譚海 卷之九 貝原篤信先生の事
○貝原篤信(あつのぶ)と云(いふ)は黑田家の儒官なり。
國主の命によりて「筑後風土記」をあらはしたり。
「國中を、十六年、往來して書成(かきなし)たり。」
と、いへり。
[やぶちゃん注:正しくは「筑前國續風土記(ちくぜんのくにしよくふどき)」である。元禄一六(一七〇三)年の成立。]
其書に、「筑紫」の稱を論ぜしに、いへるは、
『筑紫の稱、說々、おほけれども、慥成(たしかなる)よりどころ、なし。往古、異賊、襲來を防がるゝ爲に、海邊へ、石をきづきたる事、國史に載(のり)たり。今も、筑後海邊には、所々に、大石、殘りたる有(ある)は、國史にいへる所の石成(なる)べし。是にて考(かんがへ)れば、「つくし」と稱せる事は、「築(つ)く石(いし)」成(なる)べし。』
と、いへるよし、彼(かの)書にありと、いへり。
[やぶちゃん注:江戸前・中期の儒者で本草家の貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)。篤信は本名。筑前福岡藩主黒田光之に仕え、後に京に遊学して寛文四(一六六四)年に帰藩した。陽明学から朱子学に転じたが、晩年には朱子学への疑問を纏めた「大疑錄」も著している。教育や医学の分野でも有意な業績を残している著書は以下の「大和本草」の他、「養生訓」「和俗童子訓」など、生涯、実に六十部二百七十余巻に及ぶ。私は既に二〇二一年六月に、二年半かけてブログ・カテゴリ『貝原益軒「大和本草」より水族の部』を完遂している。
「築く石」国立国会図書館デジタルコレクションの『益軒全集』「卷四」(益軒会編・益軒全集刊行部(隆文館内)明治四三(一九一〇)年刊)の「筑前國續風土記」の「卷之一」の冒頭の「提 要 上」の「○總 論」で「筑紫」の称の考証があり(ここ)、そのこちらの右ページ上段四行目から、
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ひそかにおもふに、いにしへ、異國より賊兵の襲(おそひ)來るをふせがんとて、筑前の北海の濱(ほとり)に石垣を多く築り[やぶちゃん注:「つくり」であろう。]、其故に突く石といへる意なるを略して、つくしと云なるべし。[やぶちゃん注:中略。具体な上古から鎌倉時代までの異国からのこの地方への侵略の例を挙げてある。]然れば昔此國をつくしと名付し事は、筑石(つくいし)と云ふことばをとれるなるべし。是前人のいまだ識者の是正をまつのみ。むかし筑前筑後二國にて、是を筑紫といふ。つく、ちく、音相通ずれば、又ちくしとも云。後に二國に分ちし時、ちくぜんちくご□[やぶちゃん注:判読不能。「と」だろう。]云。[やぶちゃん注:以下略。]
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とあった。本篇の「築(つ)く石(いし)」の読みも、以上に従った。]