譚海 卷之八 薩州ゑのころ飯の事
○薩摩にては、狗(いぬ)の子を、とりえて、腹を剖(さき)、臓腑をとり出(いだ)し、其跡を、よくよく、水にて、あらひすまして後(のち)、米を、かしぎて、腹内(はらうち)へ納(いれ)、針金にて、堅(かたく)くゝり封じて、其儘、竃(かまど)の焚火(たくひ)に押入(おしいれ)、燒(やく)なり。
始(はじめ)は燒兼(やけかぬ)るやうなれども、しばらくあれば、狗の膏(あぶら)、火に和(わ)して、よく焚(やけ)て眞黑になる。其時、引出(ひきだ)し、針金を、とき、腹を、ひらき見れば、納置(をさめおき)たる米、よく蒸(むれ)て飯(めし)と成(なる)。其色、黃赤(きあか)なり。
それを、そば切料理にて、汁をかけて、食す。
味、甚(はなはだ)、美なり、とぞ。
是を、方言には「ゑのころ飯」といふ、よし。
高貴の人、食するのみならず、さつま侯へも進む。但(ただし)、侯の食に充(あつ)るは、赤犬ばかりを用(もちひ)る事と、いへり。
[やぶちゃん注:ウィキの「犬食文化」を参照されたいが、「日本」項は、時代別に考証されて詳しく、この話と同じ内容で、『薩摩にはエノコロメシ(犬ころ飯)という犬の腹を割いて米を入れ蒸し焼きにする料理法が伝わっていた』とある。但し、そのソースは大田南畝の随筆「一話一言補遺」中の「薩摩にて狗を食する事」である。そこにも原文が示されているが(漢字が新字体)、国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(『蜀山人全集』卷五(明治四一(一九〇八)年吉川弘文館刊))で、当該部を視認も出来るが、実は、その南畝の文章は、一字一句、本文と全く同じなのである。二人は同時代人だが、津村の方が十三年上であり、「譚海」が書かれたのは、寛政七(一七九五)年で、「一話一言補遺」は文化年間(一八〇四年~一八一八年)の記事まで記載されていることから、この南畝のものは、私は、この「譚海」からそのまま抽出したものと断定出来る。
因みに、私は犬を食べたことは、ない。が、私の連れ合いは、南京大学で日本語教師をした際、女性の学生たちを招いてパーティを開いた折り、中国東北部出身の学生が、この時のために送ってきた赤犬の肉を料理してくれ、食べている。連れ合いは食には五月蠅く、どちらかと言えば、潔癖な方だが、特異的に、はっきりと「とても美味しかった!」と後に語っている。
「そば切料理」蕎麦料理膳の宛ての一品とするの意味か。或いは、鹿児島の霧島地方には「そばずい」という太い蕎麦に、野菜や鶏を油で炒めてから煮込んだ粘度の高い汁を入れた郷土料理があるので、「汁をかけて、食す」というのと、よく合う。]