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2024/02/20

譚海 卷之九 盲僧支配御觸書の事

 

 譚 海 卷の九

 

 

〇天明五年八月、町奉行所より被仰渡候書面。

「中國西國筋、是迄、無支配の盲僧共、靑蓮院宮樣支配に相成候に付(つき)、武家陪臣の世悴(せがれ)、盲人は盲僧に相成(あひなり)、右宮御支配に付くとも、又は、鍼治(しんぢ)・導引(だういん)・琴・三味せん等いたし、檢校(けんげう)の支配に相成候共(とも)、勝手次第たるべく候。百姓・町人世倅、盲人共、盲僧には不相成、鍼治・導引・琴・三味線等、致し、檢校支配に可ㇾ被ㇾ成候。若(もし)内分(ないぶん)にて寄親(よりおや)等いたし、盲僧に相成候義は、決(けつし)て不相成事に候。右の外(ほか)、百姓・町人の世悴、盲人にて、琴・三味線・鍼治・導引を以(もつて)渡世不ㇾ致、親の手前に罷在候而已(まかりさふらふのみ)の者、幷(ならびに)武家へ御抱(おかかへ)、主人の屋敷、又は、主人の在所へ引越(ひきこし)、他所稼(よそかせぎ)不ㇾ致分は、安永五申年、相觸候通(あひふれさふらふとほり)、制外可ㇾ爲(せいがいなすべき)事、右の通、可相守旨不ㇾ洩樣(もらざざるやう)可ㇾ被相觸候以上。」

[やぶちゃん注:「天明五年八月」一七八五年。但し、当時の将軍徳川家治はこの月の八月二十五日に脚気衝心で死去している。享年五十(満四十九歳没)。当時は、高貴な人物の逝去の紅海は一ヶ月ほど伏せられるのが通例であった。なお、次代の養子家斉(いえなり)の第十一代将軍就任は天明七(一七八七)年であった(数え十五歳)。ただ、「福岡市博物館」公式サイト内の「アーカイブズ 」の「企画展示」の「 No.239 筑前の盲僧」を見ると、『天明』三(一七八三)『年、北部九州の盲僧は』、『ようやく青蓮院(しょうれんいん)という庇護者を得ることに成功します。京都粟田口(あわだぐち)にある青蓮院は延暦寺三門跡(えんりゃくじさんもんぜき)のひとつであり、盲僧たちにとっては申分のない格式を備えた寺院でした』。『青蓮院配下として再出発をした盲僧の生活は様々な規則に縛られるようになります。例えば、欠かさず年頭の挨拶に京都を訪れるべきことや、芸能活動の禁止等が定められました。また、当道座ほどではありませんが、頭(かしら)から平僧(ひらそう)に至る』六『段階の階層が設けられ、それぞれ』、『昇進の度に青蓮院へ礼金を納めなければならなくなりました。袈裟や杖も許可制となり、同様に礼金を必要としました』。『しかし、盲僧にとってプラスとなった面も多くありました。例えば、礼金などは当道座の官金制度より負担が軽く、時には青蓮院に「ツケ」で上納することも行なわれました』。『年頭挨拶も数年に一回、時期もまちまちで、代表者のみが上京することが多く、当初定められた規則は』、『あまり守られなかったようです。いずれにせよ、青蓮院の支配で盲僧は当道座に対抗できる権威を得て』『、安定した生活を手にしたと言えるでしょう』とあるから、この「天明五年」は「三年」の津村の判読の誤りの可能性が大である。「三」と「五」の崩しは、記者が雑だと、よく判読を間違えるからである。

「寄親」近世、奉公人の身元引受人(保証人)を指す。

「安永五申年」一七七六年。同じく家治の治世。]

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