譚海 卷之九 朝士山川下野守殿由緖の事
○武州、道灌山(だうくわんやま)の北、平塚村に、平塚明神の社(やしろ)あり。
[やぶちゃん注:「道灌山」現在の荒川区西日暮里のここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「平塚明神」北区上中里にある平塚神社。道灌山の北西約二キロメートル位置。]
是は、國初(こくしよ)の時、城寬(じやうくわん)と云(いふ)盲人の建立(こんりふ)せしなり。
此社の西に、往昔(そのかみ)、臺德院公方樣[やぶちゃん注:第二代将軍徳川秀忠。]の御殿ありて、時々、御鷹狩の御(おん)ついでには、御一宿などありしゆゑ、今も、猶、其所(そこ)のものは「御殿山」と稱して、みだりに人をいるゝを、ゆるさず。
ふりたる池などありて、ものすごき所なり。
元來、此地に八幡宮の古社、有(あり)。
城寬、宿願ありて、こもりたる折柄(をりから)、臺德院樣、御成(おなり)有(あり)て、
「いかなる者ぞ。」
と御尋有(あり)ければ、
「宿願によりて、一七日(ひとなぬか)、此社(やしろ)にこもり侍(はべる)。」
よし、申上候時、しゆくぐわんの旨(おもむき)、御尋(おたづね)あるも、いかゞなれども、
「仔細、何事にや。」
と、上意、有(あり)。
城寬、重(かさね)て、
「卑賤の身、殊に、かたわにして、兩親さぶらへば、いかにも立身して、親を安樂に供養し侍り度(たき)由、祈禱し奉る。」
と申上(まふしあげ)ければ、
「不便(ふびん)の事なり。」
と思召(おぼしめし)、則(すなはち)、百石の知行を賜(たまは)り、其後(そののち)は、度々、御城(ごじやう)へも召(めさ)れける。
城寬、
「ひとへに、八幡宮の御加護。」
と、よろこび、やがて賜る所の、なかばをわけて、此社(やしろ)に寄附せし、とぞ。
此城寬が親は、豐島左衞門といふ人の譜代の家人にて、家に持傳(もちつた)へたる義家朝臣の鎧(よろひ)ありしが、
「子孫にいたり、そまつにならんも、勿體(もつたい)なし。」
とて、鎧を今の地にうづめ、塚を築(きづき)て、古社(ふるやしろ)を遷(せん)し、今の平塚明神となせし事、とぞ。
此城寬が子孫は、御旗本にて、山河下野守殿といふは、その末なり。今は三百石の知行賜りてあり。その中(うち)より、五十石をば、此明神の社頭に奉りてある事と、いヘり。
[やぶちゃん注:よくお世話になる日高慎也氏の、主に首都圏にある寺院・神社概要紹介サイト「猫の足あと」の「平塚神社|源義家豊島太郎近義に与えた鎧一領を埋めて平塚三所大明神」の『境内掲示による平塚神社の由緒』に拠れば、『平塚神社の創立は平安後期』の『元永年中』(一一一八年~一一二〇年)『といわれている。八幡太郎源義家公が御兄弟とともに奥州征伐の凱旋途中に』、『この地を訪れ』、『領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜された。近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め』、『塚を築き』、『自分の城の鎮守とした。塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれた。さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三御兄弟を平塚三所大明神として祀り』、『一族の繁栄を願った』。『徳川の時代に、平塚郷の無官の盲目であった山川城官』(☜)『貞久は平塚明神に出世祈願をして江戸へ出たところ』、『検校という高い地位を得て、将軍徳川義光の近習となり』、『立身出生を果たした。その後、義光が病に倒れた際も』、『山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願した。将軍の』病気『はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復した。家光自らも五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、たびたび参詣に訪れた』とある。リンク先には、それ以外の史料も豊富に載っているので、是非、読まれたい。それにしても、江戸在住の津村の記載でありながら、漢字表記・史実その他で、おかしな部分が多過ぎる。彼自身の杜撰さが露呈している。]