譚海 卷之九 京師石田勘平心學の事
○享保の比(ころ)、京部に石田勘平と云(いふ)儒者、有(あり)、朱學にて、專ら、一流の敎(をしへ)をなせり。
此勘平、丹波の產にて、「本心(ほんしん)を得る」といふ工夫(くふう)をなし、その趣(おもむき)を、愚俗の人に、あまねく、つたへけるに、門人、あまた出來(いでき)て、歿したる時、洛東、鳥邊野(とりべの)[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ)。]に葬(はうふり)たり。
門人の中に手島嘉左衞門(てじまかざゑもん)といふ者、京都の產にて、引(ひき)つぎて、本心の講釋をなし、俗言をもちて、あまねく勸(すすめ)ける故、其說、大におこなはれ、嘉左衞門、をしへにて、本心といふ事を得たるもの、數(す)百人に及(および)たり。
此本心のむねを得る時に至りて、「斷書(ことわりがき)」といふものを、其人[やぶちゃん注:「手島嘉左衞門の弟子」を指す。]に、あたへ、
「今日(けふ)よりは、すなはち、石田先生の旨(むね)を得られし事なれば、嘉左衞門が弟子にはあらず。石田先生の弟子ぞ。」
とて、其人に敬(うやまひ)て、鳥邊野に、おもむかしめ、墓を拜(をがめ)さする事に成(なり)たり。
嘉左衞門、歿して、其子、又嘉左衞門と稱し、父の道を、ひろめしかば、いよいよ、敎(をしへ)、盛(さかん)に成(なり)て、京都をはじめ、諸國にも、此をしへを傳(つたふ)る人、數多(あまた)、出來(いでき)しなり。
嘉左衞門門人に、中津道二(なかざはだうに)といふ者、大坂の產成(なり)しが、諸國にあそびて、此道をひろめ、當時、天明の比、江戶に在住し、盛に本心の旨を說(とき)さとせしかば、諸侯をはじめ、諸所(しよしよ)の招待にあづかり、大賈(たいか)[やぶちゃん注:豪商。]の番頭など、おほく歸依して、男女、此をしへを信ずるもの、萬人(まんにん)にあまりたり、とぞ。
其(その)をしふる所の大意(たいい)、程・朱の本然の氣質にもとづき、至極(しごく)の所は、釋・老の旨と、ひとしく、我心の安立する所を得るを、肝要と、くみたてたる事にて、禪家悟入の理に粗(ほぼ)かはる事、なし。儒の道を、やはらげて、平話にて人のよく聞取(ききとる)やうに物語にし、又は、假名(かな)にて平話に、其(その)をしへを書(かき)あらはしたる書も、あまた、あり。只、俗人を敎ふる事を先(せん)として、おのれをたてず、たとへば、其むねを著(しるし)たる書を披露するとても、
「何とぞ、是をよんで、御かんがへ下されよ。」
などと、無心(こころなく)いふやうに、たのみて、人に、すすめ、講談をするとても、座料などと云(いふ)事、一錢もとらず。其座敷、男女の席をわけて、しる、しらず、人を、まねき、其弟子の世話する者は、袴(はかま)を着(き)て、入來(いりきた)る人の、草履(ざうり)・はき物まで、丁寧に、あづかり、取扱(とりあつかひ)て、
「さりとては、御氣のどく成(なる)事、よう、御こしありし。」
などと、此方(こなた)より、說をうるやうに、もふけ、かまへたれば、人々、よろこび、歸依して、至(いた)る所、市(いち)をなし、感服せずといふ事、なし。
此道に、無文[やぶちゃん注:「無学文盲」の略。]の男なれども、よく、心理(しんり)の義を會(くわい)して、人に、をしふる故、たびたび、講談の席(せき)にのぞむもの、或は、不孝を、あらため、又は、放蕩成(なる)身を悔(くい)て、節(せつ)をあらため、正しき道に、おもむくもの、あまたありしかば、たふとき事に信じ、いたゞく事、かぎりなし。俗人をすゝめ、みちびくには、又、巨益(きよえき)、少からず、といふべし。
[やぶちゃん注:「享保の比」一七一六年から一七三六年まで。
「石田勘平」底本の竹内利美氏の後注に、『石門心学の開創者石田梅巌。丹波国南桑田郡の農家に生まれ、庶民の教化に一流をひらいた。延享元年歿』とある。通常表記は石田梅岩(貞享二(一六八五)年~延享(一七四四)元年)。江戸中期の思想家で、石門心学(せきもんしんがく)の祖。名は興長。勘平は通称。梅岩は号。京都の商家に奉公する傍ら、小栗了雲に師事。後に神・儒・仏三教を合わせた、独自の実践的倫理思想を、特に商人に対して平易に説いた。主著に「都鄙問答」・「斉家論」。他に門弟の編集になる「語録」が残る。当該ウィキが事績に詳しい。
「手島嘉左衛門」同前で『手島堵庵』(てじまとあん 享保三(一七一八)年~天明六(一七八六)年)。『石門心学の高弟。京都の商人で、心学の普及につとめ、庶民教育に力をいたした。天明六年歿』とある。当該ウィキによれば、『豪商上河蓋岳の子で、母は上河氏。子に手島和庵がいる。本名上河喬房。通称を近江屋源右衛門という』(辞書で調べたところ、後に嘉左衛門と称したことが確認出来た)。『字は応元、名は信、別名は東郭』。十八『歳の時に石田梅岩に師事。元文』三(一七三八)年に)『開悟し』、宝暦一二(一七七三)年『頃に家業を和庵に譲る。その後は』、『兄弟子たちの相次ぐ死もあり、石門心学の講説を行い、名声をあげる。隠居した当初は、京都富小路の五楽舎に住み、講学の場とするも、門弟の増加により』、安永二(一七七三)年に『五条東洞院に』「修正舎」を、安永八(一七七九)年には西陣に「時習舎」を、さらに天明二(一七八二)年には、『河原町に』「明倫舎」を建て、石門心学の普及』・『宣伝に尽力』した。『弟子には、中沢道二・布施松翁・上河淇水・脇坂義堂・薩埵徳軒などがいる』とある。
「中津道二」(享保一〇(一七二五)年~享和三(一八〇三)年)は名を義道、通称は亀屋久兵衛。京都の産。手島堵庵を師として心学を修め、命を受けて、江戸に下り、「参前舎」を興し、「関東心学」の基礎を築いた。また、関西諸国も遊説し、布教に努めた。道話の名手で、その筆録「道二翁道話」は刊本として広く読まれた(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。
「天明の比」一七八一年から一七八九年まで。
「程」二程子。北宋の思想家兄弟。兄の程顥(ていけい 一〇三二年~一〇八五年)と、弟頤(こう 一〇三三年~一一〇七年)。思想傾向が近いことから、一緒に論じられることが多い。彼らの学は「程学」とも称され、北宋道学の中心に位置し、宋学の集大成者朱子への道を開いた。天地万物と人間を生成調和という原理で一貫されているところに特徴がある。二人はともに朱子学・陽明学の源流とされる。
「朱」朱子。朱熹(しゅき 一一三〇年~一二〇〇年)。南宋の地方官で儒学者。宋以降の中国及び本邦の思想界に圧倒的な影響を及ぼした。彼は北宋道学を集大成し、宇宙論・人性論・道徳論の総ての領域に亙る理気の思想を完成させた。
「釋」釈迦の思想。仏教。
「老」老子の思想。]