譚海 卷之七 上總國加納山うはゞみの事
[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、この冒頭注は以降では略す。]
譚 海 卷の七
〇上總の加納山には、「人とり」、有(あり)て、每年、人、うする事、有(あり)。
「『ひゝ』といふ、けだ物の所爲なり。」
など、いひ傳へて、人々、恐るれども、往來に、よけぬ道、なれば、人のとほる所なり。
寬政三年[やぶちゃん注:一七九一年。]の夏、ある村の商人(あきんど)、たばこを壹駄(いちだ)買得て、背に負(おひ)て麓(ふもと)を過(すぎ)けるに、夥しく、山、鳴りければ、
「何事ぞ。」
と見あげたるに、すさまじき「うはばみ」、山のかたより出(いで)て、此人をめがけて、追來(おひきた)りければ、おそろしきに、いちあしを出して、にげけれども、「うはばみ」、やがて追(おひ)かゝりて、せまりければ、
『今は、かなはじ。』
と、おもひて、かたへの木の大成(だいなる)うつろの有(あり)けるに、
『にげ入らん。』
と、するに、うはばみ、迫付(おひつき)て、のまんとす。
其人は、はふはふ[やぶちゃん注:「這ふ這ふ」。]、うろたへ、かしら、さし入(いれ)たれど、足は、まだ、外に有(あり)けるに、此うはばみ、大口を、あきて、負(おひ)たる、たばこ荷を、一口に、のみて、さりにけり。
商人、久しくうつろのうちにありて、聞(きく)に、やうやう、物の音、しづまりければ、をづをづ、はひ出(いで)て、跡も見ず、はしり歸りつゝ、
「しかじかの事、あやうき命、ひろひつ。」
など、かたるに、
「されば。とし頃、人とりのあるは、此うはばみ成(なり)けり。」
など、人々も、おのゝき物がたりあひしに、日ごろ經て、ある人、此山を過たるに、大成(だいなる)うはばみ、谷あひに、死してあるを見て、驚き、はしりかへりて、人に告(つげ)ければ、みな、うちぐして行(ゆき)て見るに、はやう、死(しし)たる事としられて、體も、やうやう、くちそこなひ、くさき香(か)、鼻をうちて、よりつくべうも、なし。
「かしらは、四斗樽ほど有(あり)ける。」
とぞ。
其丈(たけ)も、おもひやるべし。
「されば、たばこ、蛇のたぐひに、きわめて毒なるものなれば、此うはばみ、たばこの荷をのみたるに、あたりて、死(しし)たる成(なる)べし。」
と、いへり。
「めづらしき事。」
に、人、いひあへり。
[やぶちゃん注:「上總の加納山」千葉県君津市にある鹿野山(かのうざん)。標高三百七十九メートル。旧上総国(千葉県中南部)の最高峰。
「ひゝ」「狒々」。本邦に伝わる妖怪で、猿を大型化したような姿をしており、事実、老いた日本猿がこの妖怪になるとも言われる。参照した当該ウィキを読まれたい。但し、そちらにも書かれてあるが、人を攫(さら)うという属性などから、元は中国由来であることが判る(但し、その源流は中国ではなく、シルク・ロード経由で齎された幻獣である)。私は『「和漢三才圖會」卷第四十 寓類 恠類』の「狒狒」で、その想定実在モデルの考証もしているので、是非、読まれたい。
「四斗樽」現行の酒樽のそれは、菰を入れずに実長で、縦・横・高さ各六十五センチメートル程度のものが一般的である。容積は、酒で満タンにすると、七十二リットル入る。枡一杯百二十ミリリットルとして凡そ六百杯分に当たる。無論、こんな巨大な頭部を持つ蛇は、本邦には棲息しない。現行、最大種は爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナミヘビ亜科ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora の♂だが、それでも全長で三メートル超は稀れである。]
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