譚海 卷之七 肥前長崎の女かめ鑄物妙工の事
[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。]
○肥前長崎に「かめ」といふは、鑄物(いもの)に高名(かうみやう)の婦人なり。
西國に諸侯の家に、龍のかたち、鑄(いり)たる香爐あり。名物の什器にて、祕藏せられしが、元來、二つ有りて、一對なりしに、いつの比(ころ)よりか、一つは失(うしなはれ)て所持せられしを、此諸侯、常に殘念に、おもはれ、兼て、「かめ」が錆ものに妙手(めうしゆ)なるを聞及(ききおよば)れ、わざわざ、使者をたてて、「かめ」に命ぜられ、
「此香爐の如く、鑄立(いりたて)て、一雙(いつさう)に成(なる)べきやいなや。」問はせられしかば、「かめ」、此香爐を見て、
「いかにも工夫を凝(こら)しなば、斯(かく)ごとく、鑄立ても、まゐらすべきものなれども、得と[やぶちゃん注:国立国会図書館本で補綴した。]日數(ひかず)をへて、よくよく見さだめ侍らざるうへならでは、成(なし)がたかるべし。」
と答ければ、使者、歸りて、其由を申(まふし)ければ、
「さらば一雙に成(なす)べき事ならんには、日數を費(つひや)さん事、いとふべきにあらず。」
とて、再び、「かめ」が方に件(くだん)の香爐をつかはし、尤(もつとも)什器なれば、片時(かたとき)も手ばなすべき物なられば、香爐持參せしものも、其まゝ、「かめ」が方に逗留して、目付(めつけ)に附居(つきをり)たり。
扨(さて)、「かめ」、此香爐を側(かたはら)にひらき置(おく)て、朝夕みる事、每日、怠らず、あながち、とりたてゝ見るとはなけれども、手にとりて見、又は、かたへに置(おき)ても見、寢ても見、ふしても、み、斜(なのめ)に、み、眞面(まとも)に見などして、行住座臥に、香爐を見つゝ、日をふる事、一月(ひとつき)あまりにも成(なり)ぬ。
此(この)附居たる男も、目付の役なれば、側にありて、片時、香爐を、はなるる事なかりしが、あまり退屈して、
「今は、はや、見給ひし日かずも、へぬ。いかに、こゝろに入(いり)たるにや。」
と、いひければ、「かめ」、
「成(なる)ほど、大槪は、日ごろ、見はべりしまゝ、心に得たる所も出來(いでき)ぬれど、なほ、今、しばし、見侍りて、よく、こゝろにうつしとりてぞ、鑄るべきやうも、定めはべらめ。」
とて、又、見る事、日かず、へたり。
やうやう、又、半月あまりをへて、ある日、「かめ」、此香爐を手にすゑて、緣先に出(いで)、日にむひて、立(たち)ながら見る事、ほどありて、いかゞしたりけん、此香爐を、庭の石にしたゝか擲(なげ)あてければ、あやまたず、香爐、微塵碎(くだけ)うせけり。
目付の男、是をみて、大(おひい)に、おどろき、いかり、
「かく日頃(ひごろ)、何のやうもなく、香爐、見る事とて、いたづらに、人をあざむき、かくのごとく、くだきつる事、不屆至極(ふどときしごく)なり。我等、目付に附置(つけおか)るゝ事も、大切の香爐の事ゆゑ、是まで滯留せしに、かく、くだきすてて、主人へ申譯(まふしわけ)なし、われら、切腹せん外(ほか)なし。しからば、其方も安穩(あんのん)にいたし差置(さしおき)がたし。」
と、甚(はなはだ)、せまりて、怒(いかり)ければ、「かめ」、申けるは、
「まつたく、おろそかにせし次第ならず。件の香爐は、相違(さうゐ)なく鑄立(いりた)て差上(さしあぐ)べし、それを持參ありて、若(もし)以前の物と相違あらば、其ときは、みづからが、首を切(きり)て、主人へ申譯にし給ふべし。先(まづ)、いかりを、やめて、鑄立(いりたつ)るを待(まち)給(たまふ)べし。」
と、いひければ、此目付、此詞(ことば)に、をれて、せんかたなく、渠(かれ)がするやうを、見居たりけり。
すなはち、「かめ」は、かへどりを、ぬぎすて、たすきをかけて、土を涅(でつ)し、香爐の「いがた」を、こしらへ、扨(さて)、「ふいご」にむかひ、かれを鎔(とか)し、火を吹(ふき)たて、精神を、はげまし、飮食をわすれて、こしらへければ、半日あまりのほどに、件の香爐、二つまで、出來(しゆつたい)したり。
[やぶちゃん注:「かへどり」は「かいどり」(「かきどり」の音変化)が正しく、「打掛小袖」のこと。着物の裾が地に引かないように、褄や裾を引き上げて着用する小袖を指す。
「土を涅(でつ)し」黒い土で黒色に染めて。]
其後(そののち)、藥(くすり)をかけ、磨(とぎ)を加へ、香爐一雙に造り終(をはり)て、目付の使者に與(あたへ)けるに、彼、什器の形と、毫釐(がうり)、たがふ所、なし。
まことに妙手の工に、おどろきけり。
此男、是をみて、大に悅び、いそぎ、持參して、主人へ奉(たてまつり)けるに、主人も、殊の外、喜悅ありて、「かめ」が妙手段を厚く賞謝せられたり。其後、「かめ」、人に物がたりけるは、
「彼(かの)香爐のまゝに、今一つ、こしらへいでんとしては、いかやうに鑄立ても、一雙に揃(そろ)ふ事は成(なり)がたきものなり。されば、よく、そのかたちを見置(みおき)て、こゝろに入(いれ)て、工夫、整(ととのひ)たる時、心にある形を、鑄(いる)形にして、造りたるゆゑ、一雙には、出來(でき)たるなり。なまじひに、彼(かの)香爐、殘りては、一雙に成(なし)がたき故、碎捨(くだきすて)たる事。」
と、いヘり。
[やぶちゃん注:とても素晴らしい話である。「かめ」女に、思わず、脱帽してしまう。而して、この女性は実在した人物で、朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に「亀女」として載り(コンマを読点に代えた)、『生没年不詳』で、『江戸時代後期の鋳金家。長崎の金物細工屋徳乗の娘。一説に津村氏とも。父の業を継いで唐物風の香炉を作った。豪放な性格で、貧困を厭わず、作品を予約する者があると』、『その予約金で』、『友人を招いて痛飲し、その後』、『制作に向かったという。黄銅製の鶉の香炉が多く伝わる。作品に「鶉香炉」(東京国立博物館蔵)がある』とあった。逢ってみたい粋な姐さんじゃないか!]
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