譚海 卷の八 相州矢倉澤通りつるぎ澤の事
[やぶちゃん注:この前の「藝州家士の妻奸智ある事」は既にフライング公開してある。]
○相州の大山より、小田原へこゆるには、「一の澤ごえ」といふを、するなり。
大山麓(ふもと)より、不動堂まで五十町あり。其十六町めの坂の脇に、「一の澤ごえ」のわかれ道あり。半里ほど、くだれば、すなはち「一の澤」也。「二の澤」・「三の澤」迄有(あり)。
石尊權現(せきそんごんげん)參詣の頃は、「やくらごえ」して、富士山に參詣する人、多ければ、ここに、茶屋、有(あり)て、水を賣(うる)なり。「一の澤」より、五、六町くだれば高野と稱する道場、有(あり)。律宗の僧、住(すみ)て、殊勝なる寺也。
此邊(このへん)より、人家、所々に有(あり)。是は「厚木ごえ」と云(いふ)にかゝる道なり。「ゑびらのわたし」などとて、船にて、わたる所、二所(ふたところ)有(あり)。鮎、ことにおほく、舶(ふね)の中へも、おどり入(いり)、おもしろき事、とぞ。
又、ある人のいへるは、
「大磯より、西に入(いつ)て「つるぎ澤」と云(いふ)を、へて、小田原へ、いづる道、有(あり)。大いそより、小田原へは、直(ぢき)みち五十町、是を行(ゆけ)ば、三里なり。外記(げき)の浄瑠璃にいへる廻れば三里直に五十町といふ所なり。曾我・中村をへて、「つるぎざわ」にいたる。中村に曾我兄弟の墓、有(あり)。「つるぎ澤」は、山岸のさわ[やぶちゃん注:ママ。]なり。砂地にて、砂のながれ落(おち)たる跡、岩をあらはし、岩のかたち、皆、尖(とがり)て、つるぎを立(たて)たるごとく、一、二尺づつの高さにて、澤中(さわぢゆう)、ことごとく、此岩なり。いくらといふ、かずを、しらず。頗る奇觀なり。」
とぞ。
[やぶちゃん注:以上の行程は、部分部分を歩いたことがある。しかし、一部に例の津村の聴き書きの不全で不審箇所がある。それを指摘しても、私が全く面白くないし、面白がる読者もいないだろうから、その手の注は今回は附さない。
「外記」「外記節(げきぶし)」。江戸浄瑠璃の一つ。薩摩外記藤原直政が貞享(一六八四年から一六八八年)の頃、語り出した豪放な浄瑠璃。人形浄瑠璃や歌舞伎の荒事などで行なわれたが、間もなく滅び、現在は河東節と長唄の数曲に、その影響が残るのみ。]