に打消(うちけ)して了ひました、私は合點(がつてん)ゆかぬ思ひをして自分の座敷(ざしき)へ入りました、斯(か)うして女中の爲に一口に打消(うちけ)されて見たり、腰(こし)を落付(おちつ)けても見ると、どうやら心も落付くので「取敢(とりあへ)ず一と風呂(ふろ)汗(あせ)を流した上で御飯にしたいが」と云ひましたら、女中は氣の毒さうに「竈(かまど)が壞(こは)れましたので、お氣の毒ですが、もう一時間も經(た)たんと湯が湧(わ)きまへんので」と云ひます、仕方なしに御飯(ごはん)を濟(す)ませ、其日の旅日記(たびにつき)など書き、差當りの手紙など二三本書いて、そしてゴロリとなりましたが、まだ湯(ゆ)が湧(わ)いたといふ知(し)らせが來ません。

 秋の日は例の釣甁落(つるべおと)しといふので、宿へ着いた時にまだ明(あか)るかつたのが、草鞋(わらぢ)を脫ぐ中に暮れて了つたのですから、彼(か)れ此(こ)れ九時頃でしたらう「お湯が湧きましたから」と云(い)つて來(き)たので、浴衣(ゆかた)一つで長い廊下(らうか)をずつと奧まで行つて、此處と示(しめ)された湯殿(ゆどの)の扉(とびら)を開けると、非常に廣い湯殿でした、三間(げん)[やぶちゃん注:五・四五メートル。]四方もあらうかと思はれる板(いた)の間の眞中(まんなか)に、三四人は悠々(いういう)入れようと思はれる湯槽(ゆぶね)が片付きよく出來てゐます、

そして其湯槽の壁際(かべぎは)に照射(てりかへ)し附きの洋燈がしよぼしよぼと瞬(またゝ)いてゐる上に、湯(ゆ)の煙が濛々(もうもう)と立昇(たちのぼ)つてゐますので、型(かた)の通りにどんよりとして見えます、浴衣(ゆかた)を脫(ぬ)いで板(いた)の間(ま)ヘ一足下した時、私は何の爲か、ぞつと水(みづ)を浴(あ)びせられるやうな心持がしました、風邪(かぜ)でも引いたか知らと思(おも)ひながら、汲(く)んである小桶(こをけ)の湯をざつと身體へ浴(あ)びせて、よい心持で湯槽へずつと身體を漬(つ)けようとすると、何かは知らず、湯槽(ゆぶね)の湯に浮いてゐる物(もの)が二つあります[やぶちゃん注:句読点なしはママ。]「何だらう」と思はず呟(つぶや)きながらぢつと見ると、男と女の首(くび)が後ろ向(む)きに浮(う)いてゐるのでした、無論私は息(いき)も止(とま)るばかりに驚いて、危(あぶ)なく倒(たふ)れやう[やぶちゃん注:ママ。]としましたが、必死(ひつし)の勇(ゆう)を奮つて足を踏(ふ)み〆(し)め、尙(なほ)一度(ど)見定(みさだ)めましたら、二つの首はくるりと此方(こちら)を向きました、そして「お先(さき)に」と私へ會釋(ゑしやく)をしました、首(くび)が浮(う)いてゐるのではなかつたので、正(まさ)に男と女と二人が入(はい)つてゐたのですから何やら安心が出來て、動悸(どうき)の高まつた胸(むね)を押へながら浴槽(ゆぶね)へ入つて、成るたけ此の男と女の方を見ないやうにしてゐました。

 もうめつきり寒(さむ)さを覺える晚秋(ばんしう)の頃でしたから、ゆつくり溫(あたゝ)まつてゐたいのですが、私の心は其日一日脅(およや)かされてゐますので、尻(しり)を落付(おちつ)ける事が出來ません、ざつと溫(あたゝ)まつて板の間へ上らうとしながら湯槽(ゆぶね)を見𢌞したら、現在人つてゐて會釋(ゑしやく)をした男と女との顏は何處(どこ)にも見えませんでした「いつの間に上つたらう」と板(いた)の間(ま)を見、脫衣場(だついば)を見ても影さへ見えません、可笑(をか)しな人があるものだ、それにしても餘程(よほど)素敏(すばし)こい人達だと思つて、私は板の間で汗(あせ)を流(なが)し始めました、石鹸(せつけん)を使ひながら不圖(ふと)考(かんが)へ付くと、今の二人の顏は鈴鹿峠で逢(あ)つた男女の顏(かほ)に似(に)てゐたやうです、ハツとして思はず聲を出して、私は碌々(ろくろく)身體(からだ)を流しもせず、湯(ゆ)を飛(と)び出(だ)して了(しま)ひました。

 

         

 

 私には譯が判りません、何(ど)う云ふ譯であの二人に付纏(つきまと)はれてゐるのか、あの二人は私を何しようと云ふのか、生(い)きた人間(にんげん)か死んでるのか、思へば思ふ程薄氣味(うすきみ)が惡(わる)いので、私は其儘(そのまゝ)蒲團(ふとん)へ潛(もぐ)り込んで、一夜をまんじりともしませんでした、屹度(きつと)人が靜(しづ)まつて了つた時分に何事か起るのだらうと思ふ心(こゝろ)が止(や)みませんので、寢返(ねがへ)りばかりを打つてゐましたが、意外(いぐわい)にも其夜は何事もなくもう二人の姿も見えず、厭(いや)な夜(よ)はほのほのと明けました、朝飯(あさめし)の時に、宿の女中へ又私は湯殿(ゆどの)の首の事を話して「一體何か譯(わけ)があるのか」と聞(き)きました、女中は初め中々云ひませんでしたが、私があんまり神經(しんけい)を惱(なや)ましてゐるのを見ると、仔細(しさい)を話してくれました、其仔細といふのは斯(か)うです。

 其頃(そのころ)から尙三年も前に、伊勢(いせ)の桑名の博突打(ばくちうち)が、親分の女房と人目を忍(しの)ぶ仲(なか)になつて、桑名を逃げ出し、街道筋(かいだうすぢ)を眞直ぐに此の水口まで逃(に)げて來た事がある、丁度(ちやうど)昨日(きのふ)の樣(やう)に雨の降る日の事[やぶちゃん注:行末で禁則処理の読点が打てない版組みである。]藍微塵(あいみぢん)の着物を着た男と、小辨慶(こべんけい)の單衣(ひとへ)を着た女とが番傘(ばんがさ)を相合傘にして、びつしより濡(ぬ)れて飛び込んだのが此(こ)の宿屋(やどや)であつた、秋近い頃の日(ひ)の暮(く)れ方(かた)であつたので、冷(ひ)え切(き)つた身體に二人とも胴慄(どうぶる)ひが止(や)まないと云ひながら、宿へ着くなり湯槽(ゆぶね)へ飛び込んで溫(あたゝ)まつたまではよかつたが、それが病氣の因(もと)で、男は其晚(そのばん)からの大熱(おほねつ)でどつと床に付いて了つた、女はそれを熱心(ねつしん)に介抱(かいはう)して一日も早(はや)く治(なほ)さねば、此處に此儘(このまゝ)でゐては追手(おつて)のかゝる心配があるといふので、餘程苦しんでゐたが、到頭(たうとう)看病(かんびやう)の甲斐(かひ)もなく僅(わづ)か一週間で男は息(いき)を引取つて了つた、女は落膽(がつかり)したが、さて何する事も出來ない、旅費(りよひ)と云つても漸(やうや)く五十圓あるかなしだつたらしいので、一週間(しうかん)の宿料(しゆくれう)と醫者の藥禮(やくれい)とに拂つて了(しま)へば、餘(あお)は男の屍骸(しがい)の始末をする金さへ乏(とぼ)しいらしいので、頭のものを女中に賣らせたりして、それを補(おぎな)ひに佛(ほとけ)の始末をしようかと云つてゐる處へ追手(おつて)が訪(たづ)ねて來た、もう絕體絕命(ぜつたいぜつめい)で、女は隨分張の强い樣子であつたにも拘(かゝは)らず、おろおろして了(しま)つて、其夜を追手と共に明し、翌日(よくじつ)は止(や)むを得(え)ず連れ戾されねばならぬと定まつた其(そ)の晚(ばん)、人の𨻶(すき)を見て、湯に入る樣子をして、湯殿へ臺所の庖丁(はうちやう)を持込み、美事に咽喉(のど)を突(つ)いて死んで了(しま)つたといふのです[やぶちゃん注:句読点なしはママ。]「其の幽靈はんどつしやろ[やぶちゃん注:底本では「とつしやら」。『ウェッジ文庫』に従って訂した。]、雨の日の一人旅で東から桑名(くわな)を進(すゝ)んで來やはるお客(きやく)はんと云(い)ふたら、屹度(きつと)此(こ)の二人の衆(しう)が踉(つ)いて見えはります、貴郞(あなた)はんが昨日(きのふ)お着きだした時にも、又かいなと思うて居(を)りました、何にもアタはしまへん、好(い)い人どすけど、薄氣味(うすきみ)の惡(わる)いものどすえなあ、雨の日に東から來やはる一人旅(ひとりたび)の男の人でなければ見えしまへんのやろ、私達(わたしたち)は見た事おまへん」と女中は云ひ添(そ)へました。

[やぶちゃん注:私の読んだ怪奇談の中でも、例を見ないオリジナリティに富んだ哀しい情話怪談である。]

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