譚海 卷の九 羽州秋田獵家士北畠信雄公の事
○同所[やぶちゃん注:前話を受ける。]、城下より十六里北に、天瀨川と云(いふ)所、有(あり)。そこに、古墳、ひとつ、有。
是は、北畠信雄(きたばたけのぶかつ)の墓なる、よし。
信雄公、豐臣太闇の時、出羽に配流ありしが、
「こゝにて、薨(こう)ぜられける。」
と、いひつたふ。
此所に、しげりたる、はやし、有(あり)。
「例年、正月十六日の夜は、林中に音樂の聲(こゑ)、聞ゆる。」
よし、其地の人、物がたりぬ。
いかなる事にや、あやしき事なり、とぞ。
[やぶちゃん注:「北畠信雄」信長の次男織田信雄/北畠信意(のぶかつ/のぶお/きたばたけのぶおき 永禄元(一五五八)年~寛永七(一六三〇)年)。底本の竹内利美氏の後注に、『織田信雄。信長の次子、伊勢国司となり』、『北畠姓を名告る。秀吉の追放にあって、那須に移され、さらに、天正十九年』(これは天正一八(一五九〇)年の誤りか)『秋田実季の領内に配流された。しかし文禄元年には伊勢に移されている』(ここも現在の知られる事績とは異なる)。『そのため、秋田県山本郡琴丘町天瀬川』(現在は正式には秋田県山本郡三種町(みたねちょう)天瀬川(あませがわ:グーグル・マップ・データ)である)『は信雄配流の地と伝え、そこの古墳をその墓に擬することもあったのだ。「真澄遊覧記」には、そこを「のぶこ畠」と呼んでいたとある』とある。現行での事績は当該ウィキが詳しいが、それによれば、彼は寛永七(一六三〇)年四月三十日に、『京都北野邸で死去』し、『享年』七十三とあり、『織田家の菩提寺である紫野大徳寺の総見院に葬られたが、上野国甘楽郡小幡(現群馬県甘楽郡甘楽町)の崇福寺に分骨され』、『奈良県宇陀市室生の室生寺にも織田信雄の遺骨を分骨した織田廟がある』。『室生寺は』、『もともと北畠国司家の廟があった北畠家所領の寺である。また、滋賀県近江八幡市の摠見寺にも信雄の供養塔がある』とある。]