「蘆江怪談集」 「大島怪談」
[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本本文の開始位置はここ。本篇は冒頭に蘆江の添書がある通り、「市川八百藏」氏の実話である。彼は歌舞伎役者で俳優の八代目市川中車(明治二九(一八九六)年~昭和四六(一九七一)年)本名は喜熨斗倭貞(きのししずさだ)。初代市川猿之助の次男である。詳しくは当該ウィキを見られたい。写真もある。添書は一行であるが、ブラウザの不具合を考えて、二行に分けた。
なお、本篇で怪談小説篇は終わっており、後に蘆江の本書の後書に代えた随想「怪談雜記」が載る。]
大 島 怪 談
これは、市川八百藏君の實驗談である、
文中私とあるは八百藏君自身である。
一
私は曾(かつ)て自殺の覺悟(かくご)をした事がありました。まだ二十歲(はたち)になる前で、只(たゞ)無やみに死にたくなつたのです。今(いま)から考へて見れば、一つも死ななければならぬ理由(わけ)などはありません。けれども、其時の私(わたし)は、どうでもかうでも死んで了(しま)ひたいと思ひ込んで居(を)りました。
いよいよ死なうと覺悟(かくご)した時、私は二つの條件(でうけん)を自分自身に定(き)めました。
第一は人に邪魔(じやま)をされず、悠々と死ねる場所を探(さが)す事、
第二は死んだあとで死骸(しがい)を人に見(み)つからないやうにする事、
どちらも六ケ敷い條件(でうけん)です。いろいろ考へた末火山(くわざん)の噴火口に飛び込む事に思ひ當(あた)りました。
火山といへば淺間(あさま)か伊豆大島の三原山が手近(てぢか)にあります。
その二つの中で淺間山(あさまやま)の方では、山へ登(のぼ)つてゐる間に追ひかけられる恐(おそ)れがある、三原山なら海を渡(わた)つてゆくだけにその心配(しんぱい)がありません。
「三原山にしよう」と私(わたし)はきめました。
まだ袷衣(あはせ)を着てたやうに思ひますから初夏(しよか)の頃ででもあつたでせう。私の目的(もくてき)は着々と進んで間もなく私は三原山(みはらやま)の頂上へ只一人誰にも妨(さまた)げられずに立つ事が出來(でき)ました。
「これなら思(おも)ふ通りに死ねる」と思つて、私は落付(おちつ)いた心持になりました。全くあ時(とき)のやうな落付(おちつ)いた心持になつた事はあとにも先(さき)にも只の一度(ど)もありません。
足許(あしもと)をすくはれさうな强い風を全身(ぜんしん)に受けながら私は一步々々上がります。[やぶちゃん注:底本では、句点はないが、『ウェッジ文庫』に従い、特異的に打った。]眼前(がんぜん)は次第に次第にひろびろと開(ひら)けてゆきます。而も目の下は縹渺(べうしや[やぶちゃん注:ママ。「へうべう」が正しい。])たる大海です。私の心持(こゝろもち)はいやが上のびのびとして來ました。愈々(いよいよ)頂上に達した私は死(し)といふものに、直面(ちよくめん)した喜びに胸を轟(とゞろ)かしながら、頂上の火口を覗(のぞ)き込みました。
朦々(まうまう)と吹上げる硫黃(ゆわう[やぶちゃん注:「いわう」は古くはこうも読んだ。])の烟は濃霧のやうに私の顏を蔽(おほ)つて、一寸先も見(み)えません、むせかへるばかりの硫黃(ゆわう)の香に呼吸を壓(あつ)せられながら私は暫(しば)らく立ちつくしてゐますと、火口(くわこう)を吹きまくる風は始終(しじう)四方へ舞つて居ります。その風の爲めに硫黃(ゆわう)の烟は、パツと亂れて向ふへ吹(ふ)き拂(はら)はれました。
此のひまにと思(おも)つて、私は岩角(いはかど)へすがりながら、火口を見下(おろ)しました。見下すと共にアツと叫びました。
こゝこそ屈竟(くつきやう)の死に場所と思つた私の考へはがらりと外(はづ)れて了つてゐます。
今が今まで火口(くわこう)だとばかり私が思つてゐたのは、舊火口(きうくわこう)の方で、目の下は七八丈[やぶちゃん注:二十一・二一~二十四・二四メートル。]もあらうと思はれる深さの斷崖(だんがい)でした。この斷崖(だんがい)の谷を越して向ふは丘その丘(をか)の彼方こそ本當(ほんたう)の噴火口です、卽ちこの山の火口(くわこう)は二重丸のやうになつてゐるのです。ですから頂上(ちやうじやう)まで上つたところで噴火口の側(そば)へは寄りつく事が出來(でき)ないといふわけになります。
三原山が新舊(しんきう)二つの噴火口(ふんくわこう)を持つてゐる複式火山であらうとは今が今まで心付(こゝろづ)かなかつた。私は只呆然(ぼうぜん[やぶちゃん注:ママ。])として舊火口の緣(ふち)に坐つた儘、谷底を睨(にら)みつけてゐました。
「折角(せつかく)來たのだからこの谷へ飛(と)び込まうか、併し、これでは死骸(しがい)が見える。新火口まで行く方法を考へようか。迚(とて)も考へたところで人間業(にんげんわざ)では出來ない事(こと)だ、あゝどうしようどうしよう」
と私は只々(ただただ)考(かんが)へました。[やぶちゃん注:一字下げはママ。]
轢死を企(くはだ)てる人が線路をまくらにしてゐても、汽車の轟(とゞろ)きを聞くと、慌(あは)てゝ飛び起きるものだといひます。切腹(せつぷく)をしかけてゐる人の前へ石を投(な)げつけると思はず知らず危(あぶ)ないといふさうです。
如何に死を決心(けつしん)しても、愈々といふ土坦場(どたんば)[やぶちゃん注:「坦」はママ。「土檀場」が正しい。]に坐ると、死にたくないといふ心(こゝろ)がひしひしと身に迫つて來るといふ事は平生(へいぜい)人(ひと)の話に聞いてゐました。話にばかり聞(き)いてゐる時は、それは決心(けつしん)が足(た)りないからだと思(おも)ひつめて居りました。
併し、今時分が其場(そのば)に當つて見ると、全くその通(とほ)りだといふ事がしみじみ感(かん)じられます。
「死(し)なうか、止さうか」と思ひ迷(まよ)ひながら、丁度三時間(じかん)、私はこの舊火口の斷崖(だんがい)の上に坐つて考へましたが、兎に角死場所(しにばしよ)をかへようといふ心の方が勝(か)つて山を下(くだ)りはじめました。
さあさうなると、晴れ晴れとして上つた山道が、急に怖(おそ)ろしくなつて、始終(しじう)何者かに追ひ迫(せま)られるやうで足は滿足(まんぞく)に地につきません。私は只々(ただただ)、あとを見ずに一目散に驅(か)け下りました。麓の船着場の旅館(りよくわん)に私は宿を取つて居(を)りました。
追手(おつて)に追はれた落人のやうな心持(こゝろもち)で、私は息を切らして宿(やど)の戶口へ駈(か)け込みました。
二
宿には私が山へ登る前(まへ)に同じやうに、美術學校(びじゆつがくかう)の生徒が三人と、品(ひん)のよい若女房が一人泊(とま)つて居りました。
若女房(わかにようぼ)と云つても、もう二十五六にはなつてゐたでせう。この人(ひと)は少し、離れた座敷(ざしき)を借りてゐるので、私は美術學生(びじゆつがくせい)三人だけと懇意(こんい)になつて居りました。
「頂上まで行(ゆ)きましたか」
「實に天下の壯觀(さうくわん)と云ひ得られる景色(けしき)でせう、さうは思ひませんか」
などと三人は口々(くちぐち)に話しかけました。私はそれに對(たい)して本當の私の心持をいふ事が出來(でき)ません。好い加減に相槌(あひづち)を打つた儘、疲(つか)れたからといふので其夜は早く床(とこ)につきました。
丁度(ちやうど)私が山を下り切つた時から島は激(はげ)しい風に襲(おそ)はれました。島が根こぎに持(も)つて行かれるかと思ふくらゐの物凄(ものすご)さです。
枕(まくら)につくが早いか私は一日の疲(つか)れでぐつすり寢ましたが、間(ま)もなく雨戶を打破(うちやぶ)るほど吹きつける風の爲(た)めに目をさまされました。それからといふものどうしても眠(ねむ)れません。只何となく冴(さ)え冴(さ)えとして來る目を見張(みは)つて、床の上で寢(ね)がへりばかりしてゐますと隣(とな)りの部屋で俄(には)かに人聲が仕始(しはじ)めました。
「今時分(じぶん)まで行くところもないのに、一體(たい)どうしたのだらう」
「風に吹き飛(と)ばされやしないかね」
「一體(たい)何時(いつ)頃から出かけたんです」といふのは美術學生(びじゆつがくせい)たちの聲。
「夕方前(ゆふがたまへ)でございました。一寸(ちよつと)散步(さんぽ)して來ると仰しやつて」といふのは宿の主人の聲。
だんだん聞いてゐると離室(はなれ)の若女房が出たつきりかへつて來ないといふ騷(さは)ぎらしい。矢先(やさき)が矢先ですから、私(わたし)はすぐに、――自殺――といふ心持が浮(うか)び出ました。そして頭から水を浴(あ)びせられたやうにぞつとしました。もう寢(ね)てなんぞ居られません。
直ぐに私もその評定(へうじやう[やぶちゃん注:ママ。])の仲間に入りました。
「何(いづ)れにしましても、一寸(ちよつと)お部屋を調べて見たいと思ふのでございますが」と主人(しゆじん)が云ひますと美術生(びじゆつせい)たちは一齊に
「それが好(い)いそれが好い」と同意しました。
「では、甚だ恐(おそ)れ入りますが、皆樣でお立會(たちあ)ひを願ひたうごさいます」と主人は先に立つて離室(はなれ)の客間(きやくま)へ入りました。四人(にん)はぞろぞろとそのあとへついてゆきました。
離室(はなれ)に何一つ取り散(ち)らしたものもありません。
部屋の主が一寸(ちよつと)散步(さんぽ)にと出かけたあとのやうな事は少(すこ)しもありません。
「馬鹿に片付(かたづ)いてるね」
「少し怪(あや)しいぞ」と美術生(びじゆつせい)は口々に云ひました。
押入(おしい)れを開けて見てもきちんとして居ります。押入(おしい)れの中のものに手をつける前(まへ)に、床の間に据(す)ゑた鏡臺をしらべましたが、鏡臺(きやうだ)の抽斗(ひきだし)のどれにも異狀はありません。
「君その筥(はこ)の中を見たまへ」と一人がいふので、學生(がくせい)の一人が鏡臺の側に置いてあつた櫛疊紙(くしたゝみがみ)のやうなものを開けて見ますと、櫛(くし)やすき油がきちんと入れてある下(した)に何やら半紙(はんし)が一枚入つて居ります。
何氣(なにげ)なしに主人が半紙を引き出して、折(をり)かへして見ました。一同の視線(しせん)は一度に此の半紙に集まりました。
ところが果して果して
此の半紙(はんし)一枚が卽ち「書置(かきおき)の事」であります。
「探(さが)して見よう、今から探したら、喰(く)ひとめる事が出來るかも知れない」と、私は眞先(まつさき)に云ひました。
三
思へば妙(めう)な話です、數時間と隔(へだ)つる其日の午前中までは堅(かた)い堅い決心で死(し)なうとしてた私が、仕遂(しと)げなかつた自殺の歸り途(みち)に、今度は同宿の人の自殺(じさつ)を止めようとする身の上(うへ)になつてゐるのです。私としてはとりわけ身(み)にしみてこの若女房の身の上に同情(どうじやう)するのに當然(たうぜん)でせう。宵に一寢人りした私は、もう夜明(よあ)け近くだと思つて
ゐたのですが、まだ十二時前(じまへ)といふ刻限(こくげん)でした、私たちは主人と番頭(ばんとう)を加へて都合六人手に手に提灯(ちやうちん)を降りかざしながら、外へ出ました。風(かぜ)はまだ少しも止(や)みません。
主人と番頭(ばんとう)が道案内で、私たちは島の海外(かいがん)[やぶちゃん注:ママ。『ウェッジ文庫』版もそのままだが、この「外」は「岸」の誤記か誤植。]へ木の茂みを、それからそれと足(あし)に任(まか)せて步きました。
益々吹き募(つの)る風(かぜ)に、幾度か提灯の火をとられながら、六人は高聲(たかごゑ)に叫(さけ)び合つてはどんよりと暗い海岸を隨分(ずゐぶん)長い間逍遙(さまよ)ひました。
が、何しろ只さへ早寢(はやね)ぐせの大島です、然も眞夜半(まよなか)ですから、人一人通る事(こと)ではない。私たちはだんだん宿(やど)から遠く離(はな)れてうろつきました。
「少し風が止(や)んでくれないかな」
「さうだ、これで風(かぜ)が止んでさへくれれば、一寸(ちよつと)愉快な探(さが)しものだぜ」
「どうだい、三原山(みはらやま)の烟が眞赤になつて燃(も)え上る眞夜半(まよなか)を、かうして山をめぐツて、步いてゐる心持は、爽快(さうくわい)をきはめたものだぜ」
「うん、一寸この經驗(けいけん)は我々一生の中に、又味はふ事の出來ないほど、深い印象(いんしやう)を殘す事だと思ふね」
「それあ全(まつた)くさうだ」と云つた風に美術學生(がくせい)たちはもう少し好い心持になりかけて居(を)ります。そして中には好(い)い心持さうに軍歌(ぐんか)などを歌ひはじめるものもありました。
が、私(わたし)一人はどうしても、其樣(そんな)な氣になれません。
私の身體は、けふの晝頃(ひるごろ)あの山の頂上にあつたのだ、いや本來(ほんらい)ならば、今頃(いまごろ)はあの山の頂上の底知(そこし)れぬ穴の中に燒けただれて了)しま)つてゐなければならなかつたのだ。そして、人の自殺(じさつ)を探すどころか自分自身が行方(ゆくゑ[やぶちゃん注:ママ。])を氣づかはれて探(さが)されなければならなかつたのだ。それが今は、主客轉倒(てんたふ[やぶちゃん注:ママ。])して、かういふ一行(かう)の中に交(まじ)つて、あの怖ろしい山の裾(すそ)をめぐる事になつてゐる。
あまりといへば手(て)のうらをかへすやうな運命(うんめい)の不思議さを私は胸一杯に考へさせられ、眞赤(まつか)な三原山の火の下に彷徨(はうくわう)させられてゐるのですから、ものをいふ元氣(げんき)さへありません。萬(まん)一、あの若女房の自殺(じさつ)を喰ひとめる事が出來なかつたら、それは私が殺したも同然(どうぜん)な因緣(いんねん)になるのではあるまいか、あの若女房(わかにようぼ)は私の身代りに死ぬやうな運命(うんめい)を强ひられたのではあるまいかと、いろいろな考へが頭の中に渦(うづ)を卷くにつけ、どのやうな困難(こんなん)を冒してでも、助(たす)けなければならないと思ひつめました。
丁度私の時計(とけい)が三時を過した頃です。私たちの一行は長根岬(ながねさき)といふところへ出ました。[やぶちゃん注:「長根岬」大島西端の長根岬(グーグル・マップ・データ)。実は東端にも同名の岬があるが、女性であることからの位置と捜索の経過時間、及び、「海岸を隨分長い間逍遙ひました」という表現と、以下の「突堤のやうにつき出た岬」という表現から、そちらと同定した。]
突堤(とつてい)のやうにつき出た岬(みさき)でしたが、そこの鼻まで行つて見ようと道芝(みちしば)の草を踏みわけて進む中に先頭の番頭(ばんとう)が、ぴたりと止(とゞ)まりました。次に立つた主人も止まりました。
「何かありますか」と三番目に進(すゝ)んでゐた私が覗き込みますと、番頭がさしかざした提灯(ちやうちん)の光りの下に女の下駄(げた)が一足揃(そろ)へてあります。
「うむ、こゝだこゝだ」と學生(がくせい)たちは口々に云ひました、主人は下駄(げた)を仔細(しさい)に見て、
「どうもさうらしい」と云(い)ひました。
番頭(ばんとう)にとつても見おぼえのある彼の[やぶちゃん注:「かの」。]若女房(わかにようぼ)の下駄です。
「こゝに下駄(げた)を脫ぎすてたとすると、この邊(へん)から身を投げたものに相違(さうゐ)ないが、海の中(なか)をどうして探(さが)したものだらう」と學生(がくせい)の一人が云ひます。
「まだ其處(そこ)の草の茂みに居るんぢやないか」といふ人(ひと)もあります。
「若し海(うみ)の中とすると舟を出さなければなるまいが、此(この)夜更(よふけ)で、而もこのあらしでは迚(とて)も舟を出す事も出來まい」と二の足を踏(ふ)む人(ひと)もあります。
「兎に角、この岬(みさき)をすつかり調(しら)べて見ようぢやありませんか」と私は岬の鼻(はな)の方ヘ一足(あし)進(すゝ)みました。
其時海(うみ)の方から眞面(まとも)に吹きしきつてゐた風はぴたりと止んで、前方から壓(お)し戾されるやうになつてゐた私の身體(からだ)は、不意に前のめりにのめらせられるやうな心持がしました。途端(とたん)に私は何ともつかず、ぞつとおぞ毛立(けだ)つて、身慄(みぶる)ひを感じました。皆の連中が
「さうださうだ、岬(みさき)を調べよう調べよう」と云つて私に從(した)がはなかつたら、私の足はこの儘(まゝ)すくんで了つたかも知(し)れません。
私たちは岬の、兩側(りやうがは)の葭[やぶちゃん注:「よし」又は「あし」。この時の縁起担ぎの心持ちからは「よし」を採りたい。]の茂みに提灯さしつけさしつけして、到頭(たうとう)岬のとつ先まで進(すゝ)みました。
私が不圖(ふと)うしろを振かへると[やぶちゃん注:「ふりかへると」。]、三原山の烟(けむり)は一際一團の大きな人塊(ひとだま)[やぶちゃん注:「塊」はママ。『ウェッジ文庫』も修正はしていない。]のやうになつて、パツと立つてゐました。
うつかりとその火焰(くわえん)に見入らうとする時
「それ、そこだそこだ」といふ聲(こゑ)が二三人の口から湧き出ました。振(ふ)りかへつて見ると、岬(みさき)の鼻の岩の上に無殘(むざん)な姿で打上げられてゐる女の屍骸(しがい)が見えます。
四
下駄を說ぎすてゝあつたのは岬の中程で、屍骸(しがい)は鼻のところです、思ふに若女房(わかにようぼ)は岬の中程から身を投げたのですが、折からの風浪(ふうらう)に打ちかへされてすぐに岬の鼻へ打上(うちあ)げられたのでせう、左程水(みづ)も呑まなかつたと見えて、姿(すがた)は亂(みだ)れてゐましたが、佛は殆(ほと)んど其儘でした。
とは云へ、もうどうする事もなりません。屍骸(しがい)をずつと引上(ひきあ)げて置いて、學生の一人と番頭(ばんとう)とは宿へ駈(か)け戾つて屍骸(しがい)を運ぶ戶板をとりに行きました。私たち四人は殘(のこ)つて屍骸(しがい)の張り番をしてゐます。
顏かたちの整(とゝの)つた美人で、只何となく淋しい姿(すがた)で、始終沈んでゐるやうな樣子(やうす)をしてゐる女でした。まだ漸々(やうやう)二十四五の盛りの花を、むざむざと殺(こ)ろしたものだと、皆は噂(うはさ)を仕合つて居ります。
やがて戶板(といた)が來て皆が交(かは)る交(がは)る荷(かつ)ぎながら宿へつれ戾(もど)つたのはもうほのぼのと夜は明ける頃(ころ)でした。
宿ではとりあへず、宿帳(やどちやう)によつて電報を打つやら檢視(けんし)を願ひ出るやら、それぞれ手筈(てはず)を運びます。
宿帳(やどちやう)には東京日本橋區何々とあつたさうで何でも相當(さうたう)に大きな商家の若女房(わかにようぼ)であつたらしい。
死なねばならぬほどの理由(りゆう[やぶちゃん注:ママ。])は何であつたか、此の女がどれほどの苦しい心を抱(いだ)いて身を投(な)げたかは私たちの知(し)る事(こと)ではない、けれども、私は只此の人が私の身代(みがは)りといふ心持ばかしが心にひしひしと當(あた)つて他の人たちよりも、一層惱(なや)ましい心持になつてゐました事はいふまでもありません。
美術學生たちと私とは一通り手傳(てつだ)ひをすると、好い加減(かげん)にして、廣間へ集(あつ)まりました。
それやこれやで殆(ほと)んど一日を費して夕飯(ゆふはん)を食べる時も皆が始終一緖(しよ)に集まつてゐました。冷々別の部屋(へや)に居る事が何となく薄氣味(うすきみ)惡さを覺(おぼ)えられてたまらないのです。
「今夜は迚(とて)も別々に寢(ね)られないね」
「何だか淋(さび)しくつてたまらない」
「いつそ一緖(しよ)に寢る事にしようぢやないか」と皆(みな)で申し合つて私も美術生の仲間入(なかまい)りをさしてもらひ五人には少し狹(せま)い部屋へ固(かた)まりました。
其日の話(はなし)をすると、あまり好い心持はしませんから、なるだけ他(ほか)の話をしたいと思(おも)ひましたが、兎角(とかく)話は其れになつて了(しま)ひます。
「どうも厭(いや)な事が出來上つたものだね」
「實に氣持(きもち)がわるいね」と云ひかはしてゐるところへ、番頭(なんとう)が來て
「どうも皆さん、大層(たいそう)御迷惑(ごめいわく)をかけまして濟みません。只今お湯(ゆ)を湧(わ)かさせましたから、一風呂身體をお淸(きよ)めなすつてお伏せりを願(ねが)ひます」と云ひましたのが、渡りに舟、五人(にん)揃(そろ)つて湯殿へ入りました。
かれこれ九時を過(す)ぎてゐました。いや十時にもなつてたか知(し)れません。この時もまだ風は相變(あひかは)らず吹(ふ)きすさんで居ります。
湯殿(ゆどの)へ入ると、五人とも一寸氣持が變(かは)つたので、少しは冗談(じやうだん)もいふやうになつてゐました。
が、話はこれからが怪談(くわいだん)になるのです。ところがこゝにこの湯殿(ゆどの)の位置を說明(せつめい)して書かなければならない。
この宿屋は旅館(りよくわん)とは云ひ條[やぶちゃん注:「でう」。]、伊豆大島といふ離れ小島の淋しい旅籠屋(はたごや)の事ですから、海岸(かいがん)の廣場に面した頑丈(ぐわんじやう)な母屋が立つて居り、其の母屋のうしろ手に湯殿は廊下續(らうかつゞ)きの別の棟(むね)になつて居ります。湯殿(ゆどの)の前は濱つづきの空地で、その空地(あきち)に丸太を二本立てゝそれを物干場(ものほしば)にしてある湯殿の中の光(ひかり)はこの物干から取(と)り入(い)れるやうになつてゐます。
さて私たち五人は思ひ思ひに湯(ゆ)につかつて好い心持で雜談(ざつだん)を始めました。湯(ゆ)けむりはムラムラと立つて脫衣場(だういば)に釣つた釣(つり)ランプの光を曇(くも)らして了つてゐました。
充分に溫(あつた)まつた美術生の一人(ひとり)は、
「誰れか上(あが)らないか」と、實は廊下傳(らうかづた)ひに母屋へ行くまでが、一寸薄氣味惡(うすきみわる)いと見えて、さそひかけながら流(なが)し場へ上り、何心なく物干場(ものほしば)に向つた高窓の側へよつて、外の樣子を一寸(ちよつと)見ようとしました。
多分(たぶん)風がいつまでも止まないので明日の天氣(てんき)はどうだらうとでも思つたのでせう、不用意(ふようい)に高窓の格子(かうし)ごしに外の物干場(のもほしば)を見たかと思ふと、
「アツ」といふ聲(こゑ)を出してドシンと尻餅をつきました。
「どうしたんだどうしたんだ」と二三人がばらばらと飛び出して來ると、倒(たふ)れた學生は、齒の根(ね)をガタガタ云はせながら窓(まど)の外を指さしてゐるばかり、一言も聲(こゑ)を出しません。
「何をワクワクしてるんだい、君(き)」と云ひながら次の一人が又(また)窓(まど)の外を見ますと、これも續(つゞ)いてワツと聲(こゑ)を立てゝ打倒(うちたふ)れました。
餘り變(へん)ですから、今度は殘りの三人が一緖(しよ)に窓から外を見ました。私も其の三人の中(うち)の一人です。
窓の外は薄月夜(うすづきよ)です。その薄月の明[やぶちゃん注:「あかり」。]の下に物干竿(ものほしざを)が長々と橫たはつてゐる。この物干竿に女(をんな)物の袷衣が(あはせ)ぶら下げてある。これは水死した若女房の着物を脫(ぬ)がして、經帷子(きやうかたびら)に着せかへたといひましたから、脫(ぬ)がした着物を夜干しにしてあるのでせう、死人の着物(きもの)を干してあつたからつて膽をつぶして尻餅(しりもち)をつくには當るまいと思ひながら、よく見るとうしろ向(む)きにひろげて干(ほ)してある着物の襟(えり)のところには眞黑(まつくろ)なものがもやもやとなつて垂(た)れ下つて居ります、よく注意(ちうい)すると女の髮(かみ)の毛です。而も向ふむきにうなだれてゐる女の頭(あたま)です。もう一つ云ひかへれば、物干竿(ものほしざを)にかけた着物の襟(えり)から女の頭が出て、それが向ふ向(む)きにうなだれてゐるのです。不思議(ふしぎ)はこればかりでなく、兩側(りやうがは)へひろげた袖の袖口のところには手首(てくび)がだらりと下つてゐるのです。
と見ると、三人(にん)とも、キヤツと聲(こゑ)をあげてぞうと[やぶちゃん注:ママ。「ぞつと」の誤植であろうが、『ウェッジ文庫』版もそのままである。]なりました。
何しろ五人(にん)もゐる人數ですから、遉(さす)がに氣絕をするやうな事もありませんが、五人とも屹度(きつと)顏の色が眞靑(まつさを)になつてゐた事でせう。齒の根はがちがち鳴(な)つてゐた事でせう。
折角(せつかく)溫まつた身體が冷え切(き)つて了ふまで五人とも坐(すわ)つて顏を見合してゐましたが、それにしてもあるまじき事、屹度(きつと)心の迷(まよ)ひだらうと思ひはじめましたので、勇氣(ゆうき)を起して
「も一度(ど)見直(みなほ)して見よう」と誰いふとなくとぼとぼと立上りました。
そして今度(こんど)は五つの顏を窓際(まどぎは)へ並べて、改めて外を見ますと、物干竿(ものほしざを)に干した着物の襟と兩袖から垂(た)れ下(さが)つてゐる手と頭は以前の通りです。而(しか)も前にはハツと思(おも)つたので氣(き)が付きませんでしたが、脊(せ)に垂(た)れた長い髮の毛からはダラダラと水が垂(た)れて居ります。どう見直(みなほ)しても、五人が五人とも幻影(げんえい)ではありません。只もう總毛立つて了つて、我(わ)れ先に濡(ぬ)れた身體に着物を引(ひつ)かけると一散に廊下(らうか)を走つて座敷へ戾(もど)つてもう肩の息(いき)になつて居りました。
翌朝(よくてう)になつて五人は申し合(あは)せて、手をつなぎながら、この物干(ものほし)を三度見直したのですがこの時はもう水死人(すいしにん)の着物が干してある許りで何の不思議(ふしぎ)もありませんでした。
とこれだけの話(はなし)をして、市川八百藏君は、ぶるぶると身ぶるひをして居た。「晝間(ひるま)だからこれだけの話が出來(でき)るけれど、夜では十年過ぎた今でさへも、此の事を思ひ出すさへ恐(おそ)ろしいと思ひます」と云つた。
[やぶちゃん注:本篇は、実話であり、その元の語り手が、当時の有名な歌舞伎役者であったこと、しかも、その八代目市川中車自身が自殺をせんとして赴き、躊躇したその直後に起きた怪奇現象であることが、強烈なリアリズム怪奇談に仕上がっており、何らの疑問(集団錯覚)を差し入れる余地も、全く、ない。なお、彼は大正七(一九一八)年十月に「市川八百蔵」の名跡を譲られて襲名している(満二十一歳)から、蘆江が彼からこの話を聴いたのは、本「蘆江怪談集」刊行の昭和九(一九三四)年七月を閉区間とする十六年余りの間ということになる。極上の怪奇実話の一つと言える。]