譚海 卷之九 同侯江戶の邸及侯性行の事
[やぶちゃん注:底本も、国立国会図書館本も、「目錄」の順序に本文とは異同がある。標題「邸」は「やしき」と訓じておく。なお、この前の「備前國大すり鉢の事 久留米侯寬裕の事」は既にフライング公開してある。標題の「同侯」及び冒頭の「此有馬侯」は、その話に関わって受けたもの。]
○又、此有馬侯、江戶品川に下屋敷有(あり)、海に臨(のぞみ)て、面白き家作(かさく)なり。
朱の勾欄(こうらん)[やぶちゃん注:「高欄(かうらん)」に同じ。]など設(しつ)られて、めづらしきふしんなり。
土用中、寶生大夫(ほうしやうたいふ)、親子にて、暑氣見舞に參扣(さんこう)[やぶちゃん注:「參叩」とも書く。高位の人の所へ参上すること。]せしとき、
「品川の下屋敷に、候の居(を)らるゝ。」
よしを聞(きき)て、箕田(みた)より、直(ただち)に、かしこに赴(おもむき)しに、
「寶生大夫、參上。」
のよしを聞(きか)れて、此侯、
「逢(あふ)べし。」
とて、居間へ、よばれける。
其日、甚(はなはだ)、暑(あつく)成(なり)しに、種々(しゆじゆ)の蒲(ふ)とんを、高く、いくらも、積重(つみかさね)て有(あり)ける。
侯、はだかにて、紅(くれなゐ)の絹の犢鼻褌(ふんどし)一つになられ、ふとんの、いたゞきに坐して、墨塗(すみぬり)に蒔繪(まきゑ)したる、七つはしごを、双方に、かけて、給仕の婢(はしため)兩人、絹の帷子(かたびら)一重、着て、はしごを、おりのぼりするところへ、寶生親子、呼出(よびいだ)されければ、寶生は、ふとんの下に、うづくまりゐて、暑中のうかゞひを、のベけるに、有馬侯、上より聲をかけて、
「けふは、殊の外、暑氣なり。ゆるりと、休息して、歸(かへる)べし。なんと、女子(をなご)どもの内股は、下から、見へるにや。」
など申され、父子、大(おほき)に迷惑して、退出せり。」
と、人のかたりし。
[やぶちゃん注:「有馬侯」底本の竹内利美氏の後注に、『久留米藩主有馬氏。寛政ころの藩主は有馬頼貴』(延享三(一七四六)年~文化九年二月三日(一八一二年三月十五日)、『藩治に実績をあげている』とあったが、当該ウィキを見ると、『当時の久留米藩は財政難に悩まされていた。ところが頼貴は相撲を好んで多くの力士を招いては相撲を行ない、さらに犬をも好んで』、『日本全国はもちろん、オランダからも犬の輸入を積極的に行い』、『財政難に拍車をかけた。このため、家臣の上米を増徴し、さらに減俸したり家臣の数を減らしたりして対処している。しかし幕府からの手伝い普請や公役などによる支出もあって、財政難は解消されることはなかった』ともある。この驚きの暑気払いのありさまは、何となく、ウィキの言う上のような変奇の「困ったちゃん」ぽいのが、爆発してるわ。
「下屋敷」「江戸マップβ版」の「芝高輪辺絵図(位置合わせ地図)」の『有馬中務大輔』とあるのが、それ。現在の高輪の品川駅のある場所で、江戸湾に接してある。
「寶生大夫」宝生流十四代本家宝生英勝である。将軍徳川家斉・家慶に仕え、寛政一一(一七九九)年に、初めて宝生流謡曲の正本「寛政版」を刊行し、宝生流が最も幅を利かせた時代を作った。彼は文化八年十二月四日(一八一一年一月十七日)死去で、有馬頼貴と没年がグレゴリオ暦では同年にして、二ヶ月足らずしか変わらない。
「箕田」久留米藩芝上屋敷は現在の東京都港区三田一丁目(グーグル・マップ・データ)にあったから、これは「みた」と読んでおいた。この漢字表記の例は見出せなかったが、ウィキの「三田(東京都港区)」を見ると、『地名の由来』の項に、『この地に朝廷に献上する米を作る屯田(みた)が存在したからとも、伊勢神宮または御田八幡神社の神田(みた)があったからともいわれる』とあって、「箕」(米などの穀物の選別の際に殻や塵を取り除くための農具)と強い親和性があるので、違和感は私にはない。]
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