譚海 卷之七 江戶谷中根津權現畑中井の事
[やぶちゃん注:なお、底本は順序が入れ替わっているので、国立国会図書館蔵本の「目錄」に従い、標題を示した。その「畑中井」は「はたなかのゐ」と訓じておく。]
○谷中(やなか)根津橫現(ねづごんげん)の、瑞籬(みづがき)の東の外(そと)、畑中に、古井(ふるゐ)、有(あり)。
「此井の水を、くみ、水を、うごかすときは、必(かならず)、震雷(しんらい)する事あり。」
と、其地の人、物がたりせり。
[やぶちゃん注:「谷中根津橫現」現在の東京都文京区根津にある根津神社(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『江戸時代には山王神道の権現社であり、当時は「根津権現」とも称された。この呼称は明治初期の神仏分離の際』、『「権現」の称が』、『一時期』、『禁止されたために衰退したが、地元では現在も使われる場合がある。単に「権現様」とも称され』、『根津神社の近くには、森鷗外が文京区に移住してから最初に住み、後に夏目漱石が住んだこともある千朶山房(せんださんぼう)や、鷗外が後半生に暮らした観潮楼(かんちょうろう)が近かったこともあり、これらの文豪に因んだ旧跡も残されている』(先のリンク先を拡大されたい)。『特に鷗外は根津神社の氏子で、小説』「青年」に『「根津権現」として登場するなど縁があり』、二〇一二年に『閉館した旅館「水月ホテル鷗外荘」(台東区池之端)で使用されていた鷗外の旧邸も根津神社に移築されることになった』とあり、近代の『文学作品で』も『「根津権現」として出てくることが多い』。この創始は、『日本武尊が』千九百『年近く前に創祀したと伝える古社で、東京十社の一社に数えられている』。『現在の社殿は宝永』三(一七〇六)年に『甲府藩主の徳川綱豊(後の江戸幕府第』六『代将軍徳川家宣)が献納した屋敷地に造営されたものである。権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作とされて』おり、『社殿七棟が国の重要文化財に指定されている』とあった。
「瑞籬」「瑞垣・水垣」とも書く。古くは「みづかき」。神社などの周囲に設けた垣根(神霊の宿ると考えられた山・森・木などの周囲に巡らした垣も指す)。「玉垣・神垣・斎垣(いがき)」とも称する 。
「井」現行では確認出来ない。]