譚海 卷之八 琉球國禪宗のみある事
○琉球國は佛者[やぶちゃん注:「者」には底本には編者の訂正傍注があり、『(法)』]、皆、禪宗のみ、有(あり)。
その内に妙心寺派の寺、一ケ所、有。
此住持にあたる僧の官職を取(とる)例(れい)は、薩摩へ、其僧、わたり居(をり)て、願へば、薩摩より京都へ使者を立(たて)て、妙心寺にて、許可の狀(じやう)をもらひ歸りて、僧に渡し、琉球ヘかへりて住持する事なり。
さつまにも、妙心寺派の寺、一ケ所、有。是も同例にて、二ケ寺ともに薩摩の僧斗(ばかり)を住持さするなり。
一年(ひととせ)、琉球所住の僧、住持に定(さだめ)られ、官職を願(ねがひ)に、さつまへ、わたり居たりしが、彼(かの)僧、おもふやう、
「宗派を汲(くみ)ながら、京都開山の塔へ拜禮せざる事、殘念成(なる)事。」
とて、さつまを出奔して上京し、妙心寺に詣(まふで)て直(ぢき)に許可を得、歸路に、駿河、白隱和尙の會下(ゑか)にとゞまり、敎(をしへ)をうくる事、三年にして、見𢌞(みまわり)[やぶちゃん注:行脚。]の後、歸國のこゝろざしありて、暇乞(いとまごひ)せしかば、白隱和尙より、國法[やぶちゃん注:薩摩のそれ。]を背(そむき)たる詫言(わびごと)の使者を添(そへ)、此僧を送られける。
歸國の上、事むづかしくありしか共(ども)、畢竟求法(ぐほふ)のための事故(ゆゑ)、やうやう、聞濟(ききずみ)[やぶちゃん注:承諾。]ありて、此僧、さつまに、一ケ年、蟄居せさせ、其後(そののち)、ゆるされて、琉球へわたり、住持せし、とぞ。
是迄は、琉球には禪宗ありといへども、祖師の心傳(しんでん)を會(くわい)したるものはなかりしが、此僧、禪宗の奧旨(あうし)[やぶちゃん注:「奥義」に同じ。]をつたへ、化益(けやく)[やぶちゃん注:教化(きょうけ)して善に導き、利益(りやく)を与えること。]せしより、琉球には、悟道の僧も、あまた、出來(いでき)たる事と、いへり。
[やぶちゃん注:「妙心寺派の寺、一ケ所、有」沖縄県那覇市首里当蔵町(首里城北面)に嘗つて存在した臨済宗妙心寺派天徳山円覚寺(えんかくじ、琉球語:「うふてぃら」)。当該ウィキによれば、『本尊は釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩の釈迦三尊』で、『琉球王国における臨済宗の総本山であり、第二尚氏の香華院(菩提寺)とされた』。本邦の元号の弘治五(一四九二)年、『尚真王が父尚円王の追福のため建立し、弘治』七『年』に、『京都の臨済宗僧芥隠禅師(かいんぜんじ)が開山した』。『鎌倉』の『円覚寺にならって禅宗七堂伽藍を備え、戦前には総門、三門、仏殿など』九『件が旧国宝に指定されていたが、沖縄戦ですべて失われた』とある。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。
「白隱和尙」臨済宗中興の祖と称される知られた名僧白隠慧鶴(えかく 貞享二(一六八六)年~明和五(一七六九)年)。当該ウィキによれば、『駿河の原宿で生』まれで(ここ。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)、『幼名』は『岩次郎』。数え十五歳の元禄一三(一七〇〇)年に『地元の』臨済宗『松蔭寺』(ここ)『の単嶺祖伝のもとで出家』し、『沼津の大聖寺』(ここ)の『息道に師事』した。元禄一六(一七〇三)年には『清水の禅叢寺』(ここ)『の僧堂に掛錫するが、禅に失望し』、『詩文に耽る。雲棲祩宏の』「禪關策進」に『よって修行に開眼』し、『諸国を』行脚をし、『美濃』『の瑞雲寺』(ここ)『で修行』した。宝永五(一七〇八)年になって、『越後(新潟県)高田の英巌寺』(廃寺となり、現存しない)『性徹のもとで「趙州無字」の公案によって開悟。その後、信州(長野県)飯山の道鏡慧端(正受老人)のもとで大悟、嗣法となる』。宝永七(一七一〇)年、『京都の北白川で白幽子という仙人に「軟酥の法」を学び、禅病』(禅僧に発症する精神疾患。鬱病・ノイローゼ等)『が完治する』。正徳六・享保元(一七一六)年に『諸方の遊歴より、松蔭寺に帰郷』した(数え三十一歳)。宝暦一三(一七六三)年には『三島』『の龍澤寺を中興』、『開山』を務めた。示寂(享年八十四)は馴染みの松蔭寺で迎えている。従って、この琉球僧が彼の下で修行したのは、正徳六・享保元(一七一六)年から示寂する明和五年十二月十一日(一七六九年一月十八日)までの閉区間内の五十三年間の三年間ということになる。]