譚海 卷之七 江戶源兵衞店水戶家藏屋敷肉桂の事
[やぶちゃん注:なお、底本「目錄」では本篇の標題が脱落しているので、国立国会図書館蔵本の「目錄」に従い、標題を示した。]
〇水戶家の藏屋敷、すみた川小梅堀(こうめぼり)に有(あり)て、そこに和肉桂(わにくけい)の大樹ありしに、枯朽(かれくち)てたふれたるを、肉桂ともしらずして、屋敷守の翁、淺草御厩河岸の風呂屋へ、薪(まき)に、うり渡しけり。
風呂屋にて、此樹を薪に割居(わりをり)たるを、近鄕の醫師、見付(みつけ)て、
「是は、めづらしき木なり。我に賣(うり)あたへくれよ。」
とて、金子三百疋に買得たるに、もはや眞木(まき)は、つかひ、うせたるあとにて、木の皮ばかり買(かひ)たるを、かなたこなたへ、賣鬻(うりひさぎ)て、金子、四、五兩に成(なり)しかば、此醫師、不慮の德、つきたり。
其刻(そのみぎり)、屑(くづ)とて、酒に浸したるを飮(のみ)たるに、味、よく、肉桂の香(かをり)に、くんじてありし。
是は、心越禪師、來朝せしはじめ、攜來(たづさへきた)りて、水戶の小石川邸の山地にうゑられたりし時、同じ樹の種(たね)を小梅にもうゑられしが、かく朽殘(くちのこ)りてありし事、とぞ。寬政三年秋の事なりし。
又、武藏野菅生(すがお)といふ所の村にも、龍眼肉の樹、有(あり)。
是は、その村の醫師、「龍がんにく」を藥劑に用ゐし事ありしとき、其殼を、塵壺(ちりつぼ)へ棄(すて)けるに、そこより、生(おひ)たるよしなり。
「今は、大木になり、枝・幹のさまも唐木(からき/たうぼく)の葉づきにて、常磐木(ときはぎ)にて、此國には、なき木振(きぶり)なり。」
とぞ。
「其のち、そこの里正(りせい)[やぶちゃん注:「庄屋」「村長(むらをさ)」に同じ。]田澤某、是を聞きて、ことさらに新渡(しんわたり)の「りうがん」を、壹斤(いつきん)[やぶちゃん注:六百グラム。]、求(もとめ)て蒔(まき)たるに、是も、二本、實生(みしやう)せしよし。」
を、かたりぬ。
むさしのには、「りうがん」のるゐ、土に、あひたる所にや。
[やぶちゃん注:「水戶家の藏屋敷、すみた川小梅堀に有」本所の北にあった小梅村の小梅堤のことであろう。「人文学オープンデータ共同利用センター」の「江戸切絵図」の「本所」の「位置合わせ地図」の絵図の上方の端に「水戶殿」(水戸藩下屋敷)とある附近であろう。
「和肉桂」日本原産の唯一のニッケイの種であるクスノキ目クスノキ科クスノキ属ヤブニッケイ Cinnamomum yabunikkei が、まずは想起される。当該ウィキによれば、『日本の本州(福島県以南)、四国、九州、沖縄、朝鮮の済州島、中国に分布するとされるが』、『日本における自然分布は、近畿以南から沖縄の範囲までと言われている』とある。『葉や樹皮は薬用に使われ、種子からは香油や蝋を取ることができる』。『また』、『葉、根皮などに香気があるが』、『ニッケイ』 Cinnamomum sieboldii 『よりは劣る』とある。しかし、ウィキの「ニッケイ」を見ると、『江戸時代中期に、中国から渡来した桂皮の有用性が国内で認識され、各地でニッケイの栽培が始まった。この栽培種は、東南アジア原産種Cinnamomum loureiroi Nees (1836)と同一とみなされていたが、沖縄本島北部・徳之島などに自生する野生種と同一であると判明したため、近年では日本固有種として扱われるようになって』おり、『これに伴い、学名をCinnamomum sieboldii Meisn. 又は Cinnamomum okinawaense Hatusima と表記する図鑑、書籍が増えている』ともあったので、以下の心越禅師が携えて来朝したものとなら、これは真正のニッケイである可能性が高いか。さらに、『和歌山県では、栽培最盛期の大正』一〇(一九二一)『年頃まで根皮』一万『貫、樹皮(桂辛)』五千『貫の生産があり、ドイツやアメリカにも生薬として輸出された。 一方、この頃、国産ニッケイの精油含量が中国産の桂皮に劣ると報告され』、『医薬品原料としての関心が薄まり始めた』。『昭和以降』には、『医薬品原料としての需要は徐々になくなり、和歌山県の生産量は、昭和』二二(一九四七)『年には』百『貫まで減』った。「日本薬局方」に『おいては、第六改正(昭和』二六(一九五一)『年発行)までは「日本ケイ皮」として収載されていたが、流通実績がないために次の改正から外され、現代においては、医薬品として使用されることはない。また、食品原料としての流通も現在では』、『ほとんどなくなり、上述した和菓子の製造においては、代替としてシナモンを用いているものが多い』とあった。
「三百疋」三千文で一・七五両相当。
「心越禪師」東皐心越(とうこうしんえつ 崇禎十二(一六三九)年~元禄九(一六九六)年)は、江戸初期に明(一六四四年に清となる)から渡来した禅僧で、日本篆刻の祖と呼ばれ、又、中国の古琴を日本に伝えたことから日本琴楽の中興の祖ともされる。彼は、一六七六年、清の圧政から逃れるために杭州西湖の永福寺を出て日本に亡命、一時、清の密偵と疑われて長崎に幽閉されたが、天和三(一六八三)年に、かの徳川光圀の尽力によって釈放され、水戸天徳寺に住して、専ら、篆刻や古琴を教授した。後に病を得、元禄八(一六九五)年に相州塔ノ沢温泉などで湯治をしたが、その帰途、現在の横浜の金沢八景を訪れ、自身が暮らした西湖の美景瀟湘八景に倣って八景を選び、八首の漢詩を残した。これが金沢八景の由来となった(なお、彼は薬石効なく、天徳寺に戻って同年九月に示寂した)。心越の漢詩及び歌川広重の代表作である天保五(一八三四)年頃から嘉永年間にかけて刊行された大判錦絵の名所絵揃物「金沢八景」の全カラー画像は、私の電子テクスト「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の「八景詩歌」の注で掲載している。是非、御覧あれ。
「武藏野菅生」東京都あきる野市菅生(グーグル・マップ・データ)。
「龍眼肉の樹」ムクロジ目ムクロジ科リュウガン属リュウガン Dimocarpus longan 。
「唐木」シタン・コクタン・ビャクダン・カリン・タガヤサンなど、熱帯地方から本邦への輸入された銘木全般の総称。もと、中国を経て輸入したことから「唐木」と称する。]
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