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2024/02/13

譚海 卷之七 豆州新島より歸りたる流人の事

[やぶちゃん注:なお、底本「目錄」では本篇の標題が脱落しているので、国立国会図書館蔵本の「目錄」に従い、標題を示した。]

 

○御家人、口論せし御咎(おんとが)によりて、遠島に處せられ、十九歲より、三十年の間、伊豆の「にひ鳥」に有(あり)て、其名主の田地を、たがやし居(をり)たるが、赦免に逢(あひ)て召返(めしかへ)されしに、親類、殘らず、死絕(しにたえ)、やうやう、伯父壹人(ひとり)、有(あり)けるに、御引渡(おんひきわたし)ありけるに、伯父、ほどなく病死せしかば、身をよする所なく、耕作の外は無筆(むひつ)故、渡世も成(なり)がたく、殊に江戶の振合(ふるまひ)は、弱年より、島にありて、しらぬ事故(ゆゑ)、何事もなしがたく、大(おほい)に困厄(こんやく)[やぶちゃん注:「難儀」に同じ。]してありける折ふし、

「伊豆の船、來(きた)るに、其名主、乘來(のりきた)る。」

と聞(きき)て、御家人、行(ゆき)て、逢(あひ)つゝ、

「またまた、伊豆へ歸りたき。」

由、賴(たのみ)けるに、名主も、從來、律義に勤(つとめ)たる者ゆゑ、ほしがりて、内々、島へ歸り度(たき)願(ねがひ)、問合(とひあはせ)けるに、

「一旦、島より召(めし)かへされたる者、願によりて、島へ遣はさるゝ時は、先(まづ)、入牢仰付(おほせつけ)られ、遠島の罪人、有ㇾ之時(これあるとき)、一所につかさるゝ御法(ごはふ)なる。」

由。

「いつ、遠島の罪人、有(ある)べき事も、さだめがたく、夫(それ)までは、入牢し罷在(まかりある)事も何とも迷惑なる事故(ゆゑ)、しひて[やぶちゃん注:ママ。]島行(しまゆき)の事、御願も成(なし)がたく、進退、谷(きはまり)たる事にて、難儀いたしある。」

と、或(ある)人の物がたりなり。

[やぶちゃん注:「にひ島」現在の東京都新島村の新島(にいじま:当時は伊豆新島。グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『新島は江戸時代から明治三~四(一八七一)年まで『代表的な流刑地の一つとして利用されていた。上平主税(十津川郷士)や相馬主計(元新撰組隊士)など、政治犯を中心とした流人が多く流されてきており、島で再度重い罪を犯した者は、絞首刑とされた。総勢で』、千三百三十三『人が流されたが、島人は彼らに暖かく接したという伝記が残されている。今でも島内の墓地の中には』、『一段低い場所に流人墓地が存在するが、新島特有の白砂が敷き詰められていて、サイコロ型や酒樽型の墓石などもあり、村人が日々花をたむけるため』、『温かい雰囲気がある』(これは若き日に旅した神津島の墓地で激しく感動したのを忘れられない。私は、二晩とも、夜の墓地を訪れたものであった。毎日、島人の墓総てに満艦飾の花が供えられていたからである)。『また、流人の刑場であった向畑刑場跡へと続く道には柳が生えており、刑が執行される直前、罪人が現世を懐かしんで振り返った場所であったことから「見返り柳」と呼び、今でも供養の花や酒が供えられている』。『長い歴史を裏付けるように、島には今でも数多くの物語・民話が残っている。「山ん婆」や「よべーむん(呼ぶ者、の意)」、海坊主、魔物(まむん)、人魚など妖怪の類の話なども多くあるが、中でも海難法師の話は』(当該ウィキを参照されたい)『非常に有名である。海難法師は伊豆諸島の島ごとに少しストーリーが異なっており、リンク先の話とは異なるが、ここでは新島の例の概要を紹介する』として、『かつて伊豆諸島を視察して回っていた悪代官がいた。こんな人間が各島を回っては迷惑がかかり』、『気の毒だ、と考えた伊豆大島は泉津の若者たちが、船の栓を抜いて沈没させ、悪代官ともども溺死した。この亡霊が村を徘徊し、見た者には不幸が訪れると言う。溺死した代官の亡霊を見た物は発狂するととも失明するとも言われており、実際にそうなった人がいると言ういくつもの逸話が村にある』。『今でもその話を信じる習慣は残っていて』、一月二十四『日は「かんなんぼーし」と呼び、漁業を控え、夜は外出せず静かに過ごし、扉にはトベラ』(セリ目トベラ(扉)科トベラ属トベラ Pittosporum tobira当該ウィキによれば、『枝葉は切ると悪臭を発するため、節分にイワシの頭などとともに』、『鬼を払う魔よけとして』、『戸口に掲げられた風習があったことから「扉の木」とよばれ、これが転訛してトベラとなった(学名の種小名 tobira(トビラ)もこれによる)』とあった)『の小枝を挿して早寝する。代官の宿であった者の自宅では祠を設けて霊を祀り、現在でも当日の深夜に海岸へ向かう等の無言の行を行う。その翌日は子だまり、と言われており、子供を中心に同じことが行われるが、そうして親子』二『回に分けて催行される経緯は不明』であるとあった。こういう民俗は、私がすこぶる偏愛するものであるので、特に掲げた。

「無筆」数え十九で、読み書きが出来ないというのは、金回りの悪い御家人の次男以下で、ろくな教育も受けていなかったため、読み書きも出来なかったのであろう。

「江戶の振合」三十年間も新島にあって、今は四十九歳。その彼が、「十年ひと昔」の江戸のカルチャー・ショックに加えて、文盲とくれば、心情は判る。]

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