譚海 卷之九 御朱印紙の事
[やぶちゃん注:いらんだろうと思ったが、漢文部分は後に〔 〕で推定訓読文を示した。]
○御朱印の鳥子紙(とりのこがみ)、生間似合(きまにあひ)は、越前より、漉(すき)ていだすなり。
「皆、女の漉く事にて、十六、七歲より、廿四、五歳迄の女、漉たる紙は、殊に、光、ありて、うるはし。」
と、いへり。
[やぶちゃん注:「生間似合」平凡社「改訂新版 世界大百科事典」の「間似合紙(まにあいがみ)」に(コンマを読点に代えた。下線太字は私が施した)、『雁皮紙(がんぴし)の一種で,襖紙(ふすまがみ)としてはられるとともに、書画用紙としても使われた。名称の由来は、襖の半間の幅』三尺(約九十センチメートル)に『継目なしにはるのに、間に合うの意味といわれ、鎌倉時代から現れてくる(初出は』「祇園執行(ぎおんしゆぎょう)日記」建治四(一二七八)年の条)。『中世の障壁画の用紙としても使われている。江戸時代の間似合紙の産地としては、越前紙(福井県越前市の旧今立町)と』、『名塩紙(兵庫県西宮市塩瀬町名塩)が群を抜いた存在であった。当時、越前の間似合紙が雁皮原料のみの生漉き(きずき)間似合紙を特色とするのに対し、摂津(名塩)の間似合紙は,雁皮原料に地元特産の岩石の微粉を混入した粉入り間似合紙を特色とした。今日もなお、名塩では数軒が間似合紙を漉いている』とあった。]
暑中は、「かうぞ」、ねばりて、漉がたきゆゑ、漉事を止(やめ)て、秋凉(しうりやう)を待(まち)て、又、すきはじむるなり。
奉書紙も越前を第一とす。わかき女の漉たるは、紙、うすくして、曇(くもり)なく、淸らかに、光あり、手の、かろき故なり。老女の漉たるは紙、厚けれども、曇て、下品なり。手の重き故、又、光も、なし。
すべて、國主大名へ賜(たまは)る所の御朱印紙は、生間似合なり。先年より賜る所の御朱印のうつしを、兼(かね)て、大名より、同じ紙に書(かき)て奉り置(おく)事なり。
今年、天明七年[やぶちゃん注:一七八七年。当時の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。]、御朱印賜(たまは)る時に、書出(かきいだ)す所のうつし、すべて、八枚なり。東照宮より、俊明院公方樣[やぶちゃん注:家斉。]に至(いたる)迄、連綿、賜(たまふ)所、文章院・有章院兩公方樣の御朱印斗(ばかり)なし。早く薨去ありし故、其事に及ばざればなり。
[やぶちゃん注:「文章院」これは津村が次の院号に引かれて誤記したものであろう。「文昭院」が正しく、第六代将軍徳川家宣。「有章院」第七代将軍徳川家継。]
寺社へ賜(たまふ)所の御朱印紙は、大槪、大高檀紙(おほたかだんし)なり。
普通には、月日の肩に、御朱印、有(あり)。
それより、一等上(のぼ)れるは、月日の下に、御印あり。文言、皆、「任二富家先判例一宛行者也」〔富家(ふけ)の先(さき)の判例に任せ、宛て行く者なり。〕とありて、御印斗(ばかり)にて、名は、なし。
至(いたつ)て重きには、征夷大將軍御姓名ありて、御印、有(あり)。
寺社の宛名も有。それらは、文言、「所ㇾ令二寄附一如ㇾ件」〔寄せ附きせしめし所(ところ)、件(くだん)のごとし。〕とあり。
[やぶちゃん注:「大高檀紙」(「檀紙」は、楮(こうぞ)で漉いた厚手で白く皺のある高級紙を指す)「中高」(ちゅうたか)・「小高」(こたか)に対して、大型の檀紙をいう。縦一尺七寸位(約五十センチメートル)、横二尺二寸位(約六十七センチメートル)。徳川時代、備中(岡山県)産が有名であったが、現在は、殆んどが福井県から産出される。昔は綸旨・免状・辞令や、高級な包み紙などに用いられた。今は化学繊維を混ずるものもでき、包装・書道などに使用する。「大高」「大高紙」(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]