フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 僕の愛する「にゃん」
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 譚海 卷の九 羽州秋田獵家士北畠信雄公の事 | トップページ | 譚海 卷之九 備前侯山莊結構の事 »

2024/02/24

譚海 卷の九 奥州南部けふの細布の事

○南部けふの郡(こほり)に、黑田角兵衞といふ者、有(あり)。此ものの家に、いにしへの「細ぬの」の製を、つたへて、今に織出(をりいだ)すなり。あきもの[やぶちゃん注:「商物」。商品として売る物品。]にせず、所望する人あれば、織(おり)て、あたふるなり。

「價(あたひ)、銀三十匁ほどを、一端に、かふ。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「南部竹ふの郡」底本の竹内利美氏の後注に、『秋田県鹿角郡』(かづのぐん)『毛馬内』(現在の鹿角市十和田毛馬内(けまない)・十和田岡田十和田瀬田石(せたいし)に相当する。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)『地方。「けふのせばぬの」は歌枕としても有名で、錦木塚』(にしきぎづか)『の伝説と結合してもいる。白鳥の毛をまぜた幅の狭い布といわれ、古くは陸奥の貢物であったという。ケフは地名ではないが、後にはこの布の産地と解されるようになったらしい。現十和田町毛馬内の下古川の黒沢氏の家には、その細布を穏蔵している。麻布で、真澄遊覧記には当時も時々織るとしるしている(天明五年)。この黒田角兵衛は、黒沢兵之丞であろう』とある。錦木塚は、鹿角市十和田錦木稲生田(とわだにしきぎいなおいだ)にある塚で、当該ウィキによれば、『能や謡曲の「錦木」、また能因法師の歌「錦木はたてなからこそ朽にけれ けふの細布むねあはしとや」などの歌枕「錦木塚」として全国に知られている。世阿弥の謡曲「錦木」によって世に広がった。近世ではこの地は「歌枕の地」とされており、菅江真澄や古川古松軒および松浦武四郎がそれを記録しているほか、幕府巡見使がここに巡見所を設け、地元民に塚の縁起を聞き、細布の献上をしている』。「錦木塚物語」『はこの地に伝わる伝承物語で』、『昔、鹿角が狭布(きょう)の里と呼ばれていた頃、狭名(さな)の大海(おおみ)という人に政子姫というたいへん美しい娘がいた。政子は布を織ることが巧みだった。東に』二『里ほど離れた大湯草木集落』(秋田県鹿角市十和田草木(とわだくさぎ))『(三湖伝説の八郎太郎』(ウィキの「三湖伝説」を参照されたい)『もこの地が出身だと言われている)に錦木を売り買いしている若者がいた。錦木は楓木(かえでのき)、酸木(すのき)、かば桜、まきの木、苦木(にがき)の五種の木をひとつの束にしたもので、男が女の家の門前に錦木を立てて、家の中に招かれると女と気持ちが通じたものとする風習があった。ある日、政子姫の姿を見て心を動かされた若者は、錦木を一束姫の家の門に立てた。若者は来る日も来る日も錦木を立てたが門が開かれることはなかった』。『政子姫は子供をさらう大ワシを退けるため、鳥の毛をまぜた布を』三『年』三ヶ『月の願をかけて織り続けていた。このため若者の気持ちにこたえることができなかった。錦木があと一束で千束になるという日、若者は門前に降り積もった雪に埋もれ亡くなっていた』。二、三『日後』、『姫もあとを追うように亡くなった。姫の父の大海はこれを悲しみ』、二『人を千束の錦木と共に手厚く葬った。この墓は「錦木塚」と呼ばれるようになった』とある。

「一端」「一反」。着物一着分。幅が約三十六~三十八センチ、長さ十二メートル以上。]

« 譚海 卷の九 羽州秋田獵家士北畠信雄公の事 | トップページ | 譚海 卷之九 備前侯山莊結構の事 »