譚海 卷之七 江戶下谷金杉村安樂院住持流刑の事
[やぶちゃん注:標題の「下谷金杉村」は「したやかなすぎむら」。底本では「目錄」の順列に問題がある。]
○同年八月廿七日、金杉安樂寺住持、遠島せられぬ。
これは、同所根岸むらにある御家人の妹、從來、安樂寺弟子尼(でしあま)にて有(あり)けるが、當春の頃、此尼、かねて死期をしりて、遺言に、
「我、往生せば、結緣(けちえん)のため、しばらく、其まゝにて、ほふむらず、七日の間、諸人にをがませよ。」
と云(いひ)けるが、其日を、あやまたず、臨終絡せしかば、家内の者を始め、皆々、たふとき事に思ひ、住持も、とぶらひ來(きたり)て、世話をいたし、則(すなはち)、住持の差圖にて、棺を溫飩箱(うどんばこ)[やぶちゃん注:底本に「溫」の右に『(饂)』とする補訂注がある。]の如く、さしふたに拵(こしら)へ、其中に此尼を坐せしめ、七日の間、人に、をがませける。
殊に、彼岸の頃にて有(あり)ければ、誠に生佛(いきぼとけ)の如く、諸人(しよにん)、聞(きき)つたへて、參詣、夥敷(おびただしく)、皆、極樂往生のいちじるしき事を嘆美せしなり。
第七日にあたり、はふぶり[やぶちゃん注:ママ。「葬(はうぶ)り」。「はふり「はぶり」とも表記した。]にあたるとき、安樂寺住持、又、來て、世話せしに、此亡者の尼、眼をひらき、住持に詞(ことば)をかはし、其後、瞑目して終りければ、いよいよ、
「奇異の事。」
に、人、いひあへりしを、公(おほやけ)にも、おのづから聞えて、
「事のあやしきわざ。」
に御沙汰あり。
又、かたへには、口さがしきものなど、
「此尼は、實は死果(しにはて)ざれども、年來(としごろ)、住持に密通して有(あり)ければ、住持と、はかりて、此度(このたび)、往生する事に世間へ披露して、はふむりて後(のち)、ひそかに掘出(ほりいだ)し、尼を、他所(よそ)にかくし置(おき)たる。」
など、風說まちまちなるに付(つき)、寺社奉行所より、御糺(おただし)にて、住持、めしとられ、久々(ひさびさ)、入牢せられ、拷問にも及(および)、その尼の墓をも、あばき御覽ありしかども、實證(じつしよう)なき事故(ゆゑ)、かく、遠島に處せられぬる、とぞ。
其兄の御家人も、是がために、御改易せられたり。
其後、又、住持の弟子尼、醫師の娘にてありけるもの有(あり)しが、此尼へ右の臨終往生せし尼の靈託(れいたく)して、時々、不思儀成(なる)事を口ばしり、又、是(これ)に、人々、心をかたぶけて、
『奇妙成(なる)事。』
に思ひしかど、
「全く極樂往生せし人、又、此世に、まよひきたりて、人に託(たく)す[やぶちゃん注:依代(よりしろ)する。]べきいはれも、なき。」
など、あやしみ、いふ事も、絕(たえ)ず。
能々(よくよく)事のわけをしりたる人のいへるは、
「此安樂寺に、惡敷(あしき)狐(きつね)、年久敷(としひさしく)住(すみ)わたる有(あり)て、はじめ死せし尼にも、此狐、託して[やぶちゃん注:ここは「憑依」、「狐憑き」を指す。]、あやしきわざどもを、あらはし、此たびの尼に、以前の臨終せし尼の宣託(せんたく)を承(うけたまは)るといふも、みなみな、此狐の所爲にて、住持も、ともに、夫(それ)をしらず、たぶらかされ、此わざはひにあへるなり。」
と、いへり。
左(さ)もある事にや、心得ぬ事ども、おほかるに、なん。
「住持は、またく、放逸の僧には、あらず。住所も至(いたつ)て質素の住居(すまい)にて、如法(によほふ)念佛の行者(ぎやうじや)なりしかども、愚(おろか)なるによりて、かく、狐にたぶらかされし事。」
と、かたりぬ。
[やぶちゃん注:まさに、村中ひっくるめて、泡立つ妄想共同体の集団的疑心暗鬼のヒステリー状態に陥ったものと推察される。
「江戶下谷金杉村」サイト「江戸町巡り」の「下谷金杉町」によれば、現在の(リンクはグーグル・マップ・データを私が附した)『東区下谷三丁目、入谷一』丁目・同『二丁目、竜泉二丁目、三ノ輪一丁目1~25番、竜泉二丁目20番、根岸三~五丁目』とあり、『奥州街道裏道沿いの東西に細長い地域』で、『「金杉」とは江戸時代以前からあった古い地名だが、地名の由来は不明。鎌倉時代末の記録によると「金曽木」』(かなそぎ)『といい、それが金杉に変わったと推察される。「金曽木」は現在でも小学校名として残っている』とあった。台東区立金曽木小学校は根岸四丁目にある。
「安樂院」根岸四丁目にある浄土宗佛迎山往生院安楽寺。
「饂飩箱」「慳貪箱・倹飩箱」(けんどんばこ)に同じ。「けんどんうどん」・「けんどんそば」などを入れて、注文先へ持ち運ぶ縦長の箱。 上下または左右に溝があり、蓋の取り外しが出来るようにしたもので、後、一般に、その様式の箱や袋戸棚を指した。参照した「精選版 日本国語大辞典」に図がある。この場合は、この中に見える仕切り板のない型のもので、そこに遺体を座らせれたものである。当時は座棺の棺桶が普通であった。民間では、明治になっても田舎では座棺であった。私の連れ合いの父は、岐阜七宗の出身であったが、彼女は小さな時に墓を改修する際、祖母の遺体を現認しているが、土葬で座棺であったそうである。]
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