譚海 卷之七 江戶小川町某士山下賣女の家にある事
[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。「賣女」は「ばいた」。「小川町」は現在の千代田区神田小川町一丁目から三丁目(二丁目はここ)相当で、サイト「江戸町巡り」のこちらによれば、『江戸期は駿河台南側の大名・旗本等の武家地の汎称として用いられ、切絵図にも』「飯田町 駿河台 小川町絵図」『と題して、一帯の武家屋敷を記している』とある。]
○小川町に大身の御旗元衆あり。
その家、早世して、親族の内、家督に願ひ立(たつ)べき人、なし。
家中、打寄(うちより)、評議しけるに、本所に某といふ御旗元(おはたもと)、小身(しやうしん)なれども、是より外に、家督、願ふべき人なければ、夫(それ)をもとめけるに、此人、小普請入(こぶしんいり)、放蕩にて、居(をる)屋しきも、人に讓(ゆづり)あたへ、本人、住居(すまい)、一向、しれざりければ、家老、内々、手を盡しさがしければ、ひそかに山下(やました)の、其(その)町家に拘(かかは)り人(びと)にてあるよし聞出(ききいだ)し、家老、行(ゆき)て見しかば、山下の君(きみ)を貯(たくはへ)て衒(てら)ふ[やぶちゃん注:ここは「売る」の意。]家にてありければ、此家老、計策を𢌞(まは)し、先(まづ)何心(なにごころ)なく、その家へ、君を買(かひ)に行(ゆき)て數度(すど)にをよび[やぶちゃん注:ママ。]、家内に心をつけて見れば、竃(かまど)に、火焚(たき)て居《を》る、はつぴ着たる男のおもざし、幼少の時、見おぼえある顏なりければ、いよいよ、
『渠(かれ)成(なり)。』
と、こゝろづきて、なを[やぶちゃん注:ママ。]、しげく、君を買に行て、君にも、不慮の金子等あたへ、家内の者へも、おなじく金子などあたへしまゝ、君は、わづかに錢二百文にうる事成(なる)に、かく過分の金子、折々、もらひぬるまゝ、其家にも、
「ことの外、よき客。」
と奔走し、此男も馴近(なれちか)つきて、度々、そばきり・酒肴などの使(つかひ)にも賴み、別懇(べつこん)に成(なり)たり。
[やぶちゃん注:「山下」寛永寺のある上野山の山下であろう。サイト「WANI BOOKS NewsCrunch」の永井義男氏の「上野の猥雑さは昔から? 百以上もの女郎屋が林立していた」の「江戸の男の歓楽街 第3回―山下(前編)―」に、前振りで、『上野公園の下、山のふもとにあった岡場所「山下」。江戸時代、ここには「けころ」と呼ばれる遊女が置かれ、たいそう繁盛したという。女郎屋が百以上軒を連ねたことも』とあり(以下改行を略した)、『江戸時代、山下は江戸でも有数の歓楽街だった。本来、山下一帯は、徳川家の菩提寺である寛永寺への延焼を防ぐための火除地として、空き地になっていた。この空き地に、いざというときはすみやかに取り払うという条件のもと、幕府は簡易な建物、いわば仮設店舗を建てるのを許可した。これにともない、歓楽街・山下が生まれた』。『茶屋や芝居小屋、見世物小屋、楊弓場(ようきゅうば)などが立ち並び、多くの人が集まった。やがて、山下は岡場所としても有名になる。いつしか、「けころ」と呼ばれる遊女を置いた女郎屋が林立したのだ』。「頃日全書」(宝暦八(一七五八)年刊)に、『次のような事件が記されている。宝暦八年』『六月二十日は八代将軍吉宗の命日にあたり、九代将軍家重や諸大名が寛永寺に参詣した。町奉行の依田政次も多数を率いて御成道の警備にあたっていたが、たまたま駕籠が山下に入り込んでしまった。依田が駕籠の中から見ると、多くのけころが道行く男に声をかけている。奉行所に戻った依田は、部下に厳命した。「今日は上様の御成日なので、遠慮すべきであるのに、山下の遊女どもの振る舞いは言語道断である。女郎屋は打ちこわし、女はすべて召し取れ」』となし、『翌二十一日、奉行所の役人が出動して、数十人のけころを召し取るという騒ぎになった。女郎屋の主人はみな、手鎖に処された。しかし、岡場所そのものは廃止にはならなかったので、けころはすぐに復活した』とある。(以下は「2」)『けころの最盛期は安永~天明期』(一七七二年~一七九九年)『で、女郎屋は合わせて百七軒あった。享保から文化までの江戸の風俗を記した』「続飛鳥川」に『――けころ、寛政の頃まで、上野山下など、大通りをはじめ、横町横町門並に有り、一軒に両人位づつ見世を張り、前だれ姿にて、大かたは眉毛有、年増もあり、いづれも美婦計りなり。白昼に見世を張、入口より三尺計奥に居る故、拵へものはなし、此外所々に夥しく有り、代弐百銅、夜四ツ時よりとまり客を取、食物なしに金弐朱』、『とあり、多数のけころがいたのがわかる。一軒の女郎屋に二、三人のけころがいて、入口付近で顔見せをしていたが、美人ぞろいだった。揚代は二百文。夜四ツ(午後十時頃)から、泊まり客を受け入れたが、揚代は食事なしで金二朱だった。また』、「塵塚談」(小川顕道著・文化一一(一八一四)年『にも、けころについて――是も一間の家に弐三人ヅツ限りに、出居る事也、花費は弐百文ヅツにて、いづれも美容貌を選び出したり』、『とあり、一軒の女郎屋に二、三人のけころを置いていた。花費は揚代のことで、二百文だった。また、いずれも美貌ぞろいだった』と『いう』とあった。]
あるたそかれ過(すぎ)、又、此家老、きたり、
「其男や、ある。」
と呼出(よびいだ)しければ、此男、何心なく出(いで)あい[やぶちゃん注:ママ。]けるを、門に呼出し、そのまゝかつがせ來(きた)乘物へ押入(おしいれ)、外より繩にて八重(やへ)十文字にからげたるやうにして、小川町の屋敷へ連れ歸り、扨(さて)、其後(そののち)、公儀へ、ねがひて、家督に定(さだめ)ける、とぞ。
君の家には、其後(そののち)、家老も來らざれば、
「いかなる事にや。」
と、ふしんを、たて、又抱り人(びと)[やぶちゃん注:底本には「抱」の右に補正注で『(掛)』とある。全体で「居候」の意。]の男も、其まゝに見えざれば、あやしみおもふ事かぎりなけれど、元來、人別(にんべつ)にも、しるさぬ男なれば、殊更、訴出(うつたふ)べき樣(やう)もなく、年月を過(すぎ)ける。
扨、四、五年過(すぎ)て、此君を、たくはひし家の亭主、小川町の其屋敷より、
「賴度(たのみたき)用事、有(あり)。」
とて、招來(まねきき)ければ、亭主、心得ずながら、行(ゆき)見るに、役人、出逢(いであひ)て、
「此度(このたび)、手前、長屋はじめ、新築、有(あり)。『此ふしん、其方(そのはう)へ、ひとへに賴申度(たのみまふしたき)。』よし、主人、申付(まふしつけ)られぬるまゝ、招(まねき)たる。」
と、いひければ、亭主、
『ふしぎなる事。』
に、おもひ、
「拙者、ふしん等の事は、一向、不案内。」
の、よし、辭しけれども、役人、
「とかく其所(そのこところ)は、此方(このはう)にていか樣(やう)とも相(あひ)はからひ申(まふす)ベき間(あひだい)、承知の請(うけ)、致しくれ。」
とて、卽刻、出入の大工を呼(よび)につかはし、亭主に見參(けんざん)させける。
大工、申(まふし)けるは、
「拙者事、久敷(ひさしく)此御屋しき出入(でいり)のものに候ヘども、此度(このたび)御ふしんの事は、其許樣(そこもとさま)へ御賴(おたのみ)なされる譯(わけ)、有ㇾ之(これある)由(よし)、よんどころなき事に承及候(うけたまはりおよびさふらふ)。」
と、いひければ、亭主、いづれにも、かやうの事、不案内に候へ共(ども)、達(たつ)て御賴(おたのみ)の事に候得(さふらえ)ば御請(おうけ)申しぬ。此うへは、よろしく、御賴申す。」
と、いひければ、大工、かねて、つもり置(おき)たる注文書、亭主へ見せ、
「此上百兩も御增(おんまし)直段(ねだん)書被ㇾ成(かきなされ)、可二被差出一[やぶちゃん注:返り点はママ。ここは「可ㇾ被二差出一」でなくてはおかしい。「刺し出ださるべし」である。]。其上は、拙者、うけ合い[やぶちゃん注:ママ。]、かやうとも、出來(しゆつたい)いたすやうに御世話可ㇾ仕(つまつるべし)。」
旨(むね)、申ければ、大工、相談の上、直段書付、差出(さしいだ)しけるに、屋敷にて披見の上、又、亭主を呼(よび)に來り、
「先日被二差出一候普請注文書付、餘り、下直(げぢき)成(なる)。」
由(よし)、主人申され候間(さふらふあひだ)、
「此直段のうへ相(あひ)增可ㇾ被二差出一旨申候間、增直段(ましねだん)いたし、指出(さしいだ)しけるに、度々(たびたび)、
「それにても下直成(なる)。」
よしにて、終(をは)りには二千金も相增たる直段にて、普請の事、いひ付られ、首尾好(よく)、造作出來して、此亭主、存(ぞんじ)もよらぬ金子、德付(とくづき)たれば、返す返す、
『ふしん。』
に思ひたるに、屋敷より、
「普請、よろしく出來いたし、主人も滿足におもはれ候。夫(それ)に付(つき)、此末(このすゑ)出入(でいり)いたすやう。」
に云付(いひつけ)られ、彼是、用事等、聞(きき)て、二、三年、經て後(のち)、主人、逢(あひ)けるに、亭主、よく見れば、先年、わが方(はう)に抱り人[やぶちゃん注:同前で「掛り人」。]に居(をり)たる男の、かく、殿になりてありつれば、大(おほい)におどろき、思惟するに、
『普請、莫大の直段にて、いひ付(つけ)られたるも、此報恩の爲(ため)にこそ。』
と、はじめて、おもひ、はかられたり、とぞ。
[やぶちゃん注:根本的に、冒頭で激しい疑問がある話である。「その家、早世して、親族の内、家督に願ひ立(たつ)べき人、なし」と言っている点である。後継者がなく、当該人が「早世」している場合、最後の切り札は死に際して、当時の法的には、末期養子にする方法しかない。死んでしまったのを、未だ生きていることにして、早急にそれを行うことはあったが、「早世」という謂いは、明らかに時間の経緯が有意にある印象を与えるからである。ちょっと、おかしい。末期養子が間に合わず、改易されたケースはごまんとある。後半、継いだ家がかなりの大金を持っていたことが判ることから、どうも、裏で金で誤魔化したもののように見受けられる。]
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