譚海 卷之七 深草元政上人俗姓の事
[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。「俗姓」は「ぞくしやう」「ぞくせい」孰れにも読む。
この「深草元政」(げんせい)「上人」は日蓮宗の僧で漢詩人でもあった日政(元和九(一六二三)年~寛文八(一六六八)年)。当該ウィキによれば、『山城・深草瑞光寺(京都市)』(ここ。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)『を開山した。日政は諱であり』、『俗名は石井元政(もとまさ)』。『京都一条に地下(じげ)官人・石井元好の五男として生まれる。姉は彦根藩主井伊直孝の側室・春光院である』。九『歳の時に建仁寺・大統院に入り、九厳和尚の薫陶を受ける。後に近江・彦根に移り』、十三『歳から城主の井伊直孝に仕える。松永貞徳に和歌も学んだ』。『幼少から山水を愛し、たびたび京都に赴いていたところ、泉涌寺・雲龍院の如周が法華経を講ずるのを聴いて感ずるところあり、病弱なこともあって』慶安二(一六四九)年に『に職を辞し』、『出家して日蓮宗・妙顕寺の日豊について僧となる』。『中正院の日護・本性寺の日徳と交流し、日蓮宗の秘奥を究めた』。明暦元(一六五五)年、三十三『歳で伏見深草に称心庵(後の瑞光寺)を営み、竹葉庵と号し』、『仏道の修行に励んだ。翌年』、七十九『歳になる母の妙種を伴い』、『身延山に参詣し、帰り道に江戸の井伊邸に母を託し、自身は日本橋に宿を取った。甥にあたる井伊直澄は』、『たびたび自分の屋敷に招待したが、日政はそれを固辞し、母を連れて京に帰った。その年に庵のそばに仏殿などを開き、深草山瑞光寺を開山し、法華経修行の道場とし、門下の宜翁を上座としてともに修行した。修行の合間に詩歌を楽しみ、熊沢蕃山・北村季吟など多数の著名人と交友関係があった』。寛文七(一六六七)年に『母の妙種の喪を営み、摂津の高槻にいたり』、『一月あまり留まるが』、『その翌年正月に病を得て、自ら死期を悟って深草に帰』り、『日燈に後事を託して寂』した。『享年』四十六であった。『遺体は称心庵のそばに葬られ、竹三竿を植えて墓標に代えたという。辞世として』、
鷲の山常にすむてふ峰の月
かりにあらはれかりにかくれて
『という歌がある』とあった。
また、彼との悲恋の相手「遊女高尾」については、底本の竹内利美氏の後注に、『吉原最高の遊女「太夫」の代表が「高尾」で、三浦屋の高尾太夫には初代から七代まであったという。しかし、通例いわれている妙心高尾以下、仙台・西条・水谷・浅野・紺屋・榊原の各代いずれも、ここの話には該当しそうもない。自害した高尾などは仙台高尾の斬殺(伝説)を別としてはない。もっとも高尾の考証にも異説が多い。こうした説話も伝えられていたのである』とあった。
さらに、本話の主人公の主君「掃部頭殿」については、『彦根藩主井伊家で、長寿院の法号をおくられたのは、井伊直該』(いいなおもり:元は直興(なおおき)と称したが、大老に就任した際、改名した。但し、後に前名に戻している)『で、明暦二』(一六五六)『年生、享保二』(一七一七)『年歿。大老職をつとめた』とある実在の人物である。しかし、元政上人の没した年で、彼は未だ数え十三歳であり、元政上人の事績とは一致しない。一致させるなら、同じ掃部頭を名乗った幕府大老相当職(大政参与)も務めた彦根藩第四代藩主井伊直澄(なおすみ 寛永二(一六二五)年~延宝四(一六七六)年:後に甥の直興を養子とした)を比定すべきであろう。但し、最後に注した通り、そこの出る戒名は、直興のものではある。
なお、この前の二話は、まず、「譚海 卷之五 相州の僧入曉遁世入定せし事 / 卷七 武州河越庵室の僧藏金に執心せし事(カップリング・フライング公開)」で、既に公開しており、後の話は、同じくフライングして、「譚海 卷之七 江戶中橋五りん町にて石中に玉を得し事」で公開してある。]
○新吉原土手の道哲(だうてつ)が寺に有(ある)「遊女高尾が墓」は、深草の元政法師(げんせいほふし)が建(たて)ける、とぞ。
[やぶちゃん注:「道哲が寺」「道哲」は浅草新鳥越一丁目(現在の台東区浅草七丁目)の吉原遊廓へ続く「日本堤」の上り口にあった浄土宗弘願山専称院西方寺の俗称。明暦(一六五五年~一六五八年)の頃、「道哲」という道心者が庵を結んだところから、この名がある伝える。吉原の遊女の投込寺として著名である。関東大震災後、豊島区巣鴨に移った。「土手の道哲」とも称した。]
元政、俗姓は、井伊掃部頭(ゐいかもんのすけ)殿家中、石井半平と云(いふ)者の子にて、吉兵衞といひて、江州彥根に住(すみ)けるが、若(わかki)時は、はいかいの句抔(など)を嗜しみ[やぶちゃん注:ママ。原本の「嗜」(たしな)「み」の誤記であろう。]、主人も、すかるゝ道ゆえ[やぶちゃん注:ママ。]、氣に入(いり)て、段々、江戶の供に具(ぐ)せられ、在番の内、高尾に馴染(なじみ)、したしき中(なか)と成(なり)、
「妻にも、むかへくれよ。」
と、いひけるに、
「我等、部屋住(へやずみ)の事なれば、心にまかせず、家督をも取(とり)なば、又、いかにも謀(はか)るべきかたも、あるべし。」
など、契りし程に、此高尾、外(ほか)の客に受出(うえだ)さるゝ事、定(さだま)りぬれば、人しれず、歎(なげき)て吉兵衞に、
「かゝるよし。」
を物がたりしかば、吉兵衞も、おどろきながら、
「はじめにも、いひし如く、部屋住の身なれば、百兩の才覺も出來ず、せんかたなく、もろともに打(うち)なげき、わかれける時、高尾、又、申(まふし)けるは、
「此月、いついつは、治定(ぢぢやう)[やぶちゃん注:副詞で「必ず・きっと」の意。]、身受(みうけ)の金子、うけ取り、わたし、ある。」
よしなれば、
「必(かならず)、其日に來給ふべし。今生(こんじやう)の別(わかれ)に、今、一度(ひとたび)、逢(あひ)まゐらせたし。わが身(み)事(こと)、外(ほか)へ片付く所存侍らねば、それを思ひ出にて、自害し申し侍るべし。晝のほど、すごさず、かならず、來り給へ。時刻、おそくなりなば、逢(あひ)まゐらする事も、はかりがたし。」
と、くり返しちぎりて、なくなく、わかれぬ。
吉兵衞、心ならず、あかしくらすほどに、其日に、いたりて、あやにくに、掃部頭殿、客來(きやくらい)あり。元より俳諧の會(くわい)なれば、朝より、吉兵衞を、めされて、御相手にて、主人と、三、四輩、百韻、興行あり。
されど、吉兵衞、高尾がやく[やぶちゃん注:「約」。]に、そむく事を、心中に、おもひ、わすれぬまゝ、ぜひなく、付句(つけく)はいへども、何をいひけるや、われも、わきまへず、やうやう、滿尾(まんび)にいたり、饗膳なども終(をはり)て、客人、御歸(おかへり)ありければ、夕暮に成(なり)ぬ。吉兵衞、宿所(しゆくしよ)にかへるより、高尾が事、心にかゝりて、
『いそぎ、訪(たづね)ゆかん。』
と、おもへど、便宜、あしければ、ためらふ間、主人、側(そば)のものに申されけるは、
「今日(けふ)の百韻、吉兵衞が句つくり、いつもに引(ひき)かへ、一向、首尾とゝのはず、正體(しやうたい)なき事のみ、いひつゞけたり。渠(かれ)が才發に似合(にあは)ざる仕方(しかた)、何共(なんとも)心得ず、もし、不快にも、ありて、然るにや。なんじ、行(ゆき)て承(うけたまはり)て參るべし。」
と、ありけるまゝ、側のもの、吉兵衞かたに來り、對面して、主人の詞(ことば)を述(のべ)、尋(たづね)けるに、吉兵衞、
「全く、氣分も相(あひ)かはる事、なし。よろしく御前へ申上られ給はるべし。」
と、いひしかば、立歸(たちかへ)り、右の次第を述(のべ)けるに、掃部頭殿、
「いやいや。今日の吉兵衞がやうす、平生(へいぜい)とは、殊の外、相違(さうゐ)なり。何か、心中に苦勞する事などもあり、と見えたり、こゝろ、みだれたるさま、一かたならず。今一度(いちど)、行(ゆき)て、よくよく尋ね參(まゐる)べし。」
と、いはれて、又、側の衆、來り、吉兵衞に主人の口上を、いひ聞せ、深切に尋しかば、吉兵衞、其者にむかひて、
「何をかくし申べき。貴殿も兼てぞんじあり。われら馴染の高尾、心ならず、身請、相すみ、今日(けふ)、相果(あひはて)候に付、われらに、今、一度(ひとたび)逢(あひ)たきよし、約せしかば、是のみ、心にかゝりて、今日は是非、尋(たづね)侍るべしとおもひしに、さしあひて、客來にて、心にもあらず、御相手に召(めさ)れし故、心も落つかず、おのづから、主君の御目にとまるほどの、不埒成(なる)句どもも仕(つか)ふ[やぶちゃん注:ママ。]まつりしならん。」
と、いへば、側のもの、聞(きき)て、大(おほき)におどろき、且(かつ)は、哀(あはれ)を、もよほしける。
吉兵衞、
「此次第は、御懇意の貴殿故に、物語申なり。御前をば、よきように申させ給へ。」
と、いひて賴(たのみ)、止方(しかた)[やぶちゃん注:ママ。]なき愁傷を、側のものも察し、暇(いとま)乞(こひ)て、立出(たちいで)、又、主人の前へ罷出(まかりで)しが、あまりに氣のどく成(なる)次第ゆゑ、ひそかに右のものがたりを申上ければ、掃部頭殿、聞(きこ)しめされ、
「吉兵衞かたへ急に用事有ㇾ之間、早々、只今、罷出(まかりいづ)べし。」
と仰出(おほせいだ)され、吉兵衞、心得ずながら、出(いで)けるに、早速、御逢(おあひ)ありて、掃部頭殿、仰られけるは、
「今日は、終日、客來にて、其方も、はいかいの相手をいたし、殊外(ことのほか)、氣鬱せしと見得(みえ)たり。今晚、暇を遣すまゝ、何(いづ)かたへも罷越し氣ばらし仕(つかまつ)り罷歸(つままつりかへ)るべし。夜に入(いり)、遲刻(ちこく)に及(および)ても、くるしからず。其段は、役人中(ちゆう)へ申渡し置(おく)べし。是をつかはす間(あひだ)、休息して、參るべし。」
とて、大(だい)成(なる)木枕(きまくら)を賜(たまは)りける。
吉兵衞、拜受して、心も空(そら)にて、宿所へかへり、枕をみれば、さしふたの箱にて、内に、金子七百兩、あり。
いとおもひがけぬ事ながら、うれしく、いそぎ提(さげ)て、新吉原三浦屋方(かた)へはしり行(ゆき)けるに、はや、時刻ほど過(すぎ)て、高尾は、あへなく、自害せし由。
吉兵衞、大(おほき)に歎き、悲泣(ひきふ)すれども、かヘらぬ事なれば、むなしく宿所へ立(たち)かへりぬ。
此故(このゆゑ)に、吉兵衞、心に入(いり)て、高尾が墓を造立せし、とぞ。
石塔の上に、地藏菩薩の像一體を、ほり付(つけ)有(あり)。
今も猶、此墓じるし、そのまゝにて殘りたれど、年曆をへしかば、地藏ぼさつも、みぐしの所は、半缺(はんかけ)落(おち)たるを、又、好事(かうず)のもの、石を継足(つぎた)し、取(とり)つくろひて、つくろへる石には、左右に、「もみぢ」のかたを、一葉(ひとは)づつ、彫付(ほりつけ)たり。
墓には、
秋風にもろくもちりし紅葉(もみぢ)哉
といふ、その折の高尾が辭世の句を、吉兵衞、手跡にて、書付(かきつけ)、彫(ほり)たりしが、是も、苔(こけ)むし、風雨にされて[やぶちゃん注:「曝れて」。「長い間、風雨や太陽に晒(さら)されて、色褪せ、朽ちて」の意。]、わづかに、一、二字も見わかつほどなり。
墓石のうしろに、江州彥根家中、石井氏、建(たつ)るよしを、しるしたりしを、是をば、吉兵衞三代後(のち)の子孫、名を惡(にくみ)て削(けず)り去(さり)し、とぞ。
扨、翌年、掃部頭殿、國許(くにもと)へ登らるゝとき、吉兵衞も、供にて、江州の番場(ばんば)まで參(まゐり)しに、同所にて晝食のせつ、吉兵衞、直(ぢき)に、主人へ、永(なが)の暇(いとま)を願(ねがひ)ければ、主人も、めを懸(かけ)らるゝものの事、殊に、高尾の事も聞(きき)及ばれぬれば、あはれに存ぜられ、やがて願のままに、暇、賜(たまひ)ぬ。
[やぶちゃん注:「江州の番場」滋賀県米原市番場。]
やがて、そこにて、吉兵衞、もとゞりを、きりて、出家と成(なり)、「元政」と號し、山城の深草(ふかくさ)に住(ぢゆう)し、法華持經(ほつけぢきやう)の大德(だいとこ)とは成(なり)ける。
是、則(すなはち)、世にしる所の深草元政(ふかくさげんせい)にて、同所瑞光寺の中興なり。石井氏の子孫は、今もなほ、彥根家中にて、祿千石、賜りて有(あり)。
其時の掃部頭殿は、長壽院殿と號し、諱(いみな)は□□と申(まふす)御方(おかた)なり、とぞ。
[やぶちゃん注:「其時の掃部頭殿は、長壽院殿と號し」この戒名は直興の戒名「長壽院覺翁知性」ではある。]