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2024/02/03

「蘆江怪談集」 「天井の怪」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本本文の開始位置はここ。鈴鹿峠や諸地名については、前回の「鈴鹿峠の雨」の注で紹介した「亀山市生活文化部文化スポーツ課まちなみ文化財グループ」作成の「東海道五十三次の内 坂下宿 鈴鹿峠 イラスト案内図」PDF)のイラストが判り易い。但し、検索で本篇に来られた方は、前回の「鈴鹿峠の雨」を先に読んで戴けるよう、お願い申し上げるものである。続き物ではないものの、この二つを並べたのは、蘆江の確信犯であろうから。

 

 

    天 井 の 怪

 

 

 阪(さか)は曇(くも)つてゐた、鈴鹿峠にかかつて、大粒(おほつぶ)の雨がぽつりぽつり、峠の茶屋を目のあたりに見ると共に、橫なぐりのどしやぶり、笠(かさ)を打ちぬくほどに覆(くつが)へして來る、二人はたゞやみ雲(くも)に茶見世へ逃げ込んだ。

「間もなく止(や)みませうから」と茶見世の婆(ばあ)がいつてくれる言葉(ことば)をたよりに待つても待つても止みさうになく、かれこれ茶見世の緣先(えんさき)に半時(はんとき)か一時も休(やす)んだ。

 どうやら小降(こぶ)りになつたのを幸ひ、これから江州水口(ごうしうみづぐち[やぶちゃん注:前回の注で示した通り、「みなくち」が正しい。以下同じ])まで一のし、日のある中に行きつければ好(い)いがといひながら、峠(たうげ)を下り道にかゝつたが、更らに半時(はんとき)と經(た)たぬ中に、又しても降りしきる雨。

 男は絲楯(いとたて)[やぶちゃん注:前回の注を参照。]をはづして女の肩にかけてやり、すべりやすい足元を、かばひつゝ急ぎに急いだ、時からいつても、疲れぐあひから見ても、水口(みづぐち)は兎に角、土山[やぶちゃん注:「つちやま」。]ぐらゐは通(とほ)らねばならぬと思つてゐるのに、どうしたものか、茶見世(ちやみせ)を出て以來家(うち)らしいもの一軒(けん)見受(みうけ)けず、人つ子一人あはず、道さへだんだんに狹(せば)まつて來る。

「どこで踏(ふ)みまよつたのであらう」と心づいた時分には、現在(げんざ)手(て)をとりあつた女の顏(かほ)さへはつきりは見(み)えなくなつてゐた。

「到頭日が暮(くれ)ました、見渡す限り笹藪(さゝやぶ)と雜木山ばかり、一體(たい)これはどうなるのでござんせう」と女が心細(こゝろぼそ)い事をいふのを、

「なあに、道(みち)がある以上は、人里(ひとざと)のない事もあるまい、どうせ迷(まよ)うた道(みち)ならば、今夜は人家の見つかり次第、一夜の宿(やど)を無心して、明朝(みやうえう)本街道(ほんかいだう)へ案内してもらふ事にしよう」と男は氣强(きづよ)く慰(なぐさ)めたが、

「吉(きち)さん、私は心細うなつて來ました」と女はたゞ男の袖(そで)へしつかりと、とりすがつた。

「おぬひさん、今更(いまさら)そんな弱い事をいふ約束(やくそく)ではなかつた筈(はづ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])だ、どのやうな苦勞(くらう)をしてもと、江戶を出たではないか、鈴鹿峠(すゞかたうげ)といへば、京まではいくらの道でもない、ここまで來て平太張(へたば)つたら、江戶つ子の恥(はぢ)ぢや」

「それでも吉さん、私(わたし)は」

「いやどうも困(こま)つた弱虫(よわむし)だぞ、しつかり私の手につかまつたがよい、町人(ちやうにん)でこそあれ、武士の胤(たね)ぢや、尺三寸關(せき)の孫六(まごろく)、祖父(ぢい)さまのかたみがちやんと腰(こし)に頑張(ぐわんば)つてゐる」と吉之助は女の心を引立てた。

[やぶちゃん注:「關の孫六」(生没年未詳)美濃国の刀工孫六兼元、また、その後継者の鍛えた刀剣。室町後期から江戸時代まで数代に渡り、始め、美濃国赤坂、後に同国関で作刀された。「三本杉」と呼ばれる刃文に特色があり、業物(わざもの)として著名である。]

「あい、もう怖(ぢ)けません、お前(まへ)といふ人をたよりに江戶(えど)を出たからは、どんな山の奥でも厭(いと)はぬ筈(はづ)の私でござんした。道(みち)を迷(まよ)うたのでつい弱い事をいひましたが、もう何が來ても驚(おどろ)く事ではござんせぬ」と女は甲斐々々(かひがひ)しく絲楯(いとたて)をゆり上げて、

「吉さん、私がこれをとり上(あ)げては、お前こそ、びしよ濡(ぬ)れで氣味(きみ)が惡(わる)うござんせう、いつその事、これをかうして半分(はんぶん)づゝかけようではないかえ」と片手(かたて)をのばして、絲楯(いとたて)の端を男の肩へ引かける。

「吉(きち)さん」

「何(なん)だ」

「嬉(うれ)しいといふ事さ」

「何の、いま更(さら)らしい」

「それでも」

 二人の體は一枚(まい)の絲楯(いとたて)に、しつくり包(つゝ)まつて、身も心も一つになつたやう、互(たがひ)に身をすりよせ縺(もつ)れるやうな足どりで熊笹(くまざゝ)を踏(ふ)みしめた。

 それから何里(なんり)あるいた事やら、何時(なんどき)あるいた事やら、いくらあるいても、水口(みづぐち)の水も見えねば土山の土も見えない、初秋(しよしう)の日は暮れて、眞暗(まつくら)な道中になつた。

 さすがに男も途方(とはう)に暮(くれ)て、あるく勇氣(ゆうき)もなくなる。女は元より男の側(そば)にぴつたりとすがりついたまゝ、二人はとある大木の下露(したつゆ)にぬれながら、立ちつくした。

 雨は少(すこ)し止(や)んだ、が、風(かぜ)がさらさらとわたるにつれて、夕立(ゆふだち)かと思ふもの音が騷(さわ)ぐのは、二人の身體が深(ふか)く茂つた藪(やぶ)だたみの中に立つてゐるしるしである、立つ足元(あしもと)に笹(さゝ)の葉の茂(しげ)りの多いのは、ふだんさへ、人通(ひとどほ)りのない道(みち)である事を示(しめ)してゐる。[やぶちゃん注:「藪(やぶ)だゝみ」藪が幾重にも重なって茂っている所。]

 男は空(むな)しく眞暗(まつくら)な中を、見まはしたが、

「おぬひさん、あれ、あのあたりに灯(ひ)がちらついて居るとは思(おも)はないか」

「さうぢや、たしかに灯りでござんす」

 二人は聊(いさゝ)か力づいた。

 辿(たど)りついたのは一軒(けん)の古寺である。

「道を迷(まよ)つて難儀(なんぎ)をして居るもの。近頃(ちかごろ)御無心(ごむしい)ながら、一夜の宿(やど)を願(ねが)へますまいか」と廣い庫裏(くり)のくぐり戶をあけて男が賴(たの)んだ。[やぶちゃん注:最後の「だ」は脱字らしく、一字空けであるが、訂した。『ウェッジ文庫』でも『だ』である。]

 柱(はしら)も縁(えん)も黑光りに光つた庫裏の奧の杉戶(すぎと)を重(おも)さうに開けて出て來たのは小づくりの坊主(ばうづ[やぶちゃん注:ママ。])であつた。

「それはそれはお困りでござんせう、早くお上りなさい、御覽(ごらん)の通りの荒(あ)れ寺(でら)ゆゑ、何もおもてなしも出來ませんが、雨露(あまつゆ)だけはどうやら凌(しの)げませう、さあさあ」ともの優しく、すゝぎの水を取つたり、冷々(ひえびえ)と肌寒さをおぼゆる山寺の初秋(しよしう)の夜に、ふさはしく圍爐裏(ゐろり)に榾(ほだ)などさしくべる。

 二人はほつとして、顏(かほ)を見合せながら、先づ一安心(あんしん)と爐(ろ)の側(そば)にさしよつた、ぱつと燃え上る榾火に三人の顏(かほ)がはつきりと見交(みかは)されると、坊さんが先づ

「お、お見受(みう)けするところ、まだお若(わか)い方(かた)のやうぢやが、どこからどこへおいでになる道中でございますな」と聞く。

「京都(きやうと)までまゐりませうと思(おも)うて四日市の方から來(き)ました」

「鈴鹿を越(こ)して西(にし)へ向いて步いた人が、一體どんな風(ふう)に迷(まよ)へば、この山の中へ出るのでござんせう、これは鈴鹿峠(すゞかたうげ)につゞいた勢州寄(せいしうよ)りの山の中でござるが」

「さうしますと、京都へ出ます本街道は」

「ハイ、それは一寸口では申(まを)されません、まづ今夜(こんや)はここへお泊りなされて、明日にでもなつたら、私が街道(かいだう)まで御案内(ごあんない)いたしませう、兎に角、この寺(てら)のうしろ山を越して兎(うさぎ)の通(とほ)るやうな道をぬけますと、ざつと三里ばかり、丁度(ちやうど)鈴鹿峠の頂上の茶見世(ちやみせ)のうしろへ出られます」

 唐茄子(たうなす)の粥(かゆ)に古菜漬(ふるなづけ)、何はなくとも、あるじの僧(そう)は甲斐々々しく二人をもてなしてくれる。

 女はその時、一寸(ちよつと)吉之助に囁(さゝや)いた。

「尼(あま)さんのやうに見えますが」

「お見受(みう)け申し(まを)ますところ、お一人住居[やぶちゃん注:「おひとりすまひ」。]のやうでござんすが」

「ハイ、愚憎(ぐそう)一人でござる、尤(もつと)も、去年までは老僧(らうそう)がをられましたが、入寂(にふじやく)せられましたので」

「失禮(しつれ)ながら尼僧樣(にそうさま)でおいでの御樣子」

「ほほほ、お判(わか)りでござつたか、もう幼少(ようせう)の頃から母親(はゝおや)とたゞ二人でこの寺にをりました。去年滅(めつ)しました老僧といふのが、卽ち私の俗緣(ぞくえん)の母でもあり、師(し)の御坊でもありといふ次第で」

「まるで、石童丸(いしどうまる)の昔話に伺(うかゞ)ひますやうなお話」とおぬひは心を動(うご)かされた。

[やぶちゃん注:「石童丸」説経節の「苅萱」(かるかや)に出てくる幼い主人公の名。この元になる話は,中世の高野山の蓮華谷や往生院谷あたりの「萱堂」(かやんどう)に住む聖(ひじり)の間で生まれたもので。それが後に、謡曲の「苅萱」と説経節に分かれて展開したものである。説経節「苅萱」の世界は、筑紫麓ヶ国の所領と家族を捨てて、東山黒谷から高野山へ逃れた苅萱を追って、御台所と石童丸が還俗(げんぞく)を迫る話である。御台所と姉の千代鶴姫は死に、石童丸は、父と対面しながらも、真実の父とは知らずに別れ、高野と善光寺で、別々に往生するところで終わっている。石童丸については、石童の名が、石堂・石御堂・石塔と言う地名が全国に多いところから考えると、石堂(辻堂)を拠点とする聖に関係する名で、塚と死者の埋葬を営む聖との深い交渉の中から生じたものであろう。なお、説経節「苅萱」の伝承を今日まで残し、苅萱道心と石童丸の親子地蔵をまつる寺が、善光寺周辺に二つある。苅萱山寂照院西光寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)と苅萱堂往生寺という(私は大学一年の時、前者の寺に参り、凡そ一時間に亙って、住職から父の苅萱上人についてのお話しを伺って、はなはだ感銘したのを思い出す)。西光寺の所在が妻科村石堂(現在の長野市北石堂町。苅萱山寂照院西光寺の所在地)西光寺となっているのは、石堂に拠る聖と、幼い主人公の因縁が、偲ばれる一つの証しである。高野山の萱堂聖や、善光寺周辺の石堂の聖の間で語られた話を統合したものに、時宗化した高野聖の存在が考えられるが、彼らは高野山と善光寺を往還しながら、説経節「苅萱」の成立に深く関与したことは、間違いない。父が苅萱であることを、生涯、知らずに終わり、母や姉の死を見届けて、荼毘(だび)にするなど、「苅萱」の主題である家族の解体と死に、最後まで立ち会ったのが石童丸であった(以上は、主文を平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

「いや、それがな、今も申す通り幼少からの住居ゆゑ、山中の一木一草皆(みな)幼馴染(おさななじみ[やぶちゃん注:ママ。])、とんと寂(さび)しいとか心細(こゝろぼそ)いとか申す事を知りませぬ、何しろ街道筋(かいだうすぢ)からこゝまでの山には、蛇(へび)の巢(す)もあれば梟(ふくろ[やぶちゃん注:こうも訓ずる。])の森もござる、狼(おほかみ)こそをりませぬが山猿(やまざる)などは、時たま、本堂の緣(えん)へ來て遊(あそ)んでをります」

「蛇の巢と申しますと」とおぬひは眉(まゆ)をひそめる。

「蛇谷(へびだに)と申しましてな、何萬匹となく蛇が木(き)の枝(えだ)、谷(たに)の流(なが)れ、石のかげ、などにのた打(う)つてをりますところで、後學(こうがく)のため、あした、御案内(ごあんない)しても宜しうござるが」

「いやもうそのやうなところへは參(まゐ)りたうもござんせぬ」

「ほほほ、おいやならば、無理(むり)にお目にかけようとはいひませぬが、蛇(へび)といふものは、あれで、中々(なかなか)情合(じやうあい[やぶちゃん注:ママ。「愛」の当て字ならば、問題はない。])の深いものでござる」

「御冗談(ごじようだん)ばかり」

「いや、あれで中々(なかなか)毛(け)ぎらひをいたしますな、交(まじ)りの時がまゐれば枝から枝へ傳(つたは)つてこれと思ふ相手を探(さが)すものでな、あれほど一心(いつしん)の强(つよ)いものはありませぬ」

 尼僧(にそう)の話は蛇物語りになつた。

 梢(こずえ)から下枝へ下りるには、梢の枝一杯に身をからまして、下枝の距離(きより)を計(はか)り、ここと思ふ頃、尻尾だけを梢に食ひとめて、だらりと眞(ま)つ逆樣(さかさま)にぶら下る、それでも下枝(したえだ)へまだ屆(とゞ)かぬとなれば逆樣に下つた身體(からだ)にはずみをつけて搖(ゆ)り動(うご)かした上、何かしら側(そば)の枝(えだ)をかかり場にして、トンと落ちて首尾(しゆび)よく下枝へ卷(ま)きつく。

 下枝から梢の相手(あひて)に上る時は、眞(ま)一文字(もんじ)に身を起こして、のび上り、梢(こずえ)の枝へ頭をかけてからみつく、さし出た枝と枝とへ飛(と)びうつる時は、尻尾(しつぽ)にはずみをくれて、體(からだ)を宙(ちう)に投げかける、などと、女は聞(き)く中(うち)にはや、ちぢみ上つた。

「そのやうなところを、通(とほ)らねば、本街道(ほんかいだう)へ出られませんか」

「さ、蛇谷を通(とほ)らぬとすれば、深い森の中をぬけてゆくのぢやが、その梟(ふくろ)の森には、一つ厄介(やくかい)な奴(やつ)がをります」

「狼(おほかみ)でも」

「いや、狼は滅多(めつた)にをりますまい、蛭(ひる)といふ虫を知つておいでか」

「黑血を吸(す)はせる虫でござんすな」[やぶちゃん注:「黑血」(くろち)は腫れ物などに生ずる腐敗して黒みを帯びた血。]

「さうぢや、あれが夥(おびただ)しく梢(こずえ)にをりましてな、人が通ると、ばらばらと木の枝(えだ)から落(お)ちかかります」

 おぬひは靑くなつた。

 二人の寢間は八疊(でふ)ばかりの客間(きやくま)に設けてあつた、尼僧(にそう)は方丈へ入つて寢たらしい、まだそれほどの夜更(よふ)けとも思はれぬが、淋(さび)しさは深夜(しんや)のやうであつた、本堂の方でごとごとと怪(あや)しげなもの音の聞こえて來るのは鼠(ねずみ)かも知れぬ、寺の外から、時折(ときをり)風音(かぜおと)にまぎれて、ウーンとうなつて來るのは何であらう。

「吉(きち)さん、又うなります」

「さあ何であらうな、兎(と)に角(かく)今夜一夜ぢや、さあ關(せき)の孫(まご)六を枕元(まくらもと)に引つけて置いてやらう、どれほどの妖魔(ようま)でも、この名刀が拂(はら)つてくれる筈だ」

「あれ、又(また)うなりました」

 吉之助は突伏(つゝぷ)して慄(ふる)へてゐるおぬひを膝近(ひざちか)く引よせてやつて、ぢつと耳(みゝ)をすましたが、俄(にはか)に笑ひ出した。

「おぬひさん、あれは何でもない、鐘樓(せうろう[やぶちゃん注:ママ。「しようろう」でよい。])の鐘(かね)に風がわたつて、風の音が鐘に響(ひゞ)くのぢや」

 あたりの靜(しづ)かさは一入(しほ)深(ふか)くなりまさる、折から又(また)異樣(いやう)のうなり聲が今度は天井(てんじやう)の方に聞こえはじめた。

「あれ、又(また)」

「なに鐘(かね)のゆれ音であらう」

「いゝえ、今度のは天井(てんじやう)でござんす」

「風の工合で天井のやうに聞(きこ)えるのであらう」とはいつたが、前(まへ)のうなり聲(ごゑ)とは全くちがつた聲である。

 赤子(あかご)の泣(な)く聲とも思はれる。

 鞭(むち)などを振まはして折檻(せつかん)する音とも思はれる。

 女の責(せ)め殺(ころ)される叫び聲のやうな時もある。

 一種(しゆ)異樣(いやう)の哀音(あいおん)がワーンと響(ひゞ)いて今度はやむ時もなく一しきり呻(うな)り立(た)てた。

「うむこれは不思議ぢや、おぬひさんお前(まへ)蒲團(ふとん)の中にくるまつてゐて下され、私が仔細(しさい)を聞きとどけて見よう」と關の孫六を引(ひき)よせながら、音のする見當(けんたう)へぢりぢりと進んで天井を睨(にら)んだ。

 おぬひもぢつとはしてゐない。

「お前ひとりはやられませぬ、見屆(みとゞ)けるのなら私も一緖(しよ)に」と吉之助の帶際(おびぎは)につかまりながら、一と足一と足進む。

 天井(てんじやう)のうなり聲はあたりが靜(しづ)かになるにつれていよいよ激(はげ)しくなつて來た。

 どう聞きなほしても赤子(あかご)の啜(すゝ)り上げる聲である。でなければ責(せ)められる女の苦(くる)しむ聲(こゑ)である。

 吉之助は道中差(だうちうざし)をすらりとぬいて靑眼(せいがん)にかまへた、今にもあれ、天井(てじやう)から何ものかが落ちかかつたら、ズブリと一突(つき)、突上げるだけの身がまへをして、うなり聲(ごゑ)に可(か)なり近(ちか)いところまで進んだ。

 二人は息(いき)をひそめて天井(てんんじやう)を見つめてゐる、天井の聲(こゑ)は丁度二人の眞上のところに强(つよ)く、それが折々橫へそれ、うしろへ逃(に)げ、又(また)前(まへ)へまはつては

「ウーンウーン」と泣き「ワーツワーツ」と叫(さけ)ぶ。

「尼樣(あまさま)に知らして見ようか」

「いゝえ、あの尼樣(あまさま)が恐ろしい人かもしれぬ」

「いや、それはお前(まへ)の思ひひがみであらう」

「それにしても、わざわざ人のいやがる話(はなし)をあのやうに長々(ながなが)とするのでござんすもの、私はたゞものではないと思ひます。第一、どこの誰とも知(し)れぬのに、私たちの宿(やど)をすらすらと引受(ひきう)けた事も不思議(ふしぎ)、こんな山寺に女一人で暮(くら)してゐるといふのも、受取(うけと)れぬ話です」

 その中におぬひは疊(たゝみ)の上を指(ゆび)さして慄(ふる)へはじめた。

 おぬひの指の方向にはいつの間(ま)に落(お)ちたか、血汐(ちしほ)の一しづく、それが八疊(でふ)の眞(ま)ん中(なか)の古疊にぽたりと落ちてパツと散(ち)つてゐる。

「血だ」吉之助の目前(もくぜん)に又一滴(てき)、ぽたり、つづいて又ぽたり、忽(たちま)ちの間に疊(たゝみ)の上に五六滴もの血汐が天井(てんじやう)から滴(したゝ)つて來た。

 と思ふ中に、天井の聲(こゑ)は一しきり

「ワーン」と高く響(ひゞ)いた、おぬひはもうたまらなくなつて、氣を失つた。

 吉之助(きちのすけ)はおぬひの耳に口をあてて、

「おぬひやあい」と呼(よ)んだ。

「どうなされましたな」と眞(ま)つ暗(くら)な廊下に朦朧(もうろう)と現れた人かげ。それは尼僧(にそう)であつた。

「尼樣(あまさま)、おつしやつて下さいませ、包(つゝ)み隱(かく)しをなさらずに、あの天井から落ちて來る血汐(ちしほ)の仔細(しさい)を、もし、人に話(はな)してならぬ事なら、決して洩(も)らしはいたしませぬ。さあどうぞおつしやつて」と吉之助は片手(かたて)におぬひをかばひ片手に關(せき)の孫(まご)六の鯉口(こいくち)を切つてつめよつた。

 が、尼僧(にそう)は顏色もかへなかつた、不思議(ふしぎ)さうに吉之助の樣子(やうす)に目をつけながら、

「天井の血」ふり向いた尼僧(にそう)は、俄(にはか)に笑ひ出した。

「どうも濟(す)まん事(こと)でござつた。これは血(ち)ではありません、蜜(みつ)でござる、蜜蜂(みつばち)でござる、いや、今夜は大層(たいそう)出來(でき)ましたと見えますな、なるほど、大分(だいぶ)羽音(かねおと)がやかましいやうぢや」と天井を見上げた。吉之助の不思議(ふしぎ)はまだ解(と)けなかつた。

 尼僧は兎に角と、おぬひを介抱(かいはう)して、

「御無理(ごむり)はござらん、實は私も最初(さいしよ)は驚きましたのぢやが、この寺の天井(てんじやう)にはいつの頃からか、蜜蜂が巢す」を作(つく)つてをりましてな、あのうなり聲は蜜蜂(みつばち)の羽の音、こゝに落(お)ちて來(く)るのは蜂(はち)がつくつてくれる蜜(みつ)でござる」

「それにしても、血(ち)の色(いろ)をしてをります」

「いや、これは血(ち)の色(いろ)ではない、何しろ古寺(ふるでら)でござる、天井を洩(も)れて落ちる蜜が媒(すゝ)を溶(と)かして、この通りの色(いろ)になります。袖(そで)すり合ふも他生(たしやう)の緣(えん)ぢや、明日は一つこの天井へ蜜箱をつくる手傳(てつだ)ひをして下さらぬか」

[やぶちゃん注:この寺のモデルは地図上を探したが、見当たらなかった。

 さても、一読、お判り戴けることと思うが、本擬似怪談は、ロケーションと言い、蛇と蛭の話と言い、遠く泉鏡花の傑作「高野聖」へのオマージュであることが判る。なお、怪音が蜂の音というオチは、江戸期の擬似怪談に枚挙に遑がない。]

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