譚海 卷之九 紀州那智の瀧幷熊野浦の事
○紀州、「那智の瀧」は「本朝第一」と稱す。
瀧は、おほく、山陰(さんいん)に落(おつ)るものなるを、此たきは、山陽に落(おつ)るをもちて、名勝とす。
晴(はれ)たる日、熊野うらへ出(いで)てみれば、南海、渺茫として、波濤、天をひたし、北をかへり見れば、那智の山、高くそびえて、雲間に、瀧のかゝりたる景色、誠に山水の絕勝と稱すべし。
有德院公方樣[やぶちゃん注:徳川吉宗。]、むかし、上覽ありしを、思召(おぼしめし)わすれず、御坊主岡本養悅といふ畫事(ゑごと)に堪(たへ)たる人に命ぜられ、其景を、うつさしめ給ふ。養悅はるばる紀州へ趣(おもむき)て、熊野浦の獵師の家にとまり、八日ばかりありて、寫し得たり。繪師の家、みなみな、くじらとる事を第一の業(なりはひ)とするゆゑ、家の内、なまぐさき事、かぎりなし。
「獵師の家、皆、鯨の胴骨(どうぼね)をたてならべて、垣(かき)となし、その際(きは)に住居(すまい)す。くじらの骨、『たてうす』[やぶちゃん注:「縱臼」。]を見る如く、いくらも、たてならべたるさま、異(こと)なれる見ものなり。」
とぞ。