譚海 卷之九 寬政元年蝦夷一件の事 同斷事一件
[やぶちゃん注:これは前話をロケーションで冒頭でちょと受けている。]
○寬政元年六月晦日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一七八九年七月二十二日。]、土崎湊、松前船問屋神島淸九郞、領主へ書上候書面寫。
「當五月、松前の商人船(あきんどぶね)六、七艘、奧蝦夷(えぞ)「くなじり」[やぶちゃん注:国後(くなしり)島(グーグル・マップ・データ)。]へ參候處、船中、人數(にんず)、六、七十人無ㇾ殘(のこりなく)殺害(せつざい)に逢(あひ)候内、壹人、炊手(かしぎて)[やぶちゃん注:賄い役。]、毒矢にあたり候へ共(ども)、綿入二つ、着(き)いたし候ゆゑ、裏、かき不ㇾ申候。一本の矢は、腕を摺付(すりつけ)られ候(さふらふ)て、這々(はうはう)、遁(のが)れ、山陰へ𢌞り、「命、助(たすけ)くれ候。」やうに、「えぞ」へ賴(たのみ)候ところ、腕の肉を剜(えぐ)り、藥[やぶちゃん注:底本では「藥」の前に編者補正注で『(毒)』とある。]を付(つけ)、潛(ひそか)に、舟にのせ、突(つき)ながし候處、松前丸金の舟へ、行逢(ゆきあひ)、便船(びんせん)賴(たのみ)候て、松前へかへり、右の次第申上候由。右一亂の起(おこり)は、松前飛驒屋と申(まふす)問屋より、年々、米、遣(つかは)して、「にしん」十束に、米壹俵、取替(とりかへ)候處、「蝦夷地、一兩年、魚物(うをもの)、不獵ゆゑ、七束と、取替くれるやう。」に申候處、承引不ㇾ仕(つかまつらず)候より、事、起(おこり)候由。松前より、「えぞ地」へわたりし舟には、松前の役人、ふね一艘に、一人づつ乘參(のりまゐり)候、是又、殺害に逢候由、承候。右亂、起(おこり)候に付、江差へ參候、「山吹」と申(まふす)舟、半途にて、うけたまはり、とつてかへり候由。越後より參候舟二艘も、「くなじり」へ參候。是はいかゞ相成候哉(あひなりさふらふや)しれ不ㇾ申候。「くなじり」と申(まふす)は、五、六島、支配致候由。頭(かしら)、蝦夷、平生、慈愛有ㇾ之候て、人柄もよろしく候。其弟、「えぞとびがうゑん」と申者、暴惡に候由。其上、五、六年以前、赤人(あかひと)より、浪人、「ゑぞ」壹人、參居候。是と、はかり候て、此度(このたび)の一亂を、おこし候由。尤(もつとも)、赤人、「くなじり」、山、壹(ひとつ)隔(へだて)て、近所のよし。高麗へも近き所の由。松前より、「くなじり」へ、海上四百里御座候。松前樣より、江戶へ、御伺(おんうかがひ)被ㇾ成候由。松前へ、先年より、「御味方えぞ」と申もの、有ㇾ之候。是へ被二仰付壱一、專ら、和談の御取扱有ㇾ之候由。右一亂、有ㇾ之、今、以(もつて)、鎭(しづま)り不レ申候得共(まふさずそうらえども)、遠方の事故(ことゆゑ)、舟、さしつかはし可ㇾ申候由、松前問屋より、私方へ書狀到來仕候。「くなじり」、赤人などの「えぞ」は、梵字の如き文字、有ㇾ之、通用致候。「くなじり」へ、松前の舟、入津(にふしん)いたし候所、常には、「えぞ」ども、出迎(いでむかへ)、陸ヘあげ候。此度は、「鯨(くじら)、切(きり)に參候。」とて、壹人も參り不ㇾ申候。不意に松前船ヘ押寄(おしより)、毒矢を射懸(いかけ)、或は、打殺(うちころ)し、壹人も殘らず、殺害に逢候由。
右の通(とほり)、六月始(はじめ)、津輕より參候、船頭、物語に御座候。猶、くはしき事は追々可二申上一候。」
[やぶちゃん注:「松前丸金」不詳。松前の屋号「丸金」ということか。]
右の物語には、「えぞ」、夜に乘じ、「女えぞ」に、竹のさきへ、「かぎ」を付(つけ)たる物をもたせ、其あとに、「男ゑぞ」は、數多(あまた)、付(つき)したがひ、船中へ押入(おしいり)、竹の鉤(かぎ)にて、寢たる人の夜具を、引(ひき)とらせ候を合圖に、毒矢を射懸、皆ごろしにして、其後日、本人は、
「藥を服すれば、よみかへるぞ。」
とて、ことごとく、死人の眼精(がんせい)[やぶちゃん注:目玉。]を、「女えぞ」に、くじり出(いだ)させ、其まゝ、死骸をば、鱠(なます)のごとくに、切りたり、とぞ。
又、一說に、「えぞ」の海邊(うみべ)には、松前候より、ことごとく、番所を、たてて、番を居置(をりおきく)事なるに、「くなじり」より、おしわたり、ちかき海邊の番人を、百五、六十人を、皆、ころしたりと、いへり。七月下旬、公儀より津輕侯へも、松前加勢の仰渡(おほせわたし)ありて、松前より、一左右(いつさう)次第[やぶちゃん注:「ある問題・事態などに対処するための指示」が着き次第。]、早速、打手に向ふべき由、御下知なり。其後(そののち)、先(まづ)、松前の役人ばかり、軍船二艘にて、「くなじり」へ向ひたりしが、事(こと)、和陸に成(なり)て歸船せし由。右の以前迄は、「くなじり」、騷動に付(つき)、松前へ、わたりたる商人(あきんど)の分(ぶん)は、殘らず、船留(ふなどめ)にて歸鄕する事、不ㇾ叶(かなはず)、追々(おひおひ)、軍(いくさ)のやうす次第、留置(とどめお)きたる人をも、討手(うつて)の中に遣(つかは)さるべき荒增(あらまし)などと、沙汰せしなり。十月にいたり、「くなじり」の大將の母、
「松前の恩に年來(ねんらい)預りし事故(ゆゑ)、此度(このたび)、背(そむき)ては、本意(ほい)ならず。」
とて、張本の内、八人、同道して、松前へ來り詫(わび)ければ、母をば、結構に馳走ありて逗留せられ、八人の「えぞ」をば、ことごとく殺(ころし)て、松前の濱邊に梟首(けうしゆ)せられ、一件、無事に成(なり)たり、とぞ。
此はゝは、百七十歲に成(なり)たると、いへり。誠成(まことなる)にや、いかゞ。
[やぶちゃん注:何とも凄絶な話であるが、これは「クナシリ・メナシの戦い」と言う。当該ウィキによれば、『国後・目梨の戦いと表記されることもある』とし、この寛政元年に『東蝦夷地(北海道東部、道東)で起きたアイヌの蜂起。事件当時は「寛政蝦夷蜂起」または「寛政蝦夷の乱」と呼ばれた』として、『松前藩の』「新羅之記録」には、元和元(一六一五)年から元和七年『頃、メナシ地方(現在の北海道目梨郡羅臼町、標津町周辺)の蝦夷(アイヌ)が』、百『隻近い舟に鷲の羽やラッコの毛皮などを積み、松前でウィマム』(脚注にアイヌの言葉で『藩主や役人にお目見えすること』とある)『し献上したとの記録がある。また』、正保元(一六四四)年に『「正保御国絵図」が作成された』際、『松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など』三十九『の島々が描かれ』、正徳五(一七一五)年には、『松前藩主は江戸幕府に対し』、『「十州島、唐太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告』している。享保一六(一七三一)には、『国後・択捉の首長らが松前藩主を訪ね献上品を贈っている』。宝暦四(一七五四)年には、『道東アイヌの領域の最東端では、松前藩家臣の知行地として国後島のほか』、『択捉島や得撫島』(うるっぷとう)『を含む』「クナシリ場所」が『開かれ、国後島の泊』(とまり:大泊のことか)『には交易の拠点および藩の出先機関として運上屋が置かれていた。運上屋では住民の撫育政策としてオムシャ』(当該ウィキを参照)『なども行われた』。安永二(一七七三)年には、『商人』飛驒屋が、『クナシリ場所での交易を請け負うようになり』、天明八(一七八八)年には、『大規模な〆粕の製造を開始すると』、『その労働力としてアイヌを雇うようになる。〆粕とは、魚を茹でたのち、魚油を搾りだした滓を乾燥させて作った肥料。主に鰊が原料とされるが、クナシリでは鮭』や『鱒が使用された。漁場の様子については北海道におけるニシン漁史も参照』。『一方、アイヌの蜂起があった以前から』、寛永二〇(一六四三)年には、『オランダ東インド会社の探検船「カストリクム号」が択捉島と得撫島を発見、厚岸湾』(あっけしわん)『に寄港、北方からはロシアが北千島(占守郡や新知郡)』、『即ち』、『千島アイヌの領域まで南進しており、江戸幕府はこれに対抗して』、天明四(一七八四)年から、『蝦夷地の調査を行い』、二年後の天明六年になると、『得撫島までの千島列島を最上徳内に踏査させていた。千島アイヌは北千島において抵抗するも、ロシア人に武力制圧された上』、『毛皮税などの重税を課され、経済的に苦しめられていた。一部の千島アイヌはロシアから逃れるために、道東アイヌの領域の得撫島や択捉島などに南下した。これら千島アイヌの報告によって』、『日本側もロシアが北千島に侵出している現状を察知し、北方警固の重要性を説いた』工藤平助の「赤蝦夷風説考」(私が多数の電子化注を行っている只野真葛の父)等が『著された』。而して、この寛政元年、「クナシリ場所」『請負人』であった飛驒屋との『商取引や』、『労働環境に不満を持った』「クナシリ場所」(=国後郡)の『アイヌが、クナシリ惣乙名ツキノエの留守中に蜂起し、商人や商船を襲い』、『和人を殺害した。蜂起をよびかけた中でネモロ場所メナシのアイヌもこれに応じて、和人商人を襲った。松前藩が鎮圧に赴き、また、アイヌの乙名たちも説得に当たり』、『蜂起した者たちは投降、蜂起の中心となったアイヌは処刑された。蜂起に消極的なアイヌに一部の和人が保護された例もあるが、この騒動で和人』七十一『人が犠牲となった。松前藩は、鎮定直後に』飛驒屋の『責任を問い』、『場所請負人の権利を剥奪、その後の交易を新たな場所請負人』として『阿部屋村山伝兵衛に請け負わせた。一方、幕府は、寛政』三年から四年にかけて、「クナシリ場所」や「ソウヤ場所」で『「御救交易」を行った。ロシア使節アダム・ラクスマンが通商を求めて根室に来航したのは、騒動からわずか』三『年後の寛政』四(一七九二)『年のことである』。『事件から』十『年を経た』寛政一一(一七九九)年に『東蝦夷地(北海道太平洋岸および千島)が、続いて』、文化四(一八〇七)年には、『和人地』及び『西蝦夷地(北海道日本海岸・樺太(後の北蝦夷地)・オホーツク海岸)も公議御料となった』。『北見方面南部への和人(シサム・シャモ)の本格的な進出が始まったのは』、『この蜂起の後、江戸幕府が蝦夷地を公議御料として、蝦夷地への和人の定住の制限を緩和してからである。幕府はアイヌの蜂起の原因が、経済的な苦境に立たされているものであると理解し、場所請負制も幕府直轄とした。このことにより、アイヌの経済的な環境は幾分』、『改善された。しかし、これはアイヌが、和人の経済体制に完全に組み込まれたことも意味していた』。『幕末の弘化元から同二年(一八四五年~一八四六)年に『知床地方を訪れた松浦武四郎が』文久三(一八六三)年に『出版した』「知床日誌」に『よると、アイヌ女性が年頃になると』、『クナシリに遣られ、そこで漁師達の慰み物になったという。また、人妻は』、『会所で番人達の妾にされ、男性は夫役のため離島で』五『年も』十『年も酷使され、独身者は妻帯も難しかったとされる』。『また、幕末に箱館奉行が種痘を行い』、『対策を講じたものの、和人がもたらした天然痘などの感染症が猛威をふるい、本格的にアイヌ人の人口を減少させた。その結果』、文化四(一八〇四)年に二万三千七百九十七人と把握されていた人口『(江戸時代の日本の人口統計も参照)が』、明治六(一八七三)年には一万八千六百三十人に『減ってしまった。アイヌの人口減少は』、『それ以降も進み、北見地方全体で』明治一三(一八八〇)年に九百五十五『人いたアイヌ人口は』、十一年後の明治二十四年には三百八十一人にまで『減った』。後の明治四五(一九一二)年五月(二ケ月後に「大正」に改元)、『納沙布岬の近くの珸瑤瑁(ごようまい)の砂浜に埋まっている墓碑が発見された。表面に』「橫死七十一人之墓」、『横面に』。「文化九年年歲在壬申四月建之」、『裏面には漢文で事件の経緯が刻まれていた。文化九年は西暦』一八一二『年である。墓碑は現在納沙布岬の傍らに建てられており』「寛政の蜂起和人殉難墓碑」の『名称で根室市の指定史跡となっている』とある。]