譚海 卷之九 京まで一足にて事たる草鞋の事
○京都まで、一足(いつそく)にて事(こと)たる「わらんず」、有(あり)。
丸の内、朽木家(くつきけ)の屋敷の、門番の者、こしらへ出(いだ)すなり。わらの「ふし」を除(のぞき)て、よくよく、うち、やはらげて造るゆゑに、第一、「まめ」をふみいだす事、なし。誠に長途に用(もちひ)ても、そんずる事、なし。放客の缺(か)くべからざるものなり。
價(あたひ)は、七十二錢より、百五十錢迄なり。
[やぶちゃん注:江戸時代の草鞋は、専ら、武士の下僕である中間(ちゅうげん)が、内職として作って売っていた。当時の普通の草鞋は一足当たり十二文(凡そ三百九十から二百二十八円)だったから、通常の使い捨てのものより、六倍から十倍の値段となろう。東海道を行く場合、大体、三日(場合によっては二日)で一足を履き潰したといいます。仮に二日とすると、最低でも七~八足が必要だったことになる(Q&Aの回答例に拠った)。本当に一足だったとすれば、概ね、とんとんということになる。
「丸の内、朽木家」丹波福知山藩藩主朽木家。本巻の最新記事は寛政元(一七八九)年であるから、その年ならば、第八代藩主で蘭学によるヨーロッパ地誌・世界地理の研究者や貨幣研究家として知られる蘭癖大名であった朽木昌綱(まさつな)の代である。屋敷は「江戸マップ」の「江戸切絵図」のここの、次の位置(絵図では『西本願寺』とある)に『朽木近江守』とあり、築地本願寺の北西方の、この中央辺り(グーグル・マップ・データ)にあった。]