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2024/02/01

「蘆江怪談集」 「二十六夜待」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本の本文開始位置はここ。「二十六夜待(にじふろくやまち)」は、江戸時代、陰暦一月と七月の二十六日の夜に月(下弦の月)の出る(「月の出」を待って拝むこと。月光の中に彌陀・観音・勢至の三尊の姿が現われるとされ、高輪から品川辺りにかけて、盛んに行なわれた。多くは「七月」のそれを指し、単に「六夜待」とも言う。冒頭に「今から六十年も前の話」とあるので、刊行時から機械計算すると、明治七(一八七四)年となる。既に西暦が採用されているが、西暦の当日(「前日」とあるので七月二十五~二十六日)の「月の出」は午後二時四十分で、シークエンスと全く合わない。されば、ここは陰暦で言っていると判断できるので、旧暦換算すると、同年六月十三~十四日に当たり、「月の出」は〇時十五分でピッタリである。

 

 

    

 

 

          

 

 二十六夜(や)の前の晚といふのですから、隨分(ずゐぶん)暑(あつ)い時分の事です、薩摩邸(さつまてい)の御用を承(うけたま)はつてゐる松原新五郞といふ人が、品川宿(しながはじゆく)の送り茶屋田中家といふ家(うち)で一杯(ぱい)やって居りました。もう今から六十年も前の話(はなし)です。六十年前の薩摩邸と云つたら、羽振(はぶり)のよいものの骨頂(こつちやう)でしたから、自然其の邸のお出入なら、松原新五郞さんの威勢(ゐせい)も大したものです。おきくといふ深(ふか)い馴染(なじみ)の女に家を持たして、品川に見世(みせ)を出させたのが、この田中家(たなかや)ですから、つまり新五郞さんは今自分の家で飮(の)んでるも同然(どうぜん)なのです。海近い二階の廣間を開(あ)け放(はな)して、お臺場(だいば)から吹きさらしの風をうけて、品川中の景氣(けいき)を一人で背負(せお)つた心持になつて、全盛を極(きは)めて居りますと、この田中家の裏木戶(うらきど)あたりで「やあ、心中(しんじう)だい、心中だい、心中が流(なが)れて來たアイ」と犇(ひし)めき立つ人の聲がしました。「妙(めう)な事を云つてるぢやねえか、誰れか見て來ねえ」と云ひながら、廊下(らうか)に便々(べんべん)たる[やぶちゃん注:太って腹が出ているさま。太鼓腹であるさま。]肌(はだ)を寬(くつろ)げて大安座(おほあぐら)になってゐた新五郞が、不圖(ふと)、櫺子(れんじ)[やぶちゃん注:竹などの細い材を、縦又は横に一定の間隔を置いて、窓や欄間に取り付けたもののこと。]から外を眺(なが)めると、櫺子の下は頃しも上(あ)げ汐(しほ)の事ですから、滿々(まんまん)たる水がぽちやりぽちやりと波打(なみう)つてゐます。それへもう澄(す)み切(き)つた下弦(かげん)の月が低(ひく)くうつろつて、波がしらがきらきらと光(ひか)る、其の波のはづれ、自分が見下した櫺子(れんじ)の眞下(ました)のところへ、成程(なるほど)心中(しんじう)ででもありませう。二つの屍骸(しがい)が、ぴつたりくつついた儘(まゝ)、ふはりふはりと流れついてゐます。

「成る程本當の心中だ。可愛(かあい)さうに、どこから流れて來たのか知らねえが、こゝヘ流(なが)れ着(つ)くのも因緣事(いんねんごと)だらう。葬(はうむ)つてやりてえが、今と云つちや手が付けられめえ、それとも何(なん)とかなるかえ」と幇間(たいこもち)に聞きますと、幇間の新(しん)八が、

「さうでござんすね。この上(あ)げ汐(しほ)で、流れ着いた場所が場所ですから、一寸(ちよつと)弄(いじ)りにくうござんすね」

「さうか、ぢや仕樣(しやう)がねえ」と新五郞さんは屍骸(しがい)をぢつと見下してゐましたが、

「お前も緣(えん)があつて來たんだらうから、私に始末(しまつ)をさしてくれ。其の淺間(あさま)しい姿を隱(かく)して貰(もら)ひたかつたら、何處へも行きなさんなよ」と、云ひ聞かせるともなく獨(ひと)り言(ごと)を云ひました。と同時に波(なみ)がざぶりと來て、二つの屍骸(しがい)が一ゆりゆつたかと思ふ死骸は波にさらはれたのか、見えなくなつて了(しま)ひました。

[やぶちゃん注:「田中家」「海近い二階の廣間を開け放して、お臺場から吹きさらしの風をうけて」「品川」以上と最後のシークエンスから、「田中家」は現在の高輪・東品川附近の海岸端にあると考えてよい。現在では干拓が有意に行われているので、「ひなたGPS」の戦前の地図を見られたい。]

 

         

 

 翌(あく)る朝(あさ)になりますと、一旦波に隱(かく)れたかと思つた心中ものの屍骸(しがい)は、波にも風にもさらはれず田中家の家の臺石(だいいし)に引かかつた儘、腰(こし)から上は陸へ上つて居ります。

「心中が引(ひつ)かかつてるよう」といふ聲が又、近所の者の口から口へ傳(つた)はりました。

「成る程、緣(えん)があつたんだと見える。引上げて見ねえ、何か持物(もちもの)を調(しら)べて、若し何處の者だか手がかりでもあつたら、送(おく)り屆(とゞ)けさせよう」と新五郞は、自分(じぶん)で下へ下りて見ました。屍骸は二人とも同じやうに白無垢(しろむく)を着て、二人の胴中(どうなか)を赤い扱帶(しごき)でしつかりと結(ゆは)えてあります。立派な覺悟(かくご)の死裝束(しにしやうぞく)ですから、袂(たもと)にも懷(ふところ)にも名前の手がかりさへありません。加之(おまけ)に幾日の間か水の中を浮きつ沈(しづ)みつしてゐた爲めか、二人が二人とも目鼻口(めはなくち)のあともなく、只のつぺらぼうの顏になってゐるので人相を推量(すいりやう)する事さへ出來ません。

「何にも手がかりはございませんね」と賴(たの)まれて屍骸(しがい)を引上げた町の若いものが云ふので、新五郞も一寸(ちよつと)困(こま)つたが、

「ぢや仕方(しかた)がねえ。折角家の前へ流れ着いたものを、彼方此方(あつちこつち)持步(もちある)いちや可愛さうだから家の橫手の空地(あきち)へそうつと埋(う)めといてやんなせえ」とそれぞれ差圖をして、二つの屍骸を一緖(しよ)の棺(くわん)に入れて、田中家の橫手(よこて)の空地へ埋め、其處へ印(しるし)のものを樹(た)てて坊主(ばうず)を呼んで來てお經(きやう)を一卷上げてやりました。

「死ななくつても濟(す)んだらうに好(い)い若(わか)い者を可愛(かあい)さうな事をした」と新五郞は一寸ひよんな氣(き)になりました。其夜(そのよ)は前にも云ふ二十六夜の當夜(たうや)ですから、田中家で月待(つきまち)をすれば申し分はないし前(まへ)の晚(ばん)から其のつもりで、末社(まつしや)[やぶちゃん注:「幇間」の異名。]どもをも呼び集めてあつたのですが、新五郞どうしても、心持(こゝろもち)が引立たない。心中塚(しんぢうづか)のお經(きやう)が濟むと直ぐに、高輪の駕籠を呼んで、ぶらりと何處へか舁(かつ)がして行きました。

「俺(おら)あ何處かで心持を直して來るから、若(も)し連中(れんぢう)が來たら、俺に構(かま)はず、飮まして遊ばしといてやんな。張出(はりだ)しの座敷で月待なら頂上だから、其の中氣持が直つたら、俺(おれ)も歸(かへ)つて來るか知れねえ」と云ひ置いたので、田中家(たなかや)では二十六日のお晝時分(ひるじぶん)から末社どもばかりで、頭[やぶちゃん注:「かしら」。]ぬきの散財(さんざい)が始まりました。新五郞さんだつて氣(き)づまりな人ではありませんが、それさへ居(ゐ)ないとなると末社どもこゝを先途(せんど)と大噪(おほはしや)ぎの有樣です。

 末(ひつじ)の下刻(げこく)といふのですから、今の午後三時頃です。餘(あま)り騷(さわ)いで、騷ぎ氣臥(きづか)れた藝者のお粂(くめ)が、張出しの端先(はなさき)へ出て酒にほてる顏を濱風(はまかぜ)に吹かせながら、お臺場(だいば)の沖(おき)を見渡さうとすると、羽田沖の方から同じ大きさの舟が何れも二挺櫓(ちやうろ)を立てて、やつしやつしと漕(こ)いで來ます。あとからあとからと都合五隻(せき)を數(かぞ)へました。[やぶちゃん注:「羽田沖」現在の東京国際空港附近(ひなたGPS)。]

「何處へ急ぐ舟なんだらう、大變な勢(いき)ほひだねえ」と獨り言を云ひ云ひ、見るともなしに見てゐると、五隻の舟はずんずん近よつて、この張出しの側(そば)まで來ました。

 「おやおやここへ着(つ)くのか知ら」と思ふ中に張出しの前を通(とほ)りぬけて、芝浦(しばうら)の方ヘ入らうとしましたが、又(また)何時(いつ)とはなしに五隻の舳(へさき)が向きかはつて、矢張り田中家の裏手(うらて)へ戾(もど)つて來る、田中家へ着くのかと思ふと、又(また)沖(おき)へ出る、沖へ出るかと思ふと戾(もど)つて來ると云ふ風に、掛聲(かけごゑ)と威勢(ゐせい)ばかりは大したもんですが、舟はいつまでもいつまでも同(おな)じ處(ところ)をぐるぐると𢌞(まは)つてゐるばかりです。

「どうしたといふんだらうね、一寸(ちよつと)お仲(なか)さんあの舟は一體何だらう」とお粂(くめ)が不審(ふしん)を打ち出したのを始(はじ)めとして、張出(はりだ)しにゐた五六人が一同に、その舟(ふね)を見ましたが、舟は相變(あひかは)らず田中家のうら手を中心(ちうしん)にして、只(たゞ)一つところを五隻が𢌞(まは)つてゐるばかりです。

「成る程妙(めう)な舟だ、何の爲めに乘(の)りまはして居るんだらう」

「一體何處へ行く舟(ふね)だらう」

「妙(めう)な舟ぢやないか」といふ風に、張出しでは總立(そうだ)ちになつて騷(さわ)いでゐる。すると、舟の方でもよくよく持餘(もてあま)したと見えて、五隻に乘つた十人の舟子(ふなこ)が、もうぐたぐたに弱(よわ)つてゐるらしい、動(やゝ)もすれば櫓(ろ)は流されさうな有樣でしたが、到頭(たうとう)、漕(こ)ぐ手を止めて、一人二人がぼんやり立つて了ひました、と、あとの七八人も張合(はりあひ)なげに手をやめて、

「どうも驚ろいた、幾何(いくら)漕(こ)いでも、漕ぐ方へは行かねえで、ここの家(うち)へばつかり戾(もど)つて仕樣がねえ」

「迚も此上は俺達(おれたち)の力に了(を)へねえから、一先づここらで休(やす)まして貰(もら)はうぢやねえか」などと云ふ聲が張出しへも聞こえます。乘(の)つてる客もすつかり引締(ひきしま)つた顏になつて了つて、

「さうださうだ此上(このうへ)漕(こ)いでて、引くり返されでもしたら往生(わうじやう)だ、心中ものの行方を探(さが)しに來て、心中もののお供(とも)をするなア、餘り丁寧(ていねい)に過ぎらあ」

「此家は送(おく)り茶屋(ちやや)らしいから、一つここへ着けて暫(しば)らく休(やす)まして貰(もら)はうぢやねえか」などと云つて居ましたが、直(すぐ)に田中家の水門(すゐもん)へ、五隻の舟が着(つ)きました。

 どやどやと裏口から上つて來たのは、商家(しやうか)の手代(てだい)らしい人が七八人に、廓(くるわ)の若い衆[やぶちゃん注:「しゆ」。]やうなのが二三人、それに六十を越(こ)して見えるお婆(ばあ)さんが一人といふ顏觸(かほぶ)れです。

「私たちは探(さが)しものをする爲めに、四日前から舟を出して、房州沖(ぼうしうおき)までも乘りまはして來たもんだが、五日目の今日(けふ[やぶちゃん注:底本では、「けけ」。誤植と断じて特異的に訂した。])、ここまで來ると、この家の前で、舟(ふね)が五隻とも何うしたものか動(うご)かなくなつたから、まやかしに着(つ)かれたのかも知れません。少し氣を拔く間、休(やす)まして下さい」

 といふ口上ですから、サアサアと仔細(わけ)もなく、この裏口(うらぐち)からの客を二階(かい)へ通しました。其處で不圖(ふと)氣(き)がついたのはお粂(くめ)です。側に居た幇間(たいこもち)の新八の袖(そで)を一寸引きました。

[やぶちゃん注:「送り茶屋」吉原で言う「引手茶屋」(遊郭で客を遊女屋へ案内する茶屋)を、品川などでは「送り茶屋」と呼んだ。]

 

          

 

「あの舟は何(なに)か引寄(ひきよ)せるものがあるんぢやないかね、お前(まへ)さん、何う思ふへ」とお粂(くめ)が云ひますと、

「さうですねえ、殊(こと)によつたらさうかも知(し)れない。私は今一寸見當つけた事(こと)があるんで、實はいやな氣持(きもち)になってゐるところさ」

「いやな氣持(きもち)つて、あの一件ぢやないの」

「其通り其通り、旦那が今朝(けさ)埋(う)めておやりになつた心中ものでせう」

「さうよ。先刻(さつき)、舟を上る前に、心中者を探(さが)しに出たとか云つた事から考(かんが)へ合(あ)はせると、殊によったら、昨夜(ゆふべ)の心中者の幽靈(いうれい)が、その舟を引寄せてゐるんぢやあるまいか、と私は思(おも)ふのさ」

「姐(ねえ)さんも、さう思ひますか、兎(と)に角(かく)、あの人たちに知らしてやつて見ませう」

「さうした方(はう)が好(い)いわ」で、二人は直ぐに五隻(せき)の舟の乘手のところへ思つた儘(まゝ)を申し出して見ました。それと聞(き)くと、舟の連中(れんぢう)は橫手を打つて「成るほどそれに違えねえ、兎に角掘(ほ)り起(お)して貰つて見(み)よう」となつた。

 さあかうなると、田中家は又(また)しても一騷(さわ)ぎです。町役場(まちやくば)へ驅(か)け付けて、役人に立會を賴(たの)むものは賴む、人足(にんそく)を呼びに行く奴は行く、といふ風で、空地(あきち)に埋(う)められた二つの死骸(しがい)は又元の通りの姿で塚穴(つかあな)を出ました。例(れい)ののつぺらぼうで白裝束(しろしやうぞく)をした二つの死骸は、五隻の舟(ふね)の人たちに取り圍(かこ)まれて、いろいろに調(しら)べられたが、何しろ、顏はのつぺらぼうだし、持物(もちもの)は何もなくて、着物は白裝束、僅(わづ)かに見分けをつける目途(めあて)になるのは二人の身體(からだ)を結び合はした赤い扱帶(しごき)ですが、これとても無地の非縮緬[やぶちゃん注:ママ。「緋縮緬」の誤記か誤植。]、目印(めじるし)であつて目印の用を成(な)しません、尋(たづ)ねる死骸と定めてよいのか何だか全(まつた)く見當がつかない。

「困(こま)つたね」とばかり顏を見合せました。

「一體(たい)貴郞方(あなたがた)のお探(さが)しになる心中ものと云ふのは、何處の方です、決(けつ)して他言(たごん)はいたしませんから」と田中家の女將(おかみ)のおきくさんが尋(たづ)ねますと、舟に乘つてゐた人たちが、交(かは)る交(がは)る話しを始めました。

 

         

 

 吉原(よしはら)で玉屋といへば當時の大見世(おほみせ)です。其の玉屋のみつぎといふ花魁(をいらん[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])に初見世からの馴染(なじみ)で通ひつめたのが馬喰町(ばくろちやう[やぶちゃん注:同町はこうも呼んだ。])三丁目の和泉屋(いづみや)といふ砂糖問屋(さたうとんや)の若旦那で吉太郞と云ふ男、女も例(れい)の憎(にく)からず思つた末(すゑ)が、二人とも無理の仕放題(しはうだい)、揚句(あげく)には手も足も出なくなつたので心中と出かけて、丁度二十六夜(や)から七日前といふのだから、十九日の夜(よる)であらう。吉太郞が豫(か)ねて自分の家の出入の吳服屋に男ものと女ものと死裝束(しにしやうぞく)を仕立てさせ、それを持つて家出をしたので、廓(くるわ)を裲襠(しかけ)の儘で拔けて來た女と、吉野橋(よしのばし)[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。吉原の南東直近。江戸時代は「山谷橋」と呼んだが、明治二(千八百六十九)年の地区名改称で変更されている。]で落合つて、人目を忍び忍び、吾妻橋(あづまばし)[やぶちゃん注:ここ。]へ出た。彼れこれ夜も子(ね)の刻下(こくさがり)卽ち午前一時頃といふのだから、人通りも殆(ほと)んど絕(た)えてゐます、其吾妻橋の上で二人は白裝束(しろしやうぞく)に着かへました。男の縞(しま)の上布(じやうふ)、女は水色無地絹の長襦袢(ながじゆばん)に、露芝(つゆしば)[やぶちゃん注:中央の膨らんだ弧と、大小の点で、芝と露を表わした紋様。]の繡(ぬひ)をした藤色絹の裲襠(しかけ)を着て居りましたが、それを一まとめにして今まで、白裝束を包(つゝ)んであつた風呂敷(ふろしき)に丸め込みました。

[やぶちゃん注:「吉原」「玉屋」江戸新吉原江戸町一丁目の妓楼角の「玉屋」(「火焔玉屋」とも称した)。

「裲襠(しかけ)」「打ち掛け」に同じ。他の衣類の上から、打ち掛けて着るところから、着流しの重ね小袖の上に羽織って着る小袖。古く室町以降の武家女性の礼服で、夏季を除いて用いた小袖で、色は白・黒・赤を正式とし、紗綾(さや)か、綸子(りんず)の地に、金糸などで、総模様を差し縫いしてあるものを指した。羽織のようにうちかけて着るので「打掛」と呼ぶが、歩く際、裾をかいどるので「掻取(かいどり)」とも称した。江戸時代になると、富裕町人の婚礼衣装にも用いられ、また、遊女も「仕掛(しかけ)」と称して、道中着に用いた。貸衣装の普及とともに現代でも婚礼衣装として多く用いられるようになった(主に平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。]

「さあこれで、いつでも死(し)ねます」と女が男の顏を月かげに見上げますと、

「あ、心靜(こゝろしづ)かに死なうね、もつと此方(こつち)へお寄り」

「え、貴郞(あなた)、しつかり抱(だ)いて下さいな」と云ふ風に二人の身體(からだ)がぴつたり寄り添つた機(はぢみ)にこの橋下からのそりと現はれたのが、橋下(はしした)を定宿(ぢやうやど)にしてゐる乞食(こじき)の常公でした。橋の上で何やら人聲がすると思つて、顏(かほ)を上げて見たのですが、眞白の着物を着た人間が目の前に突立(つゝた)つてゐたのですから、野郞(やらう)驚(おど)ろいた。

「ワーツ」と頭を抱(かゝ)へて、其場へ腰(こし)を拔(ぬ)かして了つたので、此方の二人がそれと氣付(きづ)くと、不圖考(かんが)へ出した事があります。

「橋(はし)の下にゐる乞食だらう、よい事がある、二人の身體(からだ)をあの乞食の力で、しつかり結(ゆは)へさせやう、そして二人が抱(だ)き合(あ)つた儘(まゝ)、大川へ突落して貰(もら)はうではないか」

「やつてくれるでせうか」

「何有(ななに)金さへやれば、何でもしてくれる、ここに使(つか)ひ餘(あま)りが三兩二分ある、これとお前と私の着物をやつて賴んで見やう[やぶちゃん注:ママ。]」突差(つきざし)に極(き)めて「おいおい若いの、少し賴まれてくれないか」と呼(よ)びかけました。

 乞食(こじき)は腰(こし)をぬかした體(てい)で「へいへい、どうぞお助けなされて下さりませ」とおどおどしてゐるのを宥(なだ)めるやうにして吉太郞は側(そば)へ寄つた、そして片手に持つた三兩二分の金を金入(かねい)りぐるみ乞食の手へ渡(わた)しました。

 づつしりと手にこたへる金入れの重(おも)みに、乞食も少しは人心(ひとごゝろ)がついたらしい「何のお用でございますか」と云ふと、

「ここに扱帶(しごき)があるから、それで二人の身體(からだ)をしつかり結び合はしてくれないか」

「これで結(むす)ぶんですか、そして何(どう)なさらうと云ふのです」

「結び合はしたらね、お前の力で、二人を橋(はし)の上から突落(つきおと)しておくれ」

「えツ、橋(はし)の上から、冗談(じようだん)ぢやない、旦那、橋の下は大川ですぜ」

「大川は判(わか)つてるよ」

「大川へ突落したら死(し)にますよ」

「さうよ、死にたいから賴(たの)むのさ」

「死にたいから、そ、そ、そんな事が出來るもんで御座(ござ)いますか」

「出來ても出來なくつても賴(たの)むからやつておくれ、いやなら其金(そのかね)は返(かへ)してくれ、其金は持つた儘で私たちが勝手(かつて)に飛び込むまでの事さ」

「あ、あ、あ、氣(き)が早(はや)い、私が突落さなければ貴郞方(あなたがた)は勝手(かつて)に飛び込むといふんですか、それではお金までが水の泡(あは)になつて了ひますが」

「さうだよ、お前が呍(うん)と云つてくれれば、お金はお前の手に渡(わた)るんだ、その上、ここに是(こ)れだけの着物(きもの)があるが、これもお前にやらう、どうだね、賴(たの)まれてくれるかえ、いやなら、いやでも可(い)い」

 かう云はれると、乞食(こじき)の常公、一寸(ちよつと)迷(まよ)つてゐたが、

「ようがす、やりませう」と造作(ぞうさ)もなく引受けました。

「やつてくれるか、其れで私達(わたしたち)も安心した、ぢや直(す)ぐに持つてくれ、人の來ない中に早(はや)く早く」と吉太郞(きちたらう)はみつぎを引寄(ひきよ)せて、二人がにつこり笑ひながら抱(だ)き合(あ)ひました、常公はみつぎが出した緋(ひ)ちりめんの扱帶(しごき)で、二人の胴中(どうなか)をしつかりと結(ゆは)へてから、二人の顏を始めて見上げたさうですが、月の光を眞橫(まよこ)に受けて、二つの美くしい顏が、蠟(らう)のやうに透(す)き通(とほ)つてゐたと申します。

「おみさ、思(おも)ひ殘(のこ)す事はないかえ」

「何にもありません、吉さん、嬉(うれ)しく死にます、抱(だ)いた手を放さないで下さいまし」

 

「あ、放(はな)すものか、それぢや若いの、もう少し欄干(らんかん)の際(きは)まで行くから、思ひ切つて突飛(つきと)ばしておくれ」

 「ハイ、よ、よ、よろしうございます」と常公(つねこう)、今更(いまさら)になつておどおどしてゐます。

 

         

 

 かうして二人を大川(おほかは)へ突落した乞食は、翌日(よくじつ)すぐに女と男の着物を屑屋(くづや)に賣りました。それが間もなく馬道の(うまみち)の古着屋(ふるぎや)にぶら下つたので、手がかりとなりました、玉屋からと、和泉屋(いづみや)からと出た人數が、件(くだん)の通り五隻の舟に乘り別れて、先づ大川筋(おほかはすぢ)を芝浦(しばうら)沖へ下り、それから木更津(きさらづ)あたりから房州(ぼうしう)までも探し探し、五日に亘(わた)つて漕(こ)ぎ𢌞つたのですが、どうしても其れらしい屍骸は見當(みあた)りません。五目目といふのが、廿六夜待(やまち)の當日です、もうすつかり力を落して例(れい)の品川沖まで戾つて米ると、田中家の前で船がぐるぐる𢌞(まは)りを始(はじ)め、漕(こ)いでも漕いでも動かなくなつたといふ始末(しまつ)です。

「さういふ譯(わけ)でしたら、云ふまでもなく、この白裝束(しろしやうぞく)といひ、緋ぢりめんの扱帶(しごき)といひ、紛(まぎ)れもない尋(たづ)ぬるお方でせう」と女將(おかみ)のおきくが云ひますと、和泉屋の手代(てだい)は、

「え、元(もと)よりそれに相違(さうゐ)はないと思つては居ますが、何しろ二人が二人とも、この通(とほ)りのつぺらぼうの顏になつてゐるのですから、萬一同じやうな死態(しにざま)がありまして、それと取違(とりちが)へる事にでもなりましてはね」

「さあそれもさうですがね」と此樣事(こんなこと)を云ひ合つてゐる中に、舟に乘つた連中(れんぢう)の中の六十位の婆(ばあ)さんが堪らなくなつたやうにして、進み出ました、この婆さんといふのは卽ち花魁(をいらん)みつぎの實の母親です、つかつかと進むと、人々を兩方(りやうはう)へかき分けて、

「これ娘(むすめ)、どうぞ證據(しやうこ)を見せておくれ、若しお前が私の娘なら、これほどに親(おや)を迷(まよ)はせる事はあるまい、本當(ほんたう)に娘だつたのなら、どうぞ一目何か證據(しようこ)を見せておくれ、これ娘、それとも赤の他人か、さあどうだえどうだえ」と言つてる中に、もう氣(き)はそぞろになつて、白裝束(しろしやうぞく)の屍骸にすがりつくばかりになり、人目(ひとめ)も恥(は)ぢず泣(な)きました、すると不思議や、今が今まで、抱(だ)き合(あ)つてぐつたりと息(いき)を引取つてゐた、のつぺらぼうの二人の屍骸(しがい)の中、女の方の屍骸の顏が、氣の所爲(せい[やぶちゃん注:ママ。])でかむらむらとゆらめいた樣(やう)でしたが、のつぺらぼうの鼻と思はれるあたりから、タラタラタラと生々(なまなま)しい血が流れて來ました。

 お婆(ばあ)さんの樣子の哀(あは)れさは譬(たと)ふるに物もありません「娘か矢張り娘であつたか、ああ飛(と)んだ事をしてくれた、お前ばかり勝手(かつて)なところへ行つて、年(とし)を老(と)つた私はどうなると思ふのだえ、アヽ情(なさけ)ない事をしておくれだ」とばかり止(と)め途(ど)もなく、泣(な)き狂(くる)ひました。

 この上はこの屍骸(しがい)に何の疑(うた)がひもありません、探(さが)し舟(ぶね)を引寄せた事、血を見せて親子の知らせをした事、この二つを證據(しようこ)と認(みと)めて、お役人もこの死骸の引取りを許しました、が、ここに今一つ障(さは)りがあります。

 其頃の掟(おきて)として、かういふ變死人(へんしにん)の死骸は最初に假埋葬(かりまいさう)などをしてやつた人の許しを得なければお役人(やくにん)でさへも動かす事が出來ないのです、卽(すなは)ちかうなると一刻(こく)も早く、松原新五郞さんに立會つて貰(もら)はなければならぬといふ一埒(らち)なのです。

 元より其以前から幇間(たいこもち)の新八が、旦那の行方を探(さが)しに出てはゐるのですが、心當(こゝろあた)りを次から次にと尋(たづ)ねて𢌞(まは)つても、皆目(かいもく)行方(ゆくえ[やぶちゃん注:ママ。])が判りません、辿(たど)り辿つて吉原へ見當をつけ、かねて行きつけの茶屋(ちやや)三軒(げん)の中、二軒まで尋ねた時にはもう亥(ゐ)の刻(こく)過ぎ、卽ち夜の十時過ぎでありました。

「あとは長崎屋(ながさきや)一軒(けん)だな、ここにおいでがなかつたら、もう當(あた)りがつかないが、困(こま)つたもんだ」と獨(ひと)り言(ごと)を云ひ云ひ、草臥(くたび)れ切つて新八は、三軒目の茶屋の敷居(しきゐ)をまたぎました。

 

         

 

 心中の死骸(しがい)を見て、すつかり氣をくさらして了(しま)つた新五郞さんは、駕新(かごしん)の駕籠にゆられる間も氣持わるく一散(さん)に白魚河岸(しらうをがし)へ乘りつけさせました、そして荒木屋(あらきや)の二階で酒の力を借(か)りて氣を晴さうとしましたが、どうしても心(こゝろ)がさらりとなりません、日(ひ)の暮(く)れかゝつた時分に又してもこゝを出て柳橋(やなぎばし)へ行きました、場所をかへたらと思つたのですが、それでも心は晴(は)れません、只(たゞ)の半時も過ぎぬ中に、猪牙(ちよき)を山谷堀(さんやぼり)へ着けさせました、そして吉原の引手茶屋(ひきてぢやや)長崎屋(ながさきや)へ、へとへとになつた身體(からだ)を送り込まれ、どつしり御腰(みこし)を落付けて、追ひかけ追ひかけ茶碗酒(ちやわんざけ)をあふりました。藝者たちをどれほど叱(しか)りつけたか、女中にがみ付いた[やぶちゃん注:「かみつく」に同じ。]か、其樣事(そんあこと)は一切お構(かま)ひなしで、丸で平生(へいぜい)の新五郞さんが人違(ひとちが)へをしたほどのやんちやを云つた揚句(あげく)、發しなかつた酒が一氣に欝結(うつけつ)して、二階坐敷にごろりとなつて了(しま)ひました。

 寢(ね)るともなしにうとうととしてゐますと、

「御免下(ごめんくだ)さいまし、御免下さいまし」といふ聲(こゑ)が何處やらでしてゐます。

「はて、誰(だ)れが何處(どこ)で、誰れを呼(よ)んでゐるんだらう」と思つて、うるささうに寢がへりを打つと又しても

「御免下さいまし、御免下さいまし」と云(い)ひます。今度は其聲(そのこゑ)が、つい手近の枕許(まくらもと)に響きます。

「誰(だ)れだえ」

「へい、私でございます、一寸(ちよつと)お目にかゝりたうございます」

「誰(だ)れだつたらう、只私ぢや判(わか)らねえ」

「へい、お目にかゝれば判りますが、名前(なまへ)を申してもお思ひつきが御座(ござ)いますまい、一寸ここをお開(あ)け下さいまし」

「うるさいな、好(い)い心持で寢(ね)てるのに、まア何でも好いから、開(あ)けて入(はい)んなせえ」

「へい、難有(ありがた)うございますが、當り前のところからは入りにくうございますから、どうぞこゝをお開(あ)け下さいまし」

「こゝつて何處(どこ)だえ」

「書院棚(しよゐんだな)の障子でございます」

「書院棚の障子(しやうじ)、妙なところを開けたがる奴だな、何でも好い、構(かま)はず開けなさい」

「ハイ、ではお言葉に甘(あま)へまして、開けたうございますが、何ですか、かう、手が黏(ねば)つて開けられませんから、恐(おそ)れ入(い)りますが、お開けなさつて下さいまし」

「何、手が黏つて開けられない」と鸚鵡返(あふむがへ)しに自分の目で云つて見たが、どうしたものか其時(そのとき)ぞうつと身の毛(け)がよだつた。

「手(て)が黏(ねば)る」

「ハイ、手が黏りますから、どうぞ旦那(だんな)のお手で」

「チヨツ、仕樣(しやう)がねえな」と云つて、書院棚の障子(しやうじ)をガラリと開けました。小振の上に滑(すべ)りの好い書院棚の障子は、つるりと走(はし)つて柱(はしら)ヘポンと打突り、ガラリと跳(は)ねかへつて一尺ばかりの𨻶(すき)を造(つく)りました。

 機(はづ)みに、冷(つめ)たい風が、じめじめと入つて來たかと思ふと、

「へい、御免下(ごめんくだ)さいまし」と云つて、其の一尺の𨻶(すき)から、ぬうと顏を出し、書院棚へ外からぴたりと兩手(りやうて)をついたものがあります。

 新五郞さんが起直(おきなほ)つて振向(ふりむ)くと、其者は顏をずつと書院棚へ低(ひく)くすりつけて、

「誠(まこと)にありがたうございました、お庇樣(かげさま)で只今宿許へ引取(ひきと)られて參るところでございます、一寸旦那樣にお禮(れい)を申し上げたいと思ひまして、伺(うかゞ)ひましてございます」と、病人(びやうにん)のやうな聲を出して云つて了(しま)ふと、不意と顏(かほ)を上げた、其顏は、其顏は……

 新五郞さんは一言(ごん)の聲も出ません、新(たゞ)油汗(あぶらあせ)をぐつしより搔(か)いて、其場へ突伏(つゝぶ)して了ひましたがもうあとは前後不覺(ぜんごふかく)です。

 

         

 

 暫(しば)らくして目を覺(さ)ましますと、夜はしんしんと更けた樣に思(おも)はれながら、外の方は可成(かなり)賑(にぎ)やかな樣子(やうす)です。

「一體、今のは夢(ゆめ)だつたのか知ら、それとも現(うつゝ)だつたのか」と氣味わるわる、あたりを見(み)まはしますと、自分の手で開(あ)けたおぼえのある書院棚(しよゐんだな)の障子は正に開いて居ります、而(しか)もポンと開けた力が餘(あま)つて跳(は)ねかへり、結局一尺ばかりの開きになつた、其の通りに開(あ)け放(はな)されて居ります。

「アツ、開けたまゝだ」と口に出して云つた新(しん)五郞(らう)は只(たゞ)茫然(ばうぜん)となつた。其耳許へ、又しても、又しても、

「御免下(ごめんくだ)さい、御免下さい」といふ聲がします。もう誰れだと勇氣(ゆうき)さへなくて、聲のする方を見返らないやうにして、ポンポンと手(て)を打(う)ちました。が其の手は鳴(な)りません。

「御免下さい、旦那樣(だんなさま)、お寢(やす)みですか、開けましても宜しうございますか」と、今度は云ひ方が少(すこ)し違(ちが)ひます。

「誰(だ)れだ」

「私でございます、お目覺(めざ)めですね」

「誰れだ」

「私、新八でございます、へいどうもお妨(さまた)げをいたしまして相濟(あひす)みません」と云ひく葭障子[やぶちゃん注:「よししやうじ」。]を開けて入つて來たのは、紛(まぎ)れもない幇間(たいこもち)の新八でした。

「何だ新公(しんこう)か、何ぞ用でもあつて來たのか」

「へい少々(せうせう)」

「歸(かへ)れといふんだらう」

「へえ、よく御存(ごぞん)じで」

「うむ、大抵(たいてい)判(わか)つてる、心中ものゝ身許(みもと)が知れたのか」

「おやおやおや、これはこれは驚(おどろ)きましたな、どうも、全(まつた)く其通りでございます、夕刻(ゆふこく)に判りまして、早速(さつそく)引取(ひきと)つて參りたいと申しましたが、何分旦那が被居(ゐらつしや)らないと引渡す事が出來ませんので、併(しか)しどうして旦那には、それがお判(わか)りになりました」

「今(いま)、知らせが來た」

「えツ、誰(だ)れか手前より先に參(まゐ)つたものがありますか」

「うむ、今(いま)來(き)た」

「へえ、誰れが參(まゐ)りました。手前の外には誰(だ)れもお迎(むか)へに出なかつた筈(はづ[やぶちゃん注:ママ。])でございますが」

「いや、來(き)た」

「金孝(きかう)でございますか」

「いや、違(ちが)ふ」

「では茶利兵衞(ちやりべゑ)でございますか」

「いや違(ちが)ふ」

「では駕新(かごしん)の若い者でも」

「いや違ふ」

「一寸當りが付(つ)きませんね、誰れでございませう」

「本人(ほんにん)が來たんだ」

「本人、本人と申(まを)しますと」

「本人は本人さ、心中(しんぢう)の本人」

「えツ、心中の本人、では幽靈(いうれい)でございますね」

「先(ま)づさうよ」

「へヘヘヘ、お冗談(じようだん)ばかり」

「いや、冗談ぢやない、其處にその通(とほ)り、來たあとが殘(のこ)つて居るぢやねえか」

「幽靈(いうれい)の來たあと、ええ、氣味(きみ)の惡い事ばつかり」

「その書院棚の障子(しやうじ)を見て御覽(ごらん)」

「えつ、本當(ほんたう)ですか」

「本當どころか、現在其の障子をおれが開(あ)けてやつたんだ、そして、お庇樣(かげさま)で只今、宿元(やどもと)へ引取られて參(まゐ)るところで――と云ひながらひよいと上げた顏を見るとね、――ああ、意氣地(いくぢ)がねえやうだが、俺(おら)あもう一生(しやう)忘(わす)れられねえぜ」

「へえ、………」

「其の書院棚(しよゐんだな)の外から、ピタリと手をついて、突伏(つゝぶ)してゐる間は正に一人の姿(すがた)で、誰れだらう、いやに白い着物(きもの)を着てゐやあがるなあと思つてゐただけだが、今(いま)のやうに云つて、すうつと顏を上げると、それが目も鼻も口もないのつぺらぼうさ。而(しか)も、一つの首(くび)から二つの顏が並(なら)んで出てな、一人の方は本當(ほんたう)ののつぺらぼうだが、一人の方は、鼻のあたりと思(おも)はれるところから血がタラタラタラタラと流(なが)れてゐたつけ。現在、俺が昨日(きのふ)葬(はうむ)つてやつた心中ものゝ顏ぢやねえか、ぐうもすうも云(い)へなくて突伏して了つたが、其のあとの事は何にも知らず、それからだ、それからやがて目がさめてから、今のは夢(ゆ)かと思ひながら、その書院棚(しよゐんだな)を第一に見るとどうだえ、一度も開けた事のねえ書院棚の障子(しやうじ)が、俺の手で跳(は)ねただけ開け放してあるぢやねえか、心中の幽靈がお禮(れい)に來たのは夢(ゆめ)としても、書院棚の障子を開けた事だけは實際(じつさい)なのだから、俺(おいら)どうしても、かうしても、こゝに居られなくなつたところへ、お前が煮(に)え切れねえ聲を出してやつて來たもんだから、あの通り怒鳴(どな)りつけたわけだあね、いや、これぢや、迎(むか)へが來なくとも、かへりたい、すぐに駕籠(かご)を云ひつけてくれ」と、新五郞さんは、一刻(こく)の猶豫(いうよ)も出來ません。新八と一緖(しよ)に夜の更けるのも厭(いと)はず田中家へ引(ひき)かへして來(き)ました。

 かうしてのつぺらぼうの死骸(しがい)二つは、それぞれ親許(おやもと)へ引取られようとしましたが、こゝにも亦不思議が起(おこ)りました。二つの身體を結び合はしてゐた緋(ひ)ぢりめんの扱帶(しごき)が、二人の身體にしつかり食ひ入つて了つて、どうしても解(と)けなくなつてゐるのでございます。

「遉(さす)がは、思ひ合つての心中だ、一緖(しよ)に埋(う)めてくれといふのでゞもあらうよ、和泉屋さんも玉屋さんも、これは一番(ばん)然(しか)るべきお計(はか)らひをしておやりなすつたら如何(どう)です。こんな事にまで私が口を出しては濟(す)まないわけですが」と新五郞は口添(くちぞ)へをしました。

 和泉屋(いづみや)の番頭も、玉屋(たまや)の番頭も異存(いぞん)はありません。みつぎ花魁(をいらん)のお母も一寸考ヘてはゐましたが、直ぐに承知(しようち)をしました。それで、二人の死骸(しがい)は、結び合はしたなりで、馬喰町[やぶちゃん注:前に徴して「ばくろちやう」と読んでおく。後も同じ。]へ引取られて行きました。そして和泉屋の墓地(ぼち)へ、夫婦(ふうふ)として葬られました。

 松原新五郞さんの息子(むすこ)さんは今(いま)兜町(かぶとちやう)に出入りをしてゐます。其の二代目新五郞さんが、

「まだ十四五の時から、よく此の話を親爺(おやぢ)に聞かされましたつけ、あんな薄氣味(うすきみ)の惡い目に會つた事は、俺(おいら)あ、六十年の生涯(しやうがい)に只つた[やぶちゃん注:「たつた」と訓じておく。]一度だ。思ひ出してもぞつとするねと、死ぬまで云つてゐましたつけ」

 と云はれました。[やぶちゃん注:一字下げはママ。]

 因(ちな)みに申します、吉原の玉屋は其後(そのご)間(ま)もなくなくなり、馬喰町の砂糖問屋(さたうとんや)は二十年ほど前まで續いてゐましたが、今(いま)はありません。

 ですからこの心中者の比翼塚(ひよくづか)は今どうなりましたか、二代目松原氏は知(し)らないとの事です。

[やぶちゃん注:加工データの『ウェッジ文庫』版の東雅夫氏の本篇の解説に、『この作品には典拠となった原話がある。大正八年(二九一九)七月十九日夜、向島百花園の喜多の家茶荘で開催された納涼怪談会の席で、「株式に出ている松原という人」が、父親の実体験談として披露した話なのだ。泉鏡花や新派の名女形・喜多村緑郎らが中心となって催されたこの怪談会の模様は、「都新聞」紙上で一ケ月近く(七月二十一日~八月十四日)にわたり詳報されており、その概要を知ることができる。原話には心中者の細かな来歴などは端折られているものの、大筋は同じである。ちくま文庫版』「文豪怪談傑作選・特別篇 鏡花百物語集」『(二○○九)に「向島の怪談祭」として全話が復刻収録されているので、読み較べてごらんになるのも一興だろう』『なお』、「芸者繁昌記」『所収の随筆「怪談」(前掲』「鏡花百物語集」『に併録)には、「怪談会というものの発起人となって、都合三度ほどやった事がある。第一回は向島の喜多の家茶荘、第二回は井の頭の翠紅亭、第三回は私の宅の二階で」とあって、蘆江もこのとき発起人の一人に名を連ねていたことが分かる。そればかりか、文章の書き癖や内容から推して、大正期の「都新聞」にしばしば掲げられた怪談関連記事の多くは、蘆江自身の筆になる可能性がきわめて高いのである』とあった。私は二十五年前、『ウェッジ文庫』版を買って本篇を読み、以上の「文豪怪談傑作選・特別篇 鏡花百物語集」を買い、確かに読んだのだが、書庫の藻屑の底に沈んで、同書をサルベージ出来ないのが、遺憾である。]

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