「蘆江怪談集」 「怪談雜記」+「目次」・奥附 / 「蘆江怪談集」~了
[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本本文の開始位置はここ。本篇は、蘆江の本書の後書に代えた随想「怪談雜記」である。]
怪 異 雜 記
怖(こは)がりのくせに、怖いものに出會(でつくわ)して見たいといふ氣持が、いつも動いてゐる。本鄕の素人下宿(しろうとげしゆく)にゐる時分だつた。長六疊のあんまり日當りのよくない上に、緣先(えんさき)に靑桐(あをぎり)がすくすくと伸(の)びてゐるので尙(な)ほ暗(くら)かつたが、夜、寄席などに行つて、遲(おそ)がけにかへつて來る時、あたりがしんとした中へ入るのだから、いろいろな奇異(きい)を想像(さうざう)する事が多かつた。
からかみをあけて、机(つくえ)の前へすわった途端(とたん)に、机の下から瘠(や)せ細(ほそ)つた手がひよろひよろと伸びて來たらとか、外の寒(さむ)さに冷え切つた手で、埋み火[やぶちゃん注:「うづみび」。]を搔(か)き起(おこ)す途端に、火鉢の鐵瓶(てつびん)がブルブルと蓋(ふた)をゆり動(うご)かして、
「寒いね」と、人語(じんご)を發したらとか、寢支度(ねじたく)をする爲めに押入れをあけると、寢道具がひとり手に、ぼたぼたぼた[やぶちゃん注:この箇所。底本では真ん中の「ぼた」のみが踊り字「〱」となっている。]とひろがつて、疊の上へ展(ひろが)つたらとか、さまざまな空想(くうさう)を描(ゑが)くのが常だつた。
空想(くうさう)から空想が生(うま)れて、しまひには途方もない事を考へるのに慣(な)れたものだが、其中で、我れながらゾツとした空想(くうさう)は。――
まづ外から戾つて、部屋のからかみを開(あ)ける、入らうとして不圖(ふと)氣(き)がつくと、正面に据(す)えた机の前に人がすわつてゐる。誰(だ)れだと聲(こゑ)をかけると、坐(すは)つたまま顏だけむけた、その顏は自分と同じ顏だつた。――今でも時々(ときどき)それを空想する。
芥川龍之介が話した怪談(くわいだん)といふのは、西洋(せいやう)の本で讀んだのださうだが、あめりかのヲール街(がい)か、いぎりすのストランド街のやうなところで、不斷(ふだん)は幾千となく忙(いそ)がしさうな人間が、ざわついてゐる町の晝頃(ひるころ)、卽ち、皆が食事(しよくじ)に行つた爲めに、街頭に一人の人もない、打つてかはつた淋(さび)しさの時、カンカン日の照(て)つてる步道を、ある紳士(しんし)が通つた、とある角(かど)を曲(まが)らうとしたら、曲り角からひよいと現(あら)はれた紳士がある。出あひがしらにばつたり衝突(しようとつ)しさうになつて、兩方から同時に
「ヤ失敬(しつけ)い」
と云つてすれちがつたが、其時、妙(めう)な感(かん)じがした。[やぶちゃん注:行頭の字空けはママ。]
「おや今のは」と首(くび)をひねる「おれと同じ人だつたが」さう云つてふりむいて見ると、隱(かく)れ場所(ばしよ)などはないのに、そこには何ものも見えなかつたといふ。卽(すなは)ち、同じ人間が同じ人間にぶつかつて、ふりかへつて見たら、もう消(き)えてなくなつてゐたといふのだ。この怪談(くわいだん)を讀(よ)んだ時は、總身が氷(こほり)になつたかと思つたと云(い)つてゐた。
[やぶちゃん注:「芥川龍之介が話した怪談(くわいだん)といふのは、西洋(せいやう)の本で讀んだのださうだが」事前に当該作品を「芥川龍之介 二つの手紙 (オリジナル強力詳注附き)」としてブログで公開しておいたので、是非、読まれたい。現行のネット上の同作の注としては、誰にも負けない自信はあるものに仕上げてある。無論、正字旧仮名である。なお、芥川龍之介は大の怪談好きで、若い頃から、怪奇談を私的に蒐集していた。私のサイト版の「芥川龍之介 椒圖志異(全) 附 斷簡ノート」を未見の方は、強くお勧めする(手書き本文や落書の画像もある)。それに倣って私が書いたオリジナル怪談実話集「淵藪志異」も御笑覧頂ければ、恩倖、之れに過ぎたるは莫(な)い。因みに、この内の「二」の私の祖父の怪奇談は、一九九九年十一月の『ダ・ヴィンチ』に載り、京極夏彦氏他の過褒の言葉を頂戴し、後にメディアファクトリーから刊行された京極夏彦他編「怪談の学校」にも載っているものである。
「ヲール街」Wall Street。アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨークにある、世界の金融センター「ウォール街」(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。ニューヨーク証券取引所を始めとして、アメリカの金融史と所縁のある地区。
「ストランド街」Strand。イギリスのロンドンの、「トラファルガー広場(Trafalgar Square)」から「王立裁判所(Royal Courts of Justice)」までを結ぶ主要道路で、劇場・ホテルが立ち並ぶ繁華街。ここ。]
自分と同じ人間が、突然(とつぜん)目の前に現はれたら、たしかに怖(こは)い事だらう。先代(せんだい)坂東秀調[やぶちゃん注:「ばんどうしうちやう」。]自身に經驗したといふ怪談(くわいだん)がやはりそれで、ある時、芝居の雪隱(せつちん)へ行つた。花かつみの中形の浴衣(ゆかた)を着て三つ並んだ便所(べんじよ)の左りのはしをあけようとしたら開かない。右のはしも開かない。いやだつたが眞中のをあけると、開(あ)いたから、入らうとしてヒヨイと覗(のぞ)くと、中には自分と同(おな)じ花かつみの浴衣を着た男(をとこ)がしやがんでゐたので、これは失禮(しつれい)といつたら、その男が、ぢろりとふりむいて自分を見上げた。と、その顏(かほ)がやつぱり自分と同じ顏だつたといふのだ。
[やぶちゃん注:「坂東秀調」歌舞伎役者三代目坂東秀調(明治一三(一八八〇)年~昭和一〇(一九三五)年)であろう。]
多分(たぶん)つくり事であらうと思ふけれど、たしかに凄(すご)い。
つくり事といへば、年中(ねんぢう)怪談(くわいだん)を空想(くうさう)して、それを人に話すのを仕事のやうにしてゐる人が私の友人(いうじん)にあつた。
川尻淸潭[やぶちゃん注:「かはじりせいたん」。]氏の兄さんで、鹿鹽秋菊(かしほしうきく)といふ人、怪談製造家(くわいだんせいざうか)などと云つたら、鹿鹽氏怒るかも知れない。併(しか)し、全く、製造家と云つても好(い)いくらゐの怪談ずきで、たまに出會(であ)ふと、先づ挨拶(あいさつ)が、
「如何です、近頃(ちかごろ)は好(い)いお化(ば)けにあひませんか」といふのだ。
どうかすると、だしぬけに、
「こないだ四谷通(よつやどほ)りで、お岩さまにお目にかかりましたよ」なんて云ひ出す、まさか、あんたによろしくと云ひましたとは云はないが、眞劍(しんけん)なんだから不思議だ。
「お岩さま、あの時は大分(だいぶ)御(ご)きげんがよござんしたよ。ちよつとお瘠(や)せになつたかとは思ひましたがね」
[やぶちゃん注:「川尻淸潭」(明治九(一八七六)年~昭和二九(一九五四)年)は演劇評論家。三木竹二主宰の雑誌『歌舞伎』に「型」の記録や芸談を寄稿、後、『演芸画報』などに執筆した。大正十四(一九二五)年には東京歌舞伎座監事室室長となっている。東京出身。商業素修学校卒。名は義豊。著作に「楽屋風呂」等がある。
「鹿鹽秋菊」前者の実弟で彼と同じく演劇評論家で、俳人でもあったらしい。本名は蕉吉。雑誌『歌舞伎新報』を復刊して盛り立てた。]
幽靈の肥(ふと)つたなんざおかしな話なんだが、鹿鹽秋菊氏を除(のぞ)いて、私の知人中の怪談好きは、喜多村綠郞[やぶちゃん注:「きたむらろくらう」。]氏だらう。一頃(ころ)、怪談會などいふものを二三度、喜多村氏と一緖(しよ)になつてやつた事がある。喜多村氏自身の經驗談もしばしば聞いた。京都のインクラインで、卷込(まきこ)まれた水死人が、水を逆上(さかのぼ)つて、妙なところに現はれた話などは、喜多村氏の話上手(はなしじやうず)につり込まれて、何度聞いてもゾツとする。
[やぶちゃん注:「喜多村綠郞」新派の女形俳優初代喜多村緑郎(明治四(一八七一)年~昭和三六(一九六一)年)。水谷八重子に女形の芸を伝授して没した。泉鏡花や久保田万太郎と親交があり、ハイカラな文化人でもあった。著書に「芸道礼讃」・「わが芸談」等がある。]
怪談に出會(でつくわ)した經驗(けいけん)の多い人に坂東のしほ君がゐる。少しひまでもつくつて聞いえゐようものなら、三時間ぐらゐ立てつづけに話して、まだ盡(つ)きないといふくらゐ、而(しか)もそれが皆、自分に關した實說(じつせつ)なんだから愉快だ。
[やぶちゃん注:「坂東のしほ」四代目坂東秀調(明治三四(一九〇一)年~昭和六〇・平成元(一九八五)年)。三代目の養子で、「坂東のしほ」は舞踊家としての名取。]
その中で、一番秀逸は、のしほ君が鶴見(つるみ)の花月園で、椿茶屋(つばきぢやや)といふ貸席(かしせき)をしてゐる頃のこと、この椿茶屋に大入道(おほにふだう)が現はれるといふ話。
[やぶちゃん注:「鶴見の花月園」現在の鶴見花月園公園附近。]
はじめ障子に朦朧(もうろう)たるかげがうつる。それが、見る見る中にはつきりして、後には鴨居にとどくほどの大入道になつて、それから影法師(かげばふし)の儘(まゝ)、座敷の中に入つて來るのださうだ。
はじめに出會(でつくわ)した時は、すぐにも逃(に)げ出(だ)さうと思つたが、でも、あんまり度々出られると、ちつとも怖(こは)いと思はなかつた。
しまひには、出る日と出ない日の豫想(よさう)がつくくらゐになつたといふ。
椿茶屋(つばきぢやや)がやりきれなくなつて、のしほ一家は見じめな退却(たいきやく)をする日が來た。荷物はすつかり運(はこ)んで、最後に家人が引上げようとしたらひどい土砂(どしや)ぶり、止(や)むを得(え)ず、今一夜そこに泊(とま)らうとしたが蒲團(ふとん)がない。花月園の事務所へ借(か)りに行つたら、ありませんからと古ぼけた緋毛氈(ひもうせん)を貸してくれた。それにくるまつて、いよいよ更(ふ)けまさる秋の夜の雨を聽(き)きながら、
「ああ、坂東(ばんとう[やぶちゃん注:ママ。])のしほもここまで落ちぶれたら澤山(たくさん)だ、世の中に味方はひとりもない。せめてお馴染甲斐(なじみがひ)に大入道でも出れば好(い)いのに」
と、愚痴(ぐち)を云つた。[やぶちゃん注:行頭一字空けはママ。]
その言葉が切(き)れるか切れないかの刹那(せつな)、いつもよりもつとはつきり、もつと大きな大入道がニユツと現(あら)はれて、ひよこひよこひよこと目の前へ近(ちか)づいて來たといふ。居合(ゐあは)せた人全部(と云つても女ばかり三人)が、一塊(かたまり)なりになつて、キヤーツと叫(さけ)んださうだ。
一體、役者(やくしや)には怪談が多い。
樂屋(がくや)のつれつれ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]に、又は、旅興行(たびこうぎやう)のつれつれに、お互ひに出たら目を云つてゐるのが、自然とおもしろい話(はなし)にでつち上げられて了ふのかも知れない。
が、劇場(げきじやう)といふものに何となく凄味(すごみ)のある場所が多くて、自然話はそこへゆくのだらう。殊(こと)に地方の芝居小屋などと來たら、必らず、一ケ所や二ケ所、幽靈(いうれい)の出さうな場所を備(そな)へてゐないところはない。
便所、風呂場(ふろば)、チヨボ床の下、棧敷(さじき)のすみ等々、きつと薄暗くて、じめついてゐて、氣の弱い人は、なかなか一人ではよりつかれないやうなところがあるものだ。
[やぶちゃん注:「チヨボ床」(ちょぼゆか)は歌舞伎の義太夫狂言で、伴奏の竹本が舞台上手の上にある御簾の内で語るのが決まりで、そこを「チョボ床」と呼んだ。]
伊井蓉峯(いゐようほう)實見(じつけん)の幽靈といふのも凄(すご)かつた。
磐城の平の芝居ださうで、今はもう新築(しんちく)になつて元の姿(すがた)はないが、以前のは隨分(ずゐぶん)古(ふる)ぼけた芝居だつたさうな。
そこの湯殿(ゆどの)に、目も鼻もないのつぺらぼうの坊主あたまの老人(らうじん)が、逢魔(あふま)が時といふ時分に、必らず湯につかつてゐて、人が行くと、兩手(りやうて)にひろげた手拭(てぬぐひ)で、顏をぺろりと洗(あら)つて見せるといふのだ。
伊井は乘込んだ初日(しよにち)にそれを見た、まさか幽靈(いふれい)とは思はないし、湯(ゆ)けむりの中でのつぺらぼうの事も氣がつかず、只(たゞ)一圖(づ)に樂屋風呂の口あけを、薄汚(うすぎた)ないぢぢいに汚されたと思つて、座主(ざしゆ)をかんかんに叱りつけたといふ。
座主(ざしゆ)は平あやまりにあやまつて、其場は濟(す)んだが、二十年目に、再(ふたゝ)び、この芝居へ伊井が來た時、始めてのつぺらぼうの話を聞いて慄(ふる)へ上(あが)つたさうだ。これはあの眞面目(まじめ)な伊井の口から直接に聞いた話(はなし)だ。
[やぶちゃん注:「伊井蓉峯」(明治四(一八七一)年~昭和七(一九三二)年)は、発足間もない新派劇で活躍した俳優。本名は伊井申三郎。東京生まれ。詳しくは、当該ウィキを見られたい。]
水戶の狸(たぬき)といふ怪談も役者(やくしや)たちの間には有名な話で、水戶のある芝居(しばゐ)では夜半になると狸ばやしが始まる、テケテンテケテンとばかり、實におもしろくかすめたり、近(ちか)づけたりしてはやしたてるさうで、尤(もつと)も、これは只それだけの事、但し、いつでもやるんではない。こいつが聞(き)こえはじまると、必らず芝居は大入(おほいり)なのださうな。
市川紅若といふ老優(らういう)の出會(でくわ)した話は可(か)なり凄い。福島あたりだつたと思ふ、偶然(ぐうぜん)に昔馴染(むかしなじみ)の女とめぐりあつて、とある隱(かく)れ場所(ばしよ)で出あひをしてゐた。
[やぶちゃん注:「市川紅若」(いちかわこうじゃく 明治三(一八七〇)年~昭和一三(一九三八)年)は兵庫県生まれ。明治十七年、十五歳で、中村宗十郎の門人となり、千代松の名で中座で初舞台を踏む。明治二十五年に上京し、七代目市川団蔵の門人となり。翌年、中村源之助を市川紅若と改めた。明治二八(一八九五)年、春木座にて名題(なだい:名題役者のこと。名題看板に名前が載るような幹部級の役者を指す。明治までは「大名題」・「名題」・「名題下」・「間中上分」(あいちゅうかみぶん)・「間中」・「下立役」の五階級に分かれていた)に昇進、団蔵一座の花形として巡業した。明治四十四年九月に師の七代目団蔵が没した後は、主に初代中村吉右衛門一座に勤めた(主に日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」に拠った)。]
尤も芝居(しばゐ)がはねてからだから、相當(さうたう)遲(おそ)い時間、場所は地方によくある旅館料理屋(りよくわんれうりや)で、その晚は客が立てこんでゐたので、紅若たちはお藏(くら)の二階へ廻(まは)された。
夏のことで蚊帳(かや)が吊(つ)つてある。女は眠(ねむ)つてゐたが紅若は眠(ねむ)れなかつた。すると、蚊帳のすそに人の姿(すがた)があらはれて、おやと思つて見つめてゐると、それがずんずん伸(の)びて、蚊帳より高くなり、蚊帳の天井(てんじやう)へ折(を)り曲(まが)つて、丁度紅若の顏の上まで伸(の)びて來(き)た。ぐうもすうもいへず射(い)すくめられたやうになつてゐると、天井(てんじやう)の顏が紅若を充分(じうぶん)眺(なが)めてからニヤリと笑つて消えたといふのだ。
無論、紅若の若(わか)い時(とき)の話らしいが、今だにあの老人はこの話を滅多(めつた)に云はないさうだ。
天井の顏(かほ)といへば、宇治(うぢ)の菊屋には天井一盃おかめの面(めん)が現はれるといふ部屋があるさうだ。夫婦ものや、男同士又は女同士(をんなどうし)の泊(とま)り客の前(まへ)には決してあらはれない。人目を忍(しの)ぶ仲(なか)の男女が泊ると、必(かな)らずあらはれて、ニコニコと笑つて見せる。
まるでうそのやうな話だが、ある時、役者たちが多勢(おほぜい)ゐるところで、この噂(うはさ)をしたら、全くその通りです。現(げん)に私は見ましたと裏書(うらがき)をしたために、かくし事がばれたといふ。ユーモアがある。
今の吉右衞門の父親(ちゝおや)歌(か)六老人(らうじん)は、怪談のタネを譯山(たくさん)持(も)つてゐた。尤も、この老人も、いくらか怪談製造家の氣味(きみ)はあつたが。
[やぶちゃん注:「今の吉右衞門の父親歌六」初代中村吉右衛門の実父である三代目中村歌六(嘉永二(一八四九)年~大正八(一九一九)年)。]
大阪の北の新地(しんち)のあるお茶屋で、手水場(てうづば)へ行つて、手をあらひながら、もう何時(なんじ)だらうと云つたら、どこからともなく、モウ二時だよといふ聲が聞こえたといふ話(はなし)などは、多分歌六老人自作の怪談だらうと思(おも)はれる。
[やぶちゃん注:「大阪の北の新地」現在の大阪府大阪市北区梅田附近の江戸時代からの高級歓楽街。]
月の美くしい晚に、子守唄(こもりうた)をうたふ聲が聞こえる。今時分(いまじぶん)、だれがどこで唄(うた)つてゐるのだらうと思ひながら、座敷を廊下(らうか)へ出て見ると、廊下は雨戶(あまど)がしまつてゐた、併(しか)し、子守唄は雨戶の外卽ち中庭(なかには)のやうなところで唄(うた)つてゐるものと思はれた。
丁度雨戶に節穴(ふしあな)があつたので、外をのぞいて見ると、中庭の正面は笹藪(さゝやぶ)、それに靑い月の光がさしてゐて、廣々とした海(うみ)の底(そこ)を見るやうな景色(けしき)、その中庭の眞中に、黑髮をさばいた女が乳呑兒(ちのみご)を抱(だ)いて、うしろ向で唄つてゐるのだつた。
着物は浴衣(ゆかた)で白地に黑のはつきりした瓢簞(へうたん)か何かを散して[やぶちゃん注:「ちらして」。]あつて、黑髮(くろかみ)があまり美くしく月光にゆれてゐるし、姿(すがた)が惚(ほ)れ惚(ぼ)れするほど好(い)いので、どんなに美人だらう、顏が見たいなアと思つた途端(とたん)、女は節穴の方へくるりとふりむいて、只(たゞ)一言(こと)、覗(のぞ)いちやいけないと云(い)つたさうだ。
この話も、可(か)なり古く云ひ傳へられてゐるのだらうが、歌六老人からの又(ま)た聞(き)きでおぼえてゐる。
芝居に關(くわん)した怪談で、一番(ばん)有名(いうめい)なのは、先代萩の床下(ゆかした)の場(ば)で、仁木[やぶちゃん注:「にき」。]が天上したといふ話だ。
男之助[やぶちゃん注:「をとこのすけ」。]が鼠(ねづみ)を打つ、鼠がどろどろで花道のすつぽんへ入る、入(い)りかはつて、すつぽんの穴にムラムラと立ちのぼる掛煙硝(かけえんせう)のけむりと共に、印(いん)を結んだ仁木彈正がスースースーと上つて來る。
見物は一心(しん)に仁木を見つめてゐるのだが、仁木はいつまでもいつまでも上へ上へと伸(の)びてゆく、おやおやと思ふ中、仁木の身體(からだ)は芝居の天井(てんじやう)までとどいた。よう仁木の宙乘(ちうの)りだ、妙(めう)な芝居だ、一體誰(だ)れの型(かた)だらうと云つてゐる中、仁木は天井をつきぬけて、消(き)えてなくなつたといふ。これは話し方によつては凄(すご)い。ある田舍(いなか)まはりの役者(やうしや)に、この話を始めて聞いた時には總身(そうみ)の毛が逆立(さかだ)ちしたやうに思(おも)はれた。
[やぶちゃん注:「先代萩の床下の場」当該ウィキの「床下の場」を読まれたい。
「掛煙硝」「掛焰硝」とも書く。芝居で、化け物や忍者が現れたり、消えたりする場面に、ぱっと立ち上る煙。また、その仕掛け。樟脳の粉を入れた煙硝を、火の上にかけて、出す。]
いつぞや、實川延若君に逢(あ)つて此話をしたら、この怪談はこれだけが全部(ぜんぶ)ではなくて、前半に相當曲折(きよくせつ)があつておもしろいといふので、委(くは)しく聞く事が出來た、なるほど一篇の小說に出來てゐる。
[やぶちゃん注:「實川延若二代目」實川延若(じつかわえんじゃく 明治一〇(一八七七)年~昭和二六(一九五一)年)。大阪出身の歌舞伎役者。初代實川延若の長男として大阪難波新地に生まれた。なお、蘆江は彼を君付けしているが、蘆江より五つ年上である。]
甲州(かふしう)の小松屋怪談とか、井戶(ゐど)の中に、女が二人つながつて落ちた話、仁木の天上、等々はいづれ、小幡小平次などの怪談(くわいだん)と同樣、芝居道の人々の間に流布(るふ)した一種の怪談物語とでもいふのだらう。物語の筋(すぢ)に人情味(にんじやうみ)があつて、話のヤマが巧(たく)みに出來てゐて、聞く人をして手に汗(あせ)を握(にぎ)らせるやうなところがある。
[やぶちゃん注:「甲州の小松屋怪談」不詳。識者の御教授を乞う。
「井戶の中に、女が二人つながつて落ちた話」不詳。同前。
「小幡小平次」私の「耳囊 卷之九 小はた小平次事實の事」、及び、「耳囊 卷之四 戲場者爲怪死の事」、また、最も新しい私の記事『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「小幡小平次」』を参照されたい。]
かうした話を皆まとめて、物語風怪談(ものがたりふうくわいだん)といふ一册(さつ)をつくつて置きたいなど思つた事もある。
人魂(ひとだま)といふものは實際(じつさい)にあるらしい、それを見たといふ人にも隨分(ずゐぶん)出逢(であ)つてゐるが、幽靈や、おばけけなんてものは、さう無造作(むざうさ)には出ないものだ。
大抵(たいてい)は話の中に花が咲(さ)いて、それをくりかへす中に、相當(さうたう)實(み)のある話になつて了(しま)ふんではないかと思ふ。
曾てこんな事(こと)があつた。
都新聞に入社(にふ)して四五年目の頃、同僚(どうれう)の伊藤みはるといふ男が死んだ。生粹(きつすゐ)の江戶つ子で、すべてに齒切(はぎ)れの好(い)い男だつたが、中途でへんに固(かた)くるしくなり、酒も女もやめて了(しま)つた。それがある日、突然、品川へあそびに行かうぢやないかと云(い)ひ出(だ)したので、こいつは稀有(けう)な事だ、よし行かうと賛成(さんせい)したのが長谷川伸と私。
萬事(ばんじ)、伊藤任せで、日どりもゆく先もきめたが、いよいよ明後日(あさつて)といふ日に伊藤は腦溢血(なういつけつ)で死んだ。
全(まつた)くだしぬけなので、品川(しながは)ゆきも何もない、長谷川と私が葬儀委員(さうぎゐいん)になつてあと始末(しまつ)や、供養(くやう)にとりかかつた。
あいつ、生(い)きて居つたら、今頃は、この家へ上り込んで、引(ひき)つけに坐(すは)つた時分だつけなアと云ひながら、偶然(ぐうぜん)にも定めの目の定めの時刻(じこく)に、かねて名ざした娼樓(うち)の前を、長谷川と私は通(とほ)つたのだつた。
伊藤の住居(すまゐ[やぶちゃん注:ママ。])は品川淺間臺にあつたのだから葬儀(さうぎ)や、通夜(つや)の打合せをして、一先づ我家へ引取らうとした私たちが、丁度(ちやうど)その時刻に品川の遊廓町(いうくわくまち)を通つたのは當(あた)り前(まへ)だが、何となくへんな氣がした。
つれは二人の外(ほあ)にTといふ人がゐた。
伊藤は思(おも)ひを殘(のこ)して死んでゐるんだから供養(くやう)の爲めに、三人で上らう、おれが伊藤の代(かは)りになつてやるよとTは云(い)つた。
で、三人である家へ上ると、不思議(ふしぎ)といへば云はれる事が次から次に起(おこ)つて來る。先づ座蒲團(ざぶとん)が四枚出る、盃(さかづき)が四人分ならべられる、花魁(おいらん)が四人やつて來て、その中の一人は、徹頭徹尾(てつとうてつび)ものをいはずに、フイと立(た)つて消(き)えて了(しま)ふ、といふ風だつた。
伊藤の幽靈(いうれい)がついて來てゐたんだらうと三人は笑(わら)つたが、笑ひ切れない後日話(ごじつばなし)がある。
たしか初七日の晚(ばん)だつた、又、同じところを通りかかつたので、伊藤追善會(いとうついぜんくわい)をもう一度しようかなんて冗談(じようだん)まじりどやどやと同じ樓(うち)へ入らうとしたら、門前に半みすがかかつて、忌中(きちう)の紙が貼つてあり、家内からは盛(さか)んな香(かう)のけむりが漾(たゞよ)つてゐた。時が時なので、ぞつとするほどの驚ろき、もしや前日の無言(むごん)のおいらんが頓死(とんし)したのではないかと思つたら、それはさうでなく、その樓の家人(かじん)であつたといふ。
こんな事(こと)が人の口から口へ云ひ傳へられて、あるひは純然(じゆんぜん)たる怪談(くわいだん)になり、三人のそばに朦朧(もうらう[やぶちゃん注:ママ。])と伊藤の姿(すがた)が見えてゐたなどいふ事になるのではないかなど、あとで噂(うはさ)をした事であつた。
[やぶちゃん注:「都新聞に入社(にふ)して四五年目の頃」「都新聞」明治から昭和にかけて発行された新聞。明治一七(一八八四)年に夕刊紙『今日新聞』として創刊されたが、同二十一年に『みやこ新聞』に、翌年には『都新聞』と改題し、朝刊紙となった。芸能、特に文芸や演劇関係の記事に特徴があったが、昭和一七(一九四二)年、『国民新聞』と合併して『東京新聞』となった。蘆江は満洲放浪に後、帰国して、明治末、『都新聞』の記者となり、花柳演芸欄を担当していた。
「長谷川伸」(明治一七(一八八四)年~昭和三八(一九六三)年)は小説家・劇作家。横浜市生まれ。本名は伸二郎。四歳の時、実母と別れ、その思慕の情が、戯曲「瞼(まぶた)の母」(昭和五(一九三〇)年)に結晶している。小学校を中退し、煙草屋の丁稚、土建屋の使い走り、撒水夫などを転々し、その後、『毎朝新聞』を経て、『都新聞』に勤め、大正六(一九一七)年頃から、「長谷川芋生(いもお)」「山野芋作(やまのいもお)」などの筆名で雑報や小説を発表した。大正一二(一九二三)年の「天正殺人鬼」で認められ、さらに翌年、「夜もすがら検校」を書いて、短編作家としてスタートした。大衆演芸にも早くから関心を示し、「瞼の母」・「沓掛時次郎」(昭和三(一九二八)年)・「一本刀土俵入」(昭和六(一九三一)年)等を上演、上映された劇作品は実に百六十七編に上ぼる。作風は庶民性によって裏打ちされた堅実なものが大部分で、股旅物の第一人者となった。後、次第に史伝物に傾斜し、「荒木又右衛門」・「上杉太平記」・「江戸幕末志」(出版に際して『「相楽総三(さがらそうぞう)とその同志』に改題)・「日本捕虜志」・「日本敵(かたき)討ち異相」等を纏めた。捕虜志や敵討ち研究は彼のライフ・ワークであり、その姿勢に一つの世界観が示されている。昭和三七(一九六二)年、「朝日文化賞」を受賞した。『新鷹会』(しんようかい)の中心として大衆文学の新人育成に当たり、村上元三・山手樹一郎(きいちろう)・山岡荘八らを輩出した。没後、遺言により、蔵書と著作権を基に『財団法人新鷹会』が設置され、『長谷川伸賞』も制定されている(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「品川淺間臺」現在の品川区南品川のこの附近。
「品川の遊廓町」現在の北品川のこの附近。]
女郞屋には一體(たい)怪談(くわいだん)が多い。
左團次の弟子某から聞いた話に、ある時、吉原の小見世(こみせ)へあそんだ、部屋へ入つて、女(をんな)のまはつて來るのを待(ま)つてゐると、やがて廊下(らうか)に草履(ざうり)の音がする、來たなと思つたので狸寢入(たぬきねい)りをしてしてゐたら、女は障子(しやうじ)をあけ、二三度聲をかけたあとで、屛風(びやうぶ)ごしにのぞき込んで、お前さん、寢(ね)てゐるのなら、あとでゆつくり來ますよと云(い)ひ捨(す)てて立ち去つた。
某(ばう)は、しまつたと思つたが、あとのまつり、たつた今女が覗(のぞ)き込(こ)んで去(さ)つた屛風を空しく見つめて、チッ、薄情(はくじやう)ものと云つたが、よくよく考へれば合點(がてん)のゆかぬ話だ、屛風といふのは六曲屛風で、屛風の高さは鴨居(かもゐ)まで屆(とゞ)くほどだのに、覗き込んだ女は、胸(むね)から上をありありと屛風の上にとび出してゐたのだ、それを男は薄目(うすめ)をあきながら、見てゐたのだから、不思議(ふしぎ)とも何とも云ひやうがない。鴨居(かもゐ)から上ヘ胸(むね)までのぞかせられるやうな、そんなべら棒(ぼう)もなく背(せ)の高(たか)い女がある筈(はづ)がないと思ひはじめると、俄(にはか)にゾツと怖氣立(おぢけだ)つて飛び起きさま逃(に)げ出(だ)してかへつたといふ。
これなどは怪談の中(うち)でも、一寸(ちよつと)類(るゐ)のかはつた怪談で、それに出逢(であ)つた時は何とも思はず、あとで考へてゾツとするといふ落語(らくご)ならば考へ落ちといふ奴だ。
[やぶちゃん注:「左團次」二代目市川左團次(明治一三(一八八〇)年~昭和一五(一九四〇)年)。]
私たちは、怪談會といふものをしばしば催(もよほ)した事を前に云つた。
ところが、怪談會をやる度(たび)に人が死ぬといふ慣例(くわんれい)がくりかへされた事がある。其中一番(ばん)凄(すご)い死に方は、京橋の畫博堂といふ書畫屋(しよぐわや)が、營業宣傳(えいげふせんでん)の爲めにやつた怪談會の時で、當日(たうじつ)飛(と)び入(い)りでやつて來た會員の一人が、怪談をはなしてゐる中に、顏色蒼白(がんしょくさうはく)となり、ふらふらと立ち上つたがその儘(まゝ)あの世の人となつた事がある。そこに立ち會つた人は喜多村綠郞氏(きたむらろくらうし)や、鈴木鼓村氏、それに泉鏡花氏(いづみきやうくわし)などもゐられたので、死んだ人といふのは、萬朝報[やぶちゃん注:「よろづてうほう」。]社の事務員だつた。
話しをはじめる時、この話をすると、覿面(てきめん)に祟(たゝ)りがあるといふのですが、皆樣のはなしを聞いてゐる中(うち)に、私も何か云つて見たくなりましたから、思(おも)ひ切つてお話(はな)しいたしますと、前置(まへおき[やぶちゃん注:底本では、ルビは「まへお」のみ。脱字と断じて、特異的に訂した。])をしただけに凄みが一層はげしかつたのだ。
其時以來、泉鏡花氏などは、怪談會は好(す)きだが、なるだけ凄味(すごみ)をつけないやうに、そして怖(こは)がらせをしないやうにして會をやつてもらひたいなどと、むづかしい注文(ちうもん)を出したくらゐだ。
[やぶちゃん注:「鈴木鼓村」(こそん 明治八(一八七五)年~昭和六(一九三一)年)は箏曲家で日本画家。宮城県生まれ。本名は映雄(てるお)。陸軍時代に箏曲・洋楽を学んだ。高安月郊・与謝野鉄幹夫妻らと交流し、新体詩に作曲して『新箏曲』を提唱し、京極流を名のった。日本音楽史に詳しく、晩年は大和絵『古土佐』に専念した。別号に那智俊宣(なちとしのぶ)。著作に「日本音楽の話」、作曲に「紅梅」等がある(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。
「萬朝報」新聞。明治二五(一八九二)年十一月一日、黒岩涙香が創刊した日刊新聞。第三面に社会記事を派手に取り扱い、「三面記事」の語を生んだ。内村鑑三・幸徳秋水らも在社し、労働・社会運動に関心を示し、日露開戦に反対したことで知られる。涙香の論説や翻訳小説で人気を集めた。昭和一五(一九四〇)年『東京毎夕新聞』に合併して廃刊となった。]
私が世話人(せわにん)になつて井の頭翠紅亭(すゐこうてい)でやつた時も、不思議な事があつた。吉原(よしはら)の丸子といふ藝者が、幇間や藝者を誘(さそ)つて吉原を出たのが夕刻(ゆふこく)の六時、夏の六時だからまだ明(あか)るかった。その頃はまだ澤山(たくさん)はなかつた自動車に乘つて井の頭まで一直線(ちよくせん)にやつて來たので、吉祥寺の踏切(ふみきり)へ來てもまだ明(あか)るかつたさうだ。
で、踏切で汽車の通過(つうくわ)するのを待ちながら、丁度そばに赤ン坊の守(もり)をしてゐた老人(らうじん)に、翠紅亭への道を聞いた。
老人といふのが問題(もんだい)で、赤いほうづき提灯(ちやうちん)をぶらさげて、子供をあやしてゐたさうだが、丁寧(ていねい)に敎(をし)へてくれたので、その通りに自動車を運轉(うんてん)すると、翠紅亭へは出ずに、元(もと)の踏切へ出る、と又例の老人(らうじん)が立つてゐる、又聞く、又敎へられる、と、又(また)元(もと)のところへといふ風に、三遍(べん)くりかへして漸(やうや)く翠紅亭へ辿(たど)りついたのが、午前三時だつた。
踏切から翠紅亭(すゐこうてい)までたつた四五丁ぐらゐの道のりなんだが、それを自動車で七時間餘もかかつたといふのだから妙(めう)な話だつた。
鼠色浴衣(ねずみいろゆかた)で子供を負つて、赤(あか)い頬(ほう)づき提灯(ちやうちん)をぶらさげた老人、それが何遍(なんべん)でも、同じ態度(たいど)で道を敎(をし)へてくれる、その通りに行くと、ぐるりとまはつて元(もと)の道(みち)へ出(で)るといふのだから、而(しか)も五分とかからない道に七時間(じかん)もかかつたのだから、翠紅亭へついてから、丸子(まるこ)の一行は身慄(みぶる)ひをして顏色(かほいろ)をかへてゐた。
その丸子は、その後十日目に大震災(だいしんさい)で死んだのだが。
三萬圓とか記入した貯金帳(ちよきんちやう)を帶にはさんで、花園池(はなぞのいけ)で死んでゐたといふのだ。一時は名妓(めいぎ)と立てられた名物女(めいぶつをんな)だつたが。
[やぶちゃん注:「井の頭翠紅亭」現在の都立井の頭恩賜公園内にあった料亭。
「その後十日目に大震災で死んだ」とあるので、この怪談会は、大正一二(一九二三)年八月二十二日から二十三日未明に行われたことになろうか。この、丸子奴の話、如何にも哀れである。]
通りがかりに道を尋(たづ)ねるといふ怪談(くわいだん)は類(るゐ)が多い。大村嘉代子女史の體驗(たいけん)といふのを、何かで讀んだ時に、隨分(ずゐぶん)凄(すご)いと思つたが、昔の怪談にもこんな類(るゐ)がある、私の記憶(きおく)に殘つてゐる中の一番凄いのは、芝(しば)の札(ふだ)の辻(つぢ)で、すれちがつた女が侍に道を聞いた。聞かれる儘(まま)に敎(をし)へた侍が、何の氣なしにすれちがつてうしろを見たら、向(むか)ふもふりむいたさうだが、その時、女は目も鼻(はな)も口(くち)もない、卵に髮を結(ゆ)はしたやうな姿(すがた)の好(い)い女だつたといふので、侍は腰(こし)をぬかしたといふ話。その女もやはり赤ン坊を負(おぶ)つてゐたさうだ。
[やぶちゃん注:「大村嘉代子女史」(明治一七(一八八四)年~昭和二八(一九五三)年) は劇作家。群馬県生まれ。日本女子大卒。岡本綺堂に師事し、大正九(一九二〇)年、「みだれ金春」で評価を得る。『新演芸』などで劇評も手がけた。作品は「たそがれ集」。「水調集」等に収められてある。]
大震災(だいしんさい)といへば、あの時も隨分いろいろな怪談(くわいだん)がいひふらされた。被服廠(ひふくしやう)のあとに人魂(ひとだま)が出るとか、子供の泣聲(なきごゑ)がするとか、自分の死んでゐる場所を近親(きんしん)に知らせる爲めに幽靈(いうれい)がやつて來たとか。
[やぶちゃん注:「被服廠」旧陸軍被服廠。現在の東京都墨田区横網にあったが、この年、王子区(現在の北区)赤羽台に移転した後、公園化工事が行われていた。震災時、ここに避難した人だけで、実に三万八千名が巨大な火災旋風で亡くなった。詳しくは、ウィキの「横網町公園」を見られたい。]
聞いてゐる間は、矢先(やさき)が矢先なので、大抵(たいて)の人はぞつとしたものだが、程經(ほどへ)て、よくよく考へ見ると、大抵(たいてい)はつくり話である。
其證據には、其後、三陸の海嘯(つなみ)の時も凾館(はこだて)の大火の時も、同巧異曲(どうこういきょく)の怪談が、その土地土地の人によつて語(かた)り傳(つた)へられるので知れる。
[やぶちゃん注:「三陸の海嘯(つなみ)」「明治三陸地震」。明治二九(一八九六)年六月十五日午後七時三十二分、岩手県上閉伊郡釜石町(現在の釜石市)の東方沖二百キロメートルの三陸沖を震源として起こった地震。マグニチュード8.2~8.5の巨大地震で、さらに、当時の本州での観測史上最高の遡上高だった海抜三十八・二メートルを記録する大津波が発生し、甚大な被害を与えた(当該ウィキに拠った)。
「凾館(はこだて)の大火」「函館大火」。北海道函館市で昭和九(一九三四)年三月二十一日に発生した大規模火災。死者二千百六十六名、焼損棟数一万千百五棟を数える大惨事となった。参照した当該ウィキを見られたい。]
こんな話は、一體(たい)だれがつくつて、だれがいひはじめるのか、昔(むかし)のはやり歌と同じで、驚ろくべき創作(さうさく)といはねばならぬ。
さうしたつくり話の中の一二をあげて見(み)よう。
被服廠(ひふくしやう)に近いところに救護所(きうごしよ)が出來た。そこに三三人の救護員がつめてゐると、夜の三時頃、天幕(てんと)の外で、すみませんが水を一杯飮まして下さいませんかといふ聲(こゑ)がする。アイよと答(こた)へて外へ出ようとすると、外(そと)の聲は更(さら)に、實は多勢居るんですから、手桶(てをけ)に一杯下さいましといふ。
で、どんな人が、どんな風(ふう)にして來かかつてゐるものとも知(し)らず、兎(と)に角(かく)手桶(てをけ)一杯の水を汲(く)んで天幕(てんと)の外へ出ると、だれもゐない。只(たゞ)、眞暗な中に夜風(よかぜ)がひえひえと吹いてゐるばかり。而(しか)もどういふわけとも知れぬ陰慘(いんざん)な氣分がひしくひしと四面を壓迫(あつぱく)して來るので、思はずゾツとして、手桶をおつぽり出したまま救護員(きうごゐん)は中へ入る。と、間もなく外では、ぢやぶぢやぶと水(みづ)を汲(く)んだりこぼしたりする音が聞こえる。ざわざわと人の犇(ひし)めく聲(こゑ)もする。
やがて、ありがたうございましたといふ聲と共(とも)にあとはしんとなるので、そつと出(で)て見(み)ると、誰(だ)れもゐない、空(から)の手桶(てをけ)のみが殘つて、そのまはりには水がびちやびちやこぼれてゐた。
こんな事が、每晚(まいばん)つづくので、しまひには人聲がしなくても、その時刻(じこく)になると、天幕の外(そと)に水を出しておいてやる事にしたが、いつも、手桶(てをけ)はからになつてゐたといふのだ。
大震災のあとで、この事をはじめて聞いた私は、凄(すご)い話だと思つてゐたら、其後(そのご)凾館(はこだて)の大火で燒(や)け出(だ)されて來た人も、同じ話をしてゐた。只(たゞ)ちがつてゐるのは、救護所が交番(かうばん)に、手桶がバケツに、救護員が巡査(じゆんさ)にかはつてゐるだけである。
もう一つは、屍骸(しがい)の澤山ゐるところに人魂(ひとだま)がふはりふはりととんで、時折(ときをり)助(たす)けてくれ助けてくれと叫(さけ)ぶ聲がするといふのだ。あまりにもその噂(うはさ)が高くなつたので、警察(けいさつ)でも打棄(うつちや)つておけず、巡査が六人づれで人魂探檢(ひとだまたんけん)をすると、なるほど鈍(にぶ)い光(ひか)りがぽかりぽかりと屍骸(しがい)の上にゆれはじめた。六人の巡査は手をつなぎ合はして、人魂を追(おつ)かけると、どうしたものか人魂がパツと消(き)えた。尤もその前(まへ)から消えたりついたりはしてゐたさうだ。
ところがこの時(とき)は、消えたばかりでなく若い女の姿(すがた)が、人魂(ひとだま)のそばをふわふわ[やぶちゃん注:ママ。底本では後半は踊り字「〱」。]と浮いて見えたさうだ。それも人魂と共(とも)に消(き)えたのだといふ。
ソレツといふので、見當(けんたう)をつけてそばへゆくと、むしろをかぶせた屍骸(しがい)ばかりで、何の異狀(いじやう)もない。ぢつ見つめてゐるとたん、屍骸(しがい)にかぶせたむしろがムクムクと動(うご)いた。
巡査たちは勇を鼓(こ)してむしろをひきめくつたら、そこには若い女が屍骸の中にまぎれて寢(ね)ころがつてゐた。
なぜそんなところにゐるんだと引起(ひきおこ)すと、女は御ゆるし下さい御ゆるし下さいと泣(な)いて訴(うつた)ヘる、よくよくしらべて見たら、この女は、屍骸の口に殘つた入齒(いれば)の金や、指環(ゆびわ)の類時計の類を盜(ぬす)む女盜[やぶちゃん注:「ぢよたう」。]だつたといふ話。
これが凾館(はこだて)の大火の時にも、そつくりその儘(まま)、實話として傳(つた)へられた。をかしい事には、この話のあとに必らず云(い)ひ添(そ)へる言葉がある。
若い女のくせに、むごい事をするぢやありませんか、指環(ゆびわ)なんぞぬけにくいものですから、指ごと切つて取つて、風呂敷(ふろしき)にくるんでゐたさうです。警察ではその儘留置場へはふり込(こ)んだといひますが、まだしらべは濟まないさうです、ですけど、あまりにも無慘(むざん)な仕方(しかた)なので、新聞記事も差止(さしと)めてあるんださうですよ。と、かういふ風(ふう)にいふんだ。
あまりにも殘酷(ざんこく)だから新聞には出させないといふ文句(もんく)の絡まつてゐる事は、當然(たうぜん)、この話がつくり話だといふ事を裏書(うらがき)してゐるのだから愉快だ。
こんな風(ふう)にして書いてゐると、際限(さいげん)はないが、兎もあれ、人の口から口へ傳(つた)へられる怪談といふものは、一人が一人へ話(はな)す度(たび)に、いろいろな訂正(ていせい)が加へられ、尾ひれがついて、おもひがけなく面白(おもしろ)い話になるものだと思ふ。
[やぶちゃん注:以上を以って「蘆江怪談集」は終っている。
以下、ペンディングしていた「目次」を示す。底本のここから。但し、リーダとページ・ナンバーは省略した。字間はそれとなく似せただけで、正確な再現ではない。「表紙繪・題字 … … … …平 山 蘆 江」は「怪異雜記」の「記」の字の左中央位置から始まっているが、ブラウザの不具合を考えて、引き上げた。]
蘆 江 怪 談 集 目 次
序 … … 妖 怪 七 首
お 岩 伊 右 衞 門
空 家 さ が し
靑 眉 毛
[やぶちゃん注:頭に「怪談」がないのはママ。]
二 十 六 夜 待
火 焰 つ つ じ
鈴 鹿 峠 の 雨
天 井 の 怪
惡 業 地 藏
縛 ら れ 塚
う ら 二 階
投 丁 半
[やぶちゃん注:「投げ」でないのはママ。]
大 島 怪 談
✕ ✕ ✕
怪 異 雜 記
表紙繪・題字 … … … …平 山 蘆 江
[やぶちゃん注:以下、奥附。全体を上下を有意に空けて、中央に二重罫線で囲み、そのまた中央に罫線を上下に挟んで「蘆江怪談集」が右から左に太字で示されてある。この裏に同書店から刊行された「平山蘆江先生名著五種」と題した広告があるが、省略する。上段・中段・下段の順に電子化した。ポイント・字間・行空けはそれとなく合わせただけで、再現していない。]
《上段》
本 書 定價一圓貳拾錢[やぶちゃん注:右端。]
岡 倉 書 房[やぶちゃん注:右端。]
《中段》
集 談 怪 江 蘆
《下段》
著 者 平 山 蘆 江
裝 幀 平 山 蘆 江
用紙提供 小 山 洋 紙 店
美術印刷 渥 美 堂
製 本 柏 谷 秀 二 郞
印 刷 所 東 京 市 牛 込 區
鷹 匠 町 八 番 地
高 木 活 版 所
印刷責任 高 木 文 之 助
發 行 者 岡 村 祐 之
發 行 所 東 京 市 神 田 區
淡路町貳丁目七番地
發 賣 岡 倉 書 房
振 替 東 京 貳五九參碁盤
印 刷 日 昭和九年七月二十六日
發 行 日 昭和九年七月三十一日
定 價 壹圓貳拾錢 送料十錢
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