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2024/02/16

譚海 卷之八 水戶かなさ山明神の祭禮事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。]

 

 譚 海 卷の八

 

 

○天明七年[やぶちゃん注:一七八七年。]、常陸水戶、「かなさ山」の明神、祭禮にあたれり。此祭、七十二年めに、一度、ある事なり。神輿(しんよ)、十里四方、通行故(ゆゑ)、前後七日に及(および)たる大祭禮(だいさいれい)なり。

[やぶちゃん注:『常陸水戶、「かなさ山」の明神』これは後文に出る通り、二つの神社に関わる。現在の茨城県常陸太田市上宮河内町(かみみやかわうちちょう)にある西金砂(かなさ)神社と、同市天下野町(けがのちょう)にある東金砂神社である。ここ(グーグル・マップ・データ)。両神社は孰れも、天下野町の町筋の平地を挟んだ峰の上にあり、二社は直線でも四・七キロメートル以上離れている。因みに言っておくと、「鮑形大明神」と呼ぶが、この二社は全くの内陸山間の中にある。この祭礼は驚くべき距離を経て、海を経由し、西から東の神社へと行われるものである。祭礼のスパンも驚きであるが、この祭礼の移動距離もなかなかに凄い。解説と写真をコンパクトに纏められたものは、「聖地観光研究所 レイラインプロジェクト」のこちらがある。そこに、「金砂山縁起」『によれば、常陸の水木浜に黄金の膚に九つの穴を持つ鮑躰の神様が現れ、これを金砂権現(鮑形大明神)と称して祭ったと言われ、「東金砂山は、東方の浄瑠璃王、衆病悉く除くことを司る如来なり。西金砂山は、南方の能化、大慈悲を持って衆生の満願を主る大士なり。故に両峰の風情、金胎を表して、東西に山を開く」『とある』。『金砂磯出大田楽は、この故事に因んで、内陸にある東西金砂神社を出発した行列が、途中、各地の産土に田楽を奉納しながら』、実に五十キロメートル『あまり離れた日立市の水木浜まで行幸し、ここで新たにご神体を受けて、再び東西金砂神社に戻るというもの。天孫降臨で邇邇芸命を迎えに行った猿田彦命を先頭に、巫女や稚児、金砂の守り神である猿、神楽、獅子、神輿、そして宮司など』五百『人を数える行列が静静と進む』。『古い街道の交通を遮断して、この行列が通り過ぎるのに』一『時間あまり』に及び、『沿道には、たぶん一生に一度の機会を見逃すまいと集まった人たちで賑わっている』とあり、『今までの磯出大田楽の歴史を振り返ると、この祭礼の前後に世界的な天災や飢饉、戦争などが起こっている。平安京の疫病、蒙古襲来、天明の飢饉、世界大恐慌等々、そして、今年のイラク戦争と、大変動が目につく』。『先に紹介した伝説では、水木浜に上がった鮑形大明神をお迎えして大甕の中に潮を満たして安置するのだが、ちょうど』七十二『年が経つ頃に』、『その潮が干上がりかけて異変を引き起こすと言われる』。七十二『年が経ち、新たなご神体を大甕に迎え、新しい潮で満たすと、世界が生まれ変わり、新たな命が育まれると』。『その伝でいけば、今年の祭礼によって混乱している国際情勢は終息に向かい、長い不況であえぐ日本も、そろそろ浮上して、明るい未来に向かっていくのだろうか』。『ところで』、七十二『年という数字はなかなか興味深い数字だ。十干十二支の還暦にさらに十二支をプラスすると』七十二『年』で、六十『年前のことなら』、『記憶している人も多くいるだろうが』、七十二『年となると、そう多くはない。今年の祭礼も、前回のことを記憶している人が少なく、考証し、再現するのに何年もかかったという』。『「天災は忘れた頃にやってくる」という』。されば、七十二『という数字は、人の一生の中で、ちょうど一世代が入れ代わり、前の時代の記憶が薄れるマジックナンバーといえるかもしれない』と興味深い数字の考証を行っておられる。当初、山間地の神社の御神体が鮑というのが、ちょっと奇異に感じたが、古くから鮑は潮の干満を司る「玉」の一つとして民俗社会に知られており、巨大な鮑の怪異譚も多い。されば、この潮の干満を地震等による津波や海嘯と比すなら、大地震のサイクル、及び、東北というロケーションや、それらが襲ってくることはない奥山に祀られていることも、結果、私にはしっくりきた。じっくりと、この祭礼の様子を最初から最後までの様子を見たい方には、YouTubeの「地域文化資産」の「【本編】東金砂神社 磯出大祭礼」がよい。二〇〇三年に定期祭として行われた一部始終の動画である。私などは、もう見られない祭礼の様子を伝えて、見応えがある。但し、全視聴には四十七分かかる。なお、所持する法政大学出版局刊『ものと人間の文化史 62』の矢野憲一著「鮑(あわび)」には、この祭礼の鮑についての考証が載る。しかし、書庫の藻屑となって見出せない。発見したら、追記するつもりだが、幸い、「グーグルブックス」のこちらで、「アワビの神様」の当該部が視認出来る(「37」ページから)。]

 祭禮の事は「東鑑」にも見えたる由。甚(はなはだ)、古風を存(ぞんじ)たる事なり。祭禮の式は神主方(かんぬしかた)に書記(しよき)ありて、古來のまゝに執行(とりおこな)ふなり。

[やぶちゃん注:『祭禮の事は「東鑑」にも見えたる由』とあるが、鎌倉時代には、この祭礼は建暦元(一二一一)年と弘安六(一二六三)年に行われているが、後者は「吾妻鏡」の時制範囲外で、建暦元年分一年全部を見たが、記載はない。或いは、どこかにあるのかも知れないが、私の知り得る箇所では、覚えがない。うに、これは「祭禮の事」ではなく、後部にも出る、西金砂神社直近の「金砂城の戦い」(治承四年十一月四日(一一八〇年十一月二十二日に勃発した金砂城に於ける、源頼朝率いる軍勢と、籠城した常陸佐竹氏との戦い。平安末期の内乱「治承・寿永の乱」の一つに数えられる)が起こった旧「金砂城」のことではないか? それなら、「吾妻鏡」の「第一卷」に経過が載り、「金砂城」「金砂」の語が本文に、三度、登場する。

 水戶家よりも、警固嚴重なる事にて、古來のまゝに入用(いりよう)を省(はぶ)かず、掟(おきて)あるに付(つき)て、其費(そのつひへ)、容易の事にあらず、二、三ケ年以前より、あらかじめ沙汰ある事なり。

 神號は「鮑形大明神」と稱して、應神天皇の朝(てう)に垂跡(すいじやく)す。五穀成就を守り給ふ。神體は、卽(すなはち)、蚫(あはび)にて壺に潮(うしほ)をたゝへ、其中に鎭座有(あり)。

 七十二年めに、神輿の内に納(いれ)て御出(ごしゆつ)あり。

 同國、御貢濱(みつぎはま)といふ所にて、御旅の間(あひだ)、神體を入(いれ)かふるなり。此神體、七十二年まで壺中(こちゆう)に有故(あるゆゑ)、壺中の潮、段々、減じ、祭禮近く成(なり)ては、殊に少(すくな)くなる。

[やぶちゃん注:「御貢濱」これは、先に注で引用した通り、鮑神の接点である日立市水木町(みずきちょう)の水木浜である。金砂神社の南東に当たる。]

 此うしほ、少くなるに付(つき)て、世間、凶年打續(うちつづき)、不熟なり。

 祭禮、濟(すん)で、神體、入(いれ)かはり、新(あらた)に、うしほを、くみかへて滿(みたし)たる間は、豐年成(なる)由を、いひ傳ふ。

 祭日は二月初(はつ)の酉の日を初(はじめ)とす。

 供奉に、兒(ちご)といふもの、廿一人、出づ。天冠をかぶり、花染(はなぞめ)の麻衣)あさごろも)を着て、矛(ほこ)をとり、馬上にて、列す。

 其次に、猿の面をかけて、廿一人、馬上なり。面は、みな、名工のうちたる物なり。

[やぶちゃん注:「猿」これは天孫降臨の際に道案内をしたとされる猿田彦をイメージしたものである。先の長尺版動画でも、そのように解説がなされてある。]

 次に、又、小童(せうどう)五人、赤衣(あかごろも)を着て、供奉す。

 往古は、奉幣使、下向ありし祭禮故、水戶家よりも、殊に執(しふ/しつ)し行(おこなは)る事なり。

 七日の中日にあたりたる日、御貢濱に神輿をとゞめて、一夜、祭禮の神祕ども、有(あり)。

「夜半に、龍神、參詣す。」

と、いへり。

「其夜、海上より神體の『あはび』、うかび來(きた)る。則(すなはち)、取(とり)て、壺に入(いれ)奉り、今までの神輿は、入替(いれかへ)て、海中に歸りまします。」

とぞ。

 神輿御放(しんよおんはなち)の間、田樂のあそびを行ふ。田樂の式(しき)、世上に絕(たえ)て、殘らず。只、

「金沙山(かなさやま)の神職に傳へ殘りたるゆゑ、深祕として、外(そと)へ傳ヘず。」

といふ。

 此祭禮、鎌倉北條の時にもあたりたる由、「東鑑」に見えたり。又、同書に「かなさ山合戰」の事有(あり)。是は、「東金沙山」の事にて、佐竹氏の籠(こもり)たる城なり。

 此蚫形明神のましますは、「西かなさ山」なり。

 往古より兵革を經ず、殘りたる神社なり。

 「常陸風土記」には、金銀をも出せし山の由、しるし有(ある)、とぞ。

[やぶちゃん注:『此祭禮、鎌倉北條の時にもあたりたる由、「東鑑」に見えたり』かくも再び、かく言っているからには、「吾妻鏡」にあるのだろう。発見したら、追記する。

『「常陸風土記」には、金銀をも出せし山の由、しるし有』所持する岩波文庫版や、国立国会図書館デジタルコレクションでも探してみたが、不詳。識者の御教授を乞う。]

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