譚海 卷之九 同侯の奥へ戲者招かるゝこと幷數學の事
[やぶちゃん注:「同侯」は前の二話の主人公である変奇大名有馬頼貴を指す。]
○此侯の奥へ、時々、戲者(わざおぎ/ぎしや)[やぶちゃん注:この場合は広義の芸能の役者の意である。]、まぬかれ、終夜(よもすがら)、芝居・狂言、有(ある)事、時々(じじ)[やぶちゃん注:副詞。「しばしば」。]に及べり。
戲者を奥へ通さるゝ通路、表の内、玄關の側(かたはら)に、穴藏、有(あり)て、夫(それ)より入れば、地道(ぢみち)を過(すぎ)て、奧の舞臺へ直(ただち)に通らるゝやうに拵へられたる、とぞ。
諸藩中に、比類なき俠客なれども、朔望(さくばう)のつとめ、怠(おこたり)なく、殊に年﨟(ねんらう)にて、少將に奉任、有(あり)。
又、數學は無雙の事にて、家司にも、入江平馬など云(いふ)儒者をはじめ、數學に達せし人、多くありて、新著の算術の書など、板行(はんぎやう)にせられたる、有(あり)。
華人(くわじん)も、いまだ解しかねたる法(はう)まで、術を付(つけ)たる書にて、天下の數學者、歎美する事共、多し。
[やぶちゃん注:「朔望のつとめ」本来の「朔望」は、陰暦の一日と十五日を指すが、古代中国より、その日に朝謁する礼があったので、ここは、「幕府への勤仕(ごんし)」を指す。
「年﨟にて」「年をとってから」の意。頼貴は五十九歳の文化元(一八〇四)年に左少将に遷任されている。
「入江平馬」(いりえへいま)は、暦算家・兵法家であった入江東阿(とうあ 元禄一二(一六九九)年~安永二(一七七三)年)の通称。名は修敬・脩。江戸生まれ。初めは大島喜侍、後、中根元圭に学んだ。「山鹿流軍学」にも精通していた。寛延二(一七四九)年、筑後久留米藩に勤仕した(頼貴は未だ四歳で、当時は第七代藩主有馬頼徸(よりゆき)の治世。彼自身も数学者(和算家)として知られ、当該ウィキによれば、『それまで』五十二『桁しか算出されていなかった円周率をさらに』三十『桁』、『算出し、小数の計算まで成立させた』。明和六(一七六九)年には『豊田文景の筆名で』「拾璣算法」全五巻をも著している、『これは関孝和の算法をさらに研究し、進めた成果をまとめたものである』とあった)。著作に「天経或問註解」・「神武精要」等がある。]